ミオは昂ぶっていた。恋する乙女のように胸が高鳴る。ともすれば盛りの付いた少年のように下っ腹がうずく。甘い甘い智慧の実の味に、自然と意気が揚がるのだ。
いつかやってみたいと夢にまで見た実験が、そう実験を行えるだけの素地が、今こそ武芸館にあるのだ。時は満ちた。条件は整った。後一押しするだけで劇的に場が動く環境が目の前にあるのだから、いやが上にも期待が高まる。
――今專言道、則無不在焉、然而能得本知末者、其唯聖人也。
――今學者無聖人之才、而不為詳説。
――則終身顛頓乎混溟之中、而不知覺寤乎昭明之術矣。
しかし、つとめて理性的であるように心がけなくてはならない。右も左も敵ばかり、八方塞がりのただ中に足を踏み入れようとしているのだから、いたずらに逸らず、至極冷静な態度に務めることが肝要である。安易に下心を露呈しては、万端の準備を配していたとしても事を仕損じるのが関の山ではないか。
――万物至衆。
――故博為之説、以通其意。
――不可勝數、然祭者汲焉、大也。
だから舞台上に降り立ってなお、ミオは声よりも先に身体を動かしたのだ。声は、言葉は、実に魔的だ。口から出た途端に一人歩きを始め、変質し、仕舞いには言った本人に返ってくるのだから気をつけなくてはならない。返ってきた言葉――言霊は、時に行動を律するのだから、口は禍の元とは至言である。
その点、行動は良い。一挙手一投足の意味が極端に少く、かつ伝達率も輪をかけて低い。反面、自らが覚える現実感は多大なのだから、内心を落ち着けるには打って付けだ。
――睹凡得要、以通九野、徑十門、外天地。
――其於逍遙一世之間、宰匠萬物之形、亦優遊矣。
――曼兮桃兮、足以覽矣、藐兮浩兮、曠曠兮、可以遊矣。
ミオは、浅く一息吸い込んで、深く長く吐き出した。
そうして後、静寂の武芸館を見渡すと、ずいと手を上げて、その場に居合わせたMAID及びMALEを数え始めた。
「ひとふたみよ、いつ、むう、なな、や――随分といるね。数えといてよ」
「ここは、え、何を?」
「だからMAIDの数を」
足下を這って困惑する修次郎を、ミオはほれほれと手で掃うように急かした。ぶつくさと文句を垂れながらも、のろのろとMAIDを、否、エターナル・コアを数え始めるのだから、いかにも修次郎らしい。MAIDの特異な服装を頼りにしているのか、近眼に眉を寄せながら勘定に指を動かしている。
修次郎を一瞥した後、ミオは龍井に向けて満足気に微笑んだ。
「バルベロや。ご苦労だったね」
「何しに来やがった。とっ捕まっても知らねぇぞ」
「そりゃお互いさ――」
お互い様だと言おうとしていた口を、ミオは半ばでつぐんだ。横から会話に割り込むように、月光の青白い刀身が、喉元に突きつけられたからだ。
「ハローエノルミテ・モワ。知ッテマースカー? ココデ会ッタガ、夏ノ虫ッテ言葉」
「やあ。ライトニング。それを言うなら『飛んで火に入る、百年目』だよ」
「オウ。超ドウデモ良イ」
ミオは、アルトメリア連邦を追われた日のことを思い出した。アルトメリア大陸最西端の海岸都市――現在ではGによって既に占拠されている土地だ――で、パトリシアと対峙した時のことである。もし、この命を絶やすならば、月の光のようなパトリシアの剣が良いなどと思ったものだ。いずれにせよ、未だ死期は遠い。
自然と笑みがもれた。
「すぐに人を信じちゃいけないよ」
「シャラップ。話ナラ豚箱デ聞イテヤルデス」
「つれないね。実に残念だ」
心底、残念だった。可能ならばパトリシアと龍井の決着を、この場で付けさせようと考えていたのだが、どうもそんな状況ではないようだ。
