「ひどい、ですよ……こんなの、あんまりですッ」
悲痛に響くその声には微かな悔しさが滲んでいる。陵は俯き、肩を震わせて俺を睨み付けてくる。
そんな陵の肩を軽く叩き、一言ごめんなと呟いて俺は正面を見据えた。
「俺だって好きでこんなことしたわけじゃない」
「そんなの、嘘です」
「嘘じゃないさ……だってよ……」
「お~い、智也今どこにいる~?すぐに会いたいんだけどさ」
「赤コーラ持ちながら近づくんじゃねぇーーーーー!!」
正面の画面の中は戦場なんだからな!
キノコと配管工と恐竜とお姫様の熾烈な争いが繰り広げられ、すでに陵は俺の放った雷で海にぼちゃんし、周回遅れとなっている。ちなみに、キノコは俺で配管工が信。恐竜はCPだ。
「私経験少ないのに容赦無さ過ぎじゃないですか!?」
「貴様は戦場でそんな命乞いで助かるとでも思ってんのか!?」
「お前もそんな装備で俺から逃れられると思ってんのか?」
後ろから嫌な音が聞こえ、確認する間もなくコーラが俺を吹き飛ばして海へと落とす。
「だぁ!ざけんな!お前無双じゃねぇかよ!」
このレースで丁度十戦目。だのに一度も俺は信に勝てず、陵はCPにすら勝てていない。
「はっはぁ~!見ろこの華麗なドリフトオオォォッ!?智也!お前なにテレビの線抜いてんだよ!」
「うっさいわ!誰か一人だけが楽しむようなゲームなんてこっちから願い下げじゃ!」
「正論ですけど、三上さんは私にそれを言う資格ないですよね?全力で排除しに掛かってましたよね?」
ジト目で横から見られ、俺は目を逸らして口笛を吹く。雑兵から片付けるのは戦場において基本だろ。
「そうだぞ智也。初心者に大人気ない」
「中級者の俺に容赦ないお前はなんなんだろうな!」
それにだ、なぜか陵はスタートだけは上手くて、良い感じに俺の進路妨害をしやがるもんだから仕方なく排除していただけだ。他意はない。リア充爆発しろなんて器の小さい事は全然思ってなんていなかった。途中ボムの出現するコースを選んだのも、そこを走りなさいと風が囁いたんだよ、うん。
「あ~、クッソ!信、お前なに食べるんだよ!」
もちろん、俺と信がやる事にタダなものはなく、軽い罰ゲームを用意していたりする。今回の罰ゲームは、コンビニで本日の晩飯を奢るというものだ。
「そうだなぁ、俺はサイコロステーキ弁当とだんべぇ特盛りにミルクティーで」
「オーケー。ゼロチキにだんべぇミニに小さい牛乳な」
「露骨にグレードダウンさせてんじゃねぇよ!」
「お前こそこれでもかと俺の財布を殺しにくるんじゃねぇよッ!」
まったく、これだから俺のお財布事情を知っている片割れは困る。知っているなら少量の優しさを与えてくれ。
小さなため息を吐きながら、俺は財布を取り出して……
「じゃ、五分以内に買ってこいや雑魚」
何も言わずに上着を着て準備万端の最下位のパシリに放り投げた。
「俺はドリアンパンとバナ納豆パンなぁ~」
「どこにも売ってない商品は承れません」
いやぁ、小夜美食堂にはあるんじゃねぇかなぁ。俺と信は顔を見合わせて苦笑した。懐かしく苦々しい思い出だ。
そんな俺達を不思議そうに見る陵に、適当で良いと伝える。
「じゃあ行ってきますけど、私のも本当に良いんですね?」
「哀れな子羊に餌ぐらいなら与えてやろう」
「……ええ、それでは遠慮なく」
「おい、常識の範囲内でな?」
その晴れ晴れとした笑みに寒気を覚え、一応忠告しておく。
「常識の範疇にいない人に言われても」
「これだけ良くしてやってるのに仇で返す気か!?」
「もう夜なのに女の子一人で買い物に行かせる人の何が恩ですか!?痴漢が出たらどするんですか!?」
「んなもん、俺への毒舌を披露してやれば撃退出来るだろうが!ぐだぐだ言ってないでとっとと行け」
足を伸ばして陵の尻を押すと、なんともまあ女の子みたいな悲鳴を上げた。
「せせせせ、セクハラですよ!?」
「あ~、はいはい。どうでもいいから早く行けよ。面倒臭い」
「うわぁ~、この人本当にどうでも良さそうに……少しは女の子扱いしてくれても……」
釈然としない様子のまま、ぶつぶつと文句を垂れつつ陵が出て行く。
完全に家を出たのを確認すると、信はそそくさと本棚を漁って一冊のアルバムを取り出してきた。それを別に咎めるでもなく、俺は適当な漫画を手に取りぱらぱらと流し読む。
「はぁ~、やっぱ何度見ても可愛いよなぁ~彩花ちゃん」
「そうか?どこにでもいるだろ」
「そりゃ、お前は彼女を見慣れているからそう思うだけだって。実際、音羽さんとかめちゃくちゃ可愛いのに、最初からお前は普通に接してたもんな」
「そうか?」
「そうだったよ。男子が盛り上がってるのに、一人だけ普通に話してただろ」
あまり覚えていないが、特別可愛いと思わなかったのも確かだ。
「双海さんにしたって、彩花ちゃんに少し似ているってだけで動揺しただけだし。でもまあ、この写真を見ればそれも納得だな」
「お前ね、彩花を美化し過ぎなだけだって」
「美化しない方がおかしい。実際、彩花ちゃんモテただろ?」
「……見る目のない奴は多かったな」
「見る目があるのは自分だけで良いってか?」
「うるさい」
クッションを信の顔に投げつけるが、それでもにへら~っと笑うだけだった。
彩花が告白される度、俺は焦ったりした事はなかったように思う。多分、安心していたのだろう。彩花が俺の隣からいなくなるなんてあり得ないと……そんな、なんの根拠もない愚かな確信を抱いていた。あの頃の自分に戻れるなら、そんな自分を殴りつけるだろうな。
しばらく黙ったまま信はアルバムを感慨深げに眺め続け、最後のページまで目に焼き付けてから……
「そろそろ始めるぞ」
本題を切り出してきた。
彩花を見ていたのは、もしかしたらあいつに謝りたかったかもしれない。馬鹿だよな、謝らなきゃいけないのは俺だってのに。これから俺は彩花を悲しませてしまうのだから。
迷いはある。本当にこれでいいのかと。もっと良い解決方法があるんじゃないか?そう何度も頭を悩ませもした。それでも、俺は自分が甘いだけだと、頑なに否定し続けた。なぜここまで意固地になっているのか、自分でもわからないままに。
「まさかさ、ここまでとは思わなかった。期待以上だ。あんなに自分を曝け出すいのりちゃんを見たのは初めてだからな」
人は経験しなければその痛みを知ることは出来ない。そんなどうしようもない生き物なのだから。
「あれが素だってなら、とんだ小娘だな。毒にしかならん」
「そう言うなよ、可愛いじゃないか。ただ、お前には期待以上に厄介な子かもしれないけどな」
「……どういう意味だよ?」
「さてな、自分で自分に聞いてみろよ」
挑発的な笑みに俺は舌打ちをして漫画を閉じる。
俺にとっては今のお前も、これからの陵もどっちも厄介だってのに。
「ま、それよりも今はお前がどうするか俺は楽しみで仕方ないけどな」
「言ってろ」
俺はただ、取れない責任の取り方を教えるだけだ。他に何をするつもりもない。トビーと鷺沢と陵。三人が後はどうするか決めればいい。
「とりあえずは手はず通りに、な」
「お前は俺の家で隠れて見ているだけだろ。気楽なもんだ」
なんて密談をしていると、陵が帰ってきたらしい。玄関が開き、階段を上る足音が聞こえる。
正直、陵には悪いとは思う。だが、陵がしてしまった取り返しのつかない罪を俺は教えてやらなければいけない。そうじゃないと俺は……
「ただいま帰りました」
「おかえり~。もうお腹空いちゃってさぁ~」
「ふふ、これは稲穂さんのお弁当です」
「おい」
「はい?」
「そ・れ・は・な・ん・だ・?」
俺は見境なくキレ倒しちゃいそうだもんなぁ!
陵の手には三人分の夕飯がある。それは良い。だが、もう一つの大きな袋には卵やらネギやらが詰められている。そんなものを要求した覚えはない。
「あ、これですか?これはですねぇ~」
えへへと頬を人差し指で撫でながら、悪びれもせずに言う。
「明日の一蹴の晩御飯の材料です♪」
「だらっしゃああああッ!!」
あまりにあんまりな仕打ちに、俺の思考回路は完全にショートした。返して!俺の貴重なシリアス成分返してよぉ!
怒りのあまり、俺は買い物袋を奪って二段飛ばしで階段を下りていく。
「あ~~~~!私の食材が~~~~!」
台所に駆け込むと、ゲーム実況中の母親が鬼の形相で振り向いてきた。曰く、静かにしてろやと。リビングで生放送してんじゃねぇよ。
ボウルに卵を両手で高速割り。箸でミキサーよりも速く掻き混ぜる。この間十秒。遅れてやってきた陵の悲鳴が聞こえ、それに即座に母が反応。母さんが陵の口にガムテを貼り、両手両足を縛って隣の部屋へポイ。馬鹿が。母さんの本気を邪魔すると容赦なく監禁されることを知らないとはな。
ドアの外で信がスマホを使って俺に『鬼畜だな、お前等家族』と打って見せてきたが、なんのその。鬼畜なのはあいつだろうと叫びたい気持ちを抑え、俺は延々とスクランブルエッグと、袋の中にあった味噌を使い切るのであった。
「いいのか?」
走り去った陵を見送ると、トビーがどこか気遣わしげに聞いてくる。
信頼させておいて裏切る。いや、裏切ったわけじゃないが、本当にこれで陵を追い詰められるのか疑問ではあった。
俺と接する陵の態度を見て、信が提案したことだが、陵がそこまで俺に気を許しているなんてどうしても思えなかった。
だってさ、俺をそこまで信頼しているなんて己惚れてなんていなかったから。むしろ嫌われているとさえ思っていた。いつもふざけてばかりいて、あいつを労わった事なんてない。それなのに、あいつが果たして傷つくだろうかって。
そう、思っていたんだけどなぁ。
今まで見たどんな悲しげな顔よりもずっと悲痛な表情で走り去るなんて、そんなこと想像出来るわけないだろ?
