(沈黙に耳を傾け、ノイズを見つめ)
Enigma / Silence Must Be Heard
経験したことのない音のうねりに、カ・ガノ・ヴィヂは眉根を寄せた。不連続と言おうか、周囲に流れるノイズが、ほんの数秒前のものと全く別物に変わったようだった。波長が違う。振幅が違う。振動数も周期も違う。最前までと、まるで異なるうねりに包まれている。
反射的に、耳を澄ました。天井が低い。左右と背後の壁が近く、前方にだけスペースが開いている。背後には柵のような構造物――鳥居と言ったか――があるようだ。そして先まで近くにいたミオ・トーンライムの息遣いも心音も聞こえない。
――通路に追い出されたか。
数瞬前まで、ヒュージ・コアの安置されていた部屋――穢の間とやらにいたはずだった。それがどうしたことか、異なる空間に今いる。ノイズから判断するならば、穢の間から現世へと強制的に移されたものと考えたほうが妥当である。十中八九、ミオ・トーンライムの仕業だろう。
カ・ガノは、背後の鳥居を振り返った。穢の間へと続くゲートとしての機能がダウンしたのか、手を伸ばしてもすいと虚空を切るのみだ。
ふっと一息吐いた。
「イトネ。いるか?」
カ・ガノの呼び声からいくらも経たぬ内に、床に穴を開けてイトネ・ヴァ・ネーバが姿を現した。
「こちらに」
「頼んどいた件は、どうなった」
「倭都の主要上下水道三ヶ所にG胚の散布を試みましたが、いずれも安綱、兼定、久国と名乗るMAIDによって阻止されました」
「こちらの被害は」
「G胚のみ。散布を担当したゴーガら三名は無傷です」
「ふん。まぁ、失敗だな」
表向きにはな、とカ・ガノは付言した。そして胸のポケットから、アンプルを一つ取り出した。
「拉致った人間に、これを投与して解放しろ」
「それは?」
「GAG逆転写ウィルスだそうだ。外部からが無理ならば、人間どもの内部に持ち込んでやろうじゃないか」
MAIDの監視下、G胚を持ち込めないならば、Gの特有タンパク質GAPをコードする塩基配列を、MAIDの目の届かぬ人間のDNAに逆転写――組み込むという方策転換に、イトネが笑みを返した。
「ただし、ヒトではGAP発現にまで至っていないらしい。研究途中だとよ」
「半分は持ち帰って、トリーノとヘーコックに解析を頼みましょうか。今後、役立つかと」
「303作戦までに量産が可能ならば、な。不可能なら、途中で凍結、廃棄しろ」
かしこまりましたと言って、イトネが恭しく頭を下げた。そして緩々と面を上げた後に、カ・ガノの手からアンプルを受け取った。
「このウィルス。メイトリアークの」
「その通り。赤の女王の技術だ。REDsというらしい」
「つまりトーンライム博士による開発ですね」
「ああ。だから分かっていると思うが、信頼はするな」
「はい。心得ております。トリーノとヘーコックにも、その旨を伝えておきます。ところで、そのトーンライム博士はどこに?」
「まだ中だ。今頃、燭と対面してんだろ」
親指を立てて、鳥居を指し示した。
イトネの声からは、ミオ・トーンライムに対する嫌悪感が、ひしひしと感じられた。赤の女王の技術のみならず、燭――白の女王とも言っていた――までも、人間の一個人が占有することに対する反感が、根底にあるのだろう。分からないでもない。だが投資に見合わぬモノに関わったところで、時間の無駄というもの。
イトネの柔和な声を聞くために、カ・ガノはわずかにおどけて見せた。
「そんな目くじら立てんなって。ちらっと燭を見たが、ありゃダメだ。味方にはならんさ」
「バストン同様、対立は避けられませんか」
