たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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Quoth the Raven "Nevermore." / Edgar Allan Poe "The Raven"


断片 一

たぶん――自らの叫び声で目覚めた。

気分は最悪だった。びっしりとかいた寝汗に全身が濡れている反面、のどはひりつくほどに乾いている。まるで寝た気がしないのは、昨晩の熱帯夜に安眠できなかったせいだろうか。動悸が激しい。呼気も荒い。素肌に張り付いた寝間着の嫌らしさときたら、ひたすらに卑しいだけだ。

夢を見ていた。それも身を切るような、酷薄な夢だ。その夢の光景が眼裏(まなうら)にでも焼きついているのだろうか、目覚めてなお私の中心を強く揺さぶっている。

昨夜来の暑気やら、悪夢の残滓やら、何やかや諸々の嫌な気分をため息に変えて、人知れず私は静かに吐き出した。一息ごとに、心の内に堆積した由無し事が雲散霧消する。

高鳴っていた鼓動が徐々に静まるにつれ、乱れていた心にも余裕が生まれた。場所は自宅の寝室。乱れた夜具や、はだけた胸元が、中庭に面した窓から差し込む陽光によって照らし出されている。

襟元をかきあわせて廊下へと続く扉の方に目を向けると、偶然に通りかかったのか、妻の啓子が視界を横切った。つと足を止め、こちらに向き直る様に、私はようやく現実を取り戻した心地になる。

 

「おはようございます。うなされておりましたよ」

 

曰く、一晩中、寝苦しそうにうんうん呻いていたとのこと。

おはようと返事をして、私は布団から立ち上がった。

 

「寝れなかったのは、貴方だけではございませんのよ」

 

私の言葉にもならない寝言によって、啓子もまた眠りを著しく妨げられたらしい。迷惑をかけた、と素直に謝罪すると――

 

「冗談ですよ。お気になさらないで」

 

と、啓子がはにかむように笑った。人の機微に疎い私は、ただただ啓子の気遣いに感謝するばかりである。心なしか、後味の悪かった寝覚めの気分も和らいだ。

 

「嫌な夢を見たようだ」

「最近、とみにお忙しくされていましたものね。次のお休みには、羽を伸ばされてはいかがですか?」

 

ふむ、と私は一つ唸った。

端から見た私は、えらく生真面目な気質をしているらしい。常に物事に全力で取り組み、公明正大で、一つのミスも許さない堅物だと言われたこともある。随分な言い草だが、自らを省みてみれば、なるほど、そう思われても已む無しと納得してしまうような面もあるような気がする。

あまりに近視眼的かつ盲目的な自己分析の結果に、私は思わず笑ってしまった。

 

「何ですか。突然に。どうなさいました」

「いや。夢の内容なんだが――」

 

益体もない考えをわざわざ啓子に聞かせることもない。胸の内を開陳したところで、明晰な啓子のことであるから、いまさら何をおっしゃるやら、などと言ってころころ笑うだけではないだろうか。

話題を変えるために、私は枕元に転がっていた文庫に手を伸ばした。

 

「アミンの詩だったよ」

 

手に取った文庫は、1840年代にアルトメリア連邦の作家メイジャー・アン・アミンが著した詩集だ。邦題を大鴉と言う。推理小説やホラー小説などで名を博した作家として楼蘭皇国内でも有名であるが、その反面、詩人であることについては、あまり知られていない。近代西洋の詩歌はアミンに始まり、後の詩人達に強く影響を与えたと評されるほどだ。

 

「かつての恋人を忘れられぬ男の元に、大きな烏がノックと共に現れてこう言うのさ。“Nevermore(二度と会えない)”とね。どうやら夢で、その場面をずっと見続けていたようだ。読み途中だったから、その場面だけが再生されたんだろうな」

「恐い夢――」

 

私は、やおら啓子の手を取った。知己は啓子を指して美人だと言う。お前には勿体無いとも、また言う。確かに己には勿体無い才媛であり、今やなくてはならない存在である。

悲恋な詩に感慨でも覚えたか、私はそのまま啓子を抱き寄せた。突然のことに腕の中で啓子が戸惑っている。その仕草すらも愛おしい。

ぐっと力強く抱きしめると、とうとう観念したか、啓子が優しく私の胸に身体を預けた。そして、元恋人と――と詩について、ゆっくりと問い始めた。

 

「元恋人とどうして二度と会えないのでしょうか」

「死んでしまったからだよ」

 

詩中に登場する男は、死んだ元恋人のレノアを強く思慕するあまり、霊魂の復活を願う。しかし愛と傷心の男の元には、レノアの霊ではなく、不吉の象徴とされる烏が現れ、ただひたすらに“Nevermore”と繰り返し現実を突きつける。

大鴉とは、そんな詩だ。

 

「“二度とない”なんて、非道い話じゃないか」

 

聡明な啓子の返事はない。沈思黙考か、あるいは続く私の言葉を待っているのかもしれない。

 

「お前を失うくらいなら、三千世界の烏を相手にしよう」

 

随分と気恥ずかしい、余人には聞かせられぬ言葉だ。

だからこそ、啓子の前だからこそ、先の目覚めの時よりも、ずっと強い鼓動に、声が震えぬように努めた。いつだって静寂は平等かつ緩慢だ。

幸い、啓子は沈黙を守って、その鼓動に耳を傾けてくれた。

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