パンドラの箱を開けると、災いが溢れ出し、希望が一つ残っていたという言い伝えがあるよね?私はね、パンドラさんが羨ましくて仕方ないんだ。だって、どんなに不幸でも希望が一つだけでも残っていたんだもん。
「唯笑ちゃん、なんか少し顔色が悪いみたいだけど大丈夫?」
いつでも智ちゃんと私の隣にいてくれる掛け替えのない存在に、大丈夫だよと微笑んで返す。
信君に心配を掛けるなんて、まだまだだなぁ~と反省する。
一つゆっくり呼吸をして、さっきから不気味に鼓動する心臓を落ち着かせようとしてみるけれど、全然効果はなくて足取りは重くなるばかり。
「今坂さん、本当に大丈夫っすか?汗掻いてますけど?」
「もお、二人共心配性だなぁ~。唯笑はなんともないってばぁ」
智ちゃん仕込みの強がりで誤魔化してはみるけれど、腕の震えは止まってくれない。肌は泡立ち、嫌な汗が額から頬へと伝う。
「そういえば、信は今坂さんちに行った事あんの?」
「いや、実は初めてでちょっとばかり緊張してんだよな~。どんな部屋なのか楽しみでさぁ~」
呑気な会話に更に冷や汗がだらだらと流れてきてしまいそうになる。
いのりちゃんの帰りを待たずに、信君達と一緒に私の家へと向かっている。いのりちゃんには一応ラインしているから、気付いたら返信が来ると思うけど……
「ふぅ~ん。今坂さんと長い付き合いなんだろ?なのに今回が初めてってのも意外だな」
一蹴君、お願いだから余計な事は聞かないで!
「まあそうかもな。いつも集まるのは智也か俺の家だったり、他の奴等の部屋だったりだったけど……あれ?そういえば前に一度だけ唯笑ちゃんの家に行こうとか智也が言った事があったような?」
ほらぁ!信君も余計な事を思い出さなくていいよぉー!
「確かあの時、唯笑ちゃんが親戚が来てるからって事で断られたんだよね?」
「そ、そうだったかなぁ?」
若干震える声で誤魔化してみる。
「そうだよ。そうしたら智也が無理矢理行こうとして、智也の後頭部を英和辞典の角で強打して眠らせたんだよなぁ。サスペンスの犯人みたいな形相でさ」
「だって智ちゃんが掃除もしてないのに来ようとするんだもん。さすがに恥ずかしいんだよぉ!」
「へぇ~、今坂さんって純情なんすねぇ~」
ナイス一蹴君。その誤解はとても心苦しいけど、乙女に思われているみたいでちょっと嬉しい。
信君がそんなもんかねぇと呟きながら、じ~っと懐疑的な視線を送ってくるけれど、その視線を無視して重い足を無理矢理動かす。
私の家は彩ちゃんの家の斜め向かいだから、一分も掛からない距離なんだけど牛歩作戦でなんとか数分は稼いでいる。この間になんとか心の準備をしておかないと。
そもそも、私が家に友達を呼ぶ事自体があり得ない事なの。私の家に来たことがあるのは智ちゃんと彩ちゃん一家、それに親戚を除くと後輩のくるみちゃんという女の子だけ。それ以外の人はあらゆる手を使ってシャットアウト。今の今まで私は自分の家を封印してきた。形振り構わずに全力で。だけど今回だけは智ちゃんの事でどうしても聞かなきゃいけない事があって、断腸の思いで仕方なく、ほんっと~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~~に仕方なく信君達を連れて行ってあげる事に。
家に友達を上げるのと、最恐心霊スポットに一人で行くのとどちらが良いと選択を迫られても、私は元気良く幽霊さん達に会いに行くことを選択する。その位嫌なんだよぉ!
たいして歩くこともなく家の前まで到着してしまう。
「へぇ~、ここが今坂さんの家っすか」
広くもなく、小さくもない特別なものが何もない一軒家で、一応小さな車庫には一台の車とバイクが停められている。
興味深そうに眺める一蹴君だけど、もう一人の目聡い親友くんが車庫へと目を輝かせて近づいていく。
「うおッ!?一蹴来いよ!すげぇぞこれ!」
子供の様な好奇心旺盛な瞳を輝かせ、一蹴君を嬉々として手招きする。さて問題です。そんな信君を私はどんな目で見ているでしょ~か?
「本格的なカミナリ族仕様の単車じゃんか!」
「カミナリ族ってなんだよ?」
「お前知らないのかよ!カミナリ族ってのは暴走族とは違うんだけどな、スピードを追求した結果、雷のような音を出して走るからカミナリ族って言われるんだよ。それに憧れて暴走族ってのが現れたんだ。はぁ~、すげぇ~。ハンドルを絞ってないし、三段シートもない……ガチで速さだけを追い求めてるじゃん。KAWASAKI ZEPHYR400なんて、渋いなぁ、かっけぇなぁ~……ペイントも一流だよ。これは般若じゃなくて白夜叉かぁ……」
正解は感情を捨てた目で見てるだね。
パンパンッと二拍して拝む信君に私も一蹴君も津波の前兆の波のように引いていた。目を覚まして信君!
「と、とりあえず行こうよ一蹴君」
「そうっすね。ほら、行くぞ変態」
信君の服の襟を掴んで、容赦なくずるずると一蹴君が引き摺ってくる。
「あー!もうちょっと、もうちょっとだけー!」
「はいはい、あとでいくらでも拝ませてやるから今は三上の為にえんやこらだろ」
「智也とあの単車……くっ、すまん智也!俺はこの欲望を抑えられそうにない!」
「そのあくなき欲望はなんなんだよッ!どこからその情熱の泉湧いてんの?塞ぐぞ馬鹿!」
「俺のカワサキ~~~~!」
「お前のじゃないだろ!……ていうかなんで今坂さんの家にあんな単車があるんすか?」
「さあ、なんでだろ~?不思議だねぇ~?」
頬に人差し指をさして首を傾げてみた。
「あれ?俺馬鹿にされてます?」
「唯笑なんのことかわかんな~い」
「どっから甘えた声出してんすか!?そんな人じゃなかったっすよね!なんでここにきて二人が人格崩壊してんだよ!めんどくせぇ!」
一蹴君の苦労は察するけれど仕方ないんだよ。今日本当に辛いのは智ちゃんじゃない、唯笑だよ絶対ッ!
信君を目一杯の力で引き摺る疲れた一蹴君と、今も車庫へと手を伸ばす信君と玄関の前まで来て、大きく深呼吸をする。その後、二人を振り返って……
「二人共、この先何があっても唯笑の責任じゃないからね?自己責任だからね?」
「なんか危ない契約書に書かれているような事言い出した!?」
「カワサキ、オレ、カワサキ、オレガカワサキ」
「もう好きにトランザムってろよ」
目を閉じて息を整え、ゆっくり、静かに家の中へと入る。
「ただいま~」
「お邪魔します。なんだ、変なこと言うから身構えたのに、普通の玄関じゃないっすか」
「……玄関はね(ボソッ)」
「なんか不穏な呟きしました?」
「そんなことないよぉ。はい、いらっしゃ~い」
「怖い怖い!急な満面の笑みが怖いんですけど!?」
「ここが唯笑ちゃんの家か。あ、菓子折り忘れちまった。悪い一蹴、菓子折り買ってくるのと、正装に着替えてくるからちょっと待っててくれないか?」
「復活したかと思えば面倒な復活しやがった!もうあんたら三上の事完璧に頭にないだろ!?」
舞い上がる信君と、突っ込みに徹するしかない一蹴君。そんな一蹴君を見ていると自然と目が潤んでしまう。
「あれ~?なんで憐れみの目で見てるんすかぁ?」
「ううん、なんでもない。一蹴君、どうかまともな一蹴君のままでいてね?」
「俺どこに来たんだよ」
「正気のままの君でいてね?」
「本当にどこに連れてこられたんすかねぇ!?」
混乱している二人をリビングへと嫌々案内する。
「あの、今坂さん?」
「何かな?」
「なんで胸を十字に切ってるんすか?」
「エロイムエッサイムエロイムエッサイム助けて彩ちゃん」
「桧月さんに祈るってなに!?」
「ま、まずは結納の日取りか?いや、挨拶は土下座で……」
「信も何言ってんだよ!なにこの入り辛い空気!?」
よし!これで彩ちゃんも見守ってくれてるはず!もう何も怖くない!
ふんすと両手を胸の前でぐっと握り、そうして私は……唯笑はその禁断の扉を開けた。
「ただいま~」
いつものように私はリビングの中へと入るけれど……
「あ、すみませんお邪魔――」
「初めまして僕はいな――」
二人の言葉どころか息すらも止まっていた。
「ああ?おっせぇんだよ馬鹿。前歯折んぞああん?」
目の前のとんでもを目の前にすれば誰もが二人のようになると思う。
趣味の悪い派手なガウンを羽織って、煙草をガラの悪い感じで吸い、ソファーの背に両手を広げて足を組み、なぜか家の中なのにサングラスをしていて、髪にピンクのメッシュが入っている首領(ドン)を目の前にすれば誰だって。
今坂慧(いまさかけい)。不本意ながら唯笑のお母さんです、はい。
開いた口が塞がらない二人を前に、気にした様子もなくお母さんは顎で座れと示す。うん、そこはフローリングの上だけどね。
「なんだぁ?唯笑、あんたの連れは随分舐めた態度すんじゃねぇか?」
「どの口で言ってるのかな?」
「あたし様の崇高なお口様さ」
「タバコ臭いだけの汚い口だよ」
「はっ、囀るじゃねぇの。んで、どっちが信だい?」
「えっとね「オーマイゴッデス」って言った方」
「はぁ~ん。あれがねぇ~」
煙草を咥えながら信君に近付き、信君の顎を右手で上げながら観察する。
信君信君、それガンつけてるわけじゃないから大丈夫だよ。ライオンがじゃれてるだけだから撫でてあげてね。
「テメェが信ねぇ~?は~ん、ほぉ~ん……どれどれ」
「は?あの、なにを――ッ!!!!」
「あ、ああ、おか!お母さん!!??」
大人しくじゃれついてると思ったら、信君の唇に噛みついた!ねっとりと濃厚に!
あまりの事態に眩暈がして言葉を失う唯笑と、大きいテレビっすねぇ~と現実逃避をする一蹴君。
「なな、何してるとよ!?」
動揺のあまり変な言葉になりながらライオンを引き剥がす。アホなのかなこの人!あ、人じゃないもんね!アホな獣、略してアホモノだよ!
「ふぃ~、生き返ったわぁ~」
「酔ってるの!?」
「なわけねぇだろ、素面だっつうの。節穴かよ」
「酔ってて欲しかったよ!素面でよく出来るね!」
「んだよ、智ともしてんだろ?こいつも家族だってんならいいだろうが」
「ここ日本だもん!ていうか智ちゃんもいつも怯えてるからね!」
「はっはぁ!あたし様の口付けは女神の口付けだぜ?なのにあいつ草食動物のように逃げやがって……ああ、そういやあいつのファーストあたしじゃね?娘ざまぁってなもんよ!彩のファーストも奪ってやったよなぁ!」
「泣いてた!彩ちゃん全力で泣いてた!」
魂が抜けてしまった信君と、触らぬ母に呪いなしとでも言いたげな一蹴君。
「……俺、初めてだったのに……初めてが、初めてがああああぁぁぁぁッ!!」
「だから嫌だったんだよおおおぉぉぉぉッ!!」
「いのり、俺駄目かもしんない」
「ははは!今夜は寝かせねぇかんなぁッ!!」
唯笑と信君の絶叫と、絶望を覚悟した一蹴君と、それを悪魔の笑顔で迎えるライオン。こうしてとんでもない夜が始まってしまった。
ちなみに、彩ちゃんは我先にと逃げたと思うな、うん。
私は天を仰いで額を抑え、強烈な眩暈をどうにかして誤魔化そうとした。
これまでの人生で、こんなことは今まで起こり得なかった。初めて訪れた友達の家や、他人の家で眩暈を起こして倒れそうになる経験をする事なんて、早々ない。
三上さんと別れてすぐに今坂家に呼ばれ、不規則に動く心臓をどうにかこうにか規則的に戻し、よしと気合を入れたのだけれど、こんな光景が広がっているだなんて誰が想像出来たでしょうか?
