今この瞬間、世界が止まれば良いのにと、私は浅はかな願いを胸にする。
今まで生きてきて今が一番安らぎを感じている。
満たされてはいけないのに、どうしようもなく満たされてしまう。触れてはいけないと知っているのに、その安らぎに触れてしまいたい。例え触れれば壊れると知っていても。
眼下には、背負いきれるはずもない重荷を背負い続けた臆病で、強がりで、誰よりも自分への優しさを忘れてしまった人。そんな愚かな人が、今だけは私の膝の上で疲れ切って眠っている。
ゆっくりと起こさないよう、労わるよう、この時だけは良い夢が見れるよう、子供の様に眠る彼の髪を撫でる。
限界なんてとっくに越えてしまっていた事に、誰も気づいてあげられなかった。稲穂さんや今坂さんでさえ気づけなかった。気付かせないよう、嘘で自分を隠していたこの人が悪いのだけれど、その嘘は悲しい程に優しくて、その優しさは自分自身を何度も何度も殺していた。
彼の頭を撫でながら、知らず涙が頬を伝っていた。
どうしよう。この気持ちをなんて言葉にすればいいの?
自分の大切な人達の為に、心を自分で何年もずっと殺してきた馬鹿な人。きっとこの人を深く知った人は同じことを願うだろう。誰でもいい、誰か彼を幸福にしてあげて……と。
髪を撫でながら、憔悴したその寝顔。
ああ、そうね。そう、なんだよね。
壊れている狂っている裏切っている。世界中の人が私を批判するだろう。
間違っている、これは一蹴への裏切りで、リナちゃんを傷つける気持ち。
それでも、わかっていても溢れ出てしまうこの想い。
世界で一番の優しい嘘つきなこの人の傍にずっといたい。この人を私が幸せにしてあげたい。何よりも、誰よりも私は三上智也さんを愛してしまっている。
愛しているからこそ、私は……
「嘘、つかないとですよね?」
三上さんの傍に居続ける為に彼の愛おしい寝顔を眺めながら、この溢れ出てしまう想いを殺す覚悟を決める。
だって、三上さんなんだもん。自分を大事にするなんて出来ない、馬鹿な人なんだもん。きっと三上さん、私の気持ちを聞いたら困るから。絶対、私の告白を断るもの。
簡単に想像出来てしまう未来に、少しだけ笑ってしまう。
なんて矛盾なんだろう。この人を愛したければ、愛する気持ちを殺さなければいけないだなんて……残酷にもほどがある。
「ほんの少しでいいのに。ほんの少し、自分に優しくなってくれたらそれだけで」
本当に酷い人ですね、と呟きながら手を止める事はしない。あと少し、もう少しと、この愛しい時間を引き延ばしていた。
「ほんと、しょうがない人ですね。仕方ないから、ずっと私がいてあげます」
それは雪が道路をうっすらと白く染める、そんななんでもない一日の終わりの事だった。私が誰かを愛する事を知った、なんでもない一日の事。
恋をするなんて簡単な話。恋なんて、街の中のどこにでも溢れている。どこかのファミレスや、カラオケに駅前。探そうとしていなくても勝手に飛び込んでくるような、特別な何かなんかじゃ決してない。
高校生にもなれば、この間見つけたパンツがマジ良くて買っちゃった~。みたいなノリで恋を買っては、飽きて売るを繰り返すことも良くある。ようは恋なんてファッションと変わりない。
明日はこの服を着よう、ちょっとトレンドからはずれてるよねぇコレ。そういう重みなんて何もない、日常の一コマなんだ。
純愛や本物の愛なんてワードが出ると、乙女かよと笑ってしまうし、そんなものは幼い幼女が見る夢物語とみんなが知っている。
綺麗なラブストーリーを映画やドラマで観ては感動し、現実ではそれをあり得ないと笑う。綺麗な物に憧れはするけれど、この世界にソレはないのだと諦める。女子とはそういった、砂糖とスパイスと素敵な何か……そんなものなんかで出来てなんていない。女子を知らない男子だけの下らない妄想の産物でしかない。二次元でだけ夢見てろよと唾を吐きかける。
つまり、あたしはそういうありふれた女子の一人に過ぎなくて……だから知らなかったの。知る機会なんていくらでもあったはずなのに。
初めて男子と付き合ったのは中学の頃。よく知りもしない見てくれの良い男子から告られて、なんとなく付き合い始めた。
彼と付き合ってすぐに友達から羨ましがられ、どこまでいったの?なんて定型句を何度も聞かれた。正直、気分が良かったのは否定しない。皆からの羨望が気持ち良かったのだ。
休日に初めてデートをした。中学生という事もあり、あまり金銭的余裕なんてなかったから、その頃世間を騒がせていた映画を二人で観に行った……それだけ。映画は面白かったし、彼と手を繋いで歩くと少しだけ大人になった気がした。街中を歩くカップルと一緒なんだと安心出来た。
ファーストキスは三回目のデートだったっけ?確か、カラオケに二人で行って、室内でしたんだったかな?よく覚えていないけど、そうだった気がする。だってどうでも良かったし。今時、キスぐらいで騒ぐほどでもない。
交際は順調だった。だけど、半年後には彼と別れていた。浮気とか喧嘩が原因じゃない。お互いがお互いに飽きただけの、面白くもなんともない理由。恋とはそういう物。涙なんてなくて、泣いたとしてもそれは自分に浸っているだけ。相手を想っての綺麗な物じゃない。
彼と別れて一月と経たず、あたしは今度は少し年上の人と付き合った。前の彼の事なんて思い出すこともなく、未練が入ることもなく。
こうしてあたしは高校三年の今まで生きてきた。普通の女子として道を踏み外すこともなく。それがこれまでのあたし、香川美代(かがわみよ)の人生だった。
だからだろうか?こんなにも今の状況に戸惑っているのは……
「これで少しは汚れが取れたんじゃねぇか?アルコール消毒も出来ただろ。感謝しろよ」
呆然とするあたしの髪や頬を伝ってポタポタと床に染みが出来ていく。
一瞬何が起きたのかわからず、自分の濡れた服を見てようやく状況を理解する。
