たにまのひめゆり   作:四乃宇内

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断片 六

Nevermore――と、烏が嗤(わら)った。

卑しく耳に響く啼き声に、たちどころにして私は夢の中にいることを悟った。白と黒だけの色彩に欠けた自室で、烏と孤独に対峙する、あの悪夢だ。ひときわ暗い色の烏が、多くを語ることはない。こわく嗤うか、そう、『Nevermore』と呪詛の言葉を繰り返すだけ。倦み疲れた精神には、ただただ堪えるばかりだ。

だから私は、力なく恨みがましい目で、烏を睨み付けたのだった。

だが。

 

『さて、それだけでございましょうか』

 

不意の声に、私はしたたかに面食らった。ぐらりと世界が傾くような気さえした。そうして揺るがされた私は、無様に目をむき、大口を開け、背筋に厭な汗をかきながら、酷くうろたえたのだった。合わぬ歯の根、硬直する全身、狼狽を寸分も隠せないことが口惜しい。

また厭らしく烏が嗤った。

 

『それほどに驚かれなくとも。私が聾唖(ろうあ)だとでも、お思いでしたか?』

 

私は反射的に目を閉じ、耳を塞ぎ、夢に背を向けた。心の中で夢ならば覚めてくれと、繰り返し祈り続ける。聞き間違いではない。烏が、あろうことか人間の言葉を、流暢に喋っているのだ。夢だからと言って、そのような非常識がはたして許されるだろうか。

しかし、さらに事態は酷薄だった。

 

『汝、想う。ゆえに我ありとでも申しましょうか』

 

遮断したはずの夢が、忌まわしい烏の声が、塞いだ耳を通り抜けて、無遠慮に私の内部に分け入った。頭に直接響く、その啼き声。粘着質な語り口。何もかもが不確かな夢の中にあって、いやらしい烏こそが際立って存在感を放っている。

今、私よりも!

 

『これは悪い夢です。ゆえに私から、私の声から逃げることは不可能です。諦めて下さ――』

 

私は叫んだ。堪らずに絶叫した。咽喉が張り裂けんばかりに。自らの内で響く烏の声を打ち消すために、声ならぬ声を張り上げた。夢を悲鳴で満たす。私の痛々しい泣き声で薄闇を除け、代わりに私の中の虚(うろ)を吐き出す。私以外の存在が絶えるように、私の負の感情で隅々まで満たす。

そして絶望と共に、息が枯れた。眼を閉じ、耳を塞ぎ、沈黙する私の前に横たわっているものは、冷たい闇と静寂。鳴りを潜めたか、烏の下卑た嘲笑もない。

だが、返って静けさは恐怖を助長した。私の胸の内で、恐ろしい妄念が肥大する。鎮まれ、惑わされるなと心の内で連呼すれども、悲しいかな、魔を夢む我が総身の震えは、一向に収まろうとしない。見えぬがゆえ、聞こえぬがゆえ、おののきに抗えないのだ。去来する恐怖に、目をつむることも開くこともままならない。

 

――ここ過ぎて神経の苦き魔睡に。

 

どれだけの間、狂おしい静けさの中で眼裏(まなうら)の闇を凝視していたか。私と闇と、そして夢の領域が不確かになった頃、私は気付いたのだった。悪夢の重圧感が薄らいでいることに、あの烏の存在感が消えていることに、私はようよう気付いたのだった。不思議なもので、ぬかるみから抜け出したかのように、途端に全身が軽くなる。

まさかと思い、私は恐る恐る目を開いた。

 

――ここ過ぎて官能の愉楽の園に。

 

深く長く、私は息を吐き出した。目に映ったのは彩りを取り戻した自室、つまり見慣れた現実の光景だった。夢ではない。卑しく啼く烏もいない。灰色の夢から覚めたのだ。狂気の時は去ったのだ。

全身から力が抜けた。そのまま床に突っ伏してしまいかねないほどの安堵に、頭の中が空っぽになる。

思考停止したまま、しばし私は呆然とした。

 

――ここ過ぎて曲節の悩みの群に。

 

ぽっかりとした空洞を胸の内に抱いたまま、身体を引きずるように乱れた寝床から這い出た。重い足取りで廊下へと向かう。

妻の啓子はどうしたのだろうかと、ふと私は思った。本家の頭首に呼ばれたと言っていたように思う。今頃は本家の屋敷か、それとも帰宅しているのか。いずれにせよ一体全体、本家は啓子に何用があるというのだ。

孤独感と猜疑心に苛まれながら、自室の戸を開いた――瞬間、私は固まった。全身が凝固したかのように、私はその場で動きを止めたのだった。

 

「詩の生命は暗示にして、単なる事象の説明に非ず――と申します。詩とは、すなわち暗示。そう。また夢も然り。暗示でございます」

 

