眼鏡を新調するという修次郎を見送った後、ミオはねぐらを出ることにした。楼蘭皇国での案件も、いよいよ大詰めである。入国以来、加速永子衝突実験やらG.N.O.SYS(グノーシス)開発やら紆余曲折あったが、ようやく当初の目的である鈴蘭計画を最終段階に移行できる。G細胞内小器官ブラッタリアを標的とするウィルス兵器『Lilly of the Valley:LV兵器』の開発も終わり、残すはLV兵器を標準装備するMAIDを用意するのみ。いささか遠回りが過ぎたか。
「待たせたね。さあ。行こうか」
玄関口に待たせていたMAIDを伴って、ミオは外に出た。修次郎の護衛を任せていた刑部(ぎょうぶ)だ。
路肩にとめられた自動車のドアを、刑部が恭しく開いた。折りたたみ式の幌を持つ型、いわゆるフェートンと呼ばれる自動車である。フロントには、日の丸に紺のライン、そして自動車のブランド名を白抜きで刻んだエンブレムが飾られている。
ステップを頼りに後部座席に乗り込むと、遅れて刑部が運転席に座った。
「古家の研究室へ。運転しながらで悪いが、大烏の件について報告を聞かせておくれ」
バックミラー越しに、刑部が目礼した。
修次郎の護衛と平行して、刑部には山県犀軒の協力の下、元門隠大社所属の陰陽師一名の洗脳を命じてあった。政府や門隠大社が隠蔽したがっている人物を手駒にするためである。
予定通り目的だけ与えて世に放った、と刑部が言った。
「いやはや。ご苦労様。中佐にもお礼をしないといけないな」
「おそらく山県中佐は、大陸に渡ってしまわれたかと。被災はごめんだそうです」
「やっぱり感づかれたか」
自然と笑みがもれた。あわよくば山県犀軒の鼻を明かしてやろうかと頭の片隅で考えてはいたが、海の向こうにまで木気を伝えるには仕込みが足りない。また断行するほどの強い動機もない。仮に今、華島大社の要石を破壊し、大量の木気で楼蘭皇国の大地を揺るがしたなら、はたしてどうなるか。海外で報を耳にした山県がしたり顔でほくそ笑むだけである。それは、いかにも癪だ。ならば、いっそのこと――
「壮んな木気は、別の機会に使うとしようか」
車窓の向こう、移り行く景色を眺めながら、ミオは別のことを考え始めた。
*
皇国大学の数ある研究棟の中に、古家製薬研究開発管掌にして代表を務める古家啓子の研究室はある。郊外に立地しているためか、敷地は広大だ。その広い土地に、モダンなデザインの研究棟が点在している。
行き交う学生の間を縫うようにして、ミオはM棟と記された建物に入った。ぎいと軋む扉をくぐってみれば、途端に人の流れが途絶えるから面白い。まるで建物自体が、人の立ち入りを拒絶しているかのようだ。
「なるほどね」
「どうしましたか?」
「いんや。なんでもない。それよかさ、ここは皇国大学初のインキュベータなんだ」
「孵化器?」
「大学が持つ知財をもとに、会社を興して育てましょって施設だよ」
目的の古家製薬は、古家が皇国大学在籍時に設立したベンチャー企業を前身とする、医薬品の開発製造企業である。メッセンジャRNAに関する技術をはじめ、数多くの特許を国内外で取得・申請しているグローバル企業だが、未だ開発拠点が、皇国大学内の研究棟の一室であることを知る者は多くない。
薄暗い廊下を進んだ最奥の部屋の扉を、ミオはノックもせずに開いた。
「失礼するよ」
返事を待たずに、ミオは部屋の奥へ奥へと進んだ。埃の積もった専門書の山を避け、床に転がったビーカーを足蹴にし、そよ風の吹き込む窓辺に向けて首を伸ばす。
果たして、深窓で爪の手入れに没頭する古家を見つけた。しなやかに伸びる指を陽光に照らし、綺麗に整えられた己の手を涼しげに眺めている。
呆れ顔でミオは声をかけた。
「これ。無視するでないよ」
背後から声をかけられて初めて、ミオと刑部の存在に気づいたようだった。よほど驚いたのか、両肩をびくりと跳ね上げて。そのまま首をすくめて振り返る仕草は、いかにも少女のようだ。およそ企業家らしくない。
案の定、口調もまた、らしくなかった。
「ヤダ。ミオ? え、ウソ」
「何だい。狸に化かされたみたいな顔して。美人が台無しじゃないか」
「いや、だって。良く入国できたね」
「オマエさんの時よっか楽だったさ」
久しぶりの再開に、ミオは古家と一緒になってはしゃいだ。
現状の報告に、取りとめのない思い出話など、一しきり語り合った後に、はたとミオは刑部に向き直った。そして古家に紹介した。
「この娘はMAIDの刑部。楼蘭でのサポートをしてもらってる。刑部や。こちらが古家製薬代表取締役の古家啓子、もとい赤の女王のメイトリアークだ。その内、一緒に仕事をしてもらうでな。よろしくしてやっておくれ」
