たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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断片 三

暗い部屋で独り、私は大きな闇色の烏と対峙している。まるで金縛りにあったかのように、頭のてっぺんから足の先までぴくりとも動かないため、烏の前から逃げ出すこともかなわない。目のみ融通が利くが、いくら辺りを見渡せども、悉皆どんよりと煙るように闇に塗りつぶされていて、返って不安が増すばかりだ。

 

『Nevermore』

 

雑音の混じる烏のだみ声が、闇の静寂を振るわせた。糸の切れた操り人形のように、烏の獰猛なくちばしが上下する。

嘲笑っているのだろうか。

それとも哀れんでいるのだろうか。

しかし、いかんせん黒檀のような烏の瞳は、朦朧模糊とした闇ばかりを宿していて、その内に秘めた情感など寸分もうかがい知れない。それとも人間のように豊かな心の動きなど、一握も持ち合わせてはいないのだろうか。

傷心に暮れる私に、唯一知る『Nevermore』という単語を、無感動に、無目的に、無意味に、言い放っているだけなのかもしれない。

得体の知れぬ烏を前にして、私の内に、焦燥にも似た戸惑いが満ちた。揺らぐ心が、堪らずに言葉となって口から飛び出る。

 

――他の烏がそうだったように。

――私の希望の数々が去ったように。

――お前もまた、明日には飛び去るだろう。

 

矢継ぎ早に私は搾り出すように叫んだ。そうしなければ言葉の半分も言えなかったに違いない。

 

『Nevermore』

 

消え去るつもりなど全くないのか、返答は矢張りたったそれだけだった。

きっと――と私は続けた。

 

――きっと、その一語のみを。

――飼い主に教え込まれたその一語のみを。

――愚直に繰り返しているだけなのだ。

――「もう二度と」としか。

 

投げやりに言い放って、そして私は少しだけ思案を巡らせるだけの平静を取り戻した。

私の胸中を焼き焦がすかのような烏の真っ黒な瞳を見つめながら、陰気で亡霊染みたあの『Nevermore』という言葉の意味を繰り返し考えた。

しかし、思い浮かぶのは、そう――

いくら考えても二度とないという意味のみだった。

二度とない。

嗚呼。彼女に触れられることは、もう二度とないのだ。

気付けば私は、悲鳴のような金切り声を上げていた。

 

――このろくでなしめ。

――彼女との思い出を忘れろと言うのか!

 

『Nevermore』

 

――お前は妖(あやかし)か!

 

『Nevermore』

 

――烏にしろ妖にしろ、予言する者よ。

――お前は魔王に送り込まれたのか!

 

『Nevermore』

 

――嵐がお前を呼んだのか!

 

『Nevermore』

 

――ならば何のために、今、ここにいる!

 

『Nevermore』

 

――私のこの悲しみを忘れさせてくれるのか。

 

『Nevermore』

 

――では、いったい、何だと言うのだ!

 

『Nevermore』

 

――言え。頼むから言ってくれ!

 

『Nevermore』

 

――予言者よ。烏よ。悲しみに満ちたこの魂に――

 

『Nevermore...Nevermore...Nevermore...』

 

私の発火するような懇願は、言葉半ばにして遮られた。

嗚呼。私には何もかもが、一切合財が約束されていないというのか。

烏の無慈悲な言葉に膝を屈し、声にならぬ悲鳴を上げながら、私はずぶずぶと絶望的な孤独の只中へと埋もれていった。

 

 

*

 

 

そして泥沼の中から浮かび上がるように、私はゆるゆると目を覚ました。夢の欠片を払い落しながら、代わりに現実を手探りでかき集める。

場所は――職場。厚生省医政局。

時間は――夜の九時を少し回ったところだろうか。

己の良く知る現実に、大きく安堵の息を漏らした。

 

「佐々木局長。大丈夫ですか?」

 

傍らからの突然の呼び声に、図らずも私は肩をすくめて驚いてしまった。声を上げなかったことが幸いか。

呼び声のする方に向き直ってみれば、部下の刑部(おさかべ)律子の表情に乏しい視線にぶつかった。湖水をたたえているかのように冷たい双眸、鋭利な頭脳、そして時折垣間見せる冷笑、誰が呼んだか氷の女の二つ名を冠する女性だ。痩躯に加え手足が長いせいで、目を見張るほど上背があるように見える。さらにはかかとの高い靴を履いているため、実際にはそこらの男性よりもよっぽど高い位置に目線がある。短く刈り込んだ髪型とも相俟って、近寄りがたい印象を周囲の男性に振り撒く美人だ。反面、一部の女性からは、すこぶるウケが良いのだが。

