一筋の光が映し出すのは、マントを羽織り一振りの大剣を携えた流麗な騎士と、その腕の中で弱く息をするお世辞にも綺麗とは言えない格好の男。二人の傍にあるのは静寂と月明かりだけ。
騎士の腕が小刻みに震える。どんなに強大な敵が目の前に立ち塞がろうと臆する事のない騎士が、今だけは恐怖で震えている。彼が今まで立ち向かってきた難敵など足元にも及ばない絶望が目の前に現れてしまったのだ。
悲劇としか言いようがあるまい。彼は国を信じ、国を守り、国の為にその身を捧げる為だけに生きてきた。その不幸が他の誰にわかるであろう?誰にもわからない。強気彼の意思を砕く、現実の強さ……それを知らずにいてしまった不幸など。
彼と同じ年を過ごしてきた皆が経験する出来事、それを今初めて彼は体験しようとしている。これまでの彼の人生に親友、恋人、家族ですら持ったことがなかった。常に一人で生きて、あらゆる困難を一人で乗り越えてきた。どのような難題も己一人で、だ。そんな彼に初めての存在が出来た。それが彼の腕に抱かれ、朦朧とする意識をなんとか繋ぎ止めている男だ。
彼との出会いが騎士の頭の中に蘇る。
盗賊団を追う道中、一瞬の隙を突かれて傷を負ってしまった騎士を、平民の彼は当たり前のように手当てをした……そんな、なんでもない出会い。だが、騎士にとっては驚天動地と言ってもいい出会い。
騎士の身分を持つ者に、平民の、それも平民の中でも更に下のスラムに生きる者が声を掛けるなどあってはならない事だ。下手をしたら切り捨てられても文句は言えない。身分の違いとは、命の重さの順位だ。それを理解している者なら普通は騎士に近付こうなんて馬鹿な事はしない。
だのに、彼は怯える様子も見せず、それどころか騎士の身を心の底から案じて、少しの間家に運んで介抱をしてくれた。あの時程、騎士は優しさというものを骨身に感じたことはなかった。
それからというもの、騎士は足繁く彼の下へと通っては、他愛ない話をしたり、街に強引に連れ立って歩いたり……そんな何でもない、それでも至福を感じる時を過ごした。
このまま時が過ぎていけばといつしか願い、騎士の役目が国を守ることから、彼との平穏を守ることに変わろうとした……そんな時だった、クーデターが起きたのは。
王族、貴族への不満、不信、憎悪、マイナスの感情を蓄え続けた民衆がクーデターを起こしたのだ。
よくある話だと、騎士は思う。隣国でも遠くない過去に似たような事件が勃発した。だが結局はクーデターは失敗し、首謀者一族を火炙りにし、幹部を公開拷問にかけることにより、民衆の心に恐怖で蓋をした。胸糞の悪い話だ。
だが、それも致し方ない。国の運営のノウハウ等理解する平民などいないのだ。ならば、恐怖でもなんでも民を押さえつけるしかない。国を守る為というお題目で。
騎士は知っている。国とは不条理で、理不尽で、傲慢でなければ機能しないのだと。しかし、騎士は知らなかった……理不尽が隣り合わせでそこにあるということに。
鎮圧に赴きながら、騎士団長の目を盗んで彼の無事を確かめる為に騎士は走った。無事でいると信じて。無事でいるのなら、沈静化するまで自分の下で匿う為に。
ああ、そんな騎士の想いを現実は嘲笑う。
彼の家を訪ねると、すぐに気づく嗅ぎなれた臭い。その馴染みの臭いに騎士の足が竦む。進まなければいけないのに、進むことが出来ない。目にしたくない現実がそこにあると心が確信しているかのようだった。
それでも、と彼は一歩ずつゆっくり歩み、臭いの下へと辿り着いた。
月明かりが窓から差し込み、照らすは微笑みながら壁に背を預ける彼の姿。その身体の至る所から血が流れいる。何度も何度も刺されたかのような、そんな傷だった。
騎士の頭は真っ白になり、無意識に彼の身体を自分の腕へと迎え入れた。
なぜなら、騎士にはわかっていたのだ。この臭いは血の臭いではない。死の臭いだと。
「……なぜ、騎士、さま?」
息も、声にも、全身のどこにも力が入っていない。絶望が黒く視界を染めてしまいそうになる。
「なぜ、ではないよ。僕は騎士だ。君を救いに走ってきたんだよ」
「そう、ですか……かはっ!」
「あまり喋らないほうが!」
これ以上喋ると僅かに助かる可能性もなくなってしまう。そんなものはないと知っていたのに、騎士はありもしない希望に縋ろうとしている。そんな騎士の頬に優しさで出来た彼の手が添えられた。
「なにが、あったんだい?どうして君が、こんなッ!」
「お、れね?皆に、言ったんだ……なん、ども、なんど、も……やめ、ようよって。けど、さ、皆聞いてくれ、なくて……」
「なぜそのような事を!」
「だって、騎士様が、傷つくじゃ、ないか……守りたい人達を、傷つけないといけない、なんて……そんなの、俺は嫌だなぁって。そう、思っちゃったんだ」
僕の為、だと?そんなことで彼は……
彼のあまりの愚かしさに、自然と涙が零れ出てくる。それは、騎士が生まれて初めて流す涙でもあった。
「そ、れに、俺、馬鹿だか、ら」
よく聞き取れなくて、最後まで彼の声を聴いていたくて、騎士は彼の口元に耳を寄せる。その最後の言葉を、愛しい者の声を忘れないために。
「俺、お、れ……きし、さまを……あい、し、て……」
最後まで言えなかった言葉、言わずとも伝わる気持ち。
目を閉じて、安らかに眠る彼を騎士は壊れてしまわないように、包み込むように抱き締める。
「馬鹿だな、君は……」
目を閉じて、消えていく彼の温もりを感じながら彼との日々が脳裏を駆け巡る。そのどれもが鮮明に輝ていて、何一つ忘れてはいけない記憶。
「本当に馬鹿だよ……僕、だって……」
――君を愛している、この誓いは永遠だ――
『てことで終わった、『純潔の誓い』なんだが……伊波?』
『少しだけ話し掛けないで……うえッ」
演目が終わって数分後俺と伊波はステージに戻ってきた……衣装を着たまま。
ああそうだよ!主役二人は俺達だよッ!
千羽祭本祭当日、俺と伊波を主役とした舞台を披露したわけだが、観客は笑い目当ての馬鹿共と、腐臭を漂わせる女子の方々。奥様方もちらほら。この国終わってるだろ!
『もう大丈夫。とりあえず言いたい事はいくつかあるのですが、まずは……スタンディングオベーションおかしいでしょ!?』
伊波の絶叫も何のその。拍手喝采の観客に俺は唾を吐き掛けたい気分でいっぱいだった。
『つうか、準備で一番時間取られたのこれだからな!どこかのメガホン持って満足げに頷いている馬鹿、テメェ後で覚えてろよ!』
裏で感涙の涙を流している監督の、音羽なんとかさんよぉ!なんてものをやらせやがるんだ。
抗議の目を向けると、何を勘違いしてやがるのか、親指をグッと立ててスタッフと抱き合って泣き始める。ブルーチーズの群れだな。
『わざわざ、とと……飛世巴さんが所属する劇団の演技指導の方を呼んで、朝から夜まで完璧になるまで練習させられたよね』
『素人なのに何度怒鳴られた事か……殺意が沸いたよな』
地獄の日々を思い出し、俺と伊波は鳥肌が立って震えが走った。もう二度と、あのピラミッド建造のための奴隷のような日々はごめんだ。
それによぉ、こんな惨めな姿をあの小娘の前で晒すなんて、俺の沽券枯渇寸前だろ。
小僧と共にいるであろうそいつを探すと、探すまでもなく最前列に見つける。
わかってるわかってる。この流れはアレだろ?風呂場の排水溝を裏まで見た時のような目をしているんだろ?もう慣れてんだよこっちは。よっしゃ!ばっちこい!気合十分で小娘の顔へと視線を移し……
「……ふへへ」
涎を垂らしそうな緩みきった顔に戦慄した。
な、んだと?あいつが俺に熱い視線を送っているなんて、もはや事件だろ!
隣にいる鷺沢は額に手を当てながら……
「俺、あんな腐った奴に貸しを作っちまったのかよ」
何かしら不敬な呟きをしている気配を醸し出している。俺だけじゃなくて、伊波にも同じような評価を与えてくれねぇかなぁ!?
『伊波、とっとと次に行こう』
『そうだね。嫌な事件だったねってことにしておこう。では次ですが、皆さんお待ちかねのぉ~~~!』
――千羽裁!!!!
『これ以上僕達を処刑しようとしないでくれないかな!?違うからね!』
『俺、もう一度受験をやり直してぇ』
『奇遇だね、僕も同じことを思ってたよ』
――さすが恋人!!!!
