彼に陽射しを、彼女に愛しき日々を、彼に立ち向かう勇気を
三人でこの道を歩くのは何度目だろうか?
砂利道をゆっくりと俺、信、唯笑の三人は歩く。それぞれに手土産を抱えて。
唯笑はカランコエ、スターチス、ニリンソウ等の花束。それぞれに意味があり、たくさんの小さな思い出、あなたを守る、永久不変、友情、ずっと離れない等、どれもが唯笑らしい想いの強さと健気さを表した花達。
信の手には一年分の撮り溜めたアルバム。俺達三人と、自分が旅した国の写真。アルバムにはいないはずの彩花の姿が、そこには写っているような気がしてしまう愛しい日々の記録。俺の成長記録も兼ねているらしいが、マシな物が一つもないのはどういうことだよ。全部ネタばっかじゃねぇか。
そして俺の手にはいつもと変わらない花束……何を持っているかは恥ずかしいから秘密だ。それともう一つ。
「なあ、智也?」
へぇ、蛇子(じゃこ)って名字もあるんだな。珍しい。
墓石を眺めるのって案外楽しいものだ。長い年月の経った物等は、なんて書いてあるかわからない漢字の羅列があったりして、ちょっとした勉強にもなる。歴史を感じる瞬間だな。
「わざと無視するなって」
仕方ないと信の方へと顔を向ける。くそ、日差しが眩しくて信の目の辺りに、よく二次元で仕事をする光が横切ってやがる。どんなサービスシーンだよ。
「花束はわかるが、その重そうな袋は何だよ?」
花束の他にもう一つの手荷物。大きな紙袋を指差して尋ねられ、俺はにんまりとし、唯笑は微妙に口の端を引き攣らせる。
まあ、唯笑にとっては苦い記憶でもあるだろうしな、こいつは。小学生の頃、一日起きていても怒られない、子供にとっては一年で一日だけの特別な大晦日の日。その日は必ず彩花の家に呼ばれ、お互いの両親は麻雀をしながら酒盛りをして盛り上がり、そんな両親とは対照的に俺と唯笑は盛り上がるはずの特別な日なのに、憂鬱な気分でどんより。三人の中で一番はしゃぐのは彩花だけだった。なぜなら、その日は朝までずっと……
「漫才とコントを観せられてたんだよね」
抑揚のない唯笑の声はトラウマ色である。
唯笑は遊ぼうよと彩花を呼ぶのだが、すると彩花は冗談抜きの真剣な眼をして、我侭は駄目だよと唯笑を叱り、唯笑が逃げないように腕を掴んで隣に座らせ、ずっとテレビの前で正座をさせられる。足を崩すことも許されなかった。
彩花が厳選して選んだ当時はお笑いVHSを強制的に観せられる拷問。どうやら、彩花にとってお笑いとは神聖な儀式のような物らしく、不遜な態度をとることは許されなかった。お笑いを見ているはずが、笑えない涙が出たのは最低な思い出だ。
一年に一度の彩花の我侭だし、聞いてやろうか……なんて殊勝な心を俺が持っているわけがなく、ぼろくそに文句を言った事がある。酷いなと思う輩がいるなら、十二時間近く正座をしてみればいい。苦行なんて半端なものじゃないんだぞ。
ただまあ、文句を言ったら普段は絶対に泣き叫ばない彩花が、わんわん泣いて俺の親父に泣きついたんだ。よりにもよって親父に。
泣いた彩花を親父は親父らしくないデレた顔で慰め、俺に鬼のような形相で拳を叩きつけ、お年玉を人質にして苦行を強制しやがった。唯笑に関しては、途中で眠くなったら寝て良いルールが設けられ、唯笑は開始一時間で俺を裏切り寝たふりをしやがり、大晦日を脱出。大晦日は楽しめないが、唯笑は大晦日を犠牲に平穏を手に入れるという、狡猾な手段を選んでいたんだ。
「てなわけで、これはノートPCとお笑いDVDだ。最近のお笑いを彩花に観せてやろうと思ってな」
「智ちゃん、大晦日みたいに長くないよね?」
「虐めを通り越した所業だろあれは」
「彩花ちゃんのお淑やかなイメージが崩れちまった」
お笑いへの情熱で心が焦土になりそうなあの癖がなければなぁ。それと案外ケチで、俺の小遣いの使い方でさえ半分管理されていた。
彩花のプライベートを知らない連中は、顔良し、中学生にしてはスタイル良し、気立て良しと絶賛していたが、俺と唯笑からしたらなんのこっちゃという話だ。
ゆったりと歩き、彩花の下へと到着。
雑草等を抜く為の軍手や、墓石を拭く為の水とタオル、その他の荷物を置いてまずは彩花へとそれぞれが声を掛ける。
「よお、元気に寝てたか?遊びに来てやったぞ」
「彩ちゃ~ん!今年も智ちゃんが結婚してくれなかったよぉ~!」
「彼岸以来だよね、久しぶり彩花ちゃん」
馬鹿な事を言う唯笑の頭を軽く叩いて、枯葉が落ちる寒い日、家族四人の時間を俺達は始めた。
――彼に陽射しを、彼女に愛しき日々を、彼に立ち向かう勇気を――
「智ちゃん、痛いよぉ」
「唯笑ちゃんはまだマシだから!俺なんて砂利の上だからさ!」
「鬼教官の前で無駄口を叩くな!折檻されるぞ!」
雑草を抜き、ゴミを拾って墓石を拭き、水を換えてお茶菓子を備えて花束を活けてようやく本番。
線香を上げて、それぞれ彩花と思い思いに手を合わせて話してから数分後、俺達の苦行が始まった。
唯笑はワンピースだから、渋々砂利を除けた場所にシートを敷いて正座をさせ、俺と信はラフな格好なので砂利の上に正座。上座にはもちろん彩花が今か今かとワクドキで座っていることだろう。除霊すんぞこの野郎。
PCを立ち上げてDVDをセット。場所は全員が鑑賞出来るように横へと置く。
「ね、ねえ智ちゃん。本気でやるの?」
「お前は彩花の喜ぶ顔が見たくないのか?」
「で、でもぉ……」
耳まで真っ赤になって、つぶらな瞳に涙を溜めている。
「あ、彩花ちゃんの為とは言ってもさすがに……な、なあ智也?こ、今度でも良くないか?今日は日が悪いみたいだし」
「日なら良いだろうが。雨が降る気配なんざないぞ」
「俺と唯笑ちゃんが雨のように泣きそうなんだけどな!」
何が不満だというんだこいつ等は。まったくわからないぞ。
遠目でひそひそと常識がないだの、最近の若い人はこれだからだの、くすくすと笑い声が聞こえたりだのしているが、問題は何一つとしてない。ていうか今日は人が多いな!
