思い付きによる突発的短編集   作:バレンシア

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敢えて難しいキャラクターを選択したつもりが、やっぱり難しかった件。


龍門渕高校―井上純の場合―

 それは夏の県予選大会を前にしたある日のことだった。

 広大な敷地の中に聳え立つ龍門渕高校の一室で麻雀部が活動していると、部長を務める透華が思い出したかのように口を開いた。

 

「そういえば、純」

「んー?」

 

 癖のある長いブロンドの髪を上品に揺らした透華が自分の右に座る少女へと顔を向ける。

 少女の名は井上純。窓から差し込む光を浴びた銀髪の眩しい少女だった。

 

「昨日の話なのですけど、久方ぶりに貴方のお兄様にお会いしましたわ」

「ふーん。兄貴とねぇ……」

 

 丁度順番が回ってきた純は山へと手を伸ばしながら適当に相槌を打つ。

 ツモってきた牌は、現在の彼女の手役からは完全に浮いた不要牌だった。

 夏の手前と言う穏やかな陽気に当てられたのか、純は眠たそうに欠伸を噛み殺しながら牌をそのまま河へと捨てた。

 

「三十分ほど近くの喫茶店でお話しさせていただきましたけど、私、貴方のことをよろしく頼むと頭を下げられてしまいましたわ」

「へぇー……」

 

 再び透華が言葉を投げかけても純は相当な眠気が襲っているらしく、曖昧な反応しか返さない。

 

「貴方にお兄様がいたことは知ってましたけど、随分と年齢が離れてらっしゃいますのね?」

「んー……」

「お見掛けした様子ですと、一回りほど違うのではなくて?」

「んー……」

「…貴方と違って礼儀正しい方でしたので、私、思わず誰と話をしているのか分かりませんでしたのよ?」

「んー……」

「―――ちょっと純!私の話をちゃんと聞いてますの!?」

「んー……ん?悪い、透華。今、何か言ったか?」

「―――っ!?」

 

 あまりにも適当な純の相槌に、ついに我慢の限界が臨界点を突破した透華は立ち上がって吠える。

 

「純!貴方もう少ししっかりなさい!!」

「なんだよ透華、いきなり大声出して」

「「なんだよ透華」ではありませんわよ!!この私が話しかけているというのにその反応はあんまりではありませんの!?」

「そんな反応って言われてもなぁ」

「それに貴方、今は対局中ですのよ!夏の予選も近いのだからもっと集中なさい!!」

 

 常に全力投球をモットーにする透華らしい指摘に、純は座っていた椅子に深く腰掛けて大きく息をはいた。

 

「純くん、寝不足?」

 

 純とは透華を間に挟んだ逆側に座っていた一から心配そうな声が掛けられる。

 

「まぁ、ちょっとな」

 

 目頭を軽く揉み解しながら純が応えると、一緒に卓を囲んでいた最後の一人である智紀からも心配そうな視線が向けられる。

 

「…夜更かしは、よくない」

「わーかってるって」

 

 ここ数日で確実に蓄積されている疲労を誤魔化すように純はひらひらと手を振る。

 

「純!せっかく一と智紀が心配してくれているのにその態度はなんですの!!」

「そんなに叫ばなくても隣に座ってんだから聞こえてるっつーの」

 

 顔を顰めて耳を抑えながら純はボヤいた。

 真面目で一生懸命な透華と適当で常に飄々とした純ではあまりにも性格が異なっているため、二人はよく部活動中でも衝突する。

 大抵は直情型の透華を純が適当にいなすという構図になるのが龍門渕ではお決まりのパターンなのだが、今回は少しばかり毛色が違った。

 当事者である二人は気付いていないらしいが、苦笑いを浮かべながら二人の言い合いを見守る一と智紀には、なんとなくいつもとは異なる純の様子に違和感を覚えるのだった。

 

「…らしくない」

「ともきーもそう思う?」

「…うん」

 

 頷く智紀に我が意を得たりとばかりに一も同意する。

透華の様子は普段と変わらない。それはメイドとして常に透華と行動を共にする一が一番良く分かっている。見事なまでの透華節は今日も健在だ。

 二人がなんとも言えない違和感を覚えるのは純だった。

 純は普段からあまり「誰が見ても私は頑張ってます!」といった態度を見せるタイプではない。どちらかと言えば常に周囲に対して余裕を見せ、自分が地味に努力している姿を見せようとはしない。

