蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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残酷描写(又はR15描写)注意です。


Depth020:「メモリアル」

 ――――10日前、コンゴウ艦隊との戦闘直後。

 イ404はイセの超重力砲を艦首に受け、甚大な被害を被っていた。

 横殴りの衝撃と共に計器の画面が爆ぜ、余りのダメージの大きさにスミノの防護も間に合わなかった。

 

 

「む、むむ……」

 

 

 一瞬意識を失っていたのだろう。

 頭を振りながら、根元からへし折れたシートの下から恋が這い出して来た。

 鼻腔を突く焦げ臭い匂いに顔を上げれば、発令所の様相は様変わりしていた。

 

 

 砕けた計器にスパークするコンソール、照明は非常灯以外がダウンして暗く、そこかしこの床に大小の破片が飛散して散らばり、天井や壁は板が外れて配管やコードが飛び出しており、艦のどこかで浸水しているのか嫌な振動が肌で感じられた。

 あの狭いが整然とした発令所は、そこには存在しなかった。

 そこにあるのは、沈みかけの潜水艦そのものだった。

 

 

「だ、誰か……誰かァッ!!」

 

 

 悲鳴が聞こえて、恋は自分の上に圧し掛かるシートを力尽くで押しのけた。

 普段は気にしていなかったが、こんなにも重かったのかと思った。

 しかしそんなことを考えている場合では無い、彼は痛む身体を――幸い、打ち身程度で済んだようだ――引き摺って、声の方へと顔を向けた。

 

 

「……!」

 

 

 そして、恋が見たものは2つ。

 1つは蒔絵だ、見る限りは擦り傷程度で、こちらはその程度で済んで良かったと思った。

 しかし、もう1つが不味かった。

 その人物は蒔絵の前に仰向けに倒れていて、しかも顔の周囲が尋常で無い量の血で染まっていて――。

 

 

「か、艦長――――ッ!」

 

 

 紀沙が青白い顔で、それでいて鮮烈な朱色に塗れて倒れていた。

 傍に寄って紀沙の様子を見た恋は、普段は閉じて見える目を見開いた。

 正直に言って、かなり不味い状態に見て取れた

 紀沙の左目から、血が流れていた。

 

 

 それも額や眼球の血管が切れていると言うのでは無く、いわゆる裂傷(きりきず)によるものである。

 細かな破片が左目の周囲に突き刺さっていて、直視するには相当の覚悟が必要な状態だった。

 実際、恋は息を呑んで唇を引き結んでいる。

 

 

「あ、あ……あぁっ、あ」

 

 

 そして蒔絵に至っては、事態を受け止めきれずに顔を青ざめさせている。

 ともすれば卒倒してしまいそうな顔色だ、意識を保てているのがまず奇跡と言える。

 しかしそれでも、恋は自分の成すべきことを見出せずにいた。

 

 

「アンタ、大丈夫かい!」

「お、俺ぁ大丈夫だ……それより、艦長ちゃんだろ……」

「アンタの怪我も相当だよ!」

 

 

 自分以外の2人のクルーも、手一杯だ。

 しかも冬馬の腹部に破片が刺さっているらしく、梓がその応急処置をしているようだった。

 応急措置、必要なものはそれだ。

 しかし目の応急措置など、どうすれば良いかわからなかった。

 良治を呼ぼうにも通信は不通で、仮に呼べたとしてもどうにもならない類の負傷に思える。

 

 

 蒔絵が救いを求めるような顔で、恋を見ている。

 恋は背筋に冷たいものを感じながら、どうすべきかを考え続けていた。

 目、目である、手足の怪我とは訳が違う。

 艦の状態も芳しくない中、副長として彼は決断を迫られていた。

 

 

「――――艦長殿」

 

 

 その時だった、紀沙を抱き上げるものがいた。

 スミノは恋や蒔絵が直前まで気付けない程に自然に、かつ突然現れた。

 彼女は紀沙を抱き上げ、頬に手を当てて上向かせると、血を流す左目をじっと見つめる。

 当然のことだが、スミノには怪我一つ無い。

 

 

「可哀想に」

 

 

