『ありがとうございましたー!』
自宅であるアパートから徒歩三分。
元気のいい店員の声を背に受けながら男は行きつけのコンビニの扉を潜る。
空を見上げると、今朝から続く曇天は遂に我慢の限界が来たらしく、一面を覆う黒い雨雲が大粒の雨を降らしていた。
まるで今の自分の気分を代弁してくれているようだ、と男は自嘲気味に嗤う。
「―――――」
正直言って、気分は最悪も最悪だった。
IS―――――通称《インフィニット・ストラトス》を篠ノ之束という天才が発明してからこっち、社会は唐突にしてその表情を変えた。
今までが素晴らしい社会だったとは男も思ってはいなかったが、それでも現在の社会よりは相当マシだったと今になって思う。
女性にしか起動させることが出来ない兵器の存在は、女性の社会進出を促進させるどころか女性の地位向上という名目を一足飛びに飛び越え、ある種の歪んだ形となって現代社会を構築していた。
今や世界中が「女尊男卑」の風潮を迎える中、最もその影響を色濃く受けているのはIS発祥の国であり、また同時に篠ノ之束という天才を生んだ日本だった。
「―――――ちっ」
先日あった出来事を思い出すと、今でも胸糞が悪い。
切っ掛けは些細な事に過ぎなかった。
同じ職場で同じチームに属していた部下に任せた書類が期日までに纏められていなかった。
普通の職場なら間違いなく上司が部下を叱る。だからこそ男も同じようにその部下を叱った。何をしていた。期日まではそれなりに猶予があったはずだ。遊んでいたのか。理由を話せ、と。
ところが叱られた部下はそんな男に対してむしろキレた。そんなつまらない仕事は男がすればいい。間に合わなかったのは男のアンタが悪い。そもそもアンタのことなんて嫌いだから一緒に仕事はしたくない。
結局、女性の上司が間に入ることでなんとか事なきを得たが、男の腸は煮えくり返るほどむしゃくしゃしていた。
これは飲むしかない。飲んで忘れるしかないと考えた男の持つビニール袋の中には、数本のビールと酒の肴として買った食材が入っていた。
「―――――」
鬱々とした気分のまま男はアパートまでの道のりを歩いていく。
時間はまだ午前十時を回ったところだった。
日曜日の昼間から大の男がコンビニ通いなんてとても褒められたことではないが、仕事に追われる独り身の男の休日なんてそんなものだ。
このままビールを飲みながら適当に酒の肴をつつき、気分が晴れたら残った仕事を片付けよう。
今日一日の予定をそう決定した男はアパートへの歩みを速めた。
「―――――あ?」
が、しかし、アパートの玄関に佇む人影を視界に収めた瞬間、男は思わず足を止めた。
本来ならば絶対にいるはずのない女がそこには立っていた。
あまりの衝撃と驚愕に、男は心臓がわし掴まれたような錯覚を覚えた。
「―――――ん?」
そして男が足を止めたことによって玄関に佇んでいた女も男の存在に気付いたらしい。
組んでいた腕を解き、気軽そうな様子で女は僅かに片手をあげた。
「久しぶりだな」
「…お前もな、千冬」
観念したように男も返事をする。
「有名人がなにしてんだよ、こんなところで。世界の『ブリュンヒルデ』が一人暮らしの男の部屋の前で佇んでるなんて知れたら、明日の朝刊の一面を飾っちまうだろうが」
「なに、近くに用事があって通り掛かってな。近くまで来て顔も見せずに通り過ぎるというのも些か薄情だと思って待っていたんだが、その減らない口を聞いている限り不要だったようだな」
「…わざわざ待ってて俺が日曜も仕事だったらどうするつもりだったんだよ」
「十分ほど待って帰ってこなければ私も諦めて帰っていたさ」
