願い雨   作:夜泣マクーラ

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彼の水底、彼女達の水面

 これはどこにでもある小さな家族のなんでもない話。共働きの両親と、両親の代わりに妹の面倒を見る優しい兄と、自分を守ってくれる優しい兄が大好きな妹の、そんなどこにでもあるお話。

 裕福とは言えないその家族は小さなアパートに四人で暮らしていました。両親は子供の為に夜遅くまで働き、兄は両親の代わりに高校に上がるまでは家事と妹の面倒を見ていました。

 六つ下の妹はとてもお転婆で、同級生の男の子と混じって遊んでは服を破いてしまい、それをいつも兄が繕って窘める。窘めているのに、妹は何が嬉しいのかいつも笑って兄に抱き着きます。そんな妹に仕方ないなぁと苦笑して、妹が寝付くまで一緒に遊んであげます。

 妹が寝付いた後、兄は宿題と予習の為、遅くまで机へと向かいます。せめて自分に苦労を掛けさせないようにと、特別推薦枠を狙うために彼は部活や友達との遊びにも目もくれず、小さな妹の面倒と勉強を優先させたのです。

 妹が中学生になる頃、兄は大学に行かずに税理士試験を受けて合格し、税理士として働くことになりました。同級生のほとんどが大学に行く中、彼は就職を希望したのです。自分はお兄ちゃんだから、妹に同じ苦労を掛けたくないと、生活の為に進学を諦めました。そんな兄に妹は言いました。余計なことしないで、大学に行けばいいじゃないと。兄は妹の言葉に目を丸くし、大声で笑い転げました。兄がどうして笑っているのかわからない妹は、馬鹿にされていると思い憤慨します。しかし兄は妹の頭へと手を伸ばし、優しく労わるように言います。僕は君が幸せになれるようにしたいから、だから就職するのだと。それが自分のやりたい事なのだと。その言葉に妹は背を向けて応えます。溢れ出てしまいそうなものを見せたくなくて、下手くそな照れ隠しをしたのです。

 妹が高校に上がると、兄は年頃なのだからと服を買ってくれるようになりました。自分は古い服ばかり着ているのに、そんなことも構わずに妹の服を買います。もう何を言っても無駄なのだと、兄は自分をどうしたって優先してしまう馬鹿な人なのだと、妹は諦めて苦笑してしまいました。

 そうしていくつかの季節が過ぎた頃、家族にある事件が起こりました。なんと心優しい兄に恋人が出来たのです。兄が両親に紹介したい人がいると連れてきて、初めて妹も兄に恋人がいる事に気が付きました。同僚だという女性はビシッと格好良くスーツを着こなす綺麗な人で、不覚にも妹は溜息をしてしまいました。それと同時に悔しくもありました。兄の特別は自分だと自負があったのに、兄にとってはそうじゃなかったのかと悔しくて悔しくて、妹は女性を認められませんでした。結婚を考えているという兄の言葉に、両親よりも妹が反対の言葉を真っ先に口にするくらい妹はショックでした。喜んでくれると思っていた妹に反対され、兄は困ったように頬を掻いて苦笑します。絶対に認めるものかと、妹は頑なに反対し続けました。

 そうして何か月かすると、女性の姿が見えなくなりました。妹はやったと心の中で喜び、これまで以上に兄に甘えるようになりました。頑張って手料理を振舞ったり、兄と休日映画を観に行ったり、兄を独り占め出来ることが嬉しくて仕方ありませんでした。このまま兄とずっと暮らしていきたいと妹は願いました。ですが、ある日の夜中に兄が携帯電話で小声で話している場面を覗いてしまいました。電話の相手は誰かなんて聞かなくてもわかります。きっとあの女性はまだ諦めていないんだ、しつこいなぁと妹はほくそ笑みます……電話を切った後の兄の言葉を聞くまでは。愛おしさでいっぱいのごめんの言葉を聞くまでは。

 妹は馬鹿でした。兄は妹の幸せな未来の為にあらゆるものを犠牲にしてきたのに、自分は子供っぽい独占欲で兄の幸せを願えもしないのだと、その時になって妹は気付いたのでした。兄の笑顔が好きなのに、兄の笑顔を曇らせているのは自分だと。自分の愚かさに涙し、後悔ばかりが胸に押し寄せます。そうして一晩中泣き続けたあくる日の朝、出勤前の兄に妹は一言呟いたのです。あの人、また連れてきて……と。

