陽が落ちるのが早くなり、きゅっと引き締まるような寒さに身震いしてしまうような夜。クリスマスが今月ということもあり、街中は色とりどりの電飾で彩られ、光の中を人々が忙しなく行き交う。
そんな光景を特に感慨もなく車中から眺めていると、フロントガラスにぽつぽつと水滴が打ち付けてくる。
こんなに寒いのに、雪ではなく雨が降るなんてな……と、助手席へと目を向けて苦笑する。
混雑している国道で、適当に音楽を聴き流す。
講義が長引いた所為で買い物へと向かうのが遅くなってしまった。あの教授、本筋から逸れて無駄知識を披露するからなぁ。俺が風邪を引いたら厳重に抗議してやる。
ゆったりと動いていく車の中、視界の隅に見知った姿が映った気がしてそちらへと視線を向けると、交差点で両手に大きな袋と小さな袋をそれぞれ持ち、白い息を吐いて寒そうにしている紅茶姫がいた。
傘も持たずに何をやっているのやら。まあ、あれじゃあ傘を持つのも一苦労だろうがな。ちなみに、袋の中身は十中八九大量の小説と、厳選した茶葉だろうな。少しでも詩音を知っていれば誰もが目を瞑っても答えられる。
丁度車の流れが止まり、窓を少し開けて本が濡れてしまわないかと渋い顔をしている詩音へと声を掛ける。
「そこの紅茶姫、私めの馬車で雨宿りなどいかがですか?」
まさか俺がいるとは思わなかったのか、詩音は驚いたように目をぱちくりさせ、ほんの少し嬉しそうに微笑んだ。
俺に会えたことが嬉しいのではなく、これで本が守れると安心したんだろうな。わかりやすいなぁ。
「智也さん……すみません、お願いします」
助手席にある袋を後部座席へと移動し、詩音を迎え入れる。
乗り込んできた詩音は髪が少し濡れていて、悴んだ手が少しだけ赤くなっていたが、自分の事より本が大事とでも言うように、すぐに袋の中を覗いてほっと息を吐いた。
まったく、仕方のない奴だと苦笑しながら、常備してあるタオルを詩音の頭にかぶせ、わしゃわしゃと適当に撫でてやる。
「と、智也さん!?髪が、髪が乱れてしまいます!」
「うるせぇ、嫌なら自分で拭け。お前の所為で俺が風邪を引いたらどうしてくれんだ!」
この時期に風邪を引くのは勘弁したい。こいつから移ったら二十四時間体制で看病してもらうぞ。
「別に嫌だなんて……もう少し優しく拭いて下さればそれで……」
「なんだって?」
「相変わらず朴念仁ですね智也さんは」
「謂れのない文句だな!嫌なら歩かせるぞ!」
まったく、大学祭以来だってのにちょいちょい図々しいやつだなぁ。昔からだけど。
「いえ、助かりました。ありがとうございます」
「最初からそう言えばいいんだよ」
「そういえば、智也さんは今帰りだったんですか?」
「ん?……まあ、そんなとこだな」
「そうですか。偶然とはいえ智也さんが近くにいたなんて幸運でした」
「本の命が助かったもんな」
「それは、そうですが……運命の神様に感謝ですね」
「あん?」
「……本当に朴念仁ですねと言ったのです」
「さっきからなんでdisられてんの俺!?」
詩音はどこか不貞腐れたように窓の外へと目を向け、もう少し私と会えた事を喜んでくれても……なんて呟いていた。窓にいつもよりもちょいと膨らんだ頬がばっちり映ってることに気付けよ。
「智也さん、荷物後ろに良いですか?」
「ん?ああ、好きに置けよ」
「では、お言葉に甘えて」
助手席から後部座席へと荷物を移そうとして、詩音の動きが数秒止まった。そんな詩音の様子に気付きながらも俺は見ない振りをする。どうかしたか?なんて俺から聞いてしまったら、答え辛い質問が投げかけられると予測出来ていたから。だから、窓に映った詩音の自嘲のような笑みも俺は知らないし、見てはいけない。
荷物を置き終わった詩音は、ありがとうございますといつもの表情を見せる。そんな詩音に俺は、崇め奉れよといつもを返す。
何も見ていなかった事にしてくれようとしている事に胸が疼いてしまうが、詩音の優しさに甘えることにする。
そうして詩音と他愛ない会話をしていると、ようやく車の列が捌け始めた。
「あ、そういえば二十四日なんだが、実は午前中は大学に行かないといけなくてさ、午後から付き合ってもらう事になるけど良いか?」
「ええ、その日は私はいつでも平気です。心配なのは、智也さんが連れて行ってくれるという喫茶店の紅茶の味だけですから」
「文句なら静流さんに言ってくれ。静流さんが美味しいって紹介してくれた店だからな」
「じゃあ安心ですね」
「俺だと不安なのかよッ!?」
「不安要素以外が見当たりません。今でもあの自動販売機のレモンティーの恨みは忘れていませんから」
「奢って貰っておいて文句を言うとか、お前理不尽だと思わないのか?」
「あれを紅茶だと言う方が理不尽です」
「だ~か~ら~!後日ちゃんとした喫茶店で奢っただろうが!」
「及第点の、ですけどね」
「辛口過ぎだろ。全身ジョロキアで出来てんのかよ」
懐かしい思い出話に花を咲かせ、詩音は笑顔で逆に俺は不貞腐れる。そうこうしていると、詩音が住むアパートへと到着した。
後部座席から荷物を取ろうとする詩音を横目に、俺はなんとはなしに口にする。正直、目のやり場に困ったというどうしようもない理由からだったんだけどな。それが選択ミスだという事に気付くべきだったのに。
「お前さ、親父さんのところで暮らそうとか思わないのか?」
荷物を取ろうとしている詩音の動きが不意に止まり、何とも言えない沈黙が車内に満ちる。
まずったと思った時にはすでに時遅く、詩音はゆっくりと眉をハの字にして困ったように微笑んだ。
「どうして?」
どうして、それは俺が聞きたい事なのに、それなのに俺はその言葉に何も返せずに押し黙るしか出来ない。
長い休みの度に親父さんのところに行くのは大変じゃないか?もうそろそろ卒業だろ?とか、言える言葉はいくつもあるのに、どれも言ってはいけない言葉なのだと自覚してしまっているから。
「悪い、忘れてくれ」
「……智也さんは、迷惑なのでしょうか?」
「そんなこと、あるわけねぇだろ」
ただ、家族と離れて暮らすのは辛くないのだろうかと心配なだけだった。それだけなのに、その心配は詩音を傷つけてしまったように思えてならない。
「そう、ですか」
「ああ」
和やかな雰囲気が俺の不用意な一言の所為で壊れてしまう。壊すつもりなんてこれっぽっちもなかったんだけどな。
荷物を手に持ち、濡れないようにと俺は折り畳み傘を差しだす。
「本、濡らしたくないだろ?貸してやるよ」
「いえ、もう目の前なので……」
「いいから持っていけ。どうせまたクリスマスイヴに会うだろ?その時返してくれればいい。その時じゃなくても、ずっと後でも……いつでもいい。いつだって会えるんだろ?」
罪滅ぼしと照れ臭さとくすぐったさの混じった言葉に、ついついぶっきら棒な言い方となってしまった。
「……智也さん」
まったく、これは謝罪の言葉なんだ。だから、さ。
「はいっ。ではこの傘は、返したい時に返しますね。いつでも会えるのですから」
そんなに嬉しそうに傘を抱かないでくれよ。罪滅ぼしの言葉でさえ間違ってしまったんじゃないかって、そう思っちまう。
助手席から降り、傘を挿して歩き出した詩音だが、何を思ったのか立ち止まったかと思うと、もう一度戻ってくる。
こんこんと運転席の窓をノックされ、忘れものかと窓を開けると……
「私が日本に留まる理由ですが、後部座席のクリスマスプレゼントを贈る誰かから貴方を奪うため……と言ったら信じますか?」
耳に唇を寄せ、囁くような詩音の言葉に心臓が嫌な音を立てる。
「……それが本当だとしたら、俺以上の馬鹿だと認定してやる」
「ふふ、知らなかったのですか?私、智也さん以上の馬鹿なんですよ?」
照れ隠しの微笑みを直視出来ず、俺は風邪引く前に帰れと手を払う。そんな俺の様子がおかしかったのか、詩音はまた笑って……
「はい、送って下さりありがとうございました。おやすみなさい、智也さん」
わずかに頬に感じた柔らかな感触と温もり。頬に手を当てて数舜硬直した後、詩音へと振り向くと、すでに詩音はそこにいなくてアパートの階段を上っていく後ろ姿。
不意に詩音は振り返り、寒さの所為か、それ以外の要因があるのか、赤く染まった頬を綻ばせて小さく手を振った。
そんな詩音へと、放心したまま俺も手を振り返す。
「……卑怯だろうよ、今の」
詩音が部屋へと消えていくまで俺は見送り続ける。詩音の姿が部屋に消えてもなお数分そこに留まり続けた。
あまりに突然の出来事に心が追い付かなくて、まだ微かな温もりと感触が残る頬へと手を移す……なんて少女漫画でお腹いっぱいな展開が理由じゃない。
後部座席に忘れ去られた紅茶の入った買い物袋、それにテンパったあいつがいつ気付くのかと待ちに待っているだけだけどな!
