この世界に生きる全ての人間に共通して言えることがある。
どんなに裕福な人々でも、どんなに苦汁を舐めるような人生を生きてきた人でも、それぞれに胸に抱いている失えない何かを、誰もが壊さぬよう、包み込むよう、優しくその両手で大事に守りながら生きている。
それは想いの込められた思い出の物かもしれないし、それかちょっとやそっとでは手の届かない高価な物かもしれない。形あるものだけじゃなく、形のないものかもしれない。名声、矜持、愛情……目には見えない何かかもしれない。
他人から見れば価値のないものでも、人は誰しもが自分だけの譲れない何かを失わないよう、懸命に生きている。
少し誰かと触れ合えば子供でも理解する当然を、愚かな私は何一つ理解出来ていなかった。理解出来ていたのなら、あんなにも残酷な言葉を、自分よりも年下の彼に故意に突き刺すだなんて、出来やしない。
桧月彩花さん、彼女の通夜が行われた葬儀場まで足を運び、彼が出てくるのを待って、ナイフよりも凶悪な言葉を私は全身全霊の憎しみを込めて突き刺した。
あの瞬間の彼の顔を私は一生忘れない。忘れてはいけない。
彼の全てとも言える存在を失い、呆然自失の彼は底知れない悲しみを堪えたかのような表情……そして、私がその悲しみを何もかも殺したのだ。彼の感情を真っ白にしてしまった。
私の言葉に彼の唇が震え、言葉を失い、瞳は色を失った……そんな彼の表情を私はざまぁみろと愉悦に頬が緩んでいた。ああ、なんて醜いのか。自分の醜さ、醜悪さにに気付くのはそれから三年後の事だった。
まさか、彼が一生私が突き刺したナイフを大事に抱え、誰にも触れさせないように生きていくつもりだなんて、想像だにせずに……
何から話せばいいのか、どうやって智也の傷に触れるべきか、わからないまま俺達は不自然な沈黙の中、智也の家のリビングでコーヒーを口にする。
四人で智也を訪ねると、智也は何も言わず笑って中へと招き入れてくれた。しかも、雨に濡れたんじゃないかと、シャワーまで貸してくれるという、智也らしくない素直な紳士的な行為付きで。
そうして、女性陣がシャワーを終えて十分、俺達は取っ掛かりを口にしようとしては失敗し、コーヒーを飲むという非生産的な行為を繰り返して今に至る。
「そういや、飯は食ったのか?」
「あ、ああ。ファミレスで少しな」
「そうか。そんじゃ、俺だけだな」
カップ麺にお湯を注いで智也もリビングに戻ってくる。智也の手にするカップ麺の名前に目が引かれるが、今は突っ込まない。『激辛まろ甘酸辣湯』ってどんなカオスな味だよ。辛いの甘いの酸っぱいの?口の中で全部が混ざってなんの味もしないって落ちになるだろうが!
「……唐辛子の辛味しか感じねぇ~」
だろうな!商品開発部試食してねぇだろこれ!
「なあなあ信、お前も食ってみろよ」
「自分で責任もって食えよな」
「むう、なら唯笑は?」
「智ちゃんと間接キス……はいつでも出来るからいらない」
「あっそ……ん?いつでもってなんだ?おま、俺の知らないとこで何してやがる!?」
「ふへへ」
「気持ち悪い笑いしてんじゃねぇ!くそ、じゃあ小僧食え」
「食って、あんたの顔面に噴き出していいなら食うっすけど」
「誰も得しない絵面になるだろうが!そんじゃ、駄目元で陵」
「え?何か言いました?」
「聞こえない振りで逃れようとすんな!俺教師、お前生徒。だから食え」
「権力に屈するなと先祖から言い伝えられていますので、お断りします」
「すげぇ言い訳だな!?あ~、安かったから大量に買い込んだが、どうすりゃいいんだよこれ。こいつ製作者の悪意しか感じねぇ~」
吐き出しそうにしながらも食べ続ける智也の姿に、先程までの不自然な緊張が解けていく。まったく、智也には敵わないな。俺達の緊張を緩める為にわざと笑わせようとしてくれている。智也なりの気遣いなんだと、一蹴以外の全員が気付いていた。まあ、本当に食いたくないから処理して欲しいってのも本音だろうが。
そうして、智也のおかげで和やかな雰囲気になろうとしていたのだが、智也が食べ終わるのを待っていたかのように……
「三上さん……蒔田透子さんに会いました」
いのりちゃんが、意を決したかのように口を開いた。彼女の瞳と言葉が真っ直ぐに智也へと向けられ、そんな彼女へ智也は一瞬目を細めたかのように見えた。
「ふぅ~ん、なるほどなるほど。で、それがどうした?」
「それがどうしたって、三上さん……」
水を一口飲んで、智也は何事もなかったかのようにゴミを片す為台所へ向かう。
「あの人に会った……ねえ。陵、お前が何をしたいのか、お前等がなんで俺に会いに来たのか、なんとなくわかったよ。なるほど、通りでお前等がやたら変な顔をして家の前にいたわけだ」
ゴミを片して戻ってきた智也は、本当にどうでもいいといった顔をしていた。
「まるで魔王城に向かう勇者御一行みたいだった理由がそれか」
「例えが壊滅的にシリアス壊してんだよなぁ~」
間違いじゃないが、もうちょっと他に例えがあるだろう。こういうところが残念なんだよなこいつ。いや、わざとか。どうにかしてこの話をどうでも良いものとして切り捨てたいんだ。だからこいつは自分に嘘を吐く。これ以上俺達をそこに踏み込まないようにする為に。ならば、そうする理由はなんだ?探られたくない腹の内なのは理解出来る。ただ、自分を守る為だけに智也が虚勢とも言える仮面を付ける理由、それがわからない。一体智也は何のために、誰の為にその仮面を付けなければいけないのか……
「うるせぇなぁ。そもそもシリアスなんかになる話でもないんだっての」
ぐでぇっとソファーに背を預け、足をだらしなく伸ばして智也が語る。
「あの人が何を言ったのか知らないが、そりゃアレだ。あの人のお兄さんが彩花の事で責任感じちまって、あんな事になってしまったわけなんだが……そこら辺の事は知ってるんだろ?」
智也の問い掛けに、俺達は曖昧に頷いた。蒔田淳さん、彼が辿った結末を俺達は確かに知っているのだから。
「でだ、そこでちょっと俺も責任を感じていてな。もう少し蒔田淳さんの事を気に掛けていたら、死ぬことはなかったかもしれないってな」
「だから、人殺しだって自分の事を?」
「お前がファミーユで聞いた話だな。ま、そういうことだ」
何でもない事のように智也は語る。いや、嘯くとでも言うべきか。
「そう、ですか。でも、一つだけ気になる事があります。私、蒔田透子さんと会ったんですよ」
「ああ、さっき言ってたな。それで?」
「その時、彼女が言っていたんです。自分が三上さんの時間止めてしまったと、呪いを掛けてしまったって」