「…あっそ」
諦めたようにため息をもらした男は、改めて自分を待っていた女―――――織斑千冬の姿を眺めた。
織斑千冬という女は、およそ男が今まで出会った女の中でも色んな意味でとびきりの女だった。
腰まで届く癖のある黒髪を一つに纏めて無造作に背中へ流し、決して折れることのない意志の強さを感じさせる鋭い吊り目の瞳は黒曜石を思わせるほどに深く美しい。整い過ぎているぐらいに整った容姿は可愛らしいというよりは、むしろ美人という方が彼女には合っていた。
そして顔だけではなく体の方も彼女は魅力に溢れていた。女性にしては高い身長と生来の姿勢の良さが彼女のスタイルを強調し、その辺の雑誌に載っているモデルよりも魅力的だった。
「取り敢えず、知らなかったとはいえ待たせて悪かったな」
「気にするな。連絡も入れずに勝手に来たのは私の方だ。お前はなにも悪くない」
「そう言ってくれると助かるよ」
千冬の言葉を聞いた男はホッとしたように胸を撫で下ろす。
本気でキレた千冬なんてまだ見たこともないが、それでも自分が彼女よりも弱いことは自覚している。
相手は世界最強の名を欲しいままにするような女だ。そもそも勝てるわけがない。
「どうする?せっかく来たんだし、久しぶりに部屋上がってくか?」
「ん?そう、だな……」
男の問い掛けに対する千冬の反応はあまり芳しくない。
何か頭の中で考えるような仕草を見せると、千冬はハッキリと男に答える。
「いや、今回は止めておこう」
そして千冬の口から否定の言葉が告げられた。
「この後、実は家に帰らなくてはならなくてな」
「…弟くんか?」
「ああ。休日なんだ、一度くらいは顔を見せておかんとな」
「お前も変わらねーなぁ」
「ふん。喧しい」
軽く小突くように千冬の手が男の肩を叩く。
こうして馬鹿な話をするのも果たしていつ以来だっただろうか。
男と千冬の付き合いは、お互いに中学生の頃から細く長く続いていた。
恐らく篠ノ之束という唯一の例外を除けば、男は千冬にとって最も長い付き合いとなる友人であった。
「貴様も昔から変わらんな」
「そうか?これでも何も知らなかった中学生のガキから、社会の荒波に揉まれまくって心が荒んでしまった社畜に転職したはずなんだけどな」
「…なんだそれは」
「気にすんな。男には男にしか分からんツラい現実があるってことだ」
男はポケットから煙草を取り出して口に咥える。
「…なんだ、煙草なんて吸っているのか?」
「まあな」
千冬に答えた男は肺いっぱいに煙を吸い込むと、気持ちよさそうに煙を一気に吐き出す。
「これぐらいの娯楽がなけりゃ、サラリーマンなんてやってらんねーよ」
仕事の合間に吸う煙草と仕事終わりに飲むビール。
この二つは人間が生み出した技術の中でも最高傑作の一つだと男は考えていた。
「それより、弟くんが待ってるんなら早く帰ってやんな。お前のことだから、どうせ仕事が溜まって忙しいのに頑張って時間を作ったんだろ?」
「…む。…まあ、な」
「家族だってのに普段は「教師と生徒」としてしか接することが出来ないんなら、纏まった休日ぐらい普通の「姉と弟」の関係に戻ってやれ。弟くんのためにも、千冬のためにもそれがいい」
「そうだな」
「どうせお前は普段から気を張りまくって緩めることを知らないんだろ?唯一の家族である弟くんに心配を掛けないように「頼りになる姉」の姿を維持しなきゃならんってのは理解できるが、人間なんざ俺に言わせりゃそもそも完璧じゃないんだし、少しは気を緩めたって罰は当たらんぞ」
そう言って男はビニール袋の中から食後に食べる予定だったシュークリームを二つ手に取った。
