Fate/Shadow Lie   作:むっすー

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見直してみるとやっぱり全然お話進んでないですな。


渚砂綾乃

 ――それが何なのか、渚砂綾乃には理解できなかった。

 見渡す限り赤と黒。光も無ければ闇も無い。上下も無ければ左右も無い。

 真っ暗な世界に1人。眼前には暗黒がどこまでも広がっていた。

 反転したキャンバスには深紅の水玉模様が規則性も無く描かれてゆく。それは、水面に広がる波紋のように美しい。

 ぽたり、ぽたり。

 音と共に水玉模様が漆黒を染める。

 広がる深紅が漆黒を侵す。

 視界が真赤に染まってゆく。

 やがてその漆黒が深紅に染まりきったとき、その中に彼女は見た。

 そこにあったのは赤い花。

 小さく醜いラフレシア。

 赤く大きな花弁の傍に、汚く千切れた黒い葉っぱが落ちている。

 花には無論顔なんて無いけれど、しかし彼女は、どうにもその花に見られているような気がしてならなかった。

 とても気持ちが悪い。何故だか悪寒が止まらない。

 だから、綾乃は思った。

 あの花が消えてしまえばいいのに、と。

 するとその願いに答えたように、深紅の中に白い影が落ちた。

 それは人のようにも見えたけれど、感覚的に人の様には思えなかった。

 白い影は花を覆い隠し。

 ぐちゃり、ぐちゃりと音がして。

 白い影が消え去って、そこには壊された花がある。

 望みどおり花は消え去った。しかし綾乃の悪寒は増すばかりである。

 足元に視線を下ろせば、そこには小さな白いボールが転がっていた。ボールは一箇所だけ不自然に黒くて、雑草の根っこのように走る赤い筋がよく目立つ。

 花から飛び出した球は、彼女の視線を捕らえて離さない。

 その光景は、容赦なく綾乃の正気を揺さぶった。

 ――お前がやった?

 私がやった?

 ――ちがう、ちがう。

 私がやった?

 ――お前がやった?

 私は何も、していない。

 ――お前は一体何をした?

 私は人を殺してない。

 ――お前は人を殺してない。

 私は殺人者なんかじゃない。

 ――お前は殺人者なんかじゃない。

 ほらやっぱり、私は殺人者なんかじゃない。

 

 ――それじゃあお前は殺戮者だ。

 

 

 

「――っ!」

 不気味な言葉が脳裏に浮かび、それをトリガーに綾乃の視界は唐突に色を取り戻した。

 焦点を結ぶと、目の前には見慣れた木目の天井がある。

 深紅の水玉も、汚い花も、何も無い。

「……夢……」

 呆然と単語を口にする。どんな事も言語化すると自覚作用が強まるようで、みるみる彼女の頭は冴えていった。

 むくりと上体を起こし、周囲を見渡す。いつもの目覚めと変わらない家具の配置具合から、どうやらここは自室のようだ。

 感覚が戻って最初に感じたのは気持ち悪さ。体中にべたべたとした汗をかいていて、布団の生ぬるさも相まって非常に気分は良くない。加えて室内を満たす寒気が汗を冷やし、温と寒の狭間で綾乃は身震いをした。

「――恐怖心、なのかしら……」

 数刻前まで夢に見ていた光景を思い返し、綾乃は頭を押さえて1人ごちる。

 恐怖心。言うまでも無く、昨夜の惨劇が悪夢の引き金となったのだろう。生まれてこの方まともな夢自体あまり見たことは無いけれど、あれは俗に言う悪夢の部類なのだろうと彼女は直感した。

 あの惨状は、今でも思い出すだけで――吐き気がする。

 人間はあんな風には死なない。人として死んで初めて、それは死人となる。

 しかしまともな死に方をしなかった人間は、もはや人間としての扱いようもない――ただの肉塊だ。

 そこに人としての尊厳があるかないか。それが殺人と殺戮の相違点。

 お互いの生死をかけての殺し合いならばまだしも、綾乃の行った一方的な攻撃に尊厳など微塵もありはしない。

 ただ軽い気持ちで人間の命を弄んだのだ。

 故に殺戮者。夢の中での問いかけは、あるいは真実を知った自分自身によるものだったのかもしれない。

 逃避する渚砂綾乃を現実へと引き戻す、人間らしい渚砂綾乃の声だったのだろう。

 そりゃあ逃避だってしたくなる。けれど現実は自分の中にある。そう、今だって外に出れば――

「――しまった!」

 そうしてようやく外に放置されているであろう肉塊のことを思い出し、綾乃は毛布を跳ね除け部屋を飛び出した。

 近所の評判や魔術師としての隠匿はもちろんだが、なにより玄関先に肉塊が転がっているなどと遠出した親族の耳に入ってしまえば大事だ。いくら憔悴していたとはいえ、その処理を怠ってしまった昨夜の自分を叱咤せざるをえない。

