思い付きによる突発的短編集   作:バレンシア

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千里山女子高校―清水谷竜華の場合―

 ―――それは静かな朝だった。

 

 まだ肌寒い春のある日、最近になって漸く蕾を見せ始めた桜を眺めながら、一か月後にはおそらく美しい並木道になっているだろう道を、一人の男が歩いていた。

 鼠色のマフラーを首に巻き、黒いジャケットを羽織った男は、それでも尚、隙間から入ってくる冷たい風に、その身を僅かに震わせた。

 そっと吐いた息は白い。

 平日の午前八時に上る校門前の坂道は、まだ半分寝ている生徒たちの眠気を覚ますように長く、辛い道のりだった。

 

「おっはよー、彰くん!」

「ん?」

 

 大多数の生徒たちと同じように、もはや登山を彷彿させるほどの坂道を上っていた男の背中から、唐突に軽快な音が鳴った。

 振り返った先には、こんな寒い上に冷たい朝っぱらにも拘らず、絹のように綺麗な黒髪を揺らして元気に笑う一人の少女がいた。

 

「おう。おはよーさん、清水谷」

 

 男は妙にテンションの高い少女へと手を挙げて返す。

 

「お前は今日も元気やな」

「もっと褒めてええで!」

「いや、別に褒めてるわけちゃうねんけどな」

「えぇ~、そうなん?」

「……まあ、元気がないよりかはマシやけど」

「そうそう!えへへ~」

 

 嬉しそうに顔を綻ばせて少女は笑う。

 向日葵のように元気で、しかしそれでいて朗らかに、相手に温もりを与えるような少女の笑みは、純粋にして屈託のないものだった。

 

「……お前、そんな恰好で寒ないんか?」

「平気やで!若いから!」

 

 そう宣言する少女の服装は、こんなに寒い日にも拘らず、なにも防寒着を身に付けていない普通の制服姿だった。

 

「そういう問題か?」

「そういう問題や!」

「……アカン。見てるこっちが寒くなるわ」

「わっ!?」

 

 見かねた男は、自分が巻いていたマフラーを外すとそのまま少女の細い首へと巻いた。

 

「お前に風邪なんかひかれてみろ。俺がおばさんやおじさんに怒られるやろが」

「過保護やからなぁ、ウチの両親は」

「おじさんに一発殴られるだけで済めば御の字やな」

 

 ため息を零しながら、男はついでとばかりに羽織っていた黒いジャケットも少女の肩へと掛けた。

 男性の中でも比較的大柄な男のジャケットは、少女の体をすっぽりと覆ってしまうほどの大きさだった。

 

「帰るまでには返せよ」

「んふふ~。しゃーないなー」

「……はぁ」

 

 妙に嬉しそうな様子でジャケットへと袖を通した少女は、二回りほど大きな袖から半分ほど出した手で、ジャケットを包み込むように自分の体を抱きしめた。

 少女へジャケットやマフラーを貸したことによって露わになった男の首元を、春だというのに冷たい風が吹き抜ける。急激な寒気を感じた男は、両手を擦り合せて息を吹きかけた。

 寒い。着ていた防寒着をすべて貸したのは失敗だったかと早速後悔しそうになった思考を男は強引に追い払った。

 今更返せというのはあまりにも大人げがなさすぎる。

 大人には、時として周囲から下らないと思われても意地を張らなければいけない時があるのだ。

 

「でも酷いで、彰くん」

「んー?」

 

 少しでも寒さを和らげようとスーツのポケットに手を突っ込んで坂道を上っている男の横で、少女は少し不機嫌そうな声を上げた。

 さっきまで嬉しそうに笑っていたはずの少女はコロコロと面白いように表情を変え、今では拗ねたように頬を膨らませて男を見上げていた。

 

「今日は一緒に学校行こなって昨日あんだけ家で言うてたのに、一人で先に家出るんやもん!」

「あー、そういえばそんなこと言ってたっけ?」

「言うてましたーっ!」

「スマンスマン。ついウッカリ忘れてたみたいやわ」

「もう!これで何回目やと思てんの!?」

「せやから、スマンって」

 

