お楽しみください。
玄関の扉を開けると、夜の冷たい空気が頬を撫でる。今まで熱気のこもる室内にいたためか、織斑一夏には心地よいものだと感じることができた。彼の視界に見える家々の上にある夜空は、その藍に近い黒の中に、点々と光の粒のような星があった。その様相を見た一夏は、今まで見慣れていたはずの住宅街が、夜の帳に包まれて全く違うものに見えている感覚に、少しだけの高揚感を覚えた。
すなわち、非日常の世界にいるという感覚である。
「全く、君も罪作りな人ね」
そんな感覚を味わっていた一夏の隣に、更識楯無が並ぶ。彼女は今、一夏が見ているものがなんであるか、そしてそれらに対してどう考えているのかを読み取ったのか、広げていた扇子を閉じ、口を開く。
「夜の街、好きなの?」
「そういうわけではありませんよ」
そう言って、一夏は歩き出す。それについていくように、楯無も足を動かす。
「ただ、俺の知ってるものと違うものが見れて、感動してるだけです」
小さな笑顔を浮かべたまま、一夏は言った。そのまま二人は、夜の住宅街を隣り合って歩いていく。それが当然の関係であるように、ゆっくりと、お互いの歩みに気を遣いながら、目的の場所を目指す。
「でも、意外ね」
「何がですか?」
「あなたが私を選んだこと」
そう言って、楯無は一夏の前に進み出て、一夏の方を向く。そこで楯無の歩みが止まり、それに釣られて一夏の歩みも止まる。そうして一夏の方を向いた楯無の顔には、どこか猫を思わせるような笑顔が浮かんでいた。
「君なら、他の子を選ぶと思ってたわ。何かの心境の変化?」
「そうですね、強いて言うなら――」
意地悪そうな笑顔を浮かべる楯無に、一夏は自分の微笑みを変えずに答える。その言葉は、彼がいつも思っていたものを、そのまま言葉にしたかのように、悩むことなく口から紡がれる。
「あなたの魅力に気づいた、というのは駄目ですかね」
その言葉を聞いて、楯無は一層笑みを深くする。自身の問いに対する一夏の返答が、とても面白いと言わんばかりの反応だ。その深くなった笑みに、一夏もまた笑顔を向ける。
「あなたを魅了した私の魅力。それってどんなものかしら?」
その言葉に、一夏は笑顔を崩さずに答える。
「たくさんありますが……一番の魅力はその笑顔ですかね」
その答えを聞いた楯無は「あらやだ、恥ずかしいわ」と言って扇子を広げ、自身の顔を隠す。その茶目っ気溢れる行動に、一夏は思わず苦笑を浮かべた。
「そんなに恥ずかしがらないでください。素敵な笑顔なんですから」
そう言って、一夏は自らの手を、扇子を持つ楯無の手に添える。それは、まるでいつもやっているかのように自然な動作だった。楯無の心臓が不意に高鳴る。いつもの彼らしからぬ動きに、彼女は少し困惑した。そんな楯無の感情を見抜いたのか、一夏はまた笑みを浮かべ、自身の手を動かす。
「ほら、隠さないで」
そう言って、一夏は楯無の手に添えていた自身の手を、彼女が持つ扇子に移動させ、優しく扇子を閉じていく。その向こう側に見えた楯無の顔は、まるでりんごのように真っ赤に染まっていた。単純に、照れと恥ずかしさが同時に表に出てきたのだ。
「年上をからかうなんて……本当に、罪作りな子」
「からかってなんていませんよ」
そう言って、今度は楯無の頬に手を添える。楯無は、頬に添えられた一夏の手に、自身の手を重ねる。一夏の視線と楯無の視線が、絡み合う。そして、ほとんど同時に笑顔を浮かべる。
「ただ、率直な感情を言葉にしただけです」
「――本気にしちゃうわよ」
楯無の言葉に、少し力が入る。その言葉を聞いた一夏は「構いません」と言い、ゆっくりと手を離す。楯無は、その手を追うように、自らの手を移動させる。そして指を絡ませ、つないだ手とした。そして、つないだ手をそのままに、二人はまた歩き出す。歩く速度は、あくまでゆっくりとしたものだが、それはお互いがお互いを思いやったものであった。
目的の場所につき、二人はゆっくりと手を離す。そこは、公園の近くにある、自販機の前だった。一夏は財布を出し、ジュースを買い始める。その様子を、静かに楯無は見守る。
「ねえ、織斑君」
唐突に、楯無が口を開く。一夏はその手を止め、楯無の方へと顔を向ける。
「なんですか、楯無さん」
「なんでもないわ」
そう言って、楯無は自身の扇子を開く。珍しいことに、扇子には文字がなかった。そんな楯無の様子に、苦笑した一夏は「そうですか」と言ったあとに、また手を動かし始めた。
やがて、必要な数の飲み物を買い終わったのか、一夏が何本かのジュースの缶を持って立ち上がる。
「じゃ、行きましょうか」
そういって、一夏は笑みを浮かべて楯無を促す。一夏の言葉に頷いた楯無は、広げていた扇子を閉じ、また一夏の隣に並ぶ。
「それにしても、よかったの?」
「何がですか?」
「今日の主役、君でしょう」
その楯無の言葉に、一夏はああ、と今思い出したかのような声を出した。顔に浮かんだ笑みをそのままに、彼は口を開く。