いのりちゃんの問いに、智也は考える仕草すらすることがなく、すらすらとその問いに答える。
「なんだ、そんな風に思ってたのかあの人。なんか悪いなぁ。それこそ大したことじゃないんだよ、なんつうか大事な人がいきなり目の前からいなくなるとさ、やり場のない怒りってあるだろ?そんでまあ、昔彼女からどうして蒔田淳さんが死ななきゃならなかったんだって、詰め寄られたことがあってな。きっとその事を言っているんだろうな。まったく、俺は気にしてなんかないってのに」
はははと笑いながら話す智也を見ていると、ああそっかと、俺達がただ気にし過ぎだっただけなんだと思わせられる。勝手に想像して、話をややこしくして、智也が何かを隠していると勘繰って……なんて馬鹿だったんだって笑ってこの話をどこかに押し流して、また下らないけど愛おしい日常が始まる。そう、してしまいたくなる。
だけど、そんな優しい日常を俺はもう許せないんだ。お前一人を置き去りにした日常なんて、俺は欲しくない。何年も俺は目の前の馬鹿を置き去りにした日常を生きてきてしまった。そんなの、もう耐えられねぇよ……
ありがとう、智也。今の今までありがとう。でもさ、それはもう終わりにするから。これから、俺がお前を置き去りにされた場所から連れ出すよ。ありがとうな、そして今までごめんな。だから、俺のすることは一つだけ。
「そっか、じゃあさ智也?」
「ん~?」
「じゃあ何でお前……死のうとした?」
「――ッ!?」
今まで誰も剥がそうとしなかったその優しい仮面を、力づくで剥がしてやる。どんな痛みが伴うとしても構わない。それが、何年も一人にしてしまった俺の責任なんだからな。
「おかしいよな?彩花ちゃんの事を愛しているお前は、愛しているからこそ自殺なんて馬鹿な真似……そんなこと出来るわけない。そんなことをするような奴じゃないって俺は知ってる。彩花ちゃんを泣かせるような事を自分からするような男じゃないよ、お前は。じゃあ、どうしてだよ?なんでお前は死のうとした?どうしてもお前が自殺しようとした事と、彩花ちゃんが亡くなった事だけじゃ繋がらないんだよ。これはどういうことだ?」
俺の言葉に智也は俺じゃなく、唯笑ちゃんへと視線を向けた。先程までの余裕をどこかに消し去り、責めるような視線を唯笑ちゃんへと注いでいた。
「唯笑、お前話したのか?話すなって俺言ったよな?」
「うん、話したよ」
「なんでだ?どうして話した?」
今まで聞いた事のないような、低く厳しい声色に唯笑ちゃんは怯えたように肩を竦ませたが、それに負けてはいけないと自分を奮い立たせて、怯えながらも真っ直ぐに智也を見つめながら答える。
「智ちゃんを一人になんかさせたくなかったから。そう言えばわかるかな?」
唯笑ちゃんの答えに智也は目を伏せ、ほんの少し何かを思案したかと思うと、ソファーから立ち上がって……
「わかった、ならもう良い。悪い、唯笑以外は全員帰れ」
有無を言わせない声、それだけ今の智也は追い詰められているという事を如実に語っていた。
「智也、お前が何と言おうと俺は「帰れっつってんだよッ!!」――ッ!?」
荒げられた言葉に、さすがに俺も目を剥いてしまう。
いつもの気楽さも余裕も何もない、形振り構わず俺達を遠ざけようとする三上智也がそこにはいた。これ、なのか?これが俺が見ようともしなかった本当の智也なのか?
自分でも自分の怒声に驚いたのか、気まずそうに俺達から視線を逸らす。
「悪い、怒鳴るつもりはなかったんだが……とにかく、今は帰ってくれ。唯笑、お前は俺と……」
――もうこれ以上加害者にしないで――
部屋を出ていこうとした智也の足が、全身が凍ってしまったかのようにその場で硬直した。
「三上さん、今の言葉が誰の言葉か、わかりますよね?」
いのりちゃんの問い掛けに、智也は黙ったまま動かない。まるで、何かが鬩(せめ)ぎ合っているかのようで、言葉も発せないようだ。
「蒔田透子さんは、詳しい事は自分からは話せないと言っていました。でも、どうにか三上さんを救って欲しいと……自分を罰しているかのようでした。三上さん、何があったのかはわかりません。ですけど、黙ったままで貴方は彼女を救えるんですか?一人であの人の心を救えますか?」
「……だ、まれよ」
震えている声には何が込められているのか、俺にはもうわからなかった。
「独り善がりでいつまであの人を苦しめ続けるんですか!いつまで蒔田さん達を加害者にしておく気ですかッ!?」
「うるせぇッ!!少し黙ってろ陵ッ!!」
ようやくだ。ようやく、智也へと手が届いた。俺達が知ろうともしなかった三上智也が今目の前に立っている。
「……加害者にしないで?何言ってんだよ、加害者は貴方達じゃない、俺だろうがよ」
蒔田透子さんの言葉に智也は戸惑っているのが目に見えてわかる。何をどうすればいいのか迷っているんだ。自分に何が出来るのか、自分の望みは何か、そして蒔田透子さんが智也に求めるものは何か……色んなことを秤に掛けて、そうして智也が選ぶ答えは何か……
「陵、あの人は確かに言ったんだな?加害者にするなって、自分からは話せないって」
「はい。三上さんから聞けと」
臆することなく答えるいのりちゃんに俺は少なからず驚いていた。今の智也を前に毅然としていられるほど、彼女は強い女の子だっただろうかと。
「……これがあの人の望みか?いや、それとも罰なのかもしれないな」
秤に掛け、出た結果は予想通りのものだった。智也は決して自分を選びはしないと。
「陵、悪いがコーヒーを淹れてくれないか?お前なら俺よりも上手く淹れられるだろ?」
「……はい!」
智也の答えにいのりちゃんは弾んだ声で応えた。そんな彼女に苦笑しながら、智也は溜息を吐きながらソファーへと座り直す。
リビングには沈黙の中にお湯を沸かす音だけがあり、演者が揃うのを怖れながら待っているようだった。その沈黙を、唯笑ちゃんが壊しにかかった。
「智ちゃん?」
「どうした?」
「あのね、こんな事今いう事じゃないんだけどね?」
「なんだよ」
「なんで……なんでコーヒーをいのりちゃんじゃなくて唯笑に頼まないの!?」
「ほんと今言う事じゃねぇな!空気読めよ!この中で一番腕に信用あるからだよ馬鹿!」
さっきまでの沈黙粉々。さらに追い打ちをかけるように一蹴が呟く。
「俺、何も喋れてないんだけど」
どんまい。
コーヒーを全員に行き渡り、口に含むとほんの少し安堵する。
時計の音がちくたくと耳に届きながら、俺の言葉を全員が焦らずに待っていた。
何から話せばいいのか迷っていた。何度か唯笑、信へと視線を向けては下を向く。あいつ等の頭の中には何が過っているのだろうか?