 だからこそ彼女は不真面目という誤解を生みやすいのだが、そんな事は一も智紀も既に知っている。

 しかし二人が違和感を覚えたのは彼女の態度というよりも、むしろ彼女が透華に放つ言葉にこそあった。

 

「純くんが寝不足なら今日はもう終わっとく?」

 

 普段とはどこか少しズレた純の様子を体調の悪さと結びつけた一が言うと、透華は今まで純に向けていたキツイ視線を一に向けた。

 

「何を言いますのっ、一!?県予選も近いのですから、サボっている時間はありませんのよ!!」

「でも透華。県予選が近いからこそ、体調が悪いのなら早退させてあげた方がいいんじゃないかな?」

「―――そ、それはっ!?」

「県予選の本番で力を出せないのが一番ダメな事なんだから、今の内に療養させてあげた方がいいんじゃなかなーってボクは思うんだけど?」

「む、むむむっ!?」

「それに衣がちゃんと時間通りに会場に来るのかも分からないんだし、純くんには万全の体調でいてもらわないとね」

 

 笑って一がそう言うと、透華は暫く唸って何かと葛藤すると、大きなため息をつきながら表情を緩めた。

 

「一の言うことにも一理ありますわね」

「でしょう?」

「一がそこまで言うのでしたら仕方がありませんわねぇ……」

「うん!」

 

 まったく、と肩に入りまくっていた力を抜きながら透華は椅子へと座り直す。

 そして近くの机に置いてあった紅茶を一口飲み、喉を潤す。

 たったそれだけの僅かな間を作ったことで、既に透華の頭は落ち着いていた。

 

「純。貴方、体調が悪いのなら今日は帰りなさい」

「いいのか?」

「構いませんわ。考えてみれば、体調不良なんて誰もが例外なく起きるものですもの、むしろ貴方の体調不良が県予選本番の時に来なくて幸いでしたわ」

「まぁ、そりゃそうなんだけど」

「ですので今日は帰宅を許可しますわ。帰ってゆっくりとお休みなさいな」

 

 一度落ち着いてしまえば、本来の透華はとても友人想いで心配性な何処にでもいる優しい少女だった。

 言葉こそ素直ではないものの、彼女の性格をよく知る一や智紀から見れば、今の透華が純のことを随分と心配していることがよく分かった。

 

「じゃ、わりーけどオレは帰らせてもらうとするか」

「そうなさい。まったく、日頃から体調管理がなっていないからこういう事になりますのよ」

「わりーわりー」

 

 謝りながら部室にあった荷物を鞄へと纏める純を見ながら、透華は持っていた紅茶のカップを机に置いた。

 

「今日は帰宅を許しますが、明日には元気になった顔を部室に見せなさい!いいですわね!?」

「はいよ。りょーかい」

 

 純が答える。改めて見てみれば、純の表情はいつもよりも幾分か暗い。飄々とした純が表情に出してしまうほどには調子が悪いらしい。

 麻雀部の部室から出ていく純を見送ると、透華は大きくため息をついた。

 

「ホント、仕方がありませんわねぇ」

 

 透華はポケットから携帯を取り出した。

 

「どうしたの、透華?」

 

 一が不思議そうな顔で見つめてくる。

 透華は携帯を操作していた手を止めると、優しく微笑みながら言った。

 

「いえ、いつも誰も頼ろうとしない子に、少しばかりお節介を焼くだけですわ」

 

 携帯電話の向こう側では、一もよく知る男の声がした。

 

 

 

 

 

 

 部室を出た純は、重たい足取りのまま学校の廊下を歩いていた。

 

「あー……だりぃー……」

 

 普段の飄々とした姿からは想像もできないほど純の表情は暗い。

 そもそも、純がこうして寝不足になった原因というのはすべて一人暮らしをしている兄の帰省にあった。

 純の兄は透華が想像した通り既に年齢が三十に近い。高校卒業と同時に東京で一人暮らしを始めた兄は、大学在学時でこそそれなりに帰省していたものの、東京の企業へ就職して以来、帰省する回数は激減していた。