その後、詩音は決まり悪そうに部屋から出てきて、さっきよりもずっと真っ赤に染まった顔をしながら戻ってきた。
小さく、智也さんの意地悪……と呟きながら今度こそ帰ったのだった。
恥ずかしいならやらなきゃいいだろうに。
腹が捩れそうなネタを提供してくれた紅茶姫の顔を思い出し、愉快愉快と笑いながら車を走らせる。
そういや、詩音のやつクリスマスプレゼントとか言ってたな。
後部座席へと目を向け、俺は密かに含み笑う。
「そりゃ、そう思うよな~」
時期的に勘違いしてしまうのも無理はないかもしれないが、詩音は一つ勘違いをした。後部座席に鎮座しているソレはクリスマスプレゼントなんかじゃない。
「実は誕生日プレゼントだったりしてな」
毎年欠かさずに送り続ける、俺達からの主賓のいないハッピーバースデーなのだから。
小雨が土砂降りに代わり、髪と服を濡らした大学生達が、マジないわぁ~と雨に文句を垂れながら店内へと水滴を落としながら入ってくる。
智也の家の近くのファミレスには、雨宿りを目的とした客がちらほら見える。その客の内の一組が俺達でもあるんだけどな。
雨脚が激しくなり、急遽ファミレスへと目的地を変更し、雨にどっぷりと濡れた俺と、しっかり傘を差してきたであろうあまり濡れていない三人。
隣に座る唯笑ちゃんはどこか青ざめた顔をしていて、震えそうな両手をぎゅっと胸の前で組んで俯いている。この雨と寒さの所為じゃないと誰でも気付いてしまうような震えと、何を映しているのか想像も出来ない虚ろな瞳で。
対面に座るいのりちゃんは唯笑ちゃんとは対照的で、どこか吹っ切れた顔でコーヒーを口に運び、一蹴は今にも寝そうだ。
テーブルを挟んで、俺達とは違う温度差にどこか心が軽くなった気がしてしまう。
俺の知らない何かを握っているいのりちゃんと、何に怯えて震えているのかわからない唯笑ちゃん。そして、何一つ頭が働かない俺。
とにかく情報を整理しないといけないのに、いのりちゃんから話を聞きだすための言葉が出てこない。蒔田淳の名前が俺にうるさいくらいに警鐘を鳴らす。俺の見逃してきた過去、それを見てはいけないと叫んでいるようだった。
「それでいのり?三上の事でなにかわかったんだろ?教えてくれよ」
臆する俺の代わりに口火を切ったのは一蹴だった。
こういう時、あいつと関わりの薄い客観視出来る奴がいるのは心強い。一蹴の存在は俺達にとって、少なからず心強い味方でいてくれる。
「はい。その前に、蒔田さんの事はお二人共ご存知ですか?」
「まあ、ね」
いのりちゃんの質問に、なんとか虚勢を張って応える俺と、蒔田の姓に肩をピクリと動かす唯笑ちゃん。やっぱり、唯笑ちゃんにとってもその名前は禁句なんだろう。
「いのりちゃんはどうして蒔田さんと?」
繋がりがあるとは思えない二人。最初に疑問に感じたのは、蒔田兄妹をなぜいのりちゃんが知る経緯に至ったのかということだ。
「そうですね。お二人にはそこからお話ししないとわからないでしょうし」
いのりちゃんはコーヒーを一口飲み、いのりちゃんの代わりに言葉を継いだのは相変わらず疲れて眠そうな一蹴だった。
「それは俺から話してやるよ。俺は名前までは知らなかったけどな」
続きを語る一蹴。その語りを神経を研ぎ澄ませて聞く。もう何一つ見落とすことがないように。
蒔田透子さんを知る切っ掛けとなったのは、偶然智也と蒔田透子が一緒に喫茶店にいるところを見かけ、二人の会話をところどころ聞いてしまったからだと言う。
彼女と話している時の智也は、いつもの能天気さは鳴りを潜め、藁にでも縋りたそうな心細さと、青ざめた顔で追い詰められた様子だったらしい。
智也の様子には納得がいく。交通事故を引き起こしてしまった人の妹というだけではなく、その後自殺してしまった人のたった一人の妹なのだから。あいつなら罪悪感を抱いてもおかしくない。俺だって、智也の立場だったら逃げ出したい気分だろう。だからこそ一つ疑問が浮かぶ。
そもそもなぜ智也は彼女と会っていた?偶然か?道端でたまたま会って、少し喫茶店で話を……なんてあるはずがない。どちらも向き合うには重すぎる関係だからな。
そこまで考えて、ふともしかしたらという答えが浮かんだ。
「一蹴、それっていつの話だ?」
「あん?えっと……」
一蹴の答えは、俺の想像を肯定した。
やっぱり、だ。あいつが蒔田透子と会ったのは酔い潰れた日と同じ。つまり、俺を遠ざけてから、あいつは自分から蒔田透子と話をしに行ったんだ。俺の知らない目的を持って。そうじゃないと、あいつと蒔田透子が一緒にいた理由へと繋がらない気がする。
だが、今更蒔田透子に会ってあいつは何がしたかったんだ?今になってあの事故を蒸し返すようなことをあいつがするか?思い出したくもない過去を、自分も相手も思い出してしまうような事を……いや、そうしなければいけない理由があったんだ。
なんだ?俺は智也の何を見落として……
智也とのこれまでを思い返そうとすると、一蹴の口からもたらされた言葉に俺は思考が停止してしまった。俺の想像の遥か彼方の言葉を、一蹴が言葉にしてしまった。
「な、に?」
聞き間違えじゃないかと、俺はもう一度一蹴に問いかける。あまりにもあり得ない言葉が、俺を斬りつける。
「自分を人殺しだって、そう言ってたんだよ三上は」
人、殺し?あの智也が?
