今巷で話題のゲームがあった。
『ソードアート・オンライン』
茅場晶彦が開発した仮想空間へのフルダイブシステムを組み込んだ革新的なゲーム。今までの画面の中を動くキャラクターを操作するのではなく、自分自身が仮想のゲーム世界に入り込んでプレイするという。
現実と遜色ない世界で遊べると、クラスの間でも盛り上がっていた。
VRゲームにそこまで興味はなかった。試しにとナーヴギアを買い、DL専用のロープライズゲームをやってみたが、一本道のマップに敵が押し迫るだけの単純なゲームに、すぐに飽きた。
ソードアート・オンライン。話題のSAOのその盛り上がりに、今までのVRゲームとどれほど違うのか。少し気になった。
ネットで情報を集め、公式のPVを見て、今までのものとは違う出来映えに興味が湧いた。
だから、どうにかして手に入れてみた。
想像はしていたが、ソフトはかなりの争奪戦になり、何とか製品を手に入れた時はSAOを欲しがっていたクラスメートに本気で恨まれもした。
だが、元よりクラスに親しい者はいない。言うのもなんだが、孤立しているも同然だ。だから、誰に恨まれようとどうでもよかった。
そして自室で唯一人、待ち侘びた時間を迎える。
「――――リンクスタート……」
2022年11月6日。己の分身たる『フォイル』という存在を作り、仮想世界への扉を開いた。
仮想世界を訪れて最初に思ったのは、違和感がないという事に対する違和感だった。
仮想という現実とは違うものと思っていただけに、普段と変わらない感覚でいられる事が不思議だった。不思議ではあったが、思う通りに身体が動く事に感動し、試しにとフィールドに出てみる。
フィールドを歩き、長斧を振り回して遭遇した猪――モンスターを薙ぎ払ってみる。自分自身の身体で、ファンタジー世界で行われるであろう同じ行為を行う。
それは、思っていた以上に爽快だった。
想像以上に楽しめそうだ。
そう思い、柄にもなく口角が上がって笑みの形を作る。長斧を片手にSAOの舞台、浮遊城アインクラッドの大地を歩き始めた。
午後五時。夕方の時刻に合わせたように、世界が夕日で赤く染まる。
現実の様に――もしかしたら現実よりも美しいかもしれない黄昏時の景色を味わい、キリの良さそうな時間だからとウインドウを操作してログアウトを行おうとする。
しかし、そこにログアウトボタンは無かった。
予期せぬ事に一瞬思考がストップする。気を取り直してもどうしたら良いか分からず、途方に暮れて頭を掻く。
どうしようか悩んでいたら、突然世界が光に包まれた。
光が収まると、そこは広場だった。SAOに入った時、最初に訪れた《はじまりの街》の大広場だった。周りには大勢の人間――プレイヤー達が次々と集まってきている。
これから何が起きるのかと注意していると、空が血の様に赤く染まった。
そこから赤ローブの巨人が現れ、あれが語った事には驚きを隠せなかった。
曰く、ログアウトが出来ないのはソードアート・オンライン本来の仕様である事。
曰く、ナーヴギアが停止、あるいは取り外しが行われた場合、ナーヴギアの信号素子が発する高出力マイクロウェーブが自分らの脳を破壊し、生命活動を停止させる事。
曰く、HPがゼロになれば、ナーヴギアによって脳が破壊される事。
曰く、このゲームから解放される条件はただ一つ、このゲームをクリアする事。
ついでにプレゼントという事で、アイテムストレージの中に手鏡が加えられていた。
手鏡を覗き込むと、そこには気怠げな顔が映っていた。ファンタジーゲームに居そうなキャラクターを想像して適当に作った『フォイル』というアバターが、現実の自分のものに置き換わっていた。周りのプレイヤー達も同様の状態になり、喧騒が広がる。
そして、この行いは開発者茅場晶彦の目的であるという事。彼はこの世界を作り出し、鑑賞する為にのみ、このソードアートオンラインを作ったのだと言う。