なにやら様子がおかしいと誰かから言われでもしたのか、住職が遠目でこちらへと生温かな視線を向けていた。すみません、何か言われたら適当に言っておいてください。後でお茶菓子を持参して謝罪しに行きますから。
「お前等には見えないのか!あの彩花の溌溂とした笑顔が!」
墓石の上を指差すと、唯笑は困ったように眉をハの字にさせ、信は見えちまうから不思議だと嘆く。俺だって嘆きたいわい!
「彩ちゃん許してぇ!唯笑にはハードルが高いんだよぉ~!」
「お、俺の恥で彩花ちゃんが喜んでくれるなら俺は……俺、は……やっぱきついなこれ!自分の気持ちを誤魔化せるレベルじゃないって!」
「ごちゃごちゃ煩い。ぽちっとな」
「智ちゃんの馬鹿ぁ~~~~!」
「お前の愛が重過ぎだ!」
俺の彩花への愛が二人を不幸にしてしまうとは……ふ、皮肉な物だ。
映像が流れ始め、どこからか拍手が聞こえた気がした。うむ、歓喜に震えている様がそこに見えるようだ。良かったなぁ、こんなに優しい家族が二人もいて……ふたりも、な。ふはっ。
この世の終わりに遭遇してしまった二人を見て俺はほくそ笑みつつ、スマホで二人の絶望に打ちひしがれる瞬間を記録。
良い画が撮れたと満足して頷き、うあ~~~~と嘆き苦しむ二人に立ち上がって告げる。
「じゃ、俺は用事があるから少しはずすな」
俺の言葉に二人の死んだような色のない目が向けられる。
こいつ正気かと、その目は猛然と言葉にしないで語っていた。
「何、言ってるんだ智也?」
「嘘、だよね?」
発案者の俺がまさかいなくなるとは思っていなかったらしい。彩花の為なら裏切ることはないと。とんだ先入観だな。
「嘘を俺が言うとでも?大晦日に狸寝入り決め込んで拷問から逃げてたアホ娘よ」
「智ちゃんを見捨てたわけじゃないんだよぉ!……智ちゃんなら忘れてると思ってたのに」
「小声で俺を馬鹿にするな。罪は償えアホめ」
「お、俺は何もしてないだろ!?」
「この間の千羽祭で、随分可愛がってくれたじゃないか、西野と組んでたんだろ?もうネタは割れているんだぜ……なあ?」
「これ以外ならなんでもするから俺を見捨てないでくれ智也ぁ!」
藁に縋ろうとする二人が滑稽で憐れだ。その藁が燃え盛っているとも知らずに。
「墜ちてしまえ」
奈落へと突き落とす呪文を唱え、俺は膝についた土埃を払う。
「ていうか、最初から言っていたはずだろ。大切な二人を呼んだって。迎えに行かなきゃ失礼だろ」
「そ、それなら唯笑が!」
「お~ま~え~は~の~こ~れぇ~!」
立ち上がろうとする唯笑の頭を押さえつける。こいつに付いてこられちゃ意味がないっての。
じたばたする唯笑を抑えながら信を見ると、信は顔を下に向けたままぽつりと恐る恐る口を開く。
「本当に、来てくれるのか?」
その言葉にどれほどの想いが込められているのか、俺には計り知れない。それでも、信の人生の中で間違いなく今日が一番大切な日となるはずなんだ。
それは俺にとっても、な。
「そういう約束なんだ。親父からそう伝えられている」
俺から連絡するまで、俺が過去を受け止められるようになるまでは会わないようにと……こんなに時間が掛かってしまったのが情けない。それでも、ようやくなんだ。今なら二人に顔を見せられると自信が持てたのは。
全部俺の所為なのに、俺の為に離れてしまった、俺達にとって掛け替えのない家族。今から俺は、大切な家族を迎えに行く。
「ま、それまではそのDVDを見て心を和ませておけよ。せめてもの心遣いだ」
「全然和まないんだが!」
「彩ちゃんは落ち着くどころか興奮してるよ!?」
食い入るように画面を観ている彩花が絶対そこに鎮座しておられる。
三人を尻目に、俺は歩き出す。
「はっはっはっ、精々楽しんでくれ。ああ、それと……」
一応言っておかなければと俺は振り返って注意をしておく。
「映像を止めるような暴挙は止めておけよ。彩花に呪われたくなければな」
「はは、まさかぁ。そんなこと彩花ちゃんがするわけ……」
「彩ちゃんならやりそう。ていうか絶対怒るよ」
「お笑いに命懸け過ぎじゃないかな!?」
あいつなら本気で一週間悪夢を見せに枕元に立つだろう。お笑いが絡むと人格崩壊を起こすからな。くわばらくわばら。
どうか二人が彩花を悪霊化させない事を願いながら、俺は少しだけ席を外した。ざまあみろ。
……せ、正当な理由があるから俺は無罪だよな?と、とりあえず謝っておこう。どうか今回だけは許してくれ彩花!と心の中で土下座をしたのだった。
智ちゃんの姿が見えなくなったのを確認した後、信君と唯笑は周りの人達の視線に晒されながら、顔を俯かせてなるべく他の人達と視線が合わないようにしていた。
