流れ着くように、ふらふらと修次郎は芳原遊廓にたどりついた。
深い闇の中、薄っすらと灯りを放つ夜の芳原遊郭は、明暗の儚い対比に彩られていて、どこか誘蛾灯に似た印象を受けた。朱や橙など暖かい灯明にぼんやりと染まる光景が、肌の温もりを人の心に映すのだろうか。事実、いつの世にあっても男の情念を惹きつけて止まないのだから、誘蛾灯の例えもあながち間違いとも言えまい。
「盛んなもんだ」
倭都の北東に位置する芳原遊郭は、楼蘭皇国の中にあって、売春と、その運営にかかる独立自治を特例的に認められた、言わば異界だ。敷地の周りは長大な壁によって囲われており、言葉の綾などではなく外部から隔絶されている。
その異界と外界をつなぐ唯一の扉――見返り大門を、修次郎は溜め息交じりにくぐった。真夏の炎天下を、超絶に元気なパトリシアに引き摺られるようにして歩き回った修次郎の足取りは、大地に縛りつけられているのではあるまいかと錯覚するほどに重い。否、足取りも重ければ、身体まで重く感じる理由は、果たして疲労だけだろうか。
ふと視線を転じた。大門の影に腰かけるのに手ごろな高さの木箱がある。
足腰の倦怠感にぐいのぐいのと背を押され、修次郎はどっこいせなどと爺むさく言って、その木箱の上に腰を下ろした。一日の疲れが溜め息となって、身体の奥からどっとあふれる。
「とりあえず一服」
精神安定剤代わりの紙巻――舶来物のマクスウェルという銘柄だ――を、口にくわえた。疲労と呼気を吐き出した肺に、やけに辛い紫煙を満たす。今は女よりも休息よりも、ニコチンやらタールやら健康を害するだけの毒物が、ただただ恋しい。もとより芳原遊郭に足を運んだ理由は、遊女を買うためではない。そもそもパトリシアを連れた周遊で、寂しくなってしまった懐では、線香代など払える訳もなし。
修次郎はミオの言葉を思い返した。
――ヤサは芳原の中だよ。
ラヤード共和国から楼蘭皇国へと渡る洋上で聞いた話だ。ミオの話によると、芳原遊郭は義狼組という組織が自治を取り持っているようで、皇国政府も生半には介入できない領域らしい。その説明の後に、なぜ現在の自治体制になったかという経緯をミオが滔々と語ったのだが、いかんせん、酷い船酔いに苛まれていた修次郎の頭には荷が重すぎたのか、こうして実際に芳原の中に足を踏み入れた今となっても、記憶の端緒に手をかけることすら出来ずにいる。
――どうせ俺には無関係な話だ。
そう割り切った修次郎は、やつれた顔を上げた。往来には男ばかり。右を見ても左を見ても、女人禁制の場ゆえに、目に映るのは好色男か酔漢、はたまた筆下ろし目的の若造か。もう少し奥に行かなければ、女郎屋の店先で遊女を冷やかすともできない。
そんな中に、修次郎の見知った顔があった。
「龍井。今、帰りか?」
雑踏の中に龍井を見つけた修次郎は、反射的に声をかけた。港で別れてから半日も経過していないが、久しぶりに顔を合わせたように感じる。それほどに今日、覚えた疎外感は強かったのかもしれない。
「修次郎。この国では――」
ベロベロだかバルバルだかと、龍井が酷く嫌そうな表情で言うのを、修次郎はぼんやりと聞いて、そしてぼんやりと返答した。犯罪者ゆえに偽名を用いなければならないのだったか。いくつも名前を持つ知己がいると、いちいち状況に応じて使い分けなくてはならないから、何とも面倒なものだと思う。
「ああ。そうか。どうにも慣れん呼び名だ」
