「あー!今日の部活もおもろかった!」
半熟の黄身を押し潰したような夕焼け空が街を染めていく。一日の中でも特に刹那的な瞬間が過ぎていく。そんな儚くも脆いガラス細工のような僅かな時間を打ち破るように、部活動を終えたばかりの少女が空へ向かって思い切り腕を伸ばした。
「なんやセーラ、最近めっちゃ調子ええみたいやなぁ」
「そやなぁ。今日も結局、半チャン三回中トップが二回やったし、今月のMVPはセーラに持って行かれそうやわ」
そこには三人の少女がいた。三人の少女は『千里山女子高校』と掲げられた校門を横に並んで抜けた。
麻雀のことを多少なりとも知る人間にとって『千里山女子高校』という存在はもはや常識的なレヴェルとして知っておくべき知識に含まれている。特に高校麻雀界においては、西東京の白糸台高校や長野の風越女子高校、北九州の神道寺女子高校などと並ぶ全国でも有数の麻雀強豪校として非常に有名だ。
そんな『千里山女子高校』の中でもエース級の実力を持つ少女こそ、まさに今、校門を潜ったばかりの三人の少女たちだった。
「せやろせやろ!オレもなんや最近はごっつ調子ええなと思ててん!!」
中央を歩いていた少女が勢いよく前方へと走り出す。そして唐突に振り返ったと思えば大きく腕を広げた。
「今はホンマ負ける気が一切せんわ!!」
溌剌とした少年のような笑顔が少女―――江口セーラには良く似合っていた。
「いや、ホンマにシャレにならん感じやで。今日もほら、二戦目にセーラと同じ卓になった一年生の子おったやろ?」
「おったおった!あの髪長い子な!!」
「セーラと一緒の卓になった瞬間のあの表情はちょっとやそっとじゃ忘れられへん感じやったわ」
「あれはもうホンマにトラウマ級やで」
「もうちょっと手加減してもええんとちゃう?」
二人の親友から向けられる非難の声にもセーラは気にした様子を見せない。
「アホなこと言うたらアカンで二人とも!麻雀の世界で手加減なんかしとったら、あっちゅう間に神様に見放されてまうやん!!」
「それはまあ、そうなんやけど」
「それに手加減されて喜ぶ奴なんて、どうせ全国には行かれへんし!ここでは先輩にボッコボコにのされても這い上がってくるぐらいの気構えがないとアカンねん!!」
「ま、そのセーラの意見には私も大いに同意するけどな」
「おおっ!流石、怜!話が早い!!」
セーラが小柄な少女の背中を嬉しそうに叩く。小柄な少女がなにやら苦情を言っているような気がしなくもないが、恐らく気のせいだろうということいしておく。
「先月は怜に月間MVP持ってかれたからな!今月は絶対にオレが取るて決めてんねん!」
セーラは屈託のない笑みを親友二人へと向けると、元気にVサインを見せる。三人の実力は全国有数の麻雀強豪校である『千里山女子高校』の中でも非常に高いレヴェルで拮抗していた。また同時に、三人は中学校以来の親友として部活内におけるライバル関係でもあった。
「それに今日は珍しく『師匠』もおったし、元気100倍!やる気1000倍や!!」
セーラが『師匠』と呼んで慕っている相手は、千里山女子高校麻雀部にとっては「二人目の顧問」に当たる男だった。たまにしか来ることのない「もう一人の顧問」は、もはや部内ではちょっとしたレアキャラ扱いとなっている。正顧問の愛宕雅枝が毎日麻雀部へ顔が出せるように裏方に徹しているということは部員なら誰もが知っていることだが、それ故に、たまに顔を出した時の反響は凄まじいものがある。特に副顧問就任に当たって、自ら校長や正顧問の愛宕雅枝に頭を下げまくった三年生への影響は無視できないほどだった。
ちなみに完全に余談となるが、男は現在セーラと共に帰宅している二人の少女の内、美しい黒髪を揺らしている少女の親戚であったりもする。
「やっぱり『師匠』にカッコ悪いところは見せられへんからな!」
セーラは笑顔でグッと親指を立てた。そんなセーラの姿に親友二人は苦笑いを浮かべながらため息をついた。
確かに『師匠』が来た時には、必ずと言ってもいいほどの割合でセーラはトップを取る。その勢いたるや思わず下級生が引いてしまうほど凄まじい。