 そうして、兄と女性は婚約へと至ったのです。妹が大好きな兄が、兄が大好きな妹が、お互いの幸福を願い合えて得られた幸せ。妹は兄の恋人とも家族のように仲が良くなり、そんな二人を兄は何よりも嬉しそうに見守りました。

 これはそんな有り触れた家族のお話。たったそれだけの、なんでもないお話。

 雨が降り始めるまでの、小さな小さな幸せのお話……

 

 

 

 

 

 ここ最近、俺は妙な違和感に捕らわれている。それは小さな違和感だが、最近はその違和感が顕著に表れ始めている。

 例えば陵が勉強をしている間暇で、なんとはなしにテレビを点けた時の事、東京で通り魔による殺人未遂事件があったというニュースが丁度やっていた。都会はいろんな奴がいて物騒だなぁと感想を抱いていると、陵が瞬時に足を器用に使ってチャンネルを変えた。ていうか人の家のチャンネルを足で扱うなよ。

「お前な、人が世情を知ろうと真面目に観ている時に何してくれちゃってんの?」

「いえ、三上さんにはニュースなんて高尚な物よりも、俗物的な番組がお似合いです」

「喧嘩売ってんのかテメェは」

「そ、そうだよなぁ!あんたにニュースなんて似合わない!うんうん!」

「ほお、ならこれなら似合うと?」

「ああそうさ!あんたはそういった下らない番組を観ているのが「〇ロフェッショナルなんだけどな」……いのり、こういう時の対処法の手本を見せてくれ」

「下品な三上さんはそういう真摯に何かに打ち込む人達を観て勉強した方が身の為なんです。いわば私達の思いやりなんです。どうぞ受け取って下さい」

「すげぇ重い槍を刺しにきてんじゃねぇよ!」

 みたいなことがあったり、今日に至っては唯笑が魚を触れないというので、仕方なく俺が捌くことになったわけだが、包丁を手に持った瞬間、俺の手の中にあった包丁がいつの間にかにんねこにすり替わっていた。いやな、だから微妙にミスっているんだよなぁ。キッチンに猫ってあかんやん。

「ど、どうっすか?俺最近イリュージョニストになろうかなぁって練習してるんすよ」

「……にんねこ、殺ってしまえ」

 小僧ににんねこを投げると、落ちるまいと必死に小僧にしがみ付く。鋭く尖った爪を懸命に突き立てながら。

「ぎゃーーーーーー!!包丁よりも凶器度たけぇッ!!!!」

 というように、違和感が充満している。まったく意図がわからんところが苛立つ。ネタの振り方が雑過ぎだろ。

 こいつ等のコントが発症したのも問題だが、もう一人頭が狂った人がいる。まあ、あの人は元から狂っているけどな。主に見各方面が。

 俺がしこたま酒を呑んで酔い潰れ、記憶が飛んでしまった日がある。ちょいと自分自身の脆弱さに嫌気が差し、アルコールに頼って忘れようとしたのだが、自分のキャパを超える量を呑んでしまった俺は、その後の記憶がないまま朝を迎えたのだが、なぜかは覚えていないが、酔い潰れた俺が目を覚ましたのは『ならずや』でだった。

 ガンガン痛む頭に呻きながら起きると、コーヒーを黙って優しく置いてくれる人がいた。静流さんだ。静流さんは何を聞くでもなく、酔い潰れるほど呑むなんて珍しいねと、笑いながら語り掛けてくれた。正直、理由を聞かれても答えられなかっただろう俺には、その気遣いが嬉しく感じられたんだ。

 でだ、問題は数日後の事だ。大学に行く直前の俺の携帯に自称ビューリホーOLからラインが入っていたのだ。曰く、『シズル、キケン、キヲツケルヨロシ』と。誰だよあんた。

 小夜美さんが何を言いたいのかは皆目見当がつかない俺は、小夜美さんに『あなたは脳内が危険だから気を付けたほうがいい』と返した。

 というように、俺の周りの三人が突如としてポンコツになるという異常事態が起きてしまっている。キャトルミューティレーションでもされたか?