目の前の男、三上智也に彼が飲んでいた焼酎の水割りを突然頭から掛けられたのだ。
頭に血が上り、カッとなって口を開こうとしたけれど、あたしの喉から言葉が出て来ることはなかった。
なぜなら、彼の顔は怒っているのでも呆れているのでもなく、何かに怯えるように、耐えるように下唇を噛んで……それでも気丈に振る舞っているかのようで、わけがわからなかったから。
彼はあたしに怒っているんじゃないの?なのに、どうして……
全てがあたしの知っている男とは違う、全く知らない感情と行動ばかりであたしは戸惑う。
これがあたし、香川美代と三上智也の最悪にして最低で……そして、自分の異性への価値観を粉々にされた……そんな出会いだった。
最近、一年の時からそこそこに仲の良い友達の陵いのり、通称いのりんの様子がおかしい。
いのりんは入学当初から異質で、ちょっとあたしの周りにはいないタイプの女の子だった。
良く言えば純粋、悪く言えば世間知らず。男子とはあまり話をしようとしないけれど、物腰は柔らかで分け隔てなく皆に優しい。勉強も出来る優等生の見本のような女の子。
クラスは一緒でもあたしと彼女の接点はなく、近づこうだなんて思ったこともない。正直に言えば気に食わない気がした。ぶっているように見えてしまい、一部の女子から嫌われてもいたしね。
そんないのりんに興味が出てきたのは、鷺沢と付き合っていると耳にしたからだ。
男子と付き合ったり出来るんだなって感心したのと、彼女はどんな恋愛観を持っているのか……あたし等と一線画していたように思えたのは幻想だったのか。いろんなことに興味が出て、何気なく話し掛けたのが切っ掛けだった。
話してみると、いのりんはぶっているのではなく、これが天然らしい。つまり自然体で美少女だった。鷺沢と付き合った理由については、少し誤魔化されてはいたけれど、鷺沢の事が本当に好きで、ずっと一緒にいたいという強い想いが伝わってきた。
衝撃というにはあまりにも自分が廃れているようでアレだけど、こんな純粋な女の子が生息していたのかと驚いたのと同時に、彼女を嫌いになれない自分にも驚いてもいた。
いのりんと話していると、自分が汚れているかのような気持ちになる気がしていたのだけれど、彼女の性格が卑屈になるのも馬鹿らしくなるくらい良い所為かな?なんだか微笑ましく思えてしまうのだから不思議だ。
お昼をいのりんと一緒にするのが日課になると、彼女の口から出てくるのは鷺沢の事ばかりで笑ってしまった。一蹴が昨日、一蹴が明日、一蹴が可愛い、一蹴が一蹴が……きっとこの子は鷺沢で半分以上が構成されていると確信するのはとても早かった。
だから、かな。いのりんが鷺沢と死ぬまで一緒にいる。私達女子が昔夢見た純愛を貫いてくれるって期待してしまったのは。
自分にない綺麗な感情を持つ彼女が羨ましくて、でも憎めない。どうかこのまま彼女の人生を傍観させて欲しいなって思っていた。思っていたんだけれど、どうにも最近は様子がおかしかった。
いつものようにお昼を一緒していると、思わず箸を落としてしまいそうな言葉がいのりんから零れだしたのだ。
「それでね美代ちゃん!三上さんってほんっとうに最低なんだよ!」
まさか、いのりんの口から鷺沢以外の男性の名前が出てくるとは思わなかった。出てきたとしてもお父さんの事だったのに。
どうやら偶然公園でピンチを助けてくれた男性が三上という人で、それがご両親と旧知の仲の人達の息子で、これまた偶然家庭教師となったのだと。どんなご都合主義の二次元だよと突っ込みたかったけれど、いのりんの口から三上への文句が止まることはなかった。
そもそも誰かの悪口を言うなんて一切なかったいのりんが、苛烈な言葉を羅列することが異常事態だし。
それからというもの、彼女の口から三上の名前が出ない日が一日もなかった。彼への文句が留まることも。
毎日毎日文句ばかり……でも、どうしてだろうか?その顔が全然文句を言っているようには見えなくて、それどころか鷺沢との事よりも活き活きとして映ってしまう。ただ、逆に鷺沢の名前が出てくる頻度が減ったのが不思議で、もしかして別れたのだろうか?とも考えたのだけれど、別れてはいないらしい。
ある日、三上と稲穂さん?なる人とゲーセンに言ったことを、わざと不満そうに言いながらもニヤついているいのりんについ……
「あんさぁ、もしかいのりんって三上んこと好きったりすんの?」
と尋ねると、いのりんは強く否定するわけでもなく、かといって肯定するわけでもなくて、ただ静かに「違うよ」と寂しそうに呟いた。まるで自分に無理に言い聞かせているかのように。
そんないのりんだったのだけれど、最近いのりんの口からは三上の名前が出なくなった。そして以前にも増して鷺沢の事ばかりが話題に上がり始めた。それがあまりに不自然で、これは何かあったんじゃないかな?と思い、いのりんに三上の話を振ったのだけれど、その時一瞬だけ口元を歪めただけで、すぐに普段通りの顔となった。
もう、絶対に何かをひた隠しにしているのがまる分かりなのに、必死に隠そうとするいのりんに突っ込んだことを聞くのは気が引けた。
そうして何日か普段通りなのにどこかおかしいいのりんと過ごしていると、ひょんなことから面白い話が出てきたのだった。面白いというか、美味しい話だけどね。
「あ、あのね美代ちゃん、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」
こうして改まってお願いされるのは珍しい。あまり頼み事をするような子じゃないし、そこら辺はどこか一線を引いているはずなのに。
「ん~、なになに?面白い話なん?」
「ううん、面白くはないんだけどね。あのね、稲穂さんの友達の西野さん?って人からお願いがあってね」
稲穂さんは日頃お世話になっている人で、西野さんってのは……なんだっけ?千羽祭どうたらこうたらの人だっけ?