ただ、と二人は過去を思い出す。男は間違いなくセーラにとっては『師匠』だが、それはあくまでも
「あー、明日も『師匠』来ーへんかなぁー」
そんなことなど関係ないとばかりにセーラの口からは願望が零れ落ちている。
「まあ、今日来たんやからまた当分は来ーへんやろなぁ」
「ホンマはもうちょい顔出してもらわんと困んねんけどな!」
「相変わらず竜華は先生に厳しいなぁ」
「当たり前やん!だって私らの副顧問なんやから!!」
「そやそや!もうちょいオレらのこと見てくれてもええやんけ!!」
竜華とセーラが同じように言葉を荒げる。両手を振り上げ怒りを表現する二人の様子は、怜から見ればいつものこと過ぎて注意する気にもなれなかった。
そうだそうだとお互いに言い合う二人を無視して怜は背中を向ける。友人たちのことは確かに好きだが、あの男の話になるとどうにも二人は面倒くさい。怜は大きくため息をつく。どうせ放っておいても、その内自分がいないことに気付いて二人は追ってくるだろう。
こほん、と怜が一度だけ咳き込む。最近は暖かくなってきたとはいえ、体が丈夫ではない怜にとってはまだまだ堪える時期だった。喉に妙な詰まりを覚えた怜がもう一度咳き込むと、目の前には見覚えのないハンカチが差し出されていた。
「お疲れさん、園城寺」
その声は怜もよく知る男子の声だった。
女子高である『千里山女子高校』では決して聞くことのない低い声。男子にしか出すことの出来ない男になりかけの声。そしてなによりも特徴的なのは、運動部に所属する男子にしては透き通るように綺麗なテノールだった。耳に心地よく響いてくる声が空気の上で踊っていた。
「……これはどうも御親切にありがとうございます」
胸に感じる僅かな苦しみを押し隠して怜が答える。顔を上げ、顎を引き、しっかりと男の方を見ながら自分は大丈夫だと行動で示す。これぐらいしなければ男が決して引くことがないことを、怜は今までの経験上からよく分かっていた。
しかし―――……
「……」
「……」
「……」
「……」
「……使わへんの?」
「……どうも」
しかし怜は薄い青色のハンカチを差し出したまま動く気配のない男に結局のところ根負けした。
いつだって男はそうだった。あの親友である竜華やセーラでさえ気が付かない怜のちょっとした変化にすら男は気付いてしまう。これまで怜が培ってきた医者や看護師、それに友人たちを誤魔化す技術の一切が通用しない。まるで自分自身よりも「園城寺怜」という人間のことを分かっているのではないかとさえ思えてきてしまう。
白状してしまえば、怜はこの男のことが苦手だった。
それでも何故、怜がこの男のことをよく知っているのかといえば、理由はただひとえに親友であるセーラのせいだった。
「あんまり無理したアカンで」
男が柔らかい笑みを浮かべながら怜に語りかける。
「これくらい全然大丈夫やし」
「怜はそう言ってすぐに無理するからなぁ」
「無理なんかしてへんわ」
「無理してる奴は大体同じこと言いよるわな」
男は笑みを絶やすことなく、けれどにべもなく怜の言葉をバッサリと切る。
「ホンマに平気やし」
「はいはい。この際やしハッキリ言うけど、俺、あんま怜の「大丈夫」とか「平気」って言葉は信用せーへんようにしてんねん」
「なんやねん、それ」
「分かりやすく言えば、今までの怜の行動から俺が独自に考えた傾向と対策って奴やな」
「なんや、私が思てた以上にアンタからの信用は無いんやなぁ。悲しなってくるわ」
「セーラも竜華も怜のことは信頼してんねんから、一人ぐらいは怜のことを疑っとかなアカンやろ?」
な、と笑顔を崩さずに男は怜の頭に手を置いた。大きな手だった。親友の竜華やボーイッシュなセーラとは全然違っていた。ゴツゴツとして意外にも荒々しい男の手だった。小柄な怜の頭をすべて覆っているのではないかと思うほどの大きさだった。
「……ホンマに私、アンタのこと苦手やわ」
「俺はそれでええよ。そうやってセーラや竜華とはまた違った意味で気を遣わへん相手が一人ぐらいおった方が怜も楽やろ」