錯乱する思考と狼狽する心。目の前が暗くなり、額に手を置く。
あいつが、智也が人殺しだって?あり得ないだろ、あの馬鹿にそんなこと出来やしない。だってあの智也だぞ?皆が予想もしない事ばかりを実行して、周りを笑わせながら困らせて……誰かを、人が傷つくことを極端に嫌っているあいつがそんなこと……
狼狽したまま、せめて何かに掴まらなければと、俺は泳ぐ視線を唯笑ちゃんへと向ける。
だが、そこにいたのは……
「やっぱり、そう、だったんだ……」
俺なんかよりもずっと頼りなく震え、今にも消えてしまいそうな唯笑ちゃんだった。
「唯笑ちゃん?」
「おかしいって、どうしてって、ずっと考えて考えて……智ちゃん、答えてくれないんだもん。聞くと、いつも誤魔化して逃げちゃうんだもん。だから、唯笑……ずっと……」
その先に紡がれた言葉。ぽつりと、儚く消えてしまいそうな声。でも、確かに聞こえてしまった俺の知りえない事実に、空気があまりの寒さに凍った気さえしてしまった。
唯笑ちゃんから漏れ出た言葉に、俺は呆然自失となり、いのりちゃんと一蹴でさえも目を見張る。
――そっか、だから智ちゃんはあの時……死のうとしたんだ……――
「な、んだって?唯笑ちゃん、今なんて?」
あまりに現実感のない、智也とは無縁に思えていた言葉。
信じられない、信じたくない、信じてたまるか。
胸の内で唯笑ちゃんのその言葉を否定し、耳を塞ぎたくなる。
「ごめんね信君。信君には話すなって、智ちゃんにずっと口止めされてて、今まで言えなかったの。だけど、一蹴君の聞いた話が本当なら、もしかしたら関係があるかもしれないって」
「俺に話すなって?」
「でも、もう良いよね?蒔田さんが関わってるってわかっちゃったんだもん、隠す意味、もうないよね?」
ここにいない誰かへの問い掛け。答えなんて返ってこない、意味のない問い掛け。それでも聞かずにはいられないのだろう。
「……唯笑ちゃん、頼む。聞かせてくれない?俺は何を知ったつもりでいたのか、何を知らなくて何を知らなければいけなかったのか……教えて欲しい」
今もまだ戸惑う唯笑ちゃんの瞳を逃がさないよう、俺は正面から射竦めるようにその瞳を捕まえる。
「唯笑ちゃん」
「……そう、だね。もういい、よね?」
何度かの逡巡の後、重く塞がれそうな唇が無理矢理開いたかのように動き出した。
「うん。あれは彩ちゃんの葬儀が終わった次の日――」
彩ちゃん、毎日ってこんなに簡単だったっけ?
昨日の彩ちゃんの葬儀の時、唯笑ね?泣けなかったんだ。果凛ちゃんも、葉夜ちゃんも……学校から葬儀に参加してくれた人達が皆泣いていたのに、唯笑も智ちゃんも泣けなかったんだよ。
だって、泣く必要なんかどこにもないもん。全部全部、何もかもが嘘なんでしょ?嘘じゃないなら夢なんだよ。唯笑も智ちゃんも夢を見ていて、明日になればいつもが始まるんだよね?
寝坊助な智ちゃんを彩ちゃんが起こして、二人が唯笑のこと迎えに来てくれる。文句をぶつくさ言う智ちゃんと、智ちゃんとふざける唯笑を彩ちゃんが『もう、何を言ってるの智也も唯笑も』って呆れたように言うの。それで、三人一緒の高校に行けるようにって、彩ちゃんが馬鹿な唯笑達の勉強を見てくれて……
「おかしいね?こんなのおかしいんだよ」
あの日から一日が簡単なんだ。起きて、ご飯を食べて、彩ちゃんの家に行って、夜になって寝る。それだけの一日。
ぼ~っとテレビを眺める。よくある青春ドラマが画面の中で繰り広げられている。
彩ちゃんと智ちゃんと唯笑、三人が過ごしてきた日常のような映像。明日から始まる唯笑達の一日も同じように続くはずなんだよ。
『ゆえゆえ……』
葬儀が始まる前、黒ちゃんは唯笑を静かに抱き締めた。悲しそうに、悔しそうに顔を歪ませながら。
どうしてあんな顔をしていたのかな?唯笑、なにか黒ちゃんに心配されるような事したかな?
「そうだ、予習しないと」
明日やるはずの場所を勉強して、彩ちゃんを驚かせるんだ。教えようとしていた範囲を唯笑が解けたら、彩ちゃんはどんな顔をするかな?驚いて、凄いねって、偉いねって笑ってくれるかな?
想像するとわくわくして、そうと決まれば今日は解けるまで頑張ろうと意気込み、リビングを出て部屋に向かおうとした。
「智がいない?」
お母さんの怪訝な声が聞こえ、足を止めて扉に身を隠すようにしてお母さんへと視線を向ける。お母さんは電話をしていた。多分相手はおばさん、智ちゃんのお母さんなんだろう。
「あ~、あんたちょっと落ち着きなよ。智がいなくなったって?」
智ちゃんがいない?どこかに出掛けただけじゃないのかな?それとも、彩ちゃんと二人で逢瀬……とか?ん~、複雑だけどそれはそれで嬉しいよぉ。
「親のあんたが泣いてちゃあ話にならん!泣き止め馬鹿ッ!!」
おばさんが泣いてる?そんなのいつもの事だよね。何かある度、お母さんにべそかいて愚痴を零してるもん。
「うん、うん……で?うん……うん……」
電話をしながら、お母さんの眉間の皺がどんどん深くなっていき、冷静になりたいのか煙草を取り出して咥える。
もう、臭いから煙草は家の中では吸わないでって言ってるのに。
「ごめんなさい?書置きにそう書いてあったって?」
灰皿どこにあったかな?持って行ってあげないと。
「書置きの意味に心当たりは……いや、いい。智が謝るってことは、コレしかないだろうな」
お母さんが靴箱の上に置いてある新聞を手に取り、舌打ちをしながら前髪を掻きむしる。
「オッケ、状況は理解した。確かにこりゃまずいわ。最悪智の奴死ぬ気――唯笑ッ!?」
履く者も履かずに、窓を叩きつけるほどに強い雨の中へと駆けだす。
灰皿は最初から靴箱の上に置いてあった。
「悪い、あたしもまずったわ。今の唯笑に聞かれちまって、唯笑が飛び出してった。とにかく、唯笑を追ってあたしも探すからあんたは家に居な。あん?うっさい!行き違いになる方が面倒なんだっての!とにかく、あたしと智一で探すからあんたは風呂でも沸かして待ってろ!」
全身を打ちつける激しい雨、後ろから耳に届く雨音よりも激しく呼ぶ声、濡れて張り付く髪と服の気持ちの悪い感触……何もかもがどうでも良い。胸の内にあるのはたった一人の、唯笑と彩ちゃんの魔法の人の名前だけ。
――智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃん智ちゃんッ!!!!――
どれだけ走ったのか、今どこにいるのかもわからないまま、大切な家族を求めて逸る気持ちのままに走る。
間に合わないなんてもう嫌なんだ……何が?