「えっとね、もし良かったらなんだけど、西野さん達がね?合コンをしたいって、その……」
「あ~、な~る。ウチ等と合コンセッティングしてとかもしかして頼まれたん?」
「察しが良くて助かるよぉ」
どうにも、いのりんはその人達に借りを作ってしまったらしく、浜咲の子と合コンをと頼まれたらしい。
なるほどねぇ~と、箸を咥えながらふむふむと考える。
「あ、無理なら良いんだよ!ちゃんと稲穂さんに断ってもらえるようにお願いするから」
「おっけ~」
「うんうん、やっぱり駄目だよね。じゃあ稲穂さんにオッケーって……へ?」
あたしの返事に目を点にするいのりん。愛い奴じゃのぉ~。
「よっちんとか集めるし、あの子ら今フリーつってたし、年上のオトコ欲しいとか言ってたしタイミングバッチじゃん」
「い、いやいやいやいや!でもだよ美代ちゃん!西野さんも稲穂さんもアレなんだよ!」
アレってどれよ?
「んじゃ、とりあえず西野って人のラインおせ~て」
乗り気なあたしにどうにも混乱している視線を向けられる。ぶっちゃけ合コンとかあたしにはどうでも良い。それよりも確かめたい事があるだけ。つまり、好奇心を満たしたいだけだ。
迷いながらも連絡先を教えてもらって、あたしはいのりんの前でニヤつきながらフリックしていく。そしてそれをわざといのりんの前にかざす。
「こんなんで良い?」
「良いも何も……ッ!!??」
ディスプレイの文章を読んで、おもむろに咳をするいのりん。あ~、良い反応するなぁ。飼いたい。
「な、みみみみ、美代ちゃん何を!?」
ディスプレイの文字。そこには『初めましてぇ、いのりんの友達の美代でぇ~す。いのりんから合コンの話されたんだけどぉ、オッケーしましたぁ。四人ぐらい集めるんでぇ、場所決まったらラインして下さ~い。ただぁ、条件として~三上智也さんだっけ?を絶対に参加させてくれる事ぉ~。じゃなきゃ無しなんでよっしくでぇ~す』と。
「待って美代ちゃんそれは!」
慌てて止めようとしてくるけど遅いんだなぁ~。はい、送信。ぽちっとな♪
「あっはっは~。いやぁ~、楽しみだわぁ~。噂の三上さんに会えんのぉ」
ちょっとした悪戯と好奇心からの行動。
だって、あんなにもいのりんにいろんな表情をさせる三上って人がどんな人なのか気になってたし、会ってみたいと思うのは普通の事じゃん?だからあたしは何も悪い事はしていないはずなのに……
「美代ちゃんッ!」
それなのに初めていのりんがあたしに感情を隠そうともしていない怒りの表情を見せた。まるで、誰にも見せるわけにはいかない、携帯の中身を見られたかのように。
つまりいのりんにとって三上という人は誰にも見られたくない人物。いのりんの中でそれほどの比重を持つ人物なんだ。
自分の怒りがそれを肯定している事にも気付かずいのりんはムスっとして、あたしからあからさまに顔を背けてお弁当を食べる。そんないのりんに形ばかりのごめんってぇ~という謝罪をするも、結局その日は一度も口を利いてくれなかった。その態度が余計にあたしを楽しませると知らずに。
あ~、こんなに楽しみな合コンは初めてだなぁと、私はワクドキしながら西野さんからのラインを待ったのだった。
その日、西野和之(かずゆき)は明らかにモテを意識したファッションで藤川駅へと降り立った。普段は付けない香水は、不快感を与えないハーブ系の爽やな物を選択し、幅広の帽子とカジュアルなジャケットを着用。狙い過ぎて引くレベルではあるが、初対面の女子が相手ならば引く事はまずない。
西野の本気、中学時代サッカー部だった彼が一度も試合で見せた事のない本気の姿。中学時代の同級生が今の彼を見たら、聞こえるか聞こえないかの舌打ちをするであろう。
そんな彼とは対照的に、普通にジーンズとトレーナー、それに野暮ったいアウターを着た地味な男が一人。西野の本日の戦友であり贄となるパートナー、田中ケンシロウだ。
なぜ彼が西野と共にいるのか、それは一重に地味だからである。西野はあえて地味な後輩を選別し、自分の株を上げるという、男を下げる戦略を選択したのである。先輩からの強制を毅然と断る事の出来ない彼は、嫌々ながらも西野に連行されてきた。
駅構内を二人が出ると、西野は残り二人の不安要素を探す。
不安要素とはもちろん稲穂信と三上智也である。
半分冗談で頼んだ浜咲女子との合コン。それがまさか実現するとは思っていなかった西野は、七転八倒して喜んだのだが、合コン開催にあたって一つ条件を付けられた。三上智也を必ず参加させること、と。
その条件に西野はとてつもない苦渋の顔をしたものだ。
第一に、三上智也は絶対に合コンには参加しない。これは過去に誘って、何度も断られているから重々承知していた。一度、しつこく誘ったら彼はこう宣言したものだ。
『今後二度と合コンが出来ないような惨状を繰り広げてもいいなら喜んで行くぞ』と。
暗に、都市伝説のように最悪な噂になるような合コンにしてみせると。三上智也がどういう既知外か、その身をもって知っている西野はそれ以降彼を誘う事はしなかった。
