学生の頃、良く海を見た。
講義室の窓から、踏破訓練中の山間から、あるいはただ道を歩いている時に。
横須賀は海の街だから、どこからでも海が見えた。
特に、小さな入り江が好きだった。
艦船が停泊できるような大きな物では無く、半ばまで入っても水が膝下にあるような、本当に小さな入り江だ。
そして何をするでも無く、浜辺でただ立っているのだ。
「いい天気……」
入り江に立ちたくなる日は、決まってからりと晴れた日だった。
彼方の水平線がはっきりと見えるからだろうと、何となく思っていた。
立って、じっと水平線の果てを見つめる。
その間、特に何かを考えているわけでは無かった。
ひとりきりで立ち尽くす、いつもそうしていた。
「――――ん?」
ただ、
いつも立っていた入り江に――不思議なもので、入り江でもお気に入りの場所とそうでない場所がある――先客がいたのである。
女の子、だ。それも銀髪、後ろ姿だけで日本人で無いとわかった。
「…………」
声をかけなかったのは、その女の子が自分と同じ服装をしていたからだ。
白が基調の制服、海洋技術総合学院の女子制服だった。
丈の短いスカートから覗く足は、パンプスを履いたまま海水に浸かっていた。
少し、不審に思った。
学院には多くの生徒がいるから、全員の容貌を覚えているとは言わない。
とは言え、流石に銀髪などと言う目立つ特徴があれば嫌でも耳や目に入ってくるだろう。
だから不審に思って、不用意に近付かなかった。
それでも何となく自分の場所を取られたような心地もあって、その場を離れる気にもならなかった。
「ねぇ」
声をかけて来たのは、向こうが先だった。
少し、面喰った。
「ここから、何か見えるのかい?」
「別に、何が見えるってわけじゃないよ」
「ふぅん。じゃあ、どうしていつもここから海を見ているんだい?」
「……あなた、だれ?」
僅かに警戒心が鎌首をもたげるのを感じて、一歩を下がった。
言葉の端から、「ずっと見ていた」と言う気配を感じたからだ。
普通、警戒するだろう。
特に自分の場合、そう言うことには敏感にならざるを得なかった。
「……!」
水が跳ねた。
銀髪の女の子が振り向いたからで、綺麗な笑顔に一瞬、目を引かれた。
そしてそれ以上に、不自然な輝きを宿す瞳に目を奪われた。
圧倒されるような、呑まれるような、不思議な心地だった。
「キミに会いに来たんだ、千早紀沙」
次の瞬間、海が爆発した。
そう思える程の音が耳に届いて、蒼の海から鋼鉄の塊が這い出てくるのが見えた。
そんな馬鹿なと言う思いが先に来たが、水平線の狭間に現れたそれは、確かに視界の中にあった。
陽光に煌くそれを、食い入るように見つめる。
唖然として、動けなくなった。
入り江は狭い、入っては来れないとわかっていても、心の怯えは隠しようも無かった。
それが伝わったのだろう、不思議な瞳の女の子はにんまりと笑みを強くした。
「キミは、ボクの艦長になるべき人だ」
「か、艦長?」
「さぁ――――キミが水平線の果てに見つめ続けていたものを、探しに行こうじゃないか」
それが、最初だった。
澄み切った入り江で、2人は出会った。
千早紀沙と、イ404――スミノの、
あれから、もうどのくらいの時間が過ぎただろうか――――。
◆ ◆ ◆
痛みで、目が覚めた。
目を開いた時にはどこが痛んだのかは忘れていたが、痛んだと言う記憶だけははっきりとしていた。
霞んでいた視界も、何度か
「……私の
白い天井を見て、何故かそんなことを呟いた。
それがイ404の医務室の天井だと気付くよりも先に、そう言ったのだった。
何か夢を見ていたような気もするが、それも良く覚えていない。
ただ、何となく夢の続きで言ったような気がした。
そのままぼんやりとしていると、けたたましい音が響いた。
甲高い音に眉を潜め、小さく呻く。
それから枕に髪を擦らせるようにして、首を動かした。