独りでなんて生きていけるわけがないんだ……何で?
三人で一つなんだって信じていたいんだよぉッ……何を?
支離滅裂な感情と思考の渦に飲み込まれ、このままだと窒息してしまいそう。目の前には確かに三人一緒の未来が、きらきらと陽に照らされて見えているのに……そのはずなのに……
「いい加減に止まれ暴走娘ッ!!」
手を目一杯の力で掴まれ、走らなければ壊れてしまいそうな足が止められてしまう。
振り返ると、そこにはお母さんが肩で息をしながら白い息を吐いていて、唯笑の顔を見た途端、今度は眉をハの字にして今まで見せた事のないような、いくつものネガティブな感情が綯交(ないま)ぜになった表情へと変わった。
「お、かあさん……」
「唯笑、あんた……なんて顔してんのよ?」
愛娘に対してなんて失礼な事を言うのだろう。これでも容姿にはちょこっとだけ自信があるのに。
「なんてって?別にいつもの唯笑だよ?」
にへらと笑いながら、いつもと変わらない声で返す。そんな唯笑を数秒呆然と見つめた後、自分の頭を乱暴に掻き毟って、お母さんはいつになく厳しい目つきで肩へと両手を添えてきた。
「そう、いつものあんた……ね。そんじゃあ、いつものあんたに言うけどさ……今すぐ帰れ馬鹿娘」
有無を言わせない鬼気迫る声に息が詰まる。
「まあ、あたしが迂闊だったのは認めるわ。あんたに聞かせないように配慮すべきだった、あんたの母親だってのに、あたしはあんたを守る努力を怠ったわけだし、責められても仕方ない」
お母さんは何を言っているんだろう?唯笑を守る?
「何を言ってるのお母さん?唯笑はただ智ちゃんと彩ちゃんに会いに行くだけだよ?」
「……唯笑?」
肩に添えられている手が密かに震えた。信じられないものでも見るかのような視線に首を傾げる。
「最近ね、智ちゃんも彩ちゃんも酷いんだよ。唯笑のこと置いて二人で遊んでばっかりで。そりゃあ、二人が幸せなら唯笑も嬉しいんだけど、でもね?ちょっとは二人だけじゃなくて三人でまた遊んで欲しいなって、我侭も言いたくなっちゃうんだよ」
「唯笑、あんた……あんたも、だったの?」
「だからね、今も唯笑を置いて遊んでる二人のとこにいきなり行ってびっくりさせるんだぁ~。こうなったら少しくらい意地悪しないとだもんね。いっつも智ちゃんを独占させて上げないよぉ~!って」
「はっ、ほんとどうしようもないね、あたしってやつは……自分の娘の事にも気付いてやれないなんて」
「もう、彩ちゃんと智ちゃんほんとにどこに行ったんだろ?早く見つけ……んッ」
お母さんの手を振り切ろうとしたけれど、両手を背中に回され、無理矢理お母さんの胸に顔を埋めさせられる。びしょびしょに濡れた服からは、とても、とても嫌な雨の匂いが染みついていた。
「もう良い、もう喋るな馬鹿娘。そんでもって、あたしはとんだ馬鹿親だ。正真正銘の馬鹿親さ……」
雨に打たれ冷え切った身体は、唯笑を力の限り抱き締めながら震えていた。
「智だけじゃない。智と同じにあんたも壊れていたってのに、あんたの心は悲鳴を上げていたってのに……母親のあたしが真っ先に気付かなきゃならないあんたの声に、あたしは今の今まで気付いてやれなかった」
壊れてる?唯笑が?確かに、彩ちゃんに智ちゃんを取られたみたいで寂しかったりはしたけれど、でもそれは唯笑が三人の為に望んだことだもん。傷つくような事なんて一つも……
「悪かったね、こんな母親で。けど、まだ間に合うなら少しだけ母親らしいことさせて欲しいんだけど、良いかい?」
どうして謝るの?お母さんは何も悪い事なんてしてないのに。
「あんたにとって彩がどれだけ掛け替えのない存在だったか、これでもわかってるつもりさ。だからあんたが今、少し突っついただけで壊れてしまうのも仕方ない。だからこそ、今は……いや、今度こそはあたし達大人に任せな」
だから、お母さんは何を言ってるの?存在だったかって、それじゃあまるで彩ちゃんがもうどこにも……
「あの時、あたし等は親として何一つ守れなかった。彩も、彩とあんたが世界で一番笑顔でいて欲しい智の事も……何もかも手遅れにしてしまった。けど、今度こそ親としてあんたと彩に約束してやる。あたし等親が絶対に智をあんた等に繋ぎ止めて見せる。手遅れなんかにしてやらない。だからあんたは智の帰りをいつものあんたで待ってな。智を、彩が愛している智を支えられるように……酷な事を言うようだけど、それが出来るのは唯笑?世界最強のあたしの娘であるあんただけなんだ。いつまでも泣いたままじゃ、繋ぎ止めはしても救えないんだからさ」
一つも理解出来ない、理解してはいけない言葉のはずなのに、強張って固まっていた全身から力が抜けて、お母さんに身を任せるように倒れ込む。
そんな唯笑の背中を、小さな子供をあやす様に優しくぽん、ぽんと叩いてくれる。それは、唯笑達が悪戯して怒られて、謝りながら泣き出してしまい、そんな唯笑達を、最後にはお母さんはこうしていつも微笑んで許してくれた……もう、思い出すこともなかった遠い日の温かな記憶を呼び起こす。
「お、かあ、さん……」
「……ん~?」
お母さんもあの頃を思い出しているのか、心なしか声も穏やかで……だから今この時だけ、唯笑は幼い頃へと戻ってしまったかのように……
「おね、がい……お願い、だよぉ……」
――智ちゃんを助けてぇッ――
「はいはい、任されたよ。なんてったって、あんた達の母親は世界最強だかんね」
泣きじゃくる子供の我侭を、満面の笑みで受け止めてくれた、唯笑達三人の世界で一番の自慢のお母さんが。
「その後の事は詳しくはわからないんだけれど、お母さんが言ってたのは、川からおじさんと二人で寒中水泳してた、いつまでもやんちゃな坊主を釣ってきたって」
唯笑ちゃんの話を聞きながら、俺は言葉もなく俯くばかり。
唇に違和感を覚え、舌で舐めると鉄の味がした。
寒中水泳?釣り上げた?なんだよそれ……なんなんだよッ!!
俺の知らないところであいつは、あの馬鹿は激しい雨が降って、とてつもなく死ぬかもしれない可能性がある川で呑気に水泳してたって?笑えねぇんだよッ!!