 ちらりと時計を見れば、時刻は午前7時。普段の起床時間と変わらない。彼女の体内時計は気絶して尚正常に動作しているらしい。

 誰にも見つかっていなければいいのだが――

 しかしそんな不安は、間延びした音によって破られる事になる。

 屋敷の中に響き渡る単調なチャイム。それは来客者を告げる合図だ。

 つまり、誰かが既に門の前まで来ているということ。

 その門の前には、問題の死体が転がっている。

 混乱が混乱を呼び、綾乃の足は自然と止まっていた。

 目の前には既に玄関の戸がある。そこを開くか否か、その判断さえまともにできない。

 ――まだ死体はあるのだろうか。

 だとすれば、来客者は死体を見た事になる。

 それに関してのことならば、私はどう答えるべきなのだろう?

 一切の無関心というのもかえって怪しまれよう。けれど最適な嘘を咄嗟につけるほど、彼女は器用な人間ではない。

 きっと問い詰められれば、何も言えなくなってしまうだろう。

 居留守を使うか?

 しかし残念な事に、人を外で待たせているという事実が彼女の良心に働きかけてしまう。

 変なところで生真面目な自身の性質を呪った。

 行かなくちゃいけない。けれど行きたくない。

 パニック手前の逡巡。

 ――しかし、その逡巡は無意味な事になる。

 なんの脈絡も無く、ガラッと音がして。

 迷いを見せる彼女の目の前に、黒い服の人間が現れた。

 硬直。

 その硬直は、2重の驚愕によってもたらさらたもの。

 1つは突然だったという事。単純な人間としての驚き。

 もう1つは、その人間の外見に既視感があったからだ。

 全身を覆う黒いキャソック。それは神父服だというのに、しかしその男からはそんな温厚なイメージは微塵も感じて取れない。

 黒くて暗くて、それはむしろ冷酷な殺人者といったイメージが強い。

 ――そう、丁度、外にあった死体の『元の姿』と同じ様な。

「ああ、いらしたんですね。出てこられないので、てっきりまだお休みかなと思ったのですが」

 ふわりと柔らかそうな赤色の髪を揺らし、男は不釣合いなほど丁寧な口調でそう言った。

 綾乃の口は言葉を紡がない。

「そうですね、まず、勝手に門を潜った事は謝罪いたしましょう。後日お伺いする事も考えたのですが、何せもう“始まっている”訳ですから、毎晩こちらへ帰られるという確証もありませんし……」

 しかし男はそんな綾乃を意にも介さない。

 ただただひたすらに、綾乃は恐かった。

 先ほどからこの男――不気味なほどに笑顔なのだ。

「――それにしても、このお屋敷はなかなかに興味深い。これが日本古来の建築様式、というのでしょうか? なるほど、東洋と西洋では魔術のあり方そのものが根本的に違うのだとは耳にしていましたが、こうも開放的でありながらこの屋敷は工房としての役割をも果たしている。久しぶりに、いい刺激になりそうですよ」

「……あな、たは……?」

 ようやく綾乃は震えた言葉を搾り出す。

 問いかけに、男は「ああ」となんでもないように答えた。

「これは失礼。この度聖堂教会より参りました、スキール・オフティヴィマと申します。まあ、お気づきであろうとは思いますが、いわゆる『代行者』ですね――昨晩、貴女が殺害なさった者の上司に当たります」

 以後、お見知りおきを。

 そう言って、スキールは頭を下げる。

 代行者、すなわち昨晩の襲撃者。

 先ほどの既視感は、やはりあながち間違いでもなかったようだ。

 そうと分かった途端、綾乃の混乱は一気に収束され、脳が隅々まで冴え渡る。

 綾乃は一歩引いて臨戦態勢に入った。

「――何の用、ですか」

「まあ、そう喧嘩腰になら無いで下さいよ。それに、サーヴァントも実体化させられないような今の貴女が僕と渡り合うなど自殺行為……それくらい、ご自分で良く理解されているはずでは?」