開けた戸の先に、仮面をかぶった男が立っていた。そして、いたずらに焦りを誘う声で、暗示でございますと言ったのだった。

私の中で何かが崩れる音がした。それは現実と夢を隔てる壁だ。夢から夢魔の烏が顕現したかのようである。しかし、なぜ、そのように思ったのか。

 

「さらば我らは神秘を尚び、夢幻を歓び、そが腐爛したる頽唐の紅を慕ふ」

 

それはひとえに、男の顔を隠す仮面が、烏の頭部を模していたからだった。獰猛な口ばしが男の鼻頭から突き出している。面に走る二つの亀裂は、両の眼を表したものか。烏の濡れ羽色に染まった面相と、男の頭髪の境い目は区別もつかない。

私の動揺を知ったか、夢に見た烏のように、烏面の怪人が嗜虐的に笑った。

 

「哀れ、夢寝にも忘れ難きは青白き月光のもとに欷歔く大理石の嗟嘆也」

 

よく通る男の声が、拍子木の鳴るように、かんと響いた。そして同時に、私を混乱の極みへと押し上げた。悪夢とともに拭い去ったはずの妄念が、再び肥大する。膨れ上がった恐怖が咽喉の奥から悲鳴となって漏れる。揺れる。揺らぐ。寄る辺なく、すがるものすらない。足下は覚束ず、眼は眩み、意識は遠ざかりかけている。

 

「その苦衷、お察し申し上げます」

 

いやらしく口の端を曲げながら言う怪人に、とうとう私の怒りは発火した。

 

「キ、キサマに何が分かる! そんなに。そんなにも、俺を」

「どうか落ち着いて下さい」

「黙れ痴れ者が! 厚かましくも夢から現れよって」

 

私の錯乱が面白いのか、烏が呵々と笑った。嘲笑交じりに肩を揺すり、声を上げている。曲がった口の端から覗く白い歯が、やけにペダンチックだ。

 

「何が夢で、何が現実か。こんなにも不確かな世界にいて、何が夢で、何が現実か。いったい何を根拠に区別すると――」

「烏の分際で、さかしらぶるな!」

「からす、でございますか。これは異なことを」

 

烏が着流しの袖をひるがえした。仮面の色合いに倣うように、返した袖の色も黒ければ、裾も襟も黒い。

 

「視力と知能に長けた烏は、古来より慧眼の象徴とされてきました。そして、太陽や神の使いとして崇め奉られてきたモチーフでもあります。三本足の烏は吉兆として、権力者に好まれた時代もあります。門隠の加茂家が祭る金神も、そのバリエーションです。また久摩野三山が配る牛王法印には、無数の烏で形作られた文字が記されています。伝承によると、久摩野において烏とは、三山――本宮大社と早多摩大社、奈智大社の御使いとされています。よろしいですか。この国において烏とは、本来的にネガティブな属性、陰気を備えておりません。反対に、烏に対するネガティブなイメージは、西洋の文化圏でよく見られる特徴です。病や不吉を運ぶとされています。が、いずれにせよ、ここは極東の楼蘭皇国。ですから」

 

理解を求めるように、仮面の男が両手を広げた。手の動きにつられて、袖が翼のように揺れる。

そして、甘く、いつかのように囁いたのだった。

 

「そんなにも恐れる必要はございません。ましてや夢と現実が模糊とした今、夢の中の烏に、果たして何事がなしえましょうか。世に言うではございませんか。現世(うつしよ)は夢――」

「――夜の夢こそ真(まこと)」

「さようでございます」

 

満足げに首肯する烏の姿と、自らの口をついて出た句に、ふと既視感を覚えた。どこで聞いた言葉だったか、余韻に過去をまさぐられているようだ。明滅する灯りの中で、慇懃な口調で、そして恐ろしく落ち着いた声で。いつだったか、そう、間違いない。

私は、この烏の怪人と会ったことがある。その時に聞いたのだ。酷く蒸し暑い夏の、あの夜に、二人きりで。

しかし追憶は、わざとらしく首を傾げる烏によって、簡単に遮られた。

 

「それにしても奇妙でございますな」

 

奇妙と言うならば、何もかもが奇天烈だ。今さら、何を指して不思議に思うことがあろうか。

烏の視線を探ってみれば、なぜか、はたと目が合った。

 

「釈迦に説法とでも申しましょうか。陰陽に長けた加茂一族において、分家筆頭である佐々木清一郎様であれば、この国における烏の特異性について私がお教えすることなどないはず」

 

烏が足音もなく、一歩、前に進み出た。衣擦れの音だけが響き、静寂に拍車をかける。

 