その言葉を最後に、赤ローブは姿を消した。
辺りには、帰れない。ゲームの世界に囚われてしまったという事実が、多くのプレイヤーを絶望に叩き込んだ怨嗟の叫びが木霊していた。
彼は一人喧噪を離れて《はじまりの街》を歩く。見上げた空は星が眩いばかりに輝いている。
最初に思い浮かんだのは、意外に思ったが家族の事だった。
茅場が映し出した外の情報の中に、囚われた誰かの為に泣く家族の姿が映っていた。あれを見て、自分の家族は今何を思っているのか気になった。だが、最近の家族との関わりを思い返せば、希薄と言えるだろう。仲が悪い訳ではない。ただ、両親と言葉を交わす時間がめっきり減っている自覚はある。そんな彼らが自分の事をどう思っているのか、想像すら出来ない。
現実と仮想の壁に阻まれ、顔を見る事も出来ない相手の事を考え続け――――時間の無駄だという結論に至り、日は暮れていった。
気がつけば路地の脇で眠りに落ちていて、目が覚めた時には朝になっていた。
昨日のあれは冗談か何かと思ってウインドウを操作するが、そこにログアウトボタンは無かった。
溜息を吐いて、自分が空腹を感じている事に気付く。モンスターを狩って稼いだ金があるので、最安値のパンとジュースを買って口にする。パンは硬くて口に合わない。正直言って不味いと思ったが、ジュースの方はオレンジのような風味で割とイケた。
仮想なのにしっかりと飢えと乾きを感じ、そして味の批評をしている自分がおかしく感じる。所詮は電子の偽物だ、無視してしまえば良いと考えているのに、無視し切れないのは本能と直結している部分だからだろうか。
今日は《はじまりの街》を歩いて回る。
方々に散ってはいるが、多くのプレイヤーを見かけた。
仮想の世界に囚われてから一夜明けても、多くの者が戸惑いと悲しみで打ちひしがれていた。頭を抱える者。道の脇で蹲る者。泣き喚き散らす者がほとんどだ。
彼らはこれからどうするのだろう。これからもああしてジッとし続けるのだろうか。何時か来るかもしれない外からの救助を期待してるのか、誰かがクリアしてくれるのを祈っているのか。それとも、これは悪い夢だと願い続けているのだろうか。
そこまで考えて、興味が失せた。この状況にどんな影響も及ぼす事はないだろうから。
そんなプレイヤー達の傍らで道具を整え、フィールドの外へ向かう者もいた。一人で行く者もいれば、誰かと声を掛け合っていく者もいる。その中でも広場で大々的に声を掛けている者もいた。
彼らはなぜ外に向かうのだろう。本気でこのゲームをクリアする為か。それとも生きる為の糧を得ていく為なのか。もしかしたらやけっぱちになって死ににいった可能性も、無くはないだろう。
彼らがこの先どうなるのか。その行く末に興味は湧くが、所詮は他人の事。結局はどうなろうと、自分には関わりのない事だと切り捨てる事が出来た。
外に通ずる門が見える場所で、街の外に出ていく彼らの姿を眺めている内に、気がつけば日が暮れようとしていた。
昨夜はいつの間にか道端で寝落ちしていたので、今夜はベッドで寝ようと適当な宿を取る。決して寝心地が良いとは言えないが、一日ぶりの布団の温もりに安心して、スヤスヤと眠りについてしまった。
この世界に着て三日目の朝。
起きて、空腹を訴える体を黙らせようと最安値のパンとジュースを買って口にする。
気持ち街中で見かけるプレイヤーの数は減ったと思うが、それでも《はじまりの街》には大勢のプレイヤーが未だ籠っている。
かくいう自分も似たような立場だが、このままここに居続けるのは退屈で仕方がない。
どんなに素晴らしいものでも、三日も経てば変わり映えのしない景色に飽きがくるのだ。
元より遊ぶ為にこのゲームを手に入れたのだ。何時までも引き篭もっていては、手に入れた意味が無い。
