「―――――ツモ」
静謐とした場に凛とした声が響いた。
同時に一人の少女の指がスッと自らの牌に触れる。
一拍の後、少女の手元に並んだ十三の牌が左から順に倒れていく。
―――――美しい光景だった。
少女と共に卓を囲んでいた三人の少女たちだけではなく、ビデオカメラを通して闘牌の様子を見つめていた実況アナウンサーや解説のプロ雀士までもが思わず息を呑んだ。
「リーチ、一発、ツモ、タンヤオ、ピンフ、ドラドラ」
淡々と告げられた一人の少女の宣言に、一瞬、世界から音が消えた。
誰も語らず、何も動かず、すべてが静止した世界。
それは実際の時間にしてみれば三秒もあったのかどうか分からない。ひょっとすれば、本当は僅かに一秒を刻む程度のものであったのかもしれない。
圧倒的な雰囲気が支配する空間において、唯一、自らの勝利を口にした少女だけは静かにいつもと何一つ変わらぬ様子で対面の山へと右手を伸ばす。
「裏ドラは二つ。親倍は二万四千点。一万二千・六千です」
再度、卓上に響いた少女の声は、自身の圧倒的な勝利を告げていた。
◇
強烈なフラッシュの輝きが光の奔流となって少女たちの華奢な体を覆った。
数えきれないほど向けられたカメラの先で静かに椅子に座っている少女たちは、それらをただ黙って静かに見据えていた。
興奮冷めやらぬ全国大会の決勝戦。全国の麻雀を愛する女子高校生たちの頂点を決める戦いが、正に今、終わりを迎えたところだった。
『おめでとうございます!!』
少女たちの目の前に居並ぶ大人たちの内、一人が立ち上がり少女たちに向かって声を掛けた。
周囲は異常な熱気に満ちていた。
決勝戦を終えた少女たちが淡々とただ黙って座っているのに対し、むしろ別室の観客席で見ていた記者たちの方が興奮状態にあった。
決して狭くはない一室を埋め尽くすほどの興奮した記者たちによって、明らかに会見場の室温は普段よりも何度か上がっていた。
『今年はあの大阪の強豪千里山女子を圧倒しての勝利!見事な闘牌でしたね!!』
最前列の記者が立ち上がり少女たちへとマイクを向けたことで、ざわついていた残りの記者たちも一斉に少女たちへと視線を走らせた。
『特に大将として卓へ上がった宮永選手は、半荘二回で二位に八万点もの大差をつける結果になりました!是非、この勝利のご感想を一言お願いします!!』
そう言って女性記者が一人の少女へと質問をぶつける。
肩口で切り揃えた赤い髪が特徴的な少女だった。瞳は落ち着いていて、非常に大人しそうだ。端正な顔立ちは小さく、可愛らしいくせにどこか攻撃的な雰囲気がある。純白の制服から伸びた細い腕は一見すれば儚さすら感じさせる。
一見すれば容姿の整った美少女が行儀よく座っているように見える。
しかし、彼女の麻雀を一度でも見た者は例外なく彼女に対して畏怖の念を抱く。酷い者では暫く牌に触れることすら出来なくなってしまう者もいる。「全国一万人の頂点」とも称される彼女は、記者の向けてくるマイクを前にしても淡々とした表情を崩さない。
今大会の最優秀雀士にして全国優勝の立役者。白糸台高校を全国大会へ導いた稀代の天才雀士。牌に愛された者とすら呼ばれる少女の一言を捉えるために、すべての人間が口を閉じる。
果たして歴代高校生雀士の中でも指折りの実力を持つといわれる少女は全国優勝を手になにを語るのか。
記者たちが一言たりとも逃すまいと耳を傾ける中において、当人である彼女―――――宮永照≪みやながてる≫の瞳は女性記者の持つマイクではなく、何処か遠くを眺めていた。
『み、宮永選手?』
女性の記者が戸惑った様子で照を呼ぶ。
何事もそつなくこなす彼女にしては珍しい光景だった。