そんな兄が珍しくも数年ぶりに帰省したのが数日前のことだった。

 両親には一か月前ぐらいから話を通していたらしいが、当の純が知ったのは実際に兄が帰省した玄関でのことだった。驚かせようと密かに帰省した兄の策略に見事に引っかかった純は、玄関でバッタリ出会った兄の姿を見て思わず食べていたアイスを落としてしまった。

 その日以降、お互いに離れていた空白の時間を埋めるように二人の睡眠不足は続いていた。

 本人の前では決して言う事はないだろうが、久しぶりの帰省が嬉しくて、調子に乗ってついつい遊び過ぎてしまった結果がこれだった。正直、笑えない。

 

「…アイツらには悪いことしちまったな」

 

 先程のやり取りを思い出しながら純は大きくため息をついた。

 いくら体調不良だからといっても、さっきのやり取りは正直ない。いつも透華とは何かにつけて口喧嘩のようなことをしたりはするが、それはお互いに相手のことが分かっているからできることだ。透華だって純の性格を分かっているし、純だって透華の性格を分かっている。お互いがお互いを理解しているからこそ成り立つ関係だった。

 今日だって透華はそうだった。素直じゃない透華なりに心配してくれていることは純にも分かっていた。本当ならいつもみたいに適当な感じで流せばそれでよかった。適当な純の態度に透華が怒鳴り、そして一や智紀が宥めに入る。それが普段の、なにも特別ではない、あの「天江衣」がいない時の日常だった。

 

「しゃーない。明日、部室に行ったら謝るか」

 

 面倒くさそうに頭を掻きながら純はぼやく。

 過ぎたことを悔やんでいても仕方がない。考えるべきなのは過去ではなく未来のことだ。次に自分ができることをすればいい。

 元来「井上純」という人間はあまり後悔というものを溜めこむタチの人間ではない。常にポジティブに、前を向いて、未来を志向して生きるように教育されている。他の誰でもなく、今回の一件の原因となった睡眠不足を引き起こした兄によって。

 普段よりものんびりとした歩みのまま純は廊下を抜け、階段を下り、そして下足場に着いた。

 一歩外に踏み出した純の真上からは、太陽が嫌がらせのように燦々と灼熱の輝きを放っていた。

 

「あちぃー……」

 

 思わず手で太陽の光を遮る。

 朝、学校を出る前はこれほどの快晴ではなかったし、気温もこんなに高くはなかった。果たしていつの間に気温が上がったのだろうか。

 重たい気分の時にこんなにも強い日差しは体に悪い。ふらつくほど軟弱な鍛え方はしていないが、それでも真夏を前にしたこの日差しはそれなりに堪える。

 下足場から校門までの道を歩いていく。

 校庭では陸上部が汗を流し、校舎からは吹奏楽部の演奏が響いてくる。

 いくつかの部が全国大会に進出するほど部活動に熱心な龍門渕高校では、麻雀部に限ることなく部活動のレヴェルは非常に高い。特に全国大会の常連らしい吹奏楽部の演奏は、たとえそれが練習中の音だとしても何処か耳に心地よく聞こえる。

 少しだけ軽くなった気分をそのままに純は龍門渕高校の校門を抜ける。

 本当なら麻雀部での活動後は町にでも繰り出してゲーセンで遊びたかったが、流石に透華や一や智紀たちの心遣いを無為に扱ってしまっては申し訳ない。心配してくれた三人のおかげで早めに帰宅できるのに途中で遊んで帰るほど純は人間が腐ってはいない。

 

「…歩くか」

 

 龍門渕高校から純の家までは少しばかり歩かなければならない距離にあった。

 平時の純ならばまったく意にも解さないような距離だが、それでも現在の絶賛体調不良の体には厳しい距離だった。正直、誰かの手があるならば借りたい気分だった。

 だからこそ、校門を潜った先で待っていた「その人」を視界に入れた瞬間、純は思わずその場に立ち尽くして目を擦った。

 

「おいおい……嘘だろ……」

 

 純の瞳が一本の道を挟んだ逆車線へと向けられる。

 歩道の横へと停車させたバイクにもたれ掛かって煙草をふかす「その人」は、携帯を弄りながら誰かを待っているようだった。

 

「あ、兄貴?」

 