 何をするのかと思って見ていれば、スミノは頬に当てていた手をそっと紀沙の左目に向けた。

 親指と人差し指、そして中指を伸ばす手の形は、何故か嫌な予感を呼び起こした。

 

 

「え、あ……え? ねぇ、ちょっ」

 

 

 はっとして、蒔絵が制止の声を上げかけた。

 しかしその時には、スミノの指先は紀沙の左目に。

 

 

「やめ――――!」

 

 

 ――――ぐちゅっ。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 意識を取り戻した翌日、紀沙は朝食の席に姿を見せた。

 熱も下がり、10日ぶりの朝食に食欲もあった。

 

 

「おはようございます」

 

 

 さりとて、緊張が無かったわけでは無い。

 敗戦――コンゴウ艦隊の包囲突破と言う目的は達成したが――の後で、引け目もあった。

 そう言う意味では、まだ紀沙には()()が無かった。

 実際、食堂で会ったクルーの中には紀沙の顔を見て顔を顰める者もいた。

 

 

「アンタ、大丈夫かい?」

 

 

 ただ、それは紀沙が想像していたのとは別の理由だった。

 復調したとは言え病み上がり、環境も休養に適しているとは言えない。

 

 

「顔色、悪いわよ~」

「あぅ」

 

 

 あおいに温かいおしぼりで顔を拭われて、妙な声が出た。

 冬馬が焼いてあげたのだろう、パンケーキを頬張る蒔絵がじっと見つめているのに気付いて、やや赤面しながらおしぼりを手に取った。

 実際、顔色は良くは無かった。

 

 

「大丈夫?」

 

 

 あおいに覗き込まれるようにそう言われて、紀沙は小さく笑みを浮かべた。

 安心してもらおうと思ったのだが、あおい達の顔を見るにそれには失敗したようだ。

 おしぼりの温もりは、確かに頭に染みた。

 

 

「大丈夫ですよ、少し夢見が悪かっただけです」

「うい、お待ちー」

「艦の状態を教えて貰えますか?」

 

 

 まだ刺激物を胃に入れられないため、冬馬が温かいスープを用意してくれていた。

 有難くお礼を言って、頂くことにする。

 一口飲むと僅かな塩味が舌に広がり、お腹がほんわりと温まった。

 身体を温めるのは確かに大切なことのようで、それだけで随分と気分が楽になった。

 クルーに目立った怪我が無かったことも、助けになったのだろう。

 

 

 そしてその場で、簡単に艦の状況について報告を受ける。

 それによると、艦の修復と補給はほぼ終わっているとのことだった。

 弾薬関係やナノマテリアルはマツシマから供給されて、食糧関係はアメリカ太平洋艦隊から補給を受けている。

 パンケーキは、どうやらその関係で出てきたものらしい。

 

 

「それで艦長、白鯨及びイ401から今後について会議の場を持ちたいとのことですが」

「わかりました。白鯨に伺うと伝えてください」

「了解しました」

 

 

 恋が頷くのを見て、紀沙はもう一口スープを飲もうとした。

 その指先がスープの入ったカップの前で空を切るが、手を伸ばして何事も無かったようにカップを掴む。

 どうやら、遠近感を掴むのにもう少しかかりそうだった。

 

 

 そっと、紀沙は己の左目を覆う黒い眼帯に触れた。

 そこには温かな温もりは無く、驚く程に冷たかった。

 冷たい感触が、嫌でも思い起こさせる。

 昨夜のことを――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――メンタルモデルを相手に勝てるなんて、考えたわけじゃない。

 ただ、そうせずにはいられなかった。

 

 

「私に何をした……!」

 

 

 スミノの胸倉を掴み挙げて、睨み付けた。

 それで動じる相手なら、どんなにか良かったことか。

 スミノはまるで動じることなく顔を傾けて、右目で紀沙の両目を見つめてきた。

 その虹彩が輝くと、紀沙の左目が鋭く痛んだ。

 

 

 ぐ、と怯んだ隙に、スミノは紀沙の手から逃れた。

 そして逆に、距離を詰めた。

 ぐいと身を押し付けるようにして、下から紀沙を覗き込む。

 鼻先が触れ合うような距離に綺麗な顔があって、紀沙は痛みを堪えて歯噛みした。

 