「おい鷺沢、もっと力入れて揉め。んなひょろっちい力であたしの肩が癒されると思ってんのか?ああん?」
「……はい」
「んだ?その不貞腐れた返事はよぉ。右手潰すぞテメェ?」
「す、すんません、慧様」
とても常識を持っているとは到底思えない姿の女性の肩を、引き攣った笑顔で揉み続ける私の彼氏と……
「オレ、ヨゴサレチャッタ」
心ここにあらずの稲穂さん。魂が口から出ている。
「娘~、コーヒー」
「…………」
「娘よぉ、お前もしかして生理か?カリカリしやがって」
「…………そうだね、プロテインだね」
ポットとカップ、それにインスタントコーヒーを無言で女性の目の前に置き、らしくない言葉を口にする今坂さん。激怒しそうなのを理性で抑えた結果、いつもの人格を保てなくなってしまったかのよう。
インターホンを押しても誰も出てこないから、失礼を承知で上がらせてもらったけれど、常識の範疇にない光景がリビングに広がっているだなんて誰が想像出来ただろう。
「なんですかこれ?」
不自然な笑顔で発せられた声に、今坂さんがようやく私に気付いた。
「あ、いのりちゃん。いらっしゃい。えっと、好きなところに座って」
むしろ踏み込みたくないんですけど。帰っていいですか?
「いのり?ああ、あんたが陵いのりな。話は菫から聞いてっけど、はぁ~ん、なるほどねぇ~」
街中にいるチンピラさんよりも質の悪い眼で、値踏みするような視線を向けられると、小馬鹿にするように笑いながら、似てないじゃねぇかと小声で呟いた。
「あ、えっと、初めまして。陵いのりです、お邪魔します」
「オーライオーライ。んじゃ、あんたの事はイノキって呼ぶようにするわ」
「……いのりでお願いします」
語感だけでなんて渾名を授けようとするの!?
「ハッハッハッ。遠慮すんなよ、偉大な渾名で嬉しいだろ?」
「尊大な態度に驚きです。というか今坂さん!今坂さんにお姉さんがいるなんて聞いてませんよ!」
てっきり今坂さんのお母さんがいるものとばかり思っていたのに、どうしてお姉さんがいるのでしょう?言動と態度と性格さえ目を瞑ればとてつもない美人で、今坂さんとは真逆の魅力を持っている。
「イノキちこう寄れ。可愛がってやろうじゃねぇの」
「はい?」
言葉の節々に上機嫌を滲ませて手招きされる。
「いのりちゃん、この人に余計な餌を与えないでぇ~」
「餌ってなんですか。一蹴もなんで泣きながら肩を揉んでるの?」
「貞操を守る為なんだ」
「ほんとに意味がわからないよ!?」
混沌とした空間と混乱する思考。
三上さんの事で大事な話を今坂さんのお母さんから聞ける、ということで尋ねたのに肝心のお母さんの姿はどこにも見当たらないし、傍若無人を形にしたかのようなお姉さんにみんなが精神的に殺されているし。全く状況が理解できない。
「あ、あのねいのりちゃん。お母さんなの」
「……え?」
「あの人、悲しいけど唯笑のお母さんなの」
人差し指が示す方向に目を向けて絶句。
「嘘、ですよね?」
「現実だよ。ちなみに、ここに智ちゃんがいたら更に酷い事になってたよ」
世の中の母親の方々に唾を吐きかけるかのようなこの人が母親!?暴〇団の幹部とか言われた方が信じられますよ!?
「んだごら?あたしが母親だと問題でもあんのかよああん?」
「問題以外が見つかりませんよね?」
「言うじゃねぇか小娘。ビッチ!!」
「今坂さん?」
「唯笑を冷たい目で見ないでよぉ!」
「ああ、間違えた。シット!!だったわ。許せイノキ」
「今坂さん?」
「だから唯笑に笑顔で抗議しないでってばぁ!」
それにしても、なんかどこかで彼女のような人を知っているような気がする。かなり身近な誰かと目の前の女性は似ている。ふざけた性格や傍若無人な態度や、既知外な行動……そう、ついさっきまで一緒にいた誰かと。
「つうかよぉ唯笑、お前ヤバくね?」
「聞きたくないけど、何がかな?」
「ぶっちゃけあんたよりイノキのがエロいじゃねぇか。智のやつノックアウト寸前じゃね?」
彼女の発言に肩を揉んでいた一蹴の手が止まり、今坂さんの表情が凍り付き、稲穂さんは相変わらず死にかけていた。
「エロいってなんですか。表現がおじさん臭いんですけど」
「いのりちゃんが気になったのそこなんだ!?」
「いい、いのりは俺の彼女なんすけどね!?なんてことを言うんすか!?」
「ああん?いやさ、雰囲気が完璧処〇じゃねぇし、アレだろ?清楚系とかそんな感じのビッチ臭がぷんぷんすんだよなぁ。唯笑より胸あるしよぉ」
血反吐はかせたい。
「母親なのになんて事を言うんだ!?もっと娘を応援しようとか思わないかな!?」
「んなこと言ったって仕方ねぇじゃん。あたしだったらとっくに抱いてんぞ。なあ彼氏?」
「同意するとでも思ってるんですかねぇ!?狂ってるにも程があるでしょうよ!……そ、そんなことないよないのり?」
「なんで不安そうなの一蹴。あり得ないからね?」
三上さんは軽い気持ちで簡単にそういう事をするような人じゃないもの。そんな人じゃないから私は……
「んだよ甲斐性ねぇなあいつ」
「お母さんは品がなッ!!??いったいなぁッ!グーで殴らないでよぉ!」
「気品がある母親になんて事言いやがる」
「結ママみたいなお母さんだったら尊敬したもん!」
「結がどんだけ腹黒いか知らねぇから言えんだよ」
「全身から滲み出る黒さを持つ人は言う事が違うよね」
「んだごらぁッ!反抗期長引き過ぎじゃねぇか!」
「産まれた時から反抗期の人に言われたくないですぅ!」
ぎゃいのぎゃいのと話が一向に進まない。溜息を吐いてソファに腰かける。
「おいおい、誰が座っていいと許可しやがりましたか?」
「あ~、はいすみません。座りますね、ありがとうございます」
「こいつ態度がなってねぇぞ。結そっくりだ」
「……あなたは三上さんそっくりですね」
そう、この人の尊大で傍若無人で唯我独尊な態度はあの人を彷彿とさせる。
「あ~、それはねいのりちゃん。実は智ちゃんはお母さん、唯笑は結ママ、彩ちゃんはおばさんに小さい頃懐いてたんだよ。だから智ちゃんの人格形成には残念なことにお母さんの影響が多分にあるんだ」
でしょうね。説明されなくても、なんとなくは察しがついてました。
「そうですか。それよりも、三上さんの事で話を聞くんじゃなかったんですか?」
私の言葉にはっとして、今坂さんが顔を上げた。今の顔、完全に忘れていましたね。それ程に目の前の女性の慇懃さが過ぎていたのでしょう。心中お察しします。
「そうだよ!ほら、信君もいつまでも三途の川に旅行に行ってないで帰ってきて」
稲穂さんの肩を揺すり、呆然自失状態の稲穂さんを引き戻す。
「一蹴君もいつまでふざけてるの!座って!」
「俺が悪いんすかねぇ!?理不尽なところは遺伝されてんじゃねぇかな?」
ぶつぶつと文句を言いつつ一蹴が私の隣に座る。そんな一蹴の肩にお疲れさまと手を置くと、ほんとだよと返事があった。
「で、三上はどうしたんだ?」
私が三上さんを追って出た事を気にしてか、どことなく不安そうな声色で聞かれる。そんな一蹴に私はなんでもない事のように笑む。
「三上さんなら、少し頭冷やしてくるって言ってどこか行っちゃった。でも、心配はないと思うよ」
「……そっか」
嘘じゃ、ない。私と三上さんの間に一蹴が考えるような不安なんて何もない。有り得てはいけないの。
私は三上さんを慕う生徒で、三上さんは私の家庭教師。それ以上にも、それ以下にもあの人はしてはくれない。そういう意味、なんですよね?
ふざけた雰囲気が鳴りを潜め、今坂さんのお母さんは新しい煙草に火を点け、怠そうにソファに背を預ける。
「で、智に聞いたってはしゃいでたみたいだけど、そこんとこをまずは話しな」
「うん、そうだね。あのね、お母さん……」
そうして今坂さんがこれまでの経緯を話していると、ちゃんと聞いているのかいないのか、彼女は天井を眺めながら煙を遊ばせていた。
サングラス越しに映る景色は天井なのか、それとも別な風景なのか……それを推し量れるほど、私は今坂さんのお母さんの事を理解出来ていない。
簡潔に要点を抑えて話を済ませると、彼女は三本目の煙草を乱暴に灰皿に押し付け、娘へと厳しい視線を向けて一言――
「おっせぇんだよ馬鹿娘が」
呆れたような一言にさすがの今坂さんも呆然としてしまっている。もちろん私達もだ。
「おっせぇ、おっせぇ、おせぇ!あんた、あれから何年経ってると思ってんだ?五年だぞ、五年!」
「な、なな、だってお母さん達が何も話してくれないから!」
「あたし等がチクったとこでどうにもなんねぇから、唯笑、あんたに期待してたってのによぉ。しかも、パーティーにもう一人追加してんだろ?それなのに、情けないったらありゃあしない」
額に手を置き首を横に振る。欧米人のような反応に一同は若干苛立ちました。
「そんなこと言ったってしょうがないじゃん!」
「え〇りみたいな言い訳すんなよ」
「じゃあどうしたら良かったの!?」
まったくだ。三上さんの口を割るのにどれだけの偶然が重なって聞き出せたと思っているのだろう。
それとも、彼女は知っているのだろうか?三上さんが素直に話すための手段を。
気の利いた答えが返ってくるのではと、少しの期待を持って次の言葉を待つと……
「んなもん簡単じゃねぇか。男の口が良く滑る場所はどこだ?答えはベッドの中だろ?ちょいとあいつと寝て、ピロートークすりゃあ一発じゃねぇか」
期待が大気圏を突破して宇宙の彼方に消えた。稲穂さんまでもがドン引きしているのは珍しい。
「ベッドの中じゃ一発だけじゃねぇかもなぁ!ふはは!」
最低なオプションまでも追加してくる。三上さん以上に異常な人だった。
ゆらりと、今坂さんが立ち上がる。ガラスの灰皿を手に持って。
「今坂さん落ち着いて下さい!」
「唯笑ちゃん目が据わってるから!」
私と稲穂さんが即座に止めに入るけれど、今坂さんは顔を真っ赤にして涙を堪えながら黙々と凶器を振り下ろそうとする。
「一蹴、灰皿を取って~!」
「お、おう!」
「あたしの娘とは思えねぇ初心さだねぇ~」
この状況でよくもまあ平然としていられますね!?あなたの下で育って、よく今坂さんがこんなに可愛らしく成長したなって感心します!
「お願いどいて、お母さん殺せない」
抑揚のない声に寒気が走った。
今坂さんをなんとか落ち着かせる為、三人で全力で廊下まで引っ張っていき、二十分掛けて説得。三上さんの人格形成の闇を垣間見た瞬間だった。
泣きじゃくる今坂さんを宥めて戻ると、元凶がスコッチを呑みながらさきイカを食べていた。
「豆腐メンタルめ、泣けば優しくされるとか思ってんじゃねぇぞ」
「母親だからって何を言っても良いとでも思ってるの!?」
「うん」
躊躇いもなく頷いた。間違いなく三上さんの師匠だこの人。
「まあ、多少はしゃいじまったのは悪かったさ」
自分が悪い自覚はあったんですね。
「とりあえず座りな。事情はあんた等もわかっただろうし、ちょいとばかし話してやるよ。あたし等の事もな」
サングラスの向こうの瞳が寂しそうに見えたのは気のせいだろうか?
