星空に薄っすらと月の欠片が浮かぶ新月の夜。隣の村で用事を済ませているとすっかり村に帰るのが遅くなり、馬に跨り真夜中の森を駆けていた。
森の奥には吸血鬼の館があるという噂だが、その城から出てくると恐れられているのは決まって満月の夜。十中八九今夜に出くわすことはないだろうが、できることならそんな噂のある不気味な森は早く通り抜けたい。森を迂回する道はあることはあるのだが、先日の川の氾濫で未だに使えないのである。
今頼れるのは、手に持つ松明と腰に差す短剣。短剣といっても父が夜店で買って来たお守りであり、自分に剣術というのは無縁であるからして飾りも同然である。それでもまだ気休めぐらいにはなるかもしれない、そう思いながら赤い石のはまった鞘を撫でる。
それと同時に、計ったようなタイミングで、背後から掴むように頬を撫でられた。視界の端に映るのは短剣に装飾と同じような、血のような赤をした鋭利な爪。咄嗟に手を払い、馬の腹を蹴り、一目散に逃げ出さんとした。
「甘いわよ」
しかし、走りだして十メートルも進まぬうちに当然のように襟首を掴まれ、いつの間にか切断されていた手綱を握りながら僕は土の上に転がり落ちた。普段から人馬に踏み固められた土は相当固く、ろくに受け身も取れずに腰を強く打ってしまった。頭を一切打たなかったのは幸いだろう。
腰を抑えながら地面の上に仰向けになった自分。考える間もなく、痛みを堪えて今すぐ逃げようとしたのに、なぜか足が動かせなかった。これは腰が抜けたのでは無い。
何をした。口が渇いて血の気が引きながら、目の前の少女の形をした恐怖にそう叫んだ。
フリルが付いたピンクの帽子に、空色の髪と病的に白い肌。ここまで見れば貴族のお嬢様といったところだが、その手に付いた鋭い爪と、正面からでも背中に生える蝙蝠のような羽はしっかりと見える。幼いようだが、吸血鬼には変わりない。
「十中八九今夜に出くわすことはないだろう」と思ったのが運の尽きなのか。
「あんたが逃げようとするから悪いのよ。
それに、ちょっと落としただけじゃない。崖から突き落とされたわけじゃないでしょ?」
何を言うか。落馬で人が死ぬのは馬に潰される場合が多いとはいえ、走る馬から落ちただけでも重症はほぼ絶対に負うのだ。
もしかしたら、足が立たないのもそれが原因かもしれない。
「まあ、人間風情が何を言おうが知ったこっちゃないわ」
肩が動いて神が揺れ、肩の延長線上にある爪の生えた小さな手が、自分の首へと伸ばされる。
逃げられない。眼球すら恐怖で動かず、まるで石像にされたような思いだ。
そして、口元から小さな、されど自分の短剣の切っ先よりも鋭い犬歯が覗く。きっと、人間の肌など簡単に貫き、下の血管を切り裂くのだろう。
「じゃあ、いただきます」
頭と肩に手を当てられ、むき出しになった首筋へと白い毒棘が食い込む。視界には決してはいる事は無いが、心音を首筋で感じることができた。きっと出血しているのだろう。
不思議と痛みは無かった。恐怖で麻痺しているのか。そもそも、今となっては走り去った馬のように逃げる気も失せてきた。恐怖で恐怖も麻痺したのだろうか。さっきからは、自分の鼻先をくすぐる空色の糸の匂いにばかり意識が向く。自分のイメージの吸血鬼らしからぬかおりがした。
そして、血を吸われて十秒たったか十分経ったか、ゆっくりとした動きで少女は離れた。一度、噛んだ場所を舐めてから。
「いい血ね。悪くはなかったわ」
前代未聞の言葉にどうすればいいか分からず、とりあえず礼を言ってしまう。
すると、どこか意味ありげな笑みを浮かべた少女は腰に手を当て、その外見からすれば尊大な態度でこう言った。
「――――ウチで飼ってあげるわ」
彼女の、深紅の瞳に視線が吸い込まれる。
そして、自分の全神経を引き付けた彼女の目線は、彼女の足の下へと向けられた。その顔は、法廷で判決を下す法務官のようだった。
「さっきうっかりして足の指を砕いたんだけど、気づかなかったみたいね。半身不随にでもなったんじゃない?」
ああ、なるほど。きっと腰を強く打ちすぎたのだ。だから動かなかったのだ。
夜の森で足が動かなくなってしまった自分に拒否権があるはずもなく、子供――つまり親がいるのであろう――吸血鬼に逆らえるはずもなく、短剣の鞘を撫でながら頷く他なかった。