「え?」
想像なんて、出来ていなかったから……だから、陵よりももしかしたら俺のほうが衝撃を受けていたのかもしれない。
「いや、あいつよりもお前のがショックを受けてそうだったからな」
「そう、か?」
「ああ」
なんて情けない。俺よりもずっと信のほうが陵をわかっていたなんて。いや、そうじゃないな。信の方が陵を見ていたんだ。目を逸らし続ける俺とは違って。
「悪い、ショックとかそんなんじゃない。ただ、ちょっと思った以上の反応に処理が追いついていないだけだ」
「ならいいけどよ」
「で、この後はどうするんだっけ?」
「しばらく放っておいて、俺があいつら二人の目の前で全てをバラすって手筈だったか?」
「ああ、そういやそうだったな」
うん、そうだ。俺はここでお役ごめんで、最後に陵に土下座して謝って、信が上手く取り持ってくれて……それで……
「三上?」
それで、あの小娘は本当に救われる?鷺沢もトビーもリナちゃんも?ああ、そうだ。そうかもしれない。裏切られる痛みを知って、陵は初めてリナちゃんの心の痛みの一端を知ることが出来るだろう。そう、まずはその痛みを知ることから始めないと……ああ、わかってる。わかってんだよ。
「なあ、トビー」
なのに、どうしてだよ。なんで俺……
「やっぱ、俺向いてないわ」
こんなに陵の泣いた顔を見ただけで動揺してんだよ!!
甘い考えを否定し続けてきたのは誰だ!?俺自身だろうがッ!
あいつの素顔なんか垣間見なければ良かった。そうすれば、あいつの未来が少しでも幸いであれば良いなんて、馬鹿なことを考えたりしなかった。
あいつの想いなんて無視していれば良かった。あの小僧を純粋に想う気持ちだけは、嘘なんかじゃないなんて、昔の俺達と同じ瞳をしてれば馬鹿でも気付く。
あいつと関わらなければ良かった。そうすればこんなダサい自分になんてならなくて良かったんだ。
「悪い……なんつうかさ、黒幕になれるほど厳しくなれない甘ちゃんだわ」
「……はっ、んなことは知ってんだよ」
「あ~、やっぱり?俺黒幕とか駄目だわ。むしろ俺って特撮のレッドみたいなポジションだし」
「いや、うっかり○兵衛だろ」
「トビー後でじっくり話し合おうぜ。二時間掛けてこつこつとクリークだこの野郎」
そう、だよな。こんなの俺らしくねぇや。裏でこそこそするなんざ、さ。信だって似合ってねぇよこんなの。こんなことしてる俺と信を唯笑に見られたらと思うとぞっとしない。彩ちゃ~ん、智ちゃんが闇ブローカーになっちゃったぁ~って泣くに決まってる。さすがにそれは御免被りたいわけで……
意を決してスマホを取り出し、黒幕その二に連絡すると、ワンコールで即座に対応。
『はいはい、こちら智也の部屋改造班』
「……おい、何してやがる?」
『いや、ちょっと殺風景な気がして、ここは俺の出番だろうとピンクとブラックに染めてやろうと』
「闇夜の晩に気をつけろ。それ以上やらかすとお前のポニーがあられもない姿にメタモルフォーゼするからな」
『じょ、冗談だって。それでどうした?見てる限りじゃ首尾良く進んでるみたいだが』
ちゃんと見てるじゃねぇか。ベランダから双眼鏡で覗く信の姿が見える。110番してみようかなぁ。
「ああ、まあお前のが当たってたみたいだな。案外俺ってあいつに信頼されていたらしい」
『そりゃそうだろ。俺の親友は女の子一人救えないようなヘタレじゃないしな』
こっ恥ずかしい事をよくもまあ言えるもんだ。これが意中の相手になると全く言えなくなるんだからどうしようもない。
「そんな気はないんだけどな。それよりも、実はお前に謝らないといけないことがある」
せっかく信が綿密に計画してくれた事を俺は台無しにしようとしている。俺の身勝手なこのどうしようもない感情のせいで。その感情が何なのかわかろうともしてないくせに。
「悪いな信。俺、今からお前の計画ぶち壊すぞ」
きっと信は怒るだろう。あれだけバイトのシフトを調整してトビーに協力しているのに……俺はそれを壊そうとしているんだ。なんて言われたって仕方ない。どんな罵詈雑言も甘んじて受け入れる覚悟だ。
「やっぱ俺には向いてないらしいな、こういう役回り。撃っていいのは撃たれる覚悟のある奴だけだなんて言えねぇ。そんなに格好良くなれねぇよ」
どこまでも俺は強がるだけしか出来ない馬鹿だって、自分で良く知っていたくせに……なにやってるんだろうな。たははと、情けない微笑が零れたと同時……
『ん、ああ。だから首尾良く進んでるじゃん』
「……あん?」
そんな悲壮な覚悟をあっけらかんと信は水に流しやがる。これが首尾良くだぁ?
「お、お前まさか……」
『そのまさかだよ双璧。俺がお前の性格を見誤るわけないだろ。ついでに、これからお前がやろうとしてる事も、な?』
何てことだ。俺は信を見縊(みくび)っていた。まさかここまで俺を見透かすなんて、唯笑レベルじゃねぇか……気色悪い。
『てなわけで、俺は別ルートに行けば良いんだよな?』
俺が口にしなくても信は俺がどうして欲しいかわかっている。そうだよな、俺達はそう出来てるんだもんな。
「はは、あははははははは!そうだよ、やっぱ俺達はこうだよな!上等だ、片割れ」
『だろ?それよりもあともう少し近づけ。届かないだろ』
「わかってる。少し待ってろ」
俺達のやり取りをどうにもわかっていないトビーは、どういうことだと詰問してきそうな勢いだ。
ふぅ、トビーもまだまだだなぁ。つまりは……
「トビーこっからだ」
通話を切り、かきコオロギを販売した時のような高揚感に包まれる。これなら何もかも上手くいく……オチは俺等への説教だけどな。
「俺達の計画はこっからが本番なんだよ」
きっと、信も俺と同じように笑っているに違いない。俺達二人がいれば出来ない事なんて何もない。他人のハッピーエンドを彩ってやる事くらい御茶の子さいさいってなもんだ。
じゃあ、やるかと呟き、これからやる事をトビーに伝えて俺は駆け出した。他人の為のハッピーエンドを特等席で観るために。
ならずやのドアを開けると、のんちゃんは既に上がったらしく、一蹴と静流さんが忙しなく労働に勤しんでいた。カウンター席に目をやると、そこには幸運なことに丁度良い生贄が優雅にコーヒーなんぞを飲んでいて、ラッキーと心の中で指を鳴らした。
「いらっしゃいま……なんだ信か」
俺の顔を見るなり、粗雑な挨拶になる一蹴。こいつ……本気で泣かせてやる。だが、それよりも先に筋を通さなければならないため、一蹴への教育を後回しにしてカウンターへと歩み寄る。
「あら、いらっしゃい信君」
「こんばんわ静流さん、今日も変わらず美人ですね」
「ふふ、ありがとう。それで、今日はどうしたのかしら?」
注文を聞くよりもまず、俺の用を確かめてくる。参ったね、どうして客として来たわけじゃないってバレたんだろうな。
「なんでわかったんですか?客として来たわけじゃないって」
「だって、いつもみたいに穏やかな目をしていないもの。私じゃなくてもわかるわ」
さすが僕らの静流お姉さん。年の功とは言わないでおこう。
「そっか。でも、それなら話は早いかな。静流さん、悪いんだけどあなたの可愛い従業員を連行しても良い?代わりにそこで優雅にコーヒーを飲んでいるイナケンをサクリファイスするからさ」
思いもよらない流れ弾にコーヒーを噴出すイケ面イナケン。久しぶりに会ったのになんて仕打ちなの!?なんて講義をしているが、取り合っている暇はない。
後ろでテーブルを拭いている一蹴の手が止まり、不可解だという視線を向けてくる。
「何を企んでるんだよ?絶対行かねぇからな」
不可解どころかファイアウォールを展開していた。ふ、その程度で稲穂ウィルスを駆逐出来ると思うなよ。
「悪い、イナケン。でも俺等を助けると思って、ちょっとだけ手を貸してくれ。代わりに、智也の奢りでネズミーランドの一日フリーパスを二人分やるから」
「絶対履行されないよねそれ!?」
「俺が責任を持って約束する」
智也名義でネットで支払ってイネケンのアパートにチケットを送れば余裕だ。親友間の借金は成り立たないから問題ない。
「俺等……ね。それって、智也君も関係しているのよね?」
「あれ?わかりますか?」
「わかるわよ。信君の俺等に彼が入っていない事なんてないもの」
『俺の(僕の)意見を聞けよ!(聞いてよ!)』
君達の意見を聞くようなアプリはないのです。
「もう、今日だけよ?」
「ありがとう静流さん!」
最高決定権を持つ彼女が許可したのなら、なんの遠慮もいらない。
「静流さん!俺は絶対にいぐえっ」
愚かにもこの店の神に挑もうとする配下の襟を引っ張る。そのまま引っ張って入り口に向かう間、苦しそうにジタバタしていたが、無駄だと悟ったのか大人しくなる。オチたのかもしれないが。
「信君、約束守ってくれるよね?」
「ああ、帰ってきたら結婚しよう」
「僕と死亡フラグを立てないでよ。この国は同性の婚姻は認められてないし」
認められていても御免だけどな。
「さて、一蹴」
「なんだよ」
不貞腐れた応えが返ってきて一安心。良かった、オチてたら洒落にならないからな。
「今からお前をいのりちゃんのところに連れて行く」
「いのりの?ていうか、別に今じゃなくてもいのりとは今夜会うっつうの」
「まあ、いつもなら、な。だがそうは俺が卸さないんだなぁ」
「……どういうことだよ?」
「まあ、どういうことも何もないんだけどさ」
明らかに警戒している一蹴に、俺は自分でも不自然に思えるほどの厳しい声で……
「ちょっと二人に懺悔をしてもらうだけだ」
散り散りに破かれる心、目の前が歪んで見えなくて、ぐちゃぐちゃの心と思考。今自分がどこにいるのかもわからない。
もう、何も聞きたくない、何も見たくない。
あの人の不器用で自然な優しさは全て嘘だった。私への怒りと嫌悪を隠すための隠れ蓑というだけの優しい嘘。そうだと、言外に言っていた。
大してあの人との時間を積み重ねたわけじゃない。あの人の何を知っているわけでもない。それなのに、あの人の嘘の温かさと、時折見せる何気ない寂しそうな瞳に、私は心を許してしまった。……違う、それこそ嘘。しまったじゃない、今でも許してしまいそうなんだ。さっきまでの事が全て嘘で、すぐに冗談だって笑ってくれる。明日にでも、いつものように私を、困らせて……
「馬鹿、みたい。馬鹿だね、私」
こんなになってもまだ信じたいだなんて……乾いた笑いは夕日に溶けて消えていく。
近くの電柱に手を付いて息を整えようとするけれど、流れているものが汗なのか涙なのか、もうわからなくなっていた。
こんなになって気付くなんて、馬鹿だなぁ……私。こんなにあの人に救われていたなんて。
「嘘でも、良いのに」
嘘を吐き続けてくれれば、私は快く騙され続けられたのに。
「お願い、神様」
時間を戻してください。あの人と出会う前に。そうすれば、私は――
「頑張って下さい!区間新まであと少しですよ!はい、お水です!」
「…………」
「どうしました?給水所で立ち止まるなんて余裕ですね、さすが陵選手」
どうして、かなぁ。
コンビニで買ってきたらしい水を片手に、運転席の窓から腕を伸ばし、水を差し出してくる馬鹿な人。
「……い、ですよ」
「は?聞こえねぇよ、なんだって?」
もしかしたらって、期待していなかったわけじゃない。少しだけ待っていたら、この人ならって夢を見ていた。あんなに冷めた眼で蔑視されたのに、それでも私……馬鹿だから。三上さんよりもずっと、ずぅっと馬鹿だから!