 しかし、スキールの一言が彼女の内側に突き刺さる。

 彼の言う通り、現在綾乃は優しく言って万全ではない。昨夜の精神的ダメージが肉体にまで残留している。

 魔術的な部分に関しても万全でない事は明白だ。

 まず、バーサーカーが無反応であること。意図的に綾乃が抑えているわけではなく、バーサーカーは実体化できるほどの魔力供給を受けていないのだ。

 次に結界の停止。渚砂の屋敷は敷地内を特別な結界で覆っている。結界の内部は管理者に絶対的なアドバンテージを与える仕掛けが施してあり、それは先ほどスキールの言った「工房」というものに近い。

 しかしその結界は、彼の侵入に対して発動しなかった。

 これは結界の管理者である渚砂綾乃との供給ラインが不安定であるが故の事態。

 そして何より、武術を修めた綾乃の直感が告げているのだ。

 今の状態では彼に勝てない、と。

「……もう1度問います。何の用ですか?」

 彼女はゆっくりと形だけの臨戦態勢をとく。

 一見無謀にも見えるが、仮に彼の目的が綾乃に危害を加える事ならば、こんな悠長な会話など繰り広げてはいまい。そう判断しての行動だ。

 綾乃の問いに対し、スキールは変わらない笑顔で応じる。

「ええ、では本題に。昨晩、僕の部下が犯した所業に対する謝罪を、と思いまして」

 しかし飛び出したのは予想もしないような言葉だった。

 思わず綾乃の口からは呆けたような声が漏れてしまう。

「……謝罪?」

「はい、ご迷惑をおかけしました。元々あいつは喧嘩っ早いところが目立っていまして。今回の任務ではせいぜい捨て駒にでもなればと思って連れて来たのですが――全く、何を血走ったのやら」

 深々と下げた頭を上げ、スキールはそう言った。

 信じられない。

 人殺しをするような連中が、部下を殺した相手に謝罪だなんて。

「その為に、わざわざ来られたんですか……?」

「ええ。部下の不手際は上司の責任でもあります。まあ、これといったお詫びが出来ない所はとても心苦しくはありますが、一応お詫びの形として、外の汚い有機物はこちらで掃除をさせていただきました。無論周辺住民の皆様は何も関与していませんので、ご安心ください」

「え、ええ……その、どうも、ありがとうございます」

 綾乃もペコリとお辞儀を返す。

 とりあえず外の死体が誰にも見つからなかったのなら、とりあえずはよしとしよう。

 しかし綾乃の中には新たな疑念が生まれつつあった。

 先ほどスキールは「サーヴァント」という単語を口にした。

 それはすなわち、聖杯戦争のことを知っている……さらにいえば、綾乃がマスターであるということも知っている。普通の代行者の知りえる事柄ではあるまい。

 この不気味な代行者は、今回の聖杯戦争とどのような関係があるのだろうか。

 さらに単純に言うならば――敵か味方か。

 疑念は深まり、考えれば考えるほどに彼女の表情は微細な変化を見せる。

 それを察したのだろう、スキールは付け加えるように口を開いた。

「ああ、それともう1つ。端的に申しますと、僕たちは『あなた』に敵対する存在ではありません。ですから、貴女方が僕たちの任務を妨げさえしなければ、僕たちは貴女方には無干渉な存在です。どうか、誤解をなさらないように」

 ごくり、と固唾を飲む。

 その発言は一見友好的に見えるも、裏を返せば「邪魔をすれば敵」という事にもなり得る。

 直接関係が無いという遠まわしな発言からも、綾乃が彼らの任務とやらの邪魔になる可能性はゼロではないのだろう。

 それが何かまでは話せないようだ。

「わかりました、極力お邪魔はいたしませんよう、努力します」

「ご理解いただけたようで、幸いです。お互い、上手くいくといいですね」

 それではこれで、と小さく口にして、スキールは踵を返す。

 綾乃は追うこともしない。追うという選択肢が、既に他の思考に埋め尽くされていた。

 聖堂教会。代行者。聖杯。任務。

 予想もしなかった方面の問題。

 それらが何を意味するのか、彼女にはまだ理解できない。

 しかし、本当に他愛もない直感レベルの想像ではあるが。

 この聖杯戦争、何か別の問題があるのではないか――?