普段の彼女であれば、きっと微笑みを浮かべながら「誰もが称えるような答弁」をしていただろう。だれか大人が予め下書きでもしたかのような満点の受け答えなど彼女にかかれば造作もない。朝飯前のことだった。
今までだってそうだったように、たとえ全国大会の決勝戦を終えたばかりのインタビューでも彼女の受け答えは変わらないはずだった。
実際、決勝戦前の予定では確かにそうなるはずだった。
だが、周囲の人間の予想を裏切り、照は黙ったまま動かなくなってしまった。
常とは異なる彼女の様子を見て、まず動いたのは右隣に座る黒髪の少女だった。
「すみません。どうやら決勝戦を終えたばかりで照も疲れているようです」
立ち上がった長身の少女がフォローを入れる。
この場にいるすべての人間の中で、こうなることを決勝戦が始まる前から予想していたのは照と最も仲の良い友人である彼女だけだった。
誰にも知られず、マイクにすら聞き取れないほど小さく彼女―――――弘世菫≪ひろせすみれ≫はため息をついた。
「―――――」
記者の質問に答えるチームメートの声を遠くに聞きながら、照の意識は既にこの場からは離れていた。
季節は夏。
窓の外には気持ちよさそうな青空が見える。
一面に広がる青空の中で浮かぶ白い雲は、まるでショートケーキの甘いホイップのようにふわふわしていて美味しそうだ。
少女は自分のお腹に手を添えた。
そういえば、今日はお菓子をまだ食べていなかった。
ふと記者たちの頭を越えた向こう側の壁に掛けてあった時計を見ると、既に時刻は午後二時を回っていた。
もうすぐ午後三時。おやつの時間だった。
青空に浮かぶ白い雲をぼんやりと眺めながら、照は翌日に訪れるだろう「特別な約束」へと早くも想いを馳せていた。
◇
白糸台高校の校門から続く坂道を照は一人で歩く。
深緑の木々が色鮮やかに夏を彩り、木々の間を吹き抜ける清涼な風は爽やかな香りを運んでくる。
立ち止まって少し耳を澄ませば、小鳥の囀りや葉擦れの音すら聞こえてくる。
あまり喧騒とした雰囲気が得意じゃない照にとって、静かで落ち着いた雰囲気に満ちたこの坂道は非常に好ましい環境の中にあった。
ゆっくりと坂道を下ると、近くの幼稚園からは子どもたちの元気な声が聞こえてくる。
白糸台高校から徒歩で約五分の距離にある白糸台幼稚園にいる子どもたちの声だ。
昔から続く伝統もあり、幼稚園の子どもたちは高校生が近くを通ると元気よく挨拶をしてくれる。
小さな体で元気よく精一杯に声を張る子どもたちの姿は照から見て非常に可愛らしいものであった。
「―――――」
あまり長くはない坂道を下り終えると、周囲の時間が先程よりも速く流れていくような感覚に襲われる。
坂道を抜ければそこは別世界。都市化の影響で異常なほどに人が集まった大都会―――――東京。
日本の中枢にして中心。多くの文化や流行が疾走する煩雑とした空間が広がっている。
そんな眠ることのない街を歩いていると、多くの人たちとすれ違う。
今ではもう慣れた光景だが、引っ越してきた当初は流石に圧巻だった。
決して眠ることのない街自体の賑わいもさることながら、行き交う人たちの多種多様な価値観こそ、この街の本当の魅力なのかもしれない。
「―――――」
ただそれはそれとして、と照は瞳を閉じる。
学業成績も優良な照は、東京という場所に町として魅力的な数字が色々と出ていることは知っている。世界でも有数な発展した魅力ある都市だということも分かっている。
それでも、幼い頃を長野県の田舎で過ごしてきた照にとって、多くの人間によって埋め尽くされたこの街は煩雑としていてあまり好きにはなれなかった。
かつて住んでいた自然の風景が瞼の裏で鮮明とした形になり、像を描く。