小さい頃の裏切りと言っても、智ちゃんは覚えてないかもだけど、そもそも彩ちゃんがお笑いが大好きになったのは智ちゃんの所為なのに。
まだ物心ついたばかりの頃、三人で遊んでいた時に急に智ちゃんが漫才をやろうなんて言い出した。唯笑は漫才というものがあまりわかってなくて、仕方なく彩ちゃんが智ちゃんのごっこ遊びに付き合ったのだけれど、幼い子供にお笑いのボケと突っ込みが上手く出来るわけもなく、智ちゃんはむぅと唸っていた。
どうすればテレビの中の芸人さん達のように、息の合った漫才が出来るのかと考え、名案とばかりに彩ちゃんに言ったの。俺の相棒たるもの突っ込みを勉強すべしって。彩ちゃんは彩ちゃんで、智ちゃんに相棒って言われたのが嬉しかったみたいで、その日以来お笑いの勉強をし始めた。元々生真面目な性格で、お料理も智ちゃんの為に熱心に毎日練習して覚えた彩ちゃんだから、お笑いにも本気で取り組むようになってしまい、それが原因で彩ちゃんはお笑いを愛するようになってしまったの。つまり智ちゃんが原因で、責任は全て智ちゃんにある。
それから唯笑は彩ちゃんのお勉強に日夜付き合わされるものだから、大晦日くらいは休ませて欲しいという希望と、智ちゃんへの嫌がらせで寝たふりをしただけ。
……ほら、唯笑なんにも悪くないもん。
デスクトップに映し出される映像に辟易し始め、どうしようかと思案する。
まだ智ちゃんが戻ってくるまで時間はあるはず。なぜなら智ちゃんの性格上、絶対に映像の途中で戻ってくるなんて情けは掛けないから。それならそれで好都合。この際、彩ちゃんにずっと聞きたかったこと、智ちゃんには怖くて聞けない事を尋ねてみよう。
「ねえ彩ちゃん、彩ちゃんは嫌?智ちゃんに好きな人が出来たら」
独り言のような問い掛け。それでも、唯笑の言葉に信君がどこか切なげな視線を向けてくる。
「最近ね、智ちゃん変わったんだよ。ううん、変わりそう……なのかな?いのりちゃんって女の子と一緒にいるようになってね、最初は勉強を適当に教えてただけみたいなんだけど、なんていうか懐かしいなって思える顔をする瞬間があるの」
ちゃんと彩ちゃんに届いているかな、唯笑の情けない告白は。届いていたとして、彩ちゃんはどんな気持ちでいるだろう?
「その顔はね、おんなじなの。彩ちゃんが傍にいる時とおんなじ、これ以上ない程にあったかい顔なんだぁ」
好きじゃないって言いながら、智ちゃんは見ないように見ないようにって、必死にいのりちゃんを見ないようにしている。でも、それって智ちゃんは本当は怖いんだ。自分には踏み込ませないようにしているのに、彼女の中に惹き込まれてしまいそうな自分が。
唯笑には心が揺れてもどかしいと言っているようにしか見えない。
「唯笑はね、正直悔しいんだ。悔しくて悔しくて、智ちゃんの心の一番近くに寄り添えない自分が情けなくて……だけど、だけどね?」
自分には見せてくれない感情をいのりちゃんには見せまいと努力する。そんな智ちゃんの姿に泣きそうで、苦しくて、辛くて……それでも、どうしても苦しいを押しのけて溢れてしまう感情が一つだけある。それが一番悔しい。
「彩ちゃんが隣にいた頃の智ちゃんが帰ってきてくれるかもって、唯笑馬鹿だから期待しちゃうんだよ」
「唯笑ちゃん……」
隣から心配してくれる声。その声に私は笑顔を向ける。もう大丈夫って。唯笑はもうこんな事で泣いていられないから。だって唯笑の気持ちを、智ちゃんの悲しみを、隣にいる唯笑達の大切な家族が軽くしてくれたから。こんな事で泣いちゃったら、もう信君に顔向け出来ないもん。家族だって胸を張れないもん。
「だからね、智ちゃんがいのりちゃんを好きになってくれても良いかなって、本当は泣いちゃいたいくらい嫌だけどね、そう思っちゃうの。彩ちゃんはどうかな?」
聞かなくてもわかってる。彩ちゃんならどう答えるかなんて。だって、彩ちゃんはいつだって智ちゃんと唯笑の手を引いてくれてたんだもんね。
だからきっと――
「唯笑ちゃん、あのさ、言い難いんだけど……」
「ううん、わかってるよ信君」
信君が何を言いたいのかわかってる。唯笑も同じことを考えてたもん。
「多分彩花ちゃん、今の話聞いてないんじゃないか?」
「うん、絶対聞いてないよ」
ごめんね唯笑、あとで聞くからちょっと待っててって、デスクトップから一寸たりとも目を離さないで言っているよね多分。
「タイミング間違えちゃった」
「どう考えてもわざとだよね!?この羞恥心をシリアスで誤魔化そうとしてたでしょ!?」
う~、だってぇ、そうでもしないとこの公開罰ゲームは乗り切れないもん~!
