楼蘭皇国は漬物の臭いがすると聞いたことがあったが、まさしくその通りだと佐々木修次郎は思った。以前は好んで口にしていたようにも思うが、今となっては胃の腑にぬるりと満ちるような、あの独特の醗酵臭がいかにも鼻につく。一度気にしたが最後、見て見ぬふりも適わぬ。だからと言って始終、鼻をつまんでいるわけにもいかない。その内に気にもならなくなるだろうなどと高をくくり騙し騙しに息をするが、風土のまったく異なる地――ラヤード共和国での生活に慣れた体が拒むのか、生理的嫌悪感がぞわぞわとわき立つ。
ましてや船酔いが酷い。
初めての船旅ではなかったが、何日も波に揺られる生活を強いられたのは、修次郎にとって今までにない経験だった。せいぜいが日帰り程度でしかなく、一昼夜以上の船上生活を過ごした試しがない。ラヤード共和国から楼蘭皇国への長い航路は、修次郎の脆弱な心身を疲弊させるには余りある長さと言えた。
くたびれた身体を引きずるように修次郎は暗い船室から這い出て、覚束ない足取りで立ち上がった。しかし腰を上げたは良いが、いかんせん今の修次郎の頭は状況を把握するにはあまりにも回転が鈍く、ただ漫然と立ち尽くすことがやっとだった。
「どうした。修次郎」
忘我の境を漂う修次郎の意識は、同居人にして旅の道連れである緑龍井(リュウ・ロンジン)によって引っ張り上げられた。特殊MAIDなどという頑健な体躯に、旅慣れた経験を併せ持つ龍井を、修次郎は斜に見つめた。龍井の目には、さぞかし恨めし気に映ったのではあるまいか。
「――何で陸路じゃないんだ」
「俺とミオの足の手配ができなかったんだ。しゃーねーべ」
「これだから社会不適合者共は」
「お前が社会に適合しているとは知らなんだ」
船旅の疲労やら、龍井の皮肉やら、何やかや諸々の不平不満をため息に変えて、いかにも大儀そうに吐き出した。そうして身軽になったつもりで修次郎は久しぶりの故郷の土を踏んだ。若干、漬物の酸い臭いが増した気がした程度で、一抹もセンチメンタルな情動などない。
何年来かの帰郷は、たったそれだけで果たされた。
さしたる感慨もなく、むかつく腹をさすりながら弱々しく下ろした足を眺めた。影が濃い。夏特有の照りつける太陽の仕業だ。
高温多湿という楼蘭皇国の夏の気候もまた、修次郎の弱った体調を容赦なく責め苛んだ。真夏の晴れわたる空の清明さは、日陰者然りとした修次郎の目には、いささか眩し過ぎる。
不意に龍井に脇を小突かれた修次郎は、たまらず前につんのめった。
「あ、危ないだろうが」
「呼んでんぞ」
あっちこっち彷徨っていた視線を、龍井が示す方に向けた。五間ほど先に積まれた旅の荷物の前で、ミオ・トーンライムがちょいちょいと手招きをしている。龍井同様、ミオも一つ屋根の下で寝起きを共にする同居人だ。なお、二人ともお世辞にも立派とは言えない経歴――簡単に言えば犯罪歴だ――を持っている。陸路を諦めたのも、そういった背景による所が大きい。
頼りない足取りで、修次郎はミオの元へと歩み寄った。
「アタシはこれから龍の字をつれて加茂を訪ねる。夕方まで、どこぞで時間をつぶしておくれ」
ああだか、うむだかと、修次郎は生返事をして、かたわらの木箱に腰を下ろした。ぎしりと軋んだのは、果たして木箱か足腰か。自然と猫背になる。
落とした視線の先、尻っぺたの影に“骸”の字が見えた。今回の渡楼の目的は加茂との共同研究だと聞かされていたために、修次郎は研究に死体でも用いるのだろうと短慮にも思った。深く考えようにも、長い船旅で弱ってしまった肉体と精神がそれを拒んでいる。ミオのことであるから、ヒトの死体だろうと眉一つ動かさずに弄繰り回すに違いない。
少しだけだが、さらに気分がふさいだ。
「何だい。顔色が悪いよ。船酔いかえ?」
「それだけなら何ぼかマシだ」
「そんなに清一郎に会うのが億劫かい」
ミオが口に出した“清一郎”の名に、修次郎の一切合財が停止した。楼蘭皇国を飛び出してから長い間、見ぬように、考えぬように、つとめて忘れるように心がけていた名だ。しかし修次郎の爛れた心のひだにびったりと張り付いていて、どうにも拭えず、ある種のタブーとして極めて粘着質に作用し続け、そして今日に至る。
佐々木清一郎とは、修次郎の兄だ。
「顔くらい見せに行っておやりよ」
「――余計なお世話だ」
沈黙も幾許か、修次郎はしどろもどろに拒絶――逃避した。
二歳年上の清一郎が、代々、佐々木家頭首に受け継がれてきた“宇陀(うだ)”の二字を継承したのは、修次郎が楼蘭皇国から逐電する二ヶ月前のことだった。両親の夭折(ようせつ)を受け、異例の若さで佐々木家を束ねる長となった清一郎には、一族郎党から大きな期待が寄せられた。出来の悪い次男とは違って、すこぶる才気に溢れていたからだ。
「清一郎はオマエさんと違って、良くできたからね。何よりも顔が良い。修の字とは大違いだ」
修次郎は返事の代わりに、ふんと鼻を一つ鳴らした。