「いや、プロトファスマと同程度の自我を持っていないってこった。その点ではワモンと同じくらいだろうが、反面、肉体のポテンシャルは桁違いだ。そんな馬鹿は、戦場じゃリスクになるだけだろ」
「力自慢なら、レギオンにも一人――」
「ヴァカヂは馬鹿力であって、馬鹿じゃない」
「ふふ。ですってよ」
イトネの足元の穴が、ぼこりと音をたてて拡がった。穴の底から、イトネの腰よりも太い腕が突き出される。
通路の幅ほどにも拡がった穴から這い出てきたのは、レギオン同胞のヴァカヂ・カ・ラだった。
「大将。アンタ、時々たらしだよな。アタシにはトリーノっていう――」
「褒めてもねーし。口説いてもねーよ」
「テレんなって」
「カ・ガノ様はツンデレですから」
まさかのイトネによる追撃に、カ・ガノは反論を諦めた。女二人に矛先を向けられたが最後、どのようにして抗うことができようか。多様性という言葉が虚しくなるほど、いつの時代だろうと、どこの誰だろうと、どのような生物であろうとも、女の前で男は無力なものだ。
かしましく盛り上がるイトネとヴァカヂに、ただカ・ガノは力なく笑みを返した。
「――そろそろ勘弁してくれ」
降参の意味をこめて、カ・ガノは実際に両手を上げた。
「作戦を次のフェーズに移す。ミオ・トーンライムとも、ここでおさらばだ」
「何だい。あのいけ好かない女が、ここにいるのかい」
「ここっつーか。この奥にな」
「奥って。行き止まりじゃないか」
カ・ガノの背後の壁を指差しながら、ヴァカヂが怪訝な顔をした。むべなるかな。誰だって木製の柵――鳥居が異なる空間を繋ぐゲートだなどと考えやしない。その点に関しては、カ・ガノもまた同様に、身をもってオカルトを体験しながらも、未だに鳥居の機能を疑っている。例えば赤の女王の技術を持ってすれば――
「下手な考え休むに似たりって言ってね。複雑なものを無理に理解しようとせず、複雑なまま受け入れることが肝要だよ。細胞をいくら分割したって、魂を発見できないのと一緒。DNAの中に神はいなかったからね」
あっとヴァカヂが叫んだ。腹の底の憤懣が溢れ出したような、そんな大声だ。カ・ガノの世界を過ぎる、爆発的なノイズの振幅は、その表れか。
敵意が荒波を追った。
「どこから出てきやがった。チビメガネ」
「どこって、この鳥居からだけど。何のことだい、それは。トリーノのことかい?」
「旦那はオメーよか、10cmはデケーよ。一緒にすんな、バーカ!」
「さよかえ。アタシはカ・ガノ・ヴィヂと話があるでな。ちょっと静かにしてておくれ」
すこぶる評判の悪い女――ミオ・トーンライムとヴァカヂの間に、カ・ガノは割って入った。肩越しに聞くヴァカヂの声は、いよいよ天を破らん勢いだ。
「こっちの用事は終わったよ。穢の間は好きに使っておくれ。鳥居は一定周期でランダムに、どこぞに接続するようにしておいた」
「穢は?」
「さすがに千年以上も稼動していた代物だからね。劣化が激しい。スフィアみたいに過信しない方がベターかもしれんよ。長時間の連続稼動とかもってのほか」
「そんなこったろうと思ったぜ。燭にしろ、穢にしろ、中途半端なもん用意しやがって」
「物は使いようじゃないか。いっそ使い捨てちまったら?」
「永爆か」
エターナル・コアのオーバーフローに伴う超規模の爆発、及びそれを利用した爆弾を総称して永爆という。手の平大のエターナル・コア一つが国一つを滅ぼすとの試算もある。数十倍のサイズもあるヒュージ・コアならば、果たしてどれほどのエネルギーを生み出すやら。しかし。
――劣化による不発の可能性もあり得るか。
――ならば。