そうしてどれくらい待たせただろう、俺の口から小さな呟きが漏れた。
「まず最初に誤解を解こうか。あの事故はな偶然だったんだ」
「偶然って、それはどちらにも過失がなかったってことか?」
俺の問いに黙って頷く。
「信、お前に思い出させるようで悪いが、お前は勘違いしている事がある。そもそも彩花が事故に遭ったのは交差点じゃない。その少し前で車に跳ねられたんだ」
事故当時、信も蒔田さんも混乱していて正確な状況は理解していなかったはずだ。だから警察も最初は正確な状況がわからず、俺も致命的な勘違いをしてしまったんだ。あの事故の原因、その最たる人物は誰か……
「あの事故で責められる人間がいるとしたら、それはな――俺、なんだよ」
まったく予測してなかったのだろう。俺の言葉にそれぞれが驚愕を露わにした。
「何、言ってるんだよ?お前は彩花ちゃんを呼び出しただけで、他には何も」
「ああ、そうだ。俺が呼び出したんだ。そして、どう考えても原因がそこに行き着いてしまう。信、あの事故はな、誰かの所為と責任を問うのであれば、どうしようもなく原因は呼び出した俺へと帰結してしまうんだ」
暴論とも言える俺の論理に待ったを掛けたのは意外にも鷺沢だった。
「あのさ、信も今坂さんも当事者だから客観的にはなれないだろうから、俺が口を挟むんだけど、どうしてそんな馬鹿みたいな結論になるんすか?」
正直、俺は鷺沢がいてくれて助かっていた。こうして第三者が冷静でいてくれると、自分も冷静に話せる。
「まず、あの道路は30km制限の道路なんだが、蒔田さんの証言では少し急いでいて35kmで走っていたらしい」
「おい智也、それならどう考えても過失が彼にはある。それなのに自分が原因だったなんて……おかしいだろ」
信の疑問は最もだ。俺だって自分が免許を取るまでわからなかったんだからな。何とはなしに言った、教官の言葉を耳にするまではな。
「いいや、何もおかしい事はないんだ。まず、なぜ交差点の前で跳ねられたのだろうと推測出来るのは、本来交差点には一時停止の白線が引かれている。だから、そこの前ではスピードを落とすし、もしくは最悪徐行する。警察はタイヤの跡でわかったみたいだが、いいか?そんなスピードで打つかっても人は死なない。打ち所が相当に悪くなければな。ということは、その前の道で跳ねられたことになるんだが、信が目撃したのは交差点に差し掛かる前の道で起きた事故って事だ」
あまりに衝撃的な事故で本人は正確に記憶していなかったんだろうな。無理もない。中学生の子供がそんな場面に直面したら冷静でなんていられないからな。
「い、いやそれでも蒔田さんは35kmで走っていたって!なら5kmは違反しているじゃないか!」
そう、蒔田さん自身もそう証言している。5km違反していたと……メーター上は、な。
「これはな、俺が免許を取る時にたまたま教官が話してくれた豆知識なんだが、日本の車って優秀なんだよ。メーターが5km早くても、実はスピードガンで測ると30kmと測定されるんだとさ。そういう風に安全性を高めているんだってよ」
「……嘘、だろ?」
「嘘じゃない。俺もそれまでは知らなかった事実だ」
「じゃあ、蒔田さんは?」
「ああ、蒔田さんは違反なんかしていない」
蒔田さん自身も知らなかったのだろう。あんなに狼狽えていたんだ、知っていたならもしかしたらもう少し落ち着いていられたかもしれないのに。
「いいか?あの日、蒔田さんは確かに少し急いでいたのかもしれない。でも、道交法に違反なんかしていない速度で走っていた。ただ、その日は雨が降っていて視界が良好ではなく、更に人二人が通れるかのような脇道から何かが飛び出してきた……そんなの、避けようがない。彼じゃなくても事故は起きていただろう」
「脇道?」
「ああ。遅刻しそうな時、よく使った近道があるんだ。あの道路に出る脇道を何度も俺達は利用したことがある。だよな、唯笑?」
「……そう、だったね」
俺が寝坊して、彩花が作った朝飯を咥えながら二人を連れて走った道。微笑ましいあの脇道が、笑えなくなってしまう道に変わってしまうなんてな。
「おそらく、彩花は急いで俺のもとまで向かったんだろうな。だから、あの脇道を走ってきた。抜けた先は車通りも少ない道路だ、雨の音で車の音があまり聞こえなくても不思議じゃない。つまり、あの事故はどんなに突き詰めても起きるべくして起こった事故で……それを防ぐには俺が呼び出さなければ良かったなんて、子供染みた暴論になっちまうんだよ」
そう、あの事故は彩花にも蒔田さんにも過失なんてない。責任を問われるのであれば俺だけなんだ。
「あ、いや……OK、わかった。あの事故に関してはわかったけど、それがどうしてお前が自殺しようとした事になる?」
自殺未遂について、信にその事を問われると思わず顔を背けたくなってしまう。この事に関してだけは俺は唯笑を責めたい。どうして信に話してしまったのか……こいつにだけはどうしても聞かせたくなかったのに。
だが、蒔田透子……彼女が俺に求める贖罪が懺悔だと、全てを曝け出すことだと言うのなら仕方ない。俺は、あの人達の望みを無下になんて出来ないのだから。
「それは、な……それ、は……」
歯を食い縛り、なんとか口にしようとするも、全身を襲う寒さにどうにかなってしまいそうだ。そういう罪を俺は犯してしまったんだ。この罪は俺一人の物で、誰にも分け与えてはいけないもの。
彩花の家の方へと視線を向けると、彩花が大丈夫と言って背中を押してくれた気がした。
ふぅ~と息を吐いて、今度こそと口を開く。あいつの前で格好悪い姿を晒したままじゃ笑われてしまうから。
「この事で俺は唯笑、俺はお前のお母さん、おばさんに一番感謝している」
「お母さんに?」
「ああ、そうだ。この事は俺達の両親しか知らないし、口外しないようにいていたんだ。いや、お前達に話すべきじゃないって考えたんだろう。俺が自分から話すまではな。それがいつの事か、唯笑?お前はわかっているんじゃないか?」
俺の問い掛けに、唯笑は曖昧に笑おうとしながら頷く。馬鹿だなぁ、無理に強がらなくってもいいのに。いや、そうさせたのは俺だな。ごめんな、唯笑。
「多分、病院だよね?」
やっぱりな。唯笑が気付かないわけがない。唯笑が俺から離れた瞬間なんて、あの時だけだもんな。
「その通りだ。その前に聞いておこうか。なあ、お前等は知ってるか?この世で最も人を殺してきた凶器がなんなのか。陵、お前ならわかるんじゃないか?」