『ははは、お前等なんとか痕跡を残さないように最大限の努力をして半殺しにするぞ?』
『僕も全力を尽くすよ。大学祭が終わったら一人たりとも笑って日々を過ごせると思わない事だね』
シリアルキラーに匹敵する笑顔で応える。一人も逃がすものか。
『メインステージでは今頃ミスコンが行われている頃ですが、僕達のセカンドステージも負けてはいられません!なので、僕達のステージでは~~~~!』
『女子力最強決定戦!を開催すんぞ野郎共!!』
俺の号令と共にアレなテンションの雄叫びが上がり、女子達は少しでも技を盗もうと目を光らせる。ネタ枠は抜きの本気イベントだからな。男を虜にする手練手管を目に焼き付けたいのだろう。
『まずは審査員ですが、僕は彼女がいるので除外されますので、まずは難攻不落の馬鹿、三上智也!』
『……俺、お前と友達でいる自信がなくなってきたわ』
『僕は最初から友達でいる自信がないけどね。二人目は、実は年下に弱いと噂のピエロ君!』
『……帰っていいか?』
『帰らせません。最後に、あなた良い人ねが鉄板の稲穂信!』
『そうなんだよなぁ~……この間もバイトの後輩の子にさぁ』
『あ、その話は今度聞くから。とまあ、この三名にそれぞれ十点満点で得点を付けてもらい、勝負して頂きます。では厳正な審査の結果選ばれた女性の方々を紹介しましょう』
エントリーされた面々を知らない観客は、誰がステージ上に現れるのか期待に胸を膨らませながら登場を待つ。安心しろ、今回は期待を絶対に裏切らないようにしたからな。料理審査もあるんだ、下手な人選は俺達の寿命に影響を及ぼす。
『エントリーナンバー1!活発でスポーティーな見た目とは裏腹に、心は乙女な新進気鋭の舞台女優!飛世巴さん!』
『心は乙女ってどういう事よイナ!こんにちわ~!今日は劇団の宣伝にもなるので参加しました!よろしくね~!』
ととの参加に会場がどよめく。最近、演技力の高さが評価されて、芸能事務所からも声を掛けられていると話題の女優だもんな。それにしても、伊波の奴凄いな。過去にいろいろあったととを呼ぶなんてな。さすがだぜ。
『エントリーナンバー2!守りたい、その純白!絶賛彼氏募集中の薄幸の美少女!伊吹みなもさん!』
俺の天使爆誕!守りたい、その笑顔!楽園はここにあった!馬鹿な声がそこかしこから聞こえる。
『え~っと、私なんか女子力と呼べるような事なんてなにも……ですよね、智也さん?』
『みなもちゃん……優勝決定!』
『ええーーーーーー!?』
『独断と偏見は受け付けません』
ふん。みなもちゃんだったら、全部に満点を出してやる。くっそ、野獣共の目でみなもちゃんが汚されないかが心配だ。無菌室の用意はまだか!
『エントリーナンバー3!最後は彼女の腕の中で眠りたい!元千羽大の聖母マリア!白河静流さん!』
『なんだかこの賑やかな雰囲気が懐かしくて、参加出来て嬉しいです。精一杯頑張るから、みんなよろしくね?』
静流さんのファンらしき団体が後ろでオタ芸をしているのが見える。静流教とでも名付けよう。
『エントリーナンバー4!思わず後ろから抱き締めて愛を囁きたい!恥ずかしがる姿は禁断の果実!元千羽大のゴッデス!霧島小夜美さん!』
『いやぁ~、そんな紹介お姉さん照れちゃうなぁ。よろしくー!』
姉御―!指輪を受け取って下さい!パン、パンをくれぇ~!やらなにやら。若干数名、パンに頭をやられた奴等がいるらしい。ご愁傷様だな。
『確かに禁断だわこの人~。禁断過ぎて特殊免許ないと取り扱い不可能だし。ていうかネタ枠なしじゃなかったのかよ?』
『誰がネタ枠ですって?』
『言葉が過ぎました、ごめんなさい。謝るのでヘッドロックは今だけは封印して下さい!』
ここでやられたらいろんな意味で俺が死ぬ。主に男子学生の嫉妬の炎で火刑に処されるわ。
『そして最後!エントリーナンバー5!彼女のおかえりなさいの声があれば、どんなブラック企業でも耐えていける!浜咲に咲く一凛の奇跡!陵いのりさん!』
『大袈裟ですよ先輩。今日はよろしくお願いします』
会場のボルテージが上がり、ボルケーノへと変わる。噴火しちゃうのかよお前等。こんな小娘に一喜一憂とか時間の無駄以外の何物でもないわ。
『はい最下位決定。おめでとう、帰れ』
しっしっと手を払うと、陵はまたも俺の予想を裏切る涼やかな顔で……
『もう、冗談ばかり言うんですね、あそこの三上鴨也さんでしたっけ?』
『隠しきれてねぇぞ小娘』
鴨にされるとかそういう意味か?いや違うな。上等な肉質の鴨のように素敵な人って意味だな。可愛いところがあるじゃないか。全身全霊で落としてやろうじゃないか。
『以上の五名で女子力を争って頂こうと思います。では、時間もないので早速開始したいのですが、皆さんよろしいでしょうか?』
五人の返事と会場のイヤッハァーーーーッ!!!!の声を合図にイベントが開催されたのだが、この時の俺は予測することが出来なかった。俺の胃が殺される寸前まで追い込まれる事になるだなんて……夢にも思わなかったんだ。
『まず最初の審査は定番!お料理対決です!ただし、時間がないのであらかじめ調理室で作って頂いた料理を、審査員の三人に食べて頂きます』
あ~、だから一時陵が小僧の隣にいない時間があったのか。この企画の内容を決めるのに俺は参加していないから、どのように進行するのかがまるでわからない。
羨ましい、死ね、人のいない場所に埋めるぞ……なんて物騒な声が聞こえるが、是非言い返したい。若干一名ネタ枠がいるんだよ!
ネタ枠に目をやると、にんまりと悪戯な笑顔を浮かべて手を振ってくる。今すぐ摘み出せぇーーーー!!
『ではトップバッターの方どうぞ!』
『じゃあ、私から……』
おいおい、マジかよ。まさかまさかの俺の天使、みなもちゃんからとはな。今がプロローグだって?馬鹿が。フィナーレ直前だ!
みなもちゃんが順々に皿を置きながら、最後に俺の前に皿を持ってくると……
「智也さんに美味しいって言ってもらえるように、少しだけ頑張っちゃいました」
そう囁いていった。
みなもちゃん、君って子はなんていい子なんだ……あ?なんだこれ?頬が濡れて……?俺、泣いてるのか?クソ、涙で味がわからなくなっちまうじゃないかよ!せっかくのみなもちゃんの愛情が込められた手料理なんだ!俺は一口口にする毎に心の中でありがとうって呟いて食べるからな。
『伊吹さん、料理の名前はなんですか?』
『笑顔のハンバーグです。少しでも美味しいって思って笑顔になって欲しいなって、食べてくれる人の笑顔を思い浮かべて作りました』
照れて笑う彼女に馬鹿多数ノックダウン。
俺だって毎日君の笑顔を思っているよみなもちゃん。俺、君と家族になれて毎日幸せだぞ。まだ嫁にはやらねぇよ絶対!
早速料理に手をつけようとする不信人共。その手を一喝して止める。
『馬鹿野郎!みなもちゃんに祈りを捧げてから食べやがれッ!』
『じゃあテメェは神社に行って食えよ』
『ていうか、なんか智也のだけ俺達のよりでかくないか?』
心の距離の差だろ。
胸の前で十字をきって両手を組んで、心の中で祈りを捧げる。
神よ、この世に彼女という天使を降臨させてくれたことを『普通にうめぇな』『家庭的であったかいよな』こと、を?
『お前等俺より先に食って良いとどこの神が許したごらぁッ!』
神罰を恐れぬ所業に戦慄する。まさかこの俺様よりも早く食べるとは、命が惜しくないと見える。
祈りを捧げ終えて、ようやく俺は神々しい輝きを放つハンバーグへと箸を伸ばす。
すんなりと箸が沈む。程よい捏ね方と焼き方。その一つ一つの丁寧な工程を思い、自然と涙が滲む。そうだな、料理は愛情だよな。みなもちゃんの愛でもう胸が一杯だよ。
ハンバーグを一切れ、わずかな味も逃さぬよう丁寧に咀嚼する。
一噛み一噛みゆっくりと噛んでいくと、肉汁が口の中をこれでもかと旨味で一杯にする。口の中で濃いめのデミグラスソースと混ざり合って、鮮やかな美味しさが俺の心を蕩けさせる。
……頑張ったね、みなもちゃん。君はいつの間にこんなに成長したんだ。俺の手から離れていってしまうようで、少しばかりの寂しさが胸に落ちてくる。
『……うめぇ……うんめぇよ、みなもぢゃん』
『鼻水と涙と気持ち悪さが出てるぞ智也』
うるさい。兄の心が貴様等にわかってたまるか!クララがバク宙してみせたかのように俺は感動しているんだ!
『よかったぁ。智也さん、疲れているみたいだから美味しい料理を食べさせてあげたかったんです』
『おい、計測不能の札はないのか?』
『そんな斬新な札はないから。もう怖いを通り越して怖くて気持ち悪いよ』
あの子を嫁に出す日が来てしまうのかと思うと辛い。
『それでは審査員の皆さん……じゃないや、一人は結果がわかってるから、お二人どうぞ!』
ピ9。信6。智10。
『おい、どういうつもりだ信?今を最後の晩餐にするかおい?』
『お前がそんなだから公平を期すためにこの点数にしたんだよ!』
『ありがとう信君、空気読んでくれたね』
みなもちゃんを前に公平だと?小さな奴らめ。みなもちゃんを前に跪かない人間がいるだろうか?いや、断じていてはならない!
『9点って……やっぱり、ピエロ君って年下に甘いよね』
『あ?』
『なんでもありません。合計25点ですね。一人目から高得点が出ました!これは他の方達にプレッシャーを与えた事でしょう。それではお次はこの方です!』
『あたしが頑張って作ったんだから、味わって食べてよね。特にトミー』
『あ~、はいはい。消化試合消化試合』
みなもちゃんの後に出したのが運の尽きだな。
『イナ~!あの審査員あとで劇団に貸してよ。大道具の運び方を一人でやってもらうから』
『了承』
『オレンジのジャムの返事はやめろ!ちゃんと食うから!』
コンマ数秒で返事をするなよ。下手に契約書とか書かれたら冗談じゃすまないんだぞ。
仕方ない、気は進まないが食べてやろうじゃないか。この辛口の俺様がな!
目の前に皿……じゃねぇな。丼より少し小さな器が置かれ、湯気が立ち上る。湯気から香るのは野菜の柔らかな匂い。食欲を誘う香気に悔しくも喉が鳴る。
『飛世さん、料理の名前をお願いします』
『癒してポトフ!かな?皆メインを作るだろうなって思って、胃に優しいものを作りました』
なんだ、そのあざとい心遣いは?俺がそんなもので絆される甘ちゃんだとでも?考えが甘いんだよとと。
『じゃ、食うか』
『おいボケ、祈りはどうしたよ?』
『食事の前にお祈りなんかしたことないぞ俺は?』
『うぜぇ』
ピエロ君はおかしな事を言うなぁ。頭大丈夫か?