だが、だがしかしだ。今回の合コンにおいては、西野は三上智也の意思を曲げさせてでも参加させる決意をしたのだ。理由は明白で、単純にこれまでの合コンにはないほどの美少女力を備えたメンバーが相手だからだ。
そもそも浜咲の女子のレベルが全国でも群を抜いているというのもある。全国でも浜咲学園は女子のレベルの高さで、ネット界隈では有名校なわけだ。
そういう理由で、三上智也というICBMを参加させる為、三上智也の発射スイッチを握る男、稲穂信を参加させるという最終手段を取らざるを得なかった。稲穂信が誘えば三上智也が参加しないわけがないからだ。
不安要素は三上智也だけではない、稲穂信という澄空の双璧の一人もその要因だ。
基本的には害がなく、三上智也の奇行に上手く付き合える埒外な彼だが、問題は至極単純明快。ぶっちゃけ稲穂信は西野よりも数段上のイケメンなのだ。
三上智也も見てくれだけは稲穂信と同等だが、彼の場合は言動行動が突飛過ぎて特殊な女子以外は近づこうとはしない。特殊な女子が多い気はするが、それはそれ。だが、稲穂信は三智也が絡まなければ、普通に女子が群がるルックスと良く気の付く性格をしている。西野にとっては三上智也よりも稲穂信をどう御するかで頭が一杯だった。
まあ、合コンが始まってしまえば稲穂信は三上智也の面倒を見てばかりになるだろうし、相手の事を気遣う余裕はないだろう。などと希望的観測をしつつ、待ち合わせの場所。時計の下のベンチへと目を向ける。
目を向け……彼はもう一度目を擦ってその場所へと目を向ける。
何度か同じ行為を繰り返し、目の前が自然と暗くなって意識が薄らいでいきそうになるのを、寸でのところで自分の頬を張って堪える。
ああ、もしかしたら自分はこの日の為に徹夜をした疲れが残っているのかもしれないと、横にいる後輩に三上はまだみたいだなと口にする。
西野の縋るような言葉、それを田中ケンシロウは口先一つでダウンさせる。
「先輩、間違いありません。夢でも幻覚でも二次元でもなくて、あれは三上先輩です」
「いつもはどもるくせに、こういう時は流暢なのか君は」
あまりの衝撃的な光景に、西野は回れ右をして今日の合コンを中止にしようと決意したのだが、時既に遅し。西野の背中を不安要素である稲穂信の声が引き留める。
「お~い、西野こっちこっち!」
「ケンシロウ君、彼等の秘孔を突いてくれね?」
「むしろ、僕達の秘孔を突きにきてます。というか、稲穂さんでしたっけ?よく普通にしていられますね」
「感性が異次元なんだろうな」
口の端を引くつかせながら振り返ると、あ~、やっぱり現実だよねアレと頭を抱える。
手を振る稲穂信の横には確かに三上智也がいた。合コン開催の最低条件は仁王立ちをして西野を直視している。
「なんでだよぉ~。なんでこうなっちゃうんだよぉ~」
仁王立ちの馬鹿の戦闘服に目を伏せる。
本日の三上智也のファッション。迷彩服にタモと虫籠、それにやたらとでかいリュックを背負っている。頭を見ると、ヘルメットとライトも装着しているようだ。
何がどうしてそうなった?馬鹿の秘境はここにはねぇよ、赤道でも歩いてろよと心で毒づく。
周りの女子学生等が遠慮なくスマホで三上智也を撮影していたり、クスクス横目で笑って通り過ぎている。そんな人々を、愚民共がと唾を吐きそうな三上智也……というか本当に吐いていた。
朝に時間が戻って欲しいと心から願いながら、西野達は二人へと近づく。
「よお、遅かったじゃねぇか!ていうかなんだその格好!貴様死にたいのか!」
「お前が死にたいのか?つうかどういうことだよ保護者ッ!!」
三上に何を言っても無駄と経験則で知っているため、保護者の胸倉を鬼の形相で掴むが、保護者の稲穂はにへら~とだらしなく笑う。
「いやぁ、悪い悪い。西野がどんな手段を使ってもつれて来いって言うからさ」
「どんな手段を使えばご覧の有り様になるんだよッ!」
「それは話せば長くなるんだけどな」
「手短に話せ」
「了解。じゃあ、智也に電話したとこから話すか」
『おう、どうした信?今日は陵も鷺沢も来ないが……』
『ああ、あの二人は今日は関係なくてだな。それよりも智也、とんでもない事が起きているんだ』
『とんでもない事?唯笑とついに付き合う事になったか?』
『唯笑ちゃんは不沈船だろ。そうじゃない、多分お前にはこう言えば伝わると思うんだが……』
『なんだよ、俺は今ワールドカップ観戦している伊波をどう邪魔してやろうかという計画を』
『狩りの時間だ』
『了解。場所はどこだ?』
『藤川駅前。駅前は今パニックに陥っている』
『となるとB装備か。すぐに行く。お前はそこを動くなよ』
『ふっ、わかってるよ相棒』
「てなやり取りがだな」
「どういうことなの!?」
あまりに脈絡のない会話についに西野のキャパが限界を迎え、横で聞いていたケンシロウに至っては興味がないのか、駅前のアニ〇イトへと目を向けている。
「おい西野、責める相手を間違えるな。責めるのなら軽装で来た愚かな自分だろうが」