向けられた言葉に陵は影を落とし、俯きながら答えた。
「嫌な、先生ですよね。その答えを教えてくれたのは三上さんじゃないですか」
「知らなかったのか?俺は意地悪なんだよ」
「そう、でしたね。ええ、そういう人です。世界で一番人を殺す凶器……それは私がリナちゃんに使ってしまった物で、誰もが持っているもの……言葉、ですね?」
「正解だ」
嫌な事を思い出させてしまったが、陵が一番理解していると確信していたから問い掛けたんだ。良かった、あいつはしっかりと自分の犯した罪と向き合っている。それならば、俺が向き合わないわけにはいかない。
コーヒーを一口飲んで、少しづつあの日の事を思い出す。俺が世界で一番凶悪な凶器を突き立て、三上智也と言う罪人が産まれた日の事を――
霊安室へと案内された彩花の両親と俺の両親、そして俺は彩花の変わり果てた姿に声を漏らすことも出来なかった。現実味のない現実を受け入れる事も出来ずに、そんな時だった、唯笑達が病院へと着いたのは。
「智ちゃん?彩ちゃんは?」
直接霊安室へと来た唯笑は、すぐに俺の肩を掴んで問い掛けてきた。そんな唯笑に俺は力なく彩花が眠るそこを指差す事しか出来なかった。
俺の指の先へと、ゆっくりと向かう唯笑だったが、俺は唯笑に寄り添ってやることが出来なかった。ただ――
「あ、ああッ……う、そ……彩、ちゃん?ねえ、彩ちゃん?あや、ぢゃ、ん……」
唯笑の悲痛な声にならない声を聴いているだけだった。
「あああああああああぁぁぁぁ――――ッ!!!!」
彩花の亡骸に縋りつき、喉から血が出るかのように泣き叫び続ける唯笑をおじさんとおばさんが両側から包んでやる。
「お、かあさんッ、おど、う、さんッ!!あや、あやぢゃ、んがッ!!彩ちゃん起きないッ!!な、んでぇ!なんでぇッ!!」
「唯笑、そんなに泣いてたら彩が困っちまうだろ」
「そうだよ、唯笑。そっとしてあげないと、ね?」
「困らせてるんだもんッ!!お、おかしいんだよ!?唯笑が泣いてると、彩ちゃん、彩ちゃん、お、起きて、だから、だからぁッ!!」
「唯笑……」
「あ、あと少し、なんだよぉッ!!ほらぁ、あと少しで、彩ちゃん、楽しみで、大晦日、でぇッ……あ、う、あ……ああッ……」
崩れ落ちる唯笑を支えるようにおじさんが肩を抱いていた。
「あんた、悪いんだけど唯笑を連れて行ってくれるかい?これじゃあ、病院の人達に悪いからね」
「うん。ほら、唯笑」
「い、やだぁッ、智ちゃんッ!彩ちゃん、彩ちゃんがぁッ!!智ちゃん、彩ちゃん、彩ちゃんがぁ――ッ!!」
俺達とずっと一緒にいたかったのだろう。だが、唯笑の取り乱しようは尋常じゃなく、とてもじゃないが、このままこの場にいさせる事が出来なかった。だから、唯笑が最後に見たのは、俺がみっともなく結さんと宗吾さんに土下座する姿だけだったはずだ。
唯笑の痛ましい泣き声に弾かれたかのように、俺は自分でもわからずに二人に頭を下げ続けた。
「ごめ、なさい。俺、俺の所為で彩花が、こんな、こんな事、に……」
「智くん止めて。頭を上げて、ね?」
「智也、頭を上げなさい。君に頭を下げさせるなんて、彩花に私達が怒られてしまうじゃないか。ほら、頭を上げなさい」
二人の制止も聞かずに俺は頭を下げ続けた。俺以上に悲しいはずの二人が泣かずに堪えている。その姿を目にすると余計に自分を許せなかった。
「俺が呼び出さなきゃ、こんな、こんな事に、はぁッ!!」
そんな俺の腕を掴んで無理矢理立たせる奴がいた。
「いい加減にしろ馬鹿息子」
それが俺の親父だった。
「お前の自己満足で二人を困らせてんじゃねぇぞ。なんで娘の事を想って悲しんでいたい二人が、こんな時にまでお前に気を遣わなきゃなんねぇんだ。テメェの独り善がりなんざ甚だ迷惑なんだっつうの」
「智一さん、智くんはそんなこと」
「結さんもこんな馬鹿に気を遣わなくて良いから。今は彩花ちゃんの事だけ考えていたら良いんだ」
いつもはうざいだけの親父が、この時だけは格好よく見えたのを覚えている。一番冷静に毅然としていたのは親父だった。
「おい、俺達も行くぞ。家族水入らずの邪魔だかんな」
親父に無理矢理立たされ、力づくで歩かされようと言う時、その人が目の前に現れた。現れてしまった。
「お取込み中のところ申し訳ありません」
そう挨拶をしたのは警察の方で、どうしても謝罪をしたいのだという彼の要望を聞き入れて連れてきたのだという。
警察の方に挟まれて立つ蒔田淳さんは、自分のしてしまった事に押し潰されそうなほどに震えていて、とてもじゃないがまともに話せるようには見えなかった。
それでもと、罪に押し潰されそうな自分を無理矢理立たせて、精一杯の勇気を振り絞って歩いてきたのだろう。血の気を感じさせないような真っ白な顔で、目に沢山の涙を堪えながら、彼は宗吾さんと結さんに頭を下げる。
「す、すみません、でした。こんな、取り返しのつかない事を、僕がもっと、もっと気を付けて運転していればこんな事には……」
この時、彼は二人への罪悪感と共に、自分自身を罰していたのだろう。何度も何度も謝罪の言葉を口にし、だけど自分に涙を流す資格はないと、涙を堪えていた。
今だからこそそれがどんなに勇気がいり、どれほどの優しさと強さが必要なことかわかる。だが、この時の俺は彼のそんな人間性を慮ることが出来なかった。なんて愚かなのだろう。彼のような強さが俺にもあったのならと、悔やんでも悔やみきれない。
そんな最低なクソガキは――
「……け、んな」
彼とは対極にある弱さを抑える事が出来なかったんだ。
「ふざけんなよッ!!」
親父の手を振りほどき、俺は罪に震える彼へと掴み掛らんばかりの勢いで詰め寄ったのだった。
「何がすみませんでしただッ!!んなことで彩花が生き返るのかよッ!!あんたのそんな謝罪で彩花が生き返るのかよッ!!」
掴み掛ろうとする俺を警察と親父が止めに入るが、彼等の制止の言葉は俺の耳には届かなかった。
今でも何度も何度も夢に見る。この時の俺は狂気に侵されていた。この場に罪人がいるとしたら、それは間違いなく俺一人だ。
「あんたは謝って気が済むんだろうけどな、ふざけんなよ。彩花が死んで、何であんたが生きてんだよ?」
止めろ、それ以上は言ってはいけない。そんな理性なんてとっくに粉々に壊れて跡形もない。あるのはただ醜い憎悪だけだ。
自分じゃ止められないその憎悪……
「彩花が死んですまないってんならなぁッ!あんたが死――!!」