こう見えても男はそれなりの頻度で甘味処へと顔を出し、もはや常連として名前を覚えられる店がいくつかある程度には甘党だった。
ビールの肴には塩気のあるものが最高だと思うが、それでも酒を飲み終えた食後のシメには必ず甘味で終えるというのがいつもの男の飲み方だった。
「ほれ、弟くんと一緒に家で食べろ」
「いいのか?」
「そうやって人の好意を素直に受け取らないから、今までしなくてもいい苦労を背負い込んだんだろ。この甘党の俺がくれてやるってんだから、いいからさっさと受け取れよ」
強引に二つのシュークリームを千冬の手に乗せた男は、話はこれで終わりだとばかりにポケットから家の鍵を取り出した。
「んじゃ、俺はこれから一仕事あるからもう家に入るけど、お前もさっさと家に帰って弟くんとのんびりまったり休日を満喫しろよ」
後ろ手に千冬へと軽く手を振った男は、千冬の返答も聞かずに自分の部屋へと入っていった。
その場に残された千冬は、男から渡されたシュークリームと男が入っていった扉を交互に眺めると、暫くして男の部屋に背を向けた。
先程まで降っていた雨は既に止み、雲間からは確かな太陽の輝きが覗いている。
少し歩いた千冬は、一度だけ男の部屋があるアパートを振り返る。
閉められたままの扉を数秒だけ眺めた千冬は、再び家に向かって歩き出した。
◇
「―――――で、なんで一度は帰ったお前が今、俺ん家にいんだよ……」
「ん?」
あまり広くはないアパートの一室で、男は目の前に座ってビールを傾ける千冬を見て小さく呟いた。
「おかしいだろおかしいだろおかしいだろ!?せっかくあんないい感じで別れたってのに、なんで一時間も経たずにお前はココに戻ってきてんだよ!!?」
「なんだ、またその話か」
「「なんだ」じゃねーよ!?つーか、残念すぎるだろ!?あまりにも痛々しすぎるだろ!?俺は自分が恥ずかしいったらねーよ!?」
「一々煩い奴だな、まったく」
「お前も平然と人の買ってきたビールを呷ってんじゃねーっ!!?」
二人の間に置かれた机を叩きながら男が吠える。
既に千冬が再び男のアパートを訪れてから三度は同じような会話が繰り返されていた。
いい加減、同じようなこと繰り返し言うのも疲れてきた男は息も絶え絶えになるほど叫ぶと、ひとまず言いたいことは言い終えたと自分用のビールを一気に呷った。
「ったく、弟くんとののんびりまったりした休日はどうしたんだよ」
男がどこか拗ねたように言うと、千冬は僅かに口元を緩ませながらビールを机に置く。
「何度も同じことを言わせるな」
「うっせ。普段から馬車馬のように働かされてるリーマンにとって数少ない楽しみである自堕落な休日を潰しやがって……」
「だからビールは飲ませてやっているだろ」
「そりゃ飲むに決まってんだろ―――――もともと俺が買ってきたビールだからな!」
「まったく、男のくせに細かいことをいつまでもグチグチと」
大きなため息をこぼす千冬に、男はこめかみに怒気が溜まるのを自覚しながらも再び呷ったビールで胸の内へと流し込む。
一度確かに家へ戻った千冬が再び男の家へ戻ってきた理由は、既に千冬本人から聞いているので男も分かっていた。
曰く、シュークリームを持って家に帰ってみれば、そこには楽しそうに遊んでいる弟くん+弟くんに好意を寄せている五人の少女がいた。あのままいつも通り家に居座ってもよかったが、流石に自分がいてはせっかくの休日に遊びに来た少女たちも寛げない。だから適当に仕事だと弟くんに告げて家を出てきた。
ただ、そこで一つだけ問題が発生した。
果たして自分はこれから何処に行けばいいんだろうか。