私達が座るのを待って、スコッチを口に含む。まるで、お酒の力を借りているように私の目には映った。
「なんだかんだ言ってもな、智の言葉があの兄ちゃんを殺した事実は変わらねぇし、その罪をあいつは忘れちゃなんねぇんだよ」
「わかってるよ。わかってるけどこのままだと智ちゃんは」
今坂さんの言葉を片手で制し、だけどなと言葉を続ける。先程までの慇懃さはすでにどこにもない声で。
「あの言葉を言わせてしまったあたし等は、智以上にクズだったのさ」
ああ、本当に三上さんの師匠なんだと私は悲しくなってしまった。過去を語る彼女の姿が悲しい程に三上さんと重なる。
「なあ?なんで宗吾と結があの家を出たか知ってるか?」
その問い掛けに応えられるのは、この場には今坂さんだけ。今坂さんは目を伏せてぽつぽつと答えた。
「今まではどうしてかわからなかったけど、智ちゃんの隠していた事を聞いてなんとなくはわかるよ。多分、自分達がいると智ちゃんがいつまでも蒔田さんの事を思い出して、自分を追い込んでしまうから……だよね?」
今坂さんの答えに曖昧に彼女は笑い……
「それもある」
「それも?」
首を捻る今坂さんに、初めて見せる母親の顔で彼女は残酷な言葉を口にした。
「半分は正解さ。ただ、もう半分は違う。宗吾と結はな……」
その先の言葉の衝撃に今坂さんも、私達の心も揺れに揺れた。酷く現実味を持ってはいけない言葉。
――あの二人はな、智からも蒔田一家からも逃げたのさ――
耳の奥に残響のように残り続ける言葉に、何を言えば良いのか……信じたくないというかのように今坂さんは口を噤み、稲穂さんも一蹴も拳をぎゅっと膝の上で固く握った。
「な、んで?」
震える言葉と声は、無理矢理お腹の底から捻り出したようで痛々しさに満ちていた。
口の中を苦みで満たしたかったのか、新しい煙草に火を点けて私達から視線を外して語り始める。
「あの日、蒔田淳に言った言葉はな、智が言わなければ宗吾が口にしていた言葉だったのさ」
嘘、と虚ろに呟く今坂さんと、なんだよそれと稲穂さんが片手で前髪を握りつぶす。
それじゃあ、三上さんは――
「智はな、あいつは宗吾と結の罪も一緒に背負っちまったんだ。まだ15のガキにクソみてぇに重いもんを背負わせやがった……」
手で煙草を握り潰し、灰皿に捨てる。吐き捨てるような言葉と一緒に投げたかのように。
「もちろん、あたしも親だ。あいつ等の気持ちがわかんねぇわけじゃあない。あたしだって唯笑?あんたが同じように事故に遭ったら、あいつ等よりもずっと汚い言葉で相手を罵る自信がある」
私達は誰も母親、父親になったことがないから、彼女達の気持ちが正しいかどうかなんて判断は出来ない。それでも、それじゃああまりに救われない。誰も救われないじゃないですか。
「けどな、あたしは誰かにその言葉を任せたりはしない。あたしの家族だ、あたしが背負うのが筋だろうさ。だからあいつ等は智の言葉を止めて、親として智の言葉を、罪を自分達が背負うべきだった。そうするべきだった。なのに、あいつ等は智の背中に、あんな小せぇ背中に任せやがって……あたしがすぐに止めなかった言い訳になるが、あたしは宗吾が智を止めて、その先の罪を背負う事に少しは期待しちまったんだ」
嘆きの言葉は弾劾なのか、それとも自嘲なのか、それともその両方なのかもしれない。
「あの言葉を言わせたのはあいつ等とあたし等親なのさ。なのに、いくら言っても智は聞く耳を持たねぇで、自分が自分がってよぉ……情けねぇ親だよなぁあたし等は。唯笑も彩も智も、みんなあたし等の子供なのに、なんにもしてやれねぇで、ダサいったらねぇわ」
「じゃあ、宗吾パパと結ママが出ていったのって……」
「あたしと智一が追い出したのさ。あのままじゃあ、智だけじゃない、二人まで馬鹿な事しちまいそうだったからな。だから、智が自分から会いたいと願うまでは、二人には智と会う事を禁じたんだ。あの家の維持にはあたしと智一が協力するって条件でね。あの家は唯笑と智に絶対に必要な場所だろうからね」
ぽたぽたと、今坂さんの膝に止めどなく雫が落ちていく。
「智、ちゃん、全部知って、るの?」
今坂さんの問いに、苦虫を噛み潰したかのような顔で頷く。
どこまで馬鹿なんですか、あなたってお人好しはと心の中で毒を吐く。
三上さんは誰にも打ち明けられなかったんじゃない。打ち明けないように自分で覚悟して生きてきたんだ。自分以外の全ての人の為に、自分以外の誰もこれ以上悲しまないように。蒔田さんの憎悪も、桧月さん達の悔恨も、自分の罪以外の全部をあの人はたった一人で抱えてきた。
あまりの愚かしさに涙が溢れそうでもあり、同時に恐怖も覚える。
そんなにも抱えきれない傷を、五年も独りで誰にも触れさせないで生きてきただなんて……あの人はいつ壊れてもおかしくない状態なんだ。こうしている今も。
「あたしも智一もあんただけの罪じゃないって、何度も何度も言い聞かせても無駄でね。あんな優男に育てた覚えはないんだけどねぇ。どっちにしたって彩が笑えないなら、せめて自分だけで良い。宗吾達は関係ない。他の誰でもない、自分の責任にしていたいってな。そして唯笑、あいつはあんたの笑顔を曇らせたくもなかったんだよ」
「……え?」
「唯笑、あんたは彩と智にとって掛け替えのない家族なのさ。彩はあんたの笑顔が大好きでね、智もあんたの能天気さに何度も救われてた。だから、何が何でも智は守らないといけなかった。自分の所為であんたから笑顔を奪うわけにはいかないって、それまで奪ってしまったら今度こそ自分は生きていく価値もないってね」
そう、なんだ。だから三上さんは笑うんだ。笑って大丈夫だって周りにじゃない、自分に言い聞かせているんですね。どんなに追い詰められても、叫び出して逃げ出したくても、そんな本当の自分を何度も何度も殺し続けて、唯一人の為。二人の掛け替えのない人の笑顔を守る為に。
「――――ッ!!」
言葉もなく、言葉になるはずもなく、今坂さんは口を両手で覆い隠し、肩を震わせて顔を隠すように下を向いて涙し続ける。止めようにも止められない。
三上さんの優しさが過去から現在に至るまでずっと、二人だけに向けられていたと知ってしまった。そんな嬉しい真実、心震えないわけがない。いつだって、二十四時間ずっと三上さんの心には二人がいて、あの底抜けに馬鹿な笑顔は二人の為だけに向けられていたんだもん。
「今坂さん」
今坂さんへとハンカチを差し出す。薄暗い心の奥で蠢いている物を押し殺して。
ああ、なんて綺麗な涙なんだろう。三上さんを純粋に想って流す涙のなんと綺麗な事か。私の心の奥底に潜む怪物とはあまりに対極な涙。
三上さんの心に一番近くにいるのは自分じゃない事は始めから知っていた。知っているつもりだった。近くどころか、一部となっている事実を目の前にするまで。
ありがとうと、薄汚れたハンカチが純粋を拭う。
だい、じょうぶ。私は別に三上さんの傍に立てなくてもいい。恋人になりたいとか、そんな高望みはとっくに捨てている。あの人の笑顔が二人だけに向けられるのなら、私はせめてあの人の笑顔を曇らせないように生きよう。大丈夫。一蹴を愛している気持ちに嘘偽りはないもの。三上さんの笑顔を曇らせないよう、一蹴と一緒に私は彼の生徒としてこれからも……
「とまあ、これが情けねぇ親達の下らねぇ話なわけよ」
ううん、と何度も今坂さんは首を横に振る。誰も彼等を責められない。私達は親の気持ちを誰一人として理解出来るだなんて、そんな烏滸がましい事を言えない。
誰も彼もが出口のない暗い箱の中に閉じ込められ、抜け出せないまま。どうしようもないその暗闇から抜け出す方法は私には残念ながらわからない。けれども、きっとその出口を無理矢理壊して作れるのは多分――
「お母さん」
「落ち着いたかい、泣き虫」
泣き腫らした目で挑むように母親へと視線を投げつける。
ああ、やっぱり今坂さんは強いなぁ。憧れてしまうほどに強い。三上さんの為なら、この人はどこまでも強がれるに違いない。三上さんのように。
「話してくれてありがと。でもね、唯笑は昔の事を聞きに来たわけじゃないんだ」
挑発的な言葉に、彼女は嬉しそうに笑って娘と対峙した。
「お母さんは知ってるんじゃない?」
「さてね。あんたが何を言いたいのかさっぱりさ」
とぼけた様子に取り合う事もなく、意を決したように今坂さんが口を開く。
三上さんと彩花さんの家族として、毅然と胸を張り、最上級の強がりの笑顔を纏って――
「智ちゃんと一緒に生きていく為の鍵を頂戴」
今坂家を出て一蹴と一緒に帰路につき、家の前で別れてようやく自室へと戻ってきた。
灯りを付けるためスイッチへと手を伸ばしたけれど、どうでも良いかと真っ暗なままの自室に入り、手に持っていたバッグをベッドへと乱雑に投げ捨てて、壁を背に適当に座り込む。
結局私に出来るのはここまで。三上さんの過去を暴く切っ掛けだけを作って、その先に踏み込む資格を持つのはあの場に二人だけ。三上さんの特別な二人。
別に羨ましくなんかない。どうでもいい。誰が傍にいるとか、ほんとにどうでも良い。無償の愛だなんて笑ってしまうけれど、そうするしか出来ないのなら甘んじてそれを受け入れるだけ。三上さんは私を求めない。一蹴を裏切る私をあの人は許さない。
「疲れちゃったな」
公園で別れた三上さんは、私に明確に線を引いたんだ。
お前はこれ以上自分に入り込むなと、柔らかな言葉に拒絶を包んで。
『陵……せいッ!』
『いたッ!?なんで拳骨するんですか!』
『アホ垂れめ!勝手に俺様を慰めてんじゃねぇ!誰も落ち込んでないわ!』
『ほんとに痛いんですけど!?婦女暴行ですよ!』
『うっさい!お前なんぞに慰められるとか屈辱なんだよ!』
『しょうもないプライドを……』
『たく、少しだけ頭冷やしに出ただけだってのに大袈裟な事しやがって……こんな事されても俺は嬉しくなんかねぇんだよ』
『にやけてませんでした?』
『俺を変態にするな。陵、お前が予想以上に俺を慕ってくれるのは悪い気分じゃない』
『え?そんなに慕ってるように見えます?』
『自信がなくなってきた』
『冗談です』
『うぜぇ~。とにかくだ、悪い気分じゃないけどな、そうじゃねぇんだよ』
『どういうことですか?』
『お前が抱き締めるべきは俺じゃないし、慰めるべきなのも俺じゃないってことだ。せっかく鷺沢とまた恋人になれたんだろうが。なら、お前が抱き締めて良いのは今はあいつだけなんだ。世界で一番お前を愛してくれるあいつだけをお前は想ってやれ。あんなに俺達が苦労したんだ、お前達が二人でいてくれることが俺にとって何よりも嬉しいんだ』
『……なんだか年寄りみたいなこと言い出しましたね』
『黙れ小娘。お前の心配は素直に嬉しいけど、俺は大丈夫なんだから、お前は鷺沢の事だけを想ってやれ。そんなお前達を見させてくれよ。俺が見れなかった幸せっての?それを見せてくれ。それぐらいの我侭聞いてくれよ』
『うわぁ~、人の幸せが自分の幸せとか言っちゃってます。末期じゃないですかね』
『プチ殺すぞてめぇ』
『あーそうですか!はいはいわかりました!じゃあいいんですね?心配しなくても良いんですね?』
『そんな粗末なもんはいらん』
『良いんですか?もう心配なんかしませんよ?良いんですかねぇ~、本当に?後悔しません?せっかく私が心から心配してあげますと言っているのに?』
『しつこい!保険のセールスよりもしつこい!とっとと彼氏といちゃつきに帰れよ面倒臭い!鷺沢呼び出すぞ!』
『……意気地なし』
『あんだって?』
『三上さんなんか猫のうんち踏んじゃえば良いんです!』
『そのネタわかる奴今の時代いないだろ』
わかっていたくせに、三上さんは私を優しく遠ざけた。私が望んだのはあなたの優しさなんかじゃなかった。私はあなたの弱さが欲しくてたまらなかっただけなのに。
追い詰められて壊れてしまいそうなら、その弱さを私にぶつけてくれれば良いのに。そうして欲しかったのに。
八つ当たりのように、壊れてしまいそうな心を私へと投げつけて、めちゃくちゃにしてくれたなら……そんな幸せな事はない。
私の身勝手な気持ちを百も承知のくせに、目隠しをして突き放して……あなたの強さと優しさは残酷が過ぎる。
「ずるいなぁ……」
私よりも長い時間一緒に育ったという理由で、今坂さんは三上さんの特別を手にしている。そんなの私にはどうしようもない。対抗する手段を考えるのも馬鹿らしくて、諸手を上げて降参するだけ。
ベッドから枕の用途を成さない無残な形のソレを引き寄せる。
「ずるい、ずるいずるい」
もしもあなたを誘うように抱き締めたのが私じゃなくて今坂さんだったら、あなたは無下に引き離すことが出来ましたか?