信君の指摘は最もで、なんとなくこの耐え難い雰囲気を誤魔化せるかなぁって。
こんなこと聞かなくても、彩ちゃんは困ったように少しだけ寂しそうに笑った後に、智ちゃんがそれで幸せになれるなら私も幸せだよって言うに決まってるから。
「……無理、かも」
「え、何か言った?」
「ううん、なんでもない」
そんなこと、わかっていたから……だから、本当に聞きたかったことは違うの。さっきの問い掛けに関りがないわけじゃないけれど、関わっているかどうかも唯笑には確信が持てない。
ねえ、彩ちゃん?彩ちゃんは知っているんじゃないかな?ううん、唯笑達のお母さん達以外で彩ちゃんだけが知っているんだよね?
(彩ちゃん、教えて。どうしてあの時、智ちゃんはあんな事をしたのかな?)
彩ちゃんの事を世界中の誰よりも想っていて理解しているはずの智ちゃんが、どうしてあんな事をしてしまったのか、唯笑は今もわかってあげられないの。わかってあげられたら、今頃智ちゃんはもっと先へと進めていたんじゃないかな?誰かを自分の心へと誘う事が出来ていたんじゃないかな?
思い出したくないあの日の最悪。あの日は窓を叩くような冷たく激しい雨が降っていて、そんな雨の中智ちゃんは……
信君にも誰にも絶対に言えないあの日の最悪。智ちゃんに固く口留めされている過去。何があろうと、誰にも……特に信君には言わないでくれって、智ちゃんが震える手で唯笑の肩を抱いたんだもん。
多分、智ちゃんはあの日の智ちゃんを忘れられないままなんだ。だからこそ、唯笑が智ちゃんを救いたいって、唯笑じゃなきゃ駄目なんだってわかってるのに……なにもしてあげられないままで……
誰でもいいの。ほんの少しの取っ掛かりで充分なんだよ。だから誰か教えて。あの日、智ちゃんにあんな行動を取らせてしまった理由を。
何年もずっと唯笑は願い続ける。自分からは開けられない扉の鍵、それを下さいって。
智ちゃんと彩ちゃん唯笑と信君と、四人がいるべき愛しき日々を生きる為に、その鍵がどうしても必要だから……
――お願い、彩ちゃん……智ちゃんを助けてッ――
門の前で十数分待っていると、駐車場のある方向から歩いてくる二人男女の姿。
男性の方は背が高く、しっかりとした体格でピンと背を伸ばして歩いてくる。その姿は昔のままの厳格さを思い起こさせるが、同時にこれまでの年月を思わせもする。昔よりも少し痩せてしまって、白髪も混じっている所為だろう。
女性の方は喪服に身を包み、ゆったりと歩いてくる。昔と変わらないモデルのような体型と柔和な顔。目にしただけで身を委ねてしまいそうな穏やかさに、ほんの少しだけ目頭が熱くなってしまう。
二人が歩んできて、俺もまた二人へと歩み寄る。熱くなる目頭を無理矢理に抑え込みながら。この二人の前で、俺が泣いていいはずがないんだ。俺はこの二人から大切な場所を奪ってしまったんだから。
二人が俺の姿を目にし、男性はほんの少しの瞠目。女性は口元を手で押さえ、少しだけ顔を上に向け……
「智くん!」
柔らかな声を目一杯張り上げながら、俺へと駆け寄り――
「結(ゆい)さん」
そのまま俺を抱き締めた。昔とは身長が全然違う俺を、昔と同じように。今も彩花と同じ、柑橘系の愛しい匂いをその身に纏って。
桧月結さんと桧月宗吾(そうご)さん。彩花の両親で、俺と唯笑の大切な家族。
「大きく、大きくなったのね……少し見ない間に、こんなに……」
「結さん、ちょ、恥ずかしいって」
「私は恥ずかしくなんかないわ。だって、ようやくなんですもの。ようやく私達の大事な息子と再会出来たのよ?」
ああ、本当に勘弁してくれ。今もまだ俺を息子と呼んでくれるなんて、そんなに嬉しい事を言わないでくれ。俺ほどの親不孝者はいないんだから。
懐かしい母の温もりにいつまでも浸ってしまいたくなってしまう。
「智也、本当に大きくなったな」
いつもしかめっ面をしていた宗吾さんが、柔らかな瞳で過ぎてしまった年月を噛み締めるように言った。
「宗吾さん、お久しぶりです」
おじさんとおばさんと呼ぶのは唯笑の両親で、彩花の両親は名前で呼ぶように俺と唯笑はしていた。そうじゃないと一緒にいる時に区別がつかないからと、そう教育されたのだ。
「他人行儀はやめて欲しい。君は私の息子のままなのだからな」
宗吾さんまで俺を息子と、こんな親不孝者を息子と呼んでくれるのか?