 てなことを陵達が帰った後、唯笑と話していると、唯笑はそれは違うよ智ちゃんと、海外コメディを観ながら呟いた。

「おかしいのは三人じゃない、五人だよ」

「お前がおかしいのは元からだから勘定に入ってないんだよ」

「智ちゃん、信君が最近来ないよね?どうして?」

 俺の軽口には取り合わず、テレビに視線を向けたまま唯笑は核心を突いてくる。

 そう、だよな。唯笑が気付かないわけがない。信が一週間以上現れないのは異常なんだ。旅に出ているのならまだしも、帰ってきているのに俺の近くにいないなんて不自然なのに。

 適当に誤魔化そうとも思ったが、さすがに不謹慎だなと思い直し、正直に唯笑に告白することにする。

「ちょっと喧嘩しちまってな……しばらくは信は来ないかもしれない」

 あえて俺は信を傷つける言葉で刺したんだ。信だって俺がわざと突き放した事には気付いているはずだ。だから、信は……

「喧嘩、なんだよね?」

「ああ、俺が一方的にあいつを傷つけたんだ」

 俺の言葉に唯笑は更に追及してくるのではと身構えた……が、唯笑はそっかぁ~と笑うだけだった。

「なんだ、怒らないのか?」

「どうして?だって喧嘩なんだよね?」

 喧嘩と言っても俺が一方的に悪いのだ。唯笑にもそれは伝わったはずなのに、それでも唯笑は笑うだけ。

「智ちゃんと信君は親友で家族だもん。だから喧嘩だってして当たり前なんだよ。それに、信君は智ちゃんと喧嘩したくらいで来なくなるような、そんな軽い親友じゃないもん。きっと信君は智ちゃんの気持ちがわかっちゃったから会いづらいだけなんだよ」

 なんてこった、まさか唯笑の言葉に安心してしまうなんて。もしかしたら信とは年単位で会えなくなるかもしれないと、少しだけ不安だった。俺が言った言葉は、信の求める未来を完全に否定するものだったはずだから。

「怖いやつだなぁ、そこまであいつの事見抜いてるのかよ」

「そりゃあ、智ちゃんが信君を知っているのと同じくらいはね。でもね……」

 不意に唯笑はテレビを消し、俺の目の奥……心を見透かしそうな真っ直ぐな瞳を向けてくる。

「私はこう言ったんだよ?おかしいのは五人だって」

 唯笑が自分の事を私と言う。俺や彩花や信、家族に甘えてはいけないと自分を叱咤し、一人の人間として誰かと向き合う時の唯笑がそこにいた。

 知っていた、唯笑が俺達の前で以外は自分を私という事。家族としてではない、一人の人間として大人になる、現実に立ち向かう決意の証がそれだという事に。

「確かに皆おかしいよね。でもね、一番おかしいのは智ちゃんだよ」

 揺るがない意思を瞳に宿し、唯笑は俺が逃げる事を許そうとしない。

「おかしいって、お前失礼な――」

「彩ちゃんを失ってからじゃない、智ちゃんはあの時からずっと」

「唯笑ッ!!!!」

 その先を言わせてはいけないと脳よりも先に心が警鐘を鳴らした。

 信には絶対に知られてはいけない過去、唯笑がなりふり構わず見ない振りをしてきた最悪。

 言わせない探らせない……お前達には絶対背負わせない。俺の最優先事項。

 俺の怒声はしかし、今の唯笑には抑止力にもならなかった。なぜなら、唯笑は今俺の家族として話していないのだから。

「時間が解決してくれるならって、私はずっと甘えてた……でも、それじゃあ駄目だったんだよね?」

「止めろよ、唯笑……それ以上は……」

「智ちゃんはあえて信君を突き放したんだよね?その理由は何?」

「頼むから、もう」

「もしかして智ちゃん、今度は私の事も自分から――」

「止めろって言ってんだろッ!!!!」

 ソファーから立ち上がり、話は終わりだと無理矢理に会話を終了させる。これ以上続けてしまえば唯笑は辿り着いてしまうと、嫌な汗が背筋を伝ってしまった。

「そんなわけねぇだろッ!!お前は彩花と俺の家族だろうが!それなのに俺がお前を突き放すなんてあるわけねぇだろッ!!」

「家族だから、じゃないのかな?」

 俺の激情を唯笑は涼しい顔で受け止め、それでも真実を追求しようと手を緩めてはくれない。いつの間にこんなに強くなった?俺と彩花よりもずっと強くなるなんて、そんなこと考えてもいなかった。

「私は知ってるよ。智ちゃんが彩ちゃんの命日のあと、いつも……」

 心臓が唯笑の柔らかな手のひらに掴まれる。気付いていないと、唯笑なら見逃してくれると期待していた。勝手に俺は唯笑の知らない振りをしてくれる優しさに甘えていたんだ。何年もずっと、唯笑は俺を甘えさせてくれていたのだと、初めて俺は知った。

「何があったのかは詳しくは知らないよ?でも、智ちゃんは関係しているんじゃないのかな?だからあの時智ちゃんは――」

「唯笑、お願いだ。もう黙れ」

「智ちゃん……」

 そっか、まさか唯笑が気付いていたなんてな。しかも、信を突き放した事がどういうことなのかまで見透かしていやがる。彩花、お前は知っていたか?俺達の自慢の家族はこんなに……