悩んだ末に千冬が導き出した答えは、正に今、男の状況が如実に物語っていた。
「別に家に来ること自体は、まあ、百歩譲って構わねーんだよ、俺は」
「ならいつまでも女々しく愚痴るな、鬱陶しい」
「うーるーへー。お前みたいなイイ女を目の前にしてる男の身にもなれってんだよ、ったく」
男は空になったビール缶を脇に置くと、冷蔵庫から新しいビールを持ってくる。
「これだけの女を前にして指一本出せないとか、なにそれ、生殺し?」
「そんなことを考えていたのか?」
「当たり前だろ、バカ野郎。昔から言うだろ?「男はみんな狼なのよ」ってな」
「ふん、下らん」
男の言葉を千冬は一蹴する。
「ちくしょー!いい加減、乳ぐらい揉ませろーっ!!」
「デカい声を出すな、馬鹿者が!」
「うっせーっ!処女でもない女が一人暮らしの男の部屋に来てんなら、少しぐらいサービスしろよおおおおおおおお!!?」
相当に悪酔いしているらしい男は、ついに机へと突っ伏して泣き始めた。
男の癖に軟弱な奴め、と内心で思う千冬だが、あくまでも「思う」だけで敢えて口には出さない。
なんだかんだと言って時にはセクハラ紛いのことまで口にする男だが、中学生の頃から付き合いの続く千冬は男が今までどれほどの苦労を乗り越えてきたのかということを知っていた。
愚痴はこぼすし悪口も言う。しかも好きなことは博打で、更にツラいことがあれば酒と煙草に逃げるようなどうしようもない男だが、それでも千冬との付き合いが続いているのは、やはり気の置けない友人という立ち位置がお互い中学生の頃に確立されてしまったからだろう。
片や委員長としていつもみんなの中心にいたクラスの人気者。片や人間不信にも似た態度で尖っていたクラスの嫌われ者。
完全に真逆の立ち位置にいた二人だが、だからこそ、些細な切っ掛けを通して友人となった。
「私は構わんぞ。襲いたければ襲えばいい」
「―――――へ?」
「私だって「一人暮らしの男の部屋へ女が一人でやってくる」ということがどういうことなのかぐらいは理解しているつもりだ」
飲んでいたビールを置き、千冬は呆然としている男の瞳を見つめる。
「どうした?来ないのか?」
「…いや、なんか千冬がそういうことを言うのに果てしない違和感があるんだが……」
「なんだ、今更」
なにかしらの危機感を抱いたらしい男が僅かに千冬との距離を空ける。
懐疑的な表情をみせる男を前に、千冬はSっ気たっぷりに顔を歪めて嗤いながら、いつもと何一つ変わらぬように、いたって自然な感じで「事実」を告げた。
「私とお前は、お互い若かったとはいえ、一度は肌を重ねた仲だろう?」
「ぐ……っ!?」
千冬の言葉を聞いた男は思わず唸って黙ってしまう。
そこに至るまでに紆余曲折はあったものの、結果だけ見れば、ただその一点の「事実」が二人の立場を明確にしていた。
どれだけ千冬が好きなように男を振り回しても最終的には男が黙った従う理由は正にその一点にあった。
「…今それを言うのは卑怯だろ」
「あの時は私も若かった。まさか友人だと思ってたお前相手に「襲われる」とはな」
「……お前だって拒否らなかっただろ」
「相手がお前でなければ私は間違いなくその男を殴り殺していたぞ」
「………」
男の言い訳を無視して語り続ける千冬に、男は諦めたようにため息をこぼす。
この会話の流れになってしまえばいつだって自分は千冬に勝てたためしがない。
高校生という最も性に関して興味が膨らむ時期に織斑千冬ほどの女と同じ部屋で二人きりという状況に置かれれば、男ならだれでもつい襲ってみたくなるだろう。
少なくとも、男は思わず手を出してしまった。