スプーンを手に取って、野菜の旨味がたっぷりと染みたスープを口の中に含む。
ふむ、なるほど。パンチはないが、それ故に心が安らぐ味だ。だがしかし、この程度で俺が……
『ふおおぉぉ~』
『惚けてるぞお前』
はッ!?俺としたことが!?
信に突っ込まれて俺は我に返る。
『惚けてるだと?この俺が簡単にそんなこと……』
もう一口喉の奥へと流し込む。
『クソが!んめぇじゃねぇかよッ!』
『なんで怒ってんだよ』
悔しい!けど心がほわほわしちゃう!
疲れきった体と心で温泉に入った瞬間を想起させる優しい味に、俺は歯噛みをしながらも完食してしまった。ちくしょう、相変わらずあざといなぁ!
『じゃあ、点数をどうぞ』
ピ7。信9。智7。
『飛世さんのポトフの合計点数は23点!惜しくも伊吹さんに届かず!』
『あっちゃあ、良い所まで行くと思ったんだけどなぁ』
悔しそうに片目を瞑って舌を出す。みなもちゃんがいなければ俺の得点はもう少し上がっていたはずだ。惜しかったな。
『でもまあ良いか。ねえ、トミー?』
『なんだ?文句なら……』
何かしらの文句を言われるのは覚悟していたのだが、ととは別段気にしている様なそぶりも見せずに真っ直ぐに俺を見て、美味しかった?とだけ聞いてきた。
『まあまあだな』
『そっか、まあまあ、ね。それなら成功だから、あたしも満足かな』
そんなととの言葉に信はくっくっ、と笑いを漏らす。
『トミーのまあまあは、凄く美味しいって意味だしね』
なんて悪戯にウィンクして下がっていった。
……人をツンデレみたいに言ってんじゃねぇよ。美味かったのは否定しないけどな。
『飛世さんは満足した結果だったようですね。では、三番手の方どうぞ!』
『はい、稲穂さんとピエロさんの為に作りました』
お~っと、気持ちは審査委員長の俺に対して毒を盛りにきた小娘がいるぞぉ。
『マイナス十点だ、残念だったなあ!』
『残念なのは智也君だってば。同じレベルで争ってどうするのさ』
売られた喧嘩は破産してでも買え!が家訓なんだよ三上家は。
皿が目の前に置かれていく中、俺の時だけは陵は顔を背けながら置いていったらしい。俺も背けていたけどな。
『それでは、料理の名前をお願いします』
『健康肉巻きです。大切な人には健康でいて欲しいですから、いろんな野菜をお肉で巻いてみました』
『あっはっはっはっはっ!』
毒婦が健康とか口にしているのが滑稽で思わず手を叩いて笑ってしまった。
『先輩、あそこにシンバルを叩く猿の玩具がありますけれど、いいんですか?』
『何をどうなったら、二人は宿敵のような関係になったの?』
出会って五秒で宿敵だったんだよ。伊波にはわからんだろうな、この自分でも制御出来ない気持ち……こいつが俺の生涯の敵だと、拳を交えた瞬間に感じたぜ。
皿に目を移すと、彩鮮やかな野菜に肉が巻いてあり、それぞれにソースが違う。中には何もついていない物も。
どうせ野菜に肉を巻いて焼いただけだろ?工夫が足りないんだよお子ちゃまが。酸いも甘いも噛み締めた俺を唸らせる味は早々出せないぜ?
『いや、さっきからちょろいぞお前』
『黙れ良い人止まり』
気はこれっぽっちも進まないが仕方ない。武士の情けだ。食べてやろうじゃないか。
人参の肉巻きをどうでもよく口に入れたのだが、口に入れて一噛みすると、人参は予想よりも固くなく、それでいて溶けてしまうほど柔らかくもない。肉との食感が絶妙にマッチするように手が加えられている。
こ、こいつ!
陵が不敵な笑みを浮かべて俺を見下すように見てくる。まるで、これでも平伏しませんか?とでも言いたげだ。
『……それぞれに調理法が違うのか』
いつも無口なピエロ君が、俺と同じように悔しさを滲ませながら呟く。
そういうこと、か。ソースのついていないアスパラガスは、肉の塩コショウだけの調理ではなく、アスパラガスをバター醤油で炒めてやがる。
『へぇ、いのりちゃんこれ手間がかかったんじゃない?』
『そうでもありませんよ。今は電子レンジが多機能になりましたし。野菜の調理の幅がおかげで随分増えたんですよね』
うんうんと、自分も調理場で働いているからか、やたら感心していた。
『ほ、ほお?だがこんなお弁当のおかずのような品で俺が納得するとでも?』
『完食したお皿を前にして何を言っているんですか?』
『チッ、これで勝ったと思うなよ!お腹が空いてただけなんだからな!』
『ふふ、いつもの憎まれ口にキレがありませんよ』
あの勝ち誇った顔、泥をぶつけたい。
『はいはい、そこまでにして下さい。点数のほうをお願いします』
ピ8(嫌々出した)。信9。信7。
『いやいや!なんで信君が二つ出してるの!?』
『本人が出したくないんだと』
『れっきとした子供じゃん!』
信に得点を任せた俺は、肩肘をついて早く次に行けと手を払う。
『え~、合計は24点ですね。残念ながら伊吹さんに一歩及びませんでしたが、十分な得点です!』
『……7点ですか』
そっぽを向いているため、陵がどんな表情をしているか細かくは知らんが、声のトーンで落ち込んでいる事だけはわかる。
『ああ、気にしなくていいよいのりちゃん。7点って、智也にとっては満点にちかッ、いったッ!?何すんだよ智也!』
小娘に対して余計な気遣いで嘘を言う馬鹿の足を踏みつける。
『悪い、ただ踏み潰したかっただけだ』
『言い訳くらいしろよ!』
今のは信のお得意の社交辞令だと伝えようとした……が、俺はやっぱり口を噤んでそっぽを向く。
あいつ、本物のアホだろ。何やってんだよ、お前は。
俺が視線を向けた先にいたのは、両手を胸の前で重ねて、目を瞑って何かを噛み締めながら微笑む陵の姿。その姿が俺の口を金縛りさせた。
見てはいけない何かを見てしまった気がして、もう一度陵と目を合わせる自信がなかった。
「いのりの料理が満点じゃないっておかしいだろ審査員!舌おかしいんじゃねぇか!」
指弾喰らわすぞ外野の小僧。
『え~、ここまでの結果は伊吹さんが25点でトップという事なのですが、まだまだわかりません。四番手の方どうぞ!』
『はい、お願いします』
遂にきちまった……俺達が誰も文句を言えない天上のお人がよぉ。さすがの俺もこの人を前にふざける事なんて出来ない。俺達の聖母だからな。
皿が置かれていく際、静流さんが俺の前で少しだけ立ち止まり、顔を覗くように見てくる。
そうそう下から抉りこむように……じゃねぇッ!
あまりに顔が近づき過ぎて、思わず後ろに倒れてしまいそうになる。
「……うん、大丈夫みたいね」
な、何がでせうか?いや、それよりもまずい問題が。今のって遠目から見たらもしかして……
「三上テメェ、女神の口付けを誰が許したぁッ!!」「堕天使のキス教えてやろうか!ああん!!」「尻から抉んぞダボがぁッ!!」「うちの店長代理に何してくれてんだあんた?死ぬぞ?」
こうなるよなぁ~。最後の奴犯人特定余裕だわ。あと何回泣かされたいんだ小僧よぉ?
『落ち着けよみんな、今のはキスじゃなくて『智也の裏切り者ぉッ!!』お前隣で見てただろうがよッ!』
信の遊び心の所為でオーディエンスからだけじゃなく、ステージ上の女性陣からもなぜか非難の声が上がり始める。
『へぇ~、トミーってそうだったんだぁ。ま、別に良いんだけどさぁ』
『静流、あんたあたしに決闘を挑んだわね?』
『智也さん……嘘、ですよね?』
全員の視線が鋭利な刃物の様だ。なんだってこんな……ん?全員?
よく見ると、一人だけは目を細めて微笑んで……るよな?アレ。鶴〇師匠のような顔なんだけど、何してんのあいつ?陵師匠かよ。こんな時に笑わせにきやがって、空気を読めよな。
おっと、そんな事よりも!
『違うんだみなもちゃん!今のは勘違いで、キスなんてしてないから!』
『……ほんとですか?』
『あたし達はトミーの中じゃ優先順位が低いってわけ?』
『智也君、君って子は……あんなに高校時代に可愛がってあげたのに』
何が可愛がってただ。あんなものを可愛がってたなんて言うなんて、正気を疑うぞ。
まあ、今は放っておいて構わん。最優先事項はみなもちゃんだ!
『本当だって!俺はみなもちゃんが彼氏を連れてきて、みなもちゃんは貴様にはやらん!ってやるまでは誰とも付き合うつもりなんて全然!』
『……そう、なんですか?』
窺うような視線に何度も頷いて返すと、みなもちゃんがはにかんでくれる。
『じゃあ、信じますね。でも、困っちゃいました』
『……困ったって?』
『だって、それだと智也さん、ずっと恋人出来ないんだもん』
頬を染めて言うみなもちゃんに俺は首を捻る。みなもちゃんの言わんとしていることがいまいち……家族なのにわかってやれないなんて兄失格じゃないかよ!
「三上専用アンチマテリアルライフルの準備はまだか!?」「神の槍の発動を合衆国に要請するか」「毎朝あいつの部屋にぬめぬめしたタオルとティッシュを投げ込もうぜ?」「任せろ、量なら自信がある」「あんなに純粋無垢な幼馴染がいるくせに、か……血を見なければいけない時が来たようだ」「これは聖戦だ、三上」
殺意に会場が満たされる。〇殺教室かなここは?
『信、お前の所為だからな』
『ここまでの破壊力があるなんて、さすが静流さんだよな』
反省の色が見えねぇなぁ。そういう事なら俺にも考えがある。後で謝っても許してやらないんだからな!