 むくれる少女に対して、男は明らかにテキトウだと分かる相槌を打って話を誤魔化す。

 彼女―――清水谷竜華は、男にとっては姪にあたる人物だった。

 十歳ほどの年齢差はあるものの、親戚の中では最も近い年齢ということもあって、正月などで親戚が集うような機会には、いつも男がまだ幼い竜華の面倒を見ていた。

 幼稚園、そして小学校でと竜華の学年が少しずつ上がっても、二人の関係は変わらなかった。

 基本的にお祭り好きな親戚連中に連れられて、機会こそ少ないものの、二人は一年に数回を数える程度には近況報告も兼ねて一緒に遊んでいた。

 しかし、二人の間に大きな問題が起きたのは、竜華が中学二年生になった時だった。

 大学を卒業した後、男が教職に就いたのだ。

 男の現役合格を電話で知った竜華は、自分のことのように喜んだ。電話越しに何度も心からの「おめでとう」を伝え、思わず布団の上で飛び跳ねてしまった。

 耳元から聞こえる笑いを噛み殺した声に、竜華は誰も見ていないにも拘らず、無駄にスカートの裾を払い、クッションを抱いて三角座りをしながら電話の向こうにいる男に理不尽な苦情を伝えた。

 暖かい時間だった。自然と笑みが溢れるほどに幸せな時間だった。ずっと続けばいいと思っていた。

 だが楽しみにしていた翌年の正月、どれだけ竜華が待っていても男が会場に現れることは無かった。

 

「明日こそ一緒に登校すること!約束やで!」

「はいはい」

「『はい』は一回!」

「……はぁ」

「―――っ、彰くん!!」

 

 男の背中に竜華は何度も拳を叩きつけるが、しかし、男に痛みはまったくない。こそばかゆい程度の感覚しか感じない。むしろ周囲を歩く生徒たちから向けられる奇異の視線の方が相当痛い。

 それでも男は一切の抵抗をすることなく、甘んじて竜華の反撃に身を任せた。

 「教師と生徒」という関係ならばあまり褒められたことではないが、男と竜華は同時に「叔父と姪」の関係でもある。その辺りの一線は男も竜華もお互いに理解しているからこそ、竜華もこんなところで教師を本気で殴るような真似はしない。あくまでも「じゃれている」という程度のことしかしない。

 

「こんな奴やけど、ずっと友だちとして付き合ってやってくれ。頼むわ、園城寺」

「池田先生のお願いやったら、まあ、しゃーないか」

 

 いつの間にそこにいたのか、男の隣には竜華と同じ制服を着た小柄な少女が立っていた。

 落ち着いた口調の子だった。少し暗めの茶髪を肩口で切り揃えた少女は、抱きしめれば折れてしまいそうなほど華奢な身体つきをしていた。少女の存在は、すぐ傍にいるだけで相手の保護欲を掻き立てるような儚い印象を自然と与える。

 

「おはようさん」

「おはようございます」

 

 少女―――園城寺怜が頭を下げる。

 

「今日はどんな調子や?身体の方は大丈夫か?」

「今日は大丈夫やと思います」

「そうか。ま、無理だけはせんようにな。キツくなったら早めに俺か保健の先生に言うんやで」

「はい。いつもマジお世話かけます」

「気にすんな。教師なんて生徒の面倒見てナンボの商売みたいなもんやさかいな」

「ホンマ、ありがとうございます」

 

 再び頭を下げた園城寺の頭を上げさせる。

 教師の仕事は男も気に入っている。男にとって、生徒のために動くということに仕事としての遣り甲斐を感じられたのは、他ならぬ園城寺の存在が大きかった。

 ある程度、その学校のやり方に慣れてくる赴任三年目で入学してきた園城寺は、担当する学年こそ異なるものの、顧問をしている部活動の生徒ということもあり、男にとっては非常に気にかけている生徒の一人であった。

 