 

「私に、何をしたの……!?」

 

 

 笑顔と共に、スミノは答えた。

 問われれば虚実無く答えるのが、スミノと言う存在だった。

 そこがまた、憎らしい。

 

 

「スミノ!」

「ナノマテリアルで眼球を再現した」

 

 

 半ば予測していた答えに、息を呑んだ。

 その様子がおかしかったのだろう、スミノはクスクスと笑った。

 吐息が、唇に触れる。

 

 

「とは言え、いくら精巧に再現したと言っても異物は異物。偽物は偽物。贋作は贋作。キミの目そのものを再生治療したわけでは無いし、あくまでもその目は視覚情報をキミの脳に届けるだけのものだ」

 

 

 言ってしまえば、義眼である。

 ただしこの義眼は、視覚を有すると言う意味で破格だ。

 眼球周辺の血流を変え、視神経を繋ぐ、2056年の医療でも極めて困難な手術だ。

 それをスミノは、ナノマテリアルコントロールと情報ネットワークからのアップロードで対応した。

 

 

「ただボクも、造ったばかりの目じゃ自信が無くてね。普段から使ってる()()()()()()()()()()()()()()()

「じゃあ、この目って」

「そんな顔をしないで。キミに死んでほしくなかった。助かってほしかったんだよ、信じてほしいな」

 

 

 スミノは、片手で器用に包帯を解いた。

 しゅるりと包帯が床に落ち、下からとろみのある液体が滴り落ちる。

 そして、その「目」でスミノは紀沙を見つめた。

 そこにある「目」に、紀沙は大きく目を見開いた。

 瞳の虹彩が、輝く。

 

 

「ああ、良く馴染んできているね。やっぱり適合しやすかったのかな」

「……やる」

「うん?」

 

 

 その輝きは、感情の発露を示している。

 

 

「……してやる。お前を……!」

 

 

 そんな紀沙に、嗚呼、とスミノは蕩けた表情を浮かべた。

 頬が上気し足を擦り合わせて、紀沙の顔に零れた右目の涙を舌先で掬い取った。

 両手は紀沙の頬を押さえて、逃がそうとしない。

 スミノの右目もまた、淡い輝きを放っていた。

 

 

 悦び。

 紀沙に強い感情を向けられることが、スミノがその気になれば花を手折るように命を奪える少女が自分に対して明確な意識を向けているのが、悦びを生む。

 それはスミノにとって、とてつもない悦楽だった。

 その衝動を発散する術を知らないままに、スミノは両手に力を込める。

 

 

「たまらない」

 

 

 吐息と共に囁いて、スミノは踵を床から離した。

 背伸びをした。

 その行為は、2人の間の距離を完全に詰めた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ヤマトは、()()をただ微笑んで受けた。

 彼女は今、硫黄島と南鳥島の中間――日本本土からおよそ1800キロ南方――の海域にいた。

 当然そんな場所に他の船舶が存在しているはずも無く、周囲には総旗艦艦隊の艦艇の姿が見えるだけである。

 

 

「大戦艦『フッド』の呼びかけ」

「ええ」

 

 

 ヤマトの呟きに応じたコトノは、甲板に設置したプランターに水を撒いているところだった。

 アヒルの形をした可愛らしい如雨露(じょうろ)を片手に、水滴を滑らせるスイカに微笑を向けている。

 太平洋の陽光だ、なかなかに育てがいがあるだろう。

 

 

「千早のおじ様がああ言うことをすれば、反発する()が出てくるのは当然だもの」

あの子(ムサシ)にして見れば、あちらが<緋色の艦隊(スカーレット・フリート)>の名を冠するのは自然だもの」

「アドミラリティ・コードの直衛艦隊?」

「そう」

 

 

 ヤマトは、超戦艦と言うクラスにカテゴライズされている。

 各艦隊の旗艦たる大戦艦級を超える存在であり、人類の表現を借りれば超弩級戦艦とも呼ばれる。

 一方で霧内部においてヤマトを指す言葉は、「総旗艦」。

 何隻もいる旗艦達を束ねる者、いわば司令官とも言うべき存在がヤマトだ。

 他の霧は彼女を、<最強の霧>と呼ぶ。

 