左の腕の中にはぐちゃぐちゃの枕、右手には何を持っているのかなぁ?
枕からざく、ざく、と音が立てられている。
この部屋の中でだけの八つ当たり。他の誰にも見せることが出来ない醜い私自身が部屋の景色へと反映されている。
「今坂さんならって、わかりきってるじゃない」
彼女は三上さんの心の一部で、大切なお姫様。私のような平民とは身分が違う。どんなに着飾っても偽物の身分ではあの人に手が届くことはない。
それでも良いと仮面を被り、仮面を剥ぎ取ればこんなにも醜悪な顔が浮かび上がる。
いいな、いいなぁ~と本心を呟きながら、枕を私の醜い心の形へと変えていく。
めちゃくちゃにされたかった。情けない顔をする三上さんを抱き留めて、もっと、もっとと心を曝け出させてしまいたかった。
想像すると自然と頬が緩み、恍惚に目が眩んでしまう。
三上さんが望まない私は、絶対に表には出せない。唯一、この部屋の中でだけは惨めな自分でいさせて……
惨めな自分に酔い痴れてしまいそうな時、不意にチャイムが鳴った。
こんな夜中に私の家を訪ねてくれる人なんて、一人しか心当たりがない。
部屋の窓から覗くと、一蹴がどこか思い詰めたような表情で立っていた。
そんな一蹴を目にした私は……
「……ふふ」
自然と頬が緩み笑みが零れたのだった。
家の前でいのりとは一度別れたんだけど、なんか引っ掛かるものがあった。いのりは気付いていないかもしれないけれど、いのりが三上の話を語る時、いつもなにかしらの感情を表に出す。苛立ちだったり、呆れだったり、徒労感だったりなんだけど……あれ?一つもポジティブな感情がないな。でも、決まってネガティブなはずの感情をいのりは楽しそうに話すんだ。俺が焦燥感に駆られてしまうような表情で。
なのに、三上の事を聞いた時、いのりは普段と変わらない表情で淡々と答えた。その時点でおかしいとは感じていたけれど、今坂家を出るとその異常は余計に顕著に表情に出た。
三上達の話題を振ると、思い悩むでもなく始めから用意されていたかのような笑顔で、当たり障りのない事しか口にしない。そんないのりの様子に後ろ髪を引かれ、何かあったのではないか?また俺は大事な事を見過ごしているのでは?と不安になり戻ってきたのだが……ああ、そうだよ!三上と何かあったんじゃねぇかって気が気じゃなくて戻ってきたんだ!変な言い訳すんなだせぇ!
インターホンを押してしばらくしてもいのりは出て来ない。家の中は真っ暗だし、出掛けてるのか?こんな夜中に?
探しに行こうかどうしようかと迷っていると、ドアが開いて中からいの――
「どうしたの一蹴、忘れ物?」
あまりの衝撃に俺は慌てて目を逸らす。
「お、おお、おま!いのり!なんて格好で出て来るんだよ!」
絹のような肌をバスタオル一枚だけで隠しただけの姿。その姿があまりに煽情的で、そんなつもりで戻ってきたわけじゃない俺は情けなく慌てふためいてしまう。
「あ!ごめんね、お風呂に入ろうとしてたから、つい」
可愛らしく舌を出して謝るいのりを見ると、思い過ごしだったかと安堵しそうになる。
「と、とにかく服をだな!」
「そうだね、それよりも早く中に入って一蹴。このままじゃ恥ずかしいから」
「あ、ああ、ごめん」
恥ずかしいのなら最初に服を着てくればいいのにと、頭の片隅で突っ込みながらも男の子の俺は逆らえずに中へ。正直嬉しかろうもん!……何言ってんだ俺わあ!
「それで、どうしたの一蹴?」
玄関で立ち尽くす俺になんとはなしに聞いてくるけど、頭が沸騰してしまいそうだ。
「……一蹴?」
俺の胸に手を置いて見上げてくる。視線を下に向けるとそこにはグランドキャニオン様がおわしてごわしてですね!待て待て俺!想像しろ!目の前に見えるのは三上の裸三上の裸三上の裸……殺意が沸いてきた。よし、オッケー。
「もう、どこ見てるの一蹴?エッチ」
やっぱ無理!だって三上に胸無いもんな!どうして母ちゃんの裸を想像しなかった俺!あ、母ちゃんいねぇやてへぺろ。
頭の中だけでもふざけてねぇと冷静でいられねぇ!
「ああ~、いや大したことじゃないんだけどさ、なんかいのりの様子がおかしいっていうか、少し気になって。なんつうか、三上となんかあったんじゃないかとか、無理してんじゃねぇかなぁとか」
なるべくいのりの方を見ないように喋ると、俺の言葉にそっかと応える。
「うん、まあそれだけだから、ほんと大した話じゃなくて」
あははと誤魔化そうとしつつ、ちらっといのりの顔に目を向けると……
「ありがとう一蹴。心配してくれたんだね」
そこには暗がりの中、妖しく嗤う誰かが立っていた。
「い、のり?」
背筋に不可解な寒気が走り、知らず足が後ろへと下がる。
な、んだ?今目の前にいるのはいのりだよな?
「嬉しいなぁ~。私の事ちゃんと心配してくれて、優しくて……」
いのりの両腕が俺の首へと絡みつく。ああ、蛇に睨まれた蛙とは今の俺の事を言うのだろうなと、どうでもいい言葉が頭に浮かぶ。
魅惑的な上目遣いは蠱惑的とさえ言える。いのりの身体から脳が痺れてしまうかのような甘い、甘い匂いが立ち昇る。この匂いは麻薬だ。いのりの手も、引き寄せられる唇も、骨の髄まで響く甘い声も、いのりの全ては麻薬で出来ている。
甘い痺れに酔う頭の中で、もう一つの思考が巡る。
クソ、やっぱり俺の感じた違和感は間違いじゃなかった……と。
形振り構わず俺に甘えなければいけない目の前の恋人の姿に確信を得てしまう。
いのりはこんなふうに、女を形振り構わず使うような人間じゃない。これまでの付き合いでそんな事はとっくに知っている。なら、俺に縋らなければならないのはどうしてだ?こんなになるまで気持ちが追い詰められているって事じゃないのか?
「――――んッ!!??」
ごちゃごちゃと考えている間に、いのりの唇が俺の思考を掻き消そうとする。
いのりの舌が俺の唇をなぞり、唇を割って中へと滑り込もうとしてくる。
引き離さないと!
咄嗟にいのりの肩に両手を置いて力を加えようとした……のだけど、結局はされるがままとなった。
「大好き、一蹴、大好きだよ」
俺が引き離そうとした瞬間、いのりの瞳が寂しそうに揺れたのを目に入れてしまった。
駄目、だ。このままじゃいのりが壊れちまう。
何があったのか、いのりの心がどれだけ追い詰められているのか、俺にはなにもわからない。それでも、いのりが俺に縋らなければ立ってられないのではないか?なんて馬鹿な考えが頭から離れそうにない。
なあいのり?本当は三上と何かあったんだろ?三上の事、本当は好きなんだろ?こんなに俺をがむしゃらに求めなきゃ三上との関係が壊れそうなんじゃないのか?そうでもしないと繋ぎ止められないから、俺を一生懸命求めるんだろ?
唇を通して伝わる感情は悲痛に過ぎる。俺の心も、いのりの心もぐちゃぐちゃに搔き乱す。
こんなに自分を失くすいのりは初めてだ。飛田とリナちゃんの時でさえ、こんなに取り乱した姿は見た事がない。
わかってる、わかってんだよいのりの気持ちなんて!俺を好きと言う言葉に嘘はない!以前と変わらない好きを向けてくれている事に疑いなんかないさ!けど、それでもッ!!
「……い、のり、ちょ、いのり待って」
誰よりも好きと言える存在と出逢っちまったって事くらいわかってんだよッ!!
「一蹴?」
いのりを優しく引き離すと、見捨てられた子犬のような不安げに揺れる瞳。そんないのりに俺は微笑む。
馬鹿だな、いのり。俺がお前を見捨てるはずないじゃないか。わかってるんだろ?俺がお前を突き放せない事くらいさ。
「ここじゃあ……部屋に行こう」
俺の言葉に花が咲いたように微笑み、いのりは俺の手を引いてリビングへと連れていく。
いのりの微笑みに俺も笑う。
それならそれでいい。三上へと向かう気持ちに必死にブレーキを掛けてくれるのなら、俺は喜んでお前の弱さに付け込む。お前を繋ぎ止められるならいくらでも身体を差し出す。卑怯者で構わない。いくらでも長期戦に付き合ってやる。いのりの心がいつの日か三上から引き離されるよう、せめて身体で繋ぎ止めよう。
矮小な心を肯定し、俺はいのりを抱く。弱さを隠すこともなく曝け出し、いのりをがむしゃらに、めちゃくちゃに求めた。
なぜいのりの部屋じゃなく、リビングへと連れていかれたのか……些細で大きな見落としに気付くこともなく、初めて俺といのりは心を背中合わせにして夜を共にしたのだった。
講義が終わり、陽が落ちるのが早くなった昨今。家の前に来ると、おや?と首を傾げてしまう。誰もいないはずの家の中、ピンポイントで俺の部屋だけが光っている。俺の部屋に不法侵入する奴なんて二択でぴろぴろピンポンドーンなのだが、ついこの前の事もあり、人知れず溜息を吐いて玄関を潜る。足元を見て、二択が一択へと。
唯笑か……信がこんな女物を履いていたら絶縁するわ。
いつもならどう脅かしてやろうかと策略を練るところだが、生憎そんな元気はない。重い気持ちを引き摺り二階へと上がり、部屋のドアを開けると、彩花の部屋が見える窓枠に肘を付き、物憂い気に暗闇を見つめ続けている。
どんなに俺が突き放そうと、どんなに頭を下げて願おうと唯笑も信もいつまでも俺の傍から離れようとしない。わかっていたことだ。
今、唯笑の目には懐かしく愛おしい日々の面影が映っているのだろう。俺が帰ってきた事にもぴくりとも反応せず、じっと彩花の部屋を見つめ続けている。
ああ、まったく。そんなお前なんてこれっぽっちも見たくないのに……いや、そうさせてしまったのは、やはり俺自身の責任なのだろう。
恋焦がれる過去へと引き寄せられている唯笑を引き戻すため、その頼りなげな方へと手を伸ばそうとすると、ぽつりと唯笑が心ここにあらずの声で呟いた。
「そうだ、静岡に行こう」
スパーンッ!!!!
「いった~~~~~~いッ!!??」
「人が心配してみりゃ、なに伝説のCMのモノマネしてんだッ!国民的大女優に謝れや!」
びっくりだ!そりゃ心ここにあらずだろうよ!だって心は静岡に旅行に行ってんだもんなぁッ!!
「なにするんだよぉ~、痛いじゃんか智ちゃんのバカぁッ!」
「紛らわしいんだよお前は!物憂い気にしてると思いきや、ずっとタイミングを計ってやがったな!?」
「うう、本当に痛いよ~。ん?心配ってなんのこと智ちゃん?」
こいつ、わかってて聞いてやがるな。にまにま気持ち悪い笑顔を浮かべて、ね~、ね~?と下から覗くように迫ってくる。そんな唯笑の鼻を俺は容赦なく摘まみ上げる。
「う・ざ・い」
「い・ふぁ・い」
何が悲しくてこんなコントをしなければならないのか。俺のささやかな良心をどうしてくれやがる。
頭痛がしそうな頭を押さえつつ、カバンを机の上に置いて上着を脱ぐ。
「何しに来たんだよお前は。まさか、そのネタを披露するためだけじゃないだろうな?」
まさかそこまで暇なわけじゃないだろう。こいつだって実地研修やらなにやらで忙しいはずだ。来年にはこいつだって就職するんだ。社会人手前の大人がそんなに暇なわけが……
「そうだよ?」
あるんだよなぁ~。あっちゃうんだよこいつの場合。
「てわけで、智ちゃん!明日休みだよね?」
目をキラキラさせて尋ねてくる。これほど嫌な予感しかしないこいつは何度目だろうか?見え透いた嫌な予感を俺が察知できないとでも?