 そんな小さな疑念が、彼女の中に渦を巻いた。

 

 

 

 

 兎にも角にも、相馬祐一の身分はいまだ高校生である。

 故に彼も例外なく登校しなければならなかった。

 生死にさえ関わるこの戦いの最中、呑気に学業に励む気などさらさらなかったが、しかし学校という共同体は昼間における絶対の城壁である。

 聖杯戦争はその特性上、基本的に進展が見られるのは夜間。しかし、それはあくまで基本的という話。昼間だって油断していればどこから凶刃がその身を襲うか分からない。

 だが、その魔術という凶刃は決して一般人の眼前で行使されることは無い。それは魔術師としてのルール。破ればまっとうな生活はできまい。

 故に、一般人の中に身を隠す事ができる学校という場所は、祐一にとって非常に都合の良いシェルターなのである。

「……どうした?」

 しかし、どうにも彼のサーヴァントにとって居心地の良い場所というわけではないようだった。

 霊体化しているためその姿を目視する事はできないが、集中すれば気配程度ならばある程度感じられる。

 その気配というのが、丁度祐一の背後ゼロ距離の場所なのだ。

 実体化したならば彼女は彼の背中に密着しているような状態だろう。

 さすがに表情までは見えないため、何を思ってそう密着しているのか祐一には皆目見当もつかない。

 すると、ふいに祐一の携帯電話が震える。

 送り主は不明。強いて言うならば、意味不明な文字の羅列が送り主。それがアサシンによるものだと祐一は知っていた。

 魔術C+を誇るアサシンの得意分野は情報の伝達。それは昨晩の電話によって遺憾なく発揮されている。電話ができてメールができないということもないのだろう。

 しかしどうしてまた急に? それに情報伝達なら念話でも済むはずなのである。

 そう思って、祐一は文面を開く。

『ふえー>< マスター、私こういう場所苦手かもー(;▽;)』

 ……普段のぱっと見無感情からは想像もできないような、やけに「女の子」な文面がそこにはあった。

 そのギャップにわずかな驚愕を見せつつも、祐一は短い文章で返信する。

『なんで?』

 彼女の返信は早い。

『その、理由とかはごちゃごちゃしててよくわからないだけど、とにかくなんていうのかな……すごくイヤな感じがするの』

『生前になんかあったとか?』

 とはいえ、メリーさんとは都市伝説。都市伝説の存在に生前も何もないのかもしれないが、考えられる理由はそこにある。

『私もそうだと思うんだけど、その部分だけすごくごちゃごちゃしてて整理ができないの。だからわからないんだ、原因が。そもそも私はね、大昔から最近まで色んな時代の幽霊とか怨霊とかっていう類の存在が『メリーさん』っていう座を使って顕現した姿なの。沢山の人の残留した思念の集合体。だから、昔のことを思い出そうとしても、いろんな人の昔がそこにはあってね、しかも『負』っていうのかな、なんか暗いものばっかりなんだ。見るのも嫌になるくらい沢山。ちょっと逸れちゃったけど、だからね、厳密に生前って言うのは無いんだ、私』

『そうだったのか……その中に、こういう人ごみとかっていうのに反応してしまう記憶がある、って事なのかな』

『多分そう言うことなんだと思う。だからちょっと恐くて、マスターの背中にくっつかせてもらってるけど、いいかな?』

『霊体だし、全然支障ないし……昼間から行動するようなマスターもいないだろうしな。いいよ、それでお前が落ち着くんなら』

『ありがと、嬉しい』

『そういえば一番最初のあれ、何? 顔文字とか全然使うイメージ無かったんだけど』

『え? ああ、えっと、ちょっと使いたくなっちゃって……ダメ、かな?』

『いやダメってわけじゃないけど。結構茶目っ気あるんだなーと思って』

『えっへへ、これでも見た目は女の子ですから』

 そうこうしていると、授業開始のチャイムが鳴る。

 普段どおりに授業が始まるも、案の定祐一の様子は上の空。

 日常の中に溶け込む非日常。案外身近にそういうものはあるんだろうと思っていた。

 その異質な一点が今は自分なのだと思うと、なんとなく自分の立場が奇妙に思えてしまうのだった。

 

 

 

 