 意図せずして口から出た言葉に、純は慌てたように両手で口を隠した。

 車線二つ分の距離というものは意外と遠いらしく、向こう側にいる相手はどうやら気が付かなかったらしい。純の言葉に反応した様子はない。何処か冷めた顔で携帯電話を眺めている。

 

「なんでココにいんだよ……っ!?」

 

 困惑に顔を歪めた純は呆然としながら呟いた。

 いくら実家に帰省しているとはいえ、純の兄は数多くの有名雀士が所属する大手麻雀企業で働いている。しかも透華から又聞きした話では、それなりの地位にいるらしい。だからこそ休日でもこなさなければならない仕事は多いはずだった。

 実際、長野の実家に帰省してからの兄は、純とつるんで遊んでいる時を除いた時間はほとんどパソコンでなにやら仕事をしていた。居間のテーブルの上に資料を広げて忙しなくキーボードに触れる兄の後ろ姿は家の中でよく見かける姿だ。

 今日だって一緒だった。純が起きるよりも早くに兄は急用でどこかへ出掛けていた。朝、起床した純が居間へ向かうと綺麗に調理された朝食だけが残されていた。

なんとなく、特にこれといった意味なんてないけれど、テーブルの上に置かれた朝食を見た純の胸には一抹の想いがよぎった。

 不意に、一陣の風が純の頬を撫でる。

 風はそのまま二筋の車線を横切り、停車させたバイクにもたれ掛かっていた兄の髪を薙いだ。純とは似ても似つかぬ黒い髪が静かに揺れる。

 そして、校門の方へ振り向いた「兄貴」と視線が絡んだ。

 

「―――よ。お疲れさん」

 

 似合ってもいないスーツを着こなした兄貴が片手を上げながら口を開く。

 

「な、なにしてんだよ!こんなとこで!?」

「おいおい。自分が世話になってる学校に向かって「こんなとこ」はないだろ」

「オレはいいんだよ!つーか兄貴、忙しいんじゃなったのかよ!?」

「ま、確かに忙しいっちゃ忙しいんだけどな」

「じゃあなんでウチの校門の前にいるんだよ!?」

「バーカ。体調が悪くて早退しなきゃならない妹を放ったらかしにするほど俺は冷たい兄ちゃんじゃねーんだよ」

「―――っ!?」

 

 軽口を交わしながら兄貴はバイクを押す。しっかりと左右の確認をして横断歩道を渡ってくる兄貴の姿は、スーツを着ているという一点を除いて普段と何も変わっていない。

 ただ、その唯一の違和感であるスーツを着込んだ兄貴の姿は、それだけでまるでまったくの別人と話をしているような感覚を純に与えた。

 

「なーに見惚れてんだよ、純」

「ーーーばっ!?実の兄に見惚れるかよ!?」

「なんだ、素直じゃないな。人の姿を見付けてもすぐに声を掛けなかったくせに」

「ーーーんなっ!?気付いてたのかよっ!?」

「当たり前だろ。あんな熱視線を向けられれば誰だって気付くだろ」

「ーーーっ!?」

 

 兄貴の軽口に思わず純は吃る。

 正直、図星だった。見慣れた人物の見慣れない姿はそれだけで他者を魅了する。

 バイクの後ろに乗せてもらっている時やゲーセンで遊んでいる時には決して見られない兄貴の姿は、純の目を釘付けにするには十分だった。

 

「ま、お前の言葉は「言葉通りに受け取らない」ってのが鉄則だからな。あんまり魅力的だからって惚れるなよ」

「誰が惚れるかよ!!」

「いてっ!?」

 

 分が悪くなった純は、尚も軽口を続けようとする兄貴へと新たな会話法を試みる。

 強烈なローキックが兄貴の足へと痛打する。

 本日の肉体言語も極めて好調らしい。

 

「相変わらず粗暴な奴だな、ったく。もう少し淑やかに出来ないのか?」

「ハッ!無理に決まってんだろ」

「まったく、誰に似たらこんな女なっちまうのかねぇ」

「お前だよ、バカ兄貴」

 

 忙しい両親に成り代わり、幼い頃の純を育ててきたのは兄貴だった。年の差もあり、純が小学校に上がった時には東京に行ってしまったが、それでもたまに帰省した時には必ず二人は一緒だった。

 だからかもしれない。本来なら「女」である純の性格が、こんなにも「男らしく」なってしまったのは。

 