『……ていうかさ、時間が押してるから早く食べてね?それとも今すぐ食べれない体になる?』
お、おう。別な意味で司会者がキレまくってらっしゃった。あの笑顔は限界突破一歩手前だ。逆らうのは止めようと、俺と信は言われるがまま目の前の料理を見る。
『ごたごたしてすみません。それで、白河さんのお料理の名前をよろしいですか?』
『ちょっとだけ特別なおにぎり、です』
人差し指を唇に当ててウィンクする静流さんに、全員が卒倒しそうになると同時に俺様に視線をドスに変えて刺してくる。隣の長髪燃~やそ♪
時間がないから食べろやという、伊波のドS視線に促されておにぎりを手に取る。
『あれ?智也のおにぎり、少し小さくないか?』
『……みたいだな。なんでだ?』
ま、胃がきつくなってきたから正直ありがたいけど……と、思ったところでさっきの静流さんを思い返して、ようやく彼女の意図するところがわかった。
そっか、俺の体調を心配してくれていたんだな。正に女神の気遣い。同い年の親友とはえらい違いだな。
静流さんの優しさで握られたおにぎりを頬張ると、固め過ぎず緩過ぎず、塩を後からさっと振りかけたおにぎりは、どこか懐かしさを感じさせてくれる。
天辺から真ん中まで行くと……
『――え?』
そこに辿り着いて俺の口は驚きで震える。
話した事、なかったよな?静流さんと何度も他愛ない話をしてきたが、これだけは覚えている。俺は一度も話していない。話せるわけがないんだ。だって、俺にとってそれは二人だけの宝物として閉まっておきたい……他人にとっては、なんてことのない愛しい日の記憶。
だから、これは偶然に過ぎない。わかっている。意図したことでも、ましてや思い出に土足で踏み込もうとしたわけでもないって。
わかっているから……
『智也?』
皆に背を向けて、口一杯におにぎりを頬張る。唐揚げの入った、油っぽいおにぎりを。
『あ~、塩の塊があったわ。きついなぁ、ちくしょう……』
しょっぱいなぁ。こんなの、美味しいに決まってる。まだ色褪せない、あの日の光景が目の前に広がって……愉しくて、嬉しくて、愛おしくて……いてぇ。
信が俺の様子に気付いたらしく、それからは俺に話し掛けずに、トビーとトークを広げてなんとか場を盛り下げないようにしてくれた。
全部食べ終えて、落ち着きを取り戻せた頃、丁度いいタイミングで得点を伊波から催促された。
……参ったな。これは俺の完敗だ。
『得点がピエロ君5点、信君6点』
誰が認めなくても俺の心が認めてしまっている。このおにぎりは十点?
『智也君10点!!』
こんな点数に意味なんてねぇよ。点数なんか付けられるほど、安くねぇ。
俺の出した得点に一同が驚く。一番驚いていたのは静流さんだけどな。
『智也君、どうして?多分、美味しくないかもって思ってたんだけど』
静流さんの問いに、ああ、やっぱり知らなかったんだと安堵する。
おそらく、美味しいかもしれないという感覚で唐揚げを中に入れたんだ。ただ入れただけじゃ美味しくなんてならないのにさ。パティシエの腕は確かなんだけどな。
苦笑しながら、俺は静流さんに頭を下げる。
『ありがとうございました、静流さん』
きっと伝わらないであろう感謝の言葉。でも、言わずにはいられなかった。
あんなにも色鮮やかに、彩花とのデートを思い出させてくれた。俺の中にまだ生きていた。それを確認出来たことが何よりの御馳走だったから。本当にありがとうございます、静流さん。あなたの偶然で、俺はいつだって隣にある幸せに浸れました。
突然の俺のお礼に戸惑った静流さんが、頭を上げさせようと慌て、理由に見当がつかない信は、あとで教えろよと訴えてくる。
そんな俺を泣きそうなのを堪えて、眉をハの字にして笑おうとしている誰かに気付くことも出来ずに。
女子力最強決定戦は結局みなもちゃんがトップのまま幕を閉じた。最後の種目まで競う事もなく。その理由は至極単純で、史上最低なものだけどな。
嫌な予感はしてたんだよ。ネタ枠を最後に持ってくるあたり悪意しかないし。あの自称ビューリホーキリングマシーンめ、ロシアンパンなんて物を出しやがって。
ドリアンパン、バナ納豆パンはまだ許せる。気絶する代物じゃないからな。だがしかし、今回のはあかん。密封された生地の中に、スピリタスで和えたシュールストレミングと猿の脳みそとエスカルゴのミンチが入っていて、ご丁寧に生クリームまで混ぜてやがった。あの味を思い出そうとすると、鋭い頭痛に襲われて記憶が蓋をする。超えてはいけない味の境界線を越えて一周半したかのようだ。
「現実をギャグマンガか何かと勘違いしているんじゃないのか、あの人は」
ロシアンパンで見事当選した俺は、口にした瞬間白目を剥き倒れ、泡を吹いて痙攣を起こすという大惨事に陥った。念のために医療班を用意しておいて正解だった。じゃなければ今頃、とんでもない異臭を身に纏って彩花と対面し、鼻を摘まんで一キロは距離を取られてしまうところだった。そんなことになったら俺はショックで二回死んでしまうぞ、冗談抜きでな!
パイプ椅子を並べて寝転がりながら、ブレスケアを大量に摂取。1ケースでもまだ足りないんだけどな!
その元凶となった人は何をしているかと言えば……
「ん……ふへへ、智也君、ダメよぉ~……」
だらしない顔で、椅子に座って長机の上で腕枕をして気持ちよさそうに寝ている。もっと罪悪感持って看病してくれ。
どうしようもない人だなと、呆れて苦笑しながら呑気な顔を眺める。
こうしていると、少しだけ懐かしい気持ちになる。購買の仕事を手伝わされたあの頃、小夜美さんはよくこうして寝ていたっけ。二度と手伝いをしたいとは思わないけどな。
「……それで、いつまで狸でいるつもり?」
「あれ、バレてた?」
「高校の時も何度も狸になってたからね、わかるよそりゃあ」
ぺろっと舌を出して笑う加害者。年上でも殴っていい場面ってあるよな?
「いやぁ、若い衝動に身を任せてそのままお姉さんの唇を奪うかなぁって思って」
「俺の命を奪いかけた人間にそんなことしない。むしろ復讐される心配をするべきだ」
こうね、貞操観念とかしっかりして欲しいわけですよ。これが俺じゃなかったらどうなっていたことか……襲う側の命が。
「で、いいんですか?」
「なにが?」
「静流さんと一緒にいなくて。二人で遊ぶ予定だったんじゃないの?」
「あ~、いいのいいの。じゃんけんで勝った私の特権だから」
何を言っているのかわからず首を捻ると、小夜美さんは馬鹿な弟を見るかのように微笑む。
「だから、この機会にもうそろそろ聞いてもいいかな?」
どくん、と心臓が一つ大きく鳴る。
甘くもなく、酸っぱくもなく、苦み走った痛み。エスプレッソを一気に煽ったような苦みが、全身に広がるような感覚。
なにを?と、俺はいつものふざけた表情で聞き返せたはずだ。それに、小夜美さんは俺から意図的に顔を逸らしたように見えた。
「智也君は本当にずるいなぁ」
心外だな。卑怯とは無縁な俺に対してなんてことを言うんだ。正直に生き過ぎて、馬鹿を見るような男ですよ俺は。
「わかってて、あえて見ないようにしてるんだもん。それも、皆に分け隔てなく」
「差別しない良い男と受け取っておきましょう」
「差別と区別は違うけどね」
……なんだよ。これじゃあ本当に昔に戻ったみたいだ。子供扱いされていた高校の頃のようで、少しだけ居心地が悪い。
「せっかく特権を貰ったからね、少しだけ意地悪してもいいかなって」
「充分虐められた後だけど?」
「あの程度じゃ智也君は参らないでしょ」
「さっきの惨状を目の当たりにして何を宣うか!」
「てへ♪」
頭をこつんと自分で叩いてウィンク一つ。小夜美さんじゃなかったら、抽腸の刑に処しているところだ。まあ、小夜美さん以外にこんな事を起こさないけどな。
「まあ、そんな事はどうでもいいじゃない」
「誠心誠意の土下座くらいはしてくれ」
謝罪の気持ちって大事だからな。クレームだって、形だけでも謝っておけば八割は解決するんだぞ。
「ほらね、やっぱりずるい」
「どこが?」
「そうやって、自然と話題を逸らそうとしているところ。あまりに自然だから、みんな流されちゃうのね。でも残念、今日は流されてあげないよ」
いつもと違う小夜美さんの態度。彼女の目が、今日は逃げ道を用意してあげない、と雄弁に語っている。
内心で舌打ちをする。元から小夜美さんはこういう人だった。亡くなった弟さんともこうだったのか、彼女は年下の男の扱いがとにかく上手い。追い込むのも、和らげるのも。それが彼女の魅力でもあるし、同時に脅威でもある。
「君が高校生の頃から、気付いていたよ?でもそこに踏み込めなかった。踏み込んじゃいけない気がしていたの。智也君と信君と唯笑ちゃん。三人の間には割って入ることが出来ないって、他人が簡単に入りこんじゃいけない繋がりがあるって……そう諦めていたのね。私以外のヒロインになりたい女の子達も、ね」
そんな事はないと否定すれば、小夜美さんはなんと切り返して俺の逃げ道を塞ぐのだろうか?いや、そもそも小夜美さんは逃げなんて許してくれていない。
小夜美さんは確かに笑っているのに、その眼は俺の些細な動揺も見逃すまいとしている。
「多分、あたしだけじゃなくて、みんな気付いてるのよね、智也君が友達以上のラインから道を塞いでいるって。気付いていて、そのラインを超えないようにしているのね。自分から近づくと、あなたは逃げてしまうってわかっているから」
優しい笑みと慈しむような目を向けられ、俺は彼女から目を逸らす以外に抵抗できる術を持ちえない。
ここで反論してしまえば、彼女の言葉を肯定していることになるし、その逆もまた然り。なぜなら、彼女の言葉は間違ってなどいないのだから。
「だからみんな待っているの。智也君から自分に歩み寄ってくれることを。もちろん、私もそうよ」
悪戯っ子のような憎めない表情。小夜美さんだって十分ずるいだろ。
人間、誰しもが自分だけの秘密を心に抱えて生きている。それを隠すことが悪なら、この世の中に生きる全ての人間が糾弾されるべきだ。