 御影市の商店街の盛り具合は、平日といえども全く衰えない。行き交う人々の活気に当てられ、沈み気味だった綾乃の気分も幾分良くなっていた。

 昨晩の惨劇。そして今朝の衝撃。どれもこれも今なおダメージとして彼女の精神に苦痛を強いている。

 加えて浮かび上がる聖杯戦争とは別の何か。スキールの任務とやらがそれに関連しているような気がするのだが、もちろん綾乃にはその正体など皆目検討持つかず、どうにも気持ちが纏まらない。

 そもそも代行者だってそんな大っぴらにして良いものでもない。

 一体彼は何を思って訊ねてきたのだろう。

 本当に謝りに来ただけだったのか、はたまた別の思惑があったのか。

 考えれば考えるほどに疑念は深くなってゆく。

 しかしこのまま家にいても悩み込み沈み込むだけだ。そう思い、彼女は思い切って家を出た。

 彼女の通う御影北高校は創立記念日として休日となっている。どの道休日をもてあましていたのだ。

 いざ商店街に来てみれば、案の定気分は高揚していく。道行く人々の中に見知ったような顔もちらほらと見える。

 少々うるさくはあるけれど、気分転換としてこういったショッピングもたまにはいいものだ。

 それに比較的平和な今のうちに外へ出ておかないと、いずれこちらの情報もばれてしまう。そうなっては昼間といえどもおちおち外出もできない。なによりアサシンクラスに見つかってしまっては笑えないだろう。