「多分正解だよ、お前の想像していること」

 こんなにも強くて最高の女になっちまった。

「寝るわ。おやすみ」

 リビングを出ると、背中からは押し殺そうとして失敗してしまった嗚咽が追いかけてくるが、歯を食いしばりそれを振り払う。唯笑が気付いていようが構わない。お前が追いかけてくることがないよう、俺は心に鍵を掛けてやる。これはお前には関係がない、俺だけの大切な罪なのだから。

 

 

 

 智ちゃんが去った部屋で、一人嗚咽する。

 気付かない振りをずっとしてきた。そんなわけないって、智ちゃんが関係しているはずがないって。でも、信君を突き放そうとしている事を知って、それが何を意味しているのか嫌でも悟ってしまう。

 何があの時あったのかはわからないし、確証もない。智ちゃんに問い質したところで絶対に話してくれない。

 それでも、もし唯笑の想像が間違っていないとしたら……

「ダメ、だよぉ……このままじゃ智ちゃん、独り、だよ?」

 一人じゃ抱えきれないソレを、智ちゃんはこれまでずっと一人で抱え続けて、それに気付かせないように隠して生きてたんだ。

 窓を打ち付ける暴雨、智ちゃんの中に降るのは雨ではない。断罪の雨の中に智ちゃんはずっといたんだ。どうしようもなく繋がっちゃう、繋がってしまう三つの最悪。

「どうすればいいのかなぁ?どうすれば唯笑も智ちゃんと抱えてあげられるのかなぁ?」

 きっと唯笑一人じゃそれは出来ない。智ちゃんはそれを許してくれない。でも、唯笑と信君の二人ならきっと……

「ううん、それは唯笑には出来ないよ」

 智ちゃんが抱えさせたくない相手は信君と唯笑だもん。だから、どんなに追及しても智ちゃんは真実を語ってはくれない。信君と唯笑には……そう、私達二人には話してはくれない。なら、私達以外の誰かが語らざるを得ない状況に出来たら?例えば信君が……なんて、それは希望的観測過ぎる。世界はそんなに自分達に優しく回ってくれないって知っているもん。

「そ、うだ……お母さんなら」

 お母さん達なら知らないはずがない……けど、残念なことに唯笑達の両親は口を割らないと思う。これまで一度も口にしたことがないのがその証拠だよね。

「どうしよう、どうしよぉ……もう、わかんないよ彩ちゃん……」

 今はいない家族に救いを求めてしまう。唯一智ちゃんが甘えられて、唯笑を叱ってくれる愛おしい家族に。

「唯笑じゃ、もうどうしようもないの……もう、彩ちゃんしか……」

 結局唯笑は強くなんてなれない。一人称を変えて気張ってみても、二人の背中を追いかけていた頃の唯笑と何も変わらないまま……智ちゃん一人助けてあげられない子供のままなんだ。

 

 

 

 仕事が終わって重い体を無理矢理引き摺って家路につく。いくら好きな仕事だとはいえ、仕事が終わったあとの倦怠感はみんな同じらしい。帰り道で見た会社帰りの人達の疲れ切った顔は、今の私と寸分も変わらないはず。

 私が今暮らしているマンションに辿り着き、部屋の扉の横に備えつけられているスキャナーにカードを通すと、鍵の開いた微かな音がした。

 そうしてようやく息がつける。ブーツを脱いでシャツを洗濯機の中へ放り、ストッキングを脱いでソファーに座る。ストッキングを脱いだ時の解放感は、働く大人にしかわからない気持ち良さがある。

 そうだと、キッチンからワインとグラスを用意して、おつまみのチーズをリビングのテーブルに広げる。大人になってからの一番の至福の時が、このささやかな贅沢。

 レンタルショップから借りていたDVDを流しながら、ワインとチーズをちびちび。

 本当はこんなに立派なマンションじゃなくて、どこにでもあるアパートに住んでも良かったのだけれど、最近は物騒だからと両親に強く勧められて今の部屋に住んでいる。小夜美に言わせれば、物騒なのは静流よねぇ~とのこと。まったく、失礼な親友よね。ほんのちょっと低空ドロップキックや延髄蹴りをするだけじゃないの。

 そうしてぼ~っとしてから、お化粧を落としてシャワーを浴びないとと、ゆっくり動き始める。

 お化粧を落としてお風呂へ。スカートを脱いで下着を洗濯籠へと放り投げると、昨夜からそのままにしている、ぐしゃぐしゃになって変な折り目がついてしまったシャツが目についた。ついてしまった。

