照りつける太陽の下で、緑龍井(リュウ・ロンジン)は目を覚ました。視界を遮るものはない。抜けるような晴天が、泰然と見下ろしている。静かだ。柔らかい風に乗って、花の微薫がどこからか香る。
妙なもので、横臥しながら望む青空を見て、龍井は『空が円い』などとのん気に思った。しかし同時に、その感想について違和感をも覚えていた。空の広がりとは、すなわち宇宙の一端だ。子供でも知っている。だだっ広い蒼穹の端を切り取って、果たして円形になろうか。どうにも想像ができない。
視野の境界か――そう思い、龍井は自らの目の輪郭をなぞるように、辺りを見回した。そして、そこで初めて、かたわらに立つ子供の存在に気付いた。狐の面をかぶっているために素顔は判然としない。ただ背格好から年端も行かぬ少女であることだけが分かる。
一つ鼻で笑って、少女が口を開いた。
「天道曰員(天は円い)――と言うてな」
龍井は面食らった。楼蘭皇国で大陸の言葉を聞く機会があるとは思わなかったからだ。幼い子供の口から、しかも古文書――鴻宝の一節が飛び出すなどと、誰が予想できようか。
『天道曰員』に続く言葉を、返事の代わりとした。
「地道曰方、方者主幽、員者主明、だろ?」
「ほお。顔に似合わず、物を知っておるようじゃな」
老人のような口調で関心を示す少女に、龍井は決まりの悪さを一抹覚えた。物を知っているも何も、ミオから聞きかじった知識を、そのまま披露しただけだ。学識よりも暴力に長ける龍井の気質を、どう誤解したものやら。
インテリゲンチアを気取る気にはなれず、素直にネタを明かすことにした。
「受け売りだ」
「初助の仕込みか」
最前ののん気さはどこへやら、反射的に表情が固まるのを、龍井は実感した。腰に手を伸ばせば武鶴二尺七寸がある。
初助――宮城峡初助(みやぎきょう ういすけ)とは、日華流剣術第十三代当主を務めた男の名前である。数年前の夏の夜に、およそ三十名の弟子諸共殺害されてしまったために、今、その名を口にする者は少ない。対して、一夜にして三十人が斬殺されたという陰惨な内容から、事件自体は未だ人々の記憶に鮮明に残っているらしい。銃後最悪の惨劇として、思い出したように取り沙汰すカストリ雑誌が好例か。またしばしば、容疑者と目されている朝日那夜一(あさひな よいち)を指して、日華三十人殺しと巷間に流布されることもある。朝日那夜一とは、すなわち人間だった頃の龍井の名前だ。
やおら龍井は身を起こすと、武鶴二尺七寸を抜き払った。
「テメェも武鶴が狙いか」
脳裏に浮かぶのは、現楼蘭皇国総理大臣東郷清志郎の鉄面皮だった。初助の名前を持ち出し、武鶴二尺七寸の譲渡を迫る東郷と刃を交えたのも、つい先日のことだ。目の前の少女もまた、東郷のような強盗が目的か。
しかし、龍井の意に反して、少女が固辞するように手の平を向けた。
「人の手垢のついた刀なんぞ要らんわ」
言って、幼女が無造作に狐面を外した。あらわになった顔は、人間の子供のそれだ。当然に狐狸の類ではない。
「我はトキハ。小僧に興味がわいた」
「は?」
好色な龍井も、さすがにこれには返事を見失った。女好きだとは自覚しているが、それでも好み――ストライクゾーンというものがある。年の頃で言えば、下は十六から上は三十八といったところか。穴が開いていれば何でもござれという訳ではない。ひるがえって眼前の少女トキハときたらどうだ、見るからに初潮前の処女(おぼこ)娘、ナニをどうしろと言うのだ。
「悪いが、さすがに、ちょっと。いやミオの例もあるか、しかし――」
「何を勘違いしておる。剣の話じゃ。小僧の剣術に興味がわいた。ゆえに稽古をつけてやろうと言っておるのじゃ。光栄に思えよ」
「剣?」
「うむ」
龍井は肩の力を抜くと、ため息と一緒に納刀した。十にも満たぬ年の少女が、日華流剣術を修めた龍井を相手に、あろうことか稽古をつけてやると言うのだから滑稽だ。握った刀を振るどころか、構えられるのかさえ怪しい細腕で言うのだから、まるで悪質な冗談のようではないか。
だから龍井は、やれやれなどと呆れながら、トキハの頭を優しく撫でたのだった。それが最大の過ちだと知らずに。
「阿呆が」
トキハの周囲の大気が、ざわりとたわんだ――ように龍井は感じた。再度、警戒心が鎌首をもたげる。
龍井の感じたそれは、特大の殺気だった。東郷やヨーダーに観られる殺気よりも、ずっと巨大で、酷く異様だ。
手を引かざるを得なかった。
「もう分かったじゃろ。我の前では、小僧、お主の剣など児戯にも等しいと」
「お前、何なんだ」
「オマエではない。トキハじゃ。少しばかり剣術をたしなんではおるがな。それ以上でも、それ以下でもないわ」
二歩後退し、龍井は武鶴二尺七寸を正眼に構えた。
「まずは日華の技か。良い良い。間違っても出し惜しみするでないぞ。さもなくば――」
さらに肥大するトキハの殺意が、冷や汗となって龍井の背筋を伝った。両手で構える武鶴二尺七寸がなければ、意識を失っていたかもしれない。
「さもなくば死ぬるぞ。龍井よ」
圧倒的なプレッシャーの只中へ、龍井は刀を振り下ろした。