「いちいち言うことが気障ったらしいねん。正直、寒いっちゅーねん」
「すまんすまん」
怜から向けられる棘のある言葉を適当にいなしながら男は答える。こういう男の妙に大人ぶった態度が怜は嫌いだった。まるで自分がまだまだ子供であることを突き付けられているような気がして堪らない。
「てか、いつまで人の頭撫でてんねん。彼女おるくせに、なんやちょっと気安ないですかー」
「ん?まぁ、怜やったら別にええやろ」
「どういう意味やねん」
怜は半眼で下から男を睨みつける。
「なんかこう、怜って小っちゃいし、同い年やけど妹みたいな感じ?」
「やかましいわ!」
「あはははは」
こうして会話していながらも、男の視線は既に怜ではなくセーラの方向を向いていた。
セーラを見つめる男の瞳は非常に優しい。隣から男を見上げる怜ですら、どれほど男がセーラのことを大切に想っているのかがよく分かる。これほど愛しさに溢れている瞳を怜はまだ目の前の男以外には知らない。
「―――なんやねん、このアホ」
意図せず、怜の口から言葉が零れた。
自分の失敗に気付いた怜はすぐさま両手を口に当てた。今のはない。本気でマズイ。今の言葉だけは男に聞かせるわけにはいかない。
怜はちらりと隣の男を覗き見る。男は怜など既に視界に入っていないとばかりにまっすぐセーラを見つめていた。どうやら今の言葉を聞かれたわけではないらしい。安心した怜は男に気付かれないように小さく安堵の息をはいた。
「お、どうやら気付いたらしいで」
「へ?」
男の声に反応して怜が顔を上げる。
すると当のセーラや竜華もようやく傍に怜がいないことに気が付いたらしい。慌てたように駈け出そうと前を向き、そして、怜が意外と近くにいたことで安心したように胸を撫で下ろした。そこで初めて二人は男の存在を認識した。
「な、ななななんでお前がここにおんねん!!?」
途端にセーラが豹変した。それは普段の凛々しい彼女からは想像も出来ないほど激しい変化だった。顔はリンゴのように赤く染まり、言葉はどもって明瞭ではなく、僅かに震える指先は緊張でガチガチだった。全国大会の決勝であの白糸台高校の宮永照を相手にした時でさえ物怖じしなかった江口セーラが、目の前の男を相手にすれば何処にでもいる乙女のような有様だった。
「なんでおんねんって、そんなん決まってるやろ。セーラを迎えに来たんや」
「な、ななななんでやねん!?」
「なんでやねんって、お前。なんや、一緒に帰りたいからやって言わせれば満足なんか?」
「―――っ!?」
男の言葉を真正面から受けたセーラは更に顔を真っ赤にした。既にセーラの顔は耳までもが赤く、口はあわあわと声にもならない音を漏らす。セーラは全国屈指の強豪『千里山女子高校』のエースとして、或いは女子しかいない千里山女子高校における王子様として校内でもかなり有名だった。そんな彼女のこのような姿を後輩たちが見れば、狂喜乱舞の大騒ぎになることは間違いない。
「まだ三月やってゆーのに、相変わらず二人の周りだけはあっついなぁ」
「ちょっ!?なにゆーてんねんっ、竜華!!?」
「二人だけでええ雰囲気作ってもーて。見てるこっちが恥ずかしなるわ」
「んなっ!?」
「ホンマに妬けてまうぐらいラブラブなんやもんなぁ、二人とも。羨ましいわぁ~」
わざとらしく腰をくねらせて竜華がセーラを弄りだす。セーラはそんな竜華の言動を止めようと躍起になるが、頭に血が上っている状態ではどうにも上手くいかない。軽い身のこなしで竜華はセーラの手を避けていく。
「りゅ~う~かぁ~っ!ちょい待たんかい!!」
「待て言われて待つわけないやろ~!」
「このっ、くそっ、ええいっ!!」
「当たらへんしぃ~」
目の前でじゃれ合うセーラと竜華を眺めながら男は笑みを深くする。
「やっぱセーラはこうやないとな」
「いきなりなんやの?」
男の呟きに隣で立っていた怜が聞き返す。
「いや、ただセーラはこうやってみんなで元気に騒いでる姿がよく似合っとるなと思ただけや」
「なんやノロケかいな」