見知った医務室の光景がそこにあって、「ああ、イ404だ」と思った。
「…………」
そして、小さな女の子と目が合った。
茶色の髪の、どこにいてもおかしく無い普通の女の子だった。
洗面用の器を取り落としたのだろう、足元に水溜りが出来ていた。
蒔絵ちゃん、と、小さく呟くと、泣きそうな顔をした。
それから、わっと泣き出してしまった。
近付いて来るでも離れるでも無くその場で泣き出してしまったので、ベッドに寝ている紀沙としては、どうすることも出来なかった。
何とかしたくて、身体を起こそうとした。
「……ッ!」
「あ、ダメだよ! まだ動いたら」
鈍い痛みに呻くと、蒔絵は涙も拭かずに駆け寄ってきた。
慌てて、と言う表現がぴったり来るような駆け方である。
そして痛んだのは左目のあたりで、紀沙はその時初めて、視界の左半分がおかしいことに気付いた。
手を当てて感じるのは肌や
「痛ぅ……」
「大丈夫?」
ズキズキとした、嫌な痛みだった。
目を怪我したのだろうか。
嫌な予感がしたが、光は感じていた、包帯らしきものもきちんと見えている。
どうやら大事は無いようだと、少し安心した。
上体を起こすことも出来て、とりあえず五体は無事なようだった。
「大丈夫」
蒔絵を安心させようと――そして、半分は自分を安心させようとして――言って、紀沙は顔を上げた。
痛みは嫌だが、意識をはっきりとさせてもくれた。
そして意識を失う直前のことも思い出して、一気に冷たいものが胸中を占めた。
「みん……ッ!」
「みんな無事だよ、どうにかな」
不意に、こちらの首根っこを掴んで止めるかのような声がした。
医務室にはベッドが2つあって、その声はもう1つのベッドから聞こえてきた。
ただそのベッドに寝ている人物は紀沙と違って病衣でも無く、至って怪我一つ無さそうな顔で雑誌を読んでいた。
「よっ、おそよーさん」
にやりと笑って、冬馬はばちんと音が聞こえてきそうなウインクをした。
◆ ◆ ◆
10日間眠り続けていた。
そう言われて、どう反応を返せば良いのか紀沙にはわからなかった。
ただ、言われてみれば身体の節々に寝過ぎた時特有の軋みを感じる気もする。
「反応に困ってる顔だな」
「はぁ、まぁ、実際に困ってますんで……」
蒔絵を撫でながら、困った顔をする紀沙に冬馬は苦笑を浮かべた。
よっと、とベッドの縁に座って、「あー」と頭を掻く。
「まずだな、イセの超重力砲を喰らった時のことは覚えてるか?」
「……いえ、覚えていません。撃たれたんですか?」
「ああ、艦首が吹っ飛んだ」
「え、いやちょっと待って下さい本当ですかそれ」
「マツシマが俺らを移動させてなかったら、どてっ腹に喰らってたな」
大戦艦の超重力砲と言えば、相当の威力である。
それを艦首に受けたとなれば、下手を打てば艦が潰れてしまいかねない。
と言うか、普通の艦艇なら沈んでいるだろう。
沈まなかったのは単純に運が良かったことと、イ404がひとえに霧の艦艇だったからに尽きる。
そして何より、補給艦マツシマとヒュウガの存在が大きかった。
マツシマは元々イ401の補給随伴艦として建造されていただけに、同じイ400型潜水艦であるイ404に対しても補助が可能だ。
イ404の艦体の修復と移動、どちらもマツシマとヒュウガがいなければ不可能だっただろう。
(……ああ、そっか。最後のあれは、イセの攻撃のせいだったのか)
だんだんと思い出してきた。
そう、最後の瞬間、紀沙はイセの超重力砲の衝撃で意識を失ったのだった。
その時の光景を思い出そうとすると、左目の奥が疼くのを感じた。
「……皆は?」
「だぁから心配しらねぇって。むしろ一番重傷なのは艦長ちゃんだっての」
確かに、医務室で寝ていたのは紀沙だけだった。
冬馬がいるのは、まぁ、自分を心配して付いていてくれたものと好意的に受け取ることにした。
「いやもう、あんまり起きねーもんだからそろそろキスするべきかと悩んだぜ」
「しゃー!」