何度となく「拒否するなら今しかない」と念を押した結果、当時の千冬から返ってきた答えは黙ったまま目を逸らすという行動だった。
「さっきも言ったが、別にお前が襲いたいというのならば襲えばいい。好きにしろ。私は構わん」
「…これだけの前フリの後にそう言われると非常に怖いんだが……」
男の顔が微妙に青く染まっている様子を見ながら千冬は言葉を続ける。
「まあ、二度目は私も素直に襲われてやるほど優しくはないがな」
一気に残ったビールを千冬が呷る。
かつて世界最強の称号である『ブリュンヒルデ』を獲得した時に身に付けていた暮桜はなくとも、織斑千冬の身体能力は一般的な人間のそれを軽く凌駕している。生身の肉体に対IS用武器を装備しただけで世界の戦力兵器の中枢をなすISと互角以上に戦えるのは千冬だけだ。
その千冬が同意しているのならまだしも素直に抱かれず抵抗すると言っている以上、それはつまり、誰も彼女に対して手を出すことが出来ないと断言しているよなものだった。
つまり、男にとって生殺しにも近い現状は変わらないということだった。
「それでも私を抱きたいというのなら、もう私から言うことは何もない。屍になるつもりで掛かってこい」
「無理に決まってんだろうがああああああああ!?」
「ならば諦めろ」
追加のビールを冷蔵庫から出しながら千冬が言うと、男はしばらく頭を掻きながら唸り、そして千冬を前にして渾身の叫びをあげた。
「それならこういう時に相手してくれる男ぐらい作れよおおおおお!!千冬なら選び放題だろうがよおおおおおおおお!!」
様々な感情が入り混じった叫びだった。
「なんだ、酒を飲む相手が私だと不満か?」
「普段からお前クラスの女を見てると他の女を見る時の基準が上がるんだよ!分かるだろ!?合コンでも「あ、コイツら大したことねーわ」とか考えちまうんだよ!!?」
「そこまでは私も知らん。お前が自分でなんとしろ」
「じゃあせめて俺ん家にある「お前の着替えと身嗜み道具」は持って帰れよ!?女を家に呼んだ時に隠さなきゃなんねーだろうが!!」
「実家までは少しばかり遠くてな。休日とはいえ教師はほとんど学園に缶詰だ。その点、お前の家はIS学園からほどほどに近くて丁度いい。我慢しろ」
「他の女を連れ込むことも出来ねーのかよっ!?」
「当たり前だ。お前が誰を抱こうが興味はないが、どこぞの誰とも知らん女と情事を交わした後のベッドでなど寝られるか!」
男を一喝した千冬は、気付かぬ内にヒートアップして熱くなったのか、上から羽織っていた白いジャケットを脱ぐ。
「―――――っ!?」
途端に男は息を呑む。
今日の千冬の服装は、黒いタンクトップに白いジャケット、そしてジーパンという非常に簡素かつ機能的なものだった。
ただでさえ大胆に露出された胸元に視線がいってしまうというのに、更に上から羽織っていたジャケットまで脱がれてしまうと本格的に目のやり場に困る。
世界最強と称される人間であるにも拘らず、織斑千冬の体は扇情的だ。
鍛えているのに柔らかさを失わない腕に限界までタンクトップを押し上げる豊満な胸、くびれたウエストなんて抱きしめれば折れてしまいそうに細い。個人的にはもう少し肉付きがいい方が男の好みには合っているが、外国人も驚きのスタイルは非常に美しい。
目の前で美女がそんな露出の多い服装をしていても、相手が『織斑千冬』という女傑であるだけで手も足も出ない。
「―――っ、とにっ、お前はああああああああ!!」
「ん?」
頭を掻きながら叫ぶ男に千冬が首を傾げる。
「襲えんと分かったそばからそんな恰好してんじゃねーよ!!?なにお前!?ホントは抱かれたいの!?なんなの!?」