「そうやで、ただのノロケやで。聞けて嬉しいやろ?」
「……」
「おいコラ。せめてなんか言わんかい」
再度、怜の頭に男の手が添えられる。やはり大きく力強い。怜にとっては父親以外に知らない手だった。
男は先程とは違って乱雑に怜の頭を撫でまわす。前髪が大きく揺れた。怜は思わず目をつぶった。視界が塞がり、よりハッキリと男の手の感触が伝わってきた。男はそんな怜の反応を面白がるように、更に頭を乱雑に撫でた。せっかく竜華が整えてくれた髪型がくしゃくしゃになってしまった。
ただ、それでも怜が男の手を強引に払いのけることはなかった。
「なにすんねん、このアホ」
「怜が無視するからやろ」
「アンタがアホみたいに甘いこと言うから胸焼けしそうやっただけや」
怜の拗ねたような言葉に、男は小さくため息をついた。
「お前と竜華もええ感じやで」
「当たり前やん。私と竜華は誰にも負けへんぐらいラブラブやからな」
「そっちはそっちでお熱いねぇ」
「ふっふっふっ。竜華の太腿は私のもんや」
「羨ましいけど、そっちは勘弁。俺が竜華の太腿を狙うと今度はセーラが妬くからな」
「―――狙いは竜華の胸か!?」
「アホ。確かにセーラはどう足掻いても竜華には勝たれへんけどな、アレはアレでええもんやで」
「大きさと柔らかさで竜華に一票」
「ほな形と感度でセーラに一票」
「「なに言うてんの(ねん)っ、アンタ(お前)らは!!?」」
往来の真ん中にも拘らずうら若き乙女の恥ずかしい話を暴露していた二人の頭に容赦のない拳が打ち下ろされる。二人はお互いに痛みを訴えながら蹲る。
「ほれ見てみいや、怜。嫉妬に駆られたセーラに殺されそうやん」
「ほうほう、確かに」
「なに適当なこと言うとんねん!このアホ!!」
「アンタもやでっ、怜!」
怒鳴りながらセーラは更に男の腹に二~三発ほど拳をお見舞いする。大阪特有の文化である「ツッコミ」と言うには少しばかり過剰気味の威力だったが、しかし、それでもセーラからすればかなり手加減した威力だった。綺麗に鳩尾へと突き刺さった拳を受けた男は、思わず地面へと倒れ込んだ。
対する竜華は口で怜を怒鳴るだけで実力行使は続けない。体があまり丈夫ではない怜にとって過激なコミュニケーションは厳禁だった。そのことを誰よりもよく知っているのは自他共に認める第一の親友である竜華だ。だからこそ竜華もあまり無茶なツッコミはしない。しかしそれでも竜華が握り込んだ拳は羞恥心で震えていた。どうやら竜華にとっても精一杯の我慢だったらしい。
友人二人の美しい友情に涙を流そうかなんていうどうでもいいことを考えつつ男は腰を上げる。
「あーもう、図星やからって暴れんでもええやん」
「ぜんっっっぜん、図星ちゃうからな!」
「照れるな照れるな」
「照れてへんわ!!」
男は尚も暴れるセーラの手首を掴んだ。
いかにセーラが女子にしては男勝りで力持ちだったとしても、それは結局女同士での話に過ぎない。今回の相手は運動部に所属する同年代の男子だ。どれだけ力を込めようとも、セーラの力では男の力には到底敵わない。
左右の手を封じられたセーラはしばらく抵抗を見せていたが、しかし、自分の力では敵わないと悟ると次第に力を弱めていった。
「よし。大人しくなったな」
「お前が余計な事言わへんかったら、そもそも暴れたりせーへんねん」
「それはそれはホンマすまんかったなぁ」
「……絶対にすまんとか思てへんやろ」
「あ、ばれた?」
「当たり前や」
セーラが大きくため息をつく。
「ホンマ適当やなぁ」
「褒め言葉として受け取っとくわ」
「アホか。褒めてへんし」
「そらどうもすんません」
「もうそれはええっちゅーに」
「さよか。そら残念」
男が肩を竦めて苦笑する。しかしそんな男を見上げるセーラの目には、男が困っているようには全く見えなかった。よくもまあ、これほどまでに心にも思っていないことがすらすら言えるものだ。セーラが男と出会ったのはおよそ一年前になるが、男のこういう意味が分からないところは一向に改善の余地が認められない。いや、むしろセーラの目には悪化しているようにすら映っていた。