その先を俺は口にすることが出来なかった。その先を力づくで止められたんだ。
俺の憎悪を真っ直ぐに受け止めたのは蒔田さんでも親父でも、ましてや警察でもなかった。
これ以上ない程の力で頬を張られ呆然とする俺を、窘めるなんて生易しい、突き刺す視線で射竦める。それが、おばさんだった。
「智也、黙んな」
「おば、さん?」
「今あんたが口にした言葉、そいつはこの世で最も卑劣な凶器なんだよ。見な、彼の顔を」
おばさんの言葉に素直に従う事が出来ず、気まずく視線を逸らす。
「見ろって言ってんだッ!!」
おばさんに一喝され、身が竦み言葉に従う。
言われた通り顔を上げると、目の前には後ろで眠る彩花と変わらない、顔面蒼白な蒔田さんがいた。その顔はとても生きているとは思えないほどで……
「あ……」
そうしてようやく憎悪を抑えることが出来た。おばさんに一喝されるまで、俺は何一つ見ちゃいなかった。自分の悲しみだけを見つめて周りを見ずに喚き散らしていただけの、ただの子供だったんだ。
「智一、あんたが止めないでどうすんのさ」
「わりぃ。おら、お前も行くぞ馬鹿」
自分のしてしまった事を振り返るよりも早く、親父が俺の腕を掴んで無理矢理連れていく。
蒔田さんの横を顔を合わせずに通り過ぎるとき、小さな、本当に小さな呟きが耳に届いた気がした。
酷く虚ろな声で――『そう、ですね』と呟いた気がしたんだ。
霊安室を出ると、廊下には見知らぬ人達が痛ましそうに目を伏せていた。蒔田さんの家族が……
彩花の通夜は二日後に行われ、同じ中学の友人が参列した。中でも印象的だったのが、花祭が人目も憚らずに泣いていたことだ。あいつ、本気で彩花の事が大好きだったんだなぁとぼ~っと考えていた。
涙が枯れるほどに泣くと、今度は心が麻痺するようで、俺も唯笑もどこか夢の中の出来事のように感じていた。
「先輩、大丈夫っすか?」
そう声を掛けてきたのは、俺達三人にやたら懐いてきた一年後輩の女子だった。
長谷川くるみ、頭が残念なのが取り柄な後輩。
「お前も来てくれたのか」
「当たり前っす。自分にお笑いを仕込んだのは先輩達っすからね。師匠の最後に会いに来るのは当然じゃないっすか」
とか言いながら手に持っているハリセンに目が行ってしまう。そういや焼香の時も手放さずに持っていたな。参列者全員が苦笑していたんだが。
「まさかとは思うが、お前それ……」
「ああこれっすか?はい、棺桶に入れるつもりっす」
「仏がボケてくれるような気さくな奴だったら役立つだろうな」
「大丈夫っすよ。だってあいつ神様なのにパンチなんすよ?アレは完璧ネタじゃないっすかね?」
「お前は間違いなく地獄行きだな」
「智先輩、死ぬときは一緒っすよ?」
「なんでだよ」
「二人で漫才して、彩先輩に審査してもらうんですよ」
八重歯を覗かせて、笑いながらくるみは涙を零す。
「ああ、それもいいかもな」
「彩先輩の審査は厳しいっすから、入念に打ち合わせしないとっすね」
「ネタなら俺に任せておけよ」
「はいっす。じゃ、また」
「おう、今日はありがとうな」
そこでくるみと別れ、唯笑はどこかと探すと、黒須に唯笑が抱き締められていた。あの二人もよくわからん関係だよな。
唯笑の事はしばらく黒須に任せるか。どうすっかな、結さん達の手伝いでもしてくるか……なんて、考える余裕がある自分に笑ってしまう。きっとこれが現実だなんて受け入れられていないんだろう。
明日の朝には彩花が俺を起こしに来て、彩花を困らせながらゆっくりと準備して三人で一緒に学校に行って、俺と彩花に気を利かせた唯笑が放課後は離れて、二人でゆっくり寄り道しながら帰る。修学旅行はどこに行くか相談しながら、下らない話をして帰るんだ。そういうどうでもいい、愛おしい日常を送る。そんな光景が夢ではなくて現実なんだ。そう、今が夢で明日から現実で……
頭を振り、余計な思考を追い出す。今は今を見なければいけない。
少し外の空気を吸おうと、俺は葬儀場を出て少しだけ夜道を散歩しようとした。
「……こんばんわ」
葬儀場を出てすぐの電柱の影から声が掛けられ、そちらを向くとどこかの高校の制服を着た女性が、どこか不安定な笑顔を張り付けて立っていた。
背筋に得も言われぬ寒気が走りながらも、俺はこんばんわと挨拶を返す。
彩花の知り合いだろうか?通夜に来たのなら中に入ればいいのに。
幽鬼のようなふらふらとした足取りで女性は近づいてきて、俺の前でピタッと足を止めた。
「あ、あの?何か?」
俺の反応が面白かったのか、彼女はふふふと寒気のする笑い声で応える。
そうして、彼女は俺の耳に顔を寄せてきて、その事に驚いた俺は身を引こうとしたが、腕をがっしりと掴まれて身動きを取れなかった。
「あなたに朗報よ。あのね、死んだの。兄が死んだわ。あなたの望み通り、ね」
ぞわっと身の毛が弥(よ)立つ声と言葉。し、んだ?誰が?
いきなりの事に頭が混乱し、上手く言葉を返せずにいると、俺の様子が不満なのか舌打ちをしながら彼女は俺から一歩離れた。
「薄情ね、覚えていないかしら?私達初めましてじゃないのよ?ほら、思い出してよ……ヒントは、病院」
病院?何を言っているんだ彼女は。俺は病院で彼女と会った事なんて……会った?いや、なんだ……この違和感は。会った事がないはずなのに……何かが引っかかって……
「――あ、え?」
病院、霊安室……そう、そこだ。俺は彼女に会った事はない。だが、目にした事ならある。俺が霊安室から連れ出された時、蒔田さんの後ろにいた、彼の家族かもしれない人達の中に俺は確かに彼女を目にした。
「もしかして貴方は蒔田さんの?」
「せいか~い。そう、私は蒔田透子。兄さんの妹で、あの時あの場にいたのよ」
妹だって?いや、それは問題じゃない。そこじゃなくて、さっき彼女はなんて言った?確か……
『あなたに朗報よ。あのね、死んだの。兄が死んだわ。あなたの望み通り、ね』
「死んだ?」
真っ白になる頭の中で、死と言う言葉だけが埋め尽くしていく。
愕然と立ち尽くす俺に彼女はにんまりと笑って言葉を紡ぐ。
「あはは、やっと理解した?そう、兄さんがね死んだの。おめでとぉ~、良かったわねぇ。貴方のお望み通り兄さんは死んだわ。首を括って、ごめんなさいって遺書を残してね」
ね?ね?今の気持ちはどう?なんて無邪気な声で彼女は俺に聞いてくる。
今の気持ち?なんだ、今の気持ちって?ていうか死んだってどういうことだ。ごめんなさいって何に?
