加茂泰徳との謁見を終えた後、ミオと分かれた龍井は、楼蘭皇国の異界――芳原遊郭を目指した。ねぐらは芳原の中にあると、ミオから聞かされたためだ。芳原遊郭のように外界から隔絶され、独立の自治が半ば許されている地は、龍井やミオのような札付きにとって実に都合が良い。果たしてミオがどのように用意したものかと疑問に思うが、当の本人を問い質したところで適当にはぐらかされるのが関の山だろうか。
だから龍井は、深く考えないことにした。元より、芳原遊郭に足を向けた理由は、一つではない。
ミオから貰い受けた一日の駄賃を手に、龍井は芳原遊郭の見返り大門をくぐった。
「龍井。今、帰りか?」
大門の脇から、突然に呼び止められた。楼蘭皇国でその名を呼ぶ輩は等しく斬って捨てるべきだが、声の主が修次郎であるならば、話は別だ。聞き慣れた呼び声の方に向き直ってみれば、思った通りの間抜け面を、修次郎がさらしている。
「修次郎。この国ではバルベロと呼べって」
「ああ。そうか。どうにも慣れん呼び名だ」
龍井は修次郎と肩を並べて、芳原遊郭の大通りを進んだ。大門から北へ真っ直ぐと伸びる通りには、きらびやかに飾り立てられた店舗が軒を連ねている。全てが女郎屋だ。それら軒先には格子で閉ざした座敷が設えられていて、一見すると酷く重苦しく目に映る。しかし、格子の奥で艶美に微笑む遊女達を目にするだに、沈うつな印象は一変する。
華やぐのだ。
遊女のしなに、潤む瞳に、艶やかな呼び声に、売春という後ろ暗い印象が、突如としてたぎる情欲に塗りつぶされてしまう。それほどに夜の女は蠱惑的で、世の男は総じて愚かだ。色に曇った目に、芳原遊郭の全景が魔的に華やいで見えてしまっても、当然というべきではあるまいか。
龍井は横目で遊女達を眺めながら、修次郎に向けて口を開いた。
「久しぶりの故郷だが。どうだったよ」
「随分と様変わりしたものだ。昔はビルヂングなんて、ひとっつもなかったじゃないか。それが今やどうだ。俺の知る楼蘭は、もうどこにもないのやもしれんな」
「柄にもなく語るじゃねぇか。切なくなっちまったか?」
「歩き疲れたから、少し後ろ向きになっているだけだ」
港での別れ際に、修次郎が昔馴染みを訪ねると言っていたことを、龍井は思い出した。腐っても門隠大社に連なる血統にして、皇国大学出身の経歴を持つ修次郎ならば、残してきた知己も多かろう。しかし以前の記憶を頼りにあちらこちらに足を伸ばしたは良いものの、一変した町並みに迷子にでもなって必要以上にうろうろと彷徨ったのではあるまいか。だから歩き疲れているのではと、龍井は勘繰った。
「少しは息抜きできたか」
「いや。ただ疲れた。本当に疲れたよ」
「弱っちぃな。景気付けに女でも抱きに行っか」
「遠慮する。金がない」
修次郎が弱々しく首を振った。普段から猫背気味で姿勢の悪い修次郎だけに、肩を落とし、力なく項垂れてしまうと、ますます辛気臭くなる。
「ミオから金貰ってんだろ」
「使ってしまったよ」
龍井は怪訝に思った。龍井の知る修次郎とは、金遣いの荒い人間ではない。ましてや犯罪者との同道なのだから、返って萎縮してしまい、浪費はおろか、店屋に入ることもままならないのではなかろうかと思っていたほどだ。それがどうしたことか、金を使い切ったと言っている。入国に際し、ミオが用意した日当は少なくない額だったにも関わらず、だ。
だからか、胸につかえた嫌な予感を、龍井は看過できなかった。
「修次郎。オマエ。今日どこ行ってたんだ」
「武芸館だよ。楼蘭武芸館。剣術の大会があるらしくてな。それを見物に行ったんだが、いやはや券が意外と高くついてな」
いよいよ怪しい。そのような勝負事に、生来からの負け犬である修次郎が、関心を示すなど前代未聞だ。人ごみがどうのとボヤく修次郎を余所に、龍井の直感が盛大に警鐘を鳴らしている。
ミオの言葉が思い起こされた。龍井達の渡楼を、EARTHも皇国政府も既に知っていると言っていなかったか。ツェダイをわざわざ呼び寄せたとも言っていなかったか。
龍井は、修次郎のやつれた横顔に目を向けた。
「一人で行ったのか?」
「いや。そこいらで会ったMAIDと一緒だったが、だが安心しろ。一人旅ということに――」
「ツェダイか」
「つぇ?」
「ああ、いや、パトリシアじゃないだろうな」
修次郎が、酷く珍妙な顔をして首肯した。
「よく分かったな」
「インケンメガネが余計なことをしたんでな。何となく思っただけだ」
修次郎の疑問に上の空で答えながら、龍井は周囲に五感を巡らせた。向けられている視線は芳原遊女の婀娜っぽいものばかり、白粉の匂い、酒の臭い、早足の男に千鳥足の男、牛太郎の呼び声、灯りと暗がり、後は雑踏、喧騒、また喧騒。
龍井はボルサリーノを目深にかぶり直した。
「パトリシアには、つけられてねぇみたいだな」
「知り合いだったか?」
「アルトメリアで一悶着あってよ」
「そういやオマエ、一ヶ月くらい前に亜国に行ってたっけ」
「何を話した」
「何って大したことじゃない。さっきも言ったが、一人旅の最中と嘘をついたり、医学を学んでいると本当のことを言ったり。大丈夫。その程度のことだけだ。余計なことは言ってないさ」