「……ああああああああぁぁぁぁ」

 そのシャツの記憶に頭を抱えて蹲ってしまう。

 ここがベッドの上だったなら、七転八倒なんて可愛く思えるほどに転げまわっていただろう。それほどに、そのシャツの記憶は鮮烈に衝撃的で、背徳の記憶を呼び起こしてしまう代物だった。

「何をしたかわかってるの静流?あんな、あんなこと……」

 甘美な背徳が背筋を伝って全身を発火させているかのように、思い出すだけで熱くなる身体。

「なんてことをしてしまったのぉ~~~~ッ!!!!」

 小夜美の卑怯者と叫ぶ声が聞こえるようで、私は耳を塞ぎたい気持ちになる。

「そうよね、卑怯よね、うん」

 でも、自分でもどうしようもなかったんだもの。抑えられなかったんだもの。あの衝動を抑えられるのなら、私は恋愛なんて一生しない自信がある。それほどにどうしようもない衝動が私を突き動かした。

「……健君にも感じた事なかったのに、こんな気持ち」

 

 

 

『逃げたのどうだのは知らないけど、静流さんは逃げた事を後悔しているし、自分を最低だって思ってるんだよね?』

 

 

 

 健君と二人でいられたあの公園で、帰ってきた私と智也君は二度目の再会をした。

 

 

 

『でもさ、逃げるのって最低な事じゃないでしょ。だって、逃げた先で静流さんはちゃんと手に入れてるじゃん』

 

 

 

 最初は小夜美が可愛がっている生意気な男の子、そんな印象だった。

 

 

 

『パティシエって、この先も生きていく為の静流さんの武器じゃん。逃げただけじゃない、逃げた事を後悔するのもわかるよ、でもさ、それって誇れる事じゃん』

 

 

 

 二度目は、吹っ切れないまま帰ってきた私を肯定してくれる、よくわからない男の子だった。

 

 

 

『まあ、何から逃げたのかは知らないけれど、こんな小僧が何言ってんだって思うかもしれないけど……それでも、静流さんは胸を張るべきだよ』

 

 

 

 よくわからない、素敵で最強の笑顔を持つ一人の男性だった。

 

 

 

『逃げて何が悪いって開き直ればいいのに。俺は、逃げて武器を手に入れた静流さんをかっけぇって思うけどな』

 

 

 

 卑怯、か……卑怯なのは智也君じゃないの。そりゃあ、小夜美のが先に智也君と出会ったわけだけれど、よくよく考えれば私は智也君の先輩だし、そういう意味では対等な気がしないでもない。うん、私悪くない。

「いやいや、悪いでしょ私。どう考えても悪いわよ」

 でも、昨夜の智也君はとても放っておける状態じゃなかった。

 お店を閉めて、これから帰ろうとすると、街灯の下に見知った影を見つけた。それは一目見ただけでわかるほどに、異常だった智也君だった。

 顔が真っ赤でお酒に溺れて、まともに歩けない状態だっただけじゃない。智也君は覚えてさえいないだろうけれどあの時智也君は……

 

 

 

「智也君?こんな時間に一人でどうしたの?」

「あ~、静流さぁ~ん。はは、静流さんがいるぅ~!おい信!静流さんだぞぉ~!」

「ちょ、智也君、もう夜中だから静かにしないと」

 誰もいない路地に呼びかけ、自分が今何をしているのかさえわかっていない。智也君とは小夜美と何度か飲みに行ったことがあるけれど、無茶苦茶な性格のわりにきちんと自分の限界を超えない飲み方をしていた。だから、初めてこんなにも泥酔した智也君を見て、どこか嫌な予感が胸を過った。

 何か智也君をお酒に逃げさせる出来事が起きたんじゃないかって。

 ふらふらと智也君は近づいてきて、途中何もない道で躓いて転びそうになり、慌てて私は智也君を支えに入る。

 運動をしているわけでもないのに、逞しさを感じさせる体つきに少しだけ鼓動が騒がしくなってしまう。

「と、智也君?」

 私に倒れ込んだまま、それっきり智也君は動こうとしない。それどころか、私のシャツをぎゅっと怯えるように掴んで離そうとしなかった。

「ねえ、どうしたの智也君?何があったの?」

 私の声が聞こえているのか定かじゃないけれど、智也君は私の問いに答えずに黙したまま。

 どうしたものかしらと、智也君の背に手を回しながら考えていると、微かにシャツから震えが伝わってきて、それが徐々に強くなっていく。そうして、私はそれ以上考えることが出来なくなってしまった。