まとまらない思考は徐々に徐々に俺の罪を浮き彫りにしていく。形作られてはいけないその形は……
「うんうん、良い表情ねぇ。そんなあなたにね、是非送りたい言葉があるの。受け取ってくれる?」
これ以上何を彼女は言うつもりなのか、耳を塞ぎたい衝動に駆られ、一刻も早くこの場から逃げ出そうとしたが、それを彼女は許してくれない。俺の両手を掴んで離さないようにしっかり握り、満面の笑みでそれを口にした。
「ねえ、どうして兄さんが死んで、あなたが生きてるの?」
俺が彼に突き刺した凶器、それの凶器が俺の心臓へと帰ってきた。
ああ、そうか……そうなんだ。
「はい、解放。どうしてもあなたにこれが言いたかったの。あなたのとっておきの凶器はね、兄さんを見事に殺してくれたわ。自分ばかり損をして、周りの得ばかりを考えるお人好しの、誰よりも何よりも大切な私の兄さん。そんな兄さんの心臓にね、いらない凶器が刺さってたの。だ・か・ら、君に返すわ」
殺したんだ。俺が俺の凶器で彼を殺した。俺の憎悪でこんな、こ、んな……
「あ、そうだ。帰る前にもう一つ。あのね、私ずっと、ず~~~~っとね、君の事忘れないからね。私の兄を殺した殺人鬼の顔だもの、忘れてやるもんですか。どこでもいい、早く野垂れ死ね、殺人犯」
違うと、そんなつもりじゃなかったんだと言いたかったのに、言葉が口から出てくることはなく、彼女が去った後、膝から崩れ落ちて頭を抱える。
「俺が、殺した?人殺し?」
取り返しのつかない事態になって、俺はようやく自分の罪を自覚した。
この世で最も卑劣な凶器とおばさんは言った。その通りだ。俺はその卑劣な凶器を自覚もなく振り回して突き刺し、彼を死に追いやったんだ。
「ああ、あぁ……」
誰かが恨まなくても、憎んでくれなくても、俺は俺を許せない。許してはいけない。この時、俺は自分が生きるのを許せなかった。
彩花を理由に弱さを肯定し、日常の何もかもを砕いて、一人の青年を殺した殺人犯、それが卑劣な人間……三上智也なのだから。
「だから、俺は死のうとした。けど、それも逃げだと親父とおばさんに叱られてな、自分が犯した罪は生きて逃げずに贖えって。確かに二人の言う通りだ」
智也の告白に、全員が言葉を発せられずにいる。何を口にしても烏滸がましい気がして……何より、想像していたよりもずっと重い挫折に何を言えばいいのかわからなかった。
「考えて考えて、でも答えなんて見つからなくてな。それでも、そんな中で一つだけ覚悟したことがある。蒔田さんを死に追いやった俺は、何があろうと幸せを望むべきじゃないってな」
「だからですか?だから三上さんは皆を遠ざけようと?」
あまりの衝撃に声を出せない俺達の代わりに、いのりちゃんが智也へと疑問を投げかける。
「まあ、今すぐにってわけじゃないんだが、徐々にそうしていこうかとは考えていた」
諦めたかのように力なく笑い、智也は肩を竦ませて答えた。
「んだよ、それ……そんなこと俺がさせると思ってんのかよ?」
強がってなんとか口にしたそれを、智也はわかっていたかのように一蹴する。
「ああ、だろうな。だから大学を卒業したら県外に出て、お前達と自分から離れようかなとは考えてる。てか、それしかないだろ」
何もかももう決定しているような口振りに俺は悔しさで唇を噛んだ。
悔しい、悔しい悔しいッ!!俺はこんなにも何一つ知らずにいた。それが何よりも悔しくて仕方ないッ!
「いい、じゃないか。何があろうと、どんなに自分を嫌おうと、俺が、唯笑ちゃんが絶対にお前を……」
俺のその先の言葉を智也は首を横に振って止める。
「駄目なんだよ信。それじゃあ俺は駄目なんだ」
「なんでだよ!お前がした事も全部受け止める!俺はこんな、こんな事の為にお前と親友になったわけじゃないッ!」
ほんの少し、切なそうに笑ったあと、智也は溌溂とした笑顔で俺と唯笑ちゃんへと……
「それだよ。あのな信、俺はお前等といると最高に幸せなんだ。何もかもどうでも良くなるくらい楽しくて楽しくて、自分が何者か忘れてしまいそうな程に幸せになっちまう。こんなに幸せな今はこの先ないってくらいだ」
智也の口から流れ出てくる、嬉しい本音。なのに、どうしてこんなにも悲しく聞こえてしまうのだろうか?
幸せだと、彩花ちゃんを失っても尚、今が幸せなんだと胸を張って宣言してくれる。こんなにも嬉しい事はないはずなのに。
「でもな、だからこそ俺はそれが許せない。幸せだなって感じる度に俺の頭に蒔田さんの顔が過るんだ。こんなに幸せで良いはずがない。あの人の幸せを奪った俺が誰よりも幸せになってはいけない。そんな事、誰が許してくれても俺が俺を許せない。信、俺は最低なんだ」
その先を言わせてはいけないと、焦燥に駆られなんとか止めようと、なんの打算もない言葉が口から出てくる。
「最低で何が悪い!お前が最低で、言葉で彼を死に追いやったのはわかった。けどだからってお前の幸せを俺が望んじゃいけないなんて理由にはなんねぇよ!」
「信君……」
「誓ったんだ!彩花ちゃんに俺は誓ったんだよ!お前がこの先、彩花ちゃんと一緒に幸せになるはずだった未来に俺が連れて行くって!そう約束したんだ!」
「稲穂さん」
「お前、今の今まで忘れなかったんだろ?蒔田さんの事忘れずに生きてきたんだろ?いいじゃねぇか、じゃあこれからも忘れずに幸せになろうとしろよ!償いながらでもいいじゃないかよッ!!」
こんな何もかも諦めた笑顔をさせる為に俺はこいつの親友をやっているんじゃない。彩花ちゃんにこんな智也の姿を晒す為に俺は生きてきたわけじゃない。
「そもそも何もかも間違ってんだよ!あの事故の時、俺が迅速に対応出来ていたら誰も不幸になんてならなかった!お前の責任なんかであって堪るかよ!勝手に俺の責任を奪うんじゃねぇよッ!あの事故の責任を追及するなら俺にしろよ!お前の抱えている贖罪も半分俺に渡せよッ!」
支離滅裂で、論理なんかどこにもなくて、暴れ狂う感情だけの言葉を八つ当たりのように喚き散らす。
智也が誰かを追いやったとか、その為の償いだとか、そんなの俺はどうでも良い。ただ一つ、俺は……
「まあ、お前の言いたい事もわかる。けどな信、一つだけ聞くぞ?お前ならこの先の幸福を望めるか?」
反論しようと口を開くが、言葉が喉に絡まって出てこようとしない。反論なんて出来るわけがない。なぜなら俺はその気持ちを痛い程に理解しているから。
同じなんだ。智也も俺もあの時から同じような気持ちを抱えて生きてきた。違うのは、その気持ちに誰かが寄り添っていたか、誰もいないかの違い。
そんな智也に何を言えば届く?どんな言葉なら目の前のどうしようない馬鹿を救える?