「そも烏の姿で現れる金神。その金神を祭る加茂家に連なる人間であるならば、夢であろうと現実であろうと、顕現した烏を、まず恐れはしないでしょうな」

 

姿勢よく、一呼吸ごとに足を運ぶ烏。こま落としの静劇のように近寄る烏の姿が、いかにも威圧的だ。そして、いかにも覚えのある状況だ。

 

「さて、洋の東西で烏に対するイメージが異なると申しましたが、そのどちらにも属さない地域が、実はございます。中東のラヤード共和国――二大国クロッセルとザハーラに挟まれた小国です。国民の九割以上をダヴ教徒が占めるラヤードにおいて、烏は自由の象徴として崇められております。そう。自由の象徴レイヴンとして」

 

押し殺した笑みを漏らしたかと思えば、途端に烏が破顔した。肩を揺らし、割れた石榴のように口を開いている。

 

「ところで貴方」

 

一転、烏が――たぶん仮面の下で――困ったように眉を寄せた。

 

「誰でしたっけ?」

 

心に火花が散った――が。

気付いた瞬間に、私は反射的に己の名を絶叫していた。

 

「わ、我は佐々木宇陀清一郎なるぞ」

「左様でございますか。では、佐々木家頭首が代々襲名する『宇陀』の由来も、もちろんご存知でございますよね」

 

私の返事を待つことなく、宇とは――と烏が張りのある声で言った。

 

「宇とは、空間の広がりを表す文字です。故天之圓也不得規、地之方也不得矩、往古來今謂之宙、四方上下謂之宇――華国の書物である鴻宝斉俗訓には、四方上下、つまり天地と東西南北を宇と言うとございます。そして陀とは、古代ラヤードの言語の音に字をあてたもの。字義は様々ございますが、この場合は呪を意味する文字として用いられたと伝えられています。要するに宇陀の二字には、空間を統べる呪を操る者という意味がございます。本家加茂の太祖は、自由自在に彼岸と此岸を行き来したと聞きますし――」

「何が言いたい」

 

烏の長広舌の合間に、私は言い知れぬ嫌な予感を覚えた。それは先ほど垣間見た過去につながっているようにもうかがえる。

 

「もし貴方が、真に宇陀清一郎その人であると言うならば」

 

誰かに証明してもらえばよろしい――目の前に立つ烏が、夢の中の烏のように言った。私の心の中を見透かしてでもいるかのような、そんな態度だ。

事実、我が意を得たりといった風に、烏が私の胸を指差した。胸中で想う人は、妻の啓子を置いて他にいない。

 

「そう。その方。奥方は今どちらに?」

「け、啓子は、今、本家に」

「それもまた奇妙な話ですな。貴方がここにいて、奥方だけ本家に出向いているとは。いつ頃から――そうですか。分かりませんか。昨今、加茂家について、良からぬ噂を耳にすることがございます。曰く、女人をかどわかし人体実験に供しているとか」

 

啓子が本家に呼ばれたと言って、この家を出たのは、はたしていつのことだったか。思い出そうにも、霞がかかったかのように漠として判然としない。

ただ妙に物憂げな記憶としてしか想起されず、訳も分からぬまま気付けば頬を伝う涙となって感情だけがこぼれ落ちた。

 

「Weep now or Nevermore――今、涙を流さなければ、二度と会えない。アミンもそう言っております」

「俺は、どうすれば」

 

簡単なことです――と恐ろしく甘い声で、烏が言った。そして驚くべきことに、その烏の声を聞いた私は、心底安心したのだった。

悲しみか喜びか、あるいは両方かも分からぬ落涙に困惑しながらも、私は目と鼻の先に立つ烏へと手を伸ばした。

誘惑は、ことさらに甘美だった。

 

「貴方は烏です。貴方こそが烏です。今、この瞬間から、自由の象徴の烏となったのです。どうか恐れずに、受け入れなさい。誰も貴方を束縛できません。ですから取り返せばよろしい。貴方の手にあるべきものを。貴方が愛する奥方を。貴方の存在のためにも」

 

言い終えた烏が、烏の仮面を外した。その素顔は見えない。否、目付きや鼻梁など個々の部分は認識できる。鷹を思わせる睫線、通った鼻筋、力強い口元、およそ精悍な容貌だと分かる。だが、全体は杳として知れない。部分は分かれども、人の顔として全体を組み上げ認識することが、なぜかできない。否々、最早、目の前に立つ男の顔など、私にとってどうでも良いのかも知れない。いかにも些事なのだ。なぜなら私こそが烏なのだから。

だから。

私は何も言わずに仮面を受け取ると、恭しく己の顔にあてがった。

 

「Quoth the Raven "Nevermore."」

 

そして私は一人、自室を後にした。

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