「あはは……」
小さく首を傾げて、先程とは別の意味で困った笑みを見せる紀沙。
冗談だろうが、面と向かって言われると困る類の台詞だった。
蒔絵が冬馬に威嚇するのを宥めつつ、左目以外はこれと言った怪我が無いことを確認する。
深刻な負傷は今後に障るので、軽傷であるに越したことは無い。
そして、蒔絵だ。
見たところ怪我一つ無さそうで、それだけは本当に良かったと思った。
ただ、勢いで「おじいさまを探す」と言ってしまったことを思い出して、困った。
デザインチャイルドの話を聞いているから、余計にそう思う。
自分は、蒔絵に酷い嘘を吐いてしまったのかもしれない、と。
「ねぇ、大丈夫? どこか痛い?」
「うん、大丈夫だよ。どこも痛く……」
くぅ~。
「……無い、から」
「…………」
「……くっ」
お腹が鳴った。
もう、これ以上無いくらいに盛大に鳴った。
紀沙の顔が見る見る赤く染まり、蒔絵もどう反応すれば良いのか引き攣った笑顔を浮かべている。
そして冬馬は、隣のベッドの上で
抱腹絶倒とは、多分ああ言うことを言うのであろう。
「くくっ、いやいや健康健康。大いに結構じゃねーの、うん」
よほど面白かったのだろう、目に涙まで浮かべていた。
何もそこまで笑わなくても良いでは無いかと思うのだが、何か言えば余計に嵌まってしまいそうなので、紀沙は結局何も言えなかった。
「ま、ちょうど食材の補給も済んだ所だしな。何か胃に優しいもんでも作って来るよ」
「あ、ありがとうございます。って、補給?」
「10日も寝てたっつったろ? 昨日、港に入ったところだ」
「港……」
まぁ、確かに10日もあればどこかには辿り着けるだろう。
しかし港となると、俄かには想像がつかない。
補給まで受けれるとなれば、どこかの政府や公的機関の影響下にある場所だと思うのだが。
「どこにいると思う?」
にやりと笑って、冬馬は言った。
こちらが答えられないのをわかって聞いている、そんな顔だった。
そして実際、紀沙には今どこにいるのかはわからない。
降参と言うように首を傾げると、ようやく教えてくれた。
「――――
ただ、その名前は流石に予想していなかった。
◆ ◆ ◆
真珠湾は、アメリカ合衆国領オアフ島に属する天然の良港である。
オアフ島はハワイ諸島に属し、観光で有名なワイキキビーチもこの島にある。
ハワイ諸島は海面上昇によって2割近くの島々が海面下に沈み、さらに3割の島々が水没の危機に瀕しているが、オアフ島を含む主要な島々は未だ健在だ。
「えーと、するってぇと、何かい?」
そして、浦上たち白鯨の面々はそのオアフ島にいた。
抜けるような青空と深緑の入り江を臨むその部屋は、白亜のビルの中にあった。
その場にいる人間は白鯨の主要メンバー、浦上の他には駒城とその副官、そして真瑠璃である。
彼らは今、待たされていた。
何を待っているのかと言えば、オアフ島への入島許可である。
厳密に言えば浦上達はまだ「入島」しておらず、空港で言えば出入国管理局で待たされている状態だった。
別にそれ事態は構わない、国家として当然の対応であるとも思う。
「ホノルルには行かない方が良い、
「ま、早い話がそう言うことですな」
ただ、浦上たち振動弾頭輸送艦隊は同時に日本政府代表団の性格をも備えている。
言うなれば外交使節であって、通常なら当然である対応も、当然とはならない立場なのだ。
もちろん、外交使節を兼ねる以上はオアフ島――ハワイの政治的責任者に挨拶の1つもしなければならない。
「何しろ外国の使節が来るなんて17年ぶりのことなんで、
そしてこの場には、クルツもいた。
と言うより、彼が白鯨に乗っているのはこう言う時のためでもあるのだ。
「どういうことだ。アメリカ政府から我々の話は聞いてるはずだろ?」
「もちろん。外交ノウハウの喪失による遅延なんてのは表向きの言い訳、本音は別にある。それを事前に教えてくれるって意味では、ここの司令官はかなり気を遣ってくれてる方さ」