 

 しかし実際の所、ヤマトが各地の戦線に姿を見せた例は無い。

 それどころか17年前の大海戦においても、ヤマトは姿を見せなかったと言われている。

 一時には存在が疑われたこともあるが、突如としてヤマトは人々の前に姿を見せた。

 そして誰ひとり疑うこと無く、霧は彼女を総旗艦として受け入れたのだった。

 

 

「召集要請なんて、何年ぶりかしら」

「初めてでしょう?」

「そうだったかしら」

 

 

 とぼけたような顔をするコトノに、ヤマトは困ったような笑みを見せた。

 共有ネットワークを通じて繰り返し発される()()、欧州方面艦隊の大戦艦『フッド』の召集要請、そして……。

 

 

「霧の艦隊の全ての旗艦による、円卓会議。今までそんなものは提起されたことすら無いわ」

「参加するの、総旗艦さん?」

 

 

 コトノの言葉には、柔らかな微笑みが返ってくるばかり。

 それに嘆息して、採ったばかりのスイカを抱えながら、コトノは天を仰いだ。

 

 

「群像くん、今の内に進めるだけ進んでおいた方が良いよー」

 

 

 アメリカなんかで手こずってないでさ。

 そう言って、コトノはこんこんとスイカを叩くのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 眼帯姿で会議にやって来た紀沙に、真瑠璃は大丈夫かと声をかけた。

 話は聞いていたが、実際に目にするとやはり心配になったのだ。

 そして予想通り、紀沙は笑って大丈夫と答える。

 何か言葉を重ねたかったが、紀沙に随行してきた静菜に睨まれて引っ込めざるを得なかった。

 

 

 もう一つ、真瑠璃の予想通りになったことがある。

 群像の反応だ。

 ヒュウガを伴って来た群像は先に白鯨の会議室に入っていて、妹を迎えた形になる。

 しかし、群像は紀沙に――少なくとも、目のことについて声をかけなかった。

 

 

「結論から言えば、ホノルル市内には入らずに出航すべきだと思います」

 

 

 むしろ、淡々と会議を進めてすらいる。

 浦上と駒城は口を挟むつもりが無いのだろう、黙って群像の言葉を聞いていた。

 正規の軍人で階級も高い、並の軍人であれば激高して怒鳴ってもおかしくは無い場面だ。

 だがそれをせず、艦隊運用について群像の方に一日の長があることを認めて黙っている。

 彼ら2人が随行員に選ばれたのは、そうした人格を評価されてのことでもある。

 

 

「理由をお伺いしてもよろしいか、群像艦長」

「ヒュウガに島内を少し調べて貰いました。それによると、どうも入れるような状況では無いらしいと」

「まぁ、内部にはまだ色々と生きているシステムもあったからねぇ」

 

 

 駒城と群像の間に、悪い意味での緊張感は無い。

 それは紀沙が来る前に、「霧とのコミュニケーションを」と言う群像の意思を聞いていたからだろう。

 話の内容云々と言うよりは、胸襟(きょうきん)を開いて話し合ったと言う点が重要だったのかもしれない。

 

 

 振動弾頭の量産で力を蓄え、霧と交渉し共存の道を探る。

 人類の心情として難しいが、浦上や駒城にはやりがいのある未来に見えたのだろう。

 真瑠璃自身は、そうしたことには余り関心が無かった。

 関心があるのは群像のこと、そして紀沙のことだ。

 

 

(群像くん、貴方は何を考えているの?)

 

 

 コンゴウ艦隊との戦いの概要は、戦闘詳報として読んだ。

 群像の作戦は、イ401として見るなら完璧だと思う。

 結果として味方に犠牲は無く、敵艦隊の包囲網を崩すことが出来た。

 しかし、イ404――紀沙の側から見て、あれはどうなのだ。

 

 

(私が降りた時と、変わってない……)

 

 

 完璧だ、彼は。完璧なのだ。

 それは強さだ、だが鋭すぎる。

 鋭すぎる刃は自分の手も切りかねない、彼はそこに気付いているのだろうか。

 真瑠璃が群像を見る目には、切なさすら浮かんでいた。

 

 