「来るのが遅いですよ!」
文句を言う私は、言葉とは正反対の顔をしているだろうな。
三上さんの手から水を受け取りながら、私は安堵する心を隠せない自分を自覚する。
「なに泣きながら笑ってんんだよ。不細工になる……はもともとだったか。格別な変顔だな」
「ふふ、本当に失礼な人ですね」
「……お前、馬鹿だろ。普通は俺の事なんか無視するだろ。俺はお前を傷つけたんだぞ?」
思っていた態度と違うことに、三上さんが首を傾げている。ほんと、人の話を聞かない人だなぁ。
「言ったじゃないですか」
「あん?」
「嘘でも、良いですって。三上さんの嘘なら信じますって」
虚を衝かれ、三上さんがそっぽを向く。回りこんでその顔を見たいけれど、きっと見せてはくれないだろう。
そっぽを向いたまま、三上さんがぶっきら棒に一言。
「まあ、とりあえず乗れ。もう陰湿なことはしないってのは約束する」
「そうですか。陰湿ってわかってやってたんですね」
「うっ、そう、だが。それについては謝るが、今はとにかく乗れ。お前を連れて行くとこがある」
「……どこに、ですか?」
「お前を正面から打ちのめす場所だ」
助手席に乗ったのを確認して車を走らせる。
「あの、いろいろ聞きたいことが……」
「ん、ああ。少し時間もあるからある程度は答えてやる」
追い詰めた罪悪感がないでもないから、しょうがないな。
俺の何がおかしいのか、さっきから陵は穏やかに微笑んでいる。気持ち悪いな。ま、いっか。どうせこの余裕なんてすぐになくなるわけだし。ていうかその笑顔止めて、マジで。毒舌クソ小娘がお前だろうが。ほんと鳥肌立ちそうだからさぁ。気持ち悪い。大事なので二回な!
「じゃあ、ですね……どうしてこんな事を?」
まあ、そりゃあ気になるよな。弁解なんてするつもりもないし、話せる範囲でなら良いか。大分厳選して話をしなければならんが、困ったら信にぶん投げよう。
「ギャグは何回までありだ?」
「私は三上さんが時と場所を選べる人だって信じています」
まったく、とんでもない嘘吐きだな。微塵も思ってねぇくせに。
「思った以上に信頼されていて涙が出そうだ」
「是非お目に掛かりたいものです、三上さんが泣いているところを」
「もう一回泣かすぞ小娘。つっても、俺の正直な気持ちを話すが……お前、受け止められるか?」
先程のように心を引き裂くような真似はしないが、それでも陵にとっては気持ちの良い話ではないだろう。俺がこいつに嫌悪感に近いものを抱いていたのは事実なのだから。
数瞬、目の中に惑いの色が見えたが、それでも俺から逃げるつもりはないらしい。一つ静かに頷いた。
参ったな。退いてくれればこいつに年上らしい、俺らしくない事を言わなくても良かったのに。俺の言葉から逃げることは絶対にないのだろう。
一つ溜め息をつき、小さな子供に語りかけるように穏やかに語りだす。
「最初にお前の昔の事を知った時、正直俺はお前のした事を心底許せなくてな。これが白河や伊波なら親身に話を聞いて一緒に悩んだりもしてくれたはずだ。でもな、俺にはそれが出来なかった。いや、しちゃいけないと言い聞かせていたのかもしれない」
「どうしてか、聞いても良いですか?」
「悪い、それに関してはちょっと俺の口からは話し難いんだ。だから、そうだな。信に聞いてほしい。信には俺から言っておくから、あいつが話してくれるはずだ。でだ、お前の話は俺達にとっては痛い話だったんだ」
「俺達?」
「信と俺だよ。だから、唯笑とみなもちゃん、それと母さんにはとてもじゃないが話せなかった。……聞かせたくなかったんだ。お前の話をしたら、さ、絶対唯笑達はどうにかしようって悩むんだ。心臓を掻き毟りたくなるほどの辛さを抱えながら、泣き出してしまいそうな自分を殺して、そうまでしてお前を助けようとする。そんな優しすぎる馬鹿なピエロにさ、誰がしたいよ?だから、俺がなんとかしようって動いた。優しくない俺が、お前を許さないでやろうって。それで思いついたのがこれだ」
いくら穏やかに話しているとしても、陵にとっては逃げ出したくなるような言葉ばかりだ。その証拠に、俯いて時折肩を震わせていた。だが、それでも陵は逃げない。唇を噛んで、小さな拳をぎゅっと握って耳を塞がないようにして。
そっか、お前は言ったんだもんな。俺の嘘を信じると。嘘さえ信じるのなら、真実を受け止める強さもあるに決まっている。自分の想いを曲げない強さを持っているんだ、お前が強い女の子だって事は知っている。それが例え間違っていたとしても。
「お前が家に来る日は、ほとんどトビーを差し向けた。精神的に追い詰めるためだ。その後俺がお前を適当に馬鹿に付き合わせて気を晴れさせれば、お前は俺を信用するようになる。そういう下衆な計略をあえて立てた。自分でも吐き気がしたが、それでもしょうがないと呑み込んだ。どうしてかわかるか?」
「……私が、最低な嘘を吐き続けて一蹴と付き合っていたから?」
やっぱり、な。こいつは何もわかっちゃいない。信はどちらでも良かったのだろう。正攻法でも邪道でも。要は、こいつが取り返しのつかない事をしたのだと自覚させればいいのだから。
「違う。鷺沢だったか?別にあいつと付き合おうがどうしようがどうでもいいんだ。トビーも、本当はそんな事で怒っちゃいない。根本的なところでお前は考え違いをしている。それがわかっていれば、今頃俺に説教されてなんていない」
ゆっくりと上がる顔は、まだギリギリで正気を保っていた。ひどく危うげに揺れる瞳。その正気を壊さなければいけない。
想像する。俺がそれをこいつに自覚させたとして、こいつは今のままでいられるか?
ハンドルを握る手に知らず知らず力が入る。
『ありがとうございます。大事にしますね』
不細工なぬいぐるみを抱えながら見せた、あの透明な笑顔を失うんじゃないか?失ったとして、俺はその責を負いきれるか?せめて、もう一度だけでもこの眼に焼き付けておけば……
「三上、さん……?」
覚悟出来ていないのは俺のほうだ。一度はこいつをズタズタに引き裂いておいて、それでも最後のラインを超える覚悟が持てないなんて……これじゃあ、三流ドラマにもなれやしない。
悪党なら悪党らしく、正義の味方なら正義の味方らしく、俺は俺らしく。最後まで馬鹿でいてやる。こいつが笑えなくなってしまったなら、俺の馬鹿でもう一度取り戻させてやる。それぐらいなんてことないさ。過ちを犯してしまったガキだった頃の俺じゃないのだから。
「陵……」
車を路肩に止め、陵と正面から真っ直ぐに眼を合わせる。
唇がかさつく、喉が渇いて舌が張り付いているかのようだ。それでも俺は、縋るように見てくる陵に、心を殺しかねない凶器をその胸に突き立てた。
「お前がしたことはな――この世で最も卑劣な殺人だ」
「――ッ!?」
見開かれる眼、何かを言おうとして失敗する言葉、否定したくてもしてはいけない残酷な事実。
心の奥では気付いていたはずだ。ただ自分の心を守る為に眼を逸らし続けてきただけで。人の心にそこまで鈍感な女ではない。認められないよな?認めてしまったら、鷺沢の隣にいることが出来なくなる。いや、まともに生きてさえいられなかったかもしれない。
その嘘は鷺沢と陵を救ったのだろう。だが、お前はそれと引き換えに無垢な少女の記憶(いのち)を殺してしまったんだ。
「人はもう目を覚まさなくても生きていけるんだよ、誰かが忘れない限りそこに確かに生きているんだ。もう、一緒の未来を過ごせなくても、時折過去に生きていられるんだ。だから俺達は死んでしまった愛しい人を忘れてはいけないんだ、例え何があろうと。その人と紡いだ時間を、少しでもこの世から消してしまわないように、痛くても苦しくても、忘れちゃいけない」
時間は残酷だ。彩花の些細な仕草を俺は今は覚えている。だが、いつまで覚えていられるかわからない。ちょっとしたことが徐々に記憶の奥深くに閉じ込められて、もう二度と出てこなくなってしまう。それは仕方のない事だとは理解していても、とても受け入れられない。みっともないかもしれないが、俺にとっての一番の恐怖がソレだ。あまりの怖さに、一人ベッドで震える日も稀にある。
それでも、だ。俺はあいつが見ることが出来なくなってしまった未来を生きる。あいつの目の代わりになれるように。俺が生き抜いた後、あいつに笑顔で話せるように。
だけど、さ。いつかは風化していく記憶を、他人が無理矢理奪ってはいけない。心からその誰かを殺す事だけは許されちゃいけない。戦争で人を殺すこともあるだろう、どうしようもない憎しみを抱いて殺してしまうこともあるだろう。それでも記憶を殺すという事は、その人の全てを殺すと同義だ。
「人が本当に死ぬって言うのはな、誰の心の中からも消えてしまった時なんだ。それをお前はやってしまったんだ。善意からか、羨望からか、恋心からか……どんな理由かはわからないが、お前はやっちまったんだよ。鷺沢の心からリナちゃんを殺したんだ」
「ちがっ、そんなつもりじゃッ」
「どんなつもりでも!お前のしたことはそういう事なんだ!」
事実から自己防衛で眼を背けようとする陵を、無理にでも引き戻す。逃げさせては駄目だ。そうじゃないと、こいつは……
「お前がリナちゃんだったらどうだ!お前なら耐えられるのか?大切な人の心から自分がいなくなって、思い出にさえなれなかったなんて……そんなの、耐えられるのかよ?」
「あ、嗚呼……」
「陵、お前が鷺沢の記憶から自分がいないものとして扱われたらどうなんだ!言ってみろ陵ッ!」
「あ、そんな、わた……ちが、そうじゃ……」
時間が経つにつれて自分をどんどん嫌いになって、世界で一番自分を最低な屑だと思ってしまう。そんな愚かな惨めさを味合わせて堪るか!そんなのは俺一人で満足なんだよッ!