だが、彼女の言いたい事はそうじゃない。本質はそんな屁理屈では説明してはいけない、俺の直視出来ない純粋な感情……それを見透かしているんだ。見透かして、それでも俺の答えを待つ。ほら、小夜美さんだってずるいじゃんか。
ずるくて何が悪い?踏み込めない場所を持っていて当たり前だ。人の暗黙のルールだろ、どこまで踏み込めばいいかを探って、踏み越えてはいけないラインを引いて、それ以上は進んではいけないんだと折り合いをつけて、諦めて……それが相手を尊重するってことじゃないか。最低限のルールだ。
相手を傷つけたくない、傷つきたくない……そう思いやるからこそ人間関係は成り立つんだ。それが現実で、現実は青春ドラマのように真っ直ぐではない。大人になればなるほど身に染みていく常識だろ?小夜美さんだって知ってるでしょ、俺より早く大人になったんだから。
それを上辺だけの関係だなんて言わせない。そんなことを言うのは物を知らない時分の子供だけだ。そう、俺は何も間違えてなんて――
なんて見苦しい言い訳だと、自分に嫌気が差す。真っ直ぐに俺を見てきてくれた人に対して、俺は詭弁で自己弁護をしている。未だに俺は演じようとしているのだと、愕然としてしまう。
何も言えずに、心の中だけで反論する俺に、小夜美さんはそっと手を伸ばして頭をゆっくりと撫でてくる。
少しこそばゆくて恥ずかしいそれを、俺は振り払えずにされるがまま。
ああ、そういえばと思い出す。高校の頃から俺は、この人の前で大人になれた事が一度もなかったな、と。
「でもね智也君。もうそろそろ、みんなの優しさに甘えるのは駄目よ。いつまでも向き合ってあげないなんて、生殺しも良い所。智也君の優しさは、まるでお風呂みたい。いつまでも浸かっていたいけれど……でも、ずっと浸かっていたら逆上せて倒れてしまう。だからね、倒れてしまう前にちゃんとあなたは皆を覚ましてあげなきゃ駄目なんだよ」
「……そんなの、俺だって」
「うん、そうね。智也君はちゃんとわかってるよね。なら、お姉さんは君の今後を安心して見てあげられるし、君の大切を話してくれるのを待っていられるなぁ」
俺の頭から手を離して立ち上がり、ゆっくりと伸びをする。どうやらお説教タイムは終わったらしい。
「あ~あ、特権を無駄に使っちゃったかな」
「小夜美さんは無駄ばかりじゃん」
「おっ、生意気だなぁ少年」
「もう少年じゃないけどね」
俺の憎まれ口に、少しだけ寂しそうに笑う。
「そうだね、智也君はもう少年じゃないんだよね」
もう用事は済んだらしく、小夜美さんは出ていこうとして、その直前で足を止めた。
「ねえ、智也君」
肩越しに魅惑的な瞳を向けられ、俺の鼓動が少しだけ止まりそうになる。
「私はもう少しだけ待ってあげるから。そうだな~……30まで、かな。それまでに君が隠している本当を話してくれるのを待っててあげる。それ以上は、待っててあげないんだからね?特別サービスだよ」
そんな小夜美さんの言葉に、ああ、確かにこれは逃げられない。なんて俺は苦笑してしまう。きっと俺が小夜美さんに全てを話す時が、そう遠くない未来に訪れるだろう。
――偽物の俺の幕を引いた暁には、必ず。
虫の知らせというものを体験したことがある人間は多いはずだ。ふとした拍子に感じる、最悪の予感。だが、虫の知らせよりも確実な物が俺と伊波の目に映った。
もうそろそろプロムの準備をしなければと言う時のことだ。俺は中学の頃に何度か見た高級車が、テントの裏の駐車場に停まるのが見えた。ワインとか常備してそうなその車から、無駄のない所作で燕尾服の男性が運転席から降りる。
そこまで確認して、俺と伊波は顔を見合わせて頷き合い、即座にこの場から離脱しようと回れ右をしたのだが……
「ハ~イ、久しぶりじゃない?みかみん、いなみん」
俺達二人の肩に回される両腕。死神の鎌のほうが救いがある。というか、そんな呼ばれ方したことないよな!?
「智也君、今のおかしいよね?まだ車から出てきてなかったのに、どうして僕達捕まってるの?」
「死神だからだろうよ」
おそるおそる振り返ると、満面の笑顔の黒須がそこにはおわした。お、おう、御機嫌が良くてなによりだ。
「ひ、久しぶりだなぁ、黒須。中学の卒業式以来か?」
「ひ、久しぶりだね黒須さん。げ、元気だった?」
とにもかくにも挨拶だけでもしておかなければと、無難な挨拶をしたわけだが、満面の笑みでただ俺と伊波を離そうとしない。おいおい、俺達二人と浮気しちゃうつもりか?とんだ子猫ちゃんだぜ。なんて吐こうものなら、阿鼻叫喚待ったなしとなるだろう。
死神の鎌に捕まって身動きの出来ない俺達は、ただ黒須の次の言葉を待つだけだ。死の宣告だとしても、それしか俺達に出来ることはなかった。
「……ワイン」
ぼそりと呟かれた声は、死の吐息と共に耳に届く。
「わ、ワインなら酒屋に行けばあるぞ。な、なあ伊波?大学の近くにワイン専門店とかあったか?」
「た、確か駅前にあったよ。えっと、あれはどこだったかなぁ~?」
知らぬ、存ぜぬ、省みぬ!と、どこかの聖帝様のような精神を貫こう。なぁに、まだ慌てるような時間じゃない。ほんの少し死期が背後にあるだけだ。
その死期が、さらに機嫌良く歌うように喋り出す。
「そうねぇ~、ワインがと~っても飲みたい気分かしら」
「それなら俺達が「水を君達二人を材料にワインにしてもダイジョウブ?」主犯は伊波ですので、お許しを」
「手首が捻じれて千切れそうな手のひら返しだね!?」
無理無理無理無理!こんな威圧だけで人の命を潰せそうな奴の追求なんて振り切れるわけないって!ベテラン刑事の取り調べなんておままごとにしか思えないもんよ!
「す、少し落ち着こうよ黒須さん。君は誤解をしているんだ。まずは僕の話をご飯を食べながら聞けば、僕が無実な事はすぐにわかるよ」
「清々しい裏切りだなテメェ!?」
「おまいうだからね!他に生き残る方法がないんだからしょうがないでしょ!」
ぎゃーすかと黒須の腕の中で言い合う俺達を、黒須はサド以外の成分を取り払った顔で、醜いプランクトンの喧嘩と嗤う。狂気半端ねぇわ。
くっそ、一応この状況から抜け出す手段は一つだけある。中学が一緒の奴なら全員が知っている黒須の特性。だがしかし、惜しい事にその特性を発揮するために必要なあいつがいない。
死神の鎌を突き付けられているこの状況じゃ、あいつを呼び出そうにも呼び出せない。千羽祭に来ているはずだが……クソッ!
ああでもない、こうでもないと思案していると、死神黒須が抑揚のない声で呟いた。
「トイレは済ませた?神様にお祈りは?テントの隅でガタガタ震えて命乞いをする心の準備はOK?」
とんでもねぇシスターが生まれてやがる。お前はあの神父の娘かよ。サーチ&デストロイされちまうよ!
この殺戮シスターを抑える手立てが今の俺には……
諦めて全身から力が抜けたその時、日照り続きで不作が続いた村に雨が降るかのような、そんな恵が俺と伊波に降り注いだ。
「あ~!智ちゃん!どうして電話したのに出ないんだ……よ、う?」
十メートル程離れた位置から、唯笑と信の姿。
黒須に捕まっている俺を一目見て状況を把握したであろう信は苦笑していたが、俺へと頬を膨らませて手を挙げる唯笑は、処理能力が落ちてフリーズしたデスクトップのように固まっている。
「ねえ、智也君?」
「なんだ?」
「なんか、今坂さんの様子がおかしいんだけど。グリ〇のシンボルみたいな恰好のまま固まってるよ?」
「まあ、だろうな。それよりも伊波、吉報だ」
「なに?」
黒須の両腕、死神の鎌から殺気が消え去り、俺達の肩と首は無事に解放された。
「俺達の救いの生贄がきた」
「はい?」
唯笑がなんでエラーを起こしたかだって?そんなもん、藍ヶ丘第二中学校の俺と同じ世代なら誰もが知っている、当時の藍ヶ丘第二中学校の常識だ。百聞は一見に如かずとも言うし、これから起こる異常事態を目の当たりにすれば納得するさ。
唯笑の存在を認識した死神は、もう俺達の事なんてその眼中に映すこともなく、静かに身を沈めてクラウチングスタートの姿勢を取る。
そんな黒須とは裏腹に、唯笑は黒須の体勢を確認する余裕もなく、あいつにしては珍しい真顔で脇目も振らずに来た道を全速力で引き返す。
「は?ちょ、どうしたんだよ唯笑ちゃん!」
唯笑にとってどれほどの緊急事態か理解出来ない信は戸惑い、その脇を漆黒の弾丸が奔る。まさに雌豹と称するに相応しい。久しぶりに唯笑に会って野生が蘇ったようだな。
「ゆえゆえ~!!」
その様はまさにシマウマを捕食する豹のそれだ。憐れなシマウマはあえなくその爪牙と牙を突き立てられ、呼吸もままならなくなっている。ぶっちゃけ、黒須に認識する間もなく抱き締められ、その肢体をいいように弄ばれている。
「ちょ、黒ちゃん、やめ……」
「はぁ~、ゆえゆえだぁ~。あたしのゆえゆえだぁ~」
頬を擦り合わせ、手を太ももに這わせるなんてのは序章だ。耳を甘噛みして首筋を舐めて、更にはアレをアレして……うむ、今なら国家権力を使って奴を檻に閉じ込められそうだな。
「智也君、あれってどういうこと?」
黒須のあらぬ豹変に伊波が戸惑う。そりゃそうだ。あんなに蕩け切った顔をした黒須をこいつは見たことがないだろうからな。
「どういう事も何も、見たままだ。黒須はな、中学の頃から唯笑が好物なんだよ。萌え萌えをもじってゆえゆえって呼んでいるぐらいだしな」
「好物って、捕食しちゃってるじゃん」
「間違ってないだろ。まあ、唯笑のおかげで俺達は解放されたんだ、せめて心を込めて弔ってやろう。黙祷」
「智ちゃんのバカァ~~~~!黒ちゃんがいるなら千羽祭に来なかったのにぃ~~~~!って、そこはダメだよぉ!!」
おいおい、普通ならそこまでは俺も許さん……ところだが、今だけは許してやろう。感動の再会に水を差すのも悪いしな。
中学の頃は彩花という保護者が、適度なところで黒須から唯笑を守っていたが、残念なことに頼れる身内は今は不在だ。俺に黒須を止めることはほぼ不可能だし、もうどうすることも出来ん。
そもそも、黒須が唯笑に絡むようになったのはいつ頃だったか?確か、俺と彩花が付き合い始めてからだったような?
