蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth024:「誘い」

 辺りはすでに夜になり、僅かな照明以外は何も見えなくなっていた。

 もちろん港に人気(ひとけ)は無く、小波の音がはっきりと聞こえる程に静寂に包まれていた。

 

 

『いったい、アンタ達は何をやってたんだい!?』

 

 

 ただ、1箇所を除いては。

 

 

「うおっ。そ、そんな怒んなって」

『これが怒らずにいられるかい!!』

 

 

 電話の向こうの梓の余りの剣幕に、冬馬は携帯端末を耳から話した。

 10センチ程離してようやく普通の声量になるのだから、隣にいたらどれ程の大声だったことだろう。

 しかし、今回ばかりは梓が怒鳴るのも無理は無かった。

 

 

 紀沙が、何者かに攫われた。

 冗談にしては悪質で、現実だとしたらもっと悪質だった。

 梓も最初は冗談だと思っていたようだが、冬馬が繰り返し説明すると激怒した。

 何しろ護衛役だった男2人が、まるで役に立っていなかったのだから。

 

 

「いや、まさかあんな堂々と特殊部隊送り込んで来るとか思わないだろ」

『馬鹿言ってんじゃないよ、ここは日本じゃ無いんだよ!』

 

 

 余りの正論に、ぐぅの音も出ない。

 油断していたわけでは無いが、流石に人目のある所でああまで鮮やかに拉致されるとは思わなかった。

 ここが敵地である、と言う認識が低かった。

 それに霧の艦長に危害を加えるリスクを犯す、そう言う覚悟が相手にあると理解していなかった。

 

 

『全くアンタは……あ、ちょっ』

『……変わりました、こちら副長の本能寺です』

 

 

 埒が明かないと思ったのか、恋が電話口に出てきた。

 冬馬としてはほっとした反面、恋が出てきてしまうと話を進めなくてはならないので、それはそれで気が重くなるのだった。

 

 

『目下の所、我々としての対応を決める必要があります。まず艦長をどうするか』

「そりゃー、何とか助け出さなきゃならねぇだろ。艦長ちゃんがいなけりゃ俺らの存在価値がねぇしな」

 

 

 事実だった。

 冬馬を含むイ404のクルーはそれぞれの事情で集まっているが、根幹の部分は同じだ。

 彼らは皆、千早紀沙と言う少女のために集っている。

 言ってしまえば紀沙を中心とした車輪のようなもので、中心である紀沙がいなければ瓦解するしか無い。

 わざわざ配属された意味も無くなる。

 

 

『とりあえず、白鯨の浦上中将と駒城艦長には私から連絡しておきます』

「不味くないか?」

『もちろん、ひとまず上層部のみの情報としてもらいます。むしろ無断でいることの方が我々の立場を悪くしかねません』

「あー、まぁ、そうかなぁ」

 

 

 がしがしと頭をかいて、冬馬は唸った。

 正直こう言う参謀めいた話は苦手だ、性に合わない。

 と言って、あおいや良治は自分の専門領域以外のことはわからない。

 黙って自分と恋のやり取りを聞いている2人を横目に、冬馬はもう一度頭をかいた。

 

 

「ちょっと良いか」

 

 

 その時、冬馬に声をかけてくる者がいた。

 それはあおいでも良治でも無く、ましてイ404のクルーでも無かった。

 

 

「オレに考えがある、聞いてもらえないか?」

「……あん?」

 

 

 千早群像。

 その場に居合わせていた紀沙の兄にしてイ401の艦長が、いつにも増して陰のある顔でそこにいた。

 冬馬は、そんな群像のことをじろりと見つめるのだった――――。

 

 

 

「――――――――さて」

 

 

 

 一方、空母博物館の対岸、コロナド半島北端の灯台の先端に()()はいた。

 丸みのある屋根の上にしゃがみ込んでいた彼女は、不意に立ち上がり、左目を覆う包帯を引き千切るようにして解いた。

 眼窩から零れ落ちるように赤い雫が飛び、前髪の間から無機質な輝きが漏れる。

 強い海風が、銀糸の髪を大きく揺らしていた。

 