「あ、ああ……――――ッ!!!!」
声にならない痛さに、陵は嗚咽を漏らして頭を抱える。
「それを、俺はお前に教えたかったんだ。リナちゃんの十分の一の痛さでも、その心に教えてやりたかった。痛みを経験しないと、人はどんどん鈍くなるんだ」
耳を塞ぎたくなるような悲痛な悲鳴に近い嗚咽。だが、眼を背けるな、耳を塞ぐな。俺は逃げてはいけない。こいつの心を無遠慮に壊し尽くして、俺が逃げて良いわけがない。それに、俺にはまだまだやるべき事がある。
「今は泣け。泣けるだけ泣いてしまえ。自分がしたことを噛み締めながらな」
慰めるように髪を撫でようとしたが、俺はその手を引っ込めて堪える。
誰がこんな目に合わせたんだという思いが半分。もう半分は、自分の無意識の行動が何をしてしまいそうか、予想が出来て怖くなったから。それは、考えたくもない最低最悪な自分の姿だった。
「少しの間ここにいてやる。でもな、これで終わりじゃない」
そう、今日はまだ終わらない。その為に信が動いてくれて、俺がこいつを壊したのだから。
「今日、これから教えてやる。やり直せない間違いを、どう償えば良いかを」
そうして、陵の眼が何も映していないかのような状態のまま、涙を流さなくなるまで待ち続けたのだった。
住宅街から少し離れたところに建つお寺。門の脇にある駐車場に車を停めると、門の前にはお寺の住職のような人が待っていた。その方がこちらに気付いて頭を下げると、三上さんも頭を下げた。
「事前に連絡してたとはいえ、待ってなくても良かったのに。悪いことしたな」
どうやら三上さんと知らない仲ではないらしい。
「少し挨拶してくるけど、ここで待ってるか?」
なぜここに連れてこられたのかはわからないけれど、それ以上に自分の卑劣な行為を自覚し、私はただ一つのこと以外は考えられなくなっていた。だから、かな。
「お邪魔でなければご一緒しても良いですか?」
一人だと自分が何をするか想像出来ないの。
「邪魔じゃねぇよ。どうせ中に連れて行く予定だったし」
「そう、ですか」
外に出て空を見上げる。もう日は落ちていて、あたりは私達以外の音が何一つしない。星も厚い雲に覆われているのか、一つも出ていなかった。
「どうも、お久しぶりです」
「そうでしたかな?先月も会ったと記憶していますよ」
「一月も開けばお久しぶりじゃないですか。すみません、こんな遅くに」
「いえいえ、良いのですよ。それよりも、今日はどうしたのです?」
「ああ、今日は俺じゃなくて、この子の用事の付き添いでして」
「そうですか。そちらのお嬢さんは?」
「俺の後輩みたいな子です。それで、あいつ等はもう?」
「ええ、先程。案内しますか?」
「そこまでお手を煩わせはしませんよ。広いとはいえ勝手知ったる場所ですので。それじゃあ」
「はい。お参りが終わりましたら声をお掛け下さい」
「わかりました。本当にご迷惑をお掛けします」
二人の会話から、三上さんが何度もこのお寺に来ていることが窺い知れた。
「行くぞ陵」
「……はい」
三上さんの背中を追うように歩く。辺りに明かりがないため、少しでも離れると背中が見えなくなってしまうため、なるべく寄り添うようについて行く。
「にしても、聞いた時は驚いたけどな。なんて偶然だよ」
迷いのない足取りで、すいすいと暗闇を進んでいくから、追うのに苦労するけれど、周りの景色に私はどこに連れてこられたのかようやく察した。
ここ、お墓ばかり。
お寺には墓地を管理している場所も多いらしいけれど、このお寺がそうなんだ。それに、三上さんがここに連れてきたという事は、多分ここには……
「――着いたぞ、そこだ」
立ち止まった三上さんが指で示す墓石と、そして二つの人影。
「そこがリナちゃんのお墓で、お前が償うべき場所だ」
「な、んで――」
一方後ろに下がるけれど、三上さんに無理矢理腕を取られて前に押し出される。何も知らないまま、私が現れたことに驚いている一蹴の前に。
「いのり?どうしてここにいのりが?」
「これで、終わりにしてこい陵。今終わらせなければ、俺はお前を一生軽蔑する」
なんで、いのりがあの男と一緒にいる?信を振り向くが、信は何も答えずにただ黙っているだけ。
なんだよ、何がどうなってんだよ!
信に連れられてこんな辺鄙なところに来た。着いて思ったのは肝試しでもするつもりか?と思いそう言うと、信は首を横に振るだけで答えてはくれず、代わりにもうすぐにわかるとだけ。
そうして待っていたら、三上とかいう男といのりが二人で現れて、俺の頭は混乱してまともに考えがまとまらない。まとまったとしてもわからないままだろうけれど。
「なあ、一体どういうことなんだよ?どうしていのりがここにいてそいつといるんだ?」
そう声をかけると、なぜかいのりが怯えたような表情を見せて俯く。
「一蹴……私、あの……」
何かを伝えようとしてくれているのはわかるが、声が小さくて聞こえないのと、今にも泣き出してしまいそうな声で、さらにどうしたらいいかわからなくなる。
なんだよこれ?何がどうなってんだよ!?
「昔、施設に二人のガキがいた」
どうしたらいいか迷っていると、墓石の後ろから粗野な声が低く、そして不気味に夜の中響く。
「ッ!?誰だよ!」
苛立っていた。何も教えてくれない信に。ずっと何かを隠しているいのりに。そしてそれを俺はわかってやれないのに、いのりの苦しみをわかっているかのようなあの男に。だから、自分でも驚くくらいの怒鳴り声になってしまった。
「黙って聞いていろ一蹴。今から、何もわからないお前に、相応しい奴が教えてくれるんだ。だから、黙って聞いていろ」
俺の苛立ちを、年上の余裕を感じさせる声で信が嗜める。
訳知り顔で言われ反論しようとしたが、今まで見たことのない信の厳しい目に、俺は反論の言葉を呑み込んだ。
「そのガキの内の一人が、近くの病院に入院している少女と遊ぶようになった。話を聞くと重い病気らしいのだが、ガキは自分の境遇を笑顔で語る少女に心惹かれ、ガキはその後事あるごとに少女の下へと足繁く通った」
低く粗野ななのに、優しさで溢れている声。彼にとって、とても大切な思い出なんだろう。
「そうしていると、もう一人のガキが後を付いてきて、いつの間にか二人が三人へと変わっていた。正直、邪魔だと思ったが、ガキは我慢した。なぜなら、そいつは口下手で、少女を上手く笑わせられなかったから。だから、もう一人が馬鹿な話をして少女を笑わせてくれるなら、二人じゃなくても構わないと、自分の心を殺した」
悔しさの滲む声。幼いながらに少女を想う心は真剣だったんだ。だからこそ、彼は自分の無力さと、もう一人の少年の明るさに嫉妬したのかもしれない。
その声に集中していたのだけれど、一つだけ気になることがあった。
男の話が進むたびに、いのりの顔から血の気が失せていっているような……それに、俺に相応しい奴だって?この話を俺は知らないのに、相応しいも何も……
「そうして幾日も過ぎたが、遂にその時がきた。少女が発作を起こして倒れてしまった。少女が倒れたことを知り、ガキ二人は途方に暮れた。そりゃそうだ、しばらくは面会謝絶だったんだからな。だが、面会謝絶が解かれた日、事件が起きた」
病院、少女、二人の少年……な、んだ?知らないはずの話なのに、在りもしない風景が頭に浮かんでくる。
ベッドに座る少女と、少女を囲む少年二人。少年達は何を話している?いや、少年達、か?ぶっきら棒で無口な少年と、大げさな身振り手振りで話をする少年。そう、少年と俺、と?