名前とは最も短い呪であると言ったのは、父親の知り合いの陰陽師だったか。尋常小学校に通っていた時分だから、優に二十年以上も前のことだ。佐々木の家が医学や薬学、本草学を良く修める血筋だったために、当時の修次郎は日に何時間もの医療関連の勉学を強いられていた。家族よりも教師と時間を過ごすことの方が多かったくらいであり、幼い修次郎少年には少なくないストレスとなったものだ。当然に教師連中に対して、良い印象を持った試しがない。中でも本草学の教師として本家から派遣される陰陽師が酷く小憎たらしい性格をしていたためか、父親の友人だと言う別の陰陽師――随分と目つきの悪い容貌をしていた――を修次郎は慕ったものだ。その陰陽師から、人はもちろんのこと、草木だろうが動物だろうが、万物は名前によって縛られていると教えられたのだった。幼いながらも、佐々木の名に縛られていていた当時の修次郎にしてみれば、目からウロコが落ちた瞬間だった。
「久しぶりの故郷だが。どうだったよ」
龍井の声によって、現実に引き戻された。それでも目は記憶の中の、教育まみれだった二十年前の風景を見ている。だから現在とのギャップは一入だ。
「随分と様変わりしたものだ。昔はビルヂングなんて、ひとっつもなかったじゃないか。それが今やどうだ。俺の知る楼蘭は、もうどこにもないのやもしれんな」
「柄にもなく語るな。切なくなっちまったか?」
「歩き疲れたから、少し後ろ向きになっているだけだ」
「少しは息抜きできただろ」
「いや。ただ疲れた。本当に疲れたよ」
「弱っちぃな。景気付けに女でも抱きに行こうぜ」
なぜかパトシリアの豊満な肉体が思い起こされた。アルトメリア連邦出身のパトリシアに比べると、楼蘭皇国の女は見るからに発育不良だ。背が低い。乳がない。畢竟、色気を感じない。若い頃は家の金をくすねて、間々通ったものだが、永の海外暮らしに染まったか、おしろい塗りの遊女に対して、どうにもたぎらないのだから致し方ない。
「遠慮する。金がない」
「ミオから金貰ってんだろ」
「使ってしまったよ」
会ったばかりのパトリシアのために、手持ちの金は全額はたいてしまった。一番の手痛い出費は、楼蘭武芸館で開催されている剣術大会の当日チケットだった。既に完売していたために、それを言い訳に分かれられると内心は喜んだのだ。しかし、パトリシアの「マニーハ今度払ウカラ、トゥギャザーシヨーゼ」、という強い勧めに押し負けて、やむなく有り金を全てはたいて、ダフ屋から購入したのだった。
「一人で行ったのか?」
龍井の詰問に、修次郎は未だパトリシアと一緒だったと話していないことに気付いた。
「いや。そこいらで会ったMAIDと一緒だったが、だが安心しろ。一人旅ということに――」
「ツェダイか」
「つぇ?」
耳慣れぬ単語を、妙に強い語調で言われた修次郎は、顔を上げた。そして龍井の顔を見て、ぐいと眉根を寄せた。そこに龍井の鋭い目があったからだ。
「パトリシアじゃないだろうな」
「よく分かったな」
「インケンメガネが余計なことをしたんでな。何となく思っただけだ」
インケンメガネとは、ミオの陰湿で破綻した性格とその外見を差して、間々、修次郎と龍井が揶揄して使う言葉だ。お互い、ミオの不条理な下知に悩まされること数知れず、どれだけ煮え湯を飲まされたことか。気付けばどちらからともなく、ミオについて陰口をついていた。
またぞろミオに嫌な思いでもさせられたのか、龍井が神妙な顔つきで押し黙った。
「パトリシアには、つけられてねぇみたいだな」
「知り合いだったか?」
「アルトメリアで一悶着あってよ」
しかつめらしい表情の理由は、ミオとの確執かと思いきや、どうやらパトリシアとの因縁だったようだ。
数ヶ月前に龍井がアルトメリア連邦に出張――体の良い小間使いだ――していたことを、修次郎は思い出した。ミオから聞いた話では、確かエターナル・コアの奪取だったか、回収だったか。アルトメリア連邦の地下治水インフラの端に設置されているエターナル・コアを取りに行ったらしい。