 始まってからというのもおかしな話だが、彼女の行動は戦争前の最後の休息も兼ねていた。

「まあ、言っても本屋しか行くところ無いのよね」

 誰に言うでもなくそうごちて、彼女は言葉どおり一直線に本屋へと足を運ぶ。

 複雑に繋がるアーケード街でも、歩きなれた彼女からすれば目を瞑ってでも向かう事ができるだろう。

 真っ直ぐ進んで、2つ目の角を左に曲がって、一際目立った雑貨屋を右に曲がると見えてくる。

 最近は聖杯戦争が云々だの父が云々だのと出来事が重なっていたため、ゆっくりと本屋に立つ時間などなかった。それだけに、彼女の足はいつになく早まっていく。

 何か面白い本はあるだろうか。好きな作家の本は出ているだろうか。あの漫画の続きはどうなったのだろうか。

 思えば思うほどに期待は膨らんでいった。

「おっと」

「きゃっ」

 雑貨屋を曲がったところで、彼女は誰かとぶつかってしまった。

 見ると、相手は男だったようだ。少々贅肉のついた体つきに、痛んだ茶髪のウルフカット。顔を見るとまず肌の荒れ具合に意識が向いてしまう。

 服装は無駄にギラギラしていて、両手には皮の手袋、そして耳にはピアス。明らかに残念な大人が外見だけ着飾っているようで、綾乃は既に第一印象で嫌悪感を抱いてしまった。

 しかしぶつかった事は非である。彼女はすかさず頭を下げた。

「ご、ごめんなさい、私、ついうっかりしてて……」

「え? ああ、いやー気にしてないッスよ、お嬢さん」

 男は軽い語調でそう言った。

「あの、それでは……」

 そして綾乃は足早にその場を去ろうとする。

 だが、何故か彼はそれを逃さなかった。

 男は脇を抜けようとした綾乃の前に立ちふさがるようにして立った。

「お嬢さん、ちょっとお時間いいッスか?」

 突然の問いかけに、綾乃は思わず身構えてしまう。

 なんとなく、嫌な予感がしたのだ。

「いえ、私急いでますから……」

「まあまあ、そう言わずに」

 そう言って男は綾乃の顔を覗き込む。

 とても気分が悪くなって、彼女は目を逸らそうとする――

「……?」

 しかし、どういうことだろう。

 彼女の視線は男の視線と重なったまま微動だにしない。

 動かさないのではなく。

 動かせない。

 その感覚はある種の暗示を思わせる。

 文字通り視線を絡め取ったまま、男は言葉を紡いだ。

 少し、男の瞳が赤黒く蠢いて見えた。

「――お嬢さん、悩み事とかってないッスか?」

「悩み事……」

「そう、あるいはコンプレックスとか」

「コンプレックス……」

 自分でも不思議なほど、言葉が脳へと染み込んでくるのがわかる。

 悩み。コンプレックス。

 その言葉から連想されたのは、鏡に向かう自分の姿だった。

 可愛くない、自分の姿だった。

 見た目より中身だとは言うけれど、中身だって嫌なくらい頑固で意地っ張りで見栄っ張り。

 こんな私ではダメだと思っても、それを変える方法が分からない。

 このままでは、あの人にだっていつ見放されてしまうかわからない。

 文武両道を体現したような秀才の悩みは、意外にもそんな年頃の女の子然としたものだった。

「その様子だと、訳アリっぽいッスね。何、気にする事はないんスよ。人間なら誰しも、自分に対する不満を持っている。俺だってそう、ぶっちゃけるんスけど、この体型は遺伝なんスよ。全く、とんでもないッスよね、不可抗力なんて。でも、その不満はいつまでも持ってちゃあ体に悪い。でも排除しきれるものでもない――そんなもの、どうしたらいいんスかね?」

 普段の綾乃ならば、当にこの男を叩き伏せてその場を去っていただろう。こんな問いかけにだって答えなかっただろう。

 故に、答えを思案している今の彼女は平常ではないということだ。

 しかし彼女は自発的に考えているわけではない。それは『考えて答えなければいけない』という一種の強制力のようなものに思えた。

 うっすらとそれを自覚しつつも、彼女は答えを口にしてしまう。

「……気にならないようにしてしまえばいい……?」

「おーう、そうッスよそれそれ! いやあ、お嬢さん聡明ッスね。その答えに一発でたどり着くなんて、お嬢さん素質あるッスよ」

 ぺらぺらと紡がれる軽薄な言葉。

 その言葉に疑念を抱く事さえ、既に彼女はできなくなっていた。

「実は俺、そういう悩みとかコンプレックスを少しでも和らげる――いわゆるカウンセラーみたいな仕事してるんスよ。悩みなんて持ってても、なかなか相談できる相手もいない。つーわけで、こうしてたまに街頭でちょっとしたお誘いをしてるワケッス」

「誘い……?」

「ええ、まあ。っつーか、お仕事ッスよお仕事。そうッスね、ここだと場所も悪いし立ち話も疲れるし……そうだ。ちょっと歩いたところにオススメの喫茶店があるんスけど、詳しいお話はそこでしないッスか? こうしてお話を聞いてくれたお礼っていうとアレッスけど、俺奢りますし」

 あそこのコーヒーは格段に美味いんスよ。

 男は笑顔でそう言った。

 危ない。それは理解している。

 けれど、実際に意思は言う事を聞かない。

 首が動く。

 縦に動く。

 それ以上はいけない。

 けれど動いてしまう――!

「おいおい、何してるのさ? 女性相手に暗示だなんて、ボクは良くないと思うなあ」

 そして頷いてしまう刹那、綾乃の眼前にふわりと桃色の髪が躍り出る。

 とても中性的な出で立ちで、彼女はそれを綺麗な少女だと思った。

 けれど同時に、それには人ではないような、どこかバーサーカーに似た異質な感覚があった。

「おい、おいってば……何を勝手に手出ししてるんだお前は。頼むから厄介ごとには首を突っ込まないでくれ」

 続いて長身の男がその傍らに立つ。横顔から窺える金髪碧眼は天然のようで、簡素な黒いコートを羽織っていた。

 暗示がかかっていても、綾乃の本能は告げる。彼は魔術師であると。

「ん? なんなんスか、お嬢さん? 俺は仕事なんスけど」

「へえ、暗示つかって連れ去ろうとするのが仕事なんだ? ねえマス……じゃなかった、ロラン? そんな仕事が現代にはあるの?」

「あったら世紀末だよそんなの……まあそれはともかくとして、そういう風に魔術を使うのはあんまり感心しないなあ。いくらここが東洋の魔術協会が管理する土地だからって、好き勝手やったら他の魔術師から袋叩きに合うのも時間の問題だよ?」

 ロランと呼ばれた青年は優しい口調でそう言った。

「魔術? 協会? んー、よくわからないッスね。姐さんにも言ったんスけど、俺はそういう魔術師っていう胡散臭い連中とは違うんスよ」

「へえ、違うんだ。じゃあ、この人にかけた暗示はどうやったのかな?」

「企業秘密ッスけど、そんなに知りたいのなら――っ!?」

 綾乃に対してとったものと同じ覗き込むような行動。しかし、それを少女に対して行った途端、男は驚愕に目を見開いた。

「あれ……そんな? 俺の眼が、効いてない……!?」

 少女は真っ向から男を見据え、不敵な笑みを浮かべる。

「やっぱり、魔眼の一種か。高ランクなものだったらボクも暗示かけられちゃうかと思ったんだけど……ふふん、対魔力の低いボクにさえ通用しないような低ランクな魔眼か。人間をひっかけるなら上等かもしれないけど、相手が悪かったね」