「結、抱き締める前に私達にはしなければいけないけじめがあるだろう?」
「ええ、わかっているわ。でも、智くんの元気な姿を見たらいてもたってもいられなくて。ごめんなさいね」
すっと離れる体温。もう少しだけ感じていたかった体温が離れ、二人は俺を真っ直ぐに見据える。
なんだ?けじめって宗吾さんは言った。けじめもなにも、それは俺がしなければいけない事で、二人が何をする必要が?
ほんの少しの嫌な予感と焦燥を感じ、俺は二人に声を掛けようとしたが、それよりも早く二人は俺へと何振り構わずに頭を下げた。俺が下げさせてしまった。
「智也、今の今まで申し訳なかった。いくら私達から会う事は出来なかったとはいえ、何としても君を一人にするべきじゃなかった」
な、にを……何を言っているんだ!俺は何を言わせているんだ!
「宗吾さん止めて下さいッ!俺はそんなつもりで会いたいって言ったわけじゃないんです!」
こんな言葉を言わせてしまった自分が情けなくて、拳を爪が食い込むほどに握り締める。
いつもの俺でいられたなら、馬鹿な事を一つ二つ言ってこうならないように出来たはずなんだ。それなのに、馬鹿ではいられなかった。
彩花の面影が重なる二人の前でだけは、俺は俺を偽れない。偽ることを許せない。
「智くん、お願いよ。どうか私達に謝らせて。許してくれるくれないじゃないの。こうしないと、私達は胸を張って貴方を息子だなんて呼べないから。だから、今だけはこんな最低な我侭を許して」
我侭なんて、そんなことはない。あなた達の息子だと胸を張れないのは俺だ。俺が全部をぶち壊してしまったんじゃないかよ。謝るべきは俺なんだ。俺がこの二人に許しを請うべきなんだ。
「いつも、あなたと鉢合わせにならないように、命日には来ていたの。智くんが会いたいって言ってくれるまではって。そしてね、私達は誓ったの。あなたがどんなに否定しても、再会出来る時には必ず私達はあなたに謝らないといけないって」
「結さん、宗吾さん……やめてくれよッ!俺が悪いんじゃないか!俺が子供だったから、何も知らない最低な子供だったから二人は俺の為に……おれ、が……俺が二人から彩花と過ごしたあの場所を奪ったんじゃないかッ」
もっと人の弱さを知っていれば、自分の弱さに甘えなければこんなことにはならなかった。あの頃の最低な俺は彩花への想いよりも、自分の弱さが勝ってしまった。あってはならない事なんだ。俺は、貴方達の愛娘よりも自分を選んだクズなんだぞ!
知っているはずだ、俺がなんであんな馬鹿な事をしてしまったのか。
知っているはずだ、俺の穢れた瞬間を。
知っているはずだ、俺が彩花を裏切った親不孝者だと。
「謝らなきゃ駄目なのは俺だッ!俺が――!!」
涙を流す権利のない俺を、結さんが今度は絶対に離さないと気持ちを込めて、背伸びをして俺の首を抱く。
俺が泣かないと知っているから、俺の代わりに大粒の涙で頬を濡らしながら。
「すまない。私達は君をこんなにも追い詰めてしまっていた。本来なら、私達が背負うべき罪を君に……まだ、子供の君に背負わせて……すまない。私は卑怯な大人だな。君が私達から居場所を奪ったんじゃない。私が君から素顔を奪ったんだ」
「ごめんね、智くん。こんなに一人にして、ごめんね。唯笑ちゃんにも誰にも打ち明けていないって、智一(ともかず)さんから聞いていたの。それなのに、智くんと会ってしまったら、もっと追い詰めてしまう気がして……弱虫な母親で、ごめんね?独りで闘わせてしまって、ごめんね?」
違うと、声を大にして結さんを引き離し、俺の精一杯の強がりで笑い掛けてあげたかった。だが、それは叶わない。
「――――ッ!!」
今声を出してしまうと、流してはいけない物まで流れ落ちてしまいそうだったから。
「でも、もう大丈夫。私達ももう逃げないわ。今度こそ智くんを独りにしない。ちゃんと母親らしく守ってあげるからね」
「仕事の都合で来年になってしまうが、春にはあの家に戻る予定だ。彩花には遅いと怒られてしまうがな」
声にせず、ただ黙って首を振る事しか出来ない。
そんなことはない。彩花が怒っているのは俺に対してだ。私達のお母さんとお父さんを泣かせて!って。
そんな俺達の両親に、どうしても掛けなければいけない言葉がある。一番に俺が二人に言いたいその言葉――
「おかえりなさい、結さん、宗吾さんッ!それと、馬鹿な息子でごめんなさいッ」
俺のなけなしの強がりでようやく言えた言葉。そんな俺に二人は静かにただいまと、少しだけ震えた声で応えてくれた。
そんな俺達の再会を青空から彩花も……見てるわけないわ。あいつが見てるのなんだかグランプリの総集編だもんよッ!!