「お前の軽装脳みそはどうしたら良いんだろうな!良いから、その何もかも勘違いした服の理由を寄越せ!」
「勘違い?馬鹿を言うなよ西野。狩りと言えばなんだ?」
「芝でも刈ってろ」
「馬鹿野郎ッ!!狩りと言えばツチノコに決まってんだろうがッ!!」
「……は?」
開いた口が塞がらないとはこの事だろう。
稲穂は、俺は嘘は言っていないと飄々とした態度で嘯く。
「俺は嘘は言ってないぜ?今日は(女の子を)狩りにいくし、藤川の駅前は(智也の姿を見て)パニックだろ」
「確信犯じゃねぇかッ!!」
どんな手段でも良いとは言ったのだが、西野はこの結果を想定してはおらず右往左往しそうになる。
「さあ、ハントしに行こうぜ!まずは自販機の下を「ちょっと黙れ」あ、はい」
西野が鬼のオーラを纏う。さすがの三上もすごすごと引き下がる。
さすがにこの状況は合コンどころじゃない。未成年が相手だから酒を避けて、人気の食べ放題の店を予約して、何日も前から計画を進行してきたというのに、これではこの場で全ての努力が泡と消える。
彼女等ともここで合流する手筈となっているのに、これでは――
「あ~!どもども、西野さんですよねぇ~?」
「ジーザスクライスト」
「え?シーザーサラダっすか?」
神も仏も魔王もない。笑いの神だけしか微笑まないタイミングに、西野はすぐさまどうにか状況を好転させようと、わざと大きいモーションで彼女等を出迎えた。
「あ、ああ!どうも西野で~す!今日は来てくれてありがとね、決まってからずっと楽しみにしてて!」
せめて彼女等の視線だけでも遮らなければ!
「そっすか?うちらは別にそうでもなかったけど、てかなんか動き大袈裟じゃねっすか?」
「そうかなぁ?なんか運動不足っぽいから、なんか大きく動かした方がいいのかなぁ~って!おいっちに、さんし!」
「いやいや、いきなり体操とか寒いんすけど」
「そうそう!寒いから少しでも身体を温めようかなぁってね!はは、あはははは!」
こうして時間を稼いでいるうちに稲穂へとアイコンタクト。俺が犠牲になっているうちにどうにかしてくれと。
そんな西野に応えたのは稲穂ではなかった。
「は?お前、こんな公衆の面前で体操って、精神的に大丈夫か?」
いつの間にか気合が入り過ぎてもいなくて、ダサくもない服装の三上が答えたのだった。
「なんでだよッ!!」
あまりのビフォーアフターつい声を荒げてしまう。
よく見ると、三上の背負っていたリュックがなくなっている。なるほど、リュックの中身は服だったらしい。きっとリュックはどこかに預けたのだろうが、この短時間でどこに?
確かに彼は精神をずたずたに壊されているのかもしれなかった。
「アイドルもびっくりな早着替えじゃねぇかよッ!」
「……本当に何言ってんだよ西野。大丈夫か?」
「智也、西野は最近疲れてたんだ。仕方ねぇよ」
「先輩、今日はもう帰って休みませんか?」
今年一番の手のひら返しに、藤川駅全体を揺るがすかのような西野の絶叫が轟き、街に待った合コンが開催されたのだった。
「じゃ、飲み物も揃ったところで軽く自己紹介ね。今日の合コンを仕切らせて頂く西野和之こと、ゆっきーです。よろしく~。じゃ、まず男性陣からテンポ良く紹介しちゃって」
誰だよゆっきー。お前がそんな呼ばれ方してた瞬間知らねぇよ。
一番通路に近いところに座る俺。俺から順に、信、田中、西野と座っている。ちなみに、通路側にいる理由に関しては言わずもがなだろう。ぶっちゃけ帰りたい。
「あ、えっと、た、田中ケンシロウです、今日は、よよ、よろしくお願いしまう」
やると思ったよ。お前なら絶対噛み芸を披露してくれると確信していたさ。
対面の女子三人が噛んだ瞬間に噴き出して、緊張しすぎウケる~とか爆笑している。良かったな、掴みばっちりじゃないか。やるな田中。しかし、ケンシロウって名前に誰も突っ込まないとか温(ぬる)いんだよなぁ。
「俺はこいつらの保護者の稲穂信ね。名前はまあ好きに呼んで構わないから。よろしく」
田中とは女子の反応が違い、ひそひそと何やら話している。陰口だったら最高だが、かっこ良くない?とか言っているあたり、俺にとって美味しい反応じゃなさそうだ。
「じゃあ最後に端にいる「店員さーん!タコ唐お願いしまーす!」ぶっ殺すぞ三上!」
ただ注文しただけなのに激怒するとか、チェック厳しすぎだろ。軟骨でも食べさせよう。
仕方ない、無難に不愛想にやるとするか。
「三上智也だ、呼ぶときは様を付けろ家畜共」
「うん、お前は今後一切口を開くなクソ野郎」
俺の小粋なトークに女子は色めき立ち、西野は殺気立つ。一般的な自己紹介なのに、何が不満だと言うんだ。
俺の自己紹介に軽く愛想笑いする女子二人。だが、一人だけはふ~んと興味深げに俺を観察してくる。目潰しして欲しいのかよ。
「そんじゃあたしから。あたしは香川美代、みよぽんとか、みよちーとか呼ばれてま~す。よっしく~」
ショートの髪の女子が、敬礼をしながらウィンクをする。自衛隊志望か何かですかね?