「ほな、ボチボチ行こか」
「―――は?」
唐突に、男に掴まれていたはずの手首が解放される。今までは確かにあったはずの温もりが離れていく。セーラの胸に僅かな空白が生まれる。無意識の内に見上げたセーラの視線の先では、男が楽しそうに笑っていた。まるで自分が見上げてくることを分かっていたかのような男の反応に、セーラの顔は三度、羞恥で真っ赤に染まった。
「まったく、
「ち、ちがっ!?」
男の言葉を遮るために発したセーラの声は、残念ながら言葉になる前に宙へと溶けていく。
男の口元へと伸ばしたセーラの手を、ゴツゴツとした力強い手が掴む。セーラは目を見開いて驚いた。いつの間にか自分の指を男の手が絡みとっていた。漫画でしか見たことのない光景が目の前には広がっていた。男が満足げに笑っているのが視界の隅に見えた。
「これで少しは満足していただけるでしょうか、お嬢様」
「―――っ!?」
似合いもしない男の口調ですら、今のセーラにトドメを刺すには十分だった。元来が「女の子らしいこと」が苦手なセーラには、これまでの一連の流れだけで十分に脳の許容量を超えていた。
頭が熱い。顔が熱い。耳が熱い。胸が熱い。それ以上に男の指と絡み合っている自分の指が異常に熱い。手のひらに汗が滲む。
「ほな悪いけど、このままセーラ借りてくでー」
「りょーかい。好きに持ってってええでー!」
「なんやったら家まで持って帰って構わへんで」
「ちょっ!?春の選抜前やし、流石に限度は考えてや!」
「明日には乙女モードの
「怜!?」
賑やかな二人に手を振りながら、男はセーラの手を引いて歩き出す。隣のセーラの様子を盗み見ると、既に頭の中が真っ白になっているようだった。今のセーラには男になにか言い返す元気も気力もありはしないのだろう。殆ど放心状態に近かった。
男は黙って笑みを深めると、悪戯を思いついた少年のような表情を浮かべてセーラの顔へと自らの顔を近づけた。吐息が頬に触れるような距離まで近づけてもセーラはまだ気付かない。男が楽しそうに笑う。
そして、男はセーラの真っ赤に染まった耳に向かって息を吹きかけた。
「―――っ!?」
唐突に訪れた事態にセーラは反射的に耳を押さえて男から距離を取る。
「な、な、な、な、な!!??」
「おはようさん、
慌てふためくセーラの姿を男は幸せそうに見つめていた。
真正面から見るセーラの姿は、実のところ周囲から持て囃されているほど男っぽくはないと男は考えていた。確かにセーラは、髪型がショートカットな上に服装は短パンと学ランという男っぽい嗜好をしている。しかし、それでも男から見たセーラは十分に魅力的な女の子だった。長い睫毛に大きな瞳は凛々しく映え、華奢な体は男の保護欲を掻きたてる。特に拗ねたように頬を膨らませながら顔を背ける姿なんかは小動物っぽくて非常に愛らしい。
不機嫌さを隠そうともしないセーラの態度に反比例しながら男の機嫌は良くなっていた。
「なにすんねんっ、このアホ!」
「なにって、そら目覚ましのつもりやってんけど?」
「もっと普通に声掛けろや!」
「えー。そんなんつまらへんやろ」
「こっちの心臓に悪いねん!」
震えながらセーラが叫ぶ。そんなセーラの反応にも男はまったく反省した様子を見せずに笑っていた。そういう男の態度がさらにセーラの機嫌を悪化させているのだが、むしろ男はより一層笑みを深くしていった。男にとってはセーラがみせる喜怒哀楽の感情すべてが愛おしかった。
「そんなにセーラは俺といちゃいちゃすんの嫌なんか?」
「い、嫌とは言うてへんやろ!」
「でもさっきからずっと文句言うてるやん」
「あんな目立つ場所でいきなりするからやろ!もうちょい場所考えろや!!」
セーラが更に怒鳴り声をあげる。男の行動自体はセーラも嫌ではなかった。恥ずかしいとは思うが、しかし、付き合っている男女ならあれぐらいは当たり前のことだと思う。
