月の都。耳のない『月の民』と、被支配階級――少々差異があるが――耳のある『月兎』と呼ばれる者が住まう月面都市だ。
自分は貴族でもない月の民であり、不自由ない生活を送っている。だとすればどれだけよかったか。
「休むなー!」
何やら先祖が犯した罪のおかげで、絶賛強制労働に従事中である。
十五の春から数百年もずっとこの調子なのでこれが普通。ならばよかったのだが、十五の春までに月の都市を散策しつくした結果、広いとはいえ施設から出られない今の環境は生殺しに等しい。
レーザーによる不可視の格子が入った窓が疎ましくて仕方がない。立地的にも、ここからは街の暮らしが見えるのだ。行き交う人々の中に入れたら、どれだけ幸せであろうか。起きている時間は延々と肉体労働に尽くすこの生活は苦痛でしかない。
一般的な月の民に割り当てられる軽労働。薬を作る義務のない男の玉兎に割り当てられる中労働。そして、罪人に割り当てらるのが重労働。
もちろん自分が行うのは重労働であるの。
機械でやればいいのに、と思うようなことを生身でやらされるものだから当然事故でけが人は出るし、時には穢れに侵されかねない仕事もある。治療はキチンと受けられるために死者こそ出る事はないが、誰だって怪我だけでも避けたいのは当然である。
穢れを相手にする仕事が無いだけでもありがたいか。
幸運なのは、先祖の犯した罪が割と重かったようで隔離された場所での労働であることだ。無法者のような人間と共に働くというのは苦痛と聞くのでありがたいと素直に感じる。
しかし、先祖はいったい何をしでかしたのだろうか。胸倉を掴んで問い詰めたいところである。看守に聞いたところ知らないと言っていたため、もしかしたらしょうもない事かもしれない。
毎日のように穢れの側で働き続けていた、そんなある日。いつものように仕事の準備をしているところに人が来て、腕組みをしながら言った。
「一族の罪の清算。あなたの刑期は明日までです」
青天の霹靂。思ってもいなかった、突然の言葉。
「労働量と素行から今までも仮釈放の話はあったのだけど、周りがダメっていうもんでね。とにかく、明日の昼には釈放よ」
月の賢者はそう言って、忙しそうに牢から去った。彼女が通達しなければならないほどの罪とはなんだったのか。
ともかく、自分は刑を終えたらしい。
巾着袋に入った荷物と共に白い部屋の椅子に座り、窓の向こうに映されるリアルな空を見て溜息。
待ち望んでいたものが目の前にあるとはいえなぜ意気消沈しているかといえば、、刑期を終えたとはいえ保護観察が付くのでその人を待っているのだ。
暗殺の危険があるということで、ほんとに先祖は何を……。
かれこれ待ち続けて数時間。うとうと夢見心地で漕ごうとしていた船を、ドアのひらく音がひっくり返した。
「お前が囚人番号179,402号か?」
ドアを開けるなり、明るい紫の髪を揺らして歩きながら問いかけてくる。ポニーテールの彼女は態度からして保護観察官なのだろう。それか、暗殺者だ。
その呼び方はやめてほしい、と返答すると眉をすくめられた。
「名前が書かれてないから仕方なくよ。書類不備?」
いや、違う。そう、そうだ。そうだった。
名前がないのだった。忘れていた。さっぱりと。
「忘れるもの?
……まあいいわ、そんなに重要じゃないし」
むすっとした顔のまま彼女は言うと、書類を取り出して僕の顔の前に突き付けた。
「この書類の通り、私がしばらくお前を四六時中監視する。屋敷には私以外もいるがそれは後で説明するとしよう」
そう言ってすぐに書類を仕舞うと、「ついてこい」と言って背を向けてきた。いささか冷たすぎるのではないか。それに、これはどういうことなのだ。
どこへ行くんだ。そう聞くと冷たい視線が返ってきた。
「私の屋敷だ。ホームレスを観察するなんてのは好きじゃないわ」
そりゃそうだ。
自分の言葉を聞いた彼女は、さらに温度の下がった視線を向けてきた。視線の温度計は都にあるのだろうか。
「たらたらしない! 早く行くわよ」
わざわざガツンと音を立てて刀の鞘が脛に当たるような方向転換をしてみせた彼女は凛とした様子で、スタスタと早足で歩いて行いてしまう。
一方、自分はしゃがみ込んでの悶絶である。
「ああ、そうそう。貴方には射殺許可が出てるから一人にならないようにね」
先祖よ、本気で何をしたか問い詰めたいぞ。
息を深く、横に広く開けた口で吸いこんで痛みを堪えて追いかける。びっこを引きながらだが。
射殺許可などが出ているというのに置いて行かれてはたまったものではない。が、それを早足で追いかけると、彼女の足も速くなる。
目の前を歩く自分よりも二回りも小さな背中。だがそれよりも、その先にある空を映したような街並みに自然と頬が緩み始めていた。