よっしくってどこの挨拶?年上には敬意を払えって教わらなかったのかよ。
「斎藤良枝(さいとうよしえ)でぇす。年上の方と知り合えたらなって思ってたんで、今日すっごい楽しみにしてましたぁ。今日は楽しみましょうね?」
ぶりっ、とか擬音が聞こえそうな雰囲気だな。臭いんだよなぁ。ところで西野君、君はなにうんうん笑顔で頷いてるのん?ツインテールとか狙い過ぎな子だよ?ちょろいよお前。
「早海鈴(はやみすず)です。あんまりこういう場は苦手ですけど、よろしくお願いします」
おいおいマジかよ。苦手なわりにメイク決まってるじゃん。眼鏡掛けて上品なパーマなんだけどさ、狙ってるだろそれ。男のツボ掴んでる感じが出まくりじゃねぇか。
「そっかぁ、じゃあ今日は楽しめるように俺頑張っちゃおうかなぁ」
西野のツボ突いちゃったか。田中、ソイツをひでぶさせちゃってくれ。
「あれ、そういえばそっちも四人じゃなかったっけ?」
「あ~、そうなんだけどちょっとあの子遅れるみたいなんで、あたしらだけでとりあえずスタートってことで」
それはそれは朗報だな。会社だったなら説教もんだが、今日は許してやろう。
そうして恙なく合コンは進行していくと、いつの間にかいくつかの組み合わせが出来ていた。
田中×斎藤。信×早海。そんでもって憤慨な事に、俺×香川。
「なんでだよッ!!」
一人あぶれた西野の抗議の声。
「いやいやいやいや、三上と稲穂は納得出来るさ!ルックスだけなら特上だからな!」
「軽く性格をディスるなよ」
「智也はともかく俺は性格に問題はないだろ」
「炙るぞ行き倒れ」
「だけど、なんでだ後輩!なんでお前がいい感じになっちゃってんの!?」
「そ、そういうわけでは……」
「え~、良枝は良い感じになりたいけどぉ~、田中先輩は違うんですかぁ~?」
「い、良い感じって……ぼ、僕はその、あのですね……」
「も~、マジ可愛い~。先輩持ち帰りたいですぅ~!」
「ええええええ!!??」
ははは、面白いな田中。動画でも撮ってあの素直じゃない後輩に見せようかなぁ。
「落ち着けよ西野。お前の気持ちは分かったからさ。とりあえずみんなで会話して、お前の良さを分かってもらおうぜ」
「……稲穂、やっぱお前と友達で良かったよ」
「やっぱってのが気になるが、まあいいか」
信が上手く西野を宥め、それを俺が更にフォローしてやる。
「てなわけでだ、ぶっちゃけ西野の何が駄目なのか教えてくれ」
「必死過ぎなとこ」
「がっつき過ぎて引く」
「狙い過ぎててちょっとないですねぇ~」
「もうちょっと謙虚な意見にしてくれないかなぁ!?てか、このタイミングでなに聞いちゃってくれてんの!?」
ハートブレイク寸前の西野を横目に、俺と信はハイタッチ。これぞ黄金コンビの為せる技。
「いいさ別に。遅れてくる子を狙い撃ちしてやるからさ」
この面子では諦めたらしいが、遅れてくる子の話が出た時の女子の反応が少し気になった。あ~、あはは~。という苦笑いが。
どうやら西野、今回は望み薄らしいな。
西野がいじけ、田中と信は接客モードで会話を進行。そんで俺はと言えば……
「それでですね、最近あたしの友達がずっと三上さんの話ばっかするんですよぉ」
なぜか陵の友達らしい香川から、最近の小娘の日常を聞かされている。あの馬鹿は何を話してくれちゃってるのやら。
ラジオを聴くように、ビールを呑みながら枝豆を摘まむ。この香川ってのは何がしたいんだかな。
「で、あたし聞いたんですよ。三上って人の事好きなのかって」
……あ、枝豆を落としてしまった。いかんいかん。手元が狂うほど呑んでいないはずなんだがな。
「そしたらなんて答えたと思います?」
「違うって答えたんだろ、どうせ」
捻った答えを出せないつまらん小娘だからな。
俺の答えに香川がにんまりと頬を緩める。
「へぇ~、良くわかってるじゃないですか。正解です」
「正解したんだ、何か賞品はないのか?」
「そうですねぇ、あたしとのデート券とか?」
「それは西野にやってくれ。三万までなら出すはずだ」
「マジですか!?」
「マジなんだよあいつは」
さすがに三万という金額に心が動いたのか、多少本気で迷っている。一日付き合って三万なら悩む必要が……相手は西野かぁ~……うむ、悩むのが正解だ。俺が同じ立場ならもう一声欲しいところだ。
「じゃなくて!その時のいのりんはいつもと」「やっほぉ~、お待たせでっす」
香川が俺へと何かを告げようとすると、同じタイミングで遅れてきた最後の一人がやってきた。
あまりのタイミングに香川は小さく最悪と呟く。
俺は興味もなくそっぽを向いたためどんな小娘が現れたのかはわからなかった。だが、西野はその娘を目に入れるなり狂喜乱舞し、田中がぽろっと可愛いと零し、美少女を見慣れている信でさえも驚きを隠せていない。