清一郎が宇陀の名を継いだ当時、佐々木家は父親である前頭首と妻――修次郎の母親の死に揺れていた。父親は、内務省衛生局を前身に設立された厚生省の医政局長という要職に就いていた。医政局長というポストを足がかりに、本家のみならず、ゆくゆくは門隠大社内での発言権を高めるなどという夢物語を、佐々木に連なる大半の人間が抱いていたのだから実に滑稽である。そもそもが門隠九家の末席を汚していた加茂家から、さらに分かたれただけの血筋。身の程をわきまえずに業突く張りな、と修次郎は思ったものだ。
一族の妄執を一身に受け、気難しい表情をしている清一郎の顔を、修次郎はぼんやりと思い浮かべた。
「昔馴染みの店にでも行ってるよ」
「それも良いだろうさ。 ヤサの場所は分かってるね?」
修次郎は項垂れるように首肯した。
*
修次郎は当てもなく楼蘭皇国の首都倭都をだらだらとうろついた。ミオに向かって“馴染みの店にでも”などとは言ったものの、実のところ、思い出したくない過去を引き合いに出されたことに対する反意を込めたまでのこと。昔を懐かしむ特別な場所に心当たりがあって言った訳ではない。
――異国だ。
かつて見知ったはずの町並みは、銀幕にうつる映像のように作り物めいていて、どうにも現実感に乏しく修次郎の目には映った。生まれ育った郷里であるはずなのに、まったく土地勘が感じられないのはどうしたことだろうか。
途端に、強い疎外感が胃に満ちた。あれやこれやのしがらみから逃げ、その果てに自ら国を捨てたのだから、今さら舞い戻ってきたところで深い繋がりなど見出せるはずがない。最早、楼蘭皇国にとって、修次郎は異邦人なのだ。居場所など、とうの昔になくなってしまったに等しい。
パラノイアのように肥大する思考に、修次郎はため息を漏らした。長く、深く、ため息は重ければ重いほど惨めだ。
ふと立ち止まった。
ぼんやりと足を止めたまま、右を見て、左を見て、視線を伏し、やおら頭をかきむしった。
「どこだ、ここは」
そうして、ようやく修次郎は、自分が迷子になったことに気付いた。モダンなビルヂング、雑踏、喧騒、数年前に修次郎が見限った現実と重なるものが、何一つとしてない。
本当にここは楼蘭皇国なのか――と修次郎は一抹の疑問を覚えた。一度そう思ってしまうと、往来に溢れる人々が異人のように見えるから滑稽だ。西洋文化の流入によって、著しい近代化を迎えているとは耳にしていたが、これほどの隆盛とは夢にも思わなかった。有為転変などという言葉が一瞬間だけ脳裏を過ぎるが、しかし、それで納得がいくかと言えば、それはまた別の話だ。失ったものの大きさもまだまだ判じかねる。ただ寂寞の風が吹くのみだ。
そんな風に孤独感が増した時だった。
「センセー!」
人ごみの中から、奇天烈な呼び声が上がった。
修次郎の頭に真っ先に浮かんだのは、嗜虐的に微笑むミオの顔だった。ミオが修次郎を小馬鹿にする際には、決まって“センセー”と呼ぶからだ。他にそのような皮肉を言う輩は、修次郎の周りにはいない。
だから、行き先を見失った修次郎は、声のした方へと雑踏をかき分けて行った。道行く人と肩をぶつけ、裾を引っ掛け、すいません失礼しますなどと謝りながら、間隙を縫うように進む。
こけつまろびつしながら声の主の前に躍り出ると、開口一番に修次郎は言った。
「ミオ! こんなところで大声で呼ぶんじゃ――」
威勢良く出た声は、しかし尻すぼみに消えた。周囲の注目が集まる中、発したばかりの怒声に対する気恥ずかしさよりも、想像と異なる状況に面喰ってしまったからだ。
「センセー?」
そこにいたのはミオではなく、着物に身を包んだ金髪碧眼の西洋人――アルトメリア人だろうか――だった。否、ミオとてもアルトメリア連邦出身である。決定的に違ったのは、身長やら体付きやら、つまりプロポーションだった。ミオはこんなにも肉感的ではない。
「ええっと、ああ、あの」
永の異国生活をまったく活かせぬまま、修次郎はしどろもどろに慌てふためいた。ラヤード共和国で習得した瑛語が、ここぞという時に使えぬのだから不甲斐ない。
だからか――何か話さなくてはならぬ――などと意味不明な強迫観念に囚われ、自己紹介やら挨拶やらを忘れた結果、失礼にも初対面の相手に誰何した。
「その、ふ――Who are you?」
「Oh. My name is Patricia. I'm MAID of United States of Artmaria. I can speak Loulanese...楼蘭ノ言葉ダイジョブデス」
「これは失礼しました。佐々木修次郎と――メード?」
「イエ~ス」
天真爛漫に微笑むパトリシアが握手のために右手を差し出したが、メードの一言に修次郎は握り返す前に手を止めた。アルトメリア連邦所属のメードというならば、家政婦や女中の類ではなく、十中八九、有核人種MAIDの類に相違ない。果たしてこの出会いは利か害か、面倒事に巻き込まれたような予感を覚えつつ、修次郎は恐る恐るパトリシアの手を握り返した。