 だって、智也君が……いつも誰よりも笑っていて、弱さとは対極にいるはずの彼が……

「う、ああ……ああッ……俺、ちが……許されて、でも許して欲しくなんて……最低、な……俺、さい、ていで……」

 感情を剥き出しにして、口から、眼から、自分を責め立てるあらゆるものを流していたから。

「ごめ、なさ……あや、か、俺……おれぇ――ッ!!!!」

 私の身が引き裂かれそうな声。その声が私を制御不能にしてしまった。

 人通りの少ない真夜中の住宅街の路地で、私は智也君を言い訳が出来ないほどに強く抱き締めた。抱き締めてしまった。

 逃げて何が悪い。彼の言葉が、あの日の景色が浮かんでくる。

 そっか、智也君は逃げたいんだ。今だけは逃げていたいんだ。

「智也君、大丈夫、大丈夫よ」

 このまま逃げなければ、智也君はきっと壊れてしまうに違いない。壊れるほどに追い詰められているのね。

 唯笑ちゃんや信君のように、私は智也君の過去を知らないし、彼の過酷を覗けもしない。だからこれは偶然以外の何物でもない。偶然壊れてしまいそうな智也君がここにいて、壊れそうな智也君を偶然私が受け止めた。それだけのことで、それ以上の何物でもない。それでも、今なのね。今智也君を逃げさせてあげられるのは私だけなんだ。

 嗚咽の止まらない智也君の頭を何度も何度も撫でる。せめて少しでも苦しむ心が救われてくれるようにと願いながら。

「あやかぁ、なんで、なんでいなくなっちまったんだよ……お前がいてくれたら、いてくれるだけで……」

 どれくらいの時間智也君を抱き締めていただろう、智也君は何度もあやか、あやかと繰り返し、嗚咽が止まる頃には意識を手放していた。

 泣き疲れて眠ってしまった智也君をそのままにすることなんて出来るわけもなく、私は店内へと智也君を運んだ。

 店内はすっかり冷え込んでいたため、急いで暖房をつけて智也君を椅子を並べてそこに横たわらせる。

「あやか……?」

 繰り返された名前が頭の中に引っかかる。

「あやか、あやか……あや、か?」

 どこかで聞いたことがある名前を思い出そうと、記憶を無理矢理掘り起こしてみる。私の知り合いにあやかという名前の女性は思い当たらない。でも、確かにどこかで聞いたことがある名前。そう、確か母が昔……

 

 

『この近くじゃないの。可哀想ね、まだ若いのに交通事故だなんて』

 

 

「――――ッ!!??」

 思い、出した……当時、朝の地元のニュースで騒がれた事故。その被害者の名前が確か彩花、桧月彩花って女の子だった。

「それに智也君は確か彼女と同じ……」

 藍ヶ丘第二中学校出身。事故にあった子とも同い年のはず。

「偶然、じゃないわよね」

 繋がる過去の記憶と、二人の関係性。頑なに女性を一定の距離から近づけない、その理由。唯笑ちゃんと信君だけが持つ、智也君との特別な繋がりの理由。

「そういう事、なの?」

 切ない程に愛おし気に呼ぶ名前、その答えは……

「そっか、そうよね。智也君、あなたはだから私に言ってくれたのね」

 逃げて何が悪いって、逃げない貴方の言葉の重さがようやく理解出来た。

「馬鹿ね、ほんと……馬鹿なんだから、智也君は……」

 どうして彼を好きにならずにいられるのだろう。彼を深く知ってしまえばしまうほどに、どんどん深みに嵌っていく。

 優しくて温かくてお人好しで、自分の傷なんてなんでもないみたいに笑って……なんでもないわけないじゃない。逃げなきゃいけないのは貴方じゃないの。それなのに私を肯定してくれたの?逃げない貴方が私を?