「当時、調子の良いガキは少女が読んでくれた御伽噺を心から信じていた。都合の良い天使の話を」
そうだ、天使の話を何度も聞かせてくれた。天使の御伽噺が好きで、その話をしている時の少女の顔が好きで……
「その日の夜、調子の良いガキは少女を連れ出した。教会に連れて行けば天使が少女の病を治してくれるはずだと信じて。だが、連れ出す途中で職員に発見されてしまい、ガキは少女の手を引いてその職員達から逃げようと走った。ガキは頑なに信じていたからな、天使の存在を。職員の手から逃れ、病院から抜け出した瞬間だった――」
天使、教会、病気……聞いたこともない話しなのに、なぜこんなにも胸が痛い?どうして俺、は……
「つばさ、ちゃん」
「少女と少年は道路に不用意に飛び出し、車に轢かれた」
苦しみに満ちた声が俺の心の奥底に突き刺さる。
その声に記憶が呼び起こされたかのように、俺は徐々に思い出していた。施設にいた頃、よく遊んだ二人の少年と少女の姿を。
その少年の面影が僅かにある姿が、墓石の後ろから現れる。
「お前、もしかして?」
随分と変わっていて気付き難いが、間違いない。
「飛田扉か?」
「よお、クソ野郎。二度と会いたくなかったぜ」
なんで、俺は忘れていたんだ……あんなにも大好きな少女のことを。そうだ、俺は少女をつばさちゃんって呼んでいたんだ。あの御伽噺を話してくれていたから、俺はそう呼んでいた。
あの日、車に轢かれて……そのあとどうなったのかも、すこしずつ思い出していく。息も絶え絶えだった俺の前に天使が、つばさちゃんがいた。俺と車に轢かれて、彼女も危ない状態だったはずなのに、それでも彼女は俺の手を取って、俺に生きる気力をくれたんだ。自分だって辛いはずなのに。それでも、彼女が無事だとわかって、俺は嬉しくて嬉しくて……
目の前で色を失くした目をしているいのり。そのいのりの顔が、当時の少女の姿と重なる。いや、重なるどころか……間違いない。なんで忘れていたんだ、こんな大事で大切な存在を。俺はとっくに少女と再会していたのに。
「いのり?」
「…………」
「いのり、お前がそうなんだろ?」
「…………」
「お前が、つばさちゃんだったんだな」
俺の問い掛けに何も反応をしてくれないが、間違いない。いのりはつばさちゃんだ。あの時、俺の手を取って俺の名前を呼んでくれた。俺の大切なつばさちゃん。
ゆっくりといのりの傍まで歩み寄り、両肩に手を添えると、いのりの肩が微かに震える。
「ごめん。俺、今まで気付かなくて……でも、今更だけど思い出したよ。つばさちゃん……いや、いのり。あの時はありがとう」
その震える身体を抱きしめようとしたが、低い嘲笑が耳に届く。
まるで俺を見て、滑稽だとでも言うように飛田が笑っている。
「何がおかしい?」
「いや、久しぶりに会ってもお前の御目出度さは変わらねぇなと思うと、笑わずにはいられなくてな。なあ、陵いのり」
飛田の声に怯えたように一歩下がり、俺の手からいのりが離れていく。
なんだよ?何も間違っていないはずだ。いのりがつばさちゃんだって、今度こそ俺は思い出した。俺を救ってくれた彼女の顔を俺が忘れるはずがないだろ。
助けを求めるように三上を振り向くが、三上はいのりを睨み付けるだけ。まるで逃げるなとでも言うように。
「陵いのり。そこのどうしようもねぇ馬鹿に話してやれ。それがテメェの役目だろ?わかってるよなぁ、この場所で嘘をついたら……殺すぞ?」
脅しじゃない、飛田の声には鋭利な刃物にも似た狂気が混じっている。
「お前、何言ってんだよ!いのりが嘘をついてる?つばさちゃんがそんな事してなんになるんだよ!?そうだろいのり?」
頷いて欲しくて応えを期待するが、身動ぎ一つしてくれない。
「嘘なんて何もないよな?俺に自分のことを黙っていたのは、ただ俺が忘れていたからだろ?だったらそれは嘘なんじゃない。いのりが責められる意味がわかんねぇよ!変な言い掛かりをしてんなよ!いのりは病気に苦しんで、俺の所為で事故にまで遭わせてしまって……それでも、それでもなぁ!俺の為にいてくれたんだ!」
そうだ。あれから何年も経って、それでも俺を忘れずにいてくれたんだ。こうして元気にしているってことは病気も完治したんだろう。そんないのりがどうして責められるような言葉を浴びせられているのか。いのりを庇うように立って、正面から飛田を見据える。
「――んね」
背中から、今にも消えそうなか細い声が、俺へと何かを呟いた。
ぽつぽつと、頬に落ちてきた雨と同時だった。
「ごめんね、リナちゃん」
「……リ、ナ?」
そうだ陵。ここに連れてきたのはその為だ。途中で俺の意図には気付いていたはずだ。そして、飛田と鷺沢がいる事によって確信した。だから、全身が震えるほどに怯えて逃げ出したかったんだろ?それでも、ここでは逃げられない。彼女の前ではもう嘘はつけない。俺が陵に枷を付けたのだから。贖罪という名の枷を。
雨が全てを濡らす。そこにいる人間だけじゃない、幼い頃の記憶までもを濡らしていく。
「どうした、早く話せッ!陵いのりッ!」
歯が上手く噛み合っていない。当たり前だ。トビーの剣幕の所為じゃない。これからの鷺沢の自分を見る目を想像しているからだ。だから、真実を明かすことを躊躇してしまう。
それでも、俺が付けた枷が逃げることを許さない。だから、拙い声で陵は語る。自分が犯してしまった罪を。
「ごめんね一蹴。私、もう嘘つけない。自分が何をしてしまったのか、その重さを知っちゃったから、もう嘘をつけないんだ」
「う、そ?嘘ってなんだよ?だっていのりはつばさちゃんで……」
大丈夫だ。どんな結果になろうとも、お前が踏み出すのなら俺が手を引いてやる。俺だけじゃ足りないなら、信も一緒だ。だから――
「ううん。そうじゃ、ないの」
お前を痛めつけるだけの雨はもう止めようじゃないか。
「私は陵いのり。貴方達三人を同じ病室のベッドから羨ましく見ていただけの、物語に登場しないただの脇役」
「は?何言ってんだよ?」
「つばさちゃんは、とても明るくて笑顔の可愛い隣のベッドにいた『リナちゃん』って女の子の事なんだ。一蹴、よく思い出してみて。病室には、もう一人女の子がいなかった?いつも喋らずに、ただ貴方達を見ていた女の子」
思い当たる節があるのだろう。鷺沢が信じられないとでも言うように頭を振る。
「それが私。私はつばさちゃんじゃない……リナちゃんとは、比べようもないほどに最低な女なんだ、私」
「そ、え?ちがッ!そんなはずないだろ!確かに事故に遭った俺を救ってくれたのはいのりだ!今まで忘れていたけど、ちゃんと思い出した!覚えてんだよ!間違えるわけねぇだろ!」
自分の記憶に間違いはないと懸命に食い下がる。そうだ、鷺沢の記憶は間違ってはいない。ただ、塗り替えられてしまっただけで。
「そう、だね。事故に遭った一蹴の手を握ったのも、名前を呼んだのも私だよ」
「そうだろ?なら何も間違ってなんか!」
「そう、私。リナちゃんの振りをした私が、一蹴の傍にいたんだ」
「――え?」
陵が何を言っているのか理解出来ず、全身から力が抜けたように立ち尽くす鷺沢。そんな鷺沢に陵は小さく微笑んだ。
「だって、羨ましかったんだもんリナちゃんが。いつも二人と一緒で楽しそうで……正直妬ましかった。どうして自分じゃないんだろうって。二人と楽しそうに話しているのが自分だったらって」
「いのり、お前何言ってんだよ」
「だから、ね?私最低な嘘をついちゃった」
「止めろ、止めろよいのり……」
「私がつばさちゃんだって」
震えて崩れ落ちそうだろうが、血反吐を吐こうが、逃げるな。ここから始めるんだ陵。
「一蹴の記憶から、ね」
「嘘だろ?そんな嘘言うなよ。じゃないと俺……」
「リナちゃんを殺したの!」「止めろおおおおぉぉぉ――――ッ!!!!」
二つの悲鳴が重なり、雨に溶けていく。
せめて弱さを見せないよう、痛々しい笑顔を張り付ける陵を、鷺沢が得体の知れないものを見るかのような目で見ていた。
「そして、そのお墓がそうなんですよね?飛田さん」
「ああ、リナが眠る墓だ」
「な、んで……そんな、だって、俺……」
これまでだな。
受け止めきれない真実を持て余し、鷺沢が一歩一歩後ずさる。
そんな愛しい恋人を、陵は何もかも諦めたかのような穏やかな瞳で見つめ……
「ごめんなさい」
なんて愚かで悲しい謝罪だ。このごめんなさいは誰に向けられたものか、きっと陵の小さな勇気を慮る余裕は鷺沢にはないだろう。仕方のない事だ、俺だって昔は自分の気持ちだけしか見えていなかった。
「んだよ、それ?わかんねぇ……もう、わかんねぇよいのり」
弱々しい言葉を残し、鷺沢が墓地から離れようと背を向けて歩き出す。この場にいることがもう限界なのかもしれない。
その背中に手を伸ばそうとするが、なんて声を掛ければいいのか、その資格が自分にあるのか……葛藤しながらも、陵は手を宙に投げ出したままでいた。
横にいる信を見やる。とりあえず、これで一つ。
「信、陵の事頼む。あと、陵に俺の話をしてやってくれ」
「わかった。一蹴を任せた。あと、一蹴がもしも突っかかってきたら、智也も話して良いからな、俺のこと」
同時に頷いて信は住職の下へ、俺は鷺沢を追う為に歩き出す。
動く気力すら失くした陵の横をすれ違う寸前で少し立ち止まり、俺は陵の頭に手を置く。すると、堪えきれなくなったのだろう。雨と涙で歪んだ目が上を向いた。
「三上、さん。私、頑張り、ました」
「わかってる。よく、耐えたな」
「はい、頑張っ、たんで、すッ」
こいつの嘘を止めた責任は俺にある。これまでの想いを踏み躙って、そうして無理矢理俺が追い込んだ。そんな俺にこいつをこれ以上慰める権利なんてない。
耳に痛い声が俺を打ちのめすが、この程度いくらだって耐えてやる。
「わかってる。だが、お前にはもう一つやることがあるな。言われなくても、もうわかるだろ?」
わからないはずがない。これだけの痛みを知ってわからないなんてあるはずがないんだ。一つ頷き、目元を拭う。
もう大丈夫だと確認した俺は、キャパシティオーバーしてしまった小僧を追うためお寺を後にした。
住職の下から戻ると、トビーはリナちゃんの墓を見ながら想いを巡らせていた。そして、いのりちゃんは――
「ごめんなさいッ!!リナちゃ、ごめんなさいッ!!」
服が汚れる事など気にも留めず、その綺麗な髪と額を地面に擦り付け、重い……とてつもなく重い謝罪の言葉を何度もリナちゃんへと向けていた。
そうだよな。本来ならもっと早くに君は彼女に謝らなければならなかった。一蹴と付き合うよりも前にするべきだったんだ。そうして、一蹴が全て思い出してから、自分が塗り変えてしまった記憶を正すべきだった。そうしなければいけなかったんだ。
トビーの隣に立ち、住職から借りた傘を挿してやる。
「今、リナちゃんはどんな顔してると思う?」
「……さあな。リナが許したかどうか知らねぇが、今の顔なら多分」
いのりちゃんの姿を目に映し、何を思ったのか苦笑する。
「困り顔で慌ててるかもしれねぇな」
「だな」
これほどの痛みを知ったいのりちゃんなら、もう二度と想いの遂げ方を間違えたりはしない。それだけは断言出来る。なぜなら彼女は一度も言い訳をしなかった。一蹴を救う為になんて、そんな無様を晒さなかったんだ。そんな彼女を俺はもう責められない。自分から罰を受け入れる覚悟を決めた彼女を誰が責められようか?