智也の心の傷を知ったつもりになって、一緒に苦しんで、一緒に笑って、一緒にて今の今まで……
「んだよ、それ……」
俺、親友でもなんでもないじゃんか。何を良い気になって、智也に得意気に心ない言葉を浴びせてきたんだよ。何が雨はいつ上がる?だよ。思い上がりも甚だしい。俺は何一つとしてあいつの痛みを共有出来てなんていなかったのに。
「信君……」
あいつは、どんな気持ちで俺の言葉を受け入れてきたんだ?どんな痛みを抱えて笑ってきたんだ?どんなに虚しい想いで俺と一緒にいたんだ?
自分で自分が嫌になり、空々しい笑みが浮かんでしまう。
「やっぱり、智ちゃんと信君は親友で家族なんだね」
自暴自棄になりそうな俺に、柔らかな声が降り注ぐ。
「智ちゃん知ってたんだよ。信君が自分を責めてどこにも行けなくなるって、知ってたから唯笑に口止めしてたんだと思うよ」
それはいつものあいつの優しさで、俺を叩きのめすのに充分な威力を伴う凶器だ。そんな優しさ、俺は求めてなんかいない。親友だって言うのなら、俺を認めてくれるのなら、どんなに深く凶悪な真実でも、嘘偽りのない言葉が欲しかった。
自殺行為な寒中水泳をするまでに追い詰められた、その理由をなんで一つも話してくれなかった?どうして関係のないいのりちゃんから、あの人の、蒔田淳の名前を聞かなきゃいけなかったんだ?何がどうなって……いや、そうじゃない。何をどうしてたんだよお前はッ!!
「そんな優しさなんて俺はッ」
ぴんぽ~ん♪
「……おい」
俺のやり場のない感情とはそぐわない音色が鳴る。それが他の客ならいざ知らず、目の前の馬鹿が伸ばした手による物となると話は別だ。
「どういうつもりだ一蹴?場合によっては一週間部屋から出られないように社会的制裁を実行するぞ」
「あ~、悪い信。俺何も食べてなくってさぁ。あ、いのりはチーズケーキでどう?ここのチーズケーキ好きだって言ってたもんなぁ」
「い、一蹴?」
らしくない一蹴の行動に、いのりちゃんも戸惑いの色を見せる。
いつもなら軽く冗談を交えて流せることも、今の俺には容易じゃなくて、つい厳しい顔つきになってしまう。
「一蹴、お前今がどんな時か「あ、すいません。チーズケーキ一つとミックスバーグのBセット、ライス大盛りで。あと食後にジャンボパフェ、これは俺一人じゃ無理だから全員協力でよろしくってことで」
何食わぬ顔で俺の言葉を遮り、何事もないように笑顔で注文する。まるでどこかの空気を読んで空気を読まない、良く知っている馬鹿のように。
「あのさぁ、これ誰の通夜の帰りなわけ?今坂さんも信もいのりもさぁ。その誰かの通夜はずっと昔に終わったんだろ?」
ずっと昔に終わった?こいつ、今何を言った?
瞬間、血液が沸点を軽く超え――
「信君駄目ッ!!」
「稲穂さんッ!!」
「――おい、一蹴?今、お前、なんて、言った?」
対面にいる一蹴の胸倉を引っ張り上げ、無理矢理立たせるという、普段の俺なら有り得ない失態を演じてしまう。演じざるを得ない。
こいつは暗にこう言ったんだ。彩花ちゃんの事は、もうとっくに終わった事なのだと。
許せるわけがない。許していい言葉じゃない。許してしまったら、俺達の今までを否定してしまうのだから。
初めて見せた俺の失態を、一蹴はにへらと気の抜けた笑顔で受け止める。なんだよ、何がしたいんだよ。今の一蹴は俺を無性に逆撫でする。なぜなら、そんな一蹴に誰かの影を重ねてしまいそうになるから。あってはならないその影を、俺は認めてしまいそうになるから。
「自分こそ、何をしているのかよく考えろよな。今、俺達は何の為に集まっているんだっけか?こんな浸みったれた話をする為だったっけ?」
「……何が言いたい?」
「察しの悪い事で、らしくないって言ってんだよ。俺達は三上を、底抜けに馬鹿なあの人に戻したいって、そういうポジティブな理由で集まっているんじゃないのか?あいつの過去を知って、隠している事を暴いて、そんでそれを解決しようぜって話しているんじゃなかったのか?」
俺の剣幕もどこ吹く風で、相も変わらず気の抜けるような笑みを張り付けたまま。だが、その言葉に胸倉を引き千切らんばかりの力で握っていた手から力が抜ける。
「なのになんだよ、あいつの過去を少し知っただけで落ち込んで?そんでどうするって?この先の事を知って、ますますドツボに嵌って抜け出せなくなって?そんで、よし三上をなんとかしてやろうって?はん、そんな奴に三上が頼るかよ冗談じゃない」
「い、一蹴、そんな……言い過ぎだよ」
「言い過ぎ?そんなわけないだろ。今のでこれだぞ?どうしようもないっていうか、信を過大評価してたよ俺。誰だって話さない、話せない事の一つや二つあるってだけだろ。ただ、三上の場合はそれがちょっとばっかし大きいってだけでさ。そんなこともわからないでうじうじと……止めだ止め。いのりが何を知ったのかは知らないけど、もういいや。いのり、あとは俺達だけでやろうぜ。あ、今坂さんも俺達サイドって事で。どうにも俺達だけじゃ厳しそうだし、三上の核心に近い人がいないとって気もするから。てなわけで、信御足労ありがとさん。とっとと帰って詰碁でもやっていればいいさ」
捲し立てられた言葉の数々が俺の心臓を無数に突き刺す。一蹴の言葉に俺は歯噛みする事しか出来ず、唯笑ちゃんは目を逸らし、いのりちゃんは驚きに呆然としている。
そりゃ、いのりちゃんが呆然とするのも仕方ない。こんな一蹴を誰も知らないのだろうから。こんなにも傍若無人で熱い言葉を口にするなんて……空腹で壊れたのじゃないかと疑うほどに不自然だ。
「俺は三上を何とかしてやりたい。あの人が抱えている何かを軽くしてやりたい。それがあいつに救われた俺の借りの返し方だからな」
なんてぶっきら棒な言葉に、自然と笑みが零れた。
……無駄じゃなかった。俺と智也が築いてきた時間が無駄じゃなかった証明が目の前にある。いのりちゃんと一蹴をなんとかしてやりたいって足掻いて、手を伸ばして、その結果が今の一蹴の言葉と態度だ。
ああ、一蹴の言う通りだ。そうだ、何度絶望しようと、何度過去に心挫かれようと、俺は智也を陽の射す場所へと連れ出したい。それが無理なら、傘を挿してやりたい。そう彩花ちゃんに誓ったはずなのに、たった一つの過去にそれを見失いそうになっていた。
「はぁ~……まったく、生意気と言うか素直じゃないと言うか……まあ、悔しいけど一蹴の言う通り、だよな。少し冷静になれたわ」
「うん、そうだね。ごめんね一蹴君。それと、ありがとね」
俺達の言葉に、わかれば良いんだよと、頬を掻いてそっぽを向く可愛い俺達の年下くん。
そっか、それなら一蹴の覚悟に俺も俺らしく応えないといけないよな。というわけで……
ぴんぽ~ん♪
「ふわふわオムライスにスープバー付けて、あとフライドポテト大盛りで」
