眼鏡を購ったその足で、修次郎は佐々木家の墓に向かった。既に日は落ちた。肝を冷やすついでという訳ではないが、昼間の暑気から逃げるように、自然と足が向いたのだった。
何年ぶりの墓参だろうか。
学生の時分――皇国大学一回生の年の盂蘭盆以来だから、かれこれ十四、五年もの無沙汰となる。不義理も良いところ、さぞかし先祖代々の霊もおかんむりに違いない。加茂だ佐々木だと家柄に執着する一族だけに、お怒りもひとしおだろう。
修次郎は渋面を、ゆるく垂れた。
――それにしても意外と覚えているものだな。
実家の墓へと続く暗夜の路行きは、おぼろげな記憶のそれと大差なかった。新調した眼鏡は具合良く、至る所隅々まで見渡せる。
入り組んだ細い路地とはげた石畳。
油土塀のひび。
渋柿のなる老木。
懐古の情に誘われるまま歩いてみれば、いつのまにやら目的の墓地に着いていた。佐々木家に連なる人間は、全てこの地に埋葬される。無論、夭折した修次郎の父も母も眠っている。
――俺が死んだ場合は、果たして。
場所柄か、縁起でもない考えが、浮かんでは消えた。死後まで血縁に囚われたくはないが、自らの起源であるために消しようもない。
修次郎は眉根を寄せた。
両親とは不仲だった。特に母との関係が最悪だった。出来の良い兄の清一郎が大事に育てられる一方、修次郎は汚物を見るがごとき目を向けられ、影でなじられ、時には手も上げられた。理不尽な母の仕打ちに対して、多忙な父は黙殺を決め込んでいた。助けられた試しは一度たりとてない。そもそも育児や教育には進んで関わろうとしない人であったことから、父が母の行いに気付いていなかった可能性も否めないではない。また親類縁者や使用人連中が、頭首夫人の虐待に口を出すことも、もちろんなかった。唯一、兄が、清一郎だけが修次郎の味方だった。幼少期、清一郎の胸を涙で濡らすことが多かったように記憶している。複雑なものである。強烈な劣等感の元である兄だけが、幼かった修次郎の精神の拠り所だったのだから。
こじれにこじれた思い出を引きずったまま、とうとう修次郎は佐々木家の墓の前に立った。朽ちつつある墓碑の忌まわしさが、屈折した記憶とあいまって、どこか嫌味だ。捨てたはずの過去が、まるで今の自分と重なっているかのようで、正視に堪えない。
だからか、玉垣の隅に咲く白い花に、はたと目が止まった。鈴に似た小さな花弁が、いくつも連なって風に揺れている。今にもりんと鳴りそうだ。
自然と、手が伸びた。が。
「手を出すな。修次郎」
背後から突然にかけられた声に、ぎしりと全身が硬直した。聞き覚えのある響きだった。長年、努めて忘れようとしながらも、それでいて心の内側にべったりと張り付き、未だに拭い去れずにいる、あの声だ。
「その花を知らぬわけではあるまい」
困惑と葛藤のただ中で、修次郎は無言でうなづいた。本草学を修めたのも、ずいぶんと昔のことだ。だが、なかなかどうして忘れ得ぬものである。この植物に含まれる複数のステロイド配糖体をヒトが摂取すると、嘔吐や頭痛、眩暈、心不全、血圧低下、心臓麻痺などを発症する。そして最悪の場合、死ぬ。
「C29H42O10――コンバラトキシン。他コンバラマリン、コンバラシド。鈴蘭。別名、谷間の姫百合。その毒性についても、もちろん知っているさ」
うつむきながら、下から見上げるように修次郎は振り返った。まるで叱られた子供のような所作だと、遅れて思う。
月光が視界を遮った。目を眇めてみれば、人の形をした月影が立っている。
「触れたくらいじゃ害もない。兄さんこそ、知ってるだろ」
「もちろんだ」
やはり聞き間違いではなかった。声の主は、佐々木家当代頭首宇陀清一郎その人だった。
「息災だったか?」
「久しぶりの帰郷で若返ったくらいだよ」
健在を示すように、修次郎は己の二の腕を叩いて見せた。対して、満足げな清一郎の笑みが、月下にまぶしい。
不意に影が肥大したように感じた。清一郎の強く深い抱擁であると気付くには、未だ時が足りない。理解が追いつかない。
心配させおって――と視界の外で清一郎が呟いてようやく、修次郎は兄の熱を覚えたのだった。
ぐいと清一郎が身体を離すまで、長い時を要した。離れてみれば、力強い双眸に凝視される。
後ろめたさと申し訳なさと、清一郎の瞳の中で力なく首を垂れた。酷く、居心地が悪い。
「帰ったなら家に顔を出せ」
「色々と、その、忙しくて。ごめん」
「お前の元気な顔を見れば、使用人達も喜ぶ」
「そんな、まさか」
「家内にも会わせたい。義弟のお前に、常々会いたがっていたよ」
「へ、へえ。結婚したんだ。おめでとう」
返事をするだけで、息が切れるようだった。清一郎の自信に満ちた瞳に、鷹揚な雰囲気に、一挙手一投足に、心臓を鷲掴みにされるかのような心地を覚える。いっそ家を捨てたことを糾弾し、追い立ててくれた方がずっと楽である。しかし責めるどころか、問い質す気配すら感じられない。