「あれ?ひょっとして照ちゃん?」
波のように流れる街の人ごみの中、歩道の真ん中で立ち止まっていると、背後から聞き覚えのある声が掛けられた。
「あ、やっぱり照ちゃんだ。珍しいね、こんな時間に町の方にいるなんて」
「―――――今日は特別。全国大会の翌日だから、レギュラー全員、今日は部活動が休止だって監督が言ってた」
「ああ、なるほど。確かに未来ある選手たちに無茶はさせられないか」
「分からないけど、たぶんそういうことだと思う」
振り返ってみると、そこには照自身も個人的な付き合いがあり、また同時に白糸台高校麻雀部が常日頃からお世話になっている行きつけの喫茶店の店主である青年が立っていた。
「その割にはいつもより元気がないね。なんだか顔が疲れてるよ」
「問題ない」
「問題ないわけないでしょ。全国大会の翌日なんだから疲れが残っているのが当たり前。うん。監督さんの判断は正しかったと思うよ」
言葉こそ柔和であるものの、照の瞳を見つめる青年の目は真剣だった。
青年は照たちよりも十歳ほども年齢が上だった。接客業で磨いたスキルなのかそれとも青年の性格からなのかは分からないが、常に柔和な表情を崩さない青年は、こうして偶然町で照や菫に出会った時には気軽に声を掛けてくれる存在だった。
「与えられた休日にはしっかりと休まないと。照ちゃんはまだ高校生なんだから、今はまだそんなに無理して麻雀をする必要なんてないんだよ」
「そういうわけにはいかない。私たちは今年のチャンピオンだからこれからも勝ち続けなければならないし、なにより私はもっと強くなりたい。だから腕を鈍らせるわけにはいかない」
「チャンピオンとしての意識が高いことは凄くいいことだと思うよ。特別な立場には必然的に責任が伴うものだからね。
でもね、照ちゃん。それとこれとは話が別だよ。少しの無茶ならプロになってからすればいい。まだ高校生の間は、体が負担にならない程度に麻雀をすればいいんだよ」
朗らかな笑みを浮かべる青年は頷き、一人で勝手に納得する。
まるで母親のようだ、と照は思っていた。
いつもこうして照や菫の体調の心配をしてくる青年は、善良な解釈をすればよく気に掛けてくれる優しく世話焼きな性格だが、少し穿った解釈をすれば口うるさくて面倒くさい性格にも見える。
こればかりは完全にその人の人柄によるが、青年の場合、決して他人から後者のような感想を抱かなせない独特な空気感があった。
「そういえば菫ちゃんは?」
「…生徒会の仕事があるからまだ学校に残ってる。全国大会中の仕事は全部他の生徒会役員に任せてたから、仕事が溜まってるみたい」
「相変わらず忙しそうだなぁ。確か副会長だっけ?」
「うん。来年には会長になるらしいけど」
「生徒会長と麻雀部の部長を兼務することになるのかな?」
「そういうことになると思う」
「照ちゃんといい、菫ちゃんといい、本当に君たちは心配になるほどよく働くなぁ……」
ぽん。ぽん。
大きなため息をもらしながら青年の手が照の頭に触れた。
くしゃり、と少し乱暴に頭を撫でられる。
太陽の温もりとはまた異なる暖かさが頭を中心にして広がっていく。
不思議と嫌な感じはしない。近くなった距離が、微かにコーヒーの香ばしい匂いを運んでくる。
「そういえば昨日の試合、悪かったね。折角、照ちゃんが会場のチケットを用意してくれたのにお店の方が忙しくて行けなかった。本当にゴメンね」
「別にいい。貴方が忙しいのは知ってるし、手元にチケットが余ってたからあげただけだから気にしないで」
「そう言ってくれると助かるよ」
自分でも淡々と語っていると分かる照の口調にも気を悪くすることもなく、青年は胸を撫で下ろしたように笑った。