死ぬ危険があるから安全の為に引き篭もる。と考える事を否定する気はない。だが、死ぬからゲームに挑めないという事は、裏を返せば死ねるからゲームに挑めるという事だ。
命懸けの勝負にリセットボタンは無い。と誰かが言った。
やり直しの利かない物事に取り組むのは、現実でも当たり前に直面する事だ。やり直しがきかないのだから尚の事、力を尽くして挑むだろう。それがゲームだからとやり直せる事が前提で挑むのは、ゲームに対してひどく甘えていると考えるのは、変だろうか。
これは、ゲームであっても遊びではない。と茅場晶彦は言った。
命が懸かっている以上、このゲームは遊びでは済まないのは確かだ。現実と同様、もしかしたらそれ以上に真摯に、本気で向き合わねばクリアなど到底出来やしないだろう。
だが、勝手に命を懸けられ、クリアを目指す事を強制される。果たしてそれは、『楽しい』のだろうか。
本来これはゲームなのだ。ゲームとは何か端的に言えば、遊びだ。遊びだからこそ夢中になれる。興味を持って手に取ったからこそ、本気で取り組もうという思いが生まれる。
ゲームをクリアしなければ帰れない。そんな強迫観念に似た思いを抱えてこの世界で生きていく事に、生きる価値を見い出せるのだろうか。
楽しめると思ったからこそ、このゲームを手に入れた。なのに、楽しむ事が出来そうにない環境に、空虚に似た思いが生まれる。
「茅場晶彦……あんたは、何が楽しくてこの世界を作ったんだ?」
広場で空を見上げて呟く。あの日の夕方、赤く染まった空に現れた彼は、この世界の本当の姿を告げた。彼の目的は達せられたと告げられたが、その代わりに己の望みは極めて近く、遥か遠い場所に行ってしまったような気がする。
だからといって、街の外に出る事を止めるつもりはない。現実と違う世界を味わえば、この空虚を埋める事が出来るかもしれない。
そんな期待を胸に、初日に世話になった長斧を背負って、フォイルは街の外へと歩を向けた。
街を出てから一週間が過ぎた。
長斧を新しいものに変えたり、最初に着ていたレザーアーマーの上に小さな肩当と肘や胸の裏地に薄い板金が留められたコート・オブ・プレートを着込むようになったりと、出で立ちもそれなりに変わっていった。
今は岩肌が覗く山を登っていた。ある物が得られるクエストの為に、この山の上方にある鉱脈で得られる鉱石を取ってくる事を依頼されたのだ。マップで目的地となる堀場を確認しながら、ストレージから取り出した水筒の水で水分補給をしながら歩みを進める。
その途中、何かが行く手を遮った。
体長は大体一メートルを超えたほど。灰色の体毛の猫――《グレイリンクス》と言う大山猫型のモンスターだ。グレイリンクスと目が合ったと思った瞬間、大山猫は飛び掛かってきた。
即座に持っていた水筒を投げ捨て、背負っていた長斧を前面に翳す。翳した長斧にグレイリンクスは喰らいついてくる。メートル級サイズの大山猫が飛び掛かってきた衝撃はかなりのものだ。だが、STR――筋力値にほぼ特化して成長したこの身体はその衝撃に堪えてみせる。
グレイリンクスの先制攻撃を防いだと感じた瞬間、長斧を振り回し、岩壁に喰らいつくグレイリンクスを叩きつける。潰れた様な、形容し難いひしゃげた声がグレイリンクスの口から漏れ、力を失ったように長斧から剥がれ落ちる。
そして、地面に転がるグレイリンクスの頭に、容赦なく長斧の刃を振り下ろした。
頭を潰され、HPがゼロになったグレイリンクスはポリゴン片となって散っていく。
これが現実だったなら、この辺りの岩肌は大山猫の血と肉片で薄汚れているだろう。それが一片の痕跡も残らないのは、ここが仮想の世界である証拠なのだろう。