「ごべ、なざいッ……ごえんなさい……」
リナちゃんの前で謝罪を続ける彼女は、幼き日の陵いのりだ。小さな彼女がようやく病室から抜け出したんだ。
いのりちゃんの気が済むまで俺達は二人を待ち続ける。醜態を晒すことも厭わず謝り続ける少女と、そんな少女をしょうがないなぁと見ているかもしれない、心優しい少女の二人の邂逅を。
「なんか用でもあるのかよ」
生気のない声でそれでも悪態をつく声で応える。
前を行く小僧の横に車を停めながら、本当は乗せたくないが、仕方がない。
「聞きたいことあるだろ?答えてやるから乗れ。ついでに送って行ってやる」
「……別に送って貰いたくねぇ。話ならここでいいだろ」
可愛げのねぇやつだな。俺が高校生の頃はもっとチャーミングだったぞ。信が高校を辞めてからは西野と二人で馬鹿をやったものだ。その所為で西野が彼女と別れた事件もあったが、それはまた別のお話。
近くに住宅もないし、こいつが良いなら良いか。座席を濡らすとやたら怒られるしなぁ。しかもそれが野郎の所為だった日には、ともとも大噴火だよ。
「あっそ、お前が良いなら良いけどな。つうか言葉遣いに気を付けろよ」
「はっ」
なんでこんなに年下に舐められるのだろうか?みなもちゃんがガチ天使に見えるよマジで。ん?マグローは皆の舎弟だから勘定に入ってないよ、うん。
「でだ、聞きたいことがあるだろ?名前の通り彼女に一蹴された一蹴くん」
「……年上だからって調子乗んなよ。気が立ってるから何するかわかんねぇから」
「はん、おしめも取れていないガキが偉そうに」
「あのさ、本気であんた殴るぞ」
「やれるもんならやれよ。精一杯の告白をした彼女を一人にしても平気なテメェの拳なんて痛くもねぇだろうからな」
違う。本当はこんな挑発をしに来たわけじゃない。もっと大人の対応でこいつに優しく教えなければいけないのに。
その言葉が引き金になってしまったのか、鷺沢の瞳の中にありありと怒りの炎が灯ったのが見て取れた。
「……ら……だろ」
「聞こえねぇよ、はっきり喋れガキ」
どっちがガキだか。俺はなんでこんなに苛立っている?
「お前等の所為でこうなったんだろうがッ!」
決壊した感情が真っ直ぐに俺へと注がれる。その怒りを俺は真正面から迎え撃つ。
「お前等が何してたのかなんて知りたくもねぇし、どうでもいい!けどなぁッ!お前等がいなけりゃこんな事にならなかった!いのりが今も昔も嘘をついていたなんて、そんな事知らなくて良かったんだ!そうすりゃあ、俺達は今も二人笑ってられたんだよッ!」
なるほど、確かにそうだ。トビーが陵にちょっかいを掛けなければ何事もなく、二人は幸せな恋人でいられたかもしれない。俺が陵の罪を白日の下に晒さなければ、二人が擦れ違うこともなかった。このガキが、陵を一人にすることもなかった。
「あいつに何をしたんだよ!いのりがこんな……こうなる事をわかっていてこんなことをするわけがねぇッ!俺を傷つける事を言うはずねぇんだよッ!!」
そうだな。俺があいつを追い詰めなければ、お前達は今も笑っていただろう。でも、いつかその笑顔はお前だけになって、陵は笑顔の仮面の下でどこまでも自分を嫌っていく。
目を逸らし続けてなんていられないのだから。こいつと付き合うのなら自分の過去からは逃げられない。いつか過去の重圧であいつは自分を見失うことになる。
「で、お前の不満はそれだけか?」
「それだけ?んだよ、それだけってッ!!」
「そっかそっかぁ~……」
あいつは今頃、リナちゃんのお墓の前でみっともなく泣き喚きながら謝っているに違いない。自分で自分を罰しながら、冷たい雨に打たれ続けている。そんな陵の姿が脳裏に過ぎる。
ただそれっぽっちの事だけで、俺は車を降り――
「そんなんで恋人気取ってんのかクソガキッ――!!!!」
鷺沢の胸倉を力の限り掴み上げ、地面に叩きつける。
「つッ!!何すんだよッ!!」
「何してんだはこっちのセリフなんだよッ!お前、陵を本当に見てたか?それだけ近くにいてなんで気付かねぇッ!もうとっくにあいつの心は限界だったろうがッ!」
なんで気付いてやらない。どうしてその傷に触れようとしない。どうして、なんでこいつは一緒に雨に濡れてやろうとしないッ!
「確かにあいつは最低な事をした!ああ、そうだ。許せねぇよな普通は。どう考えたってあいつが悪い。でも、そんなこと陵だって本当はわかってた。ただ、あまりに重い事実から目を背けていただけでな。過去から逃げ切れていないままお前の傍にいたんだ。そんなの、精神を磨り減らして当然だ。磨耗していく心はいつしか壊れてしまうんだ」
一人でそんなことを隠して、直向にこいつに嫌われないようにして、そんな馬鹿な健気があってたまるかッ!
「あいつはお前の分まで背負ってんだぞ!一人で二人分の罪を背負ってんだ!あいつの中に降る雨はずっと冷たいままだッ!」
忘れさせた罪はあいつが背負うべきものだ。だが、こいつが忘れた罪をあいつはいつまで背負わなければならない?それも、恋人のこいつの荷物をいつまで……俺はそれが我慢ならない。
「なんだよ……んであんたにそんなこと言われなきゃなんねぇんだッ!忘れた俺がわりぃのかよッ!そりゃあ、あの子の事を忘れたのは俺だって悪いさ!けど、忘れさせたのはいのりだろッ!?つばさちゃんのことを俺だって忘れたくなんてなかったんだッ!」
こいつにとってもリナちゃんが大切だったのは本当だろう。そんなことを疑ってはいない。だが、こいつは自分の過ちを全て陵の所為にするつもりか?そんなことで陵を一人にしたと言うのか?
「大体あんたに何がわかんだよ!つばさちゃんに俺は救われていたんだ!施設にはなかった温かさをくれて……それが、なんでこんな……」
もしも今、事故が原因で悪化してしまって亡くなったなんて言ったとしたらどうなるだろうか?今でさえこんなに取り乱しているのに、それを受け入れられる強さを持っているとは思えない。
それだけは決して言えるわけが……
「俺の気持ちなんてわからねぇくせに、信もグルになってんだよな!最低だよテメェ――ッ!?」
その先を口にしそうになった瞬間、勝手に身体が動いていた。鷺沢の頬を強かに張って黙らせていた。
「なにをッ」
再度胸倉を掴み引っ張り上げ、顔を鼻先まで突きつけて喰い千切らんばかりに睨み付ける。
「俺の事はなんて言おうが構わない。けどな、信の事を最低だなんて口にしてみろ。今度は拳で口を利けなくしてやる」
自分の気持ちを何も知らないだと?ふざけるなッ!あいつの気持ちの一端も知らないくせに、あいつがどんな気持ちで生きているかも知らないくせにッ!
