じりじりじり――
けたたましく鳴り響く電話の呼び出し音に眠りを妨げられた私は、跳ね起きるようにして目を覚ました。何やら悪夢にうなされていたようにも思うが、頭に霞がかかったかのように、どうにも意識がはっきりとしない。またぞろ大鴉の悪夢にでも苛まれていたのだろうか、首筋から背中にかけて、酷い寝汗が浮いている。
気持ち悪い汗をぐいと手でぬぐうと、私は着信を告げる電話のベルに追い立てられるように、床を後にした。
*
「From the bells, bells, bells――おや、佐々木局長。おはようございます。どうも。闇阿弥です」
果たして、呼び出しの主は明治屋闇阿弥だった。なかなか応答がないことに痺れを切らしたのか、独り詩を口ずさんでいたのだろう。受話器の向こうでは、今もなお“To the moaning and the groaning of the bells”などと調子っぱずれに言い続けている。
その暢気な口調が鼻についた私は、苛立ち混じりに声を返した。
「何の用事だ。闇阿弥。こんな朝早くから」
「あいや失礼しました。お休みの所、申し訳ありません」
壁にかかっている時計を、私はちらりと横目で見た。十時を少しばかり回った辺りだろうか。“朝早く”と目くじらを立てるほど早い時間でもない。
中身のはっきりとしない悪夢の残滓に声を荒げ、あろうことか叱責までしてしまった手前、途端にばつの悪さを私は覚えた。これでは子供の八つ当たりと大差ない。
私は素直に謝辞を伝えると、連絡の旨について問うた。
「先般、承りました“落日の鬼”について、いくつかご報告がござい――」
「ちょっと待て。何の話だ?」
“落日の鬼”だ何だという話に覚えがなかった私は、闇阿弥の言葉を半ばで遮った。確かに先日、闇阿弥が私の職場に来訪した際に、日華三十人殺しの話をした。その犯人にカストリ雑誌がつけた名が“落日の鬼”だったか。そういったことは明瞭に記憶しているが、どうにも、その件について何がしか依頼をしたとなると、いよいよ心当たりがない――ように思われる。
黒塗りの受話器が、怪訝な声を発した。
「ですから“落日の鬼”についての調査報告です」
「そのような依頼をした覚えはないが――」
「やだなぁ。佐々木局長。楼蘭橋の店で一杯やった時に仰ってたじゃないですか。“落日の鬼”こと朝比那夜一は、弟の修次郎さんの失踪と関係があるかも知れないから、調べてくれないかと。忘れちゃったんですか?」
若干、語気を強めて、闇阿弥が言った。
そう言われると、唯一血を分けた家族――修次郎の消息について、話をしたような気もする。昔から臆病で、不器用な弟が、孤独に苦しんでいないか、ずっと心配しているのだ。
だから――
「――そうだったかも知れんな」
「そうですよ。記者の伝手で、何ぞ情報を得られないかって話だったじゃないですか。お忘れだなんて。佐々木局長もお酒に弱くなられたもんですね」
「最近、疲れていてな」
闇阿弥は、からからと張りのある声で一笑すると、一転して押し殺したように重たい口調で、調査の中間報告と題して語り始めた。
調査の結果は、以下の二点に要約できた。
一点目は、事件――日華三十人殺しから幾らも経過せぬ内に、朝比那夜一は国外へ脱出したということ。それは修次郎が行方をくらました時期と合致する。根拠に関して明言しないあたり、はなはだ怪しく眉唾にも思うが、しかし他に確かな情報がない以上、闇阿弥の調査を足がかりにするしかない。
二点目は、どうやら朝比那夜一が、今、現在、楼蘭皇国内に舞い戻ってきている可能性があるということだった。
「例の記事。あの国内の猟奇殺人事件の記事ですがね。あの記事を掲載してからコッチ、編集部に“落日の鬼”を目撃したってタレコミが、頻繁に寄せられているようですよ」
「見間違いや、いたずらの類じゃないのか?」
「もちろん、そういったものもあるでしょう。中にはガセにも関わらず、情報料を要求するような手合いもいますからね。ですが、件数が尋常じゃないんです」
火のない所に煙はたたぬと言う。普段よりも多くの反響が得られたということは、実際にそういった風貌の人間の目撃が相次いだことの証左となろうか。しかも誌面にて顔写真が公開されているのだから、見間違いの割合も少ないのでは、とも考えられる。
それに裏もあるんです――と、闇阿弥が声をひそめて言った。
「週刊実録はご覧になりましたか? 週刊とうたっておきながら、四半期に一回しか刊行しないっていう、どうしようもないカストリですが。今週出た週刊実録にですね。“黒衣の辻斬”という、これまたセンスを疑うような記事があるんですが――」
内容はこうです――と、闇阿弥が神妙な声で言った。
