たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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幕間 からすのうわさ

編集部でカラスの噂が囁かれるようになったのは、桜の時期のことだった。社会部から花柳界の担当に異動を命ずる旨の辞令が、手元に届いた頃だから間違いはない。年度替りの人事異動ではあるが、決定に納得がいかなかったために、上司や人事部など方々に掛け合ったのも、もう三、四ヶ月も前のことになるのだ。

開け放った窓にもたれかかりながら、折原佐治は原稿の束で顔を扇いだ。発達した高気圧が東海洋上から張り出している所為で、楼蘭列島は近年稀に見る猛暑に見舞われているのだとか。壁の温度計など、久しく三十五度を下回っていない――というのは言いすぎか。

職場にこもった熱気を少しでも発散するために窓を開け放ったのだが、外気温も大差なく、風も凪いでしまっていて、気だるさばかりが増しただけだった。下界を照りつける太陽を恨めしげに仰いだ時に、折原は蒼穹を飛ぶカラスを見つけ、そして昨今、巷を賑わせている噂話のことを思い出したのだった。

曰く、人の生き胆を喰らうカラスが、皇都の空を飛んでいるらしい。何でも狙われるのは女子供ばかりで、その場で腹を割き、ついばまれるのではなく、かどわかされた後に内臓を抜かれると専らの噂だ。一度さらわれたら、それまで。生きて戻ったためしなし。そんな怪談の成り損ないのようなカラスの噂が、まことしやかに民草の口の端に上っているのだから滑稽だ。

 

――巣に持ち帰って、ヒナにくれてやるのかよ。

 

そう折原は鼻白んだ。なまじ噂の真相を知っているためか、折原は現在の状況をあまり好きにはなれないのだ。真実は、怪談でもなく都市伝説でもなく、芳原遊郭で多発している連続誘拐事件である。ふざけたことに犯行グループの連中は、被害者をさらう際にカラスに似た仮面で顔を隠しているらしい。そういった目撃談に、遊女の口伝えによって尾ひれが付き、一夜を共にした旦那衆を介して遊郭の外へと伝わり、そして外連を習合しながら怪異譚のごとき内容に変質しつつ、皇都に広まったのである。

 

「馬鹿馬鹿しい」

 

口に出さずにはいられないほどに、酷く間の抜けた話だ。なまじっか報道に身を置くためか、折原の胸の内は、忸怩たる思いで一杯である。

 

「どうした。ナニ、くさってんだよ」

「渡嘉敷。僕と担当を取り替えてくれないか?」

 

軽口を叩く同僚の渡嘉敷影光に、折原もまた冗談めかして返した。人事異動のあった春頃から事あるごとに言い続けていることだが、実のところ艶っぽい花柳界の担当よりも、渡嘉敷が所属する経済部の方が折原の目にはずっと魅力的に映る。だから半分は本音だ。

 

「良いじゃんよ。仕事で芳原行けるなんて、他所じゃできないぜ。綺麗どころとも会えるんだろ? 役得ってもんじゃないか」

「僕は嫌だ。今日の午後も行かなくちゃならんと思うだけで憂鬱になる」

 

嗚呼と折原は、沈痛な溜め息を漏らした。カラスの噂と言い、現業と言い、はなはだ不本意なことばかりだ。

ふと、カラスの噂について、渡嘉敷の意見を聞いてみたくなった。経済部の情報網では、どのように扱われているのか興味がわいたからだ。

 

「カラスの噂って知ってるよな?」

「衛生検査の職員が、芳原で行方不明になったって事件のことだろ」

 

折原は内心、安堵した。同僚が確りとした事実の認識をしていたからだ。編集部内ですらカラスの噂をさも真実のように口にするやからが多い。渡嘉敷もまた、流言飛語に踊らされていやしないかと危惧していたが、どうやら取り越し苦労だったようだ。

続けて渡嘉敷が言った。

 

「確か――古家製薬の社員なんだよな」

 

古家製薬とは、二十以上の国と地域で取得した抗生物質に関するパテントを足がかりに、創薬事業を拡大させた皇国大学発のベンチャー企業だ。独創的な創薬技術をコア・コンピタンスに、海外企業との業務提携も数多く締結し、グローバルに事業を展開している。中でも楼蘭皇国政府から支援を受けて昨年度から着手した、抗瘴気剤の研究開発は楼蘭皇国内だけでなく海外からも注目を集めていると聞く。

渡嘉敷の言うように、カラスの噂――否、芳原連続誘拐事件の最初の被害者とは、古家製薬の研究開発にも携わる人物だった。ただし細かい点を指摘するならば、かどわかされたのは一般社員ではなく取締役――技術開発責任者を兼務する女性教授であり、なおかつ厚生省医政局の現局長の配偶者でもある。官民共同で古家製薬を中心に抗瘴気剤開発プロジェクトが進められている今、醜聞を嫌忌したがために報道規制が布かれ、結果、聞くに堪えないデマゴギーとなって流布されてしまったのが現状だ。

だから折原は、気心の知れた渡嘉敷に対しても、さぁなと返答をにごしたのだった。

 

「折原ぁ。事件が発生したあの時、取材してたんだから何か知ってんだろ? 国の事業の無駄をすっぱ抜くって息巻いてた頃じゃないか」

「随分昔のことのように感じるな。でも例え知ってたとしても言わない」

「友達甲斐のないヤツだ」

「それ以前に詳しい情報なんぞ知らないよ。教えようがないさ」

 

折原は疲れたように、自分の席に腰を下ろした。三十分後には社を出発し、芳原遊郭の義朗組を尋ねなければならない。

それもまた折原の疲れの種ではあった。義朗組とは、楼蘭皇国において異質な地域となっている芳原遊郭の自衛組織である。治安の維持はもちろんのこと、万が一、芳原遊郭内で事件が発生した場合は警察機構よりも先んじた特権を元に、事態の沈静化に務めることが目的とされている。その性質上、楼蘭皇国政府から半ば独立した権限――もちろん芳原遊郭内においてのみ有効な権利だ――を移譲されているらしい。

その義朗組の顧問弁護士である妖十五(あやかし じゅうご)から呼び出しがあったために、芳原遊郭に出向かなくてはならないのだった。妖は、皇国大学に在籍していた頃に交流のあった二学年年上の先輩である。学年が上というだけで、その発言は天からの命令にも等しい。底意地の悪い妖ならば、なおさら無視する訳にもいかない。

 

空を見上げると、人を馬鹿にするように、かぁとカラスが鳴いたところだった。

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