けれど、今いる高さから世界を眺めてみる。アインクラッドの第一層の広さは面積にして約八十平方キロメートルにも及ぶという。山の麓には谷や遺跡があり、その先へ視線を移すと口が開いたかのような湖沼が広がっている。西を向くと深い森が広がっている。湖沼地帯と森林地帯に繋がる広い草原の先には《はじまりの街》がある。
様々な地形が混ざり合うかのように存在するのは創作物ならではだろうが、この瞳が映す雄大な景色は、それが現実なのか仮想なのか見分けがつかない。これらが仮想であると示す情報が無ければ、ここが現実なのだと錯覚してしまうほどだ。
投げ捨てた水筒を拾い、飲み口を軽く払って水を口に含む。
嚥下する液体の感覚を味わいながら、再び山を登り始めた。
さらに二週間の時が過ぎた。
日に日に犠牲者の数は増し、前に噂を聞いた時には確認されただけで千人を超えたと言われていた。SAOの初回ロット数が一万と言われていたから、現段階で全体の十分の一を超えるプレイヤーがゲームオーバーになったという事になる。HPがゼロになって本当に死んだのか、それとも仮想の世界から解放されたのかという疑問が残っているが、それを知る由などない。ただ一つハッキリしているのは、HPがゼロになればフォイルという存在は終わる。現実の荒谷士道はどうなるのか不明でも、SAOのフォイルが死ぬ事は決定している。それ以上先の事を知った所で、この世界で生きる者にとっては無駄になる話だ。
第一層で最北端に位置する町、《トールバーナ》を訪れる。この町はフロア最北端にそびえ立つずんぐりとした塔――第一層迷宮区にほど近い谷あいの町で、迷宮区に挑むプレイヤー達の拠点となっている。
フォイルもまた迷宮区を目指してこの町に辿り着いた。
とりあえず道具屋を訪れ、無料で売られている冊子を手に取る。鼠印の《攻略本》と銘打たれたそれは、その名の通りこのゲームを攻略していく上で必要な情報が記載されている。今背負っている長斧も、以前訪れた村に無料で売られていた《攻略本》に載っていた情報から得たクエスト報酬の代物だ。おかげで大分楽させてもらっている。
新しい町に辿り着いたという事で、迷宮区の情報や何か新しい情報が更新されていないか道具屋に置かれている攻略本をチェックするのが習慣となっていた。
毎度の如く、最安値のパンと適当なジュースを買い、空いているベンチに腰を下ろし、攻略本の中身に目を通しながら食事休憩にする。攻略本の充実した内容に感嘆の溜息を洩らしたくなる思いだ。情報提供者と製作者には足を向けて寝られない。
固いパンをジュースで流し込み、攻略本をストレージに収納する。改めて道具屋を訪れ、ポーションなど消耗したアイテムの補充を行う。
出立に必要な準備を整えると、北にそびえ立つ塔を目指して《トールバーナ》を後にした。
分厚い石壁に覆われた迷宮の中は薄暗い。点在する淡い光の松明が唯一の光源で、フロア全体を照らすには光量が圧倒的に足りていない。それでも視界に不自由しないのは、ゲーム的だなと感じる。
マップを開いて迷宮の道筋を確認する。先駆者が既に踏破してきたおかげで迷い歩く必要はない。一先ずは幾らか上の階層まで登ってみる事にした。
低階層のマッピングは完了しているので最短距離で次の階に上る階段のあるエリアに向かう事が出来る。特にモンスターと遭遇する事もなく、二階に上る階段のあるエリアに辿り着き、迷わず階段を上る。
二階も同様だった。
三階に着いて、ついにモンスターが姿を現した。襤褸切れを纏った、頭一つ分小さい程度の身長の犬面の人間。《ルインコボルド》と名付けられた獣人が立ち塞がった。その手に持つ棍棒を振るいながら、グルルと唸り声をあげている。
その姿を注意深く観察しながら、背負った長斧を手に取り、油断なく構えてみせる。
それをキッカケに、犬面の獣人が雄叫びを上げながら襲い掛かってきた。
獣人の棍棒の一撃を長斧の柄で受け止める。衝撃が柄を伝って握り手を震わせる。
