闇の底で、ミオ・トーンライムは目を覚ました。目に付くものは、手前の闇と、奥の闇。一寸先すら見通せぬ深淵の中での覚醒だ。
情報の欠如からか、思考よりも先に身体が反応した。しかし中空に手を伸ばそうとして、遅まきながら四肢の自由が利かぬことに気付いた。ぴくりとも動かない。指先一つ、いくらも動かすことができない。まるで、まとわりつく闇に全身を拘束されているようだ。
ミオは動くことを早々に諦め、身体から力を抜いた。身動きできぬ原因には、いくらか心当たりがあった。おそらく普通の人間でしかないミオには、抗う術もない類の力だ。
「糸か」
「ご名答。良い格好ですね。トーンライム博士」
常闇が答えた。聞き覚えのある声だ。たおやかな声、楚々とした口調、張りのある響きに芯の強さが感じられる。
「締め付けがキツい。ちょっと緩めてくれんかね。イトネ・ヴァ・ネーバ」
ぼうと火が灯り、薄闇の中にイトネ・ヴァ・ネーバの青白い顔が浮かび上がった。カ・ガノ・ヴィヂ同様、全身黒づくめの装いは、さながらブラック・ウィドウ――黒衣の後家といったところか。その実、蜘蛛型Gアシダカのプロトファスマ種なのだから、あながち間違いでもない。
返事をする代わりに、イトネ・ヴァ・ネーバが困ったように笑った。明らかな敵意を、その笑みに潜ませて。
「ひ弱な人間をいたぶるなんて悪趣味は、よしておくれな」
またしても嗜虐的に笑うばかりで、返事がなかった。ただ嗜虐的に笑うばかり。カ・ガノ・ヴィヂよりも、ずっとやりにくい相手である。だからこそ、今この場にいるに違いない。
「已む無し」
ミオは口八丁も諦めた。がっちりと首も固定されているため、目だけで周囲を見回す。しかし、薄闇に慣れた目に映るものといえば、木の根に石くれ、そして大量の土砂、そればかり。イトネ・ヴァ・ネーバが掘った地下の穴ぐらであることは明白だ。武芸館から拉致され、地下深くまで引きずり込まれたか。
取りも直さず、黄龍旗の会場から無事に脱出できたは良いが、薄っすらと笑うイトネ・ヴァ・ネーバと対峙する現状、どう贔屓目に見ても好転したとは言いがたい。七十体のMAIDも、一体のプロトファスマも備えた暴力性は、生身の人間に比べひたすらに過剰だ。危機的状況に変わりはない。
ミオは、蜘蛛の巣に捕らわれる蝶の姿を想像した。だが、一寸も考えぬ内に、くふくふと笑いが自然と漏れた。さすがに己を蝶に喩えるには、自らの肉体はとうが立ち過ぎている。
「年は取りたくないものだ」
何の気もなしにポツリと漏らした一言だったが、予想外にもイトネ・ヴァ・ネーバが反応した。素っ頓狂な顔とでも言うのだろうか、驚きと疑いが綯い交ぜになったような、曰く残念な表情をしている。
イトネ・ヴァ・ネーバが、台無しな表情のまま言った。
「貴女、いくつなの?」
「今年で三十を数えるが――コラ、何だ、その顔は」
瞬間、イトネ・ヴァ・ネーバが、辺りをはばかることなく笑い出した。片手で口元を隠しコロコロと笑う様子は、小憎たらしいことに少女のようだ。純粋に、ミオの外見と年齢のアンバランスが可笑しいのだろう。低い背に、細く短い手足、発育不良のごとく起伏に乏しい胸と腰、『月のモノを未だ迎えず』と言っても不思議ではない姿をしていて、その実、三十路に手が掛かっているのだから何をかいわんや。
赤子を愛でるように、イトネ・ヴァ・ネーバがミオの頭を撫でた。
「な、何をする。やーめーろー」
「愛らしいこと」
満足に身動きの取れぬミオを、好き勝手に撫で回すイトネ・ヴァ・ネーバだったが、突然にぴたと動きを止め離れると、また元のすました笑顔に戻った。
首領カ・ガノ・ヴィヂのお出ましだった。
