今となっては嘘か真かわからない。
あるものは子供に聞かせる御伽噺と笑い、あるものは信ずるに値する信仰の対象だと畏敬の念を抱く。
その伝承の始まりを知るものは少ないが、英雄譚とは斯くも似たような始まり方なのである。
森と平野の境界から飛び出した少女を前に、その少女を見下ろす程の巨体を持った獣の亜人が、剣を振りかぶった。
手入れのされていない錆と刃毀れが目立つ粗雑な剣は、今まさに目の前の獲物の命を一撃で奪うように、されど亜人の表情には一切の慈悲は浮かんでいない。
少女は背後から迫り来る殺意に目を閉じ、その十数年の生涯を奪うであろう、わずか数瞬の出来事を覚悟した。
その表情には、この世界で人という種族に生まれた者が持つ特有の絶望感が浮かんでいる。
彼らは
だからこそ結末は一つしか残されていない。
少女はここでその生涯を終えるであろう。あくまでその結末にたどり着くのに早いか遅いかというだけ。
剣が振り下ろされ――
――しかし痛みは訪れることはなかった。
すでに剣を振り下ろされる痛みを覚悟していた少女の体は、今まで全力で前に出していた足を動かすことが出来ず、走ることを放棄したまま転がるように地面に倒れこむ。
後を追うように大きな物が倒れる音が、先ほどまでの恐怖と転倒した痛みで閉ざされた瞳を慌てて開かせて、少女の命を奪うはずだった追跡者に顔を向けた。
そして――絶望を見た。
そこには闇があった――。
夜の闇をさらに濃くして闇と一体化するような漆黒のローブを纏い、死の神を体言した様相の白骨化した頭蓋骨の眼窩には今まで奪い去ってきたであろう魂の炎が揺らめいている。
漆黒のローブから覗く骨の手には自身の尾を飲み込んだ蛇を象った剥製の腕輪と、漆黒のローブとは対照的に闇を照らす黄金に光り輝く杖を握りしめていた。
少女は目の前に突然と現れた異形の存在と、その足元で先ほどまでと何も変わらない見た目のまま骸となった獣の亜人――ビーストマンを交互に確認し、やはり先ほど死ぬはずだったか、今から死ぬかの違いでしかないと悟る。
「ひぃ!」
覚悟をしたはずの死を再び――むしろ先ほどよりもより明確に感じて、少女は思わず引きつったように声を出す。
少女の怯える視線を受けた死の神は、ビーストマンを跨いで一歩近づいた。
一歩、また一歩と足を前に出す死の神は、命の終焉を迎える秒針のように止まることはない。
窪んだ眼窩の中で少女を見下ろすように赤い炎が動き、そのまま死の冷気を感じる程の距離で足を止めた。
呼吸の仕方を忘れたのか、それとも無駄なことと知ってなお、僅かでも音を出す手段を止めることで死の神から逃れようとしているのか。
少女は息を止めて呼吸音を出さず、目の前で歩みを止めた存在と目を合わせないように努めるが、極寒の中を肌着一枚で投げ出されたような体の震えだけは抑えることが出来なかった。
死の神は杖を持っていない方の皮も肉もない骨の手を差し出す。そして顎の骨が開く音と共に口を開くと、異形の姿からは似つかない耳障りの良い滑り抜けるような音を発した。
「―――っ!?」
魔法の言葉か、呪詛の言葉か、または死者の悲鳴でも発するのかと、一瞬だけ身構えた少女は、聞いたことのない”言語”の様な音を発した死の神の頭蓋骨に戦々恐々と視線を向ける。
なおも死の神は同じような、もしかしたら先ほどと違うような気もする音を発して、その白骨化した手を差し出したまま動かない。
――もしかしたらもう少しだけ生きる時間が延びるのかもしれない。
目の前に差し出された手を見て、少女はそんな淡い期待を抱き、乾ききった口を開く。
「助けて・・・いただけるのでしょうか?」
そんな少女の問いに、死の神は驚愕の顔――骸骨に表情はないが・・・――を浮かべて、半歩身を引いた。
死の神が動いた意味を理解することは出来なかったが、手を差し出した状態から動いたという事実だけは、少女の過敏になった緊張の糸を切るのに十分だろう。
「やだっ!ごめんなさいっ!殺さないで!」
目の前の死の神を相手に、頭を抱えてうずくまる。その無意味さを少女は頭の片隅でわかっているし、それはあくまで防衛本能的な行動の結果でしかない。
うずくまって視線を外した少女の耳に、再び死の神の言語が聞こた。
音がするから視線を向けるという生物の性に従い、少女はうずくまったまま音の発生源である死の神に視線を移す。
