たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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断片 二

一日の仕事を終え、私は独りオフィスにいた。人気のない職場はどこか薄ら寒く、気だるい雰囲気に満ちている。

厚生省の内部部局である医政局が、私の職場である。内務省から分離して厚生省が新たに設けられたのが1937年。歴史の浅い部署だが、楼蘭皇国における医療を一手に所管するためか、局長の椅子は必要以上に沈むものが設えられている。

私は、その局長の椅子に深々と腰を下ろし、束の間の休息に目を閉じてひたった。

両親が他界して、早数年が経過した。瞬く間に過ぎ去ったようにも感じるが、しかし、多くのことが変化した。激動する世界情勢はもちろんのこと、身の回りにおいても大なり小なり変わったことがある。

亡き父の後を継ぐように、私は医政局の局長に就任した。門隠九家の一角を担う加茂家の後押し――我が佐々木家は加茂の分家筋にあたる――があったからこその人事ではあるが、医療関係の技官トップという席は三十半ばの私にとっては、いささか荷が勝ち過ぎのきらいがあった。しかし、だからと言って家をつぶす訳にもいかぬ。また本家の大恩にも、報いなければならない。せめて無様は晒すまいと襟を正し、がむしゃらにまい進してみれば、弟が理由も告げずに失踪していた。恥ずべきことだが、私は弟が姿をくらまして一週間が経ってなお、責務と仕事に頭を悩ましていただけだったのだ。知らなかったなどと言って、何の言い訳になろうか。調査員からの報告によると、弟は犯罪者と共に海を渡って楼蘭皇国を出奔したらしい。その後の足取りも杳として知れない。

 

「Once upon a midnight dreary, while I pondered, weak and weary, Over many a quaint and curious volume of forgotten lore―― While I nodded, nearly napping, suddenly there came a tapping, As of some one gently rapping, rapping at my chamber door――」

(超訳:死んだ元カノに未練たらたらな男が自室で独り、ベッコリへこんだり、ウトウトしたりしてたら、部屋の扉をノックする音に起こされた)

 

アミンの詩が口をついて出た。昨夜の悪夢は、失った家族のことを想ったがゆえかも知れない。たとえ鬼籍に入ろうが、行方知れずになろうが、数多くいる親類縁者の中でも、色濃く血を分けた両親や弟は別だ。その想いが詩中にあるように、夢の扉を叩き、烏の姿として顕現したのかも知れない。

 

コツコツ――

 

不意に扉をノックする音が、局長室に鳴り響いた。ゆっくりと時間をかけて二回だけ。それだけである。

詩と夢と現実の、三重のオーバーラップに、私は誰何することも忘れて、ノックと共に現れる大きな烏を夢想した。墨を垂らしたような闇の黒から、徐々に輪郭をあらわにして、ずるりと這い出る巨大な烏の姿を。扉の向こう側に。

 

「――どうぞ。開いている」

 

たまらずに招き入れた。非現実的な妄念から脱するために、思い切って招き入れた。大きく呼吸を一つして、頭から烏の影を振り払う。

ややあって扉を開いて目の前に現れたのは、友人の明治屋闇阿弥(めいじやあんあみ)だった。烏などではなく、当然、ヒトの身体を持った男である。

 

「随分と酷い顔をしていらっしゃいますが、局長の椅子はそんなにも冷たいですか」

「君が貸してくれた詩集のせいで眠れないだけだよ」

「それはよろしくない。現世は夢、夜の夢こそ真――ですよ」

 

喰えぬ笑顔で闇阿弥が言った。

闇阿弥は作家だ。名前からも分かる通り、メイジャー・アン・アミンに強く影響を受けており、エログロなホラー小説やミステリー小説を好んで書くような手合いである。そして私に大鴉を貸した張本人でもある。

挨拶もそこそこに、闇阿弥が応接用のソファに腰を下ろした。

 

「アミンを気に入ってくれたようで何よりです」

「病み付きだよ」

 