最近、倭都の巷間では、全身黒尽くめの殺人者の噂話が、実しやかにささやかれているらしい。毎夜、丑三つ時になると、倭都の四つ辻に、漆黒のスーツに身を包み、腰に刀を落とした男が現れるのだとか。哀れ不運にも遭遇してしまった者は、一刀の元に斬って捨てられるのみ。
「馬鹿な。そんな殺人事件、聞いたことがない」
「仰る通りです。局長。あくまでも噂話です。流言蜚語、脈絡のない都市伝説の類ですよ。しかし」
「まさか朝日那某の目撃情報が変質して、怪談話のように、人口に膾炙されていると言いたいのか? それが確たる証拠だと?」
「その通りです!」
我が意を得たりとでも言わんばかりに、快活な声を闇阿弥が上げた。受話器片手に、得意気に微笑んでいるに違いない。
「朝日那の目撃情報に、尾ひれが付いてしまったんでしょうな。随分とお粗末な怪談話に成り下がっていますが、いやはや中々どうして見逃せない情報もありまして。どうも陸軍の――」
皇国陸軍の関与を、闇阿弥がほのめかした。くだんのカストリ雑誌に、朝日奈夜一と陸軍の関連を示唆する記述でもあるのかも知れない。胡散臭い話に陰謀計略の類はつき物だ。
しかし真っ先に私の脳裏を過ぎったのは、軍部にまつわる外連な話などではなく、結核対策に関して偏った知識と客観性に乏しい論拠を基に、滔々と得意気に意見を陳述する陸相の小憎らしい顔だった。
「陸軍だと?」
「ええ。朝日那と軍人然りとした人物が、一緒にいるところを目撃しただ何だと記事には書かれてまして――」
「陸軍が関与しているのか!」
突然の私の剣幕に、受話器の向こうで闇阿弥が口をつぐんだのが明瞭に分かった。口の達者な闇阿弥にしては、豪く珍しい反応だ。平素から声を荒げることの少ない私の突然の変化に驚き、対応に困っているのかもしれない。
友人の戸惑いに少しだけ冷静さを取り戻した私は、結核対策に関する陸相とのやり取りと、その件で辟易している旨を、言い訳がましくも伝えた。
「はぁ。局長と陸相の間に、そのような確執があったとは。いやはや。知らぬとは言え、気が至らずに失礼しました」
「こちらこそ、すまなかった」
互いに続けるべき言葉を失してしまった。この時ばかりは、誰彼構わずにずけずけと意見する闇阿弥の図太さを期待したが、私のらしからぬ態度に閉口しているのか揶揄や皮肉を言う風にも感じられない。
心地の悪い奇妙な沈黙にたまらなくなった私は、咄嗟に話題をつないだ。
「さっきの詩は、やはりアミンか?」
「あ、はい。“The Bells”という、オノマペティックな詩でして――」
水を得た魚のように、闇阿弥がアミンについて語り始めた。得意分野だけに語り口にも淀みがない。擬音を多用した韻律が、耳に親しく響く。
闇阿弥が諳んじる詩の所々を拾うように聞きながら、最近の分裂的な己の思考について、私は反省した。些細なことに気を取られ、苛立ち、それで周囲の人間に当り散らすなど、大の大人がするこではない。しかし努めて平静であろうとした矢先に。
「And a resolute endeavor, Now――now to sit, or never――」
“never”の音を耳にした瞬間、反射的に私は息を飲んだ。数日来の我が懊悩の宿痾が、闇阿弥の言葉の全てを聞く前にして、過敏なまでに言葉を詰まらせたのだ。あまりの衝撃にあわや受話器を落としそうになる。
Nevermore――そう、二度とない!
条件反射だ。そこに超常的で不自然な恐怖の根源がある訳ではなく、ただ反復的に刷り込まれた言葉に対する後天的反射でしかない。たかが言葉だ、何を恐れる必要がある――と、私は自らに言い聞かせて鼓舞すると、この狼狽を悟られぬように、口元から受話器を離して、緩々と深呼吸を繰り返した。
私の苦衷を知ってか知らずか、闇阿弥が説明を続けた。
「これはアミンが、嫁の死後に作った詩ですが――そういえば奥様はお元気ですか? どうされてます?」
「啓子は、ああ、啓子は今日も出かけているよ。本家に呼び出されてな」
啓子とは――と、自分の妻の名を思い出すだけでさえ、一瞬の間を要するほどに、私はたわんでいた。現実が崩れるような気分だ。
最近は物騒だから気をつけろだ何だと言う闇阿弥に、上の空の返事をしながら、私は言い知れぬ動揺を押し殺すように瞳を閉じた。どこかで声が聞こえる。聞こえるが、どこか空虚だ。私の中に一時も留まらず、意味を成さず、泡沫に消える。
遠くでする声を胡乱に聞き流しながら、私は静かに、音をたてないように受話器を下ろした。
じりじりじり――
「To the tolling of the bells――Of the bells, bells, bells, bells, bells, bells, bells――To the moaning and the groaning of the bells.」
(超訳:鐘が鳴る。嗚呼。鐘の音が、鐘の音が、鐘の音が、鐘の音が、鐘の音が、鐘の音が、鐘の音が、嘆きと呻きの鐘の音が!)