たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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佐々木修次郎の受難 三

初夏を過ぎ、なお冴え渡る晴天を眺めながら、修次郎は――今日何度目になるだろうか――小さく溜め息を漏らした。照り返す日差しと、耳にまとわり付く油蝉の鳴き声が、身体中にまとわり付くようでいかにも鬱陶しい。

鮮やかに繁る木々の緑さえも恨めしく思いながら、修次郎はパトリシアと共に、武芸館の入り口である多易門をくぐった。

楼蘭武芸舘。

楼蘭皇国の首都倭都西ノ丸公園にある屋内競技施設である。武道の聖地にして事上練磨の大道場という役割を担うためか、剣道をはじめ、柔道や空手など、数多くの競技大会が一年を通じて開かれている。その立地ゆえ周囲には自然が多く、春ともなれば辺り一面を楼蘭皇国の国花である桜が埋め尽くすことになる。

雑踏の中、修次郎は遠い春の光景を思い浮かべた。

 

「ヘイ。シュージロー。コッチコッチ」

「あ、はい。すみません」

 

郷愁の想いも夢いささか、呼ぶ声につられて、前を行くパトリシアの後を修次郎は追った。

九重下の駅で電車を降り、目的の武芸館に到着してもなお、なぜか修次郎はパトリシアと行動をともにしていた。目前に迫った武芸館を指して別れを告げようとは思うのだが、どういった訳か未だのろのろと同道している。武芸館までの道案内だけではなかったのか。

自らの陥った状況に嫌気がさしながらも、修次郎はパトリシアの背に追いついた。

 

「すごい人数ですね。剣術の大会というだけで、こんなにも人が集まるとは」

 

大道場へと続く長蛇の列を眺めながら、修次郎は嘆息交じりに言った。駅から大道場――西ノ丸公園の中央に位置する――への道のりには、そこかしこに剣術大会の見物客がひしめいている。桜の季節を過ぎてはいるが、広大な敷地面積を有する公園の中を行くためか、人々の流れも遅々として進まない。うだるような炎天下にもめげず、実にご苦労なことだ。

パトリシアが人ごみをずんずんと進みながら、おもむろに振り返った。しかし道行く人々には不思議と衝突せず、間隙を縫うように前進するのだから、さすがは有核人種といったところか。

 

「シュージローハ、楼蘭ニ何シニ来タデスカ?」

「永の海外暮らしに飽きまして、大陸を旅していました。ついでと言っては何ですが、郷愁に引かれて旅の足を、ここまで伸ばした次第です」

 

ミオと龍井のことを考え、反射的に嘘をついた。とっさのことにしては我ながら上手に返せた、などと思う。特に元々アルトメリア連邦の国籍を持っていたミオについては、何があっても口を閉ざすべきだろうか。

 

「オウ。楼蘭、良イトコデス。アメイジング。ファンタスティック。皆、親切。シュージローモ親切。困ッタ時ハオタガイサマー」

 

ならば解放してくれ、とは終ぞおくびにも出さず、修次郎は追従しながら相槌を打った。

 

「楼蘭ハ、シュージローノホームランド?」

「ホームランド? ああ、そう。故郷です。もう何年も前に捨てましたが」

「捨テタ? ホワイ?」

「独立したかった。いや、実家が嫌になったといった方が正確か」

 

言葉の最後は、自問自答するように尻すぼみに消えた。両親の死や兄への反発、親類縁者からの過大な重圧、それらしがらみから開放されたい一心で楼蘭皇国を捨てたのも、随分と昔のことのように感じられる。どの記憶も曖昧模糊として、どうにも輪郭がはっきりとしない。嫌な経験は自ずからフタをして努めて忘れようとしたし、心象の良い記憶など元より少ない。一年を通して家を留守にすることが圧倒的に多かった両親との記憶に至っては、僅かと言うのもはばかられるほどだ。佐々木の家にいたのは、だから、利己的な親戚と下男下女、そして修次郎と兄の清一郎だけだった。

兄はまだ閉塞感に満ちたあの屋敷で起居しているのだろうか、と修次郎は思った。陰気な年寄り連中の咳やら溜め息に耐えながら、あの妄執の吹き溜まりのごとき佐々木の家に――

 

「ヘイ。ドウシタヨ?」

 

はっとなって、修次郎は顔を上げた。いつの間にやら追憶を契機に、うつむいて分裂的な思考に耽溺していたらしい。見ればパトリシアの済んだ碧眼が、そこにある。佐々木の親戚筋とは、雲泥の差の純粋な瞳の色だ。

 

「すいません。ちょっと考え事をしていました。独立というよりも、外国の、特にクロッセル連合あたりの医療技術を学びたく思いまして、海を渡ったんです。しかし世界は広かった。佐々木の家に閉じこもってばかりでは、見えないものが多いと学びましたよ」

 

これは嘘ではなかった。楼蘭皇国を脱出する際には明瞭にそういった目的意識を持っていたし、事実、大陸に渡って以後は様々なことを否が応にも学ばざるを得なかった。インケンメガネに連れ出されて、初めて、それまでいた場所の矮小さを知らされたのも、随分と皮肉が利いているではないか。

修次郎は再びパトリシアの目を、一寸も揺るがずに見返した。

だが。

 

「シュージロー」

「はい? どうしました?」

「鼻毛、出テルヨ」

 

パトリシアの言葉を理解するのに、修次郎は数瞬を要した。己の過去にも、ついた嘘にも、会話の中で果たして鼻毛について言及したことがあったか。それとも何か隠された意味が込められているのか。

そこまで考えて、修次郎はようやくパトリシアが話を聞いていなかったのだろうということに気付いた。うつむいて考え込む修次郎を他所に、へろへろと鼻息に揺れる小汚い毛の行方を気にしていたに違いない。

損をした気分だった。

一人、頭を悩まして、馬鹿みたいだと思った。

だから、修次郎は手の甲で鼻っ柱をぐいと拭うと、少しむっとした顔をして、人ごみの中、パトリシアを追い抜いた。

 

「ほら。武芸館はすぐそこですよ」

 

九夏の晴天を背負う楼蘭武芸館の大天井は、もう目の前に迫っていた。

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