「……? あんたらもしかして、聖杯戦争とかっていう変な祭りの関係者ッスかね?」

 男は少し身を引いて訊ねる。

 聖杯戦争という言葉を知っている以上、小太りの彼もまたその関係者の1人なのであろう。

 けれど、どうにも魔術師でもないような人間が一体どう関係しているのか。

 考えられる可能性としては、いわゆるイレギュラーと称されるような『魔術師ではないけれどマスターになった人間』という例外。

 問いかけに対し、少女が胸を張って答えようとして――

「ちょっと待て、またバラす気か? もう真名バレは勘弁してくれよ、いくら弱点が無いとはいえ対策練られちゃ面倒なんだけど」

 ロランがガツリとストップをかけた。

「あっ、そうだった。また名乗っちゃうところだった……まあ騎士の性分ってコトで」

「ったく――代わりに僕が答えよう。初めまして、だよね? 僕はロラン・マルフォレイ。今回、ライダーのマスターとしてこの街に来てる。それで、こっちはライダー。僕のサーヴァントだ。どうぞよろしく――さあ名乗ったら名乗り返すのが礼儀だよ、君は一体何者なのかな?」

 そう言って、彼はにこりと微笑んだ。

 ライダーのマスター。

 その単語は、男と綾乃の両方を驚愕させる。

 冷や汗が頬を伝う中、男は小さく唸るように答えた。

「……貝原京介」

「なるほど、貝原さんか。よく覚えておこう……さすがに、誰のマスターか、なんてのはアンフェアだけど喋ってくれないよね?」

「――あんた、何なんスか」

「質問に質問で返すのは感心しないなぁ。ま、その返答は少なくとも自分がマスターだって発言と同義だね」

「今聞いてるのはこっちッス。あんたは何者なんスか」

「さっきも言ったじゃないか、僕は君の敵だよ。錬金術師、ロラン・マルフォレイはライダークラス以外の全てのサーヴァントとマスターの敵対者さ」

 そして無言。男はわずかに低い姿勢でロランを睨みつけ、足早にその場を去っていった。

 ロランも少女も追いかけることはしない。

 それから程なくして、綾乃の意識は完全に覚醒した。

「……私、暗示かけられてたの?」

 信じられないといった様子で綾乃は一人ごちる。

 思いもよらないところで敵マスターと思しき人間の策にはまるところだった――否、助けがなければ完全にはまり込んでいた。

 綾乃の前に立っていたライダーはくるりと綾乃に向き直る。

 とても可愛らしく、それでいてどこか凛々しい。一瞬で綾乃はその全てに魅入ってしまう。

「さて、と。どこか悪いところとかない?」

「えっ、いや、特には……」

 じゃあいいや、とライダーは快活に微笑んで、またくるりと方向を転換した。

「よし! 悪いやつは追い払ったし、ボク達も行こうか」

 そういってライダーは傍らのロランと腕を絡める。

 ロランは顔を赤くして喚いた。

「ばっ、いくら変装してるからって、その、そういうのはやめてくれってば!」

「いいじゃんいいじゃん、傍から見たらカップルみたいでしょ?」

「だから困るんだって! お前男だろ!」

「でも外では女として通せって言ったのはロランだよ?」

「いや、うん、まあ言いはしたけど……だからってこれは、その……」

「それとも……ボクじゃ、嫌?」

「――っ! あー、もう! やめてくれ、本気で悲しそうな顔をするな! わかった、わかったからそんな目を向けないでくれ!」

「へへーもー、ロラン照れちゃってー! これじゃどっちがマスターかわかんないよ?」

「くそっ、これは当たりだったのか外れだったのかわからんぞ……!」

 そんなカップルまがいのやりとりをしながら、2人は綾乃をおいて去ろうとする。

 人ごみに彼らが消えてしまう直前、綾乃が声をかけた。

「あ、あの!」

 先に振り返ったのはライダーの方だ。

「どうしたの?」

「そ、その……ありがとうございました! でも、良かったんですか?」

 次いでロランが怪訝そうな顔で振り返る。

「良かったって、何が?」

「だって、さっき私を放っておいたら、私は敵の策にはまってもしかしたら死んじゃってて、そうしたら私は脱落で、あなたたちは少し楽できたんですよ? なんでわざわざ、私なんかを――」

 助けたんですか?