柄を握り直し、一呼吸挟み、力を籠めて押し付けられる棍棒を跳ね除ける。棍棒を跳ね除けられてたたらを踏むコボルドに、お返しとばかりに長斧を薙ぐ。が、踏み込みが浅く、刃が腹を浅く斬るに止まった。
今まで戦ってきた動植物型のモンスターと、目の前の亜人型のモンスターとの戦闘は様相が異なると感じた。
動植物型とは殴る。防ぐ。といった単純なやり取りでしかなかった。戦闘というよりは、HPの削り合いといった方が正しいのかもしれない。
だが、今戦っている《ルインコボルド》はその手に棍棒を持って振るっている。武器を用いた単純な殴り合いではあるが、人型のモンスターとの戦いは今までとは決定的に違う所があった。その証拠に、
大きく振り被った《ルインコボルド》の棍棒が光を放ち始めた。
そこから放たれた一撃はスピードも、威力も、今までのそれとは比べ物にならないほど強い。準備動作とそこから放たれるエフェクトに警戒して先んじて距離を取ってなければ、システムの補正と相まって痛手となる一撃に捉えられていただろう。
それが『ソードスキル』というものだ。
本来戦闘とは無縁の生活をしていた者がモンスターの跋扈する世界で生き残ってきた原動力であり、このゲームの最大の売りの一つだ。武器毎に設定されたスキルと初動のモーションを感知して起動する『技』。それは素人であってもさながら達人の様な剣技を繰り出す事を可能としたシステムだ。
プレイヤーに与えられたその『力』を、目の前の亜人も使う事が出来る。ただそれだけで、今までのモンスターとの戦いから一つ先の次元の戦闘へと変わる。
再び光を放つ棍棒の振り下ろしの一撃を察知して、距離を取って避ける。
押されている。という訳ではないが、獣人のソードスキルを警戒して消極的になっている。こちらの方がHPを削っているが、警戒し過ぎて踏み込みが浅くなり、長斧の刃を肉に届かせるだけの情けない有様だ。
一度大きく距離を取って一息つける。
敵もソードスキルを使うが、元よりプレイヤーに扱う事を許された『力』だ。同じ『力』を扱えるなら、絶対的な優位はないが不利になる訳ではない。対等の条件で、同じリングに上がったというだけの話だ。
柄を左手でしっかり握り、右手を添え、身体を捻って長斧を構える。身体を捻った体勢で力を溜めて待ち構える。
焦らず、どっしりと長斧を構えるフォイル。
待ち構え続けるフォイルに業を煮やしたのか、コボルドが棍棒を振り上げてソードスキルを発動させようとした。
それを見て取った瞬間、フォイルも一歩踏み出してソードスキルを発動させる。長斧が緑色に発光する中、身体を捻って溜めていた力を開放し、一気に上半身を反転させる。さらに長斧が勢いに乗って薙ぎ払われる最中、左手を引き、右手で柄を強く押し出す。その直後に右手は力を抜いて左手の方に滑っていく。身体が生み出す勢いと、柄を操って繰り出す力を加えて長斧を薙ぎ払う。
棍棒が振り下ろされるよりも速く長斧が薙ぎ払われ、獣人の身体を両断した。
両手斧のソードスキル《ワールウインド》と数週間の間に長斧を振り続けて身に付けたスキルアシストを乗せて繰り出すフォイルの『剣技』。ただシステムに従って繰り出すコボルドの『剣技』と比べてスピードも、威力も、そして得物のリーチも桁違いの物だった。
《ルインコボルド》を倒したリザルト画面が視界の端に映る。それを見て血払いするように長斧を一振りし、少し考えて背負わずに長斧を手に持ったまま再び歩き出した。
全力のソードスキルは《ルインコボルド》を一撃で斬り伏せるのに十分な威力を持っていた。一撃で敵を倒し、歩みを緩めることなく迷宮の中を進んでいく事に知らず知らずの内に調子に乗っていたのかもしれない。先へ進めば進むほど危険が増えていく事を、度重なる戦闘とそれに伴うレベルアップの陰に埋もれていった。