あいつの間抜けな顔を思い浮かべてしまい、結さん達との再会がぶち壊される。
もしかすると、俺よりも親不孝者なのは彩花かもしれなかった。
動画の再生が止まり、俺達の足の痺れが治まる頃、見計らったように智也は戻ってきた。気の抜けたような笑顔で手を挙げながら。
「悪い悪い、待たせてしまったようだね諸君」
なんで上から目線だよ、とか。絶対わざとだろ、とか。そう言った言葉を投げつけるべきなのに、俺の喉は極度の緊張で渇きに渇いて、上手く言葉を口に出来ない。
俺の緊張を和らげようと、わざと智也はふざけてくれているのに、親友を名乗る俺はそんな優しさに応えられない。わかっているのに、どうしようもなく俺は弱いままだ。
そんな俺の代わりに唯笑ちゃんが柔らかな目で俺を見た後、智也へと頬を膨らませているのだろう、いつものように拗ねてくれる。そんな唯笑ちゃんに心の中で感謝しながら、俺は先程からずっと足元から視線が動いてくれない。
「智ちゃん、それで結ママと宗吾パパは?」
「ああ、それなら……」
二つの足音が聞こえ、足音が俺達の前で消える。
挨拶をしないと、初めましてって……顔、を上げて……
「久しぶりね、唯笑ちゃん」
「結ママ!」
家族に向ける気を許した声で唯笑ちゃんが結ママと呼んだ人へと歩み寄り、二つの影が一つとなる。
二人の影だけしか、俺には見えない。
「こんなに大きくなって……ごめんね唯笑ちゃん。いつも心配していたの。唯笑ちゃんは昔のように笑えているのかしらって。彩花の代わりになろうと頑張っているのかもしれないって」
「結ママ、そんなことないよ。唯笑、彩ちゃんの代わりになろうとしてみたけど、それじゃあ駄目だってわかったから……ちゃんとわかったの」
「……やっぱり、唯笑ちゃんは強い子ね。三人の中で一番強い子だったものね、唯笑ちゃんは。そんな唯笑ちゃんを私が傍で支えてあげなきゃいけなかったのに……ありがとう唯笑ちゃん。そして、ごめんね?あなたがいてくれたから、こうして智くんにも会えたわ」
唯笑ちゃんの足元が濡れ、徐々に雨のように広がっていく。
あるべき家族の輪がそこにはあるのだろう。やがて唯笑ちゃんだけではなく、もう一つの影からも雨が降り始める。
子供が母親に甘えるような嗚咽。女性へと遠慮なく抱きついて唯笑ちゃんは、誰に憚ることなく泣き始め、そんな愛しい子供を彼女もまた涙と抱擁で受け止める。
沢山の傷があった。彩花ちゃんの代わりを智也の為に務めようとして、自分を殺そうとしてきた事。代わりになろうと足掻く唯笑ちゃんにようやく気付き、その自傷を止めた事。お互いの気持ちを曝け出し、家族へと戻った日々の事。
決して短くはない時間が、その胸の中に蘇っているのだろう。
きっと二人の抱擁は、今この瞬間、世界で一番美しい光景に違いない。
だが、唯笑ちゃんとは対照的に、俺は口を動かすどころか視線すら凍り付いてしまったかのように動かない。動けと一生懸命に叱咤しているのに、動いてはくれない。
だって、俺の目に映るのは足元なんかじゃない。あの日の凄惨がそこに映って仕方ないんだ。
曇天と小雨と紅。フロントガラスが罅割れて、紅がこびり付いた車。アスファルトに打ち付けられ、微動だにしない少女。
命が消える瞬間、命が消えていく恐怖に震える加害者、衝撃と混乱で狼狽え、何一つ救おうともしなかった屑野郎。
腰を抜かして動けない屑野郎の目の前に現れた、彼女の片割れ。そいつの叫びとも鳴き声とも泣き声とも言えない、悲痛に過ぎる声。
……俺に資格なんてない。俺が彼等から奪ってしまった幸福を思えば、会えるわけなんかなかったんだ。
足だけじゃない。全身が震え、心は凍えて、血管を走る血は冷水のよう。
耳の奥に聞こえるのはそこにある家族の声じゃなく、あの日の雨の音だけ。
許されたいと願ったのか?智也に会うべきだと言われて、逃げるのは卑怯だって自分に言い聞かせて……その実、俺は許されたかっただけじゃないのか?
あの日何も出来なかった自分を、しょうがなかったんだと甘えさせたかったんだろ?二人に謝ることが出来たなら、救われるとでも夢を見たんだろ?