「つーか、どうやってオレが体調不良だって知ったんだよ。早退が決まったのって、ついさっきだぜ?」

「ああ、それはほら、アレだよ。龍門渕さんから電話を貰ってな」

「透華から電話?なんだよ兄貴、透華のアドレス知ってたのかよ」

「この間、偶然会った時にな」

「ふーん……、透華とねぇ……」

 

 なんとなく、僅かに言い淀む。

 特にこれといった意味があるわけじゃない。

 ただなんとなく、胸の奥の方で少しだけよく分からない違和感というか、引っ掛かりを感じた。

 しかし純の心の機微に気付いた様子のない兄貴は変わらない口調で話を続ける。

 

「まあ、まさか電話を切った瞬間、執事くんが隣にいるとは思わなかったけどな」

「…なにもんだよ、ハギヨシくん」

「いや、本当にな。流石の俺もちょっとばかり引いちまったよ」

 

 苦笑する兄貴に合わせて純もまた笑う。

 

「で、結局、仕事の方は何故かハギヨシくんが肩代わりしてくれることになったからバイク飛ばして学校まで迎えに来たってことだ」

「…適当だな、おい」

「いいんじゃないか?一応、社長に確認したら即GOサインが出たしな」

「…それでいいのか、社会人」

「いいのいいの。お前はそんなこと気にしなくてもいいんだっての」

 

 快活に笑う兄貴の手が純の頭に触れる。

 反射的に叩き落とそうかと伸びかけた腕を、しかし、純は途中で止めた。

 同年代の少女たちの中でも長身の部類に入る純にとって、普段ならまず頭なんて触れられない。彼女たちの多くは大抵の場合が純よりも身長が低い。むしろ純の方が相手を撫で回すことが多かった。

 ここ最近の日常では決してあり得なかった出来事に思わず妙な違和感を感じてしまう。

 ただ、それでも自身の頭を優しく撫でる兄貴の手には、なんとも言えない心地よさがあった。

 

「お前は昔から周りのことを考えていないように行動するくせに、意外と良く考えてるからな。きっと何処かで疲労が溜まってたんだろう」

「…そんなもんか?」

「そんなもんだ。お前みたいなタイプの人間は、自分でも気付かないうちに疲労を蓄積して、そんで、ある時いきなり体調に出たりするんだよ」

「…ふーん」

 

 白々しく曖昧な返事をしながら、純は兄貴から顔を背けた。

 白状してしまえば、正直、高校生にもなってという思いは確かにあった。

 思春期真っ只中の女子高生が、しかも自分でも男っぽいと自覚している井上純が、たとえ実の兄とはいえ―――いや、むしろ実の兄だからこそかもしれないがーーー無遠慮に頭を撫でられて憎からず思っているなんて、口が裂けても透華たちには言えない。

 しかも挙げ句の果てには、今更ながら思い出した羞恥心と幼い子供のように頭を撫でられることへの照れで、このオレがまるで少女漫画に出てくる乙女のように僅かでも頬を染めている。そんなこと、絶対に誰にも言えるはずがない。

 

「…くそっ、……顔が熱い」

「ん?どうかしたか?」

「ーーーっ、なんでもねぇよ!!?」

 

 思わず叫んでしまった純に気を悪くするでもなく、兄は笑いながら純の頭から手を離す。

 今までは確かに感じられたはずの温もりが唐突に消える。

 つい、その手を視線で追ってしまう。

 

「取り敢えず帰ろう。お前の調子も悪くはなさそうだけど、言われてみれば確かにいつもよりは顔色が悪いみたいだしな」

 

 そう言って兄貴はバイクの収納庫からヘルメットを二つ手に取った。

 愛用の深い赤色をしたヘルメットを頭に被った兄貴は、もう一つの黒いヘルメットを純に向かって投げ渡す。綺麗な放物線を描いたヘルメットは、一寸の狂いもなく純の手のひらの中へと納まった。

 

「可愛い妹のためだし、しっかりと家まで送ってやるよ」

「…まあ、兄貴がそこまで言うなら送られてやってもいいけどよ」

「はは、素直じゃねー」

「…うっせ」

 

 視線をそらした純は、手に持っていたヘルメットを被る。

 