椅子に座る私は、首が痛むほどに見上げた。

 

「何だ。刑部君か。驚かさないでくれ」

「失礼致しました。うなさられていたようですが、お加減でも――」

「いや何。大したことじゃない。それよりも何の用かな」

「はい。報告が三点ほど。一点目が結核予防法改正案に対する陸相からの意見書が、先ほど届きました。書面はこちらです。先の閣議での陸相による陳述の通り――」

 

すらすらと要件を述べる律子に、私は目を向けた。

形の良い桜色の唇が、張りのある良く通る声で、淀みなく言葉を発している。縁なし楕円の眼鏡を、時折、左の中指で押し上げる仕草が、いかにも理知的だ。その中指には、飾り気のない指輪が一つ光る。右手の中指にも、同様のリングをはめている。女傑として有名な律子の唯一女性的な部分だ。

 

「局長」

 

律子の嗜虐的な視線を、私は真っ向から見返した。さすがは律子女史と言うべきか、その眼光は肝が冷えるほどに鋭く、かつ強い。

すぐに根負けした。

 

「聞いていたさ。次の制度調査会は、どうしても外せない先約があるから欠席する。古家製薬への支援策については、この書類を提出してくれ。概ね問題ないから。残り一つ、陸相の意見書だが、読まずとも分かる。結核予防は今年度の重点施策だ。言われなくても力を入れる」

 

私は意見書を手に取り、目を通すでもなく、ただひらひらと片手で弄んだ。

 

「陸相の物言いは好かん。要するに強兵施策への協力要請、いや、意味のない圧力じゃないか。この前の閣議の陳述だってそうだ。ここ数年の徴兵検査の不合格者増加の原因を、全て結核対策の不備に求めていた。データを見ていない証拠だよ。結核による不合格者は、全体の0.2パーセントに過ぎないと言うのに」

「仰る通りです」

「どうせ、この意見書とやらも、蒙昧な陸相の独りよがりな空論に終始しているだろうさ。読むに値しないよ」

 

私は数十枚にも及ぶ意見書を、無造作に机上に放り投げた。自然とため息が漏れる。

ばさりと音をたてて散らばった書類から目を上げると、最前と全く同じ律子の凛とした表情がそこにあった。

 

「さっきも言った通り、やるさ。陸相は気に食わんが、結核の予防は誰もが望む、言わば民意だ。可及的に速やかに執り行われて然るべきだと心得ているよ。だからバジェットも拡充しよう。これは予防指導要綱の原案だ。次の会議までに関係者全員に配っておいてくれ。もちろん陸相にもね」

「かしこまりました」

 

複数の書類を受け取った律子が、静かに頭を下げた。姿勢の良い律子の辞儀は、いつだって様になっている。

 

「ところで――」

 

そう言いながら面を上げた律子は、無表情ながらも明確な嫌悪の情を表していた。表情なくして何よりも雄弁とは、実に器用なものだと素直に感心する。

 

「明治屋様がいらしてましたか?」

「さっきまで、そのソファに座っていたよ」

 

律子の眉間に寄るしわを眺めながら、去り際の闇阿弥の言葉を私は思い出していた。“律っちゃんに会うと怒られるから、早々に失礼します”などと言っていたか、律子と闇阿弥はあまり仲がよろしくない。闇阿弥は律子に対して悪感情を持っていないようなのだが、いかんせん、その逆は北風のように冷ややかだ。生真面目な律子にとって、いい加減な闇阿弥の考えや生き方は、見るに耐えないのだろう。顔を合わすたびに、喧々囂々と言い争っている。

 

「お約束はなかったはず」

「そうだね」

「受付に厳重注意をしておかないと」

 

可哀想に――受付の女性に憐憫の情を覚えながら、私は腰を上げた。残業ばかりしていると啓子に怒られてしまう。

 

「刑部君。私は先に失礼するよ。あまり受付の女の子をいじめないようにね」

「しっかり注意しておかないと、最近の若者は育ちません」

 

君だってまだ二十代じゃないか――私は言葉を飲み込んで、職場を後にした。

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