「あ、唯笑はね、ロイヤルスウィートセットの松で」
「今坂さん、稲穂さん……」
「はは、わかってくれたか二人共……ていうか松とかあんのかよ?」
俺と唯笑ちゃんの復活に目の前のバカップルが微笑む。良い笑顔だよ、俺達が手助けして繋ぐことが出来た二人の笑顔は本当に最高だから……
『一蹴(くん)の奢りで』
滑稽な青ざめた笑顔へと変えてみよう。
「はああああああ!!??」
「いやぁ、さすがに年上に向かって失礼の度を越してたからな今のは。執行猶予とか生易しいだろ」
「そだね。さすがに唯笑も彩ちゃんの事はむぅってなったもん」
「いや、それはあれじゃん?二人を叱咤激励するための方便で、そのおかげでこう……ね?なあいのりって、いのりは!?」
ついさっき澄まし顔でトイレへゴーだよ。嫌な予感を敏感に察知する能力は智也に鍛えられたらしい。素晴らしい優等生じゃないか。
「一蹴君?」
「……は、はい?」
「お会計、よろしくね?」
「……ふぁい」
反論を許さない無敵に素敵な笑顔に、さしもの一蹴も体育会系の返事でお茶を濁すしかなく、俺達の会議は愉快な休憩時間を挟んだのだった。
「信のは良いとしてもなんだよこのロイヤルなんたらって……一万近いんだけど……これがあれで、貯金……てことはもやし生活?クリスマス考えるともやししか……でも、ええ~?」
ただでさえ寂しい財布が閑古鳥になるらしく、一蹴は携帯の電卓を駆使して数字と睨めっこ中。さっきまでの俺達よりも酷い顔色で少しばかり同情してしまう。
「あ、店員さん。彼に胃に優しい冷奴をお願いします」
「余計な重りを俺の胃に仕込むの止めてくれねぇかな!?」
その重りは一蹴の財布から仕込まれるんだけどな。これも一種のマッチポンプじゃなかろうか?
「それでいのりちゃん、君が蒔田透子さんと会ったって話なんだけど」
「会話の緩急付けすぎじゃね!?」
黙れ閑古鳥。一蹴も鳴かずば撃たれまいて。
「素敵なクリスマスプレゼントありがと一蹴君♪」
「素敵な彼女へのプレゼントが予定されていたんですけどね!?」
あははと、その素敵な彼女は苦笑している。泣かない雉は撃たれない事を、身に染みて学習している彼女は優秀だな。
「一蹴、真面目な話をしようとしている時にうるさいぞ」
「もう二度とあんた等を励まして野郎だなんて愚策はしない」
クリスマスプレゼント、もう予約してあるのにさぁと、いつまでも男らしくない事をグチグチ言っている彼氏は視界の隅に追いやって、しっかり身の委ね方を弁えている彼女と向き合う。
「じゃあいのりちゃん、蒔田透子さんとの事聞かせてくれるかな?」
「こんなに切り出し辛い会話の流れって……」
「それは智ちゃんの恋人兼幼馴染と~」
「親友って事で諦めて欲しい」
「なんて説得力のある言葉なんでしょう……ていうか、今坂さんちゃっかり設定盛ってましたね」
さすが智也に骨の髄まで教育された生徒。それがどういった方向にねじ曲がった教育かはさておき。
いのりちゃんは紅茶を一口含み、一息ついてから口を開く。あの馬鹿が頑として引き籠る秘密の部屋の扉を、完膚なきまでに徹底的に破壊するための爆薬を持つ彼女、蒔田透子さんの話を……
「なるほど、ね」
最近の智也さんの事、ファミーユで見掛けた事、智也さんにファミーユでの事を尋ねた時の、二度と思い出したくもない拒絶を見せた事……最後のは少しだけ堪えないと何かが溢れてしまいそうで、少しだけ目に力を入れていたけれど。
「それで、その原因と思われる私に声を掛けて、彼の事情を知りたいとそういう事?」
「ええ、失礼なのは重々わかっているのですけれど、どうしても知りたいんです」
「ふ~ん……ふ~ん……へぇ~」
にやにやとカップの中をスプーンで掻き混ぜながら、蒔田さんは興味深そうな視線を向けてくる。
「やっぱり彼女じゃ「ありません」……その反応の速さが怪しいんだけど」
なんというか、どこか飄々としていて掴みどころのない人で、こちらが弄ばれている気がしてくる。やっぱり声を掛けたのは失敗だったかもと後悔してしまいそう。
「ま、どっちでもいいんだけどね」
「じゃあ!」
「どうせ話さないし」
私の期待を無情にも一刀に伏す彼女は、やっぱりどこか嬉しそうにしている。なにがそんなに嬉しいのかな?
「というかね、話せるわけないじゃない。うん、話しちゃ駄目なのよ私は」
「それはどういう?」
「私には彼の事を話す資格がないのよ。その事を、あの日……貴方達が見たって言う日に痛感したの」
その声は表情とは裏腹に後悔だけが滲んでいて、とても不躾に入り込もうだなんて思えなくなってしまう。
「彼、誰にも話していないって言ってたわ。何でもない事のように、ね。それを聞いたら私、自分がした事の重さをその時になってようやく実感したのよ。私は彼のように強くいられなかった。寄り掛かって、甘えて、一人でなんていられなかったのよ」
それが何を意味している事なのか、前者は想像も出来ない。でも、後者は容易に想像出来る。彼女の左手の薬指に光るソレを見れば。
「最悪よね。彼に時間を止める呪いを掛けた魔女が、掛けた呪いへの罪悪感と、それまでの寂寥感に耐えきれなくて、三上君を置き去りにして時間を進めてしまったの」
「呪い、ですか?」
「それも、あの事故から今まで一度も解ける事のない、もしかしたらこの先も解けないかもしれない、最低な呪い」
多分、その呪いについて問い質しても答えてはくれないのだろう。それでも、直接的な答えじゃなくてもいい。取っ掛かりにさえなってくれる何かさえ手に入れられたなら……
「それじゃあ、その呪いが解ければ、蒔田さんは最低じゃなくなれる……そう、ですよね?」
「何が言いたいの?」
尋ねた事の意図がわからないのか、怪訝そうに問い返される。その二つの瞳を逃げないよう、逃がさないよう、真っ直ぐに絡ませる。
大丈夫、心の向かう方向は定めたもの。三上さんが、私の天才的な反面教師がどれだけ遠くに行こうとしても、私が離れなければ問題はない。挫ける心はもう自分で手折った。過去の、リナちゃんを傷つけるだけの弱い私はどこにもいない。惚(とぼ)けた顔をした誰かがどこかに誘拐してしまったから。
さあ踏み出そう。脆弱なあの人へと会いに行くための鍵を手に入れるために。
「お願いします蒔田さん」
人目なんて私の眼中になくて、プライドなんて持ち合わせる余裕なんてない。今この時だけはただ一人の為だけに生きたいもん。
「ちょ、陵さん!?何してるのよ!?」
だから、公衆の面前で形振り構わず頭を下げるくらい、恥ずかしくもなんともない。恥ずかしいのは、三上さんから背を向けて逃げ出す自分だけだから。
「お願いします、何があったのか……教えてください」
彼女が根負けするまでの、ワンサイドゲームの根競べ。私の根勝ちか、悪くて引き分けしか結果が出ない勝負。