 

 とんっ……と、少女は灯台から飛び降りた。

 地上から数百メートル、落ちれば命は無いだろうその場所から、飛び降りた。

 投身自殺? いや、彼女に限ってそれはあり得ない。

 何故なら彼女は、死と言う概念から最も遠い存在なのだから。

 

 

「行こうか」

 

 

 少女――スミノの身体が、ナノマテリアルの粒子となって溶けていく。

 落下しながら行われるそれは、まるで羽根の妖精(ティンカーベル)のようだった。

 そうして、スミノは夜の闇の中へと沈んで行った。

 赤い赤い、痛みの雫だけを残して。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 左目が痛んだような気がして、紀沙は目を覚ました。

 突然の光に、眼帯に覆われていない右目を瞬かせる。

 霞む視界の中で見えた色は、赤だった。

 

 

「ん……」

 

 

 どうやら、椅子に座っているようだ。

 そのままの姿勢で眠っていたためか、背中の筋肉が固くなっている。

 そこで意識が完全に覚醒し、紀沙は僅かに身を震わせた。

 海に引きずり込まれたことを思い出して、口元に手を当てる。

 

 

(……海の中、じゃないか。流石に)

 

 

 良く見れば、見覚えの無い部屋にいることに気付いた。

 最初に目に入った赤色は、どうやらカーペットの色だったようだ。

 ドレッサールームなのだろう、正面の壁は一面が壁だった。

 鏡には背の高い豪奢な椅子に座る紀沙が映っており、紀沙はそれで自分が着替えさせられていることに気付いた。

 

 

「うわ、何この格好」

 

 

 両手を上げて、自分の身体を見た。

 肩と背中がやけにスースーすると思ったら、大きく素肌を晒していた。

 イブニングドレス、それも胸元から腕・背中にかけてを露出させるベアトップスタイルの物だ。

 光沢のあるサテン生地で、色は鮮烈な赤だった。

 首元にはパールのネックレスを着けていて、足元はエナメルのヒールパンプスで締めていた。

 

 

 いったい、どこの夜会(パーティー)に行くのか、と言うような格好だった。

 加えて言えば、眼帯も赤い薔薇のコサージュのついた装飾性の高い物に変わっている。

 鮮烈な赤は、紀沙の黒髪に良く映えてはいた。

 そして下着(インナー)まで変えられているあたり、徹底されている。

 まぁ、海水でずぶ濡れのまま放置されるよりはマシだと考えることにした。

 

 

「端末は……流石に無いか」

 

 

 自分の元々の衣類も含めて、その部屋には見当たらなかった。

 談話室も兼ねているのかお茶菓子や紅茶のセット等は見つけたが、逆に言うとそれしか無かった。

 後は造花の花瓶やテーブルのような、家具や調度品ぐらいのものだ。

 となれば、と、紀沙の目は自然と部屋の扉へと注がれる。

 

 

 ――――コン、コン。

「……!」

 

 

 ちょうどその瞬間、誰かが部屋の扉をノックした。

 警戒心を強めて立ち上がり、椅子の背にそっと手を添える。

 ふわりとしたスカートが膝をくすぐる感触は、普段は感じないものだった。

 コンコンと、ノックが繰り返される。

 

 

(どうする?)

 

 

 どう反応すべきか、一瞬で思考する。

 応じるべきか無視するべきか、迎えるべきか隠れるべきか。

 こうしている間にも繰り返されているノックに、紀沙は唇を引き結んだ。

 さぁ、どうするか。

 

 

 ――――コン、コン。

 ――――コン、コン。

 そして数瞬の後、扉が開いて……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 現れたのは、金髪の優男だった。

 見た目は人が良さそうに見える、黒のタキシードと相まって紳士然としていた。

 ただ、笑顔にはどこか胡散臭さがあった。

 自慢では無いが、紀沙はそうした顔を比較的見慣れている。

 

 

「やぁ、初めまして」

 

 