「いいんですよ。今回は俺が主役かもしれないけど、あいつらには楽しんでもらいたいですから」
その言葉に、対して楯無はふうん、とあまり興味がないといったような相槌を打つ。そんな楯無の様子を見ていた一夏だったが、それを大して気にはせず、かわりに苦笑を浮かべる。
「まあ、俺が好きでやってることですから」
「あなたらしいわね」
そう言って、楯無は一夏の顔を見て笑いかける。その笑顔見た一夏は、それに答えるように彼女に笑顔を返した。
一夏の自宅の前につき、両手が塞がっている一夏のかわりに楯無が玄関の扉を開けようとした。その背に、一夏は意を決したように声をかける。
「楯無さん」
一夏の言葉を背に受け、楯無は扉のドアノブをつかもうとしていた手を止める。そして、彼の方に顔だけを向けた。
「なあに、織斑君」
「ちょっとしたお願いがあるんです」
今度、一緒に食事に行きませんか。
その一夏の言葉に、最初はよく意味が分からずにキョトンとしていた楯無だったが、だんだんとその意味が分かっていくにつれて、その表情が驚きに染まっていく。そして、何故か慌てだした。そんな楯無の様子に、一夏は「落ち着いてください」と言った。
「ね、ねえ、今の言葉って」
「概ね、楯無さんが思っているようなので合ってますよ」
楯無の問いに、一夏は即答する。彼の言葉を聞いた楯無は、あー、とかうー、とか言葉になっていない声を出しながら、困ったような恥ずかしいような表情を浮かべながら、自分の頭の中を整理しているようだった。
「俺は、ただあなたにお礼がしたいんですよ」
短い間ながら、あなたにはたくさん世話になってしまった。だから、一度しっかりとお礼がしたいのだ。そう言って、一夏は笑みを浮かべながら、静かに彼女の言葉を待つ。
一夏の言葉に、楯無はさらに困惑した。だが、一夏のその言葉は、紛れもない彼の本心からの言葉であることは、容易く理解できた。
そのことを念頭に置きながら、楯無は頭の中で様々な思考を回していく。やがて、楯無の様子が落ち着いたものに変わっていく。どうやら、自分の考えをうまくまとめることができたみたいだ。しかし、困ったような表情は変わらないままだ。そんな彼女が、一夏としっかりと目を合わせ、口を開く。
「どうして、私なの?」
それは、楯無の純粋な疑問だった。お世話になったというのであれば、他の専用機持ちや、二人目の彼の方が自分よりも過ごした時間が長いはずなのだ。そうであるはずなのに、一夏は自分を選んだ。その理由が、楯無は知りたいのだ。
そんな楯無の問いに、一夏は少し困ったような苦笑を浮かべながら、口を開く。
「なんて言えばいいかな…」
そう言って、一夏は自分の頬をかく。なんとなくという無責任な感情ではない。確かに理由がある。しかし、それを言葉で言い表すことができないのだ。
「本当はちゃんと理由を言わなきゃいけないんだろうけど、どう言えばわからないんですよ。一番近い言葉で言うなら――」
あなたじゃないと、駄目だと思った。
「私じゃないと?」
「はい」
そう言って、一夏は浮かべていた笑みを消し、真剣な表情を浮かべる。
「なんでかまでは、わからないんです。でも、もし俺が今までのことを誰かにお礼を言うとしたら、楯無さんじゃないと駄目なんじゃないかと思ったんです」
付き合いが短いことは、自分がよく理解している。それでも、自分は楯無を選んだのだ。
そう言った一夏に、楯無は手に持っていた扇子を開き、口元を隠す。やはり扇子には何も書かれていない。楯無もまた、真剣に考えているからだ。受けるにしろ、断るにしろ、今の彼にとってふざけた返事は許されない。そう判断したからだ。
少しの沈黙のあと、楯無は口の前で開いていた扇子を閉じる。その顔には、いつもの自信あり気な笑みが戻っていた。
「わかったわ」
そう言って、楯無は一夏に言葉を紡ぐ。
「あなたのお礼、受けてあげる」
その言葉を聞いて、一夏は嬉しいような、どこか安心したような笑顔を浮かべ、口を開いた。そこから発せられた言葉には、様々な感情が混ざっていた。悲しみかも知れないし、嬉しさかも知れない。そんな感情たちが乗せられた言葉が、彼の口から紡がれる。
「ありがとうございます。楯無さん」
楯無は彼の言葉に隠れる感情に気がついていたが、分かっていないふりをする。今、自分がそのことを彼に指摘するということは、それこそ野暮なことだろうと考えながら、彼に言いたかったいくらかの言葉を胸の奥にしまい込み、彼に背を向けて玄関の扉を開いた。
――楯無の背を見ていた一夏が、泣き笑いのような表情を浮かべていたことは、楯無は知ることができなかった。
ここまでは短めなので書き貯めた分です。
なので、ここからはペースが落ちると思います。
最後に、この物語を読んでくださって誠にありがとうございます。
よろしければ、感想をもらえると幸いです。
どうぞよろしくお願いします。