「ヨォ。ミオ・トーンライム。少しは頭、冷やしたか」
「最悪だよ。これがビジネスパートナーに対するモテナシかい?」
身をよじるミオの訴えに、カ・ガノ・ヴィヂもまた邪笑するだけだった。揃いも揃って、ひねくれた連中である。しかし、その裏にある打算には、理屈が通じるのだから、イトネ・ヴァ・ネーバの微笑よりも、信じるに値する邪笑だ。
「ありゃ何だ。何で楼蘭にヒュージ・コアがある」
「造ったのさ。あの場で」
「エターナル・コアが製造可能だなんて初耳だぜ」
「永子加速衝突実験の偶発的な産物だ。もう一度やれって言われても、はいそうですかって造れるような代物じゃないよ」
「苦しい言い訳だな。それを信じろと? それとも協定があるから安全だなどと考えてんじゃねぇだろうな」
返答するよりも先に、絡みつく糸の締め付けが厳しくなった。ミオの華奢な身体が、ミシミシと悲鳴を上げる。
ミオとカ・ガノ・ヴィヂの間で不可侵協定を締結したのは、冬の雨計画よりもずっと前のことだった。協定の内容は、『原則的にレギオンとSIASは、相互に侵略行為を行わない』というもの。まだ、エノルミテ・モワと名乗っていた頃のことである。しかし『原則的に』という枕詞からも明らかなように、利害の不一致などを理由とした攻撃などについても、また同時に合意している。矛盾するような内容だが、つまりは互いの邪魔をしない限りは、いたずらに手を出さないという取り決めだ。だからG進化に関する研究において協力した一方で、冬の雨計画の際には真っ正面から衝突もした。そして、そういった関係は、未だに継続している。つまり、この場で協定は意味を成さないということだ。
「ウィンター・レインの借りがある。殺されたくなきゃ、余計なこと考えてねぇで素直になれよ」
ミオは静かに微笑んだ。
「お察しの通り。赤の女王メイトリックスから、幾許か知恵を借りたさ。加速永子を衝突させる云々とね」
「詳細は?」
「残念ながら、詳細も何もないよ。いつだってメイトリックスは断片的なヒントしか言わないんだもの。永子にしろ、その力学にしろ、全部、アイツから聞きかじった話を元に、アタシが体系化した理論なんだから、まだまだ足りない部分が多いんだ。その証拠に、あのヒュージ・コアを思い出してくれな。コアとは呼び難いグロテスクな外見をしていただろうう? だから――」
「分かった。黙れ。つまり今の理論体系じゃ欠陥品をこしらえるのが関の山だ、と言いたいんだな?」
「理解が早くて助かる」
「研究開発できるのは、テメェだけだと。だから助けてくれってこったろ?」
『助けてくれ』という部分を殊更強調して言うカ・ガノ・ヴィヂのにやけ顔が、酷く鼻についた。嗜虐性の権化プロトファスマの目には、無力な人間がことさら滑稽に映るのだろう。
だからミオは笑ったまま、ぐいと目を見開いた。
「ズレたことを言う。助けてくれじゃない。アタシの頭脳を買うか否かっつってんだよ」
場が凍りついた。各々が、各々の考えを胸に笑っているが、その笑みに反して静寂は薄ら寒く、闇は肌を刺すように冷たい。
それでもなお、ミオはさらに一歩踏み込んだ。カ・ガノ・ヴィヂではなく、イトネ・ヴァ・ネーバを睨みながら。
「即答できないとは、さすがに先見性がない。これだから、め××は――」
言葉の途中で、身体を縛る糸がさらに絞まった。首にキツく食い込む糸によって、言葉がただの息に変わる。ミオの華奢な身体はねじれ、今や糸の切れたマリオネットのようだ。強すぎず、しかし弱すぎず、骨の硬さを少しだけ超える力加減で、徐々に徐々に。
誰も言葉を発せず、ただ骨の軋む音だけが、耳に卑しく響いた。
そして。
ぼきり――
そして、骨の割れる音だけが、後に残った。