「暑いから一枚脱いだだけだ。一々叫ぶな、喧しい」
「こちとら最近大きなプロジェクトを任されたから、ここんとこ残業続きで溜まってんの!分かる!?そんな男の前で、んな欲情する格好すんなよ!勃っちまうだろ!?」
「黙れ、酒が不味くなる」
「ぐはっ!?」
丁度近くにあった煙草の箱を千冬が投げると、寸分の狂いもなく箱は男の額に当たった。
絶対に人間から鳴ってはいけない打撃音―――もはや破壊音に近い―――が男の額からすると、同時に男はそのままの体勢で横に倒れた。
いい感じに酒が回っていた男の意識は急速に遠のいていく。
失われゆく意識の中で、男は誰とも知れない声を聴いた。
◇
「ふん、馬鹿な男め」
屍のように倒れ込んだ男が残したビールへと口をつけながら千冬が呟く。
昔からコイツは馬鹿な男だった。
人間不信で、周囲に対して必要以上に壁を作って、教師ですらもはや半ば投げやりだった千冬に、ただクラスの委員長だからという理由だけで男は積極的に接してきた。
千冬が何度辛辣な態度を取っても、何度邪魔だと言ってボロボロにしても、何度教師からもういいと説得されても、それでも男は千冬に対する態度を変えることはなかった。
そうやって不器用な二人が不器用なりに繋がりを作り、そしてどうやっても諦めない男に、次第に千冬の心も動かされていった。
「…考えてみれば、どこのドラマだというような話だな」
飲み終えた缶ビールを流しへと持っていった千冬は、気持ちよさそうに寝息を立てている男の隣へと腰を下ろす。
よく見てみれば、男の目の下にはうっすらと隈が出来ていた。
あまり寝ていないという話はどうやら本当らしい。
「無理をするからだ、馬鹿者め」
倒れている男の頭の下に手を差し入れた千冬は出来るだけ優しく頭を支えると、そっと自分の膝の上へと乗せた。
真上を向いた男の額は既に赤くなっていた。
「…少し強すぎたか?」
寝不足の男を眠らせるために投げた煙草の箱は千冬が思っていた以上の速度と威力で男の額に命中していた。
男の前髪を左右に分けた千冬は、赤くなった額を壊れものでも扱うように優しく擦る。
静かな時が流れていた。
いつもIS学園で聞いている喧噪などまったく別世界のようにすら思えるほどの穏やかな時間だった。
耳を澄ませば蝉の声と葉擦れの音だけが耳へと届く。
「―――――」
らしくもないことをしているという自覚はある。
こんなことは弟である一夏にすらしたことがない。
本当に、昔からここに来るとらしくないことばかりしてしまう。
「…貴様は知らんだろうがな、私はこれでも臆病なんだ」
まだ幼い頃に両親を亡くし、一人で生きていくしかなかった。
誰も助けてくれず、誰も顧みてくれず、誰も言葉すら掛けてくれなかった。
最も大変だった時に周囲はみんな一斉に自分たち姉弟から顔を逸らした。腫れ物でも扱うかのような待遇に、周囲はすべて敵だと思っていた。
だから中学生になった時も今までと同じように誰も信じなかったし、誰とも関わろうとしなかった。
それが一番楽だった。人と人との繋がりなんてすべて煩わしいと思っていた。
「この際だから白状してやる。私は初めて貴様と顔を合わせた時からお前のことが嫌いだった」
周囲をすべて拒絶することで安定していた千冬の平穏を崩したのは、馬鹿みたいに真面目で、馬鹿みたいに善意に満ちた、馬鹿みたいに明るい男だった。
いつも通り登校した千冬が自分の席につくと、ある日突然その男はやって来た。
初めて男が発した言葉は今でも覚えている。
―――――おはよう、織斑さん。HRまでちょっと一緒に話していいかな?