「刑部蒔絵については、ひとまず現状のまま404で保護を続けます」

「大丈夫でしょうか。やはり白鯨(われわれ)が内地まで」

「いえ、今からでは作戦に支障が出ます。幸い、彼女も私達に懐いてくれていますし」

 

 

 そして、紀沙。

 彼女の危うさ、弱さ、拙さ。

 そうしたものが先の戦いの随所に見て取れて、真瑠璃は切なさを覚えた。

 きっと、紀沙も切なさを得ているはずだ。

 だがその切なさは、真瑠璃が群像に向けるものとは別のものだ。

 

 

 胸を締め付けられて、真瑠璃は目を閉じた。

 真瑠璃には見えないもの、そして見えているもの。

 これからも見続けなければならないと言う事実に、真瑠璃は自分が耐えられるだろうかと、そう思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧が海を支配して以後、人類は艦船を海から引き離すことで守ってきた。

 地下ドックはその典型例だが、世界中の港湾に秘密のドック――群像言うところの、「夢の保管所」――が築けるわけも無い。

 なので多数派としては、鹿島基地のように船を(おか)に固定する方法を採っている。

 

 

「人間は危機に瀕した時、神に助命を請うそうだよ。そして助かった後、それが不足であれば神を罵倒する。実に不思議な存在だとは思わないかい?」

 

 

 白鯨の艦体は、微細な白いタイルの集合体で出来ている。

 エイのような形状の巡航ユニットは巨大で、通常の艦艇に用いるアームを2隻分使ってようやく固定されていた。

 ハワイの陽光は、白い艦体をより優美に照らし出してくれる。

 

 

 イオナは、その白鯨の艦体の上でスミノと共にいた。

 形としては、群像達の会議が終わるのを待っているという風に見える。

 しかしイオナは、どちらかと言うと自分がスミノを監視しているような気持ちを感じていた。

 そして今、意味のわからないことを言うスミノの意図を図れないでいる。

 

 

「スミノ。お前の艦長の左目、あれは何だ?」

「何のことかな」

「とぼけるな、私が気付かないわけが無いだろう」

 

 

 霧のイオナが、紀沙から漂うナノマテリアルの気配を感じ取れないわけが無い。

 群像には言っていないが、あれで妙な時には鋭い男だ。

 もしかしたら、何かを気にしているかもしれない。

 

 

「……ふふふ」

 

 

 すると、スミノが笑った。

 

 

「ねぇ、401。キミは()()を感じたことがあるかい?」

「無い」

 

 

 メンタルモデルに痛覚は無い。

 そもそもメンタルモデルは外見こそ人間だが、人間の肉体とは似ても似つかない別のものだ。

 五感は無く、あるとしてもそれはセンサーと言った方が正しい。

 だから怪我をしても血が出たりはしないし、「死ぬ」と言うことも無い。

 スミノの問いかけは、それくらいの愚問だった。

 

 

「ボクはあるよ」

 

 

 だから、スミノの言葉には眉を潜めた。

 自分達メンタルモデルに痛みなどあるはずが無いのに、と。

 いつの間にか、スミノが包帯を解いていた。

 

 

 そう、包帯だ。

 朱に塗れてスミノの足元に落ちたそれを、じっと見つめる。

 血。

 メンタルモデルに存在しないはずのそれが、包帯にはべっとりとついていた。

 

 

「……ッ!」

 

 

 ぎょっとした、と言う感情をイオナは得た。

 振り向いたスミノの顔には、それだけのものがあった。

 

 

「お前、その目は……!」

()()()()()

 

 

 眼窩から涙のように()()()()()()()、スミノは言った。

 

 

「これは確かに辛いね、人間が己の欠損を嫌がる理由が良くわかったよ。うふ、うふふふ、あははは」

 

 

 痛い、痛い、痛い。

 謳うように、スミノが言う。

 右目と明らかに違う濃褐色の、それも明らかに傷を負った瞳。

 血の涙を流すスミノを、イオナは脅威を感じた顔で見つめていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ太平洋艦隊司令長官、ウォルター・キンメル海軍大将。

 そう言う自分の肩書きを、キンメル自身は余り好きでは無かった。

 しかし今日、彼はその肩書きを少しだけ好きになることが出来た。

 