あいつは……あいつは陵よりもずっと……
鷺沢を乱暴に放してやる。
「今、お前は自分の気持ちをわからねぇくせにって言ったな?そうだな、俺はお前の気持ちなんて知りたくもねぇ。だが、そんなお前にとある馬鹿な男の話をしてやる」
「はあ?んなもん聞きたくなんて」
「黙って聞け」
低く唸る様な声で黙らせる。聞く気がなくても聞かせてやる。
「お前が最低呼ばわりした男は、お前なんかが足元にも及ばない馬鹿なんだよ」
「もういいか?」
一瞬も目を離さずにいのりちゃんの謝罪を見続けているトビーに問う。
「さすがに限界だろ。あんなに雨に打たれて、身体壊してしまうぞ」
「……俺に聞いても仕方ねぇだろ。お前の目で判断しろ。リナが許したかどうか」
納得はしていないが、いつまでも癇癪を起こすほどトビーは子供じゃない。不貞腐れながら顔を背ける。
「そっか」
そんなトビーに苦笑しつつ、俺はいのりちゃんの頭上に住職から借りた傘を翳(かざ)す。俺の気配に気付いたいのりちゃんが振り返った。その顔はすでに憔悴しきっていて、とてももう責める気にはとてもなれなかった。
「稲穂、さん?」
振り返ったのは一瞬で、また頭を下げようとするいのりちゃんの腕を取り、無理矢理引き起こす。抵抗する弱々しい力を力ずくで。
こんなに、か。智也は気付いていたのだろう。この子の心はもう軋んで折れてしまう手前だという事に。一度自分の罪に目を向けてしまったら、自分を壊してしまうことも厭わない。そんな、純粋な少女だったんだ。
「離して、下さい。わたし、まだ……」
「駄目だ、これ以上は見ていられない」
「でも、まだ許されてません。許されるような事じゃ、ないんです」
弱々しい声なのに、折ることの出来ない意思を感じた。そんな彼女に、俺の片割れの影が重なる。あいつなら、なんて言うだろう。どうやって彼女の心を軽くするのだろう。俺には……
「いい加減にしろ」
戸惑いの中、少し離れた場所から意外な助け舟。トビーが心底気に喰わないとでも言うように声を上げた。
「テメェの自己満足にリナを巻き込みやがって」
いや、巻き込んだのは俺達だけどな。
「でもッ!」
「うるせぇ、今になって自分を許せないなら無理じゃねぇのか?一日じゃ意味ねぇよなぁ?」
そっか、そういうことか。トビーは許しちゃしない。許すには時間が足りないのだ。本当はもうどうでも良いくせに、そういう事にしたいらしい。
「それとも、テメェはこんな短い時間で許されるとでも?」
「……思って、ません」
「ならもう止めろ、見苦しいんだよボケが。この程度じゃテメェは許されねぇ。だから、テメェはリナが苦しんだ時間と同じ時間、リナに謝り続けろ」
「え?」
「それがテメェに出来る最低限のことだ」
「それって?」
言っていて恥ずかしくなったのか、トビーは俺達に背を向けて歩いていく。はは、ほんとに萌えるよ、トビーのツンデレ。トビーが女だったら絶対に惚れている。
「今のってどういう?」
「つまり、これから絶対に墓参りを忘れるなってさ。そして、謝り続ければ良いんじゃない?トビーの言う通りだよ。リナちゃんが苦しんだ時間だけ、君も費やさないとね。だから、今日は終わり。智也だって君が身体を壊すのを望んでないだろうし」
今度こそいのりちゃんは抵抗しなかった。もう涙の出ない顔を歪めて、小さく「はい」と返事をして、もう一度リナちゃんに向かって頭を下げる。
「ごめんなさい。また、来るから」
気が済むことはないだろう。彼女は生きている限りもう二度とリナちゃんを忘れたりしない。俺の最高の親友と同じように。
「さて、行こうか。俺お腹空いちゃったよ」
おどけて空気を軽くしようとしつつ、智也はどうしているかなと考えていると、俺の袖を引っ張っていのりちゃんが尋ねてきた。
「あの、一つ聞きたいことがあります」
「何かな?」
聞きたいことはある程度予想はしていた。こうなる事をよそうしていたんだろうな、あいつは。じゃなきゃ、智也が自分の事を話してやってくれなんて、俺に言うわけがないんだから。
「三上さんに言われたんです。どうして三上さんが自分の事のように私を許せなかったのか、稲穂さんに聞いて欲しいって」
「そっか」
あいつがそう言ったのか。でも、良いのか?それはつまりさ……
「いのりちゃんは知りたいの?智也の過去に何があったのかを。それを知るってことは、君は智也とは他人じゃいられなくなるって事だ」
そういう事になる。あいつの過去を知っているのは限られた人間だけだから。音羽さんも、双海さんも、小夜美さんも知らない。その覚悟があるのかを問うと、いのりちゃんは、憔悴した顔だけれど、どこか憑き物が落ちたような顔で迷わずに頷いた。
「わかった。少し長い話になるから、そうだな。智也の部屋に行こう」
「三上さんの?」
「さすがに寒い中濡れたままっていうのは自殺行為だからね。タクシーを呼ぶから待ってて」
でもお金が!なんて慌てていたけれど気にしない気にしない。俺は立て替えるだけだから。智也に出して貰うに決まっている。
俺にとっては嬉しいいのりちゃんの変化に、頬が緩んでしまいそうだ。迷わずに頷くなんて……きっと彼女なら智也を……いや、俺を救ってくれるかもしれない。自分勝手な期待を胸の中に仕舞い込む。
ごめんな智也。俺はこの娘にお前を壊して欲しい。それでお前が苦しもうとも、俺はお前を――
「それは良くある交通事故だった。聞いたことないか?澄空中学校近くの路地で、女子中学生が交通事故で亡くなった事故のこと」
「それって、確か五年前位にあった?ニュースにもなってたけど、それがなんだよ」
「それがあの馬鹿の贖罪の始まりだった」
「……それって、信の事かよ?」
その問い掛けに取り合わず、俺は無視して話を進める。
「その女子中学生は急いでいたんだろうな。ただでさえ見通しの悪い道路だったが雨まで降っていた。その道路を傘をなぜか二本持って横断する際、規定速度よりも少し速く走ってきた車に気付かなかった。運転手が慌ててハンドルを切るが間に合わず、彼女と衝突してしまった。運転手は無事だったが、跳ね飛ばされた少女は数メートル飛ばされ、て……」
無感情に話せば、なんとかなると思っていた。あの日の光景を思い出さずにいられると……そんなわけ、ねぇのにな。
胸が手で鷲掴みされたかのように苦しい。湧き上がる苦痛に顔が歪んでしまいそう。焼かれた喉はひりついて、目は涙なんかじゃなく血が滴り落ちても不思議じゃない。
せめて鷺沢に気付かせないようにと、背を向けて曇天を見上げる。
「彼女は見るからに重傷で、一刻も早く処置しなければ間に合わない状態だったらしい。だが、運が悪いことに人通りの少ない道で、しかも運転手は気が動転して助けを呼べる状況じゃなかったんだ。だが、そこに運悪く居合わせた少年がいた」
「まさか、それが信?」
「そうだ。この時の信を誰も責めることなんて出来ないだろう。なにせ、まだ子供だったんだ。冷静に動けなくて当たり前だ。悲惨な交通事故を目の当たりにして、少年は震えて動けなかった。何が起きたのかも理解出来なくて、どうにも出来なかったんだ。あまりの衝撃に怯えてしまい、助けを呼べなかったんだ。数分後、たまたま通りがかった住人の人が救急車と警察を呼んでくれたらしいが、少年は彼女が運ばれる様を呆然と見ているしかなかった。腰を抜かしていたのかもしれない。そうして彼女が運ばれてすぐ後、警察よりも早く駆けつけた者がいた。少女と近しい少年だった。そいつ、はさ?駆けつけてすぐに落ちている傘を見つけたんだ。真っ白な傘と道路に流れる紅。それが少女の傘だって知っていたから……いた、からッ!」
駄目、だ。我慢しようにも、あの日を鮮明に思い出してしまう。頭からじゃない、心から離れないあの日の最悪。
「あんた、泣いて……」
「傘を抱き寄せ、少年は何かを叫んだ。神にありったけの憎しみを込めた悲鳴をぶつけた。八つ当たりだった。大切な少女の名前と、意味のわからない悲鳴。そんな少年を、あいつはずっと見ていた。見てしまったんだ。その後、傘を抱きながら少年は走り去った。きっと近くの大きな病院へと向かったのだろう。その一部始終をずっと見ていることしか出来なかった……罪でもなんでもない罪を心に刻んでしまった少年がいることも知らずに」
彩花がその命を賭して繋いでくれた絆だと、今なら思える。もう俺の隣にいられない自分の代わりに信と出会わせてくれたのだと。
「その事故から少しして、少年達は高校に上がり、再会することになる。もちろん、少女を失った少年は、もう一人の少年が誰なのか気付かなかった。あや、少女を失って普通を装って生きているだけの少年に、あいつは朗らかな笑顔で近づいた。馬鹿、だよな。その理由があの日、何も出来なかった自分を許せなくて、少女にとっての大切な存在である少年を救いたい。少女が幸せにするはずだった少年の未来を、自分が幸せに導く。それが贖罪だと信じて少年の親友になっちまうんだから。その想いは今もあいつの中にある。本当に可哀想なのはどっちだよってな」
俺はあいつにこそ幸せになってほしいのに。彩花だって、信がこれ以上自分を責め続ける姿なんて見たくないだろう。度し難い馬鹿だ。
「……わかるか、お前に?わかるか、お前がどれだけ小さいかってこと。あいつは一時も忘れないッ!忘れて欲しくても、忘れないように耐えているッ!泣き叫びたくなる胸の痛みを抱えて、それでも忘れてはいけないと生きてる!そんなあいつをお前は最低だと言ったな?」
鷺沢が何を思っているのかは窺い知れない。それでも、信の過去から何かを感じ取ってくれたなら、それで良い。
「忘れ続けたあげく、自分の傍にいてくれた少女を置き去りにしたお前とどっちが最低だ?あいつはお前も陵も、決して見捨てる為にこんなことをしたんじゃねぇぞッ!!」
唇を噛み締め、拳をきつく握り締め、それでも反論する言葉を呑み込む。
そうだ、お前に信を糾弾する資格なんてない。そんな暇があるなら、他にするべき事があるはずだ。
「あいつの気持ちがわかるか?お前等を見て、あいつがどんなに悲しかったかわかるか?どうにかしてやりたいって動いたあいつのお人好しを、お前は否定するのかッ!」
「んなこと言われたって、じゃあどうすりゃ良いんだよッ!俺にどうしろって言うんだよ!」
認めた。ようやく自覚したんだ、自分が愚かだったという事を。まずは一歩前進だ。信の話をしても、まだ自分は悪くないと言うのなら、今度は本気で殴ってやろうと思っていた。
「いのりだけが悪いわけじゃねぇってわかってるさ!でも、どうすれば忘れてしまった時間を取り戻したら良いのかわかんらねぇ……わかんねぇよ」
わからないんじゃない、わからないと言い訳したいだけだ。そうじゃないと、リナちゃんを忘れてしまった自分を壊してしまいそうだから。人は、そんなに強くはいられない。
「わからないなら、聞けば良い」
「誰に?」
「何年も涙を流し続けた誰かにだ。もう、お前は忘れたりしないだろうからな」
俯く鷺沢に背を向けて車に乗り込む。エンジンを掛けたとき、送っていこうかもう一度声を掛けようと思ったが止めた。今は一人で過去を想い、現在(いま)どうしなければいけないかを考えたいだろうからな。
「じゃあ、風邪引くなよ。もしも熱が出たら、信に看病させるからな」
「いらねぇよ、馬鹿じゃねぇの」
こんな憎まれ口を叩けるなら大丈夫だろう。車を走らせ、今日は疲れたなと溜め息を一つ。何気なしに俺は窓の外を見ようとしたのだが、窓の外を見るまでに映ってしまった現実が俺を打ちのめしてくる。
「嘘、だろ?」
目を背けられない現実が、あの二人だけじゃなく俺にまで襲い掛かるなんてッ!