そんな周りの反応に俺も興味が沸いて振り返ると――
「いやぁ、すんません補習で遅れちゃって――え?」
そいつは俺の姿を目にすると言葉を失い、俺はそいつの成長した姿に一瞬思考が追い付かなかった。
すらりとした長身、花祭のような華やかさ、黒須のように異性を惹き付ける雰囲気、長い髪は綺麗に編み込まれていて、そいつの華やかさを更に引き立てる。
だが、俺はそんな事に驚いたんじゃない。それは相手も同じ事だろう。
「智、先輩?」
「くるみ?」
お互いに視線がぶつかり合い、二人の時間が止まる。
止まる思考を力づくで回転させ、なんとか俺は口を無理矢理動かす。
「お前、なにや――」
無理矢理紡ぐ言葉はしかし、くるみの零した涙に奪われてしまう。
「智先輩……なんで、ですか?」
「くるみ」
「なんで私を一人にしたんですかッ!先輩がいなくなって、どれだけ私が辛かったと思っているんですか!」
隠すこともない悔しさと憤りと悲しみが込められた声。その声が俺を弾劾する。これ以上ない程徹底的に。
「ひ、酷いですよッ!どれだけ私が辛かったと思ってるんですか!今先輩がいてくれたならって、何度……な、んども……」
「そ、そんなの俺だってそうだ!あの時お前がいてくれたならって、今いてくれたならって……それに、俺から離れたのはお前じゃないか!」
「私は、離れて……なんか……」
突然の再会に驚いているのは俺よりも周囲の人間だった。
西野達だけじゃない、信までもが俺を信じられないような目で見てくる。
そんな中、おかしいと思ったんだよねぇと声がした。
「特に仲良くもないし、あたしらのグループを馬鹿にしているような長谷川(はせがわ)が、三上さんの名前を耳にしたらすぐに喰い付いてくるんだもんねぇ。なるほど、そういう関係だったわけですかぁ~」
香川の険のある言葉に、くるみが目を伏せて顔を背ける。香川の言葉を否定するどころか、肯定するような態度に信も恐る恐る口を開く。
「智也、お前その子と……え、いやでも、後輩って中学のだよな?それってどういう?」
彩花と恋人だったんじゃないのかと暗に言っているのだろう。動揺する信の後ろには、リア充消滅すればいいのにと囁く田中と、血涙しそうな西野が歯噛みしている。何度目かわからないが言っておく。西野自重しろ。
そんな信達を無視して俺は立ち上がり、涙を拭うくるみの頭へと手を伸ばす。両拳をなッ!!
「めちゃくちゃ誤解されるネタ振ってんじゃねぇぞゴラァッ!!」
こめかみを拳で挟み込んで思いきりねじ込んでやる。手加減など無用!
「イダダダダダダダッ!!イテェっすよ智先輩ッ!」
「うるせぇッ!!乗ってやっただけでも感謝しろ!マジな泣きの演技しやがって!」
「智先輩なら合わせられるじゃないっすかぁ!」
「そういう問題じゃねぇだろ!」
突然のシリアスをいい加減ぶち壊すと、どういう事だといくつもの視線が問い掛けてくる。
「えっと、智也?その子とお前って……」
「あん?俺とこいつ?こいつは俺の「初めての人っす」ある意味間違いじゃないが……まあ、なんだ。弟子みたいなもんだ。わかるだろ?」
「わかってたまるか」
ふむ、信にしては察しが悪いな。さっきの動揺の影響がまだ残っているらしい。
「つまりな、くるみは俺の中学の後輩で「初めての人っす」お前の中でそれ流行ってんのかよ!?」
未だに俺とくるみの関係を理解出来ない様子の面々に、なんと説明したらいいかと頭を悩ませる。
「ちょ、ちょっと待って。一旦整理していい?」
敬語を止めた香川が率先して周囲を落ち着かせ、えっとと何を聞くかを考えながら言葉にする。
「まずさ、一人にしたってのはなんなわけ?」
「……?高校が離れただけっすけど」
嘘じゃない。だから俺は俺から離れたのはお前だって言ったんだ。澄空に入っていればそんな事は言わない。
「いやいやいやいや、じゃあ今いてくれたらとか言ってたのは?」
「あ~、それはアレっすよ。クラスでの自己紹介の時、私がちょっとやらかしちゃったみたいな自己紹介になったじゃないっすか?あの時、智先輩がいてくれたら的確に突っ込んできて笑いに変えられたのにって意味っすよ」
早海と斎藤は、あ~、あの伝説の自己紹介ねぇ~と納得している。何をやらかしたんだこいつは。ああ、ちなみに俺も似たような意味で応えたわけだ。俺のネタにこいつはついてくるからなぁ。
そこまで質問に答えると、今度は信がなるほどと腕組をしながら頷く。
「つまり君は智也の系譜って認識でいいのかな?」
「おい待て、俺はこいつほど狂ってない!」
「まあ、間違いじゃないっす。私にネタを仕込んだのは智先輩と彩先輩っすから」
「つまり二人の子供ってわけだね」