ハワイに来航した軍艦が向かう場所は、1つしか無い。
つまり軍港だ、そしてオアフ島――真珠湾の軍港と言えば、アメリカ太平洋艦隊の母港を意味する。
そして浦上達がいるのはアメリカ太平洋艦隊司令部――と言っても、17年に及ぶ霧との戦いでかつての威容は見る影も無いが――のビル群、まさにその場所だった。
その意味で元在日米軍組のクルツの存在は、浦上達にとっては貴重だ。
言語の問題はともかくとしても餅は餅屋、アメリカ軍の事情に詳しいクルツは、いわば調整官の役割を果たしていた。
アメリカ側にしても、同じアメリカ人のクルツをまず相手にする方が色々と楽だろう。
「本音と言うと、政治的な事情でしょうか?」
「うん、良いね。割と良い線いってる」
「良い線、ですか」
「おい、茶化すなよ」
真瑠璃が口を挟むと、クルツはまるで教師のような態度で指差してきた。
駒城はそんな彼を嗜めているが、真瑠璃は考え込んだ。
太平洋艦隊の司令官は、何を考えて日本の使節団を軍港に留めているのだろうか、と。
「ま、要するにだ。オレ達が州政府庁舎……と言うより、ホノルル市内に入るのは非常に危険だと、ここの司令官は考えているんだよ」
「だから、何でだよ」
「それはだな……」
アメリカ軍の司令官が、自分達をハワイの政治代表に会わせない理由。
異例、そして非礼だ、その非礼をあえて行う理由とは何か。
こちらを侮っているのか、霧の艦艇を2隻も抱えているこちらを相手に?
恐れている可能性もあるが、だったらなおさら非礼をしてこちらを刺激する必要は無いはずだ。
事情、
浦上も駒城、そしてクルツも、また真瑠璃も軍人だ、政治には疎い部分がある。
もしこの対応に何らかの政治的意図があるのであれば、それを推し量るのは難しかった。
掌の中で愛用の携帯端末を弄びながら、真瑠璃はしばらく考え込んでいた。
◆ ◆ ◆
群像は、イ401から離れなかった。
彼と<蒼き鋼>はあくまで傭兵であって、政治使節を兼ねる駒城達とは違う。
太平洋上で白鯨とランデブーして以降、群像はそうした姿勢を貫いていた。
「正直に言って、オレ達は海外の情勢に詳しいわけじゃない」
そしてイ401の発令所で、群像は仲間達にそう言った。
霧の海上封鎖によって苦しんでいるのはどこの国も同じだが、その後の政策や事情はそれぞれ異なる。
イオナは共有ネットワークからそうした情報も仕入れてくれるが、それはあくまで
他のクルーは、黙って群像の言葉を聞いていた。
彼らにしても外国の事情に明るい者はいない、これと言った意見も出てこない。
携帯端末を弄っていた――ヒュウガ製量子通信で、傍受されずにどこでも使える――群像は、メールを読み終えたのか顔を上げた。
「そこで、オレ達としては……」
「群像」
「ん、どうしたイオナ」
珍しく自分の言葉を遮ったイオナを珍しげに見つめて、群像は首を傾げて見せた。
世の女性が見たら10人中9人が振り向くだろう容貌の少年だが、そう言う仕草はどこか子供っぽくもある。
イオナを膝に抱いていたため、正面からそれを見ることになったいおりはそんなことを思った。
「前々から聞こうと思っていたんだが」
「何だ、その入り方は怖いな」
「お、何だ何だ痴話喧嘩かー?」
「艦と艦長の痴話喧嘩ですか、命に関わりますね」
何しろイオナである、いったい何を言い出すことやら。
そう思っていると。
「千早紀沙――お前の妹のことなんだが」
「やっぱ痴話喧嘩だったか」
「命に関わりますねぇ」
どうやらイオナは、紀沙のことを気にしていたらしい。
なるほどイオナからすれば小姑に当たるわけだから、気にならないわけが無い。
静などは聴音もそこそこに、かなり興味を引かれている顔をしている。
さて、それにしても紀沙と来たか。
イオナを膝に乗せて髪の毛を三つ編みにしながら――今の自分の姿を見たらマツシマのヒュウガは泣きながら怒るかもしれない――いおりは、元同級生のことを思った。