「確かに休みだが明日は「じゃあ唯笑と信君と一緒に静岡に旅行だね!」力押しで決定してんじゃねぇッ!」
こいつは何をとち狂ってるんですかね?ああ、その為の前振りかあのネタは。
「いきなり何言ってんだお前は。あのな、旅行って言ってもそんなにすぐに出来るもんじゃないだろ。金だって掛かるし、宿はどうするつもりだ?」
電子レンジでチンで用意出来たら、旅行会社なんかいらねぇんだよ。
「え、もう予約してあるよ?この時期は旅行者が少ないんだって。それに、お母さんの知り合いの人が働いている宿らしくて、お値段もなんと――円なんだって」
お湯で三分で用意出来ちゃったか。この国の物価が心配になる耳を疑う値段に、ほんの少し心がぐらつく。
「そ、そんなこと言って~。実はお高いんでしょ~?」
「ふふふ、今なら三名様まで地元でも有名な老舗の高級うな重がなんと定価でお召し上がりいただけます!」
「帰れ」
お約束通りに世の中は運ばないものだ。茶番を強制終了し、唯笑の服の襟を猫を持ち上げるようにして部屋の外へと向かう。
「わあ!嘘だよ智ちゃん!ちょっとした悪戯心なんだよぉ!」
「ほお、じゃあうな重は?」
「もちろんタダだよ!……信君ごめんね(ボソッ」
そ、そうか。うな重が食べ放題とな?おいおい、豪華絢爛な旅行ではないかね!
「ははは、そこまで言うなら仕方ない」
「智ちゃん、じゃあ!」
「二人で行ってこい。土産にうなぎパイだけは止めろよ」
「断る流れじゃなかったのにぃ~~!」
そりゃ断るだろう。お前と信がなんの裏もなしに俺を誘うなんて怪し過ぎる。俺の隠していた事実を知って、この二人が何もしないわけがない。というか絶対何かを仕組んでいる。あと、ウサギのように潤んだ瞳で見つめてくるのがとてつもなく胡散臭い。
「あのな、いきなり過ぎるんだっての。なんなんだよ?お前等、何をしようとしているんだ?」
じっと唯笑の両目と真っ向から向かい合う。そんな俺から唯笑も一切目を逸らさずに……うん、逸らしてはいないが目を瞑りやがった。ていうか前進してきたぁ!
「そぉーいッ!!」
良い音がしそうなデコに一撃。
「むぅ~、もうちょっとで奪えたのになぁ」
「油断も隙もねぇな!」
いつの間にこんなに逞しく育ったんでしょうねこの子は!彩花さん、あなたの教育の所為でしてよ!
てへへと笑う唯笑に、仕方のない奴めと俺も自然と笑む。
「で、本当にどうしたんだよいきなり」
「……いきなり、かな?そんなにおかしいかな?」
「某探偵漫画の黒い人影並みに犯人臭がする」
俺の突っ込みに唯笑はそうだねと、目を伏せて寂しさを滲ませて答える。
「だって、今だけ……なんだよね?智ちゃんと一緒に楽しい思い出が作れるの」
諦めにも似た声に、そういうことかと納得してしまう。
唯笑も信も俺の事を俺以上に知っている。俺が宣言したのなら、それは事実で他の誰かに曲げられるような脆弱な物ではないと。
「信君とあの後二人で話したんだ。どうしたら良いかなって……でも、智ちゃんがどんなに悩んで決めた事なのかって考えたら、唯笑達じゃ止められないもんね?唯笑達の知ってる智ちゃんはそういうお馬鹿さんだもん。だから、ね?それなら目一杯智ちゃんとの時間を大切に満喫しようって決めたんだ」
過去を話してしまえば二人に余計な荷物を背負わせてしまうかもしれないと、余計な心配をしていたが、二人は無理に俺を止めるつもりはないのだろう。諦めることで俺の心の重しを少しだけ軽くしてくれようと……そんなとてつもなく身勝手な俺の願いを無条件で受け止めてくれる。
一昨日の事なだけに、二人はまだ心の整理が出来ていないんじゃないかと心配していたが、どうやら俺は二人を甘く見過ぎていたらしい。
「ほら、唯笑も来年は自由に時間が取れなくなるし、信君だってやりたい事があるみたいなんだ。だから、少しで良いんだ。少しで良いから、せめて智ちゃんと信君と唯笑で、いつもの唯笑達でいたいから……」
唯笑の声がこれ以上哀愁に濡れてしまわぬよう、俺は唯笑の頭を軽く叩いてやる。
まったく、本当にどうしようもねぇな俺は。俺も彩花も唯笑の本気の我侭に一度も逆らえた事なんかない。その我侭はあまりにも甘く優しい純粋さで出来ていて、笑い飛ばす事なんて出来ない。
「あ~!クッソ、陵に休みの連絡するの面倒臭ぇ~!」
「智ちゃん」
「言っておくが、今回だけだからな!ただでさえ低賃金で団交間際だってのに!」
「団交のメンバーに唯笑達は入れないでね?ありがとう智ちゃん。……やったよ信君(ボソッ」
「あんだって?」
「なんでもないよ。旅行楽しもうね?」
「そうだな。そうと決まれば買い物に行かないとな!」
静岡に行くとなったら浜松だろ?浜松と言えば名物は一つしかない。
「か、買い物?何か用意するものあったっけ?」
「何を言っとるんだお前は!人が一人お持ち帰り出来るぐらいのでっかいバッグを買わねばなるまい!浜松名物といえば常識だろうが!」
「しょうがないなぁ~、智ちゃんは……とか言ってくれる浜松の名物は売切れたって知らないの智ちゃん?」
「……なん、だと?」
売り切れ?馬鹿な!俺の情報網にそんなファッキンクライシスな情報なんてどこにも……!
「あ、あった。ほら、一人目が産まれたって」
インスタに上がっている画像には、産まれたばかりの赤ん坊を抱いて幸せそうに微笑みながら涙を流す家族三人の姿があった。
その画像に俺も号泣。
「ほんとに良かったねぇ~。奥さん左腕が動かなくてね、旦那さんが……って、智ちゃん目から流血してるよ!?」
「かか、感動的だなぁ!ふはははは!ちくしょーーーー!!」
「笑うか怒るか嫉妬するか泣くかどれかにしてよ!」
「あ~、この世全てのイケメンが憎い~!」
「もう、ほんとにしょうがないなぁ、智ちゃんはぁ」
「お前がその台詞を汚すな~~~~~~!!!!」
こうして、俺は名物がただ一人の物となってしまって品切れとなった静岡へと旅行に行くこととなった。ちくしょう、一生爆発してろ!里伽〇は仁の嫁!うわぁ~ん!
「あのさ、なんだかんだ言って、智也って俺達に甘いよね」
「激甘だよ」
陽気な曲が流れる車中でそんな不本意な会話が交わされる。
「誘っておいて言いたい放題だな!誰が運転してると思ってんだ!」
唯笑はぺろっと舌を出し、信がそうじゃないかと口答えをする。
道中、快晴だったおかげで富士山があまりに綺麗で、三人言語中枢をやられる不可解な動物のようなテンションだったり、パーキングでは名産のお茶に舌鼓を打ったり、抹茶ソフトを食べさせ合ったり(戦争)していた俺達は、テンションが落ちる事もなく浜松へと突入。
「う~な~ぎ~お~いし、は~ま~ま~つ~♪」
「……ふるさとの替え歌まで歌ってるんだけど」
「信君、貯金は?」
「破産の心配レベルかよ!?」
後部座席で財布を見ながら儚げにしている親友がバックミラーに映る。お財布事情が深刻なのに俺との思い出が作りたいだなんて……へへ、泣かせるじゃないか。俺は良い親友を持ったなぁ!
「唯笑~、宿までの道の案内よろしくな~」
「合点だよ~。あ、その先のT字路を右だね」
それにしても楽しみだなぁ。どこを向いてもうなぎの文字がでかでかと書かれたのぼりばかり。むふ、むふふ。
想像したら涎が出てきた。ふっくらふわふわの身に、香ばしく芳しい皮、その店によって味わいが違う秘伝のたれ……昇天しそうだ。
「うおっほぉー!早く荷物置いて食べに行こうぜおい!」
「ゆ、唯笑ちゃん?お金を少しだけ貸してくれないかな?」
「十一で?」
「友情はプライスレスじゃないの!?」
ははは、あいつ等も楽しそうで何よりだ。信の顔が青褪めているが、車酔いか?
「ん~?次はどっちに曲がれば良いんだ?」
「えっとねぇ、ちょっと待ってて」
忙しなくスマホへと視線を移し、ふんふんと頷いている。スマホのカーナビでも確認しているのだろう。
「もう少し行くと、赤い屋根の三浦商店っていう小さなお店があるんだって。そこを左に行って……」
やけに高性能なカーナビだな。そんなに詳しく案内してくれるなんて。今の時代、スマホさえあれば迷子になる事もないんじゃなかろうか。
そうして唯笑の案内通りに道を進むのだが、どうしたことか温泉街どころか旅館もあるようには見えない住宅街へと入ってしまう。その証拠に、歩道には学校帰りの黄色い帽子をかぶった小学生が多数歩いている。
「な、なあ?ここ通学路じゃないか?この時間に車で通って良いのか?」
「え?ちょっと待ってね……はい、はい。へぇ~、そうなんですね」
待て待て、イヤホンをして会話って、お前誰と話ているんだよ。旅館で働いているおばさんの知り合いだろうか?
「なんかね、この時間は一方通行で、今向かってる方向は大丈夫みたい」
あ~、時間帯で通れる道が変わるタイプの道路か。地元民じゃないと良く間違えて警察に止められるんだよな。事情が分かると見逃してくれる優しい警察官もいるんだけどな。
複雑な道を案内通りに進むと、閑静な住宅街の中に迷い込んでしまう。そこまで来て、さすがに俺も不安になり唯笑に間違っていないか問い詰めようとすると……
「あ、ここじゃなかったっけ唯笑ちゃん?」
「お~、信君ナイス。良く覚えてたねぇ~」
「伊達に何度も遭難してないからね」
「そうなんだねぇ」
クッソつまんない会話にげんなりだ。信の場合海外での迷子で命の危機にあってるから笑えない。
「智ちゃん、そこの駐車場に停めてって」
「そこって……」
おもっくそ見知らぬマンションの駐車場なんだけど。勝手に停めて怒られないか?