どうしたって止められない。俺がそうであるように、智也を救える言葉を俺は持ち合わせていない。だから……
「頼むよ智也……俺を一人にしないでくれ……」
何も飾る事のない、心にたった一つ残ったその言葉。
お前がいなくなったら俺はどこに向かって歩けばいいのかわからないんだよ。
「サンキュ、信。唯笑?」
「なに?」
「信の事頼むな」
「うん。でも、智ちゃんの事も唯笑は彩ちゃんに頼まれてるんだよ?」
「それはまあ、俺から彩花に謝っておくからさ」
そう口にして智也は立ち上がり、部屋を出ていこうとする。
「待てよ智也!俺はまだ納得なんてしてないぞ!」
「別に納得させようだなんて思ってもいねぇよ。お前がどう思おうが俺は俺のやりたいようにやるだけだ。それと、唯笑は後で説教な。こいつがこうなるのを知っていたから口止めしたってのに」
「唯笑のが説教したいもん」
「それと陵」
「はい」
「……これがお前が知りたかった真実だ。これで満足か?」
「…………」
「唯笑、俺は出てくるから鍵はいつもの場所に入れとけよ」
そうして智也が部屋を出て行ったあと、残された四人は言葉もなく項垂れるしかなかった。
どんな真実が待っていてもあいつを独りから掬い上げてみせると息巻いていた。その覚悟と決意を胸に智也から過去を聞き出したはずだったのに……
「俺、あいつの何を分かった気でいたんだろうな?」
俺は三上智也の親友だなんて胸を張れるような人間じゃない。何一つ理解しようとしないままで、でもそんな俺の自己満足にあいつはずっと付き合い続けてくれていたんだ。
三上が去った後、信は自分の無力さに歯噛みし、今坂さんは曖昧に微笑みながら信の隣で物思いに耽り、俺はあ~あと溜息をする。
そんな中、俺の隣に座る祈りが拳を作って震わせながら呟いた。
「……あったまきた」
「いのり?」
「一蹴、ちょっと私も出掛けてくるね」
「いや、出掛けるってこんな夜中に一人でって……あ、いのり!?」
怒りを抑えきれずに出ていったかのように俺には見えた。原因は多分三上の言葉だ。
これで満足か?と三上はいのりに向かって言ったんだ。
顔を真っ赤にして出ていったいのりを追いかけようかとも思ったが……
「情けねぇ、情けねぇよ……あいつをずっと独りにしてたのは誰でもない、俺じゃないか」
なんて心底情けない姿を晒す信をそのままにしておく事が出来なかった。
「はあ~あ、ほんっとにダッセェな信」
だから仕方ない。ここは恋人同士で作業分担だ。三上をなんとかするのはいのりに任せて、こっちはこっちで仕事をしようじゃないか。
「なんだよ信、この程度で情けねぇ。よくもまあ今まで恥じらいもなく親友だなんだと……お笑い草とはまさにこの事だよなぁ」
「一蹴、悪いけど今はお前の挑発に乗ってやれるほど余裕がないんだ」
さすがに二度目は無理があったか。それなら別に構わない。俺には俺の覚悟がある。あんなヘタレに貸しを作ったままだなんて、こっちは我慢出来ねぇんだよ。
一つ息を吐き、立ち上がって信の目の前まで向かい……
「いい加減どいつもこいつも悲劇気取ってんじゃねぇ!」
胸倉を掴んで無理矢理立たせ、啖呵を切る。
「……放せよ。お前に何がわかるんだよ?俺達の何がわかるって言うんだよ!」
おっけ、反抗する元気だけはまだ失っていないようだな。
「どれだけの時間あいつと一緒にいて、どれだけの時間気付けなかったと思ってんだ!何年も俺はあいつを独りにしてたんだ、何が親友だ!ああそうだよな、お笑い草もいいとこだろうな!」
俺の手を振り払い、信は自分自身を糾弾する言葉を吐き出し続ける。
「あいつは俺達の為にずっとこんなどうしようもなく重いものを独りで背負い続けてきたんだ!俺達が笑えるようにってずっとだ!あいつが甘えられたのは彩花ちゃんにだけで、他の誰にも弱音なんて言えなかった!そうしてしまったのは俺だ!俺があいつを独りにしたんだ!」
その言葉はあまりにも痛い。少し前までの俺を見ているようで恥ずかしくなる。
「ふぅ~ん。それが今の信の気持ちか。じゃ、今坂さんはどうなんすか?」
信が取り乱している理由は理解出来る。ただ一つ、今坂さんが狼狽えていない理由が俺にはわからない。もしかしたら、今坂さんは持っているのかもしれない。
「うん?唯笑?唯笑は~……どうしよっか?」
三上が引き籠っている部屋のドアを開ける為の鍵。それを今坂さんは持っていて、今ようやく開けられる条件が揃ったんじゃないのか?
「信君、信君はどうしたいかな?」
「どうしたいって、唯笑ちゃんはどうする気なんだ?」
「唯笑は決まってるよ、どうしたいかなんて。でもね、唯笑だけじゃちょっと寂しいんだ。だって、信君も智ちゃんの大事な家族だもん。だからね、信君に一応聞きたいんだけど……」
そう前置きして今坂さんは信の左手に手を添える。
「信君はこの先の人生、何があっても智ちゃんと一緒にいてくれる?彩ちゃんと唯笑と智ちゃんと……一生を誓える?」
お、おう。まさかの二夫二妻制のプロポーズに俺は目が点になってしまう。
まさかの今坂さんのプロポーズに信は逡巡なんてあるはずもなく、彼女の目から一時も逸らさないままに応える。
「今更な質問だよ」
信の答えに満面の笑みで今坂さんは頷き、即座に携帯で誰かへと電話をする。
何をしているのかと俺と信は首を捻る中、今坂さんは電話の向こうへと遠慮のない声で……
「やったよお母さ~ん!智ちゃんからあの時の事聞いちゃった~!」
「……はい?」
理解が追い付かない俺と信は同時に疑問を口にしたのだった。
「三上さんッ!!」
きっと公園に向かったのだろうと思い、公園へと向かって走った。すると予想通り公園内を歩く三上さんを発見し、夜中にも関わらず大声で呼び止めてしまった。
ここじゃないけれど、公園で三上さんと出逢った事が印象に残っていたから。
振り向いた三上さんはうへぇ~と面倒な顔をしながら……
「えっと、どこがでお会いしましたっけ?」
「……本気で実行するんですね」
稲穂さん達に話したら他人になるとかなんとか。もうどうでもいいですけど。
「初めまして陵いのりです。反面教師のお尻を拭く為に奔走したのに、仇で返されている最中のとても可哀想な女の子です」
「はあ、それは大変ですね。もう夜中なのに女の子の一人歩きは危険ですし、早くお帰りになった方がよろしいですよ」
え~、他人行儀が過ぎてもはや別人じゃないですか。演技下手ですかこの人は。
「ええ、そうですね。私も速く用事を済ませて帰りますよ。帰って不細工なぬいぐるみをサンドバックにします」
「……まだ持ってたのかよ」
本気で引いてますよね?貰ったものを無慈悲に捨てるほど恩知らずじゃありません。べ、別に誰から貰っても同じですけどね!