「そういやオマエ、この間、亜国に行ってたっけ」
「何を話した」
既にパトリシアと交戦済みかとか、やはり嘘を吐いて正解だったと修次郎は言おうとしたが、再びの龍井の詰問口調によって遮られた。正直、気分の良いものではない。
だから若干、口を尖らせて修次郎は返答した。
「何って大したことじゃない。さっきも言ったが、一人旅の最中と嘘をついたり、医学を学んでいると本当のことを言ったり。大丈夫。その程度のことだけだ。余計なことは言ってないさ」
果たして、龍井が沈黙した。詫びどころか、返事もないとはどういう了見か。いい加減、文句の一つでも言わなければ気がすまない。そんな憤懣やる方ない気持ちを腹にためて、修次郎は口を開いたが――
「クソ。マスダがいるじゃねぇか」
今度は自問自答するような雰囲気で、またしても龍井に機先を制された。ここまで度重なると、怒らせるためにわざと挑発しているのではと思いたくなるが、しかし、その口調が龍井にしては珍しく荒れていために、先般までの憤りも忘れて修次郎はただ訝しく思った。修次郎の知る龍井とは、ものぐさで覇気に欠け、腕っ節に物を言わせるような面を持ち合わせながらも、ミオの無茶な注文にも少し嫌な顔をする程度の、感情の起伏に乏しい性質をしていたはずだ。
胸中にどのような思いを隠しているのか、目を伏して考え込んでいた龍井が、気だるげな視線を修次郎に寄越した。
「さすが修次郎。面倒くせぇなぁ。ったく」
「知るか。面倒事が向こうから、やってくるんだ」
「わーったわーった」
「俺のせいじゃない」
「わーかったって。ホント清一郎と正反対だな」
清一郎の名を耳にするだに、龍井の苦衷――その正体は依然不明だが――に慮ることを修次郎は止めた。わざわざ人の禍根を引き合いに出し、あまつさえ比較対象とするならば、気を使うだけ損をしているも同然だ。もはや怒るのも億劫だ。
そういった修次郎の心境の変化を感じ取ったか、龍井が太平楽に今日の出来事について語り出した。
本家――加茂の家で会っただの何だのという、龍井の要らぬ説明を修次郎は聞き流した。修次郎にとって聞いても栓ないことであるし、また興味もない話だからだ。
「――で、修次郎。オマエはどうすんだ?」
「どうするって。一度は捨てたんだ。会う気はない」
佐々木家に関係する事柄には、一切関わりたくないというのが修次郎の本音だった。否、もっと厳密に言えば、兄の清一郎との確執から、死に目にも立ち会いたくないし、仮に死んでいようとも線香をあげることすら拒否したいと考えているくらいだ。
しかし、龍井の言いは全く違った。
「そうじゃなくて。オマエ真っ直ぐ帰んだべ。俺コッチだからよ」
芳原遊廓の四つ辻で、修次郎が目指す方向と正反対の道を示しながら龍井が言った。先の「オマエはどうすんだ」という言葉は、どうやら佐々木家への対応ではなく、今日これから女を買いに行くか否かの確認の意味だったようだ。
「遠慮する」
「そうか。俺はちょっと寄り道すっからよ。今日は帰らんかも知れん」
そうして龍井と別れた修次郎は、あれやこれやと思い悩みながら、鈍々(のろのろ)とねぐらに向かった。ミオが用意したという木賃宿に毛が生えた程度の掘っ建て小屋に着いてからも、分裂的な懊悩は鳴りを潜めずに続いた。煎餅布団に包まり、眠気を待つ間中も、龍井への私憤に歯噛みし、パトリシアへの不満に身もだえ、ミオへの恨みつらみに苦しみ、そして清一郎に対する積年の想いにただただやるせなくなった。
そして、その夜、いつ眠りに落ちたかも判然としない中、修次郎は烏に変幻する夢を見た。