あるいはG胚の養分にするという手もあるか、とカ・ガノは考えた。穢の間をG胚の孵化器にすることは、ほぼ決まっている。拉致したヒトを餌にするつもりだったが、そこに穢のコア・エネルギーを添加してみてはどうか。屈強な幼生が誕生するやもしれぬ。いずれにせよ、使い方はいくらでもあるのだ。
礼の代わりに、カ・ガノはただ野卑な笑みを返した。
「しかしレギオンの頭目ともあろう者が、世辞の一つも言えんとわね」
「は? 感謝でもしろってのか?」
「どうにも野暮天だね。女ってもんが分かってない。アンタらも苦労するね」
ミオ・トーンライムの言葉は、途中からイトネとヴァカヂに向けられたようだった。奇妙なことに、あれだけ毛嫌いしていた二人が、同意するように首肯しているではないか。
面倒臭くなり始めた頃、遅まきながらにカ・ガノは思い出したのだった。最前に『下らない』と言って聞き流した、ミオ・トーンライムの目的を。
そして、さらに面倒臭くなった。
「目が見えねんだ。外見の変化なんて分かんねえよ」
「まったく。見違えたの一言で済むというに。これだから男ってヤツは」
ミオ・トーンライムの声ではなく、肉体に耳を傾けた。確かに燭を召喚する前に比べ、骨格にも筋肉にも加齢による軋みが少ない。折れた左腕も寛解している。心音もいくらか躍動的だ。理屈は判然としないが、本当に若返ったのかもしれない。
「ギークにも女心があるとは驚きだ」
「失礼な話だよ」
「頭のてっぺんから足の先までロリータなナリしてんだから、歳なんぞ気にすることじゃねえだろ。老けないにも程があるわ。そもそも、いくつなんだよ」
聞くや否や、ぎしりと場が静まり返った。怒ったというよりも驚いたような顔をするミオ・トーンライム、視線を伏したイトネ、顔を手で隠して「あちゃ」などと漏らすヴァカヂ、三者三様の反応が沈黙を助長する。
静寂の中、ミオ・トーンライムが口火を切った。
「右王、左王。アーマード・コア・モードに移行。ニューローマ制御呪式グノーシス限定解除。有始者、有未始有有始者、有未始有夫未始有有始者――」
鳥居から二対のエターナル・コアが現れ、ミオ・トーンライムを中心とした円軌道を、高速で周回し始めた。
「――道出一原、通九門、散六衢、設於無垓之宇、寂寞以虚無」
ざっとミオ・トーンライムが右手を前に突き出した。腕の動きを追って、エターナル・コアが周回の中心を右の開手に移す。 ざわりと悪寒を覚えた刹那――
「陰陽相薄感而為雷――女に歳を聞くヤツがあるかあ!」
通路いっぱいに溢れたミオ・トーンライムの怒気――永子線バーストに、カ・ガノは瞬く間に飲み込まれた。通路の端から端を隙間なく埋め尽くす熱線によって、衣服が一瞬で蒸発し、プロトファスマの堅固な外皮までもが軽々と炭化した。次々と剥離する皮膚に、再生が追いつかない。GAPが分裂する端から焼け落ちて気化する。
果たして、数秒の照射の後、通路に残ったのは真っ黒に焦げたカ・ガノ独りだった。足下に開いた穴の奥には、慣れ親しんだ音が二つ。いつ避難したのか、いずれにせよイトネもヴァカヂも無事なようだ。ただミオ・トーンライムの気配だけが、忽然と消えている。
「煙草の火要らずだな。次は貸さねえぞ」
言った直後に、カ・ガノはふっと気付いた。先までミオ・トーンライムが立っていた辺りに、何かが落ちている。
四角い。
小さい。
嗚呼と理解して、カ・ガノはそれを拾い上げた。ミオ・トーンライムが好んで飲んでいた煙草だ。まだ数本、残っているようである。
カ・ガノは慣れた手つきで一本だけ引き抜くと、いかにも不味そうに口に咥えた。
そうして緩々と、ニヒルな笑みを浮かべながら、カ・ガノは楼蘭皇国の深淵に姿を消したのだった。