清一郎の言動に、頭が働かなくなりかけた。が。
「トーンライム博士は一緒じゃないのか」
頭を横合いから引っ叩かれたかのようだった。疼痛と絡げて、意識が澄み渡っていく。
手放しかけていた思考を、ミオの名が拾った瞬間だった。
「一緒じゃ、ないよ」
たどたどしく、やっとの思いで応えた。鈴蘭計画なる事案で、ミオと清一郎は通じているのだったか。楼蘭皇国を出てからの経緯については、口さがないミオから既に聞き及んでいるに違いない。
清一郎の態度に得心はいった。が。
「ミオとは別行動中だけど。聞いたよ。亜国と一緒になってMAID開発を進めているんだってね」
「ああ。元は本家の頭首様が始めたことだが、まあ、知っているだろうが、武芸館の一件で引退を余儀なくされてな。後任として、俺が管理することになった」
清一郎の表情が曇ることはなかった。ミオという純粋悪を、修次郎の知る清一郎の正義が許容できるとは考え難い。一抹の嫌悪も見せずことの経緯を語る清一郎の言動には、どういった訳か好意すら感じられる。ミオの甘言に騙されるほど、頭の弱い人間ではない――はず。
果たしてミオについてどれだけ知っているのか、先までの疎意を忘れて、修次郎は清一郎の心意を探った。
「兄さんは、ミオがどういう人間なのか知っているんだよね」
「どうとは? 素晴らしい研究者じゃないか」
「素晴らしい? ミオ・トーンライムだよ?」
「うむ。いかにもミオ・トーンライム博士は、近年まれに見る優れた研究者だろう。G特有タンパクGAPの特定、GAP内共生器官ブラッタリアの発見、そしてブラッタリアを選択的にノックアウトせしめるウィルスLV、近年の研究動向だけ見ても抜きん出ているではないか。LVがなければ楼亜共同開発の話もなかったであろうし、鈴蘭計画も凍結したままお蔵入りになっていただろうな。LVはウィルス兵器への転用が可能ゆえ倫理的に疑問視する声もあるが、どこの国もG危機の憂き目に見舞われている現状を鑑みるに、計画は段階的に進むと思われるよ。もちろん、これは俺個人だけの意見ではない」
そういった見方が強いということだ――と、門隠大社及び楼蘭皇国政府における共通認識である旨を、清一郎が言外に匂わせた。進行中の鈴蘭計画も勘案すれば、なるほどアルトメリア連邦政府高官あたりの言質もあるに違いない。
しかし清一郎の語る研究成果が、多面的なミオの極一部でしかないことを、修次郎は知っていた。
「兄さん。それだけじゃないだろ。ミオの研究は、そんなもんじゃない。Gの品種改良とネグレリア属Gフォウレリの開発、他生物にGAGを逆転写するREDsウィルス、ヒトへの影響懸念から凍結されたウィンターレイン。どれもこれもが、一歩間違えば被害甚大だ。知らない訳じゃないだろ」
「修次郎」
「兄さんの目は節穴なのかい? あんな人格破綻者を野放図にして。楼蘭に来てからだって、そうだ。永子加速衝突実験だグノーシス開発だと好き勝手やって」
「落ち着け、修次郎」
「楼蘭を食い物にするだけだ。世のため人のためだとか、微塵も考えないような人間なんだ。およそ正義に悖る考えしか持ち合わせていないのがミオなんだ。だから――」
「修次郎!」
清一郎の強い口調に、修次郎の語気が萎縮した。
言葉に詰まりながら見返してみれば、清一郎の真摯な瞳に、さらに気圧された。胃の底に、溶けた鉛が満ちていくようだ。
「随分と饒舌だな」
「そ、それは、だって、ミオの悪行なんて枚挙に暇がないから」
「なるほど。そうか。しかし若い頃、学生の時分にだって、お前の口から他者について話を聞いたことがなかった。他人に興味がないのかと思っていたくらいだ」
「だから、それは、それだけミオから迷惑を――」
「修次郎。今、お前、笑っていることに気付いているか?」
言葉が、枯れた。
清一郎の言いを理解できなかったがためではなく、理解してしまったがゆえの沈黙だった。日常を軽々と逸脱する個性に、憧憬を覚えなかった試しなし、と言ったら嘘になる。どうということはない。博覧強記かつ傍若無人、サイエンスとオカルトを併せ持つミオに対して、修次郎は魅かれているのだ。全てを敵に回しても、純粋に、混じり気なく研究を希求する精神に魅せられているのだ。
妖しく笑うミオに。
震える手で頬をなでてみれば、引きつったように口角が歪んでいることが分かった。清一郎の指摘通り、同居人の奇っ怪な魅力を誇示するように、醜く笑っているのだろう。
「修次郎。清濁合わせてモノを見ろ。判断しろ。為すべき目的のためならば、服毒も厭うな。善と悪は不可分だと知れ」
「兄さんは、ミオがどういう人間か――」
「俺の目的に博士は必要だ。排除する道理などなし。俺達は最後の金烏の血族なのだから」
最後の――と、清一郎が念を押すように繰り返した。
修次郎の目には、その瞬間の清一郎の表情が、とてもこわくこわく映ったのだった。