卑怯だ。矮小で狭量で醜悪。俺は自分の罪を軽くしたいが為に会おうとしている。そんな気がしてならない。
そうだ、俺なんかがこの家族の輪を乱してはいけない。誰が許そうと、俺だけはそれを許してはいけないだろ?そうだ、俺はまだ――
「逃がすか馬鹿」
俺が立ち去ろうとする前に、何もかもを見通したように智也が俺の腕を捕まえる。
「高校の頃、お前は俺を逃がさなかっただろ。なら、今度は俺がお前を逃がさない」
意地の悪い言葉とは裏腹に、俺の腕を掴む手は優しかった。
その手に捉まれたらもう逃げられない。
「それで智也、私達に会わせたい子とは彼の事かな?」
「はい。こいつは俺達の自慢です。な?」
「うん!」
二人の手がいつの間にか俺の背に添えられ、そっと押し出される。
その手に少しばかりの勇気を灯しているかのように感じた。
前に押しやられた俺はそれでもまだ顔を上げられず、重苦しい沈黙だけが俺に圧し掛かる。
何か言わなければ、とにかく謝罪しないと……
焦燥に駆られ、なんとか口を動かそうとするが動かない。
歯が上手く噛み合わなくて、情けない程に震えている。自分の無様な姿に涙が出そうだった。
そんな腐った俺を――
「信君、こっちを見て」
唯笑ちゃんの穏やかな声が救った。
振り返ると、唯笑ちゃんはピースして笑っていて、智也はだっせぇと同じように笑う。その二人の間に違う気配……そこに俺は幻想を見る。俺の大切を見てしまったんだ。
「お、れは、稲穂信っていいます」
不思議だった。それだけの事で自然と言葉が拙くも流れ出してくれた。
相変わらず視線は上げられないままで、たどたどしい言葉。震える声はそのままに、胸から湧き上がる罪悪を俺は口にしていたんだ。
「あの日、彩花ちゃん……む、娘さんが事故にあったげ、現場に居合わせて、それで、それで……」
――娘さんを見殺しにしてしまった、最低な人間です――
あの日の事を俺は一生忘れる事なんて出来ない。自分の弱さを許せる日なんてこない。自分は貴方達から日常を奪った張本人で、こんなこと言えた義理ではないのですけれど、申し訳ありませんでした。
たったこれだけの言葉を、長い時間をかけてようやく言うことが出来た。言ってしまった。
言葉にすると、軽く聞こえてしまう事に吐き気を覚える。
もっと上手く、もっと真摯に、もっと悲痛に口にするべき言葉が、俺には軽く聞こえて仕方ない。
「俺、なんです……俺が彩花ちゃんを……」
こんな自分が嫌いで、何よりも世界で一番憎んでいる。
「うば、った……貴方達からもッ!智也と唯笑ちゃんからも奪ってしまったんですッ!!」
許されたいんじゃない。責めて欲しい。お前の所為で娘は助からなかったんだと、俺を言葉の刃で斬りつけて欲しい。
この願いが甘えだとしても、そうじゃなければ俺はッ!
「あ、あやま、って、許される事じゃないってわかって、わかってます、けどッ……そ、それでも、あ、あや、謝らせて欲しくて……」
その場に膝をつき、頭を砂利に打ち付けるように頭を下げる。
こうする以外に俺に出来る事なんてないのだから。
「申し訳、ありませんでしたッ!申し訳ありませ、ん――」
何度も、何度も俺は頭を下げ続ける。許されないとわかっていても、この行為に意味がないとしても。
「すみ、ません……ごめ、なさ……」
声にならない声。俺に涙なんか許されないのに、それでも流れ出すそれを留めることが出来ない。なんて、なんて弱いんだ俺はッ!
頭を上げることが出来ない俺に、きっと彩花ちゃんと似ているだろう穏やかで優しい声が掛けられた。
「そうだったの。困った子ね、彩花は。智也君と唯笑ちゃんだけじゃなくて、貴方まで苦しませてしまっていたのね」
違うッ!彩花ちゃんは悪くなんてなくて、俺が貴方達を苦しめてしまったんだッ!
そう言いたいのに、漏れ出るのは情けない嗚咽だけで、言葉になってくれない。
「稲穂さん、でしたね?どうか顔を上げて。彩花も困っているわ」
俺を傷つけるどころか、傷を労わるような声に俺は横に首を振る事しか出来ない。
わかっているんだ。戸惑わせてしまうだけだって。それでも、俺は二人に顔を向けられるような、そんな男じゃ――
膝をついて雨に打たれ続ける馬鹿と、どうにかして傘を差し出さないといけないと、優しい二人は戸惑い続けている。
ずっと黙って見ていたが、もう限界だった。俺も唯笑も。
三年前、こんな光景を俺達は目にしている。初めて信を墓参りへと連れてきたあの日、信は同じように彩花へと何時間も謝り続けた。許されることを望んでいない謝罪に俺達は何もしてやれないまま。
三年前を思い出し、俺と唯笑は頷き合う。
今なんだ。あの日言えなかった言葉、言いたかった言葉を言うのはこの瞬間しかない。
彩花へと謝罪しただけでは信は救われないと、俺も唯笑も知っていた。だから、こいつを救えるのはあの日じゃなかった。
長かった。俺自身が覚悟をするまで、こんなにも長い時間、俺は信を雨の中に置き去りにしてしまっていたんだ。
謝るのは俺だ。お前をこんなにまで苦しませ続けてしまったんだからな。
けどな、ようやくだ。今、ようやくお前の心を救える。俺と唯笑がずっと救わなければと誓ったお前を!
「――――ッ!?智也、唯笑ちゃん!?」
俺の両方の腕を二人は掴み、無理矢理立たせられる。そして……
「ね、最ッ高でしょ!結さん、宗吾さん!」
な、にを?
「結ママ、唯笑ね?信君がいたから智ちゃんと今も家族でいられるんだよ!」
何を言っているんだよ?