青年は飾り気のないタイトな黒色のズボンに、新品みたいにパリッとさせた白いワイシャツというシンプルな服装をしていた。白を基調とした白糸台高校の制服を着た女子高生と並んで歩いているというのに、年齢よりも若く見えると評判の青年は驚くほどに違和感がない。
「あ、でも店のテレビでは見てたよ。凄いね、照ちゃん。大活躍だった」
「そうでもない」
「そうなの?」
「うん」
「全国でも有数の強豪校のレギュラーで、尚且つ二年生で大将なんていう大任を任された重圧の上であれだけ活躍出来れば十分だと思うけど」
「ううん。まだ足りない。あの決勝戦でも、もっと上手く打てていればもう少し稼げたと思う」
「向上心があることはいいことだけど、あんまり根を詰め過ぎないようにね。何事も体が資本なんだから、無理して体調を崩すようなことにはならないように」
「体調管理はしっかりやってるつもりだから、大丈夫」
「本当に?ご飯はちゃんと食べてる?」
「食べてる」
「三食?」
「三食」
「お菓子ばっかり食べてない?」
「―――――食べてない」
照は思わず視線を逸らして言いよどむ。
顔を見ずとも、青年が困ったような表情を浮かべていることが分かった。
「あんまりお菓子ばかり食べるのは感心しないよ」
「分かってる」
照の返答に、やはり青年は困ったように笑う。
「何度も言うけど、お腹が空いたらいつでもウチに来ていいんだからね。大した物は出せないけど、サンドウィッチやオムライスぐらいならいつでも作ってあげるから」
「でもそれは―――――」
再度、青年の顔を見上げて照は言葉を濁した。
青年の営むアンティークな喫茶店は、照が入学する以前から白糸台高校麻雀部の行きつけだった。
店内は仄暗く、四つの窓に面したテーブル席だけが明るい。一つの空間にあるにも拘らずハッキリと分かれた明と暗の対比は、陰鬱とした雰囲気ではなく一種の荘厳さを感じさせる。
花も咲くような女子高生が集う場所とは到底思えない雰囲気だが、しかし、数年前の白糸台高校麻雀部の部長が気に入ってよく来ていたことがあり、以降は麻雀部の部員がよく訪れるようになっている。
そして照自身もまた、かつての部長と同じように静かな時が過ごせる青年の喫茶店を重宝していた。
数年前ならいざ知らず、現在の白糸台高校麻雀部で最も青年の営む喫茶店を訪れているのは間違いなく照だった。
「身内でもない人間が言うのもどうかとは思うんだけど、そうやってちゃんと食べずに無茶してるとそのうち倒れるよ。これでもずっと君のことを見てきた人間としては、君のことが心配なんだよ」
「………」
青年の好意に満ちた瞳に、照は押し黙った。
数年前の麻雀部部長から続く縁なのか、青年はいつだって麻雀部の部員に対しては好意的だった。
部員が来れば何も言わずとも紅茶を用意してくれるし、試作品のケーキを差し入れてくれることもあれば、何故かバレンタインデーには特製のチョコレートをくれたこともあった。
普段からお世話になっているからという言葉を免罪符にして青年へとチョコレートを渡そうと企てていた少女たちが青年の作った手作りチョコレートを見た途端、一斉に自分のチョコレートを背中に隠したことはまだまだ記憶に新しい。
「本当に遠慮なんてしなくていいんだからね?」
「………」
正直なところ、麻雀部の一部には青年への申し訳なさを感じる者もいる。
部員達も馬鹿ではない。ケーキが無料ではないことなど当然知っているし、バレンタインデーのチョコレートにしても、麻雀部としては全国有数の名門校である白糸台高校で人数分用意すればそれなりに金が掛かることも分かっている。しかも女子高生が用意するような物ではなく、プロが作る本格的なチョコレートだ。安いはずがない。