「むぅー。『こんな奴』ってなにぃ~!?」

「そのまんまの意味や。清水谷は意外と面倒な性格しとるからなぁ」

「彰くんには言われとうない!」

「はいはい。勝手に言うとれ」

「―――もうっ、彰くんなんて知らん!」

 

 一層頬を膨らませながら竜華は男から顔を逸らした。

 

「彰くんなんて放っといて先行こ、怜」

「別に私はええけど……」

 

 すっかり臍を曲げてしまった竜華に代わり、怜は男を振り返る。

 青色が掛かった彼女の瞳は、不思議と相手の心の内側を覗き込むようなプレッシャーがある。

 男は苦笑しながら、怜へと小さく手を振った。

 竜華のことをよろしく頼む。そんな兄貴分としての想いを乗せて。

 

「……ホンマ、なんちゅうか不器用やな、二人とも」

 

 竜華に引き摺られるように坂道を歩いていく怜の呟きに、男は返す言葉を持ち合わせてはいなかった。

 

 

 

 

 

 

「おはようございます」

 

 職員室の扉を開きながら告げた男の言葉に、職員実の中からは同僚の教師たちから三々五々、返事が疎らに返ってきた。

 男が向かった職員室では、既に相当の教師が仕事を始めていた。

 ある教師はパソコンに向かってプリントを作り、またある者は電話で関係各所と通話中。そして、またある者は慌てたように男とすれ違う。

 暇な人間はこの場には誰もいない。あまり知られてはいないが、朝の職員室の中は意外と忙しかった。

 そしてそんな中、男は自分に与えられた机へと向かう。

 

「おはようございます」

「んー?ああ、おはようさん」

 

 入り口から向かって左奥にある男の机の隣には、やはり他の類に漏れることなく一人の女性教師が既に仕事をしていた。

 特徴的な紫色の髪を腰の辺りまで伸ばした女性の教師は、男の姿を視界に認めると、瞳を細めて持っていた資料を男の机の上に放り投げた。

 

「これは?」

「昨日の部活でやった半荘五回の牌譜や。アンタも顧問やったら一応、目ぇだけは通しとき」

「了解です」

 

 ぞんざいな言葉遣いのわりに、女性教師―――愛宕雅枝が作った資料は綺麗に纏められていて非常に見やすい状態になっていた。

 男と雅枝が顧問として受け持っている部活は、ここ最近ではもはやメジャーな文化になった麻雀部だった。競技人口が数億人規模に増えたこともあり、プロ雀士たちによる大規模な大会は、世界的なものとして中継されている。

 その結果、かつてサッカーや野球がそうであったのと同じように、高校生たちは彼らに憧れ、プロを目指すために日々、部活動で腕を磨いていた。

 

「―――相変わらずレギュラー陣は強いですね」

「そやな。今年は特に江口と清水谷を筆頭にして、他の部員たちもようやっとるわ」

「一年生の中ではインターミドルで活躍した二条、二年生では船久保が安定しとるようですね」

「ま、大方は予想通りやな」

 

 日本に数ある麻雀部の存在する高校の中でも、二人の在籍する「千里山女子高校」は全国でも屈指の強豪校と称されるほど全国大会では優秀な成績を修めていた。全国でも一・二を争う激戦区の北大阪を十年連続で制覇し、全国大会にも過去三十四回出場したという実績は、西東京の白糸台高校や長野の風越女子高校、北九州の神道寺女子高校などを上回る。

 実績だけを見れば「千里山女子高校」は全国でも随一といってもいい高校であった。

 

「今年も北大阪は行けそうな感じですか?」

「アホ。地方予選は余裕で勝ってもらわんと困るわ。ウチの目標は全国大会出場やのうて全国優勝やで。こんな地方予選如きに苦戦してるようでは、先が思いやられるわ」

 

 実績のある強豪校は、それだけで周囲から求められるレヴェルは高い。それが全国屈指の強豪ともなれば、たとえ激戦区の北大阪と言えども当たり前のように通過し、そして、全国大会でもそれなりの順位に着くことが必然だとして考えられる。

 