「ほら!送られてやるからさっさと鍵出せよ!」

「はいはい」

「…なに笑ってんだよ」

「いや、別になんでもねーよ」

 

 隠しきれない笑みを口元に浮かべた兄貴がポケットから鍵を取り出す。

 バイクの鍵の横では、東京にある兄貴の家の鍵が揺れていた。この世に二つしか存在しない鍵。兄貴と、そしてオレの二人しか持っていない二人だけの絆がそこにはあった。

 なんだか、妙に心が弾む。

 

「早くしろよ、兄貴!オレはしんどいんだぞ!」

「分かったからそうせっつくなって」

 

 急がせるために純が背中を叩く。

 なんとなく、こんな些細なことでテンションが上がってしまう自分の姿を兄貴には悟らせたくはなかった。

 特別な理由なんてない。ただ、なんとなく子供っぽくて気恥ずかしかっただけだ。

 龍門渕高校のメンツと一緒に行動している時は「お父さん」なんて言われている女が、兄貴の前ではただの少女に戻ってしまう。

 そんな自分がどうしようもなく恥ずかしくて、そして嫌いじゃなかった。

 

「ほれ、じゃあ乗れよ」

「言われなくても乗るっつーの」

 

 大きなバイクに跨った兄貴に合わせて純もその後ろに跨る。

 手慣れた様子で危なげなくバイクに跨った純が顔を上げる。ヘルメットによって極端に限られた視界の中、純の目の前には大きな背中が広がっていた。

 

「…デケェ、な」

 

 思わず呟いた純の指が目の前の背中に触れる。

 長身の兄貴は全体的に体のサイズがデカイ。手や足は一般的な男よりも一回りはデカイし、鍛えているらしいから胸板だってそれなりにある。それこそ町にでも出れば明らかに頭一つ分は出るからかなり目立つ。

 ただ、今、純の目の前に広がる背中の大きさはそんな単純な体のサイズだけでは推しはかることのできない何かがあった。

 

「しっかり掴まっとけよー」

「分かってるから、さっさと出せよ!!」

「はいはい。まったく、その口の悪さは誰に似たのやら……」

 

 兄貴はこれ見よがしに大きくため息をもらすと、ようやくバイクのエンジンを掛けた。

 ここ数日ですっかり聞き慣れてしまったバイクの駆動音が妙に心地いい。心を落ち着かせるように揺れる振動なんて、まるで中々寝付けない時に優しく肩を叩いてくれる兄貴の手のようだ。

 

「じゃあ出発するぞー」

「オッケー!ガンガン飛ばせよ、兄貴!!」

「体調悪い奴を載せてんのに、そんなにガンガン飛ばせるかよ」

 

 ヘルメットで顔が見えないからハッキリとしたことは分からない。もしかしたら単なる勘違いなのかもしれない。

 ただそれでも、純の目には兄貴が苦笑したように見えた。

 頭に浮かんだ兄貴の顔が妙に気恥ずかしくて、腹の方へと回した腕に僅かばかりの力を入れる。

 がっしりとした兄貴の胴体いっぱいに腕を伸ばして後ろから抱きつくと、頬を重ねた兄貴の背中はなんだか凄く気分が落ち着いた。

 走り出したバイクは緩やかに速度を上げていく。

 普段よりも幾分が速度が足りないような気がするが、それが兄貴なりの体調を崩した妹に対する配慮の仕方なんだろう。

 視界に広がる町の景色が次々と疾走しては変わっていく。

 まるでここ最近の自分のようだな、と純は口元に笑みを浮かべた。

 もともと、龍門渕の連中とつるむのは嫌じゃない。アイツらとつるんで騒ぐのは、アレはアレで楽しいから好きだ。麻雀に興じるのも、衣の世話を焼くのも、透華をいじって遊ぶのもかなり楽しい。俺にとっての大切な時間なのはもう疑いようもない。

 でも、今のオレにとってはアイツらとつるむのと同じくらいに「この時間」も大切な時間だった。

 めったに会うことのできない兄貴と二人、こうしてバイクに乗る。ただそれだけのことが妙に嬉しくて、楽しくて、テンションが上がる。調子の悪さなんでどうにでもなりそうな気になる。寝て休んでいるよりも、このまま何処かへ遊びに行きたくなる。

 それほどにこの瞬間が『井上純』には大切なものだった。

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