目の前の席に後ろ向きで座り、決して目を逸らすことなく男は千冬にそう告げた。
男に対する千冬の反応はもちろん無視だった。今まで接してきた人間と同じように千冬は男を拒絶した。
それでも向かってくる時には殴りもしたし、蹴りもした。保健室送りにしたことだって一度や二度の話ではない。あまりに酷すぎて担任から自宅謹慎を命じられたこともあった。
今考えてみればあまりにも幼稚で稚拙な行為に顔を覆いたいばかりだが、当時に千冬は『織斑千冬』という強固な殻に守られた弱く臆病な自分を守るために必死だった。
だが、それだけやっても男は平然としていた。
拒絶しても向かってきて、殴られても蹴られても次の休み時間には平然と声を掛けてきて、保健室送りにされてもケロッとした顔で一緒に昼食を取ろうとする。果てには出席停止を命じられた千冬に対して毎日すべての授業のノートをわざわざ家まで持ってくる。
本当に煩わしく、そして鬱陶しい。面倒な奴だ。本気で殺意を覚えるほど邪魔だと思った。
「だが、どれだけ私が憎もうとも真っ直ぐ向かってくるお前に、私の心は絆されていったんだ」
無鉄砲でお節介、その上怖いもの知らずだった男からすれば、当時の千冬は単なるクラスメイトの一人に過ぎなかっただろう。おそらく他のクラスメイトの誰かが同じことをしても男は間違いなく同じことをしていたに違いない。
それほどまでに男は「委員長」としての職務に燃えていたし、それ以上に、誰かか褒められるということに
「お前は気付いているか?あの日―――――お前が私を抱いた日、最初に誘惑したのは私なんだぞ?」
高校生になって初めて男とクラスが分かれた二年生の時だった。
束と一緒に昼食を取っていた時にふと、なんとなくぼんやり眺めていた窓から見てしまった光景があった。
考えてみれば当たり前のことだった。自分でも面倒な女だと自覚している私に対してすら平然と接してくるほど胆力のある男が、他の女子から人気がないはずがない。
学年でも可愛いと評判の女子と仲よく会話しながらゴミを捨てに行く男を見た瞬間、千冬は意味もなくその場で立ち尽くしていた。
直感で分かった。理解した。男の隣を歩いているその女は、間違いなく男に惚れていると。
そしてまさにその夜のことだった。
千冬が強引に男の部屋まで乗り込み、そして、男によって抱かれたのは。
「あの時の私は冷静ではなかった。まさか自分でも思っていなかったんだ。殺したいとすら思っていたお前のことが、私の中であんなにも大きな存在になっているとはな」
忘れもしないあの日、千冬の頭の中は真っ白になっていた。
ただ唯一覚えているのは、このまま何もしなければ男が他の女に取られてしまうという焦燥感だけだった。
気が付いた時には男と指を絡め、口づけを交わし、服をはだけられ、そして―――――男の腕の中にいた。
「私がお前の前で自分の気持ちを伝えるのはこれで二度目だな」
一度目は高校生の時、男の腕に抱かれながら微睡みの中で呟いた。
人間なんて信じられないと思っていた頃の自分からは考えられないほどの幸福感に包まれながら、無意識の内に胸に秘めていた想いを発していた。
思い返してみれば、あの時も男は眠っていた。
お互いに身を隠すものなんて何もないまま、ただ一枚の毛布に包まって男は千冬を抱き締めていた。
「好きだ。私はお前のことが好きだ。愛している」
二度目は正に今、またも男の意識がないところで伝えている。
本当に意気地がない。本人を前にしては決して想いを言葉にすることが出来ない。
昔から『織斑千冬』とはそういう類の女だった。
「どうする?どうやらお前が考えている以上に、私はお前のことが必要らしいぞ」
頬を緩ませながら千冬は男の額を擦っていた手を止めた。
恋愛になど興味はなかった。私のすべては一夏が立派に育ってくれるためにあるとすら考えていた。だからこそ今まで必死になって働いてくることが出来たし、命を賭けて戦うことだってできた。
それでも、一夏のために頑張りながらもやはり男を失いたくないという想いは日々大きくなっていく。そしてそれは高校を卒業して会う機会が減って以降、更に顕著になってきた。
「まさかこの私がお前相手に「独占欲」を持つ日が来るとはな」
そう言って千冬は顔を徐々に男へと近づけていく。
男は幸せそうな表情で眠っていた。
叶うのならば、その幸福な夢の中に自分がいればいい。
そんならしくもない乙女なことを考えてしまうぐらいには、今の千冬の頭は
邪魔になる自分の髪を耳へと掛ける頃には、千冬と男の間を隔てる距離は既になかった。
「―――――ん」
軽く触れる程度に交わした口づけは、たった一瞬だったけれども本人を前にしては決して言葉に出来ない想いを溢れんばかりに詰め込んだものだった。
唇に自分のものではない温もりが伝わってくる。
まだ男の感触が残っている自分の唇を指で触れながら千冬は男に訊ねる。
「お前は、私のことを必要だと言ってくれるのか?」
「―――――」
男の幸福そうな表情を眺めながら呟いた千冬の言葉は、誰の耳にも届くことなく溶けていった。