「正直、去年は白糸台の宮永照たった一人にやられたようなもんやけど、今年はそうはいかん。宮永照やろうが、天江衣やろうが、陣代小蒔やろうが、全部なぎ倒して優勝するんは千里山や」

 

 パソコンに表示された過去の牌譜を見つめる瞳からは強い意志と共に絶対の信頼が感じられる。

 普段は鬼監督として一部の部員たちから恐れられる愛宕雅枝こそ、他のどの人間よりも部員たちの実力を信じて疑うことがない。

 だからこそ、部員たちも話のネタとして雅枝の厳しい指導に対する不満こそ口にするものの、途中で麻雀部を辞めるような生徒は男が知る限りでは今まで誰一人としていない。

 

「ホンマ、愛宕先生はええ先生ですわ」

「煽てたって何も出えへんで」

「本心ですよ」

「さよか。ま、貰えるもんは貰っとくわ」

 

 『関西最強』そして『全国屈指の強豪校』という称号を保持するのはなにも生徒たちだけの努力によってなされるものではない。生徒の実力を引き上げ、試合になれば十全に実力を発揮できる環境を整えることが出来る指導者の存在があってこそ、保持することが許される。

 その点でいえば、愛宕雅枝という優秀な指導者を得たことは、千里山女子高校にとってはこれ以上のことは中々ないと断言できるほどの出来事だった。

 

「アンタも一応ウチの麻雀部の顧問やねんから、時々でええから顔ぐらい出しや」

「いつもお任せしてばかりですみません」

「もう慣れたわ。それに、アンタを二人目の顧問に指名したんは今の三年生やからな。生徒の希望は出来るだけ聞いてやるんが教師の仕事ってもんや」

「その姿勢はホンマ素直に尊敬します」

「そらおおきに」

 

 実際、麻雀という活動に関して男が口を挟むことはあまりない。一定水準を千里山女子高校の麻雀部に入部するということは、その時点で既に一定水準を超える実力が求められる。それ故に部員たち一人ひとりの実力は他の高校に比べると頭一つ分は確実に高い。

 しかもそんな部員たちを率いるのは名監督として雑誌で特集すら組まれたことのある愛宕雅枝だ。千里山女子高校に死角は無い。

 それなのに何故、男が顧問として麻雀部に所属しているのかと言えば、それは偏に社会の大きな流れとしか言いようがない。

 

「『一つの部活動につき、顧問は必ず二人つけること』なんて、ホンマに面倒なこと決めてくれるわ、ウチの理事会のオッサンどもは」

「こればっかりはどうしようもないんとちゃいますか」

「ま、そうやねんけどな」

 

 雅枝は大きくため息をついた。

 

「どっちにしても、ウチとしてはええ買い物やったからええんやけどな」

「……俺は商品ですか」

「アンタが部活に顔出したら、若干名の部員がやる気出すんやから、ええ買い物やろ。ただ困ったことに、それが部長と元エースやからタチ悪いんやけどな」

「……あはは」

 

 男は自然と顔が引き攣るのを感じた。

 

「ま、こればっかりはアンタに言うてもしゃーないことや。気にせんとき」

「……すみません」

 

 立場的に同じ国語科を担当する先輩であり、また姪とその友人たちが世話になっている部活動の顧問ということもあり、男は雅枝に向かって足を向けては眠れない。

 雅枝の言葉には、男はただただ黙って従う以外の選択肢は存在しないのだった。

 

 

 

 

 

 

「あ!彰くんやーっ!?」

 

 放課後。

 雅枝の言葉に従い、本当に少しだけ顔を出すためだけに麻雀部が活動している部屋へとやって来た男だったが、しかし、すぐさま己の目論見が外れたことを悟った。

 所詮、己の浅はかな考えなど、子どもの持つある種の天才性の前ではまったくの無意味なことだった。

 男の考えが上手くいったのは、部室の扉を開くところまでだった。

 扉を開いた瞬間、対局を終えたばかりの竜華が大声を上げて男のことを指差した。

 もはや隠れることなど不可能なことだった。

 