「ガソリンがねぇーーーーーッ!!」
今日の一番の災難。俺の財布の中の最後の千円が旅立ってしまう事だった。
智也の家に帰ってくると、俺達の姿を見たおばさんが急いでタオルを持ってきて、風呂に案内してくれた。もちろん、レディーファーストでいのりちゃんを先に風呂に入れて、俺はその次。いのりちゃんが入った後のお湯を見て、これを智也の大学で写真つきで売れないだろうかと考えたのは内緒だ。
俺は智也の、いのりちゃんはおばさんの服を借り、ようやく智也の部屋で一息つけた。おばさんが用意してくれたコーヒーから湯気が立ち上り、湯気の向こうには寝巻き姿の美少女。これが夜じゃなくて朝だったなら完璧なのに。
「あの、稲穂さん?」
「ッ!?違う!考えてない、考えてないよ!一蹴の彼女でそんな事!」
「……はい?」
俺の心の中を見透かされたと思ったが、どうやら違うらしい。ふぅ、紛らわしいなぁ。
「そろそろ教えてくれませんか、三上さんに何があったのか」
「あ~、そっちね」
そうだった。智也の話をする為に落ち着ける場所に来たのだった。俺の部屋だと一蹴が帰ってきて気まずくなるかもだし、ここが一番話しやすいからな。なにより、彩花ちゃんの話だもんな。
「まあ、もったいぶる話でもないし、話そうか。あいつの中の雨が降り出した、その始まりの話を」
智也がそうするよに、俺も窓辺へと背を預ける。そうすると、目を閉じて俺の話を彼女が聞いているような、そんな気配を感じられた。
「智也には産まれた時からずっと一緒に育った幼馴染の二人、唯笑ちゃん……そして、彩花ちゃんがいたんだ。三人はいつも一緒で、家族以上にお互いの事を大切に想っていた。ただ、成長していくにつれ、この三人の関係が変わっていくことになる。智也はどうだったか知らないが、唯笑ちゃんと彩花ちゃんはあの馬鹿にずっと恋心を抱いていたんだ。妹のような唯笑ちゃんに、姉のような彩花ちゃん。二人はお互いの気持ちを知っていたんだ。だからかな、二人は智也へと告白することはしなかった。三人の関係を壊したくなかったんだろうね」
俺の話を、いのりちゃんは目を閉じて聞いていた。きっと、三人の優しくも温かい光景を思い浮かべているのだろう。
「智也の話では中学三年の時だったかな。彩花ちゃんとデートをしたんだって。そのデートは唯笑ちゃんが彩花ちゃんに勧めたらしい。彩花ちゃんと一緒にいる智也が好きで、智也を想う彩花ちゃんが好きだから……その二つの好きが一緒にいてくれるならって。多分、それだけじゃない。智也が誰を想っているのか、智也以上にわかっていたからかもしれない。そうして二人は遊園地でデートして、その帰り、夕暮れの公園で想いを確かめ合って結ばれたんだ。唯笑ちゃんは、さ。心の底から嬉しかったんだって。二人が愛し合って、その中に自分もいさせてくれる。そんな稀有な関係が嬉しくて、三人が変わることは永遠にないとさえ思っていたんだ。あの修学旅行を前にした、雨の休日が来るまでは」
俺が三人を救えなかった日が来るまでは……
「その日、智也は遅刻が多かったりして、罰として休日に教師と一緒にプリント作りを手伝わされていた。こういう所は高校でも相変わらずだったけどね」
「でしょうね」
二人で苦笑しつつ、話を続ける。
「プリント作りが終わって、窓の外を見ると、ぽつぽつと弱く雨が降り始めていた。その日傘を持ってきていなかった智也は電話をしたんだ。彩花ちゃんに傘を持ってきて欲しいって……本当は、ただ彩花ちゃんに会いたかっただけだろうけど。傘を持ってきた彩花ちゃんが、もうしょうがないなぁって智也に少し怒って、そんな彩花ちゃんに笑いながら謝って、一緒にいつものように二人で帰る。そんな些細な幸せを、智也は思い描いていた。彩花ちゃんに連絡して、智也は昇降口で彼女を待っていた。でも、いくら待っても彼女の姿が現れない。智也の家から学校まではそこまで時間が掛からない。それなのに、走ってくるであろう彼女の気配が一向にない。この時の事を、智也は今でも色褪せずに覚えている。一分、一秒、刻々と過ぎる時間が、智也の頭に嫌な映像を横切らせた。心臓の音が嫌に耳に響いて、不安で押し潰されそうな中、智也は一心に願い続けた。早く迎えに来てくれと。自分の馬鹿な考えが思い過ごしで、それを笑い飛ばしてくれって。でも、そうはならなかった。なって、くれなかったんだ」
稲穂さんの話を聞きながら、私は思い出していた。三上さんの様子がおかしくなった、あの場所のことを。
私を初めて家まで送ってくれた時、三上さんはあの道の近くに近づくにつれて、ハンドルを持つ手が震えて、何かに怯えているようだった。私の目には見えない光景が三上さんの目には映っていて、それに三上さんは必死に耐えていたんだ。
「智也の耳に、空耳かもしれない救急車の音が聞こえ、ついに堪えきれなくなった智也は駆け出した。違う、そんなはずはない、嘘だ、杞憂だ。そう言い聞かせているのに、足は止まらず、遂にその場所に辿り着いた」
それが、国道に出るあの見通しの悪い道路。私が三上さんを傷つけてしまった……
「辿り着いた智也の目に最初に映ったのは真っ白な傘。彩花ちゃんの買ったばかりのお気に入りの傘で、早く雨が降ってその傘を使いたがっていたのを覚えていたんだ。その真っ白な傘にこびり付いた赤。アスファルトには、雨に流される鮮血。智也は茫然自失の状態で、彼女の傘を抱き締めたよ。抱き締めて、言葉にならない声を曇天に向かって吼えた。その声は親を失った獣のようで、聞いているお……人間の心までをも震わせるようだった。どれくらいそうしていただろう、パトカーのサイレンが聞こえ、その瞬間智也は走り出した。傘を決して離さない様にきつく抱いて、近くの大きな病院へと向かって一心不乱に」
雨に打たれ、愛しい人の名前を呼ぶ三上さん。その姿が鮮明に瞼の裏に映し出されて、知らず涙が落ちていた。
そう、なんですね。三上さんは、だから私を……私、最低だ。私の存在がどんなに三上さんを傷つけ続けたの?それなのに、あの人は私に厳しくも優しく教えてくれたんだ。嫌われてもおかしくない私を、支えてくれた。
「その後の事はあまり話せないけれど、智也は今でも自分を許していない。自分の浅はかさが彩花ちゃんを死に追いやったと、そう悲しいほどにどうしようもない罪を背負って生きている。彩花ちゃんを想いながら、今も生き続けている」
三上さんの笑顔とふざけた行動の裏に隠された、悲しいくも純粋な想い。彼の想いに比べて、自分のなんと小さな事か。改めて、自分の愚かさに気付くと同時に、三上さんの彼女への想いを知り、私は涙が止まらなかった。
「ごめんな、いのりちゃん。俺もあいつも君を故意に傷つける事が良いことだなんて思っていない。だけど、どうしても伝えたかったんだ」
「は、い……わか、り、ます」
「誰かを失うということが、どんなに痛みを伴うのか、その痛みを忘れることがどれだけ罪深いことなのか」
「……すみ、ませ、ん……ごめ、なさ……みか、みさん……すみませ」
「だから、智也を責めないで欲しい。あいつは君に――」
「あ、うあッ……ああ……」
「傷を抱えながらでも、笑える未来を歩いて欲しくて、君にどう償っていけば良いか教えたかったんだ。それはさ、世界で一番の愛しい人を失くしてしまっても、変わらぬ想いを抱いて生きてるあいつにしか出来ない事だから」
声に、ならなかった。三上さんの気持ちを想うと、涙を抑えられない。
彩花さんをいつまでも想い続けて生きて、彼女を失った瞬間を一時も忘れずにいるなんて……そんな尊くも悲しい強さ。私なんかよりもずっと冷たい雨に打たれて、それでもなお微笑んで私に手を差し伸べてくれた。
リナ、ちゃん。ごめんなさい。今になって気付いたよ、自分がどんなに馬鹿で子供だったのか。あなたの想いを、私は踏み躙ったんだ。それどころか、千々に破ってしまった。本当なら、私も一蹴も大切にしなければいけなかったあなたの記憶。いくら謝ったって許されはしない。
「わたし、も……忘れません」
「そうだね」
「生きている限り、リナちゃんに謝り続けます」
「うん、それが出来ればトビーも君と一蹴の邪魔はしないさ」
「はい。でも、もう一蹴は……」
汚い私を知っても一蹴は一緒にいてくれる?ううん、都合の良い望みは止めよう。私は最初から、一蹴の傍にいる資格なんてなかったんだもん。一蹴が私と別れたいと言うのなら、止めるなんて情けないことはしない。一蹴が決めたことなら、私は黙って受け入れないと駄目なんだ。
「ま、それは一蹴次第ってことで。それより、ちょっとお願いがあるんだけどいいかな?」
「はい?」
「一刻も速くその涙と鼻水を拭いて「激写!変態ポニー、泣き叫ぶ美少女を前に厭らしい笑顔!」くれないからこうなっちゃったよ!」
いつの間に戻ってきたのか、三上さんがスマホを片手に活き活きとフラッシュを焚いていた。
「え、おま、え?まさか俺の部屋でナニやろうとしてんだよ?」
「お前がナニを捏造しようとしてるんだよ!俺はただお前の事を話しただけだ!」
「ああ、なるほど。俺の異世界譚を聞かせて、あまりに壮大で感動的なフィナーレに涙したと。それなら仕方ない」
「いやいや、俺が話したのはお前の高校時代の事だよ。いのりちゃん、実はこいつ高校の時に西野ってやつと」
「ふざけんな!俺の黒歴史を小娘に話すんじゃ……って?」
どうして、だろう。勝手に身体が動いていた。
今日の出来事が全て嘘だったかのような三上さんのふざけた態度。そのいつもを、私の為にしてくれているのだと、今の私はわかっているから……その優しさをもう無視出来なくて……
「ごめ、なさい。ごめんなさいッ!」
私を支え続けてくれた、大きくて広い背中に自然と手を回して抱きついていた。
恋愛感情なんていう甘いものではなく、子供が悪戯をして母親に怒られ、泣きながら母親に抱きつくのと同じだった。
「はッ!?いや、ちょッ!?陵離れろ!」
「激写!三上智也、教え子に恋の方程式を教えた結果!」
「お前には憎しみの三角締めを教えてやろうか!?つうか、陵さん?何やったんだよお前!」
「俺は何も。ただ、その様子を見る限りじゃ……」
「三上さんッ、三上、さん、ごめん、なさいぃッ」
「どうやらいのりちゃんにとって、お前はお兄ちゃんみたいな位置になったんじゃねぇの?」
「クーリングオフ希望じゃ!お前も謝り過ぎだから!」
「だって、私、わたしぃッ!」
「あ~、たくッ!」
面倒臭そうに、それでも私を労わる様に三上さんの大きな手が、私の頭をゆっくり撫でてくれる。
「もう良いんだ。もう大丈夫だから泣くなよ」
その手の温かさに、また涙が止まらなくなり、困ったように二人が笑う。
「お前は出来ることをしたんだ。後は俺と信に任せとけ」
何をどう任せるのかは知らないけれど、その言葉に自分でも驚くほどに安心して、それでもまだ涙が零れてしまって、結局私が泣き止むまで三上さんは私の髪を撫で続けてくれたのだった。