「それで、何か?」
「なにが何か?ですか!なんですかこれで満足かって!随分な物言いじゃないですか!さすがに私も怒ります!」
「……お前いつも俺に怒ってるじゃん」
「なんですか?」
「なんでもないです」
本当にこの人はいつもいつも!どうしてこの人はこんなに自分を大切にしないのだろう。わざとふざけて周りの気持ちを和らげて、そうして自分を遠ざけて……
「受けとめたいって、どんな言葉を投げかけられても逃げたくないって、そう言ったのは三上さんじゃないですか!そう言って私の手を引いてくれたのは三上さんじゃないですか!」
足が震えて、何もかもがどうでも良くて、一蹴から逃げようとしていた私を、その手で強く繋ぎ止めてくれたのは三上さんなのに。
「私にそう言ったくせに自分はなんですか?親友だって言ってくれる稲穂さん、産まれてからずっといろんな悲しみや辛さ、喜びを分かち合った今坂さん。そんな二人を置き去りにして、そうやって二人を遠ざけて逃げているのは誰ですか!」
どんな事でも笑って受け入れて前に進む……そんな憧れてしまうような背中を見せてくれたのに、こんなにもその背中が小さかったなんて……
「それともあれですか?実は二人は三上さんにとっては、どこにでもいる大多数の内の一人で、だから別に二人がどうなろうと、何を思おうとどうでも良いんですか?だとしたら心から軽蔑します。三上さんは世界で私よりもずっと最低な人間です!」
格好良い背中を見せ続けて欲しい。その背中が大きいのだと信じさせて欲しい。私の身勝手な我侭にどうか応えて下さい。
私の挑発に三上さんなら乗ってくると、私は淡い期待を抱く。まだ憧れさせ続けてくれるって。
「……ああ、そうだな。お前の言う通りで間違っていない。俺はな、そういう最低な人間なんだ」
それなのに、三上さんは自嘲気味に笑って私の言葉を全面的に肯定してしまう。
雲の切れ目から見える星を見上げ、力ない声で三上さんが話し始める。
「自分の大切な人を傷つけたくなかったから遠ざけようとした……違うそうじゃない。俺は煩わしかったんだ、あいつ等の優しさがいつも鬱陶しかった。俺が幸せになろうとしていない?違うな。それ自体を求めない事が俺にとっては救いで、それ以外どうでも良いんだ。なのにあいつ等はいっつも俺の事で世話を焼いて……正直疲れちまうんだよ」
その言葉の数々が本当に三上智也という人から流れ出ているのか疑いたくなるような、そんな言葉の羅列に耳を疑う。
「どうしたって俺はあいつ等の期待には応えられない。ほら、一流のスポーツ選手が勝つことばかりを求められるのと一緒でさ、きっついんだ。期待に応えられなきゃあいつ等はどうなる?考えてもみろよ。俺の事を優先してあいつ等はいつだって自分の事は後回しだ。そんなの……俺が耐えられるわけねぇだろ」
ああ、そうなんだ。今目の前にいるこの人がそうなんだ。この人こそが、仮面の下に隠れていた三上智也その人なんだ。
「参っちまうよな。突きつけられた二択を選べだなんて、あいつ等と生きていくか、独りで生きるか。そんなの、考えるだけで疲れちまう。俺にとっては、あいつ等も蒔田さんも同じように大切だ。比べられるようなもんじゃない。俺だってずっと考えて考えて、でも馬鹿だから、奪った命に見合う贖いがこれしか思い浮かばなくて……」
どれだけこの人は臆病で泣き虫な自分を、蒔田さんへ懺悔し続ける自分を守り続けてきたのだろう。誰かに寄り掛かってしまいたい衝動を殺して、自分には甘えは許されないと叱咤し、何年も何年も……
悔しい。きっとこの人の心に寄り添えているのは誰でもない、今ここにいない彩花さんだけ。触れられない存在を縁(よすが)に歩いてきたんだ。
どうして、なんでもっと早くこの人と出逢えなかったんだろう。せめてもう少し長い時間一緒にいられたのなら、そのぼろぼろの心に手が触れられたかもしれないのに。
傷だらけで、今にも消えてしまいそうな自分を無理矢理立たせて、それでも皆が心配しないように強がって……
「だから、あいつ等を傷つけてでも俺は――ッ!?」
意識なんて、していなかった。ただ気付いたらそうしていた。
「お前、なにしてんだよ」
三上さんに近付いて、背伸びをしてその背中を包んでいた。
「……何、してるんでしょうね」
ほんとに何をしているのか。それでも何をすればいいのかはわかった。ううん、わかったんじゃない、決めたんだ。
「三上さんが臆病で誰も傷つけたくないって、だからいつも皆が笑うように言葉を慎重に選んで……」
彩花さんと蒔田さんが亡くなって、二つの存在が彼の心に消えない爪痕を残していた。その爪痕は日常の中にしっかり現れていたんだ。自分の言葉で、行動で二人を失った三上さんは、誰かを傷つける言葉に敏感なんだ。だから私を傷つけるような言葉を言っても、そのままには出来なくてフォローしてしまう。それを私は三上さんの優しさなのだと勘違いしていた。それこそが、三上さんの深い深い傷の形だったのに。
言葉が凶器になる。もう二度と凶器を振るわないよう、いつだって怯えながら三上さんは過ごしてきたのに。それを私は……
「三上さん、私は三上さんの生徒以上にはなれないかもしれません。それでも、私は……私だけは三上さんの背中を勝手に支えます。どんなに三上さんが振り払っても、関係ありません。少しずつでいいんです。少しずつ私が三上さんの一部になれるよう頑張ります。貴方が扱いに怯えないような、そんな存在になれるよう……」
もう怯えた優しさなんていらない。無理矢理浮かべる笑顔の裏を私は無遠慮に抱き締めてみせる。恋とか愛とか、そんなものどうだっていい。神様に感謝しよう。
三上智也、彼と出会ったのは私が彼の傷を抱き締める為だったんだと。私よりもずっと悲しい仮面を被り続けてきたこの人に、自分勝手な仮面を被り続けてきた私が寄り添う為なのだと。
耳の奥に雨音が聞こえる。その雨音が私の中からなのか、三上さんの中から聴こえる雨音なのか……それとも……
混じり合った二つの雨音の中、私は三上さんの背中をぎゅっと強く抱き締め続ける。どうか、彼の心の傷跡が私の心と重なって塞がるようにと、愚かな願いを込めながら……ぎゅっと、強く、強く……
先月までになんとか更新したかったのですが、遅くなりました。
え~、ではようやく言えます。ずっと言いたかったことですが……加害者も大事ですよ!と。
メモオフやパルフェをやった知人が、加害者側は?と疑問を持ったことがあります。その事がずっと僕の心に残っていて、そうだよなぁと納得したものです。
なので、加害者の事も描こうとこのような話となりました。
もうちょっと、蒔田透子さん自身の話も描きたいのですが、そうすると本筋の恋愛が疎かになってしまうのではと自嘲しました。
次回でようやく智也過去編は終了となりますので、もう少しお付き合いください。
それと、感想本当に嬉しいです。皆さん、ありがとうございます!