「なになに!?今日はどないしたん!?彰くんが来るなんて珍しいやん!?」

 

 走り寄る竜華の表情は、男から見れば常のそれと変わらぬいつも通りの笑顔だが、周囲の部員たちからすれば正に花の咲くような笑顔だった。

 男がここに来るなんて、次の対局の準備をしようとしていた部員たちが思わず手を止めてしまうほどには珍しい光景だった。

 

「職員会議は終わったんか?」

「ええ。連絡事項はいつも通り机の上に貼っておきました」

「おおきに。いつもスマンな」

「いえ。これも役割分担ですから」

 

 男が麻雀部に顔が出せない理由はいくつかある。

 第一に、顔を出せば必ずこうして部員たちの手が止まってしまうこと。しかもその原因が部長にあるようではいただけない。

 第二に、男にはあまり麻雀の知識がないということ。口を出せるわけでもないので、自然と足が離れていってしまった。

 そして第三に―――これが最も割合が大きいのだが―――放課後の会議は雅枝の分も出席しなければならないということだ。

 部活のことを任せきりにしてしまっている以上、最低限、絶対に雅枝が出席しなければならない会議以外はすべて男が出席しているというのが、麻雀部の顧問を受け持っている二人のスタイルだった。

 

「彰くんが部室に顔出すなんて何週間振り!?」

「こっちも色々と忙しくてな」

「もう!彰くんも麻雀部の顧問やねんから、もっと真面目に部室来んとアカンやん!」

「スマンスマン。でも俺が忙しい代わりに、愛宕先生は毎日来てくれてはるやろ?」

「愛宕先生も必要やけど、彰くんも麻雀部には必要なんやで!」

「はいはい」

「あーっ!ほらまたそうやって適当に流そうとするー!」

「スマンスマン」

「ほらまたーっ!?」

 

 今朝に続いて、今度は男の胸元へと竜華は握り締めた拳を振り下ろす。

 しかし相変わらず痛みは無い。こそそばかゆい感覚に襲われるだけだった。

 家でも竜華はこうしてなにか気に入らないことがあると、よく男の背中や胸元を叩く癖みたいなものがあった。

 もちろん、竜華は男が痛みを感じるほどの力を込めることはなく、男もそれが分かっているからこそ特に抵抗をすることはない。

 だがこの場は家ではなく部室。周囲からの視線が存在する場所である。

 

「大変仲のよろしいとこマジ申し訳ないねんけど、お二人さん」

 

 しばらく竜華のしたいように任せていた男は、儚さを感じさせるそんな声を追って視線を横に向けた。

 するとそこには今朝と同じように園城寺が立っていた。

 

「嬉しいのは分かるけど、部長がそんなんやったら他の部員に示しがつかへんで」

「ほえ?」

 

 肩を叩かれた竜華が我に返って背後を振り返る。

 するとそこには暖かい視線で竜華のことを見つめる部員たちがいた。

 

「―――っ!?」

 

 その瞬間、竜華の顔は一瞬にしてリンゴのように真っ赤に染まり、悲鳴にならない悲鳴を上げた竜華は、現実から逃避するためにその場で蹲った。

 

「…清水谷?」

「いやーっ!もう私のことは放っといてーっ!」

 

 声を掛けてみれば、嫌よ嫌よと頭を振るだけで竜華は顔を上げようとはしない。

 完全に殻の中に閉じ込まってしまった竜華は、その後、どれだけ男が話をしようとしても一切なにも語らず、ただひたすらにすべての情報をシャットダウンした。

 しかし竜華の些細な現実逃避は、一度ゆるんだ空気を更に緩ませる結果にしかならなかった。

 次第に部員たちの間に広がっていく暖かい雰囲気は、完全に竜華のことを「部長」ではなく「拗ねた子ども」としてしか見ていないようだった。

 

「…園城寺、頼む」

「しゃーないから任されました」

 