「ふふ、とても嬉しいのでしょうね」
いつの間にテント内にいたのか、執事の淹れた紅茶を足を組んで優雅に飲んでいるお嬢様の声。
「よお、そっちも久しぶりだな、花祭」
「ええ、お久しぶりですね、三上君」
面倒な生き物がもう一匹増えたよ。ジイヤさんという執事の前や、公の場では完璧なお嬢様の花祭果凛。だが、級友などの前ではごく普通の女子となるという、心理学、哲学、倫理学の観点から見て、とてもよろしくないペルソナ(仮面)を被る馬鹿だ。
なぜよろしくないかと言えば、話が長くなってしまうので割愛する。あまりに被る仮面の性質が違い過ぎると、精神的にバランスを崩し、崩壊しても不思議じゃないらしい。まあ、本人が覚悟を持って演じているのだろうから何も言えんが。
国内のショーモデルの中でもトップクラスに位置する花祭果凛と、タレントモデルとして活躍するカナタの二人を呼んだのは他でもない、野外でのプロムのゲストとしてだ。
ちなみに、ショーモデルというのは雑誌に掲載されるような仕事もするが、主にファッションショーで活躍するモデルの事らしい。黒須は身長的にショーモデルは難しいのだそうだ。
「智也君、花祭さんと知り合いだったんだ」
俺と花祭が同じ中学なのは知っていただろうが、面識があるとまでは思っていなかったらしい。
「……まあ、ちょっとな」
ちょっとなんてもんじゃない。俺は間接的な付き合いしかないが、花祭は黒須とは違って彩花と仲が良かった。親友、とまではいかないがそれに近い間柄だったはずだ。
「それよりも、お前が黒須を止められないか?」
駄目元で聞いてみたが、俺の問いに花祭は惚れ惚れするような完璧な偽装を施した笑みで応える。
「それは難しいですね。なにせ、彼女にとって今坂さんは理想なのですから」
うん?ちょっと耳を疑う単語が出てきたぞ。理想?あの嫁の貰い手を選んでやるのに苦労するアホが?
「そう不思議な事でもないはずですよ。つまり、彼女は私の逆であると言うだけです。意味はお解りでしょう?」
人を喰ったかのような言葉に俺は舌打ちで返す。
この馬鹿は未だにそうなのかと、頭を引っ叩きたくなってしまう。
花祭果凛の言わんとしていることは単純明快で、だからこそ胸糞の悪い言葉でしかない。黒須が唯笑のどこに理想を見出しているのかは知らないが、花祭もつまりそうなのだ。
花祭果凛、こいつも中学から一つたりとも成長しちゃいない。こいつは今もそうだと暗に言ったのだ。今もまだ、自分は桧月彩花が理想だと――
中学の頃、彩花が困ったように笑って話したことがあるから知っている。自分に憧れてるなんておかしいよねって。
「随分と邪険そうな顔をなさいますね」
「元からこんな顔だよ」
花祭から顔を逸らして彩花を思い出す。花祭が彩花の中に何を見て憧れたのかはわからないが、自分を理想にして欲しいだなんて微塵も思っていなかったはずだ。
彩花を理想だと言うのなら、彩花の顔を曇らせるような事だけはして欲しくないものだ。
「唯笑も困ってるよぉ~!」
「黙って贄になってろ」
お見せ出来ないよ状態の唯笑。お前の犠牲で俺と伊波は明日を生きられる。
「ねぇ~!?ゆえゆえくれたら恩赦で釈放してあげてもいいわよん?」
「ははは、一年だけだぞ」
「だけって時間じゃないよ智ちゃん!?」
さあ、それじゃあ唯笑のあられもない姿を見て元気も出たことだし、気張ってプロムの準備をするか!
閉会式が恙なく終わって、私達は野外の特設ステージへと稲穂さんに案内された。
特設ステージは、後ろ半分に立食と歓談出来るスペースがあり、中央に大勢の人が自由に踊れるスペースがある。
講堂でのプロムも基本的には同じ配置らしいのだけれど、野外と違うのはお酒がある事と、ドレスコードがあるという事。
つまり、野外は未成年専用、屋内は成人以上専用のプロムとなっているわけですね。
千羽祭の興奮が収まっていないのか、私も含めて一様に活気が冷めやらない。
一蹴と二人で回った今日の千羽祭を思い出すと、こんなに楽しかったデートは初めてだったように感じる。
心霊研究会が催していたお化け屋敷は、ポイント毎に心霊映像を見せられ、映像の終了間際に上から髪の長い女性が覗いている事に気付かせられ、ほとんどの人が悲鳴を上げていて、中には気絶する人も。一蹴は大丈夫大丈夫と震えた声と手で気丈にしていたのだけれど、なんだかその様子が可愛くて恐怖心を感じる余裕なんてなかったけれど。
野外にあったお洒落なかき氷屋さんでは、私と一蹴の同級生の木瀬歩さんが忙しそうに働いていて、木瀬さんの弟妹?と一緒にお店を切り盛りしていて驚いちゃった。木瀬さんは、店主は急用でご主人様に呼ばれているとかなんとか言っていたけれど、正直何を言っているのかわからなかった。どういうことだろう?
あ、そういえば道行く男の人達がなぜか一蹴を睨んでいたり、唾を吐いたりして妙に殺伐としていたけれど、あれはどういうことなんだろう?三上さんの手先?
一蹴と一緒に一つのわたあめを食べあったり、たこ焼きをあ~んしたり、カップル限定リンクチェックというイベントに参加したり、私も一蹴も笑顔が絶えない一日だったように思う。叶うのなら、今日が何度も繰り返して欲しいと真剣に願ってしまうほどに。
楽しくて嬉しくて幸せで……幸福ばかりの眩い一日だったから、だからかな?だから、私はただ一つの違和感が気になって仕方がない。真っ白なお皿に、一滴のソースがこびり付いていて、その一点が気になって仕方がなくなってしまう感覚にそれは似ていた。
あれは、一蹴がお世話になったからと、渋々三上さんに挨拶をしようと、三上さんの休憩に合わせて野外ステージの控室を訪れた時の事だった。
「あ、あの……その節は、その……」
スタッフに配られるお弁当を食べながら、三上さんはさも興味なさげに耳だけを一蹴へと向けていた。
私達が来たことを伊波先輩は喜び迎えてくれて、今は空気を読んで少し離れたところでほたる先輩と一緒に、仲睦まじくお昼を取っていた。
三上さんへとお礼を言う。それだけの事なのに、どうしてか一蹴は中々言い出せないまま、何度も言葉を詰まらせては黙ってしまい、また最初からやり直すという事をさっきから繰り返している。
多分だけど、一蹴って三上さんにどこか苦手意識とは違うけれど、認めたくない部分を持っているのかもしれない。それが邪魔をして素直になれないんじゃないかな?三上さんの名前を出すと、せんぶり茶を飲んだように苦々しい顔をするし。
そんな一蹴の様子に辟易したのか、三上さんはため息を吐きながら立ち上がって、私達の横を通り過ぎていく。
「あ、ちょっと!」
さすがに怒らせてしまったかと焦り、一蹴が追い縋ろうとすると、三上さんは一蹴を真っ直ぐ見据えて、いつもとは違う穏やかな口調で声を掛ける……一度も私と目を合わせようともせずに。
「鷺沢、別に無理して言葉にするなよ。お前に無理させる為にした事じゃない」
年上らしい、後輩を可愛がっている先輩のような顔。まるで似合っていないその顔が、私には少しだけ悲しく映った。
いつもの三上さんなら憎まれ口の十数個は叩くはずなのに……あのどうしようもなく腹が立つ言葉がない事が寂しい。そう感じてしまう私はおかしいのかな?
三上さんの言葉を素直に受け入れられなかった一蹴が何かを口にしようとすると、その言葉を無理に聞かないようにしているかのように、背を向けて控室を出ようとしたその間際。背を向けたままで三上さんの言葉が届いた。私の知らない大人の声で。
「悪い、これから用事があるから行かないといけないんだ。それと、鷺沢?お前に一つだけ頼みがあるんだ」
「……なんすか」
上手く言えない自分に腹を立てて不貞腐れた顔をする一蹴。そんな一蹴が可愛くて、少しだけ笑ってしまった。
「お前、今度から陵を家まで迎えに来い。バイトの時は、終わった後でもいい」
微笑んだまま、私は固まっていた。三上さんからの一蹴への頼み事……おかしい事なんて何もない、それどころか嬉しいことのはずのその言葉。
「いいのかよ?」
「俺が頼んでいるんだ、良いも悪いもないだろ。彼氏として当然の仕事をしろってだけの話だ」
そっかぁ、これからは毎日一蹴と一緒にいられるんだ。家庭教師の日でも、一緒に……一緒に帰って、手を繋いで、その日あった事を話して、どちらかの家に泊まったりも出来る。
良い事じゃない。最近はずっと一蹴と二人で恋人らしいこと何一つ出来てなかったんだもん。想像するだけで心がスキップしてしまう。
そうだ、今度教わった唐揚げを作ってみよう。コツは教わったし上手く出来るはず。デートも一杯しよう。少しすれば冬休みだし、クリスマスやお正月っていう恋人が温かくなるイベントが待ってるんだもん。毎日会えるなら沢山……たく、さん……
考えれば考えるほど、私の頭に見たくもない映像が過ってしまう。ノイズのように邪魔される光景。三上さんと下らない言い合いをしながら帰る車内……たったそれだけの、どうでもいい光景が。
そう、どうでもいい光景なんだ。私にとっても、そして三上さんにとっても……
「返事はどうした、鷺沢」
「あ、ああ。わかった、必ず迎えに行く」
「なら良い。じゃあ、久しぶりのデート楽しんで行けよ」
今までの事がなかったかのように、素っ気なく三上さんは控室から立ち去って行った。最後まで私と目を合わせることもないままで。
『みんな千羽祭お疲れっしたぁーーーー!!!!」
お疲れーーーー!!!!