真瑠璃に対しているのと同じくらい、いおりは紀沙のことを想っている。
「あの娘は、お前から見てどんな存在なんだ?」
「紀沙は、オレの妹だが」
そう言うことでは無いのだろう、イオナはじっと群像の顔を見つめた。
「あの娘はキリシマとの戦いの時、私に追撃を命じた。マヤのコアを狙えと、その意味を理解した上でそう言っていた」
いおりの髪を編む手が、止まった。
「あの時点でマヤが敵だった以上、コアの破壊は有効な戦術だったと私も思う。だが、それとは別の何かがあるようにも思えた」
それは、イオナの
イオナが霧らしい霧、つまり感情や心の揺らぎと言ったものを認めない合理性の塊であったなら、疑問を感じることも無かったのかもしれない。
しかしイオナは違う、言葉に込められた別の「何か」を感じ取ることが出来ている。
ただ、それは言葉にはしにくいことだった。
どう表現すべきかわからないと言うより、言葉に出したくないと言う類のものだ。
要するに、気持ちの良い話では無い。
「……あいつは」
群像はイオナから目を逸らし、正面を見つめていた。
彼としては珍しいが、彼をして言葉を濁す程と言うことでもあった。
「紀沙は、霧を……お前達を、憎んでいるんだろう」
「憎む? それは確かに、我々の存在は人類を苦境に陥らせているが」
「そう言うことじゃ無い」
霧を恨む人間は、それこそ何万といるだろう。
イオナは紀沙もそうだと認識しかけたが、それは群像によって否定された。
群像は言った。
紀沙は霧を憎んでいるが、それは人類と言う括りでは無く、あくまで紀沙個人の心理に基づくものだと。
そして、だからこそより根深いもので、だから。
「だから、オレ達は」
嗚呼、と、いおりは天を仰いだ。
元来快活な性格の彼女だが、その彼女をして天を仰がせた。
それはとても辛いことで、そしてだからこそ。
「だからオレは、紀沙をお前に乗せるわけにはいかなかったんだ」
いおり達は、紀沙を連れて行こうと言い出せなかったのだ。
◆ ◆ ◆
「それは多分、私達を中に入れられないんですよ」
オアフ島への入港を、1日待たされている。
冬馬からそう聞いた紀沙は、相手側の対応をそう結論付けた。
少し考えた末の結論としては、少々陳腐なように冬馬には思えた。
「そりゃまぁ、そうじゃなきゃ拒否る理由も無いわな」
「ああ、いえ。そう言う意味だけじゃなくてですね」
「はん?」
今回、ハワイのアメリカ太平洋艦隊司令部は、イ401とイ404、それに白鯨を自分達の母港に受け入れている。
物資も何くれと優遇してくれていて、補給と整備の面で問題は無い。
イ404の大方の修復はマツシマとヒュウガによって行われていたが、人類製の部品で代替可能な部分はあるし、食糧等の生活物資の提供は非常に有難い。
「つまり太平洋艦隊は私達を歓迎……歓迎って言うのかわかりませんけど、前向きに受け入れてくれているんだと思います。そうで無いなら、最悪入港拒否しても良かったわけですし」
アメリカ側にして見れば、振動弾頭のサンプルとデータを自国に運んでくれるお客様なのだ。
奪われる可能性は、本国から遠く離れたハワイでは考えにくい。
ハワイで量産できるわけでは無いし、本国への運搬手段が無いことは日本と同じだからだ。
「受け入れてはくれるけど、中には入れてくれない。矛盾してるようですけど、これ、外交ではそれなりに良くあることらしいです」
「そうなの?」
「はい。北のおじ……北議員の受け売りと言うか、経験談なんですけど」
「あー、何か世話になってるんだっけ?」
「ええ、まぁ」
例えば、政府軍と反政府軍で内戦中の国があったとする。
政府軍と反政府軍の仲裁のために外国や国際機関の交渉団がその国に入ることはままあるが、大体は受け入れ側の意向でいわゆる
身内の汚点を見られたく無い、と言う内向きの考えがそうさせるのだ。