「仲の良いご近所の方の駐車場に停めさせてくれるんだって」
「あ、ああ、そうなのか?じゃねぇ。旅館はどうした?」
「まあまあ、良いから良いから~。シャッチョさんいらっしゃ~い」
やけに陽気な唯笑に首を傾げつつ、渋々車を停めて外へと出る。
後部座席から降りた二人が、一緒のタイミングで背伸びをして行こうかと軽やかな足取りで駐車場を出ていく。
「おい、待てよ!お前等どこに行くんだよ!」
俺の慌てた問い掛けに二人が晴れ晴れと笑い……
『疲れを癒す場所だよ』
なんて堂々と言ってのけた。
疲れを癒すって温泉か?こんな住宅街に温泉なんかあるのだろうか?それとも、地元民だけが知る名湯でもあるっていうのかよ。
迷わずに歩き続ける二人の後ろをついていくが、温泉どころかコンビニの影すらも見えない。こんなところに何があるっていうんだ。
「あったあった。智也、着いたぞ。ここがお前の疲れを癒すとっておきの場所だ」
そうして信が足を止め、両手を広げて示す場所は、なんの変哲もない一軒家。
見渡せばいくらでも建っている沢山の一軒家の内の一つを、どうだとばかりに紹介される。
「どうだも何も、わけが――ッ!?」
不敵に笑う信の横、そこに目を向けた瞬間、目が見開き、足が縫い付けられ鼓動が止まる。
「し、ん……唯笑……お前等、これが目的か?」
「おお、怖い怖い。随分余裕がないじゃないか、双璧の片割れさん」
「その舐めた口を閉じろ。お前でも容赦しねぇぞ。唯笑、自分が何をしようとしているのかわかってんのか?」
叱るなんて生易しい。叩きつけるような声を、あろうことか守るべき存在へと放っていた。唯笑と信を気遣う余裕はとっくに失われている。
「ごめんね智ちゃん……でも、智ちゃんの覚悟を挫くにはこれしかないんだよ。唯笑達じゃ駄目なら、智ちゃんを救えるのは過去だけだから」
唯笑の指がインターホンへと伸びる。最悪で卑劣な仕打ちに俺は憤り、伸ばされる唯笑の腕を止めようと足を進めようとした。蒔田と表札に文字が刻まれているその家は、俺が足を踏み入れる資格を持たない聖域なのだから。
しかし、止めようとした俺を視線で釘付けにする存在がその家の庭先にいた。
「三上君、いらっしゃい」
「蒔田、さん」
蒔田淳さんの妹、蒔田透子さんが太陽に目を細めてそこにいた。
いらっしゃい?彼女は何を言っているんだ。俺が足を踏み入れて良い場所じゃないだろ。知っているじゃないか、あなただけは。何があろうと俺は貴方達に一生顔を見せられない、それを許されない人間だって。
踵を返そうにも彼女の視線が俺から外れない限りこの金縛りは解けることがない。
む、りだ……俺はここにいてはいけない人間だ。信と唯笑が何を思ってこんな馬鹿な事をしでかしたのか知る気もないが、二人は知らないんだ。俺の存在がどれだけ蒔田さん一家を追い詰めたのか。俺が目の前にいるだけで、俺が生きているだけで彼等を追い込んでしまう。今のこの状況が証拠じゃないか。
先日、蒔田透子さんから多少の事情は聴いていた。蒔田さん達が県外に引っ越した事だけは。詳しい事は語ってはくれなかったが、理由は想像に難くない。
あの事故の後、新聞記者やゴシップ誌の記者が何人も蒔田さん一家へと取材を試みたはずだ。実際、当時彼等が住んでいた家の写真や現場の写真が、心ない雑誌に大きく取り上げられていた。社会的にも、精神的にも、肉体的にも、彼等は俺の想像なんかじゃ補えないほどに誹謗中傷に晒されたはずだ。そして、その原因を作ったのは紛れもなく俺だ。蒔田さんを死に追いやる事がなければ、世間はあんなにも彼等に注目しなかった。俺は、自分の手を直接下さないで彼等家族を粉々に踏みつけたんだ。
肌が泡立ち、小刻みに震える身体。あ、えない。会ってはいけない。これ以上俺は彼等を傷つけたくないッ!!
声もなく、金縛りを歯を食い縛って解き、ゆっくりと背を向けようとした。
「逃がすか馬鹿」
だが、そんな俺の腕を決意を宿した瞳で力強く掴んで離さない手が一つ。
「――信ッ!!」
「彩花ちゃんの墓前でお前は俺を逃がさなかっただろ。なら、今度は俺が逃がさない」
それは、あの日俺が信へと送った皮肉であり思い遣り。
「放せ信!あの時と今じゃ違うんだ!お前と俺は違う!俺は――」
――ようやく、会うことが出来た――
信を振り解こうとする俺に落ち着いた男性の穏やかな声が掛けられ、全身から力が抜けて立ち尽くす。決して顔を上げずに。
「久しぶりだね、三上智也君。病院で一度だけ会った事があるのだけれど、君は覚えているだろうか?」
何を、言えば良いのだろう?忘れるはずがない。忘れて良い人達じゃない。いつだって貴方達は俺の心にいた。頭に浮かばない日はなく、毎晩毎晩繰り返される記憶の中にいつだっていたんだ。
俺の罪の象徴であるその人が声を掛けてくれている。何か、なんでもいい。答えなければいけない。だのに、喉はひりついて焼け爛れてしまいそうで、声を出そうにも出てはくれない。口を開き掛け、何かに縫い留められてしまったかのようにすぐに閉口してしまう。
「お父さん、ここじゃなんだから上がってもらったら?」
上がってもらったら?何を彼女は……
「そうだね。透子もいつまでも庭にいないで中に入りなさい。せっかく帰ってきているんだ、ゆっくりしていればいいだろう」
「だって、三上君が来るんだもの。私がここにいなかったらきっと逃げてたわよ」
「おや、そうなのかい?」
きっと俺へと声を掛けているのだろう。首を振る事も出来ない俺の代わりに、その人に応えたのは信だった。
「まさか。俺が逃がさないから安心して下さい」
ぐっと、握られた手に力が加わり、もう片方の腕にも新たに俺の枷が増える。
「逃げるのはもうなしね、智ちゃん。五年も逃げ続けて飽きたでしょ?」
そうじゃない。そうじゃないんだよ唯笑。逃げるとか、逃げないとか、そんな問題じゃないんだ。
二人に手を引かれ、玄関へと連れていかれる。蒔田さん達に俺が逆らえるわけがない。この先、彼等にどれだけのナイフを突き立てられようと俺は耐えられる。そうじゃなきゃおかしいんだから。
玄関を潜った二人の足が止まる。引き連れていた俺が岩のように動けなくなってしまったから。
「智ちゃん……」
だ、めだ。これ以上は進めない。俺は俺が誰よりも穢れていると知っている。蒔田さん達にとって俺は猛毒であり、悪臭を放つ泥なんだ。入ってはいけない。彼等の家をこれ以上俺が汚してしまうわけにはいかない。
「ああ~ったく。智也!駄々を捏ねるのは幼稚園で卒業とけよな!せぇ~のッ!!」
息を合わせて二人が俺を引っ張り、無理矢理中へと歩かされた。その際、ちょっとした段差に足を取られ転びそうになり、勝手に足が踏ん張ろうとした。そうして体勢が崩れてしまった所為で、俺はついに目に入れてしまう。顔を向けることが許されないその人の顔を。
「本当に仲が良いんだな君達は。大丈夫かい三上君?」
まだ、50代だというのに最初に目に入ったのはその髪だった。どこを探しても黒はなく、灰を被ったかのように真っ白になった髪。目尻の皺は何本も深く刻まれ、頬を痩せこけて骨ばっている。お世辞にも50代には見えず、70代のようなその顔に心臓を締め上げられたかのような苦しさが襲った。
老いを感じさせる穏やかな笑みに、ようやく声が出た。
「すみ、ま、せん」
「いやいや、気にしなくても良いよ。そう固くならずに上がって上がって」
すみません。本当にすみません。あなたをそれほどまでに苦しませて……俺の口にしたすみませんはそういう意味だった。
居間に通されると、俺達を老いを感じさせながらも上品な声が出迎える。
その声に、俺は目を逸らさぬよう自分を叱咤して、声の主と向き合う。
「初めまして、で合っているかしら?こうして顔を合わせる機会は初めてですものね。あなたが三上智也くんね」
柔らかな視線は彼女の精一杯の心遣いなのだろう。旦那さんと以上にやせ細り、お茶の乗ったお盆を持つ手は病的にさえ思える様だった。その腕の細さを俺は何度も目にしている。あの手は……
(みなもちゃんと同じだ)
病を患ったのかもしれない。健常者の身体との違いが顕著に表れていた。
唇を噛み締め、口にしてはいけない言葉を飲み込んで、せめてもの気持ちをと目礼をする。
挨拶をしなければならないのに、俺は何も口に出来ない。礼儀知らずな態度に気を悪くしないだろうかと心配になるが、俺の存在自体が彼等の害悪なんだ。余計な心配だろうと、無言を貫く。
そんな俺の失礼な態度にも関わらず、旦那さんは気に留める事もなく椅子に座るようにと促してくる。
「ふふふ、遠慮しないで座って下さい。お茶も用意してしまいましたし。さあ。稲穂さんと今坂さんも、先日はわざわざありがとう」
「いえいえ、自分の好きなように動いているだけですから。あ、おはぎですか!?俺めっちゃ好きなんですよ!」
「もう信君はしゃがないでってば!あ、ごまおはぎもあるんですね!」
……先日?
和やかに会話する面々に、そういうことかと拳を握る。余計な事をしてくれたものだ。誰の入れ知恵だよ。
「お母さん、私のごまおはぎは取っておいてよねぇ。三上君は……こりゃまた予想通りね」
苦笑する蒔田透子さんを尻目に、俺を置き去りにして団欒の空気が場を包む。
なるほど、な。つまり唯笑達は俺の与り知らぬところで蒔田一家と関係を持っていたんだ。こんな事を入れ知恵しそうなのは……まあ、おばさんだよな。
一分、二分と時間がどんどん過ぎていく。その間、胃から込み上げそうな吐き気を我慢しながら、出されたお茶にも手を出せずに沈黙し続ける。
何も口に出来ない。声を出すことは許されない。出してしまえば俺は自分が最も恥ずべき言葉を口にしてしまうに違いなかった。
「三上君、突然の事で驚いただろう?」
俺を慮った言葉に俺は沈黙をもって答えた。
「実はね、君と会わせて欲しいと頼んだのは僕からなんだよ。だから、もしも君が彼等に憤りを感じているのなら、それは違うよ。本当なら僕が足を運ぶべきなんだが、情けない話でね。僕は君に会いに行く勇気が湧いてこなかったんだ」
予想もしていなかった言葉に思わず顔を上げてしまった。
「正直な事を言うと、先日までの僕は最低な人間だった。だが、彼等と話をした事でそんな自分に気付けたんだよ。だから、今の君の気持ちが僕には良くわかる」
なぜあなたが自分を卑下するんですか。貴方達が自分を最低だなんて思う必要はどこにもない。だからどうかお願いです。お願いですから――
「君が何も語らないようにしているのは……」
この五年という月日の中で積もりに積もった何もかもで俺を殺して下さい。
「謝罪の言葉を言いそうで怖いからじゃないかい?」
「――――ッ」
どくんと、心臓が跳ねる音が耳の奥に響く。
どう、して?と何もかも見透かしているかのような目に問いかける。
「謝罪の言葉を口にする事自体を君は卑怯と自分に言い聞かせて、少しでも肩の荷を降ろしてしまわないように歯を食い縛っている……違うかな?」
旦那さんの推測が正解だろうが間違っていようが、俺はその問い掛けに応える気はない。例え見透かされてしまったとしても、それだけが俺の誠意の形と信じているから。
いつまでも沈黙を続ける俺に諦めたように笑い、彼は……
「それなら僕から、かな。三上君」
嫌な、とてつもなく嫌な予感が胸中に過る。それをさせてはいけないと咄嗟に動いた左手。だが、俺の愚鈍な手は彼の行動を阻止するにはあまりに遅すぎた。
「この五年間君を苦しめ続けてしまい、申し訳なかった。どうか許して欲しい」
「情けない大人でごめんなさい」
対面に座る二人が、自分の半分も生きていない子供に頭を下げている。俺が下げさせてしまった。
そんな二人を目前にし、ついに沈黙は破られてしまう。
「な、何しているんですか!止めて下さい!」
お願いではなく、懇願だった。なぜ被害者の二人が頭を下げているのか、なぜ俺はこんなに戸惑っているのか……頭の中が真っ白になり思わず二人へと手を伸ばしてしまっていた。
「いいや、止められないんだ。僕は本当に最低な人間なのだと思い知った。僕は君を恨むなんて大層なことが出来る人間じゃない。ぼくは、僕はね……」
続く言葉に俺は何も言えなくなってしまった。その言葉は俺が当然に受け取るはずの言葉なのに、その声は自責の念に満ちている物だった。
「君が自殺を図ったと聞いて当然の報いだと心の中で嗤った……そんな小さな人間なんだ」
そうして語られたのは、俺の知らないたった一日の出来事だった。
「つまり君達はこう言いたいわけか?この五年の間、彼はずっと息子を忘れないまま苦しみ続け、この先も自分を罰し続けようとしてる、と……」
「はい」
目の前の少女、今坂唯笑さんという名前だったか、挫けぬ意思を目に宿して強く答える。
隣の青年、稲穂信くんもまったく同じ表情で頷いた。
透子がお客様を連れてくるというから何かと思えば、連れてきた二人は、私達家族を引き裂き粉々にしたあの忌々しい少年、三上智也の家族のような関係の二人。
今更彼の関係者が私達に何の用だと苛立ちそうになったが、透子に話を聞いてあげて欲しいと頼まれては断る事など出来なかった。
三上智也、最愛の息子を死に追いやった張本人。息子が自殺という最悪の形で人生を終えて以降、私達がどれだけ世間から疎ましい視線を浴びせられてきたか彼等には想像も出来まい。あの少年の顔を忘れたくても、いつだって頭に汚れのようにこびりついている。思い出したくなくても、思い出すたびに煮えくり返る怒りが顔を覗かせた。
あの少年が苦しんでいる?結構な事じゃないか。息子の一生を奪ったのだ、一生を掛けて苦しみ続ける事が義務だろう。そんな事で息子は帰ってきたりはしないが、花向けにはなるだろう。
「なるほど。彼の現状はわかったが、僕にだからどうしろと言うんだい?まさか彼を救う為に会って欲しいとでも言うんじゃないだろうね?だとしたら冗談じゃない。なぜ僕がわざわざ敵とも言える相手を救わなければいけないんだ」
「それは違います!息子さんが亡くなってしまったのは元を辿れば俺が原因の一端です!」
「君が居合わせた事はさっき聞いたよ。だが、君と息子が死んだことは無関係だ」
「どうしてですか!あの事故で俺が彩花ちゃんを助けることが出来ていたら、智也も貴方達もこんな事にはなりませんでした!ですから、智也だけの責任じゃありません。その責任は俺にもあります!お願いします、少しで構いません。あいつと、智也と会っては頂けませんか?」
「勝手な言い分だね。極論ですらない。僕には君がただ彼を庇っているようにしか見えないんだ。彼だけの責任じゃない、少しだけでも彼の罪を自分にも……不愉快極まりない。それに、彼が苦しんでいるだって?私は彼の苦しんでいる姿を見た事もない。どのように彼は苦しんでいるんだい?心優しい君達のような友人に囲まれて、家族が隣にいて、どうして苦しんでいると?」
わざわざ浜松まで彼の為に足を運ぶ人達がいる。それがどれほど得難い友人かなんて言わなくてもわかる。彼らがいる限り三上智也は不幸になる事なんて……
「……自殺、しようとしました」
「なんだって?」
口にするべきか迷っていたのか、か細い声が耳に届く。
「智ちゃん、あの事故の後すぐ自殺しようとしたんです。荒れた川に身を投げて」
彼女の言葉に衝撃を受けなかったと言えば嘘になる。だが、僕以上に動揺し、血の気の引いた顔をしていたのは透子だった。
「それ、いつの事?」
「彩ちゃんの葬儀があった次の日です」
口を抑え、透子は全身を震わせていた。葬儀の次の日?葬儀の日は確か透子が用事があるとふらふらと出掛けた日ではなかったか?