考え事をしているといつの間にかステージ上に加賀先輩がいて、両脇には目と口の部分に穴が開いている紙袋を被った、怪しげな二人が経っている。
『閉会式も終わって、お客の為の千羽祭は終わったけど、俺達の千羽祭はこれからってことで、早速ゲストを呼ぶぞテメェ等!!!!』
ゲストという言葉に熱狂するプロムに参加している方々。
ゲストは誰なんだろうとわくわくしてしまう……はずなのに、私だけがどこか取り残されているかのような感覚に陥っている。
不意に左手に感じる温もり。一蹴が子供の様な無邪気さで、誰なんだろうな?って笑っている。それに、楽しみだねって私は笑顔で返す。プログラムされた機械の様に感じて、自分で自分が気持ち悪い。
最高の一日、そのはずなのに。
『本日のゲスト、それは――ッ!!!!」
両脇の二人が紙袋を投げ捨て、片手を挙げて観客へと応える。
『私、カリンと!』
『カナタちゃん登場!』
二人の声と姿に、否が応にも会場が歓喜の渦に包まれる。
一蹴も同じで、ロックバンドのライブの様な盛り上がり方をしている。浜咲の先輩だから何度か面識はあるけれど、遠い存在過ぎて関りはあまりなかった。
最近はテレビでよくピックアップされているお二人。確か、今度カナタさんは映画で主演をやるはずで、カリンさんはパリの四大コレクションの内の一つに出るとニュースで報じられていた。
人気急上昇中の二人がまさかゲストで来るだなんて誰も予想していなかったらしく、熱気が収まるどころかグングン増すばかり。
そんな熱狂の中、私はどこか客観的にしかステージを見ることが出来なかった。
講堂から離れた、キャンパス内のベンチでビール片手に一人で座っている。
今頃は白河ともう一人のゲスト、信の知り合いの彼女だという日本が誇る若き天才ピアニストが、ジャズやクラシックを奏で、その音色に酔いしれながら皆が踊っているのだろう。
ピアニストの名前は忘れたが、信の知り合いの名前は確か春……なんだっけ?ピアニストにもそういえば、夏だか冬だかって漢字があった気がする。ピアニストはやたら不愛想で高飛車な印象だったけど、そんな彼女を窘める恋人兼マネージャーの男は、物腰の柔らかい仕事が出来る男の雰囲気を醸し出していた。
野外ステージの方は上手くやっているだろうか?なんて、心配は野暮だな。黒須と花祭がいるんだ、俺以上に盛り上げ方くらい心得ているだろう。心配するだけ損だ。
あっちはDJを用意しているし、クラシックな講堂とは違って、さぞパリピっていることだろう。まじ卍だわ。意味は知らんが。
ビールを煽って一息。仕事の後の一杯に取りつかれる社会人の気持ちが少しだけわかる。こりゃ、麻薬だわ。疲れた体に、アルコールが染みていくのがこんなに気持ち良いだなんて知らなかった。就職したら、冷蔵庫にビールは必須だな。
キャンパスまで聞こえる歓声が熱を帯びていて心地良い。寒い季節には丁度いいな。
あの二人はちゃんと楽しめているだろうか?久しぶりの二人きりの時間、俺が邪魔をしてはいけないと、空いた時間に二人が来てもあえてあまり取り合わないようにした。
もう、俺が支えてやる必要はない。兄のように慕われるのは昨日までで、あとは鷺沢に全部背負わせればいい。俺は鷺沢の代用品でしかないのだし、元よりそのつもりだった。
「これでいい、あとはいつもの日常に戻るだけだ」
今になって考えると、良い事なんて何もなかったしな。
少女漫画を集めていることがばれるわ、毒舌ばかり吐きやがるわ、複雑なようで単純な問題で馬鹿みたいに悩むわ……すぐに泣いて、なのに折れなくて、強くあろうとする嘘の笑顔を張り付けて……
ほらな、良い事なんてなにもない。あいつと過ごした時間は苦痛ばかりで、楽しかったことなんて何もない。
あいつを送る時間は無駄だったし、嘘の笑顔を剥がすのは時間を浪費したし、挫けない様に支えるのは徒労だったし、泣き崩れるあいつを抱き留めるのは苦痛でしかなかった。
ここ最近の出来事を思い出しながら月を見上げる。
雲一つない空に真っ白な月。綺麗な丸い月がキャンパスを照らす。
「ただまあ、起爆剤にはなったよな」
陵は弱いくせに精一杯強がってみせたんだ。なら、強がりの先輩である俺が立ち上がれなくてどうする。このままじゃ情けないって、彩花をがっかりさせちまう。
元々、今年こそはって密かに心に決めていたんだ。逃げる言い訳はいくらでも思いつくが、立ち向かう理由は少しだけ。その少しで充分だ。年下に貰った理由ってのが情けないが、それも俺らしいってもんだ。
あの日から俺は偽物のままだ。唯笑も信も知らない、偽物の俺が歩んできた数年。偽物の俺が俺を演じ続けてきた。
この数年の俺は偽善を行い、偽悪で嗤い、偽り言を喋り、自分を偽称し、罪を偽装し、ありとあらゆる物を偽で埋め尽くして、臆病な子供のままの本物を匿ってきた。
奥深くに引き籠り、時折彩花への想いに寄り掛かっては泣いてばかり。情けない男だ。愛する価値もない。
価値のないそいつを、どうしても誰にも見せるわけにはいかなかった。だから俺は誰にも破られない骨格を身に纏う。
馬鹿で何も考えていないようで、誰かに優しい振りをする、彩花が愛してくれた俺を侮辱するような過去の自分をトレースして騙し続けてきた。
だが、いい加減それも終わりだ。偽物は所詮偽物、永遠に存在することなど出来やしない。偽物の人生に幕を引き、臆病で弱虫で泣き虫な本物を舞台に引っ張り出す。鍵をぶち壊し、泣いているそいつを殴りつけて引き摺っていく。
弱虫で良い、臆病で良い、泣き虫で良い。ありのままの馬鹿を立ち向かわせて、偽物はお役御免ってわけだ。
そうして、何事もなかったかのように、誰にも知られずに本物とバトンタッチしてしまえば世は事もなし。
小娘と小僧が根性を見せたんだ、俺だって格好悪くても、情けなくても、小さな根性を見せるべきだろ。そうじゃなければ、二度と本物は立ち上がれない。俺は、俺でいられない。
「だよな、彩花」
お前への想いだけは嘘にしたくないから、惚れた女の前で位格好つけて見せるさ。
一気にビールを煽って月に缶を掲げる。
真っ白な月に、俺の決意を捧げるように。
「お一人ですか?」
そんな俺の様子がおかしかったのか、声が笑っている。俺の目の前へと歩いてくるその影は、俺を見つけたことが嬉しいのか、はたまた別な理由なのか、上機嫌に揺れている。
「いつからいたんだよ?」
「一気飲みしたところからです。それよりも、お一人で寂しそうですね」
「ああ、ダンスをする相手に振られてな。だからやけ酒してるんだ」
「まあ、お気の毒ですね。では、そんなお気の毒な貴方を慰める為、私がお誘いしてもよろしいでしょうか?」
月のように穢れのない綺麗な手が差し出される。普通、男が誘うもんだけどなと笑いながら……
「仕方ない、慰められてやるか」
ほんの少しだけ懐かしいその手を、アルコールに身を委ねながら取る。
「言っておくが、俺はダンスなんて知らないぞ?」
「ええ、知らないという事を私は知っていますから大丈夫です」
胸に手を当てて誇らしげに言う彼女がおかしくて、二人で笑顔を向け合う。
「おかえり、詩音」
「ただいま戻りました、智也さん」
夜空の月と見紛うばかりの綺麗な髪を風に靡かせながら、この日俺の愛すべき級友が帰ってきた。
正直、クラブダンスは苦手だったけれど、一蹴と音楽に合わせてめちゃくちゃに体を動かすのは気持ちよかった。単純に楽しかったのもあるけれど、心にあるしこりを身体を動かすことで振り払えるような気がしていた。
最初は周りと同じように、見よう見真似で踊って、慣れてきたらいつの間にかどう動かせば良いのかわかってきて、そこからは私も一蹴も向かい合って好きに踊っていた。
そうしてどれ位踊っていたのか、体力のない私は一蹴よりも最初に疲れ切ってしまい、ちょっとだけ飲み物を飲んでくるねとその場を離れた。
一蹴も一緒に行くと言ってくれたけれど、あまりの混雑で二人が移動する隙間はなかったし、心から楽しんでいる一蹴を連れ出すのは心が引けて、すぐ戻るからと一人でその場を離れた。
歓談スペースからダンススペースを見ると、皆が日常を忘れて、今だけの特別に浸っている。歓談スペースには人がまばらで、飲み物を少し飲んではすぐにダンスへと戻る人が多い。
カナタさんとカリンさんのライブパフォーマンスも、さすがプロと言うべきか、やたら堂にいっていて、別世界の人達なんだなぁって再認識させられると同時に、同じ浜咲学園にいたんだって誇らしくもなる。
体の熱が飲み物を飲んでも引かなくて、少しだけいいよねと野外ステージの外へと出る。一蹴にはすぐに戻ると言ったけれど、もうちょっとだけ熱を冷ましたい。
ゆっくりと歩きながら、キャンパスの風景を眺める。
昼間とは違う静かなそこは、少しだけ夜の公園のような寂しさがある。
夜空を見上げると、真ん丸の真っ白な月が浮かんでいて、一蹴と一緒に眺めながら散歩したいなって思った。うん、今度一緒にお月見するのもいいかもしれない。大人になったら、星空が綺麗な高原に二人で旅行に行きたいな。
その時の私達はきっと今よりもお互いを近くに感じられる二人になっている……そんな幸福に頬が緩む。目が眩むような未来の幸福に恍惚しそう。
熱に浮かされた私は、すっかり忘れていた。しこりは決して熱に溶かされたわけではなかったことに。忘れたままなら、それで私は幸せでいられたのに。
誰もいないはずのキャンパスの隅。そこは木々で覆われていて、人があまり寄り付かないような場所。そんな場所から、楽し気な笑い声が二つ。