オマエの大丈夫はアテにならん――という言葉を、龍井は飲み込んだ。注意すべき点は一つ。修次郎と龍井、そしてミオの繋がりについて、パトリシアがどこまで勘付いているか、だ。日華流の生き残りであるバルベロ・フランジェリコと、門隠加茂の分家次男坊である佐々木修次郎との間には、生半には関連性を見出せないように思う。しかし、バルベロと朝比那夜一がイクォールであるという飛躍に気付いていれば、あるいは――そこまで考えて、龍井は思い至った。
「クソ。マスダがいるじゃねぇか」
「増田? 誰のことだ?」
「何でもねぇ。気にすんな。忘れろ」
ヨーダー・マスダ。楼蘭皇国出身であり、アルトメリア連邦でツェダイ流剣術を大成した、生きる伝説だ。在楼中は政界にも門隠大社にも通じていたという。また日華流前頭首である宮木峡初助(みやぎきょう ういすけ)と親交深かったとも聞く。さらに楼蘭皇国からアルトメリア連邦に移り住んだ後には、人知れず暗躍していたミオの罪をあばき、ついには国外へと追いやった経緯もある。振るう刃以上に、頭がキレるのだから、龍井、ミオ、修次郎の三者の関係について気付いても不思議ではない。ましてや弟子のパトリシアと龍井の戦闘からいくらも日が経っていないのだから、なおさらだ。
「さすが修次郎。面倒くせぇなぁ。ったく」
「知るか。面倒事が向こうから、やってくるんだ」
「わーったわーった」
「俺のせいじゃない」
「わーかったって。ホント清一郎と正反対だな」
途端に固まった修次郎の表情に、龍井は昼間に加茂邸で会った清一郎の柔和な顔を重ねた。
「加茂の家で会ったよ。何てんだ。公明正大ってのか、気持ち悪ぃくらいの真人間だな。加茂の秘書みてーなことしてんのが不思議なくらいだ。で、修次郎。オマエはどうすんだ?」
「どうするって。一度は捨てたんだ。会う気はない」
「そうじゃなくて。オマエ真っ直ぐ帰んだべ。俺コッチだからよ」
寄り道する旨を、龍井は修次郎に伝えた。場所と状況を勘案すれば、向かうべき場所はねぐらの煎餅布団ではない。
返事も待たずに修次郎と別れると、一人、龍井は芳原遊郭の奥に足を向けた。
*
大店が並ぶ芳原遊郭の辻を曲がるたびに、灯りが一つ消え二つ消え、徐々に深閑とした闇に染まっていった。喧騒も、歩みを進めるたびに、次第に遠退いていく。遊郭の灯りから離れて行っているのだから、芳原の外へと近づいているようにも錯覚するが、そう考えている時点で既に異界の空気に取り込まれているも同義だ。外界との接点は、大門ただ一つなのだから。
芳原遊郭の端に位置する真元寺の前で、龍井は足を止めた。
安産や多産を司る鬼子母神を祀った真元寺が、芳原遊郭の一角に併設されているのはどこか因縁めいていて、無学で無信心な龍井の目には酷く嫌味に映った。果たして、ここに鎮座ましますは、安産の女神か、それとも赤子を喰らう鬼女か。
「恐れ入谷の鬼子母神――と」
迷いなく龍井は、鼻歌交じりに境内に足を踏み入れた。月明かりを頼りに、石畳の参道を進む。騒々(ざわざわ)と揺れる木々に遅れて、夏の生温い夜風を感じる。
まるで吐息のように。
どこか誘惑のように。
参道の奥から吹き出る夜風を肩で切りながら、龍井は真元寺の本堂を目指した。虫の音もない静寂の中、自らの存在を周囲に知らしめるために、かつりかつりと乾いた足音をわざと響かせて歩く。
道すがら、龍井は肩に担いだ長物の包みを解いた。紐解いた後、はらりと足下に落ちた包みの影から、龍井の愛刀である武鶴二尺七寸があらわになる。
風にさらわれる包みを眺めながら、龍井は武鶴二尺七寸を腰に落とした。折角の指名に、無手では失礼というものだ。
果たして、数十間も行かぬ内に、真元寺の本堂に行き着いた。おあつらえ向きなことに、人気もない。
龍井は本堂に背を向けると、今、来たばかりの参道を睨み据えた。
「いい加減、出てきたらどうだ」
夜のしじまを、風の音がさらった。ざわめく木々の葉が夜空に舞い、その更に上に張り出した夜の雲が天頂の月を隠す。暗夜の薄い黒と濃い黒が折り重なった参道に、男が一人、音もなく現れたのは、月が隠れたためか。
「――いつから気付いていた」
「大門の辺りだな。気配を殺して、人の死角ばっか歩いてるヤツがいるから、何かと思ってみりゃよ。俺からしてみれば、返って不自然に映るってもんだ」
「なるほど。少し、評価を改めようか」
尾行者の顔を、龍井は凝視した。楼蘭皇国民ならば誰もが知っているだろうその顔には、憮然とした表情がへばりついていて、何を考えているのか幾らも読み取れない。
しかし、隠そうともしない莫大な殺気が、全てを物語っていた。
「その腰の――武鶴ニ尺七寸を貰い受ける」
尾行者が、静かに抜刀した。炯々とした眼光、どぎつい殺気、そして妖しい刃紋、何もかもが鋭い。
「首相が追いはぎとは、この国も変わったな。欲しけりゃ殺して奪え」
「失望させてくれるなよ。日華流」
その言葉を合図に、尾行者――東郷清志郎が刀を片手に、地を蹴った。