「唯笑、彩ちゃんの代わりにならないとって思い込んでたんだ。でもね、信君が背中を押してくれて、智ちゃんを好きって気持ちは彩ちゃんの代わりじゃ届かないって気付かせてくれたの」
そうじゃない。俺は彩花ちゃんが大切にしている君を、自分の罪悪感を軽くする為だけに手助けしただけなんだ。純粋な気持ちなんかじゃないんだ。
「俺もこいつがいなければ、今も彩花を理由にして逃げていた。逃げて逃げて、彩花への想いを歪ませたまま生きて、こうして二人と会う事も出来なかった。こいつが俺をそっと叱ってくれたから今の俺がある」
そんな事はない。俺がいなくても智也はいつか二人と会っていたはずだ。彩花ちゃんから、過去から逃げずに受け止めていただろう。俺の親友は弱くなんてなくて、俺の方がずっと……
「信胸を張れ」
「そうだよ、顔を上げよう」
「俺達はお前と出会ってからずっと」
「信君にず~~~~っと!」
――救われていたんだよ、ありがとう――
「ああ、あ……うああッ――」
雨が降り注ぐ。冷たかった雨が温もりを宿して。
見上げた空の向こうに、雲の切れ間から覗く日差し。
両隣には愛しい俺の大切な笑顔。
「俺、は……俺、俺ぇッ!」
救われていたのは俺だ。二人に甘えていたのは俺だ。二人を理由に贖罪をしようとしていたのは俺だ。
そのはずなのに、止まらない。二人の優しさで降り出した雨が止められない。
「何泣いてんだ馬鹿。ここは笑えよな」
「信くぅんッ!」
「お前まで泣くなよ面倒臭いな!」
まったくと、空を見上げ両手で顔を覆う俺を、智也と唯笑ちゃんが強く包み込んでくれる。
俺の涙と、唯笑ちゃんの涙と、智也の笑顔。
「あらあら、どうしましょうあなた。今日は嬉しい事が沢山ね」
「ああ、そうだな。こんなに嬉しい事はない」
私達に家族が増えていたなんてね、と彩花ちゃんのお母さんが目を細めて言う。それに全く同じ表情で彩花ちゃんのお父さんは頷いた。
これで救われたなんて思ってはいけない。それでも、俺は今日この日を胸の奥深くまで刻み付けよう。
この瞬間が人生で最上の幸福な時間なのだから。
久しぶりの結さんと宗吾さんとの再会に唯笑は喜び甘え、信は緊張したまま、それでも少しずつ表情が柔らかくなっていった。
久しぶりという事もあり、母さんも後に合流して皆で晩御飯を食べに出た。信は遠慮していたが、結さんの強引さと唯笑の能天気さと俺の強制により、無理矢理引き連れて焼肉へ。
おばさん、唯笑の母親は残念ながら仕事が忙しいらしく不参加だった。まだ信と一度も会わせた事はないが、早く会わせてみたい。おばさんと会った信がどんな反応をするのか、想像すると少し笑えてくる。
これで信の心が本当に救われたわけではないだろう。だが、冷たかった雨ではなくなったはずだ。俺と唯笑に出来ることは、情けないがこんな些細な事だけでしかない。それでも、今後信がもう俯く事はないだろう。自分の為の人生を踏み出していけるはずだ。その姿が見られたなら、俺も少しは救われる。
三年前に言えなかった言葉、俺と唯笑の心にずっとあった気持ち。この気持ちがどうか信の心とずっと共にあってくれたならと、心の片隅で願う。
――数日後
本格的な冬に向かって、木々から葉が一枚もなくなろうとする季節。
空は高く青く、空気は冷たく澄んでいて、寒さで悴む指先。
白い息が空気に溶けて、その様を目で追う。
静寂の中、砂利の鳴る音に目を向ける。
スーツ姿でヒールを履き慣れた出で立ちは、大人の女性そのもの。髪を染めてもおらず、綺麗に後ろで整えられた髪。
あの頃、俺は彼女をまともに見ることが出来なかった。なぜなら、彼女は俺の罪の象徴そのものだったのだから。
音の主が歩みを止め、俺へゆっくりと真っ直ぐに視線を向けてくる。
あの日とは違う、温度のある瞳で。
「お久しぶりです――――さん」
「本当に久しぶりね、三上智也君」
さあ、始めよう。偽物を退場させる為の、誰の為でもない。俺の為だけの些末な物語を。
ここまで読んで頂きありがとうございます。
今回の話は絶対に必要な話でした。信がこの先、彩花を理由に智也といる事がないよう、彼の心の荷を少しでも軽くするために。
初出なのは、彩花の両親ですね。原作で彩花の両親はなぜあの家を離れてしまったのか、その理由はまったく語られていませんし、彼女の両親についてあまり掘り下げられてもいません。なので、ここからは完全オリジナルで、こういう理由なのではという物語を描いていきます。
ちなみに、彩花の命日ですが、これも少し弄っています。
申し訳ないとは思ったのですが、原作通りですと彩花の命日は12月となっております。ですが、彩花が亡くなったのは修学旅行の前であり、尚且つ中学三年生だったということを考えると、12月に修学旅行をする学校は少数ではないか?という疑問があります。
受験が待ち受けている冬に修学旅行をすることはあまりないのでは、と。
もう一つは、彩花が亡くなった後智也は抜け殻状態でしばらく過ごしていたはずです。そんな状態から抜け出して、澄空への受験勉強をする……期間的に厳しい気がします。勉強が苦手な智也が、短い時間で果たして合格出来るのか疑問です。
以上の点を踏まえ、この話では11月頃とお考え頂ければと思います。
勝手な変更にお怒りになる方もいらっしゃるでしょうが、申し訳ありません。
どうかご容赦下さいませ。