ああ、今僕はどんな顔をしているのだろうか。透子のようにショックを受けている?いいや、違う。自覚して口元を左手で隠した。とても人に見せられる表情ではないと確信があった。
私達の様子に彼女は目を静かに伏せる。遠い日を思うかのように。
「智ちゃんを助けたのは私の母と、智ちゃんのお父さんでした。正直、智ちゃんが川に身を投げたと知って私は生きた心地がしませんでした。なぜ智ちゃんがそんな事をしたのか、恥ずかしながらつい最近まで理由を知らなくて……それから一か月ほど、智ちゃんは誰とも会話をすることもなく、自分の部屋から一歩も外に出ないようになりました。でも、一か月後にようやくです。ようやく智ちゃんが泣いたんです。何も語らずに、静かに私に抱き着いて声も出さずに泣きました。智ちゃんが泣いたのはその一度だけで、今に至るまで涙一つ見せる事はありません。きっと、智ちゃんはあの日が最後だったんです。本当の自分を曝け出すのはあの日だけで、それ以降は何百、何千と自分を殺してきたのでしょう。だからと言って、智ちゃんに同情して欲しいわけでも、許して欲しいと願うわけでもありません」
万感の想いが込め、彼女は揺らがぬ強さを身に纏ったまま頭を下げる。
「どのような形でも構いません。どうか智ちゃんと会っては頂けませんか?どんなに辛辣な言葉でも、それが少しでも智ちゃんを救う希望になるはずです」
その願いがどれだけ厚かましいか理解して尚逡巡もなく堂々と願いを口にする。こちらが気圧されてしまいそうで、知らず歯噛みしていた。
「……頭を下げてもらって申し訳ないが、帰って欲しい。そして、もう二度とこの家の敷居を跨ぐことは許さない」
「お父さん!」
「透子、お前が連れてきたんだ、二人を送って差し上げなさい」
これ以上話すことはないと立ち上がり、居間を後にしようとすると、透子に腕を掴まれる。
「……ごめんね二人共。ちょっと外で待っててもらえる?少しお父さんと私だけで話をさせて」
透子の言葉に二人は目配せをして、失礼しますと言葉を残して出ていく。
二人が出ていくのを確認した後……
「お父さん、私が言えた事じゃないけど」
そう前置いて、透子は産まれてから初めて僕を睨みつける。
「お父さんに三上君を責める資格はどこにもないわ。もちろん、私にもよ」
「なにを」
突然の娘の反抗的な言葉に目を剥く。
「責める資格がない?じゃあ誰にその資格があるというんだ!彼は僕の家族を殺したいわば殺人犯だ!そんな人間をどうして責めるなと言うんだ!淳は、淳はあんな死に方をするために産まれてきたわけじゃないんだぞ!」
こんなに簡単な事がわからないわけじゃないだろう。誰よりも兄を慕っていた透子の言葉は気が狂っているとしか思えなかった。
自分は間違っていない。間違えたのは三上智也だ。そう自分に言い聞かせる言葉はしかし、透子によって剥がされてしまう。
「お父さん、笑ったでしょ?三上君が自殺未遂をしたって聞いて笑ったよね?」
見られていた?いや、だからと言ってそれの何が悪い。当然じゃないか。淳が自殺をしてしまったんだ。ならば、同じように三上智也が苦しむ事に喜びを感じることがそんなに悪い事か?偽善だろう、そんなものは。
「気付かないの?そうやって憎しみで塗り潰して笑って!それじゃあ、あの日!病院でお兄ちゃんに詰め寄った三上君と何も違わないじゃない!」
目に一杯涙を溜めて、透子が僕を責め立てる。
同じ、だと?僕が三上智也と?
「ううん、三上君のがもっとマシよ!自分の間違いに気付いて、この五年間お兄ちゃんを大切に、忘れないように彼は生きてきたもの!お父さん達だって本当は気付いているんでしょ!なのに見ない振りをしてきたッ!私も!お父さん達も!向き合ってしまったら自分の間違いに気付くのが怖かったからッ!」
僕の胸を両手で押して引き離し、僕だけじゃなく自分自身を罰するように、厳しく辛い言葉を羅列していく。
「知っているでしょ!いつもいつも、私達がお兄ちゃんのお墓に行くと雑草一つなくて綺麗なんだよ?誰が掃除してくれていると思う?この五年もの間!どうして見ないの!いつも同じ花が絶対供えられているじゃない!わかってるから見ないようにしてるんでしょ!だから三周忌からその花を捨ててたんじゃないの!?」
「透子、黙りなさい」
「黙るのはお父さんよ!聞こえてたんでしょ!?お兄ちゃんの事を忘れない、ずっと贖罪し続けます、ごめんなさいって!言葉にしないでずっと花に想いを込めてくれてたんだよ!私達は一度も桧月さんのお墓に足を向けようともしないのに!どんなに怖くて、どんなに逃げ出したい気持ちを殺してきたか、お父さんだってわかるでしょ!私達の気持ちを思って、顔を合わせないように一人で、たった一人で三上君は償い続けているんだよ!私達が出来ない事を彼はしてきたの!私達より子供の彼がッ!!」
「――黙りなさいッ!!」
透子に向けて初めて僕は声を荒げてしまっていた。これ以上透子の言葉を聞いてしまえば、これまでの五年間が、苦難に満ちた日々が否定されてしまう気がして怖かった。
僕の初めての怒声、だけど透子は怯むことはなかった。
「陽花里(ひかり)さん、お兄ちゃんが亡くなって二年も経たずに他の人と付き合ってた。私ね、どうして?って陽花里さんに詰め寄ったんだ。そしたらね、ごめんなさいって謝るばかりで理由を話してくれなくて……でもね、今ならわかるよ。過去は大事だよ。大切で忘れちゃいけない事ばかり。でもさ、過去だけを大切にしたら生きていけないんだよ。だって、それって現在(いま)も未来もどうでも良いって捨ててるのと一緒だもん。だから、私達は全部を大事にしていくの。それが生きるって事でしょ?なのに、いつまでお父さんも三上君も死んだように生きていかなきゃいけないの?お父さんは、倍以上に年下の三上君にそんな事を強要しているんだよ?それを喜んでいるんだよ?お父さんだって、これまでの私だって三上君を殺してきた立派な殺人犯じゃない!」
声を詰まらせて透子は泣き崩れる。そんな娘の肩に手を置こうとしたが、僕の手は情けない程に震えていて、娘を慰めるにはあまりに弱々しい手だった。
震える手を握り、目を瞑る。
じゃあ、じゃあどうすれば良かったというのか。僕は淳を守りたかっただけだ。それだけなのに、それを間違いだと透子に否定され、しかもこんなに動揺してしまうほどに言葉が突き刺さっている。
間違えたと言うのならどこで間違えた?
過去の記憶を掘り起こそうとすると、いつだってあの日の、あの霊安室での光景が浮かんでしまう。
あの時、あの少年が淳に詰め寄った時、僕は何を感じていた?理不尽な言葉をぶつける少年への憤り?違う。そうじゃない。大切な愛娘を失わせてしまった事に対する罪悪感で一杯で、淳を守るとか、少年を憎むとか、そんな感情なんて湧いてこなかった。
そう、僕はあの時点では少年を恨んでなんていなかった。それどころか、この先の心配ばかりしていた。遺族の方にどのように償えばいいか、刑事罰は適応されるのか、息子の将来はどうなるとか、そんなリスク回避の下らない事ばかりが頭にあった。そんな汚い大人の思考ばかりだったんだ。
記憶を掘り起こしながら、はっとして額に手を置いた。
そう、だ。僕は少年をあの時まで恨んでなんていなかった。ただ、今後どうすれば世間から家族を守れるかばかりで、桧月さん達の事なんて頭から消えていた。そんな曇った目で過ごして……だから、か?だから淳の様子がおかしい事にも気づかないで……
「あ……あ、ああ……」
三上君の家族は三上君を救えたのは、世間や常識よりも彼の事を本当の意味で大切に想っていたからだ。だから間に合った。それに引き換え、僕は息子が精神的に限界まで追い込まれているのを知っていたのに、それなのに向き合おうとしていなかった。救えたはずの息子を、僕は……
「情けない親だろう?君に罪を押し付けて、親としての責務を放棄していた事から目を逸らしていたんだ。それどころか、桧月さんに花を添える事もしないで……恥知らずにも程がある」
ち、がう。こんな想いをさせる為に俺は蒔田さんに花を手向けていたわけじゃない。
唯笑と信を睨む。
「お願い、します。頭を上げて下さい。間違って、ませんから……俺は、殺人、犯で……貴方達の大切な息子さんを、俺が殺してしまって……」
どうしてだ。なんでこんなことになっている。まるで罪のない彼等がどうして頭を下げているんだ。
被害者は貴方達で加害者が俺で、頭を下げようにも俺にそんな資格はないと戒めていた。それなのにどうして!