今までも何度か部員たちからもう少し遠慮しようという声があがったこともあった。
しかし、その度に青年が言う言葉がいつも決まっていた。
「いいんだよ、照ちゃん。君たちはお店のことなんて考えなくて。これは「俺がしたくてしていることなんだから。まあ、要するにただのお節介なんだから」ね」
「でも―――――」
「それにね、照ちゃん」
口から出かけた言葉を青年の強い声が遮る。
重なった言葉は誰の耳にも届くことなく宙へと溶ける。
絡み合った視線の先で、青年は優しく微笑んでいた。
「俺たちみたいな人間はね。何かした時に「ごめんなさい」って遠慮されるよりも、むしろ「ありがとうございます」って好意を素直に受け取ってもらえる方が何倍も嬉しいんだよ」
だからね、と青年が胸元から一つの袋を取り出した。
受け取った瞬間、仄かな温もりが袋越しにそのまま照の手へと伝わってくる。
「これは?」
「開けていいよ」
促されるがままに袋を開ける。
ふわりとした甘い香りが目の前に広がる。
「これは―――パン?」
「うん。それはこの秋の新作に予定にしてるヤツなんだけど、丁度誰かに試食して欲しいと思ってたんだ。もし照ちゃんさえよければなんだけど、ちょっと試食してみて、是非忌憚のない意見を聴かせてもらえれば嬉しいんだけどな」
「―――――」
青年の言葉に耳を傾けながらも、照の視線は袋から覗くパンから離れなかった。
袋越しでも分かる温もりは、実際に手で持つと更に暖かい。焼き立てとは思えないが、それでも食べるには十分な温もりを残している。
甘い香りに誘われて一口だけ小さく頬張ると、ふんわりとした柔らかい食感が口内を楽しませる。
口の中いっぱいに秋の風味が広まった。
横目でちらりと青年の顔を窺うと、普段よりも更に輪をかけて妙に優しい笑みを浮かべている。
まるでなにか微笑ましいものを見るかのような瞳を向けてくる青年に気付かれないように照はそっと視線を逸らした。
静かに口へ含んだ二口目からも、やはり秋の風味が広がった。
「照ちゃんはこの後どうするの?もう帰宅するとか?」
袋に入っていた二つのパンを食べ終え、のんびりと町の中を歩きながら青年が問い掛けてくる。
「うん。さっきも言ったけど、今日は監督からレギュラー全員麻雀禁止だって言われてるから、書店で本でも買って帰ろうと思ってる」
「あ、そうなんだ。相変わらず本が好きなんだね」
「うん」
答えた照の胸元には、今日も一冊の本が収まっている。
「読書」という行為は、静かに落ち着いて自分の世界を構築することが出来る。周囲の喧騒とした雰囲気に混ざって一緒に騒ぐことを好まない照にとって、本を読んでいる時間はマスコミなどの煩わしい社会の視線から逃れられる数少ない時間だった。
特に去年の全国大会での優勝以降一気に読書量の増えた照は、ふらりと行きつけの書店に立ち寄っては小説や新書などを中心にして読める本ならなんでも読んだ。よく読むときには一日に二~三冊も読んでいた時期もあった。
そんな照が最近お気に入りとしている分類の本がある。
友人や麻雀部の仲間の誰が見ても目を見開いて驚くその本の分類は「恋愛小説」という。
「じゃあ唐突で申し訳ないんだけど、これからちょっと店の方に来てもらっても構わないかな?」
手に持ったコーヒー豆の袋を持ち直しながら青年が尋ねる。
「それは構わないけど、いきなりどうしたの?」
隣を歩く青年の顔を見上げると、自然と視線が絡む。
青年の表情は普段と変わらず一目でお人好しだと分かるほど屈託のない笑みを浮かべている。