溜め息を一つ、ミオはおもむろに月光の刀身に人差し指で触れた。しかし触れるものを悉皆焼き切る月光に、指の腹を押し付けてなおミオの表情は歪まない。痛みをこらえているのか。
パトリシアが眉をひそめた。
「ライトニング。不思議に思わないかえ? 何で敵陣のど真ん中に、アタシは姿を現したのか。バルベロは馬鹿だから仕方ないとして」
「誰が馬鹿だ。誰が」
ミオは、口を挟んだ龍井には目もくれなかった。
ただ、月光の刀身に押し付けていた人差し指をパトリシアに見せ、そして何事もない風に言葉を続けた。
「ごらんよ。お前さんの自慢の月光ですら、今やアタシを傷付けることすらできない」
小さな傷跡すら、ミオの指にはなかった。今まで過酷な労働を経験したことがないような、真っ白く柔らかい質感の女性の指が、そこにあるだけだ。最前まで月光に押し付けていたはずなのに、わずかに爛れてもいない。
疑念に眉根を寄せるパトリシアの表情を読んで、ミオは機先を制した。
「ちゃんと触っていたさ。ほれ」
今度は月光の刀身を、がっしりと握り締めた。子供のように小さなミオの手に、傍目からも力が込められていることが分かる。
そして、絡みつくようなねっとりとした手付きで、月光を上下にしごいた。それにしても、いかがわしい所作の最中、痛みに涙を滲ませる素振りもなければ、歯を食いしばるような様子もない。平気の平左といった顔付きで、青白くそそり立つ刀身を、幾度となくミオの華奢な手が往復する様は、どこか恍惚感に満ちていて酷く倒錯的だ。
「何度でも言う。アタシを傷付けることは不可能だ」
そう言って、月光から手を離さぬまま、ミオは、床に平伏すようにしてMAIDを数えている修次郎を見下ろした。
「いくつだい?」
「七十といったところか」
「全六回戦のトーナメント。ただのヒトが幾らかエントリーしてるとしても、シード枠や警備を考えれば、うん、妥当なトコか」
礼くらい言えだ何だと騒ぐ修次郎の文句を、先の龍井の横槍同様に、ミオは無視した。
「さて、ライトニング。問題だ。アタシがこの場にいる理由は? 月光でアタシを斬れない理由は? それと、もう一つ。どうして他の連中は、さっきから黙っているんだろうなぁ? 指でも咥えているのかよ」
くしゃくしゃに顔を歪めて笑ってみれば、ようやく違和感に気付いたか、パトリシアが反射的に周囲を見回した。最前と同じ位置に立つ血まみれの白々朗。少しだけ立ち位置を変えた程度の他MAID達。そして観覧席から舞台袖に移動したヨーダー。そのヨーダーが舞台に手を付いて平伏している。小刻みに震えるか細い腕で上体を支え、あぶら汗のにじみ出た禿頭(とくとう)を擡(もた)げて、どうにかこうにか鋭い目付きで見返すことがやっと。見れば、他のMAIDも似たような体で、縛り付けられたかのように、その場に足止めされている。
勢い良く振り返ったパトリシアが、烈火の形相で叫んだ。
「ナニヲシタ!?」
「ライトニング。問いに問いで返すかよ。それがヨーダーの教えか」
「ドウデモイイ! ソンナコトハ! センセー達ニ、ナニヲシタ!」
ミオは真っ直ぐにパトリシアを見詰めた。円を描く青い月二つ、パトリシアの双眸は過日のそれと変わりない。いつだって純粋で、かつ澄み、対する己が穢れを射抜いてくれる。
嗚呼。
胸が鳴りやまない。
下腹部が熱い。
たまらずにミオは発奮した。
「アハ――則然而為火!」
果たして、ミオの哄笑から火炎が生まれるなどと、誰が想像しただろうか、指向性を持った巨大な熱量がパトリシアを強襲した。