こんなイカれた奴を俺達の子供になんかしたら彩花が泣くぞ。確かにこいつに笑いを仕込んだのはあいつだけど。
「あっれ、智先輩?」
俺と彩花の子供認定されてしまった馬鹿が、首を捻りながら信を指差す。
「その人、彩先輩の事知ってるんすか?てか、二中の先輩にいましたっけ?」
なるほど。彩花の事を知ってるのは二中のやつだけだと思ってたのに、他に知っている人間がいる事が不思議なわけだ。
「ああ、こいつはちょっと事情があってな」
「へぇ、そうなんすか。ま、どうでもいいっすけど」
トレンチコートの刑事のように、ちょいとごめんよと片手で謝罪しながら席に着く。何歳だよこいつ。
遅れてきたことも何のその、罪悪感はトイレに流してでもきたのだろう。さすが俺達の弟子。
そんなくるみをため息混じりに見やり、よっこらせっと俺と同時にくるみも座って滞っていた会議をリスタート。
「で、何話してたんだっけか?」
「あれじゃないっすか?智先輩のボクサーパンツデビュー記念日」
「お前のブラ記念日を答えたら教えて「あ、自分は小五っす」誰だよこいつの教育係。恥じらいどこに売ってきちゃってんだよ」
「強いて言うなら智先輩の背中が語って育ててくれたんじゃないっすかね」
「お前が俺の真似する度に彩花と唯笑に説教喰らってたの思い出したわ」
あの二人はくるみを異常に可愛がってたからなぁ。アイドルにしようと目論む二人の思惑とは裏腹に、どんどん立派な奇行種に成長しちまって。初めて会った頃はあんなに……
懐かしい光景が脳裏に過ろうとした時、なぜか白けた視線に俺達二人は晒されていた。隣にいる信までもが俺を奇妙な生物を発見したかのように見てくる。西野は西野で目から紫の何かを垂れ流している。西野を人体解剖でナサ的な何かに売り渡したら巨万の富を得ることが出来るだろう。俺等の中で比較的まともなケンシロウまでもがブツブツと、死、死、死、デスと胡乱な瞳で呟いていた。
何かおかしなことがあるだろうか?ほんの少し昔馴染みと仲睦まじくしているだけだというのに。首を捻る俺とくるみに香川が苛立ちを押し殺した声で……
「あんさ、なんで長谷川普通に三上さんの膝の上に乗ってんの?」
その指摘に俺とくるみは目をぱちくりとさせ……
「あ~、つい昔の癖で流してたな」
「そういやそうっすね。でもまあ、このままでも良いんじゃないっすかね?」
「良いわけないじゃん!どんな合コンよ!」
香川の怒号に軽い舌打ちをしてくるみは俺の膝の上から降りて、信と俺の間へと無理矢理座った。
「どっすか?これで満足っすか?」
「満足なわけないでしょ!こっち来なさいよ!」
「良いじゃないっすか別にぃ。自分恋愛とか興味ないし、気に入ったら好きに持ち帰って良いっすから……まあ、無謀っすけどね」
「なんか言った?」
「かがわん達レベルじゃ正直プログラム書き換えないと攻略出来ねぇって話。そっちの二人はわっかんないけど、多分智先輩とこっちの……」
「あ、俺は稲穂信ね。こいつの親友やってます」
「この人は攻略無理ゲー」
「は?あんたに関係なくない?」
「これがあるんすよねぇ。特に智先輩のパートナーは自分が一次審査するんで。すよね、先輩?」
「え、何その制度。うちの人事部にこんな性格破綻者雇った覚えねぇけど」
「ほら、先輩もこう言ってるわけ」
「めっちゃ解雇宣言されてんじゃないのよ!」
ぎゃーすかうるさい二人をよそに、信がくるみの背中越しに……
「後で説明しろよ」
「……唯笑にでも聞いてくれ」
くるみと俺達の関係は一言で言えばこいつにとって俺達は保護者だったのだ。嘘偽りもなく、あの頃の俺達はこいつにとって姉と兄であり、父であり母だった。
それに中学の後輩というのも正確ではない。正確には小六の時にこいつと出逢ったのだから。
あの頃のくるみとの事を信に話すのは吝かではないが、決して楽しい話ではないのが心苦しい。今のくるみからは想像も出来ないこってりと、食後には胃にずしりと重いどろどろの濃厚な……そんな吐き気のする過去がある。
くるみを泥濘から掬い上げたのは紛れもなく彩花と唯笑だ。俺に出来たことはごくわずかで、だからこそくるみが初めて泣いた時……そして、ぐしゃぐしゃの顔をして笑った時俺達もまた同じ顔でくるみを三人で抱き締めた。
目の前で同級生と嬉々として口論しているくるみの姿に、当時の姿を重ねて笑う。こいつが立派になって本当に良かったなと。
「智先輩、かがわんが智先輩の質素なジュニアを捕食しようとしてるっす!」
「してないわよ!……え、質素なんですか?」
「巻き込み事故起こしてんじゃねぇ!」
天国の母さんや。娘はこんな外道に育ったぞ……
ヒールレスラーよりも突然で突拍子もないくるみとビッチ代表の香川の口論をなんとか西野と信が宥め、俺にとっての苦痛な夜がさらに更けていくのであった。