「強がりで意地っ張りにもほどがあるわ」

 誰にも甘えようとしないくせに、自分は皆を甘えさせて、抱える荷物を軽くしてあげてばかり。何よそれ……じゃあ、誰が……

「誰が貴方を甘えさせてあげられるの?」

 彼が心から求める彩花さんはもうこの世にはいないのよ?なら、貴方は今まで誰にも甘えようとしないで、寄り掛かる事を許さないままずっと……ずっと……

 静かな寝息を立て、腫れた目を閉じて泣き疲れて眠る彼は子供のよう。あどけないその寝顔に吸い寄せられるように私は……

 重なる唇、アルコールの匂いと少しの背徳。

 澄んだ冬の夜空に星が瞬く日、私は自覚してしまった。この気持ちから目を背けるなんて、もう出来ないのだと。

 

 

 昨夜の事を思い出し、私なんてことを~~~~~~と、洗濯機に身体を預けて身悶える。そんな私は、昨夜智也君と過ごした事を小夜美に懺悔したのだった。

 

 

 

 どうしたら良いのかわからないまま、家庭教師の日がやってきて、私は三上家へと足を運んだ。

 最近は三上さんと二人きりという状況はなく、いつも稲穂さんや今坂さんが必ず一緒だった。まるで、私と二人になるのを避けているかのようだったけれど、正直それは私にとってとても都合の良い環境だった。

 三上さんへの気持ちを焼き尽くそうとしているのに、今二人になってしまったら何を話して良いかわからないから。

 誰かがいてくれれば、ふざけた会話だけをしていれば良いんだもん。それが私には救いでもあった。でも、その日は違った。

 三上さんの家には誰もいなくて、いつものように能天気な笑顔を張り付けた三上さんだけがそこにいた。

 誰かがいると期待していた私は、少しだけその事実に動揺してしまったけれど、それを表に出してしまわないように、なるべく平静を装って参考書と睨めっこ。三上さんは久しぶりの二人きりとは思えないほどに普通で、人が勉強しているというのに大音量で映画を観ていた。

 あまりに普通過ぎて、あの日見た三上さんが夢だったんじゃないかと疑ってしまう。

 あの日から、私と一蹴はどうすればいいかを考え続けて、結局答えは出ないまま。

 稲穂さんや今坂さんに伝えたとして、それが三上さんを傷つけてしまわないかという危惧があり、二人には絶対に話せない。でも、三上さん自身に何があったのか尋ねるのも気が引けて、その所為で最近私と一蹴はちょっと神経が過敏になってしまっていた。

 横目で三上さんの能天気な顔を覗き見る。

 本当にあれは三上さんだったのかな?というかそもそもそこまでの問題なのかな?勝手に私達が重く捉えてしまっているだけで、実は大したことない話なんじゃ?あり得る。何をするか解析不能な三上さんなら、その可能性は十分にあり得る。

 もやもやを抱えたままの、気持ちの悪さが嫌になる。

 そうだよ、稲穂さん達に聞けないなら本人に聞いてしまえばいいじゃない。そうしたら、案外大したことのない話で、私も一蹴ももやもやを解消出来るもの。

 いつものように聞けば三上さんだって……例え触れてはいけない事だったとしても、三上さんなら笑って誤魔化してくれる。試しに聞いてみる位は……

 私は浅はかな自分を、後に殺してしまいたくなるような後悔に襲われることになるなんて考えもしていなかった。だって、三上さんはどんなことも許してくれたんだもの。リナちゃんとの事も、三上さんは私達の為に許してくれたんだもの。だから私は考えもしなかった。

「三上さん、そういえばこの間……」

 私達を支えてくれた大きな背中が消えてしまうなんて事になるなんて。

「ファミーユで一緒にいた人は誰なんですか?」

 いつものように、なんでもない会話を装い問い掛けた言葉。その瞬間――

「お前、あそこにいたのか?」

 三上さんの表情が、私の知らない何かへと変わった。

「あ、え……あの……」

 三上さんは笑顔を浮かべる。感情を感じさせない、能面のような薄ら寒い笑顔を。

「そっかぁ、お前あそこにいたのかぁ~。いやぁ、参ったなぁ。で、どこまで話を聞いていたんだ?」

 ゆらりと、一つも動かない表情のまま私へと近づいてくる。知らず私は後ずさっていた。

「おいおい、逃げるなよ。別に俺はなにもしちゃいないだろ?ただ聞いているだけだぞ。どこまでお前は聞いていたんだ?」

 柔らかい言葉と声。それなのに、どこにも逃げられない強制力のある言葉。

「そ、の……わ、私、偶然、で……それで、三上さんが……」

「俺が?」

 だ、れ?今私は誰と話しているの?

 知らない。こんな人、私知らないッ!!