上の階層に行くと、敵はただのコボルドから《ルインコボルド・ソルジャー》と名に位を持つようになり、単純な強さは増していく。装備も階を上がる毎に充実していった。
唐突に、浅慮による報いがフォイルの身を襲った。
必殺の意志を込めて繰り出した長斧のソードスキルを受けてなお、盾を持ち、革の鎧を着込んだ獣人は身体を両断されずに踏み止まった。HPバーはほんの少しだけ赤い部分を残して瞬いている。
振りの大きい長斧の技後硬直は短くない。痛手を与えながらも、システムによって設定された動く事の許されない時間故に、フォイルはコボルドの前で決定的な隙を晒す。
ほんの僅かな時間、技後硬直で固まるフォイルよりも早くダメージから復帰したコボルドが曲刀を振り下ろし、フォイルの左腕を切り裂いた。
左腕を痛烈な痛みが襲い、HPを削る。
振るわれたのがソードスキルではなくただの斬撃だからダメージは大した事はない。だが、切り裂かれた左腕は痛みと痺れの影響で動かす事を許されなかった。
襲い掛かってくるコボルドに右腕一本で長斧を振るって抵抗するが、振るった長斧に力は無い。
長柄武器故にその取り回しは決して良くない。得物の大きさと重さは両手で扱う事を前提にしているようなもので、右腕一本で振り回すのに長斧は辛過ぎる代物だった。
斧の刃を獣人の肉に当てるだけで倒せそうなほどHPを減らしているのに、片腕だけで操る長斧はそれすら難儀した。獣人も盾を使って力の無い攻撃を防ぎ、生き足掻き続けた。
ようやく、振り下ろした長斧がコボルドの肩口を捉えた時は、かなり長い時間が経った気がした。
痛手を与えられ、手間取らされた戦いに一息吐きたい所だったが、それは許されなかった。
背後から足音が近付いてきていた。振り返った時には二体の《ルインコボルド・ソルジャー》がこちらをターゲットに捉えていた。
回復する暇などない。
左腕は動かせるようにはなっていた。が、力が完全に入るとは言い難かった。構えを左右反転させ、左手を柄に添える形にする。
長斧のリーチを活かし――全力とは言えないが――今出せる力を振り絞って、先制攻撃のソードスキルを繰り出した。
運が悪い時、それは悪い事が重なって襲ってくることがある。
痛手を喰った事で体勢が万全でなかった事。全力を出し切れない事で、モンスター一体一体の相手に手間取った事。そして時間を掛けた事で、新たなモンスターが呼び寄せられた事。その悪循環である。
ガムシャラになって抗い、何をどう、何体相手にしたのかはよく覚えていない。ただ気付いた時には、二体の《ルインコボルド・ソルジャー》がこちらを見下ろしており、フォイルの身体は膝をついて限界を迎えようとしていた。
赤く点滅するHPバーがチラつき、危険を知らせるアラートが耳障りになるほど鳴り叫んでいる。今抗わねば死ぬと分かっているが、ダメージの蓄積した身体はいう事を聞いてくれない。
これで終わりか。
己の終幕を悟り、静かにその言葉を呑み込む。冷たい事実が腑の中に落ちていく。
光を放つ曲刀。幕引きとなる『剣技』を静かに見つめる。
振り下ろされる刃を最後まで見つめ、切り裂かれると思われた瞬間、
曲刀の刃が眼前で止まり、ソードスキルの光が霧散していった。
何が起きたのか分からず、ファイルは目を丸くする。
目の前のコボルドの身体が崩れ落ち、フォイルに覆い被さる様に倒れ込んでくる。コボルドの身体に覆われ、一時視界が塞がれるが、すぐにポリゴン片となって散っていく。
散っていくポリゴン片の隙間から覗いたのは、闇の中から徐にナイフが現れ、もう一体のコボルドの喉元に吸い込まれていく光景だった。吸い込まれていくナイフの刃がグリッと抉り込まれ、コボルドの喉からくぐもった断末魔の声が漏れて、その身体は散っていった。
