たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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佐々木修次郎の受難 五

彼誰時に修次郎は夢を見た。遠く、地平から緩々と昇る太陽を、孤独に望む夢だ。寒いやら暑いやら周囲の気温について感覚はないが、どういった訳か、昇る太陽にだけは熱気のようなものを感じる。

さっと太陽に影がさした。

 

『太陽だからだよ』

 

どこからか発せられた正体の知れぬ声に、修次郎は根拠もなく首肯した。一抹も疑うことなく、その言いを信じたのは、どこか聞き覚えのある声だったからだろうか。

再び、何かが陽光を遮った。逆光に影深く、黒く、また近づいているのか、先よりも輪郭がいささか大きい。

 

『太陽には烏(からす)が住むと言われている』

 

ならば先から太陽に過ぎる影は、烏の飛ぶ姿だろうか、と修次郎は思った。黒い烏ならば、さぞ影も昏(くら)かろう。

修次郎の考えを裏付けるように、そう遠くないどこかで、ばさりと羽ばたく音がした。

 

『太陽とはすなわち陽の気の象徴。神代の頃、九神(ツヅラノカミ)が陽の気を集め、再生を司る金神(コンノカミ)を生み出したと言われている。そして金神は烏に顕現したとも伝えられている。教えただろう? 忘れた訳じゃあるまい』

 

学生の時分に学んだ伝承を、修次郎は思い出した。楼蘭皇国に古くから伝わる神話だったか。門隠九家の出自に関わる記述をつづった絵巻物からの引用だ。

しかし、あの者は誰だろうか。時が時だけに、薄らぼんやりとしてしまっていて、はっきりと見分けがつかない。

また、ばさりと烏が羽ばたいた。

 

『我輩の名を忘れたと申すか?』

 

ばさり。

ばさりばさり。

ばさりばさりばさり。

 

いつの間にか、修次郎の目の前に立つ男が一人いた。随分ときつい目付きをしている。こけた頬の陰気さ。表情のない口元。男の周囲を烏が飛び交っているために、風貌やらをつぶさに観ることができないが、その雰囲気はいつかどこかで知ったものだ。

烏を集(すだ)く男が、亀裂のような笑みを浮かべた。

 

『我輩の名は阿倍野誠明』

 

修次郎の不確かな記憶に、深く響く名だった。人付き合いを避けるように影ばかりを踏んで生きてきた修次郎だったが、幼い頃に慕った数少ない大人――父親の友人がそのような名だったように思う。

 

『そうそう。その悪友が我輩』

 

読心術の類だろうか、心の内で思ったことに答える阿倍野に、修次郎は若干たじろいだ。多芸な陰陽師もいたものだ、などとも思う。いや、夢であるのだから、そういった奇天烈なことも在り得ようか。

 

『烏とは不吉の象徴とされることが多い。流れ星や鳴らぬ釜、心臓のない獣、鷲と大蛇、蝕、それら古来から負の将来を告げる凶兆の一つとして、烏は語り継がれてきた。我輩もこうして死を司る烏の群れを連れているが、さて、陽の気を司る金神と相反すると思わないかね? 陰の気を集めて烏とするならば、なるほど、実に座りが良い。何とも分かりやすい考えだ。しかし事実は全く異なる。どうしたことか、陽の気を集めた金神は烏の姿をしているという』

 

随分と一方的で、説教臭い夢だと修次郎は思った。日頃からミオのような理屈っぽい人間と付き合っているから、夢の中でさえも、過去に憧れた人の口を借りて、くどくどと衒学的な言葉を喋らせてしまうのだろうか。

 