 こうなってしまえばもはや自分では無理だと悟った男は、早々に竜華の説得を諦めて、自他共に認める竜華の親友である怜に対処を任せた。

 変化は劇的だった。

 怜はなにか竜華の耳元で二言ほど囁くと、今まで頑なに顔を上げようとしなかった竜華が、唐突に勢いよく顔を上げたのだった。

 

「彰くん!!」

「な、なんや?」

「ウチ!頑張る!!」

「そ、そうか。まあ頑張りや」

「うん!!」

 

 急に両手を握って燃え出した竜華を前に、男の頭には疑問符が浮かぶ。

 

「池田先生は気にせんでええで」

「いや、でもな……」

「これは竜華の問題やから、先生は下手に首つっこんだらアカンねん」

「そ、そうか」

 

 怜の妙な説得力に押された男は、それ以上の追究を諦めて雅枝の隣へと腰を下ろした。

 

「お疲れさん」

「……どうも」

 

 差し出されたコーヒーを受け取った男は、大きく深いため息をついた。

 

「ええ兄貴分やな」

「ありがとうございます」

「ただ、いくら姪やゆうても守らなアカン一線はちゃんと守らなアカンで」

「分かってます」

 

 教師二人が話をしている間に、一度緩んだ空気を竜華が再び引き締める。

 自らの行動で緩んでしまった空気でも、竜華が本気になれば直ぐに元の真剣な雰囲気に戻してしまえる。これが部長としての彼女。男にとっての「姪」ではなく、部員たち全員から信頼された「部長」としての清水谷竜華という少女の姿であった。

 我が姪ながら立派になったものだと男が感心して頷いていると、ふと、久しぶりに見るからこそ感じる違和感があった。

 

「そういえば、今日は江口がいないんですね」

「江口なら今日は数学の補習や。基本的にアホやからな、アイツは」

「江口ももう三年ですから、これからやってくれるんちゃいますか?」

「そうやったらええんやけどな」

 

 江口セーラ。園城寺怜。そして清水谷竜華。

 彼女たちは今年、最上級生である三年生へと無事に進級した。

 受験生となるからには、確かに部活動に一生懸命になることも学校の教育活動としては大切だが、勉学にも今まで以上に励んでもらわなければ、教師としては非常に困る。

 だからこそ、全国屈指の強豪校へと成長した麻雀部のエースだろうが関係なく、成績の悪い者には補習がある。去年まではテスト終了の度に行われていたが、三年では更に回数が増えるのだ。

 

「江口も麻雀を打っている時の計算は速いんですけどねぇ」

「アイツは『アホ』やけど『バカ』とはちゃうってことや。『アホ』っちゅうんは、自分の興味あることになると、いくらでも吸収していきよるからな」

「救いようのない『バカ』とはちゃうってことですか」

「そういうことや」

 

 牌譜を見て、なにかペンで書き込みながら雅枝が話す。

 

「そうは言うても、終礼が終わってボチボチ三十分や。そろそろ江口も来るんとちゃうか?」

 

 腕時計で時間を確認した雅枝がそう言った瞬間、まるでタイミングを見計らったかのように部室の扉が勢いよく開いた。

 

「おっはよー!江口セーラ、今日も無事に生還やでー!」

 

 元気のいい笑顔が特徴的な少女だった。

 瞳は強い意志を感じさせる釣り目で、非常に活発そうな印象を受ける。整った顔立ちは小さく、可愛らしいくせに細く鋭角的な輪郭をしている。

 男子のように立てた赤くツンツンとした髪と女子高ではまず見ることのない男子用の学ラン、更にそこへこの寒い日にも拘らずハーフパンツを着用した姿は正に少年のようだ。

 可愛らしい顔の割に、凛々しく男性的な格好を好む彼女の姿は、女子高である千里山女子高校では「王子様」としてよく知られていた。

 

「いやー、参った参った。今日はいっちゃん苦手な数学やったから、思てたよりも時間掛かってもうてなぁー」

「それはセーラが赤点とったからやろ。自業自得ってやつやで」

「そうそう。テスト前にあんだけ教えたったのに、なんで赤点取るかなぁ」

「次回も頼りにしてんで!清水谷先生!」

「……せやから、ウチが教えても赤点やったやん」

 