そんな子供の我侭の方がずっと可愛げがある勝負を挑む私に、彼女はしばらくどうしようか困惑し、不機嫌に沈黙し……
「言っておくけれど、どんな事されても教えないわよ。三上君が話していないって事は知られたくないって事だもの」
「全部分かったうえでお願いしています」
「あ~、もう!いい加減に頭上げてよ!これじゃあ私が彼の浮気相手を呼びつけて、ちくちく責めて裁判沙汰にしようとしてるみたいじゃない」
「お願いします、もうあなたしかいないんです」
指でテーブルを叩き、貧乏揺すりをして、溜息をついてカップに口を付け、それを何周か繰り返し、たっぷり十分は立つ頃、ようやく蒔田さんから諦めのような言葉が零れた。
「……一つだけ聞かせて。それ次第で判断するわ。貴方、彼の恋人ってわけじゃない、聞けばただの家庭教師と教え子の関係ってだけなのよね?」
「はい」
「それじゃあ……そんな家庭教師と教え子ってだけの関係のあなたがそこまでする、嘘偽りのない本音を話しなさい。その答えに私が納得すれば、貴方の欲しい言葉を上げるわ」
痛烈なカウンターという諦めの言葉。
その問いに少し前の私なら逡巡して、当たり障りない言葉で逃げていた。でも、今の私は……この場でだけは三上さんの為に生きられる。そう、心に決めた背徳の悦びに身を震わせている。そんな今の私に、逡巡なんてあるはずもない。
迷いなく、心晴れやかに、仮面を曇天の向こうへと投げ捨てる。
――――ます。
頭を下げたままで蒔田さんの表情は見えなかったけれど、私の答えにそう、と口にした声は、どこか安堵していたように聞こえた。
「いいわ、貴方の答えが気に入ったから答えてあげる」
根勝ちした嬉しさに顔を上げ、期待に満ちた満面の笑みで蒔田さんと向き合うと、ただしと釘を刺された。
「三上君との事は私からは話せない」
「さっきの無駄に恥ずかしい事を言った自分を殺して、蒔田さんを道連れにしますよ?」
「とんでもない子ね貴方!?」
とんでもないのは蒔田さんですよね!?羞恥プレイを強要しておいてなんて無慈悲なの!?無慈悲の代名詞、三上智也に匹敵しますよ!
「勘違いしないの。大体、誰にも三上君が話してもいないのに、私から話せるわけがないでしょう?」
「……どうしようもないじゃないですか」
「どうしようもあるじゃない。つまり、私からは話せないけれど、彼に話させれば問題はないわけ」
「はあ、まあそうですね」
つまり何が言いたいのかさっぱりなんですけど。
「これは私の憶測なんだけれど、三上君は多分準(なぞら)えるつもりなのよ。蒔田淳、私の兄が辿った道をね」
「お兄さんの、ですか?」
「そう、あの日桧月彩花さんを事故に遭わせてしまった私の兄の、ね」
「――ッ」
蒔田さんの言葉に声を失う。それじゃあ、蒔田さんと三上さんの関係って……
「三上君と私は被害者関係者と、加害者家族……そういう関係なのよ」
そ、んな……三上さんは加害者家族の方と会っていて、加害者家族である蒔田透子さんが……
整理の付かない思考と感情。一つずつ整理しようにも、どこから手を付けて良いのかもわからない。
「え、あ……でも、え?だって三上さんはあの日蒔田さんに謝って……」
わからない、だって常識的に考えて三上さんと蒔田さんの立場はあの日、ファミーユでの出来事の時、逆じゃないとおかしいもの。
噛み合わない立場と会話。その意味するところに考えが及ばない。
ボタンを掛け違えたなんて、生易しいものじゃない。加害者が被害者で、被害者が加害者で……何が、どうして……
「その理由を、三上君の口から聞いて欲しいの。本当は私が彼を、止まってしまった彼の時間を進めてあげないといけないの。でも、今更私が何を言っても烏滸がましくなってしまう。だから、本当は嬉しかったのよ……貴方が私に食い下がってくれて。貴方ならって、そう勝手に期待出来ちゃったから」
「あの、すみません、少し混乱してて……お兄さんが交通事故を、それで三上さんがお兄さんの辿った道をって……」
それじゃあ話が繋がらない。ちぐはぐに糸は絡まったまま、絡まりの原点はどこにも見当たらない。そんなの、解きようがない。
「この前話していてピンときたのよ。今まで誰にも話していないって事は、誰にも頼るつもりがないって捉えることが出来るって。それに、恋人も作ろうともしていないんじゃないかしら?」
そう、推測出来てしまうのも頷ける。誰にも事情を話していないという事は、恋人と呼べる人を作ろうとしていないという事。自分の心の中に、意図的に誰も立ち入らせないようにしているって、そう考えることが出来てしまう。
「それがどうして、その……蒔田さんのお兄さんと繋がるんですか?」
私の当然の問い掛けに、蒔田さんは曖昧に笑うだけで明確な答えを出してはくれなかった……けれど……
「私の兄ね、あの事故の後すぐに……その、言い難いのだけれど、亡くなったのよ」
「亡くなった?あの、失礼ですが病気か何かで?」
静かに首を横に振り、今にも泣きだしてしまいそうな震えた声で静かに、呟くように……
「自殺、よ」
なんて声を掛ければいいのか、なんて事を訪ねてしまったのか……蒔田さんの言いようのない苦悶の表情に罪悪感で一杯になる。
なぜ?なんて聞かなくても容易に想像が出来てしまう。理由なんて一つしかないのだから。
「すみません」
謝罪の言葉一つだけしか口に出来ない自分の浅はかさが恨めしい。蒔田さんの心を私は踏み躙っているという自覚があるのに、それでも……
「いいの。どのみち知られる事だもの。それに、兄がそうしてしまったのは、誰の所為でもないって今はわかるから。兄は弱かったのよ。弱さを優しさだなんて勘違いしていたの……」
「そんなこと……そん、な?」
あまりに重い事実という鈍器で頭を殴られ、思考がどうしようもなく鈍っていたらしい。気付くべき事にフィルターが掛かり、この時になってそこに結びついたのだから。冗談でも聞きたくない、近い未来の想像に。
「待って、下さい……お兄さんが、なんて?三上さんが同じ道をって、そんな……」
どこに向かっても最悪にしか行き着かない未来。
声も、身体も、心も、何もかもが震えて言葉に出来ないその先……
あり得ない、あってはならない未来。そんなはずはない、あの人がそんなこと……
目の前が真っ白になり、徐々に暗くなっていく。
あり得ないはずの想像は、だけどどこか現実感を伴っていて、信じたくない気持ちと、信じてしまいそうな気持が鬩(せめ)ぎ合う。
虚ろな瞳をどうにか蒔田さんへと向けると、彼女は困ったように微笑むだけ。
「蒔田、さん?」
「陵さん……貴方の想像、多分間違っているわ」
そう、ですかと胸を撫で下ろしたいのに、でも蒔田さんの声は私を安心させるには至らない声で、安堵どころか不安ばかりが募っていく。