一度口を開いてしまえば、もう止まらないと知っていた……許しを請う事なんて贅沢は許されないと。
「――申し訳、ありませんッ」
膝から崩れ落ち、床に手をついて頭を低く、許しを請わず、願わず、俺は頭を下げるしかなかった。そうすることでしか、蒔田さん達の謝罪を止めることが出来ない自分が悔しくて仕方ない。
「俺は、彩花の両親の居場所も、蒔田さん達の家族の時間も、場所も、なによりも大切な息子さんを失わせてしまいましたッ。浅慮な子供が身勝手に、衝動に任せてみんなを苦しめてッ」
こんな俺なんかの謝罪に価値はない。それでも、最低だとしても伝えなければ。
「本当は、貴方達に顔を向けられるような人間ではありませんが、せめてこれまでの時間の謝罪をさせて下さい。あの日の自分の恥ずべき言葉と、これまでの五年という短くない時間、息子さんを僕の所為で失わせてしまい、続いていくはずだった家族の幸せな時間を壊してしまった事……申し訳、ありませんでした」
感情を殺して本音を口にする。そうでもしないと、俺は誓いを破ってしまう。せめて蒔田さん達の前では堪えなければいけない。
「三上君、顔を上げてはくれないかな?」
掛けられた優しい言葉に、俺は首を振って拒否する。こんな程度じゃ償えないとしても、それでも一度頭を下げたのならこの程度の謝罪では、蒔田さん達が苦しんだ時間の償いさえ出来ていない。
「はぁ~あ!三上君、起立!」
容赦ない言葉に俺は顔を上げると、蒔田透子さんが人差し指をくいくいと曲げて立てと示す。
「いや、でも……」
「ぐだぐだ言わない!立ちなさい!直立不動!」
「……はい」
何をしようというのか、わけもわからず立ち上がると……
「いつまでもめそめそと――」
「透子!止めなさい!」
「透子ちゃん、止めてッ!」
振りかぶる腕、固く握った拳が振り下ろされるのがやけに遅く感じた。
止めようと立ち上がるご両親に構わず、これまでの苦痛な時間の十分の一でも込められているかのような拳が、俺の頬を捉えた。
目を逸らさぬよう、力を込めて立っていたおかげか、尻もちをつくという無様は避けられたが……
ぽた、ぽた……
「と、智ちゃん鼻から血が出てるよ!」
「うはぁ~、猛烈~」
俺を支えようとする唯笑を手で止めて、これ以上床を汚してしまわないように鼻を押さえる。
「透子ちゃん謝りなさいッ!なんて事をするのッ!」
「うるさいなぁ!みんなで頭下げて、自分が悪い自分が悪いって馬鹿じゃないの?そんな事の為に呼んだわけじゃないんでしょ?」
諫めようとするお母さんを逆に叱り、彼女は清々したかのように歯を見せて笑った。
「てことで、これでチャラよチャラ。どう?これで気が済んだでしょ。ていうか済め」
そんな彼女の様子に笑い声をあげる馬鹿が二人。
「あは、あははは!透子さん格好いい!」
「智也を殴り飛ばすとか、男前ってか女前ですねぇ!」
「でしょ?良い三上君。今のは病院での君の言葉への本当の意味での罰よ。言っておくけど、これ以上の罰は用意出来ないんだから、これで満足してよね。それとお父さん、言いたい事が他にもあるんじゃないの?」
透子さんの行動に面食らっていたお父さんが、ああと頷く。よほど驚愕していたのか、少しばかり放心していた様子だ。
「三上君、僕が言いたかったことはあと二つあるんだ。一つは、身勝手で難しい願いなのだけれど、どうか聞いて欲しい」
お父さんがゆっくりと俺との距離を詰めて、皺枯れて力を感じさせない……でも、しっかりとした温もりを感じさせる手で、俺の両手をぎゅっと掴んでくれる。
「この先も息子の、淳の事を忘れないでやってくれ。もちろん、償ってほしいとかそういうわけじゃないんだ。絶対ではないが、おそらく君の方が僕達よりも長く生きるだろう。僕達が人生を終えた時、淳を偲んでやれるのが透子だけじゃあ可哀想でね。君には辛い頼みだが、どうか聞き届けて欲しい。そして、忘れないまま、今度は自分の人生を生きて欲しい。償いに費やした君の時間は、五年の内に何十年分の贖罪が詰め込まれていたのだから……君が自分を責めて前を向けない人生を歩むなんて事は、それだけは絶対にしないでくれ。これ以上、僕達を加害者にしないでくれないだろうか」
これ以上私達を加害者にしないでと、以前陵に透子さんが言った言葉……その真意を実感する。
な、んだよそれ。俺が幸せになってもいいと言うのか?息子の仇を前に、こんなにも穏やかな温もりを見せるなんて……
「どうかな?」
こんなの、どうしたって断れない。こんな優しさを見せられて、どうして無下に拒否できるだろう。
「すぐ、には無理かもしれませんが、頑張って、みます。そ、れに……蒔田淳さん、の事を忘れるなんて、俺には出来ません」
俺の答えに、ほんの少し寂しさを滲ませた笑顔で頷き、そしてもう一つと言って俺から離れ、お父さんだけじゃなく、お母さんまでもが一緒に俺へ……いや、俺達三人へと頭を下げる。
「次の桧月彩花さんの命日に、花を添えに行かせてくれないかな?お願いします」
「今まで、貴方が淳に捧げてくれた気持ちと同じように、私達にも彼女に謝らせて欲しいのだけれど……駄目かしら?」
なんてささやかで、胸が詰まるお願いなのだろう。二人の真摯な気持ちに、俺も真摯に応えなければいけない。
頭を下げる二人の隣では、透子さんが場を和らげるためか両手を合わせてお願いしている。なんだよこれ……こんなのってねぇよ。
「むしろ、こちらから頭を下げてお願いします。是非、彩花と会ってやって下さい」
蒔田さん達が会いに来たら、あいつはあたふたと慌てて、泣きながら逆に頭を下げるんだろうな。想像すると、少しだけ笑えた。
「ありがとう」
「いえ、その代わりと言ってはあれですが……俺からも一つだけお願いがあります」
「なんだい?」
蒔田さん達が誠意を見せてくれたのに、俺がそれに背く事なんて出来ない。二人の目を今度こそ真っ直ぐに見つめ……
「蒔田淳さんにお線香を上げさせて頂いてもよろしいでしょうか。お願いします」
ただ純粋に蒔田淳さんを偲び、深く頭を下げた。
砂浜を歩きながら夕日に染まる幻想的な景色を眺める。弁天島海浜公園は地元でも有名という事でやってきたのだが、確かにこれは溜息を吐いてしまうほどに綺麗で、いつまでも見ていたい気持ちにさせられる。
「ねえ信君!海に入ろうよ!」
「なんの罰ゲームだよ!風邪引くから駄目だって!」
本当に海に入ろうとする唯笑ちゃんを止める。テンションが上がり過ぎでしょ。
後ろを見ると、智也はずっと黙ったまま着いてくる。あいつの胸中にある物を俺達はきっとこの先も知る事は出来ないかもしれない。でも、全部は共有できなくても、その一部だけなら持たせて欲しい。いいや、持たせて欲しいじゃないな。無理矢理掻っ攫ってやる。今日のように、さ。
「智ちゃーん!智ちゃんは海に入るよね~!」
「入らせないから!唯笑ちゃん達が入ったら俺まで入る流れになるから!」
唯笑ちゃんの声にもなんの反応も示さない。車内でもずっと黙ったままだったしな……これはマジで俺達に怒っている可能性が高い。
そもそも、どういう繋がりなのかは探らなかったけど、透子さんの連絡先を唯笑ちゃんのお母さんが知っていて、あとは俺達の好きにしろってぶん投げてきたのが原因なんだよなぁ。俺達じゃ無理なら、当事者同士を引き合わせりゃなんとかなんじゃね?とか言って。理屈は間違ってないんだけど、基本適当なんだよ。杜撰どころの計画じゃない。一歩間違えば智也は再起不能だったんだ。なのに、なんとかなるとか暴論振りかざして、酔っ払って俺と一蹴にあんなことをし始めるし……何があったかは社外秘。
「唯笑ちゃん、これ謝った方が良くないか?」
「どして?」
「どしてって、完璧怒ってるでしょあれ」
蒔田さん達と話している時、何度か智也と目が合ったが、ぶっちゃけ殺されるかもしれないと感じるような眼で睨んで来たし。智也としては、あの人達に頭を下げさせる事も、自分の所為で追い詰めてしまう事も絶対にしてはいけない事だったんだ。荒療治とはいえ、さすがに勝手し過ぎた感は否めない。
やきもきしていると、唯笑ちゃんはん~と、唇の舌に指を当ててにへらとだらしなく笑った。
「あのね信君、あれは怒ってるんじゃなくて、多分ねぇ~って智ちゃんッ!!??」
「は?智也がどう――どわぁッ!!!!」
突然背中に衝撃を受けて、俺は間抜けな声を出しながら、唯笑ちゃんはいやっほ~と笑いながら……そして智也の表情は見えないまま三人は、肌に刺さるような冷たさの海へとダイブ。
予期しない事態に俺は驚き、唯笑ちゃんは「あ~、やっぱり!」と呑気に発しながら智也の抱擁に嬉しそうに抱き着く。
智也の両腕に俺達はロックされたまま、唯笑ちゃんと俺は背中から、智也は正面から海水浴。なんにも楽しくない!海水が痛いんだけど!……いや、外の気温が低い所為か、ちょっとあったかいかも。じゃねぇよ!
「お前、いきなり何すんだよ智也!それとも仕返しがこれか!」
死なば諸共と怒りを放出したんだな!そうに違いない!こんな真冬に何が悲しくて海に入んなきゃいけないんだ!
あ、駄目だこれ。完全にスニーカーもジャケットもアウターもご臨終だ。高かったのに……高い代償だなぁ!クソ!
「違うよ信君、智ちゃんはね……」
唯笑ちゃんがしょうがないなぁと微笑みながら、智也の背中をぽんぽんと優しく叩いている。
「ようやく帰ってきたんだよ。だって、久しぶりに見たもん。智ちゃんが泣き出す前兆」
この上ない歓びを唯笑ちゃんは抱き締めている。そう、なんだな。唯笑ちゃんはだからあんなにも上機嫌だったんだ。俺の知らない本当の智也、唯笑ちゃんが知っている大切な家族……ようやく、五年もの日々を家出していた不良息子が帰ってきたんだ。
「う、あ……ああ……俺、俺ぇッ!」
波を被った頬から流れる雫は、海へと溶けて消えていく。
長かった。こんなにも長い間独りにさせてしまっていたんだ。
誰にも気づかれないよう、誰も傷つけないよう、孤独が智也の精神をどんなに蝕んできたのだろうか。助けを求めず、救いを拒絶して、誰も彼もの傷を自分の中だけで抱えて……
そんなどうしようもない孤独が、涙と海水が混じった雫に込められている。その雫が俺と唯笑ちゃんの頬を濡らす。
今日、この日、智也は帰ってきたんだ。涙を、自分を諦めずに殺し続けた三上智也が、俺達の求めた智也が目の前にいる。
「ば、か……やろ……五年も意地張りやがってッ……」
「う、せ……う、く……あッ……」
智也の鼓動が俺達と重なる。
ようやく共有出来た想いに、とうとう三人同じ顔。
智也の五年は絶望だけが救いで、それ以外の何も目に映っていなかった。唯一彩花ちゃんだけなんだろう、本当の智也に寄り添う事が許されていたのは。
ここにいない愛する人を拠り所に、智也はいつ力尽きても仕方ない時間を生きてきた。だけど、そんな危ない橋をもう渡らせたりなんてしない。そこに向かって歩こうものなら俺はこいつをどんな手を使ってでも止めてやる。誰を傷つけたとしても、こいつと唯笑ちゃんを俺は絶対に手放さない。
雨の中にいるこいつに、もう傘なんか差そうとなんてしない。傘なんか放り投げて雨の中駆け出してやる。馬鹿みたいに笑って、気持ちいいって叫んで、こいつと肩を組んでやるんだ。それでいい、それがいい。
「もうッ、絶対ッ!独りになんかさせないからな!覚悟しとけよ馬鹿ッ!!」
「何があってもず~~~~~ッと一緒だからね!四人一緒だよ!」
「う、はぁッ……あ、あ……そ、だなぁッ……そう、うっく、うあ……」
三人鼻水垂れ流して、泣いて笑って……傍から見たらとんでもなく気が狂っているように見えるんだろうな。
唯笑ちゃんと目が合い頷き合う。俺達が掛けるべき相応しい言葉を、大きく息を吸い込み――
「おかえり智ちゃんッ!!!!」「おかえり智也ッ!!!!」
「――ただいまッ!!!!」
お腹を空かせて帰ってきた不良息子を、ありったけのおかえりの気持ちを込めて二人で抱き締めて迎える。
この先、四人が別たれる事なんてない。四人じゃなければ、それは独りと同義なのだから。どこにいようと、俺達はもう大丈夫。重なる鼓動がその証明だ。
さあ始めよう。ここからが智也の、俺達の本当の始まり。
四人の歓びも悲しみも、今日この日、この瞬間から始まったんだ――
というわけで、智也過去編がようやく終了となります。
どうでしたか?僕としては、全然思うように書けなくて苦しかったなぁという感想です。もうちょっと繋ぎを上手く描けたら良かったのですが、申し訳ありません。
書いていて、ちょっとというか、思わず笑ってしまった事がありました。
なんというか、それからと1stの違いが出てしまったなと。高校生組がアダルトなシリアスに対して、1stチームはとことんアホな事ばかりしているなと。本編の違いが明確ではありますが、これはこれでどうなんだと。智也にアダルトを期待するのは無茶なのですが、どうにも笑ってしまいました。
ここから少しの間はコメディ全開で行かせて頂きますので。没にした合コン回も、没作として今後上げますので、お楽しみにして頂けたらと思います。
ここまで長く読んで下さりありがとうございました!