私の嫌味など、まるで意に介した様子も見せずに、闇阿弥が一冊の雑誌を、脇に抱えた鞄から取り出した。見出しには、おどろおどろしい字体で、“落日の鬼”と大仰に書かれている。粗悪な大衆向け雑誌、俗に言うカストリ雑誌だ。

カストリ雑誌とは、主に性風俗や猟奇殺人などの記事ばかりを掲載する娯楽雑誌を指す。あまりの公序良俗に反する内容に、三号発刊して休刊や廃刊となる雑誌が相次いだために、「三合飲むとつぶれる」と言われたカストリ酒とかけて、そう呼ばれるようになったとか。ルージア大陸戦争期に比べ言論弾圧が緩和されたとは言え、カストリ雑誌のような刊行物は雨後のたけのこのように発刊が後を絶たない。その内に出版法による規制が強化され、言論の自由など再び失効してしまうのではないだろうかと思わせるほどだ。そうなれば影響を受けるのは闇阿弥のような作家であり、巡り巡って私のような本の虫の読書欲も満たせなくなる。実に良い迷惑だ。

だから私は、ただ鼻白んだ。

 

「君がこんな低俗な雑誌を読むとは知らなんだ」

「情報収集に必要とあらば、どんなものにも目を通しますよ」

 

闇阿弥が、ぺらぺらとカストリ雑誌の頁を手繰りながら言った。

そして目的の頁を見つけたのか、わざとらしく、お、などと声を上げて雑誌を開いて見せた。大見出しには表紙にあった“落日の鬼”の四文字が、不鮮明な写真などを背景に描かれている。

 

「何だい。その落日の何とやらとは」

「日華流剣道場の門人が一晩にして余さず斬殺された事件はご記憶で?」

「日華三十人殺しか」

「はい。この記事は、楼蘭皇国内で過去に起きた猟奇殺人事件を、ことさら外連味たっぷりに脚色して紹介したものです。連続誘拐殺人、バラバラ殺人、局部切取殺人なんてものもあります。その中の一つとして、日華三十人殺しが取り沙汰されておりまして。くだんの“落日の鬼”というのが、まさしくその三十人殺しの犯人についた、いわゆるあだ名です。日華とは太陽の意味ですから、犯人を指して落日と呼ぶらしいですよ」

「ヒトの呼び名だとは恐れ入った。酷いネーミングセンスだ」

 

闇阿弥の手から雑誌を受け取った。開いた頁には、ヒトを射殺すような鋭い視線が特徴的な“落日の鬼”とやらのモノクロ写真が掲載されている。端正な顔立ちに坊主頭であるため、ことさらに目付きが際立って見えるのだろうか。

 

「凶悪犯なだけある。キツい目をしているな」

「確かに仰る通り。ですが“落日の鬼”が別にいるとしたら、どう思われますか?」

「真犯人が別にいるというのか?」

 

芝居がかった仕草で、闇阿弥がうなずくように首をひねった。

戦後最悪とまで報じられた容疑が、全て誤認であったとしたら、それは日華三十人しの犯人として目下全国域で特別指名手配されている朝日那夜一に対する、戦後最大級の冤罪ではないか。

あれかこれかと考える私に、闇阿弥が口元だけに笑みを浮かべて、そして言った。

 

「佐々木局長。真に受けてしまわれましたか。フィクションです。私の次なる創作のネタとしてどうだろうかと思い、目の肥えた局長に意見を請うたまでです」

 

間抜けなことに私は開いた口が塞がらなかった。闇阿弥の語り口が真に迫っていたとは言え、それをそのまま鵜呑みにして誤解してしまった己の早とちりに、にわかに羞恥を覚えた。周りの知己から頭が硬いと言われても、これでは何ら反論できぬというものだ。

 

「私はてっきり――」

「あいや失礼しました。確かに仰る通り。根が作家なものですから、どうにも真実味を追求するきらいがございまして」

 

大仰に闇阿弥がこうべを垂れた。

そして頭を下げたまま、ただ、と反語を続けた。

 

「実際の日華事件の下手人は、朝日那某で間違いないのでしょう」

 

面を上げた闇阿弥は、たぶんおそらくきっとと付言して、やはり喰えぬ笑みを浮かべた。

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