今何が起きたのか、思考が追いついてこない。ハッキリしているのはモンスターの姿が消えてなくなった事。そのモンスターを倒したであろうナイフが……音を立てて床に落ちた事だ。
なぜモンスターを倒した武器が床に落ちるのか。そしてモンスターを倒したはずの誰かが未だに姿を現さないのか。分からない事ばかりでパニックになりそうになる。
そこに怖気が奔り、身体を立ち上がらせた。
首筋に冷たいものを感じ、恐る恐るそちらを振り向くと、冷たい光を放つ刃が首に添えられた。
「……………………殺さないのか?」
首に添えられた刃を眺めて、フォイルの口から最初に出たのはそんな疑問だった。
アラートを鳴らし続けるHP量を考えても、添えられた刃が喉を襲えば残りHPは奪われて死んでしまうだろう。ついさっきまでモンスターの凶刃で命を奪われようとしていた所が、顔も名前も見えない誰かの凶刃に変わっただけで、事態は何も好転していない。フォイルは、己の命は未だに死の淵にいると認識していた。
「オー…………その質問は、考えてなかったなぁ」
背後から囁かれた声は男の不思議な声色だった。必要以上に抑揚豊かなのに、感情が含まれていないかのように低く冷たい雰囲気を孕んでいる。
「普通なら「なぜ?」とか。「どうしてこんな事を?」とか。「助けてくれたんじゃないのかっ?」なんて、悲鳴のような言葉が出てくると思ったのになぁ……」
とても情感がこもった音なのに、演技的な寒々しい響き。
おかげで頭は変な風に冷えてくる。
「お前さんは不思議だな。ちょっっとナイフを動かせば死んじまうのに……平然と俺と会話するなんて、大した肝だね」
スゥっと冷たい質感が首を撫でる。
首皮一枚だけが斬られた感覚が、また一歩崖の縁に押しやられたような恐怖が背筋を襲う。
「――――そうでもない。今もまだ混乱しているし、今にも殺される恐怖で身体が震えてしまいそうだよ。ただ……」
視線だけを動かしてナイフを追いながら、少し考え込む。
思考は死の淵に立たされ続けて慄いているのに対し、心はそこから乖離したかのように冷え切っている。その理由を探って浮かぶのは、己の終幕を告げるはずの『剣技』の光だった。
「ついさっきモンスターに殺されるはずだったからかな。俺を殺すのがモンスターから見ず知らずの誰かに変わっただけで、そこから何も進んでなければ……いい加減、落ち着こうと努力するさ」
「フゥ~。俺は正真正銘、人間のプレイヤーだぜ? ピンチから助けてくれたとは思ってないのかい?」
「――どうだろう? ただ……顔も見せずに人の首にナイフを突きつけるような奴が、人を助けてくれる様な優しい人間だと思えるか?」
「…………」
フォイルの問いかけに、くくくっと冷たい笑い声が響く。
ナイフが首から離れると、目の前の闇の中から黒いポンチョを着込んだ男が姿を現した。首に添えられていたであろうナイフと、コボルドを抉ったはずのナイフをそれぞれの手に持ってヒラヒラと見せびらかす。フードに覆われているせいで人相は分からないが、口元だけが楽しそうに笑っている。
不意に、ナイフが宙を舞った。右手のナイフが上に放り投げられ、左手のナイフが放されて落ちていく。
フォイルの視線が宙を舞うナイフに吸われる。
その瞬間、黒ポンチョの男は動いた。瞬くような速度で落ちていくナイフを左手でキャッチして、そのままナイフを振るった。
走る銀閃は、フォイルが翳した右肘の鉄板を削る。そこから器用に逆手に持ち替え、フォイル目掛けてナイフが振り下ろされる。危うい所で身体の反応は間に合い、振り下ろされる黒ポンチョの男の左腕を掴んで止めた。
「オォ~。よく止めたなぁ」
「言ったろ? あんたは、『人を助けてくれる様な優しい人間だと思えるか?』ってね。人は嘘をつける生き物だから。人を殺そうとしておいて笑っていられる奴が、そんな簡単に見逃してくれるなんて……ッ……思えるワケ――――ないだろッ」