いつも冷静沈着な刑部がどのような反応を見せるか、ミオは黙って待った。赤の女王とは、Gの一種だ。人類とMAIDが不倶戴天の敵として絶滅を望むGこそが古家製薬の代表者であり、かつ鈴蘭計画の中核にいると知った今、はたして刑部がどのように反応するのか。ひたすらに興味深い。
だが。
「はじめまして。よろしくお願いします」
微塵も動じない刑部に向けて、ミオは口を尖らせた。
「もう少し驚いてくれても良かろうに」
「いえ、とても驚いています。思考に集中すると、無表情になる性質でして」
今しがた得たばかりの気付きを整理するように、刑部が短く沈黙した。ほんの数瞬の思考である。
次に口を開いた刑部からは、確信が感じられた。
「大烏は、このためだったのですね」
「その通り。彼奴には、罪を償ってもらう。漏れなくね」
「ねぇ。大烏ってナニ?」
「刑部。お願い」
「かしこまりました。大烏とは――」
蚊帳の外で手持ち無沙汰にしていたメイトリアークへの説明を、ミオは刑部に任せた。これから楼蘭皇国にて一緒に仕事をする者同士、今の内からお互いの言葉で意思の疎通を図ってもらうためである。修次郎や龍井がこの場にいたら、面倒なだけだろうなどと揶揄されたに違いない。
日華流の顛末と、大烏洗脳について説明を受けたメイトリアークが、大きな瞳をさらに見開いて、驚きの声を上げた。
「龍井って犯罪者じゃないのに、あんな悪人ヅラなの? マジウケル」
「なぁ。傑作だろう。悪ぶっちゃいるけど、中身は清いんだ。ウブなんだ。だから、いじめてくれるなよ」
「アハハ。そんなことしないって。てか、今日は龍井や修次郎と一緒じゃないんだね」
「修次郎は眼鏡屋、龍井は拉致られたまんまだからね」
「大丈夫なの、それ」
「ほっときゃいいさ。龍の字も餓鬼じゃなし。ケツの拭き方くらい心得ているだろうよ」
「いや、修次郎の方。一人で大丈夫なの?」
嗚呼と言って、ミオは刑部をちらと見た。グノーシス開発を機に、既に修次郎護衛の任は解いている。
「最前までは、この刑部に修次郎のおもりをしてもらってたけど、今はもう大丈夫だろうよ。軟弱だけれども、あれでなかなか、したたかな面もあるでな。それに式につけさせとる。独りじゃなし」
「相変わらず大事にしてるね。数少ない友人だもんね。修次郎は」
返事代わりに、ミオは微笑んだ。
アルトメリア連邦で共に研究した者によって、ミオは告発された。楼蘭皇国に渡った後も同様だった。道徳やら倫理やらに依存する精神の何と多いことか。それどころか自己の内と外に異なる規範を持ち、判断を委ね、果てには疎外してしまうのだから滑稽だ。利害の一致から手を握る者――極端な例がカ・ガノ・ヴィヂだ――はあれど、無償の隣人は未だかつて得た試しがない。
「男共は置いといて、計画の進捗はどうかね」
「順調だよ。検体のMAIDも元気だし、LVとの親和性も良いし」
「検体に会わせておくれ」
「オッケー」
雑然とした研究室を出ると、案内のためにメイトリアークが先に立った。聞けば検体が寝起きする部屋は、研究棟の最上階だそうな。
「門隠からは閉鎖施設で厳重に管理しろって言われたんだけどさ。女の子にそんなことすんのって可哀想じゃん」
「それで最上階の一室をあてがったっての? そんな無理が、よく通ったもんだ」
「いや、通ってないんだな、これが。最初は核死したMAIDの素体を、その施設に引き渡して誤魔化した。体は生きててもコアが死んでんだから、すぐにバレたよね。次は幻覚の類の呪。警備のスタッフ全員にかけまくってもらったから、問題が噴出しちゃってさ。でも、一週間くらいは騙せた。式神で代用したり、薬使って職員を譫妄状態にしたりもした」
「で、今は?」
「面倒くさいから施設とここの一室を、空間的につなげてもらっちゃった」
「清一郎も難儀しただろうに」
げらげらとメイトリアークとミオは笑った。修次郎の兄である清一郎は、メイトリアークの配偶者でもある。陰陽の法に長けた加茂の分家筆頭である清一郎ならば、数十人をくらます程度の呪など朝飯前だろう。
最上階には、扉が一つだけあった。大仰に施錠されている風ではない。また、監視装置の類も見当たらない。出入りは制限されていないように見受けられる。メイトリアークらしいと言えば、らしい。そしてメイトリアークには分からぬよう、複数の呪を張り巡らせている点が、いかにも清一郎らしい。検体が外へと出られぬような結界の類と思われる。ただ、真偽を明らかにするほど、ミオはお節介ではな。
呪を一瞥だけして、ミオは扉のノブに手をかけた。
「さて、ムクロとの対面だよ」