私は自宅の居間で、束の間の余暇を読書に費やしていた。妻啓子には、気分転換に外へ出た方が良いと諭されたが、本の虫という性分を終ぞ曲げられず、不健康にも目で活字ばかりを追っていた。苦ではなかった。むしろ煩雑な人間関係に触れずに済むのだから、返って心地よさすら覚えたくらいだ。
手を伸ばし、闇阿弥から借りたアミンの詩集大鴉を取った。表題の大鴉以外にも、抒情詩を中心に瑛語の詩歌二十数編が収載されている。
「Ah, broken is the golden bowl! ――the spirit flown forever! Let the bell toll! ――a saintly soul floats on the Stygian river:――And, Guy De Vere, hast thou no tear? ――weep now or Nevermore...」
(超訳:レノアが死んだってのに、なんでギー・ド・ヴェーア君、君は泣かないのだ? つか泣けよ)
私は無作為に頁を開き、目に付いた一節を朗読した。闇阿弥曰く、「アミンの特徴は音楽性です。声に出して読み上げて、初めて味わいが出ます。ぜひ暗誦してみて下さい」だそうだ。
そう言われて口に出してみれば、なるほど、そんな風にも感じられた。押韻が生み出すリズムは小気味良く、余分なく美しく響く。語られる愛は力強く、傷心は切なく、誰の心にも通じ得る心理だ。しかし、そんな風に感じながらも心の片隅では、慣れぬ瑛語を使い、情感に乏しい己の心を以って読み上げたために、勘違いの類かもしれんなぁ――などとも思う。
――啓子ならば、どう思うだろうか。
学識のみならず、私と異なり心も豊かな啓子ならば、やんごとなき方々のように、鮮やかかつ機知に富んだ感想を抱くやも知れない。
そう考えた矢先に、啓子本人が居間に現れた。くすくすと愉快そうに笑っていることから察するに、どうやら先の暗誦を聞かれたようだ。途端に気恥ずかしさが込み上げてくる。
「盗み聞きのような真似をするでないよ」
「ごめんなさい。そんなつもりはなかったんです。貴方の声と詩が、あんまりにも心地良かったものですから」
面と向かって、こんな風にほめられるとは思わなんだ。
照れ隠しのために、私は咳払いをした。
「またアミンですか?」
「ああ。ただ、今のは大鴉ではなく、レノアという題名の別の詩だよ」
「レノア。たしか――」
聡明な啓子は、どうやらすぐに気付いたようだった。先ほど私が読み上げた詩は、夭折した娘レノアの葬儀の場を題材に、元婚約者の青年ギー・ド・ヴェーアと牧師の対話を書き綴ったバラードである。そして、このレノアという女性の名は、アミンが作る多くの詩にたびたび用いられている。大鴉も例外ではない。大鴉に登場する青年が、心の底から思慕する女性の名もまたレノアという名である。
私は本から知り得た、受け売りの情報をそのまま披露した。
「アミンの詩には、よくレノアという名の女性が登場する。一説によると、女性レノアは、アミンが終生抱き続けていた理想の女性像だとか」
「少しお借りしてもよろしいですか?」
恭しく伸ばした啓子の手に、私は詩レノアの頁を開いて、そっと詩集を差し出した。私以上に外国語に堪能な啓子のことであるから、和訳など元より不要だ。
しばらく黙読していた啓子だったが、気に入った箇所でもあったのか、絹のような声で読み上げた。
「Wretches! ye loved her for her wealth and ye hated her for her pride; And, when she fell in feeble health, ye blessed her――that she died:――How shall the ritual then be read――the requiem how be sung――このくだりは、ギー・ド・ヴェーア青年の言葉かしら」
(超訳:彼女の富みを愛し、彼女の誇りを憎み、彼女の病と死を喜んだ貴様らが。弔辞? 鎮魂歌? ああ、情けない!)
「そうだろうね。葬儀の参列者や牧師に対する青年の怒りがよく表れている」
「ここ“indignant ghost”の部分、青年がレノアを指して、怒りに満ちた霊魂と言っているけれど――」
啓子が詩レノアの第三連――ギー・ド・ヴェーア青年の言葉の一節を指し示しながら言った。
つられて私は、詩集へと顔を寄せた。詩は牧師と青年の主観による対話に終始している。怒れる霊という表記もまた青年の強い想いでしかなく、いわんや棺の中に横たわるレノア本人の本当の胸の内については一切言及されていない――と私は思った。
「レノアは何に対して怒っているのかしら」
「怒ってはいないんじゃないか? おざなりな追悼をする世間の人々に向けて、青年が怒りをぶつけているだけだろう。その投影だと思うが」
いいえ――と遠慮がちに言う啓子と視線が重なった。私に向かって反対の意見を述べるのが、啓子にとって殊更に躊躇われたのだろうか、その後に続く言葉がなかなかに出てこない。口を開いては言いあぐね、閉じては瞳を泳がせた。しかし、伏せるように目をつむり、充分に沈黙して、そして再度、私を真っ向から見つめ返した視線には、決然とした力強さが感じられた。
「Hast thou no tear? ――weep now or Nevermore...Nevermore...」
(超訳:今、泣かなければ、今後、二度と泣くことはできない。二度と)
啓子が読み上げた詩レノアの一節に、私は言葉を詰まらせた。数日来、私を悩ませてばかりいるあの単語を、啓子が言ったからだ。
“Nevermore”
言わずもがな、詩大鴉で多用されている、あの単語だ。アミンの詩大鴉においては愛と傷心の青年を、そして夢の中においては私を責め苛む唯一の呪言だ。その一言が、今、目の前で、最愛の妻啓子の口から、何の因果か発せられている。もちろん、ただ詩を読み上げているだけのことと理性は強く確信しているのだが、反面、理性とはまた別の部分――私の多くを占めるもっと敏感な部分が、不可解にも怯えている。
大鴉の瞳が何を物語るのか詩中の青年にとってまったき謎であるのと同様に、今や私にとって啓子の碧眼も理解し難かった。理知の色が、淀みにしか見えない。
私――と啓子が、沈黙を破った。
「私、これから宗家へと出かけてきます。頭首様からお呼びがございましたので」
変わらぬ口調で言い、そして本家の印の捺された書状を懐からそっと出した。宛先は確かに私ではない。
「宗家が? 啓子に? 何故。何の用事だ」
「判じかねます」
分からぬという意思表示なのだろう、さぁと啓子が首をひねった。相も変わらず、我が妻ながらその仕草は実に愛らしい。
動揺する私をよそに、啓子がいそいそと身支度を整え始めた。外套を羽織り、桜色の鮫小紋の風呂敷包みを手にして、一人家に残される私に向かって夕食の手はずなど、どうでも良いことを言っている。
私は、何故か、ただ、よろめくように一歩だけ後ずさった。
「最近、何かと物騒だ。気を付けてお行きよ」
そして、私はどうにかこうにか、それだけを言った。
にっこりと微笑んだ後、一度も振り返らずに家を出て行った啓子の後ろ姿を幾度も想い描きながら、私は独り暗い自室へと引っ込んだ。