フォイルが喋っている最中、黒ポンチョの男は上に放り投げられたナイフが落ちてきた所を右手でキャッチして刃を突き出してきた。
咄嗟に左手を翳してナイフを受ける。刃が掌を貫き、残り少ないHPを削るが、ギリギリのラインで堪える。持てる力を振り絞って左手で男の右手を掴んで抑える。
しばし抑え込んだ状態のまま、お互いの顔を見やる。今にも無くなりそうなHPで顔を顰めるフォイルに対し、黒ポンチョの男は楽しそうにニヤついていた。
膠着状態だが、掌を貫通するナイフが発生する継続ダメージがフォイルの最後の灯火を消そうとしていた。
今度こそ、終わりか。
そう考えた瞬間、身体の力がフッと消えた気がした。これが死ぬ感覚なのかと思ったが、
「や~めた」
そんな楽しそうな声が耳を打ち、ファイルの頭に水がぶっかけられた。
何が起きたのか分からないまま、フォイルは地面に手をついた。そこでようやく掌を貫いていたナイフが抜かれている事に気付く。
「お前さんは面白いなぁ。殺される瞬間、悟りを開いたように笑うんなんて……どういう嗜好なんだ?」
「……どうだか…………。ここはゲームの世界だから、本当は死なないと思ってるだけかもしれないぞ?」
「フ~ン。まぁ、そういう話は今度するとして……」
黒ポンチョの男は軽快にウィンドウを操作する。
今度は何が飛び出てくるのか警戒する。が、いつの間にかアラートが収まっている事に気付き――既に渇いているが――さっきぶっかけられた水がポーションだったと知った。
殺されかけた事以上に癒された事実に何故、と疑問が浮かぶ。
そんな戸惑いを余所に目の前に表示されたのは、フレンド申請だった。
「――何のつもりなんだ?」
「俺はこのビック・ステージで楽しみたくてね。その為にいろいろ仕込んで最高のショーをしようと考えている。ショーには観客が付き物だろう? ぜひお前さんに観客になってもらいたいと思ってな、招待状を送れるようにしたいんだよ」
「……あんたが作るショーなら、さぞかしとんでもないモノなんだろうな……」
「保証するぜ。この世に二つとないショーになる事をな」
男は笑って言う。何を考えているのかまるで分らないが、とんでもない異彩を放つ男が作るものがどんなものになるのか、興味が無い訳ではない。
けれど、常識的に考えて『悪』に分類される男のする事を黙っていて良いはずはない。
「良いのか? 危険なショーだと分かれば、潰しにいくかもしれないぞ?」
「それはそれで良いのさ。観客を巻き込んでのインプロなんてよくある。そこから予想外の展開を迎えるのも一興というものさ」
男はそう楽しそうに語ってみせた。
今日のやり取りだけでも、この黒ポンチョの男を恐ろしいと感じる。例えおふざけだったとしても、こちらが死ぬ寸前まで笑って見ていたように、常識的な感性で物事を見ていない可能性がある。
おそらくまともな神経では付き合う事など出来ないだろう。日常であれば、関わらない方が良いと考える分類の人間だ。申請を拒否し、二度と関わらないように努めるのが賢明のはず。
しかし、
「ようこそ。俺の名はPohだ。ぜひ俺のショーを楽しんで言ってくれよ、フォイルさん」
なぜこの申請に対してYesと答えたのか、後になっても解っていない。だが、まともでないと思っている男と繋がりを持とうとする自分もまた、まともではないのだと自覚する。
大仰な手振りで歓迎の言葉を述べるPoHという男に対し、心の奥の空虚が震えた。その事実から目を逸らせない。
そう。男の言う《ショー》がどんなものなのか、興味が湧いて仕方がなかったのだ。
続き――
――ません。
気持ちを入れ替えれるかと思って、没ネタになった作品を手直しして投稿させてもらいました。
特に何もなければ、一週間ほどで非公開にします。