「守れる「約束」は、ちゃんと覚えている間に守ろうと思ってね」
◇
「どうぞ、入っていいよ」
「失礼します」
頭の上で心地よい鐘の音が鳴る。
青年に誘われるがまま店内に一歩足を踏み入れると、コーヒーの香ばしい匂いが鼻孔をくすぐった。
青年の営む喫茶店は白糸台高校の近くという立地もあり、少しだけ甘いカフェオレと手作りのパンが評判のお店だった。
本来ならコーヒーよりも紅茶の方が好きな人も、この喫茶店では青年の淹れたカフェオレを飲み、男性は特製カツサンドを、女性はヘルシーな野菜サンドを食べるのが定番だった。
木造建築らしい木の香りと喫茶店ならではのコーヒーの匂いが混ざり合い、訪れた客の心をゆったりと落ち着かせる。
煩雑とした都会に疲れた時ふと足を向けたくなるような店、というのがコンセプトなのだと青年本人がかつて語っていた。
深呼吸をするように深く息を吸い込んだ照の口から思わずフッと小さく吐息が零れた。
意図せず肩の力が抜けていく。まるで背中から羽が生えたみたいに体が軽くなった。
鍵を開けたばかりの店内は、昼間だというのにまだ微かに仄暗いが、そんな独特な雰囲気も照は気に入っていた。
そうして普段のように店内を軽く見回すと、ふと照の視線が店内の一か所で止まった。
普段なら太陽の明るさを伝える四つの窓には、この店には似つかわしくないカーテンが引かれていた。
「………」
「どうかした?」
周囲から明らかに浮いているカーテンに思わず目を奪われた照の横に青年が並ぶ。
そして照と視線の高さを合わせてその先を追う。
「ああ、アレね」
どうやら青年も似つかわしくないことは分かっているらしい。
恥ずかしそうに青年は頬を掻いた。
「昨日、妹が来た時にいきなり「この店には華がないのよ!華が!!」なんて言い出してね。なんか俺の知らない間に勝手に作っちゃって。外すのも面倒だし、もういいかなって」
「そう」
「気になるなら外してもいいよ」
「―――――」
カウンターに入っていった青年の後姿を眺めながら、照は再び視線をカーテンへと向ける。
やはりどう考えてもカーテンは店の雰囲気には合っていない。
どこか静謐とした雰囲気を作り出している店にあって、青年の妹が作ったというカーテンには可愛らしいアニメのキャラクターが刺繍されていた。二頭身のコミカルなキャラクターは、よく街中でもポスターなどで目にする有名なキャラクターだった。
十人に聞けば十人が口を揃えて「そのカーテンはおかしい」と違和感を訴えるだろう。
実際、同年代の少女たちと比べてもあまりオシャレというものに対しては無頓着な照でさえ、店の雰囲気を考えれば違和感を禁じ得ない。
「―――――妹さんのなのに、いいの?」
「構わないよ。またアイツが来る時につけていれば気にしないからね」
包丁がまな板を叩く軽快な音を響かせながら青年が応える。
再度、カーテンを振り返った照は、何処か懐かしむような視線を向けると、青年がいるカウンターの方へと足を進めた。
「外さなくてもいいの?」
「うん」
青年の問い掛けに小さく頷く。
「いつだって着けてあげてた方が妹さんも喜ぶと思う」
「まあ、ね。それは確かにその通りだ」
「あんまり妹さんの好意を無碍にするのは感心できない」
「そうだね。次からは気を付けることにするよ」
「そうしてあげて」
相変わらず柔和な笑みを浮かべている青年の前に座り、ポケットに入れていた本を開く。
同じ麻雀部の一年生の間で流行っていると聞いて、コミュニケーションの話題作りを含めて読み始めた本だが、残念ながらいまだに後輩との会話の機会には恵まれていない。
一年生と二年生という学年の壁以上に、他の学生と「宮永照」という人間との間の壁は大きいらしい。