ただ、親友二人を前にして平然といちゃいちゃ出来るほどセーラの心は強くなかった。セーラの中では先程のやり取りですら少しやり過ぎだった。まだ後輩の船久保浩子がいないだけマシだったが、きっと明日は竜華あたりにでもからかわれること間違いなしだろう。そんな明白な未来の光景がセーラの頭に浮かぶ。あまりの恥ずかしさに涙が出そうになった。
しかしセーラの内心なんて知りようもない男は、尚も笑みを絶やそうとはしない。
「ほな、ちゃんと場所選んだらいちゃいちゃしてもええねんな?」
「―――ほえ?」
唐突な男の言葉にセーラの口からは妙な声がもれた。
「よっしゃ。じゃあこのまま俺ん家行こか」
「は!?ちょ、ちょい待てや!!?」
「待たへんでー。俺、今日は俺の部屋でいっぱいセーラといちゃいちゃするって決めてんねん」
「勝手に決めんなや、アホ!!」
「はいはい。アホやけどなにかー?」
男は適当に答えながらセーラの手を握り直す。
「お、おい!?」
「んー?」
「何度も手をにぎにぎすんな!?」
「―――」
「んなっ!?せやからにぎにぎすんなってさっきから言うてるやろ!このドアホ!!」
セーラは何度も言葉を噛みながら全力で腕を振る。なんとかこの恥ずかしさから逃れようと必死だった。
男は力強く、しかしセーラの手が痛くならないような丁寧さで彼女の手を握っていた。何度も何度も頑張ってセーラは腕を振るものの、どれだけやっても男の手は振り解けない。
「くそっ、このっ!」
「必死やなぁ」
「ああもうっ、そのにやにやした声がむかつくねん!」
男の挑発的な言葉に焚き付けられたセーラが精一杯の抵抗を試みる。既にセーラの視界からは男の顔が消えていた。今のセーラに見えているのは男の手だけだった。
「はぁーなぁーせぇー!!」
「あはは。頑張れよー」
必死な姿のセーラを見つめていた男は、不意に自分へと視線が向いていないことに気付いた。すると男は再び悪戯っ子のように笑った。
前髪の間から見え隠れするセーラの顔からはもう羞恥による赤さは失われていた。僅かに覗く耳も普段の色に戻っている。これでは少々面白くない。照れ屋なセーラが顔を真っ赤にしながら恥ずかしがっている姿こそ、男にとっては最も好きな表情だった。
「―――」
男は腕に付けた時計で時間を確認する。
いつもならそろそろ手を引くべきタイミングだった。あまり強い刺激を与えすぎると、セーラは機嫌を損ねて拗ねてしまう。拗ねるまでならまだいいのだが、更に続けるといじけてしまう。そこまでいってしまえば機嫌を直させるのにも骨が折れる。
だが、あとほんの少しぐらいは可愛いセーラのことを見ていたい。それぐらいの願いは成就させても罰は当たらないだろう。
「なぁ、セーラ」
「なんやねん!!」
男から掛けられた言葉にセーラが顔を上げる。見上げた先には真剣な表情を浮かべた男の顔があった。
「好きやで、セーラ。この世のどんな奴よりも深く愛してる。これからもずっと俺と一緒におってな」
男が出来るだけ優しく微笑むと、セーラはその小さな口を魚のようにパクパクとしてみせた。あまりの衝撃に言葉が出ないらしい。狙ってやったものの、流石にセーラ相手では効果がありすぎたようだった。
すっかり乙女モードになったセーラは、普段の喧騒が嘘のように黙って俯いてしまった。男は部活動中の元気で明るいセーラも好きだったが、こうして恥じらっている乙女モードのセーラの方が可愛くて好きだった。普段の男勝りなセーラがある一方で、自分にしかみせない乙女な部分もある。こういう凄まじいまでのギャップが男にとってはたまらなく魅力的だった。
「ほな、行こか」
「―――おう」
一度は引こうとした手を、男は再度、繋ぎ直した。もう今日は家に着くまで決してこの手を離すまい。男の決意は固い。出会った時にはこれほど心惹かれる相手になろうとは思いもしなかった。しかし、現実はご覧の通りだ。本当に現実というものは面白い。
男は笑みを深めてセーラを見た。前髪が邪魔してセーラの表情を窺うことは出来ない。けれど髪の間から僅かに覗く耳は、見たこともないほどに赤くなっていた。
並んで歩く二人の影が、夕焼け空の下で確かな形となって伸びていった。