 その一言は発することさえ許されなかった。

 2人のため息が綾乃の言葉をさえぎったのだ。

「なんで、って……極論言っちゃうと、それ見逃しても後味悪いし。それに、さっきの君の言葉で確信したけど、君もマスターなんだろう? いやまあ、なんとなくそんな気はしてたけどさ」

 ロランの発言に綾乃はハッとする。感情に任せて言葉を吐き出していたのが間違いだった。

 自分がマスターだと明言してしまうなんて。

 彼は挑戦的な笑みをたたえて口を開いた。

「君が何を思って聖杯戦争に望んだのかは知らないけど……僕はね、いろんな経験をしたいんだ。今回で言えば多種多様な戦闘経験。だから聖杯戦争に参加した。その一因になるかもしれない人をみすみす見殺しにするなんて、もったいないだろう? 僕は君との戦いを経験したいんだ」

 見たところ、君はとても強そうだ。

 その一言の瞬間だけ、綾乃はぞくりと身震いをした。

 それは本人に言わせればきっと武者震いだと言うのだろうけれど。

 今朝のスキールに似た異様な余裕が、本当はとても怖かったのだ。

「ま、結果オーライってヤツだね。敵マスターに2人も会っちゃうなんてさすが幸運Aは伊達じゃないよね!」

「ああ、すごいのはわかったからあんまり調子に乗るな?」

「えーっ、だってそれくらい自慢しなきゃボクは何を誇ればいいのさ! ……はっ、そ、そういうことなの、ロラン?」

「嫌な予感しかしないけど、どういうことか一応聞いてみようか」

「つまりボクはこうしてここにいることを、ロランの隣にいることを誇っていいんだって、そういうこと!?」

「この短時間でそこまで超解釈できるお前の思考回路には相変わらず脱帽するよ」

「いやー、えへへ。そんな褒められても、ここじゃ何にもしてあげられないよ?」

「褒めてないしやめてくれ! ここじゃなかったら何かする、みたいな言い回しは!」

「あれあれ、ボクは何をするなんて明言はしてないけどなぁ。いったい何を想像したのかなロランは?」

「ばっ!? お、お前ハメたな!?」

「いやーロランもやっぱり男なんだね! さあさあ言ってみ、何を想像したのか! 結構本気で楽しみだよボクは!」

「やめろ! ごめん、あやまるから! やめてくれ思い出させないでくれっ!」

 ……はて、私はいったい何に恐怖していたんだろう。

 目の前のやり取りと恐怖という単語は毛ほども結びつく様子がない。

 けれど先ほどの身震いの余韻はしっかりと彼女の体に残っている。

 綾乃の勘違いだったのか、はたまたこのやりとりは強者ゆえの余裕なのか。

 聖杯戦争という殺し合いとこの2人はどうにも似合わない。そうまで思わせる2人の平和っぷりはやがて遠ざかってゆく。

 綾乃の恐怖など毛ほども知らず、そんな微笑ましい会話を残して。

 そうして今度こそ、ロランとライダーは人ごみへと消えた。

 網膜に焼きついた2つの後姿は、とても殺し合いをするようなものには見えなくて。

 けれどきっとその2つの後姿も、夜になれば狩人のそれに変貌するのだろう。

 見たことはないけれど、不思議と宵闇にたたずむ2人の後姿が脳裏を掠めた。

 きっと彼らは、日常と非日常の切り替えが出来るのだろう。

 のほほんとした空気は聖杯戦争に似つかわしくない。けれど関係のない時に張り詰めていても気が参ってしまう。

 その切り替えが、きっと上手なのだろう。

 結局その日、綾乃はそのまま家へ帰ることにした。

 気分転換にはならなかったけれど、敵のマスターに関する情報が少しでも手に入ったと思えば有意義な時間ではあっただろう。

 改めて自身の体調を確認する。バーサーカーにはまだうまい具合に魔力が行き届いていないようだ。

 もう少しの休養が必要だろうと判断。まだ夕日にすらなってはいないが、少し寝よう。もしかしたら夜には動くことになるかもしれない。

 ――今度は悪夢なんて見ないように。

 布団に入ると、彼女の意識はストンと落ちていった。

 

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