たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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佐々木修次郎の受難 八

突然の浮遊感に、修次郎は当惑した。地面が消失でもしたか、どうにも両足の踏ん張りが効かない。四肢を投げ出してもがいてみても、無様にばたばたと空を切るだけ。それ以前に、暗い霧に視界が閉ざされていて、自らの置かれた状況すら分からないという始末なのだから、いかんともし難い。

混乱しながらも、直前の記憶が想起された。

 

「ミオが――死んだ」

「これ修の字。人のことを勝手に殺すでないよ」

 

目の前で凶刃に倒れたはずのミオの声に、修次郎の思考と、ばたつかせていた足が止まった。

暗転した視界はいくらも見通せぬが、耳は生きているようだった。霧が耳をふさぐなどと聞いた試しはないが、こうも奇態なことばかり頻発すると、さすがに常識の方を疑いたくもなる。目も見えぬのだから、声の主の生存を疑ったとて何が不思議か。

 

「――死人に口無し」

「だから死んじゃいないって」

「仕込み刀で刺されたんだから、人間らしく死ぬが道理ってもんだ」

 

暗い霧の中から、白い小さな手が修次郎の鼻先に突き出された。論より証拠という意味だろうか、つっけんどんに出されたその手には、人の形に切り抜かれた紙切れが握られている。

少しだけ理性が働いた。

 

「――式神だったか」

「その通り。早合点するでないよ」

 

ミオの手から人形(ヒトガタ)の紙切れ――依り代が、はらりと投じられた。真っ白い紙切れが、暗い霧をはらいながら、緩々と遠ざかっていく。

視界の開けた下方には、やはり随分と低い位置に地面――武芸館の大舞台があった。

 

「確か、俺は観覧席にいたはず」

「ヨーダーに拉致られそうになってたから、呼び寄せたんだ」

 

ミオの言いに、修次郎は顔をしかめた。地に立っていた人間を、距離の隔たった中空に、一瞬で移したということだろうか。もし、そういう奇態なことがまかり通るならば、『呼び寄せた』の一言で片付けられてはたまらない。それでは、まるで――

 

「空間転移じゃないか」

「うん。そうだね」

 

開いた口がふさがらなかった。身も蓋もないとはこのことだ。常識の通用しない社会不適合者だとは知っていたが、よもや、その常識を逸脱しているとは、これっぽっちも思わなんだ。

オカルトの黒い霧の向こう側で、ミオが小さく笑った。

 

「方違えを繰り返すことで百鬼夜行の往く異界に通じることができる。現世(うつしよ)から常世(とこよ)に渡る訳だから、傍からはテレポートのように見えるだろうね」

「オカルトがSFを語るな」

 

凶事のある方角を避けて通るのが方違えだったか――などと思いながら、修次郎は精一杯の嫌味を返した。

 

「ヨーダーから助けてやったのに、酷い言い草だね」

「助けた? そもそも狙われてるのは、お前の所為じゃないのか?」

「修の字。お前さんが狙われた理由は、残念ながらお前さんが門隠加茂の分家筋だからだよ」

 

血縁のしがらみに、修次郎は沈黙した。

修次郎の脳裏に真っ先に浮かんだのは、兄の清一郎の存在だった。公明正大を絵に描いたような清一郎のこと、行方知れずの弟――修次郎を躍起になって探しているに違いない。自ら一方的に実家と絶縁した修次郎にとってみれば、清一郎のそういった気質は、ただのありがた迷惑でしかない。放っておいてくれと切に願うばかりだ。

そんな修次郎の内心を読み取ったか、ミオがしたり顔で笑った。

 

「お前さんの保護を周知したのは、加茂のご老体だ」

 

予想外だった。業突く張りで有名な加茂の頭首が、たかだか分家筋の次男坊の保護を申し出ているなどと、生半には信じ難いことだ。百歩譲って行方不明になったのが清一郎だったならば、分からないでもない。才気に溢れ、周囲からの覚えも良い兄の清一郎ならば。

ミオの声がする方に、修次郎は懐疑の目を向けた。

 

「何で本家が?」

「理由なんざ、アタシも知らないよ。ああ。ちっとも知らないさ」

 

はぁ、と修次郎は短く息をもらした。

嘘を隠そうともしないミオの白々しさは、いつだって正直だ。一体全体どのような顔で笑っていることやら。

果たして、妙に高揚したミオの声が、わずかに晴れた霧の向こうから聞こえた。

 

「予能く無有れども、未だ無無なること能わず、其の無無を為すに及びては、至妙何に従りて此れに及ばんや」

「何だって?」

「わくらばの毒に朽ちよ、あららぎよ」

 

最早、聞く耳すら持ち合わせていないようだった。

ミオと一緒にゆっくりと下降しながら、修次郎は自らが巻き込まれている面倒事について考えた。どのようなリスクがあるのか、敵は誰で、味方は誰か。今後の身の振り方等々、あれかこれかと考えたのだった。

が。

霧が晴れてみれば、結論までもが雲散霧消していたのだった。

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