ただ、この対応にはもう一つの側面がある。
「今回の場合は、入港は出来るけど
「あ、何で?」
「んー、多分、
交渉団の安全の保障、と言う側面だ。
何しろ内戦ともなれば、現場は無政府状態に陥っている可能性が高い。
そうしたところに要人を案内するのはリスクもコストもかかる、交渉団に何かあれば国の威信にも傷が付く。
市内の様子を見られたく無いのであれば、外が見えないようにして州政府庁舎まで運べば済む話だ。
それすらせずに入れてもらえない場合、考えられる可能性は「拒否」と「懸念」の2択だ。
入港を許している所からして後者、一方で率先して補給要請に応じてくれている点から考えて。
「……そもそも」
人差し指を立てて、紀沙は言った。
似て非なる表現だが、状況をコントロールできるかできないかと考えれば相当の違いがある。
「ハワイの州政府って、今も機能しているのでしょうか」
アメリカ太平洋艦隊司令部は、「我々に構わず先を急げ」とメッセージを発しているのでは無いか。
それは非常に危険で、しかし考慮しないわけにはいかない可能性だった。
◆ ◆ ◆
――――随分と派手で危険なことを考えるお嬢ちゃんだ。
冬馬はそう思った、そして同時に紀沙への認識も少し改めた。
(てっきり、
冬馬の紀沙への当初の第一印象は「大人しいお嬢さん」だったが、それは実際の指揮――突撃戦術――を見て、少し変わっている。
ただ、それも「少々お転婆なお嬢さん」と言う程度のものだ。
しかし今回はそれとは訳が違う、何故なら資質の問題だからだ。
冬馬は知らない。
紀沙が北良寛の庇護下にあることは割と知られていたが、その間にどんな生活をしていたのかは知られていない。
全て、北議員の手によるものだ。
(艦長ちゃんのバックに自分がいることを喧伝しながら、艦長ちゃん自身のことは一切外に漏らさねぇ)
どんだけ過保護なんだと思ったものだが、今はこうも思う。
紀沙は1年半の間、北から有形無形に
そう言う意味で、紀沙は軍人としてよりも政治家としての教育の方が濃密だったのかもしれない。
「冬馬さん」
「お?」
医務室を出る段になって、冬馬は紀沙に呼び止められた。
紀沙はベッドの上から、眉を下げた顔で冬馬に言った。
「すみませんでした」
「あ? 気にするなって、結局みんな無事だったんだからよ。それに俺としては艦長ちゃんの寝顔をずっと堪能できてラッキーって」
「出てけー!」
「おうふ」
最終的には、蒔絵に蹴り出された。
紀沙を困らせるのは冬馬の日課のようなものだが、今後は梓だけで無く蒔絵もツッコミに回るのかもしれない。
「まぁ、なんだ。艦長ちゃんのあの通り元気なわけだし、そんな落ち込むなよ」
そして通路に出ると、床に座り込んでいる良治がいた。
先程までの紀沙への情報説明はどちらかと言うと良治の役割だったはずだが、彼は今回それを辞退した。
原因と理由はわかっている、先の戦いでの
最も、あれを不手際と思っているのは良治だけなのだが。
実際、あの状況ではいかに彼が優秀な軍医でも出来ることは多くは無かっただろう。
蒔絵の不意打ちで昏倒したのはともかくとして、あの時の紀沙の状況がそうだったのだ。
「まぁ、目がやられたら除隊ものだったわけだから、ギリセーフだろ」
「……セーフなもんか」
くしゃりと前髪をかき上げながら、良治は言った。
眠っていないのだろう、目の下に深い隈が出来ている。
「あんなものが
「それでも、命があるだけ良いってもんだろ」
最も、そんな言葉さえ今の良治には何の慰めにもなっていないだろうが。
地獄が救いの顔をして、紀沙の下にやって来た。
はたして、この先どうなることやら。
冬馬は自分の衣服をめくり、腹部の真新しい
◆ ◆ ◆
夜になると、イ404艦内の照明も落とされる。
密閉空間でも外と時間間隔をずらさないための措置で、戦闘時以外はそうなっている。
もちろん、緊急時にはその限りでは無い。