 セーラの登場で、三年生たちにも一際大きな活気が湧いた。

 去年までのエースは、同時に麻雀部の中でもムードメーカー的な存在だった。今年の千里山女子高校麻雀部は、清水谷竜華と江口セーラという精神的な二本柱が部員たちを支える体制となっていた。

 部員たちと談笑しながらいつもの卓に向かってセーラが歩いていくと、その途上、監督である雅枝へと視線を向けて頭を下げた。

 それに対する雅枝も特に厳しいことは言わずに片手を上げるだけで了承の意を伝えた。

 しかし、セーラの視線が普段は一人で牌譜を見ている監督の隣へといる人物へと向けられた時、再び部室の中で大きな叫び声が上がる。

 

「おお!?『師匠』やん!?」

「……」

 

 何度止めてくれと言っても聞かないその呼び方に、男は額を押さえながら雅枝と同じように片手をあげてセーラへと応えた。

 

「なになに!?なんで『師匠』がここにおんの!?ちゅうか、来てるんやったら誰か言うてくれてもよかったやん!?」

 

 さっきの竜華と同じようにセーラが男の前に走り寄る。もし彼女が犬ならば、きっとその背中には千切れんばかりに振られている尻尾があったことだろう。

 キラキラとした瞳で真っ直ぐ見つめてくるセーラは、もう見るからに嬉しそうだった。

 

「今日は会議が早く終わったから、なんとか来れただけや」

「マジっすか!?よっしゃ!なんかメッチャやる気出てきたで!!」

「そのやる気を活かして頑張れよ」

「あざーっす!『師匠』が見てる前で無様な対局は出きひんし、今日は飛ばしていくでーっ!!」

 

 無駄に腕を振り回して自分のやる気を周囲へとアピールしているセーラに煽られて、周囲の部員たちもどこかさっきより瞳に力が込められたような気がした。

 

「な。ウチの言うた通りやろ」

「ええカンフル剤になったようでよかったです」

 

 雅枝の横で頬を掻きながら男は苦笑する。

 姪やその友人たちがいるとはいえ、ここにいる部員たちはすべて男にとっては可愛い妹みたいなものだ。彼女たちが元気に活動している姿は、それだけで男にとってはこれからも頑張ろうという活力になってくれる。

 

「『師匠』!俺の活躍、ちゃんと見とってやーっ!」

 

 対局が始まる直前、卓についたセーラが大きく手を振ってくる。

 

「あーっ!?ずるいでセーラ!!彰くん!ウチもウチも!!」

 

 セーラに負けじと竜華も飛び跳ねながら両手で大きく手を振る。

 

「…なにしてんの、二人とも。対局始まるで」

 

 そしてそんな二人を嗜めるように怜がため息をつきながら着席を促す。

 高校生になっても変わらない三人の姿は、かつて、まだ三人が中学生の時に男の自宅にある雀卓で麻雀を打っていた時の光景を思い起こさせる。

 懐かしくも暖かい過去の想い出は、決して切れることなく今に繋がり三人を結んでいる。

 

「ほれ、早よ行ったり。可愛い生徒たちがアンタを待っとんで」

「……それじゃあ失礼して」

 

 隣に座る雅枝の肘に突かれ、男は席を立つ。

 視線の先では嬉しそうに自分のことを待っている生徒たちがいる。

 何処かこそばかゆいような感覚で顔が緩まない様に気を引き締めながら、男は三人の待つ雀卓に向かって歩いていく。

 今朝の寒さが嘘のように、窓からは穏やかな日光の温もりが光となって少女たちを照らす。

 命短し頑張れ乙女。

 少女たちにとって夢を追っていられる期間は三年間と非常に短い。

 その限られた時間の中で、今日も少女たちは全国数千校の頂に至る狭く、遠く険しい道のりを確かに一歩ずつ歩んでいく。

 これはそんな厳しくも華やかな世界に身を置く少女たちが織り成す物語。

 存在したかもしれない日常の一ページ。

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