 

「こんなところにいらしたのですか、長官」

「うむ……」

 

 

 白亜のビル(司令部)の屋上からは、複数の入り江や小島を抱く真珠湾を一望することが出来た。

 エメラルドグリーンに輝く水面はもうすっかり見慣れてしまったが、彼らを含む島民はいつも初めて見るような心地で海を見る。

 海は毎日違う表情を見せてくれる、キンメルがそれに気付いたのはオアフ島に赴任してからのことだ。

 あれは、もう30年も前のことだったか。

 

 

 アメリカ海軍特有の白い軍服、同色の軍帽の下には薄い白髪が見えた。

 皺を深く刻んだ肌に、くすんだ青の瞳が物憂げな色を浮かべている。

 年の頃は60代、濃い疲労の気配を漂わせる老人だった。

 

 

「……日本の客人には、悪いことをしたな」

「仕方ありますまい。オハナ知事亡き今、僅か10キロ先のホノルルは無法地帯なのですから」

 

 

 深く、深く息を吐いた。

 雰囲気相まって、さらに老け込んだようにも思える。

 そしてそんなキンメルを見つめる副官もまた、老いていた。

 

 

「外から入港する艦があると知れれば、物資を求めて暴動が起こりかねません。最悪、内戦です。そうなれば、我らと言えども……」

 

 

 疲れている。

 お互いに、はっきりとそれがわかっていた。

 思えば、2人でハワイの艦隊の指揮権を引き継いで10年――前の司令長官は、心労に耐え切れずに自殺した――経つが、何の希望も持てない毎日だった。

 

 

 100万のハワイの州民、10万の軍人軍属(ぶか)、そして取り残された数万の観光客(よそもの)

 それら全てを養える生産力は、ハワイには無い。

 何かを切り捨てる毎日だ、失っていくだけの時間をただただ過ごしてきた。

 

 

真珠湾(ここ)と、本国からのSSTOを受け入れるヒッカム空軍基地。そしてこれを結ぶ線、我らにはもはやそれだけしか残されていない」

 

 

 希望が、欲しかった。

 何でも良い、ほんの少しだけで良い、()()()()()()()()()()()()

 

 

「ああ、あれか。初めて見るな」

 

 

 そうして、真珠湾の海に見えるものがあった。

 17年前にはアメリカの誇る太平洋艦隊の艦船がひしめき合っていたが、今ではほとんどもぬけの殻だ。

 霧との戦い、ハワイの海洋封鎖を解こうと霧に挑んだ勇者達。

 キンメル達はずっと、それを見送り続けていた。

 

 

 しかし今、彼らが見送るのは死者の面影では無い。

 灰色、蒼、そして白の艦体を陽光に煌かせる3隻の潜水艦だ。

 わざわざ浮上航行して、こちらが見ていることをわかっているかのようだった。

 自分達の意思が伝わったのだろうかと、そんなことを思った。

 

 

「なかなか、良い姿じゃないか。そうは思わないか」

「確かに、そうですな。彼らが無事にサンディエゴまで辿り着いてくれると良いのですが」

「霧によって閉じ込められた我らの救い主が霧と言うのは、何とも複雑だが」

 

 

 それでも、あれは希望だった。

 失わせるわけにはいかない。

 だから()()()()()()()()()()()()()()、それでいて中には入れなかった。

 

 

「この戦いが終わって日本から抗議が来たとしても、私の首を切れば済む」

「その際は、私も共に」

「んん?」

「お1人で楽をしようとしても、そうはいきませんぞ」

 

 

 ニヤリと笑って、副官は手の中のものを持ち上げてみせた。

 そこにはビールの瓶があって、副官は2つのグラスを片手にウインクして見せた。

 すると、キンメルもかはっと笑って。

 

 

「こいつめ、物資の中からちょろまかしおったな!」

「何しろ、未成年がいる艦隊にアルコールは渡せませんからな」

「違いないな! ははっ、ははははははっ!」

 

 

 キンメルは、久しぶりに大声で笑った。

 こんなにも気持ちの良い気分は本当に久しぶりで、束の間、彼は肩の荷を降ろすことができた。

 ああ、今日は何と良い日なのだろう。

 見慣れた海は、いつもより大きく見えた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 浮上航行したのは、もちろんアメリカ太平洋艦隊への敬意のためだ。