頬を掻くような動きの後、杖を持った腕にある蛇の剥製の腕輪を見て溜息のように息を吐き出した死の神は、杖と共に腕を天に掲げて、先ほどとは違う力強い音を発した。
風で草木が揺れる音、動物や虫といった生き物の息づく音もしない。一瞬の静寂が周囲を包み込んだ後、空気の振動と酷いめまいが少女を襲った。
死の神によって命を刈り取られたのかとも考えたのか、何も変化のない辺りを見回し手のひらの表と裏を眺めて生きていることを確かめる。
唐突に発生した衝撃を受けても死が訪れていないことに疑問を感じた少女は、この事態の発生源であろう死の神に視線を移し、その光景を見る事になった。
――世界蛇。
死の神が天に腕を掲げた先、10m程の高さに蛇が浮かんでいた。果たしてその存在をただの蛇と呼んでいいのか。
尾を咥えた頭部から互いに正反対の方向に伸びた胴体は樹齢数百年の大樹から切り出された丸太のような太さで、その艶やかな光沢の鱗が脈動するように波打ち、
少女が確認できる視界内よりも先まで伸びている胴体の長さをうかがい知ることが出来ない。
そんな神々の起こす奇跡とも異常とも言える光景を目にした少女の耳に、先ほどから何度か聞いた”声色”が意味を持って耳に届いた。
「動画でしか見たことなかったけど、いざ自分で
突然の言葉に少女には死の神が何を言っているのか理解することは出来ないが、何を言っているのか聞くことは出来た。
そして少女が何もかもが理解できないまま、頭上に浮かんでいた巨大な蛇は光の雫となって地に降り注ぎ、跡形もなく消えうせる。
「あぁ二十が消えた、攻略サイトも情報掲示板もないこの世界で再取得条件探すの大変そうだなー」
片手で額を押さえ、悩ましげに、しかし何も考えていないかの様に軽く頭を振る死の神は、頭蓋骨に穴だけ空いた耳元にもう片方の手を添えて、独り言を続ける。
「ごめん、
見えない騒音から避けるように、耳元に添えた手と反対側に頭を傾けて、死の神はその場には存在しない誰かに謝罪を重ねた。
「ごめんごめん。でも"この世界に存在する者全てが種族の垣根なく会話をできる様になる"っていい願いだと思うんだけど。このままじゃ情報収集も出来ないしさ。それにまた取得できる可能性もゼロじゃないだろうし」
そのまま再び少女へと向き直った死の神は、先ほどと同じように見下ろす。
「それじゃあこれからもう一度現地住民の少女に声かけ――いや、事案じゃないから。ちょっと黙っててくれ。会話が出来るようになってるか確認して、ちゃんと世界級アイテムの効果があったかどうか報告するよ。――見た目?普通の村娘って感じの子だけど。はいはい、わかったから。じゃあ後でな。」
独り言のように続いた寸劇が終わりを迎え、死の神は先ほどより己の理解できる範疇を超えた出来事が続き、怯えたままの少女に手を伸ばした。
「大丈夫か?こっちの言ってる言葉わかるよな?」
コクコクと首が揺れる人形のように縦に振って、少女は死の神の言葉に肯定を繰り返す。
ようやく意思疎通が出来るであろう死の神の言動に、少女は自らの命を賭けた綱渡りで、綱の上を全力で走り抜けるように少女は矢継ぎ早に声を発する。
「殺さないで!どうかお慈悲を・・・死の神様」
「まさか助けた相手に命乞いをされるとは・・・。何でそんなに怖がる?異業種はこの世界にはいない?」
少女の命を簡単に奪うことが出来るであろう存在から、恐怖に怯える理由を聞かれても、死を体言したような見た目だとか、神か化け物が起こす理解不能な現象が原因だとか、正直に口にすることが出来なかった。
「神を前に恐れ多い態度をとってしまい、申し訳ございません。」
「神ではないんだけどね。別に捕って食うわけじゃないんだから、普通に話してくれないか?」
頭蓋骨の前でひらひらと手を振る死の神は、神である事を否定し、友人と話す様に柔らかい物言いで少女を落ち着かせる。
目の前の死の神を体言する存在から薄れ行く死の気配は、まるで今しがたまで死が少女の背後まで迫っていたことが嘘であったかの様に、現実的に、理知的に言葉を発した。
「神ではないのだとしたら、なんとお呼びしたらよろしいでしょうか?」
死の神は少し考え事をする様に頭を左右に揺らし、顎の骨に添って撫でるように指を動かす。
「私のことは、そうだな――」
一拍置いて、これから発する言葉を品定めするように溜めた死の神は、自らを卑下するように目を伏せて頭を垂れる少女に自らの名を名乗った。
「――気軽にスルシャーナとでも呼んでくれ」