プロローグ
何時からだろうか。こうして唯一人の少女が集団で虐められるようになったのは。
少女は両の瞳に涙を溜め、蹲って体を震わせ必死に耐えている。
「お前のせいでまた母ちゃんに怒られたんだからな」
酷い言いがかりだった。少年が叱責されたのは少年の責任であり、その際に少女と比較されたのはあくまで少年の母親の言動。少女に何の非がある訳でもない。
しかし、小学校に上がってもいない子供にそんな理屈は通用せず、自分の中の感情を親に向けられない腹いせでしか消化しきれない未熟な精神構造だ。それは周囲の者も同様で、一人の行動に誘発されて次々と腹いせに参加して大きな流れとなり、止まる時を失くしてしまった。
唯のか弱い少女にできる精一杯の抵抗は、『助けを求めない』という意地だけで、現状を打破すること等できるはずもない。それでもそれが少女に与えられた『力』の全てだった。
涙を溜めながらも「いやだ」とも「やめて」とも言わない少女に、少年達はさらに調子に乗って既に暴力一歩手前になったいじめを続行する。むしろ加速の様相を呈していた。
「なんだよ! その目、生意気なんだよ!」
リーダー格の少年の掌が、少女の頬に力強く叩きつけられてパンッと乾いた音を上げる。
「良い子ぶりやがって!」
よろけた少女の背中に別の少年が蹴りを入れた。痛みに少女は表情を歪めるが、それは相手を喜ばせるだけの反応だ。その証拠に少女を取り囲む少年達の顔に下卑た笑みが浮かんでいた。
特段少女は優等生を気取ったつもりなどない。唯尊敬される父と優秀な兄の存在が、少女に奇行愚行を許さなかったというだけだ。それを持っていくら攻め立てられようと少女には改善のしようがなかった。
しかしそれを言ったところで少年達の行動を抑制することなどできない事は正しく理解する程度には少女は優秀だったのだ。理知的と言い換えても良い。感情だけで動いている少年達よりはずっと成熟しているのは間違いなかった。
「何とか言えよ!」
口にできる言葉を少女は持ち合わせていない。そもそも少年の怒声は対話の片鱗すら存在しない一方的な恫喝だ。少女の回答を求める物でも、弁解の機会を与える物ですらない。その言葉に対する反応を理由にこの暴虐を続けるつもりなのだから。
「………………」
「喋れって言ってるだろっ!」
それなりに整えられた髪を掴み、少女の顔を無理やり上へと向ける。痛みに零れそうになる涙を抑え、少女は目を瞑って現実という情報を遮断した。
理由のない行動に対策などある訳がなく、少女は常にこうしてただ現実から目を逸らして耐え続けている。幼い子供にできる唯一の自衛手段。
もう少しだ。
少女はそうやって自分を慰める。少年達が飽きればそこで終わり。例え明日も明後日も繰り返される行為だとしても、今日は終わる。永遠ではない。
そう思い続けて、いつか無くなると願って、しかし現実は無慈悲で。そんな日々をいったいどれ程過ごしてきたことか。もう少女の記憶からは、こんな最悪の状況しか日常として記憶されていなかった。諦め、涙をこらえて流していく毎日が少女の全て。
だがそれでも……。
それでもしかし……。
叶う事なら……。
(誰か私を助けて…………)
蜘蛛の糸以下の細い希望を捨て切れなかった。
「その手を放さぬか、小僧」
響く壮年の男の声。静かでありながら強い力のこもった声に、少女を取り囲んでいた少年達はギョッとする。
「無抵抗の女子に手を上げる等、言語道断! 多勢に無勢となればなおのこと。恥を知らんか!」
一喝!
「……に、逃げろぉおおおおおおおお!」
正に蜘蛛の子を散らすよう。少年達は我先にと男から逃げ出して行く。
少女は呆然とするしかなかった。
変えられないと思った地獄が、目の前の男の唯の一喝で消え去ってしまったのだから。
おさげ髪の男が逃げて行った少年達から少女へと視線を移した。
「全く、嘆かわしい。貴様もだ、己を守るのはその両の拳だけと心得よ」
そう言って、厳しい顔のまま優しい目で少女の頭に手を置く。武骨な感覚に少女は驚くが、その手からは圧倒的な力が伝わって来るような気がした。研究者である父や兄とは違うその力強さには、少女の世界を変える程の有無を言わさぬ説得力を感じる。
「ではな、儂はもう行くぞ」
手が頭から離れて行く。喪失感。
少女は慌てて男の裾を掴んだ。
訝しげに振り返る男と視線が合うと、少女は咄嗟にその手を放してしまう。掴んだのも反射なら、放したのも反射だった。頭の中が真っ白になっていることが分かる。
少女は考える。自分はいったい何をしたいのか。体に任せて動いてしまった二つの相反する行動の意味を。
「ふむ。何のつもりだ小娘?」
「あ…………。おじさん、強いの?」
またもや反射的に答えてしまった。老人が推し量るような視線を向けてくる少女は委縮してしまうのだが、それでも目を逸らすことだけはできない。
直感的に、今が選択の時であることを少女は感じていたのだ。
「強いか、か……。今の儂には酷な問いよ。武闘家としての力に自負はあるが、弟子に越えられた師は自らの武を誇ることができるのか……?」
「武闘家…………格闘術……」
自問する男の言葉から気になる単語を抽出すると、少女は脳内でその言葉を反芻すると、自らの小さな手を何度も握りその無力さを確かめた。
そして、しっかりと男の裾を掴む。
「……どういうつもりだ、小娘?」
「…………私も、武闘家になりたい」
少女はどうしようもなく憧れてしまったのだ。目の前の男に。少女の世界を一瞬で変えてしまった男に。
だが男の表情は渋い。
「それは、儂の弟子になるという事か?」
「……うん」
「止めておけ。武闘家になるなら他にも手段はあろう。何故儂に弟子入りしようなど思う?」
男の言葉は真摯だ。おそらくその通りに一般的常識的思考を持つのなら、ただ強く武闘家になりたいのなら、他にいくらでも手段はあり、こんな選択はしないのだろう。いや、寧ろ男の言葉は選ぶことさえ愚行と言わんばかりだった。
ああ、だけれども、少女は武闘家になりたいの思わなかったのだ。
「弟子にして下さい!」
少女は力の限り叫んだ。魂から湧き上がる叫び声だった。
憧れたのは目の前の男。手にしたいのは男の力。
「弟子にして下さい!」
頭を下げる。男の沈黙が痛いがそれは少女にとって何ら関係がなかった。今は唯、縋るように男に自分の意見を伝えることが少女の全てだったから。この機会を逃したら二度と交わることのない運命だと感じていたから。
だから少女は黙って男の言葉を待った。
「……良かろう小娘。名は何と言う?」
許可が出た。
「レイン、レイン・カッシュです!」
「――!」
ちらりとのぞき見ると、男の顔に驚愕の感情が表れる。そして自嘲的な笑みを浮かべて、これも運命かと呟いているのを、少女は静かに聞いていた。運命の意味は解らないが、カッシュの名に驚かれるのは初めてのことではなかったので、特に意に介すことはない。
そして男の手が再び少女の頭に当てられ、暗に顔を上げると告げられていると感じた少女は、急いで体を起こす。
そこには、不敵な笑みを浮かべた男の姿があった。
「貴様に流派東方不敗を伝授しようぞ! 我が名は東方不敗マスターアジア! 唯の一度しか敗北を知らぬ男よ!」