どれだけ照の方から近付こうと努力しても、相手は照との間に一線を設けてしまう。
その結果、今まで照の行ってきた努力は大抵、日の目を見ることなく終わってしまっていた。
しかしそれでも別の意味での収穫はあった。
「そういえば最近どう?頑張ってる?」
「頑張ってる」
「そっか。じゃあそろそろ慕ってくれる後輩を紹介してくれるのかな?」
「―――――」
青年の言葉に、照は黙って視線を本に落とした。
「その様子だと、どうやら「頼れる先輩」の称号はまだまだ遠そうだね」
「………」
「ま、気を落とさずにのんびりいこうよ」
「…うん」
青年から差し出されたカフェオレを口にすると、甘味の中に少しだけ苦味の混じった風味が口の中に広がる。
「どう?舌に合うかな?」
「―――――うん、美味しい」
「それはなによりだ」
再度、照は青年から視線を逸らして顔を伏せた。
こうして青年へ色々と部活動や学校生活に関する相談をするようになって、果たしてどれほどの時間が経ったのか分からない。
最初は菫に誘われて半信半疑のまま青年の下へ相談事を持ち込んだ。
そして何度かの相談事をしているうちに、青年のアドバイスに従って動くと色々なことが上手くということに気が付いた。
その発見以来、照にとって青年はなくてはならない相談相手になっていた。
そしてまた同時に、胸の内に青年にも相談できそうにない一つの淡い想いが生まれ始めていることも、照は自覚していた。
「はい、お待たせ」
青年の声に反応して顔を上げると、白い皿の上にふんわりと柔らかそうなオムライスが乗っていた。
「お菓子ばっかり食べてないで、こうした料理もちゃんと食べないとね」
「………」
「よく噛んで食べてね」
まるで大人が子どもに話しかけるような口調に照の機嫌が少しだ斜めになる。
それでも、目の前の美味しそうな匂いをさせるオムライスを一口食べると、急降下しそうだった機嫌も急上昇を始める。
美味しい。何度食べても美味しい。
思わずスプーンがどんどん進む。
「感想は―――――聞かなくてもいいや」
「いいの?」
「頬にご飯粒が付くぐらい必死に食べてもらえれば、ね」
そう言って青年が自分の頬を指差した場所と同じ場所に照が触れる。
「―――――」
「もっとゆっくり食べていいよ。照ちゃん以外、今のところ誰もお客さんはいないからね」
頬に熱が集中するのが分かった。
宮永照という人間は、あまり考えていることが表情に出るようなタイプではないけれど、それでも今ははっきりと自分の顔が赤くなっているのが分かった。
赤面している顔を見られないようにオムライスを食べる。
美味しい。でも恥ずかしい。
複雑な気持ちが心の中で葛藤を生む。
「さて、と」
青年のそんななんでもない言葉にも照の心は揺れた。
全国大会の決勝戦なんて目じゃないぐらいの緊張感を感じてしまう。
ゆっくりと、本当にゆっくりと、少しずつ視線を上げる。
少し前に妹さんから貰ったというベルト。喫茶店の制服である黒いエプロン。首元から覗いているさっきも見た白いシャツ。
そして、怒ったところなんて見たこともない柔和な表情の中に見える暖かい瞳。
視線を合わさなければ問題は無いのに、一度絡んだ視線は決して外すことが出来ない。
呪いにでも掛かったみたいに身動きが取れない。
スプーンすら動かすことが出来なくなる。
すっかり固まってしまった私に向かって、青年は笑みを深めて言葉を紡ぐ。
「それじゃあ全国大会前にした「約束」通り、次の日曜日の予定でも立てようか」
今までにないほど顔を赤くした照は、自分の顔を隠すようにオムライスにスプーンを滑らせた。