『答えは太極図にある。楼蘭の国旗にも描かれている、あの勾玉を二つ合わせたような黒白円状の図だよ。白色が陽の気を表し、黒色が陰の気を表す。思い出して欲しい。白色の陽気がもっとも極まった所に、黒い小さな点があるだろう。同じように黒色の陰気の部分にも、小さな白い点がある。これを、それぞれ陽中の陰と、陰中の陽と呼ぶ。太極とは宇宙を構成する根本原理だ。易に太極あり、これ両儀を生じ、両儀は四象を生じ、四象は八卦を生ず、八卦は吉凶を定め、吉凶は大業を生ず、とあるように、陰陽の二元から全てが生じるということを、太極図は示している。つまり、陽中陰も陰中陽も、あって然るべき点なのだ。だから別段、烏に死のイメージが付きまとおうとも、金神の神性は小揺るぎもしない。分かったかな?』

 

分からない――ということはなかった。清濁合わせたものも世には多聞にあるだろうし、神性が必ずしも純粋である必要性も感じられない。そもそも神話における神々とは、人よりも感情の起伏に激しく、時に理性的に、また時に欲深く語られている。だからこそ古来より人々は、どうか暴れてくれるな、鎮まってくれと神々を崇め奉ってきたのだ。

修次郎は、再び頷いた。

 

『さすがは佐々木のせがれだ。物分りが良くて助かる』

 

ならば――と、阿倍野が言うと同時に、一斉に烏が飛び立った。朝焼けに染まる空が、烏の黒い羽でまだらに塗りつぶされる。その朱と黒の入り混じった只中から、酷く難儀そうに阿倍野が、修次郎の足元を指差した。つられて視線を落とすが、赤茶けた大地があるだけで、忌まわしい何かがある訳でもない。

忌まわしい――そう。なぜ、そう思ったか。それは阿倍野の細い目に哀れみと、若干の嫌悪を見て取ったからだ。

 

『や、後ろだよ』

 

見るべきじゃない――そう思った時には、修次郎は既に背後を振り返ってしまっていた。胃の腑からせり上がってくる奇妙な不安に少し震えながら、無限に広がる大地と空の境目を望む。未だ濃紺の遠い空には、幾許か星辰が瞬いている。風はなく、地には砂埃もない。

そして何もないことに安堵したのも束の間、太陽を背にしたまま修次郎は足元を見てしまった。

 

陽光を受けて長く伸びる自らの影は、あろうことか烏のそれだった。

 

忌まわしいくちばし、無造作に広げられた大きな翼、漆黒の影がありありと大地に刻まれている。

ついには、かあと鳴いた。

 

『それは加茂に連なる者が持つ業そのものだ。それも了解できるかな?』

 

佐々木の家と絶縁したならば、本家である加茂とも無縁のはずだ。知ったことではない。そんなものは優秀な兄や、本家の人間が考えれば良いことであって――

そう反論しようと修次郎はしたが、しかし。

 

――Nevermore.

 

修次郎の口から出た言葉は、なぜか『Nevermore』という瑛単語だけだった。人の言葉でも、ましてやかあと鳴くでもない。

混乱する修次郎は、再び昇る太陽の方に向き直った。しかし烏は既に飛び去ってしまっている。阿倍野の姿もまた、見当たらない。

ただ熱気を孕んだ太陽光だけが、修次郎を焦がすように照らしていた。阿倍野の言葉が思い起こされる。太陽の陽気を集めて生まれた金神。その姿は烏だと言われている。自らの足元には、黒い大烏の影がへばりついていて――

 

「Nevermore!」

 

妙な寝言と共に、修次郎は床から跳ね起きた。粗末な窓から差し込む太陽の光が、修次郎の上半身を熱している。夏の日差しは、朝方といえど豪く厳しい。

修次郎は全身にかいた寝汗をそのままに、ばりばりと頭を掻き毟った。

 

 

*

 

 

「随分なぷれいを楽しんだようだな」

 

昼過ぎにねぐらに現れた龍井に向けて、修次郎はつとめて無表情にそう言った。龍井の身体のあちこちに散見できる裂傷や擦過傷、うっ血したあご先、口の端にも血の滲む傷跡がある。被虐趣味の性向があるとは聞いたことがないが、はてさて。

 

「まあな」

 

肯定とも否定とも取れる表情で言いながら、龍井が小さなきんちゃくを放って寄越した。真実に激しい情事があったのか、あるいは会話を打ち切るために有耶無耶にしたのか、どうにも判じかねる返事だ。いずれにせよ無為な詮索は野暮天か。

