たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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佐々木修次郎の受難 十

肝が冷えた。そして、大気が震えたように感じた。

黒衣の男――イーヴィによれば、カ・ガノ・ヴィヂと言う名の盲目のプロトファスマらしい――が相好を崩した瞬間に、確かに修次郎はそう感じたのだった。角が生えた訳でもなし。牙を剥いた訳でもなし。ただ、にやりと笑っただけにも関わらず、雰囲気が一変したようだった。

 

――恐い。

 

今や、修次郎の心は、恐怖一色に塗り潰されていた。過去に味わったどんな不安や絶望よりも、カ・ガノ・ヴィヂの放つ気配の方が、ずっと強く戦慄を誘う。粘性の強い怖気が、心臓にべったりと張り付いたかのようだ。

そして、ようやく気が付いた。大気が震えたのではなく、修次郎自らがおののきに身体を震わせていたということに、ようやく気付いたのだった。

 

――恐い。

――逃げたい。

――嫌だ嫌だ嫌だ。

 

しかし、心の内で肥大する忌避感とは裏腹に、蛇に睨まれた蛙のように、一切の身動きが適わなかった。足は震え、腰はすっかり抜けてしまっていて、逃げようにも逃げられない。そんな無力な人間を嘲笑うかのように、カ・ガノ・ヴィヂが紙巻煙草の紫煙をくゆらせている。

ふと視界の片隅で、修次郎は奇妙な光景を捉えた。

観客席の一角で、赤い花が咲いたように見えた。赤く咲いた傍から果敢なく散るからに、さながら彼岸花か桜のようだ。いやしかし、うねり、観客席をさらい広がっていく様子は、花よりも真っ赤な波といった方が近いか。

 

――血、か?

 

修次郎の目に映ったものは、目の周りを血に濡らした女だった。大量の吐血に戸惑っている男だった。内出血に全身を赤く腫らし泣き叫ぶ子供だった。得体の知れぬ出血が、高濃度の瘴気に暴露したことによる重篤な中毒症状だと気付いたのは、観客席の半分以上が赤く染まった頃である。

知らず、低い呻きが漏れた。

今や人類は、万物の霊長の座を、別の生物に明け渡したのだった。脆弱で愚昧な人類に残された手立てなど、新しい霊長の後塵を拝する他ない。なす術もなく次々と一般人が瘴気に倒れたのが良い証左だ。

今度は短く修次郎は呻いた。そうして傍らに立つイーヴィを見上げた。イーヴィとてMAID、案の定、常日頃の微笑みをそのままに、この異質な屍山血河の状況を涼しげに眺めている。

ふっと、MAIDに対する薄気味悪さに、眼が眩んだ。口を利くのだから相互理解も可能かと、どこかで安穏に思っていたのだろうが、よくよく思い返してみれば華奢な体躯に見合わぬ力を宿すMAIDなのだ。

人間とは異質な存在なのだ。

背筋を冷たいものが伝った――瞬間に、イーヴィが視線を下ろした。不意に目が合い、ぎくりと首がすくむ。

 

「舌、噛まないようにね」

 

反応する間もなく、再び襟首をつかまれて、修次郎は居場所をその場から観覧席の一角へと無理矢理に移された。上下が逆さまになったかのような慣性に、目が白黒となる。置き物を扱うかのような、おざなりな扱いだ。

しかし、舞台上の光景を目の当たりにして、さすがに目が覚めた。

 

「何だ――あれは」

「永子線バーストって言ってたっけ」

 

光が散乱していた。天文学的なエネルギーを孕んだ発光体から、幾筋もの破壊的なビームが溢れ出ていた。標的はカ・ガノ・ヴィヂなのだろう、光が着弾する近傍を真黒の影がぬらぬらと蠢いている。

まるで闇を駆逐するために、光が生じているようだった。

舞台に目を奪われている修次郎を放置して、イーヴィが見知らぬ背中に声をかけた。

 

「助かったよ。ギョウブがいて」

 

修次郎は、イーヴィの言葉の先を追った。姿勢良く立つ長身痩躯の女性の後ろ姿が、そこにある。

ギョウブと呼ばれた女性が、返事もせずにちらと肩越しに振り向いた。女性には珍しい短く刈り込んだ髪型、縁なし楕円の眼鏡、その奥の冷ややかな瞳の色、ミオとは違ったインテリゲンチアな雰囲気を出している。

抑揚なくギョウブが口を開いた。

 

「私がいなかったら、どうするつもりだったの?」

「走って逃げた、かな」

「全く――失礼しました」

 

溜め息交じりにイーヴィと会話を交わすギョウブが、途端に姿勢を正して修次郎に向き直った。

 

「刑部(ギョウブ)と申します。はじめまして」

 

はぁ、と了解しているのか判然としない言葉を修次郎は返した。

 

「現在、武芸館には高濃度の瘴気が充満している上に、ご覧のとおりミオ様が戦闘を始められました。大変に危険ですので、私の傍を離れぬようお願いします」

 

嗚呼、と無為に溜め息が漏れた。物腰からギョウブなる女性もまたMAIDであると、修次郎はただちに悟ってしまったためだ。観覧席の大勢の一般人が出血死した現状、『傍を離れるな』などと勇猛な発言をできることが好例である。元より、人格の破綻したミオを、『様』付けで呼ぶなど、人でなし以外の何者でもない。

ギョウブが正体をさらすように、背後から迫った永子線バーストのビームを、光の盾をもって防いだ。

 

――やっぱりコイツも。

 

落胆する修次郎の脇に、舞台の上で戦っていた――パトリシア達と乱痴気騒ぎをしていた?――デュベルが降って現れた。ギョウブが展開する光の盾の後ろに回ったというべきか、さしものDPMaも高エネルギーの渦巻く只中からは逃れてきたと見える。

 

「ヨーダーに逃げられちゃったわ」

「あそこにいるの、そうじゃない?」

 

イーヴィが言った。鎧に軋む右腕をすっと伸ばし、対面の観覧席を指し示している。釣られて目を向ければ、倒れた人を助け起こしたり、胸元をまさぐったりしている人影が見える。前者がパトリシアで、後者がヨーダーか。

デュベルが微笑んだ――ようだった。そして、ギョウブの真後ろに進み出た。

 

「ねぇ。大変じゃない?」

「いいえ。問題ありません」

「無理しない方が良くない? デュベルと交代しなよ」

「余計なことを言わないで。無理なんか、してないんだから」

「強がっちゃって。ギョウブ。貴女のことだから、私の陰陽鏡も持ってきているんでしょう?」

「や、どこ触ってるんですか!?」

「どこって、ねぇ?」

「いや、ねぇっていうか。お楽しみのところ悪いんだけど、防御に専念してよ」

 

女三人(?)寄れば姦しい――修次郎は、MAID三人に囲まれて心を閉ざしながらも、どこか妙なもので、そんなことを思った。 舞台上では、未だに光と闇が錯綜している。

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