最悪ではないと肯定されたはずなのに、蒔田さんはそれでも和らいだ表情を見せてはくれない。
どういう事?それじゃあ、まるで……
「そして、間違っていないほうが良かったかもしれない間違い、よ」
死が最悪なのではないと言っているみたいなんだもの。
「自殺、ならとっくに三上君はそうしていたでしょう。でも、私が幸いと言って良いのかはわからないけれど、今もそうしていないのは、それをする気がないという事。三上君は兄とは違う強い子だった……悲しい程に、強い子だから……だから、もしかしてって嫌な想像をしてしまうの。しかも、あながち間違いとは言い切れない……いいえ、そうするって言いきれてしまう想像」
「何を、何を言って……」
「私が彼に呪いを掛けてしまったから、かしらね。きっと彼は兄と同じように……」
――兄が得るはずだった物、その全部を失った道を辿るつもりよ。大切な全てを遠ざけて、たった独りだけの人生を生きる為に、ね――
「……馬鹿、じゃないですか、そんなの。どうしてそんな」
ああ、確かにそれは死よりも酷い拷問ですね。数分の苦しみよりも死ぬまでの苦痛を享受するだなんて。
想像してみる。自分の傍に居てくれる大事な人達が全て消えて、誰とも繋がらないように社会の中で生きていく……その想像も出来ない途方もない寒々しい恐怖を。
「どうしてかは三上君から聞くのね」
蒔田さんが腕時計を確認し、バッグを手に立ち上がる。
「さてと、私用事があるからこれで」
「唐突過ぎません!?」
「いや、大分時間がヤバいのよ。どれだけ話してたと思ってるの?」
それはそうですけど。ゆうに一時間は軽く超えているし。
「大人はね、学生ほど時間が無限にあるわけじゃないの」
「時間の概念がおかしくないですか?」
「ふふ、大人になればわかるわ。時間が有限だって、嫌って程突きつけられるんだから」
「あ、あのちょっと待って下さい!三上さんから話を聞くってどうやって!」
「あ、そうね。忘れてたわ」
ちょろっと舌を出して失敗失敗と可愛い子ぶる。最後の最後にイラっとしてしまったのは内緒です。
「私に会ってこう言っていたって伝えて。『もうこれ以上加害者にしないで』って。あとはまあ、貴方の鎌掛け次第かしらね」
今度こそじゃあねと、軽やかに手を振って蒔田さんはお店を出ていった。
残された私はミルクティーを呑みながら、繋がらない話をどうにかして繋げてみようと頭を悩ませ、結局答えには行き着かないままお店を後にしようとした。
「……あ、れ?」
したのだけれど、見慣れないというか、見たくない何かを目にしてしまって目を擦る。そんな……まさか……
「蒔田さん、貴方年上ですよね?社会人ですよね?」
なのにどうして……
「伝票が置きっぱなしなんですかぁッ!!」
私にとって貴方は立派な加害者ですから!!
今度街で見かけたら容赦なく取り立てようと、心に固く硬く堅く決意し、私は泣く泣く二人分を支払って店を出たのでした。
「というわけでして」
「うん、所々ぼかされてて、気になったんだけど」
「自主規制です個人情報保護法ですプライバシーの侵害拒否です」
頑なに話してくれない腹の内。探ったら何が出てくるか楽しみでしょうがない。もう智也の事よりいのりちゃんの自主規制を何とかしたいんだけど。解析ソフトでもないだろうか?
「まあいいや、それで唯笑ちゃんは今の話で気付いた事はあるかな?」
ずっと黙ったままの唯笑ちゃんに聞いてみる。俺にはわからない事が、唯笑ちゃんならもしかしたらと期待を込めて。
「……ある、といえばあるけれど……ごめん信君。詳しい事は何も。確証がね、ないんだ」
今の唯笑ちゃんの反応……多分知っているかもしれない事があるんだ。だけど、どういった理由か話せない事情がある。らしくない言葉の濁し方でそれが伝わってしまう。それなら、無理に聞き出すのは野暮と言うものだろう。
それがどんなに核心に迫る推測か、はたまた真実だとしても。
「となると、やっぱ智也を問い質すしかないかぁ~」
「そうですね。今三上さんは?」
「智ちゃんなら何もなければ家にいると思うよ。最近ずっと積んでたゲームをやるんだって張り切ってたもん」
「その様子を聞く限りじゃ、あいつがとんでもない事態になってるだなんて誰も信じないだろうなぁ」
ただまあ、蒔田さんが言っていた推測は、心当たりありまくりなわけで、それを放置しておくとその通りの未来に辿り着いてしまう。
あいつは今すぐにじゃなくても、徐々に俺達を遠ざけるつもりなんだ。たった一つ、彩花ちゃんへの想いだけを縁にして。
「ほんっと!手の掛かる親友だよ!」
「まったく、迷惑千万な反面教師です」
「こうなったら唯笑が結婚してあげるしかないね!」
三者三様に爽快に、不敵に、快活に笑みを浮かべ席を立つ。どこに向かうかなんて言わなくてもわかっている。俺達をこれだけ振り回した帳尻を合わさせてやりに行こうじゃないか!
「といわけで会計よろしく~」
「一蹴君、素敵で美味しいお食事をありがと~。唯笑は今日の事一生忘れないよぉ」
「あんた等立派な三上一派だよ!」
「い、一蹴?私も少し出すよ?」
「それは彼氏としてのプライドが許さないから!」
「きゃあ~、一蹴惚れる~!」
「やったね一蹴君!智ちゃんの次に格好いい男の子になれるよ!」
「恩知らずの日本代表共が!」
泣きそうな一蹴を困ったように慰めるいのりちゃん。一蹴の機嫌の上方修正は君に任せた。代わりに下方修正はいつでも俺達に任せて。
店を出ると、先程まで降っていた雨は上がり、雲間から星が覗いている。
大丈夫。俺の足元にはもうあの日の凄惨は映らない。
水溜りへと一歩踏み出し、今度こそと歩き出す。
自分よがりなまま、間違えた事にも気付かず、目を逸らしてばかりいた過去は、どうあっても取り戻すことは無理だ。だけど、今ならまだ間に合う。あいつに手が届く。
俺は彩花ちゃんにずっと背負わせたままだった。今日の今日まで。だがそれも終わりだ。今度こそあいつの抱えるとてつもない危険物を、四人全員で分け合おう。それがどんな終わりになろうと、四人でなら耐えられる。いや、耐えるどころか失敗したぁッ!と、腹を抱えて笑い転げられるはずだ。
そんな俺達で良い。それが、良い。
俺の隣には四人のうちの一人、あいつの傍にもきっともう一人がいてくれる。
そして、俺達の後ろには背中を支えてくれる人達が沢山いる。
何一つとしてあいつに捨てさせやしない。なにがあったとしても、俺は諦めてなんかやらないからな、覚悟してまってろ……親友め。
そうして、俺達はあいつの鍵を抉じ開けに向かう。
いつか辿り着くと誓った未来へと向かって。
そこにどんなに残酷な挫折が待ち構えているかなんて、考えもせずに……