「殺した、人、殺しだって……」

 絞り出しながらの言葉に、その人はうんうんと頷き、そっかそっかぁと事も無げに言う。能面の笑顔のままに。

「で、そこには鷺沢もいたわけだよなぁ~?」

 咄嗟にいませんでしたと言おうとしたけれど、彼の視線に身体が竦んで言葉が出る事はなかった。

「だよなぁ。あそこに一人ってのもおかしいもんなぁ?仲が良いようで俺は嬉しいぞ陵~」

 上機嫌に歌うように紡がれていく言葉が、私の心臓をねっとりと撫でていく。

「けど、いけない。いけないなぁ~陵。盗み聞きなんて品がないなぁ」

 大音量で流れる映画。暖房の効いた温かい部屋。そのはずなのに、音も温度も今は消えてしまっている。得体の知れない寒さに体どころか心までもが凍えてしまう。

「参るよなぁ~。信は諦めてくれねぇし、唯笑は何かしら気付いてそうだし、ほんと最近俺困っててさぁ~。そんな時にお前だろ?いや、完璧に油断してたわ。お前がまさかあそこにいるだなんて、予想出来ねぇもんなぁ。いやぁ、偶然って怖いわ~」

 心底おかしそうにあははと笑う誰かは、髪を搔き上げながら笑い続ける。温度のない瞳を湛えながら。

「でさぁ、ちょっとばかしお前にお願いがあるんだわ。俺にしては珍しく頭下げてもいいって言えるお願いなんだが、聞いてくれるか?」

「お、ねがい?」

「そう、お願いだ。お前が見た事、聞いた事は絶対に信と唯笑はもちろん、誰にも口外しないで欲しいんだが……どうだ?」

 感情が消えた能面と瞳に、どうしようもなく震えてしまう。喉が震えて上手く言葉にならない。

「い、言ったら、どう、しますか?」

 私のせめてもの抵抗の言葉に、更に口角を釣り上げてその人は首を傾げた。

「どうもなにも、なんにもしないぞ」

「なに、も?」

「そう、何もしない。今後一切、俺はお前に何もしない」

 なんにもしない……その意味するところはつまり……

「当たり前だろう?誠心誠意の俺のお願いを裏切るなら、それはもう赤の他人じゃないか」

「――た、にん?」

 これまでの三上さんと積み上げてきた、決して軽くない時間。それをこの人は何でもない事のように捨てるだけだと、私を記憶から消すと言っている。

 なんて傲慢。目の前の誰かは暗にこう言っている。

 これまでの全ては簡単に捨てられるような時間だったと。

 

 唇を噛み締め、悔しさばかりが溢れ出てくる。

 必死に抑えようとして暴れているこの気持ちも、一蹴と私とリナちゃんを繋ぎ止めてくれた日々も、追い詰められた私に笑顔を与えてくれた温もりも、全部全部全部この人は蟻を潰すのと同じ感覚で、それらをなかった事に出来てしまうんだ。

 その事実が悔しくて苛立たしくて憤って……

「うんうん、わかってくれて俺は嬉しいぞ陵」

 なのに私は頷いてしまった。悔しさで歪む表情のまま頷く事しか出来なかった。

「じゃあこの話はここまで。俺は映画観賞、お前は勉強に戻ろうなぁ」

 知らない誰かはいなくなり、いつもの三上さんが映画を観ている。綺麗さっぱり何事もなかったかのように、自然な三上さんがそこにはいた。

 何が嬉しいと思ったの?誰も知らない三上さんの姿を私だけが知っている?思い上がりも甚だしい。何も、何一つ私は三上さんを理解していなかったと痛感して項垂れる。

 参考書に力なく視線を向ける。

 私、馬鹿だ。自分で被る仮面は誰よりも知っているくせに、三上さんの仮面に気付くことが出来なかった。三上さんの暗くて底のない心の闇を垣間見て、初めて私は三上さんの仮面をはっきりと形として捉えられた。

 私よりも長い間被ってきた仮面、その仮面を本物だと信じていた愚かさ。

 無理、だよ。私じゃあ、三上さんの心に手を伸ばせない。

 近づいたと思えた距離、でも本当は近づいてなんていなかった。今坂さんと稲穂さんと彩花さん以外、この人にとって大切にはなり得ない。

 そんな、笑いたくなるような距離の遠さを、愚かな私は心に刻み込まれてしまった……




ここまで読んで頂きありがとうございます。
実はここまでは書けてあったので、連日更新させて頂きました。
今回は唯笑と静流といのり、それぞれの智也への想いが揺れる話だったなぁと、自分でも感慨深くなってしまいます。
静流との馴れ初めは丁寧に描きたいのですが、それはそれでいのりメインなのに静流メインにしてしまいそうで笑
本当に僕の作品かと疑いたくなるようなシリアスですが、ギャグを簡単に挟めない話ですのでご容赦頂けたらと思います。
智也編が終わり次第、皆さまが安心できるようなコメディが……出来たらいいなぁとは思っています。
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