「よいしょ……っと」
安心したのか疲れていたのか、蒔絵は良く眠っていた。
見た目よりも軽い身体をベッドに横たえて、シーツをかける。
むずかる蒔絵の前髪にそっと指先をかけて、紀沙はふと微笑んだ。
無事で良かったと、本当にそう思ったのだ。
あの後他のクルーも顔を見せに来てくれて、大きな怪我も無く無事な様子だった。
良治だけが来なかったことが気になるが、おそらく自分の怪我のことを気にしているのだろう。
わざと負傷したわけでは無いが、悪いことをしたなとは思う。
「……ッ」
また、左目が痛んだ。
大した怪我では無いと聞いているのだが、その割に事ある毎に痛む。
それも、ずきずきとした鈍い痛みだ。
何となく間隔は長くなって来ているような気がするが、どうなっているのだろうか。
蒔絵を起こさないように気をつけながら、洗面所へ向かった。
片目を塞いでいるので多少歩きにくいが、何にもぶつかること無く鏡の前まで来た。
そして包帯に手をかけ、やはり少し苦労しながら解く。
しゅるしゅると音を立てて、包帯が床へと落ちていった。
「え……」
久しぶりに外気に触れたせいもあるのだろう、まず空気が冷たいと思った。
そして、ちゃんと見えることに安堵もした。
しかしそれも、鏡に映った自分の顔を見た途端に消え失せた。
何故なら、照明の落とされた室内で
左目の色が、違う。
紀沙の瞳の色は黒、より言えば日本人らしく濃褐色だ。
実際、右目はそうだ。
しかし今、鏡に映っている左目の色は――翡翠。
しかも虹彩が輝きを放っていて、痛みに同調するかのように明滅を繰り返していた。
「何、これ」
これではまるで、そう思った時だ。
紀沙は「ひっ」と息を呑んだ、鏡の中で別のものが光っていたからだ。
それは洗面所の入口に立っていて、紀沙のすぐ後ろにいた。
振り向けば、そこには右目の虹彩を輝かせた少女がいた。
「ねぇ」
スミノ、と少女の名前を告げる声は掠れていた。
だがそれに構うことも無く、少女――スミノは、右目を細めて笑顔を見せていた。
暗がりの中、スミノの右目の輝きはいつも以上に目立って見える。
どういうわけか左目の輝きは無い。
それもそうだろう、紀沙と同じように包帯で左目を覆っていたのだから。
ただ紀沙と違って、包帯には血が――ちょうど、左目の眼窩部分――滲んでいた。
しかもそれは、今も少しずつ増えているように見えた。
そこで疑問を感じる、
そんなはずは無いと考え付いた時、笑顔と共にスミノは言った。
「
ずきん、と、今度は鋭い痛みが紀沙の左目に走る。
その痛みに、紀沙は小さな呻き声を上げたのだった。
◆ ◆ ◆
――――ハワイより遥か遠く、大西洋上。
凪いだ海上に、巨大と言う呼び方が過小な程に巨大な艦の姿があった。
その艦橋に、
「可哀想に。あの子、きっと泣いているわ」
艦橋の窓を指先で撫でながら、囁くように言う。
閉ざされた目、瞼は雪のように白い。
口元に浮かぶ微笑は、寒気がする程に美しい。
「早く迎えに行ってあげないと――――ねぇ、お父様」
そして、その傍らで。
精悍な顔立ちをバイザーで隠した男は、ムサシの言葉に何も答えなかった。
ただムサシの横に立ち、水平線の彼方へと視線を向けていた。
それにクスリと笑みを漏らして、ムサシもまた視線を同じ場所へと向ける。
遥か向こう、
今はまだ互いに交錯することは無い、まだ先の話だ。
それでも、前に進むのであればその
そしてその
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
だんだんと執筆が追いついて来なくなりましたが、まだ頑張れます。
と言う訳で、ハワイに来ました。
道のりは長いのではしょって行くスタイル、ワープ航法という奴ですね(違います)
ただ、色々考えた結果、ハワイはもはや我々の知るハワイでは無い、的なことに。
ハワイの方々、すみません。
それでは、また次回。