誰かいるのかなと、木の幹に隠れるようにしてそこを覗く。覗いてしまう。
月明かりに照らされた、二人だけの為に誂えられたかのような、お伽噺の中のステージを……
「――――ッ!?」
月明かりが映し出す二人。女性の方は、まるで物語から出てきたお姫様のように綺麗で、同性の私が一瞬あまりの美しさに目を奪われてしまう。青いドレスが彼女の髪に良く映えている。あの美しい髪は染めて出来るものじゃない、天然の宝石のよう。
その女性とは対照的に、男性の方はめちゃくちゃな動きでお姫様を振り回す。
品性の感じられない、騎士とは程遠い村人。相容れない二人のはずなのに……
くるくる、くるくると踊る二人。時に男性が変顔をしたり、お姫様をその名の通りお姫様抱っこして回ったり跳ねたり。
正反対の二人が、同じ笑顔を向け合って今この時の逢瀬を大切にしている。
相容れない身分だからこそ、正反対の雰囲気だからこそ、その調和が何よりも美しい。
そう、この二人は神が初めから決めていた番(つがい)だと誰かが嘯いても疑う事すら出来ない。月明かりの下、緑の上で自由に踊る二人は、美しい一枚の絵画からそのまま現実に抜け出したかのようで……
「なあ、そのドレスって自前か?」
「当然です。似合っているでしょうか?」
「似合ってないって言えなくて残念だ」
「つまり?」
「……わざと濁したんだ、追求するなよ」
「つ、ま、り?」
「ああもう!似合ってるって言っているんだ!」
「……あ、ありがとう」
「言わせておいて照れるなよ!」
「いえ、直接言われると思っていたよりも、その、嬉しくて……」
「そ、そうか。で、招待状はどうしたんだよ?招待状がないと入れないんだが」
「稲穂さんが用意してくれました」
「ま、あいつ以外いねぇか。それよりも折角だ、アレやろうぜ!?」
「アレとはなんですか?」
「ほら、フィギュアスケートのペアでよく見る、片手で相手を持ち上げるやつ!」
「リフトのことですね」
「お、この位軽ければいけるかも。よし、チャレンジするか!」
「ちょっと智也さん無理ですから!素人が簡単に出来るわけ!」
嫌がるお姫様を持ち上げようとして失敗し、二人は緑の上に倒れ込む。お姫様が怪我をしないように抱き留めながら。
「もう!だから無理って言ったじゃない!」
「いやぁ、いけると思ったんだけどな。ほら、かめは〇波が今なら打てるかもって、一年に一回は一人で部屋でやってみたりするじゃん」
「またそうやって意味のわからないことばっかり!昔から智也さんはそう!」
「ははは、詩音口調が素になってるぞ」
「誰の所為だと思ってるの!?」
そうして、お姫様は怒りながら、村人は屈託なく一緒に声を上げて笑い合う。
(な、んで?)
一連のやり取りを目に焼き付けながら、私は音を立てないように気を付けながらその場から離れ、十分に離れてから脇目も振らずに走る。
あれだけ冷まそうとしていた熱が、色を変えて私の体中を熱くする。
真っ白になりそうな頭の中に、一つの光景が映る。その光景を私は必死に消し去ろうと一蹴を想う。
私、何を考えたの?三上さんと、詩音と呼ばれた女性の逢瀬を目にして何を考えているの!?
あり得ない、あってはならない。一蹴だけじゃない、リナちゃんだけじゃない、これまでの全てに対する裏切りの幻想。
――詩音さんというお姫様と入れ替わって、私が三上さんと……――
最低で最悪で醜悪な幻想。現実にはならない、してはいけない幻視。
うるさい呼吸、鳴り止まない鼓動、崩れ行く足元。
違う、こんな感情なんて知らないし、この感情の名前を聞いたこともない。
――ほんとうに?
わからないわからないわからない!一蹴……そう、一蹴と会えば、抱き合えればきっとどうでもよくなるような、そんな些細な事なの!
――嘘、ほんとうは思ってしまったのでしょう?
そ、そう!多分お兄さんのような三上さんが、誰かに取られちゃうようで寂しかっただけ!まだ小娘だもん、そうだよ。
――どうして……
今日は一蹴と一緒に朝までいよう。一蹴が傍にいてくれればすぐに忘れられる。忘れさせてくれる。
――どうして私がそこ(お姫様)にいないの?って。
違う違う違う違う違う違う違う違うチガウチガチガウチガウチガウッ!!!!
「あ、ああッ――」
外灯に力なく背を預け、綺麗だったはずの月を見上げる。あれだけ綺麗だった月が今は朧気で、酷く頼りなく見えた。
いつから、とか……どうして、とか……そんな事を考える権利なんて、私にはない。この感情を追求する権利を私は最初から放棄していた。それでいいの。今のまま、これまでと同じように見ない振りをすればいい。
自分への嘘は慣れている。誰かへの隠し事はお手の物。雲が月を隠すように、この自分でもわかりたくない感情を隠してしまおう。
「ううん、それじゃあ足りない」
隠すだけじゃ駄目だ。その程度じゃ、雲が風に流されただけで出てきてしまう。だから、どうすればいいかなんて、答えは一つしかない。
「そう、だね」
このまま、知らないまま殺そう。私は自分を何度も殺してきた、自分勝手な想いで殺し続けてきたんだもの。やれないわけがない、いつものように震えながら臆病に殺してしまおう。こんな感情、誰も幸せにしない……出来やしない。
「三上さんが、あんな顔しなければ……」
見たくなんてなかった、一蹴と抱き合った肩越しに見えた、大切に心の奥底に仕舞っていたはずなのに、不意に滲み出てしまったかのような、あんな寂しさで一杯の愛おし気な微笑みなんて。
「気付かなきゃ、良かった……」
あの人の不器用で、でも誰よりも人を想う馬鹿な優しさなんて。ずっと尊敬出来ない駄目な年上の人のままでいてくれれば。
「覚えたくなんて、なかったのにぃッ」
砕けてしまいそうな私の心を、壊れないように、傷つけないように、気付かれないように……そう、柔らかく包んでくれる手の温度なんて。
「知りたく、なかった、のに……」
自分を騙さずに受け入れてくれる、そんな居場所を与えてくれる変な人が世界にはいるんだって。なんでもない事のように、笑って迎え入れてくれる居場所。私に偽りじゃない笑顔を、笑顔を忘れる寸前の本当に辛い時に与えてくれた。こんなに心許してもいい場所があるんだって、知りたくなんてなかったのに。
「聞かなければ、他人でいられたのにッ」
あなたの雨を知らなければ、あなたの悲しみに触れてしまわなければ、あなたの涙に気付かなければ……そうしたら、私は……
「そうじゃ、ない……そうじゃない、ね?」
あの日、三上さんと公園で出会わなければ良かった。あのドアを開かないで帰ればこんなどうしようもない感情を抱えなくて良かったんだ。あの人の心の奥にいつの間にか住み着くかのような、そんな悪意も打算も偽善もない馬鹿な笑顔に、私は初めから狂わされてしまっていたなんて……今更気付くことはなかったのに。
こんなに、胸が磨り潰されそうな苦痛に、悶え苦しむことはなかったのに……
「馬鹿だなぁ、私。ほんとに、馬鹿だよね?」
今までで一番この感情は殺し難くて、どんな拷問よりも酷い苦痛を伴うのだろう。それでも、殺し尽くさないといけない。塵となって、私の心から跡形もなくなるまで徹底的に。二度と蘇ることがないように。
どれだけ時間が掛かったとしても……
「殺し、ますから……だから、せめて今だけは許してくれますか?」
こんな最低な願いを。
「一度で、いいんです……一度で、いいですから、私と……」
――お伽噺のように、月明かりの下で私と二人だけで踊って下さい――
叶わない、叶えてはいけない願いを口にして、私は歩き出す。三上さんが剥がしてくれたはずの仮面を、あの二人のいる場所を振り返らないように、心の奥底に押し殺す感情に目を向けないよう、一蹴だけをこの目に映すよう、もう一度無様なその仮面を被りながら、頼りない月明かりの下を歩く。
お久しぶりでございます。遅くなって申し訳御座いません。
本来ならもう少し早く更新するはずだったのですが、自分の遅筆さに驚きです。
実は今回のお話ですが、入れたかった話を二つほど省いております。
一つは、某有名声優の宮野〇さんの曲で、Refrainという曲があるのですが、ニッコニッコ動画さんのとあるMADで使用されているのを聴いて、凄く驚きました。この曲、驚くほどに智也の曲なのです。
歌詞も曲調も、何もかもが智也を連想させ、思わず泣いてしまいそうになりました。
それで、この曲を唯笑や信が聴いたらどうなってしまうのか、というシーンを書こうかと思ったのですが、ちょっと無理があるなと断念。
もう一つは、友達と別れて一人でいるケンシロウ君を、告白された彼女が手を引いてプロムに連れ出すというシーンです。
これに関してはですね……あのぉ、そのぉ……何も言わず謝ります!すみません!特にケンシロウ君ごめんなさい!君の事、僕は大好きですからね!
あと、カリンの設定ですが、これも変えてあります。というより、彼女の場合は普通のモデルさんよりも、ショーモデルという本格的なモデルの方がイメージに合うんですよね。本気で完璧を目指している子なので。
あと、智也は本来浪人しているので、健達と同学年ではないですが、ここも変えてあります。
あとは、智也と彩花と唯笑、この三人と果凛、カナタは面識があるはずですし、智也の過去を知っているのが普通なので、彩花や唯笑と仲良かった設定にさせて頂きました。
K〇Dさんには申し訳ないですが。
今後も、ちょくちょく変わる部分はあると思いますが、なにとぞご容赦下さいませ。