 だがもう1つ、やっておかなければならないことがあった。

 それは真珠湾のほぼ中央、フォード島と言う島に近付いた時に行われる。

 

 

「ほらっ、急ぎな! 後はアンタだけなんだよ」

「ちょい待ってって、この暑いのに手袋なんて普段出さねぇもんだから」

「あ、梓さん。そんなに焦らせなくても大丈夫ですよ」

「だぁめだって。ああ言うのは甘やかしたらダメになるんだ」

 

 

 フォード島は小さな島だが、かつては滑走路や潜水艦整備基地を備えていた重要拠点だった。

 海面上昇や霧の攻撃への懸念からその機能は十数年前に移されたが、旧施設の跡地は今も残っている。

 とは言え、目的はその施設跡を見ることでは無い。

 目的は、あえて言えばその手前にある。

 

 

 それは、フォード島の北東部にある2つの建造物だ。

 1つは艦、ただ元々が古い上に十数年放置されていたために、辛うじて原型がわかる程度だ。

 もう1つは中央にへこみのある建造物で、50メートル程の長方形の形をしていた。

 どちらも相当に劣化しており、錆や海生生物に覆われているのが遠くからでもわかる。

 

 

「総員、整列っ!」

 

 

 3隻は微速でそこへ入り、そのままの速度で航行を続けた。

 紀沙もまたイ404のクルーを甲板に集合させ、ゆっくりと視界を横切る古い艦と建造物を見た。

 正直、紀沙はそれらの建造物のことは良く知らない。

 ただ統制軍、特に海軍では伝統として伝わっていることがあった。

 

 

「――――敬礼っ!」

 

 

 ()()()を嵌めた手で、敬礼を行う。

 それが伝統だ、現実的にはあまり意味が無い。

 ただ霧に封鎖されてから行われることの無かった伝統を、自分達が果たしたいと言う想いはあった。

 だから、今こうして敬礼することには意味があると信じていた。

 白鯨の方でも、同じようなことをしているだろう。

 

 

 ふと隣を見ると、蒔絵が自分達の真似をしていた。

 凛々しい顔をして敬礼している姿は素直に可愛らしいと思えて、紀沙はくすりと笑った。

 それから正面を見て、通り過ぎるまで敬礼を続ける。

 そしてそんなクルーと蒔絵の姿を、セイルの上に腰掛けたスミノが見下ろしていた。

 

 

「――――理解できないね」

 

 

 そんな彼女も、止めるような真似はしない。

 しかし真珠湾を出て外洋に出ようとした時だ、スミノは顔を上げた。

 近海にセミオートで待機しているマツシマらと合流する予定だったが、それとは別の反応を感知したのだ。

 

 

「うん、何だ?」

 

 

 それは西からやって来ていて、どうもこちらを真っ直ぐ目指しているようだった。

 艦艇だ。

 水上艦では無く、感知できたのはその艦艇の方がやかましく量子通信を飛ばしていたからだ。

 それによると、発信元は霧の潜水艦だった。

 

 

 霧の太平洋艦隊では無く、それどころか単艦だった。

 一瞬、判断に困った。

 いったい誰が何を叫んでいるのかと、センサー系の感度を上げてみる。

 すると相手の艦名は、イ号――――。

 

 

『イ404の姐御――――ッ! 返事をしてくださいッス――――ッ!』

「は?」

 

 

 何か、妙な言葉があったような気がする。

 聞き間違いだろうか、スミノはもう1度慎重に通信を受信した。

 すると、次の言葉はこうだった。

 

 

『どうか私を……私を姐さんの舎妹(いもうと)にして下さい――――ッ!!』

「……はぁ?」

 

 

 発信元・イ15の言葉(つうしん)に、スミノは露骨に眉を顰めた。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
本来は入る時に敬礼するらしいですけどね(え)

なお繰り返しになりますが、この作品に登場する組織・人・物は現実に実在するものとは無関係です。
あしからず(本当に今さらである)

それでは、また次回。
次回はたくさん霧が登場しますよ!

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