修次郎はきんちゃくを拾い上げた。女物の香袋のような作りだが、果たして開いてみれば覚えのある香りがする。

思い至るよりも先に、龍井が説明を付け加えた。

 

「今日の駄賃だとよ」

 

駄賃という単語に、修次郎は合点が入った。香りにどこか覚えがあると思ってみれば、ミオが日ごろ身に付けている香水ではないか。その香りに包まれるように、きんちゃくの中には錬紙幣――楼蘭皇国の通貨――が折りたたまれている。

 

「ミオの所に寄ったのか。どうだ。昼飯でも食いに行かないか?」

「悪いが一人で行ってくれ」

 

食欲よりも睡眠欲が勝っていると、龍井の表情が言っていた。

 

 

*

 

 

さんさんと輝く太陽を、修次郎は恨めしそうに見上げた。外に出てから数分と経っていないにも関わらず、既に鼻の頭には玉の汗が浮かんでいる。

熱を帯びた溜め息を、修次郎は吐き出した。

昼の時間ゆえ、龍井を食事に誘ったが、実のところ、修次郎もまた食欲を欠いていた。ラヤード共和国を出てから続く疲労感が、食欲を阻害しているのだろうか。昨夜来、食事らしい食事を取っていないが、どういった訳か、口に何かを入れる気にならなかった。

 

――盛り蕎麦だな。

 

修次郎は、たっぷりと薬味の効いた蕎麦を思い浮かべた。冷たい盛り蕎麦ならば、咽喉を通るような気がする。

夜のきらびやかさが嘘のように寝静まった昼日中の芳原遊郭を、蕎麦を求め、ふらふらと当て推量であっちこっちと歩き回った。人気のない裏通りから表通りへと出ても、太陽の下とあっては、妓楼の静けさに変わりはない。往来に見える人影といったら、修次郎の他に打ち水をする牛太郎くらいなものだ。力強く響く蝉の音が、返って空しく聞こえるのは、大通りすらも閑散としているからだろう。

軒先を閉め切った店子を横目に眺めながら、修次郎は芳原遊郭の表通りを北上した。

通りの突き当たり、揺らめく陽炎の中に、芳原遊郭でも一、二を争う大店『紅屋』を見つけた頃、修次郎の耳朶に触れる声があった。それも聞き知った声だ。

 

「センセー。センセー。ドコ行ッタヨー」

 

反射的に、しかし自覚なく、修次郎は顔つきを強張らせた。片言の楼蘭語、周囲をはばからない大声、そして『センセー呼ばわり』、見ずとも分かる。

そして、妓楼『紅屋』の方角から猛烈な勢いで迫り来る砂埃を見て、修次郎は諦観に暮れた。逃げる時間もなくパトリシアと遭遇すると確信してしまったからだ。

 

「Oops! ヘイ、修次郎。グダフタヌーン!」

 

はたして修次郎の眼前で、パトリシアが音を発てて急停止した。適うことならば素通りして欲しかったが、澄んだ瞳で注視され、さらには元気良く名指しで声をかけられたあっては、知らぬ顔の半兵衛を決め込むこともできない。

結果、修次郎は当たり障りのないことを言って、お茶を濁そうとした。

 

「パトリシアさん。ここは女人禁制ですよ」

 

芳原遊郭の領域に女性が足を踏み入れること、それはすなわち遊女に身をやつすことを意味する。言い換えれば、身売り以外を目的とした女性の見返り大門の通行が、硬く禁じられているということだ。もっとも規格外なMAIDにしてみれば、芳原遊郭と外界を隔てる壁など、あってなきがごとしというものかも知れないが。

案の定、パトリシアが女人禁制という言葉に、反応を示すことはなかった。

 

「ソンナコトヨリ修次郎。ココデ会ッタガ百年目。武芸館行コーゼ」

 

かくして蕎麦を諦め、再び楼蘭武芸館へと向かうことと相成った。

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