 実ににこやかな笑顔だが、その裏で何かを考えているような顔だ。

 この男が自分をここに連れて来た元凶かどうか、この時点では確証が持てなかった。

 ただ1つ決めたことがあるとすれば、この場で無茶はすまいと言うことだった。

 何しろ、タキシードの男の後ろに迷彩服姿の大男が2人いたからだ。

 

 

 明らかに軍人、それもかなり屈強な。

 人数は問題では無いが、自動小銃(カービン)を携行しているのが不味かった。

 拳銃の一丁や二丁は捌く自信があるが、流石に丸腰で小銃を相手にする気は無い。

 いや仮に目の前の2人を倒せたとしても、この様子だと他にもいそうな雰囲気だ。

 

 

(となると、ここはどこかの基地ってこと……?)

 

 

 アメリカ軍、だろう、当然。

 いざとなれば武器にするつもりでいた椅子から、手を離す。

 妙に勘繰られても困る、むしろ扉が開くと同時に殴りかからずに済んで良かったと思おう。

 

 

「そのドレス、良く似合っているね」

「……ッ!」

 

 

 ぬっと顔を近づけられて、反射的に身を引いた。

 それでも男は笑顔を崩さず、にこにことした顔で立っている。

 見ようによってはハンサムなのかもしれないが、生憎(あいにく)と紀沙はハンサムに慣れている。

 

 

「……どなたですか?」

「ああ、これは失礼。僕はジャン・ロドリック、しがない財団を運営する実業家です」

 

 

 しがない財団とやらがどんな財団なのかはわからないが、軍人の護衛を受けられるような立場の人間がただの実業家であるはずが無かった。

 

 

「その実業家さんが、私に何か用ですか?」

「いや、用があるのは僕じゃないんだ。別の人でね」

「では、その用があるお方と言うのはどなたですか?」

「うーん、それは直接会ってくれた方が良いかな」

 

 

 さぁ、とジャンが扉の外へと紀沙を誘った。

 紀沙は警戒したまま、ジャンの顔を見つめる。

 ジャンは笑みを崩すことは無かったが、やはりその笑みは何か含む物があるように見えた。

 どうにも、危険な感じがする。

 

 

 と言って、このままここで立ち尽くしているわけにもいかない。

 逆らうわけには、もっといかないだろう。

 今は従っておくべきだ、それに自分に用があると言う誰かも気になる。

 だから紀沙は、ひとまずジャンの望み通りにすることにした。

 歩き出して、扉の両脇に直立している軍人の間を抜ける。

 

 

「ああ、そうそう」

 

 

 その時、ジャンが思い出したように言った。

 

 

「キミの服を着替えさせたのは僕の妻だから、気にしないでね」

 

 

 どうやら、この男は相手の神経を逆撫でするのがなかなか得意らしい。

 紀沙はくっと歯噛みしたが、振り向くことだけは避けた。

 何もジャンの望みを叶えてやることも無いのだから、振り向いて顔を見せる必要は無い。

 ここは意地が必要な場面だと、紀沙は思っていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ大統領夫妻の食事と言っても、そんなに一般人と違うものではない。

 大統領とその家族が暮らす大統領(エグゼクティブ・)公邸(レジデンス)こそ豪勢に見えるかもしれないが、夫婦2人で暮らすにはむしろ広すぎると言えた。

 食べているものもチキンと野菜のメキシコ風スープと、庶民的なものだった。

 

 

「うーん、美味しい! やっぱりリズの料理は最高だね!」

「ふふ、そう? 今日は良いお肉が厨房に入ってたから。せっかくだからスパイスを使ってメキシコ風に……」

 

 

 夫の言葉に笑顔を見せたエリザベスだが、そこではっとした表情を浮かべた。

 どうやら何事かを思い出したらしく、哀しげな顔になって。

 

 

「メキシコ……今日もソロールサノ(メキシコ)大統領が私のことを非難してたわね」

「そう? ほんのちょっぴりトウモロコシの輸出が多いって言ってただけじゃないか」

「メキシコのトウモロコシ農家が壊滅したのは、私のせいだって言ってたわ」

「そんなこと無いよ! 実際こうして僕らはメキシコ料理を食べてるじゃないか」

「でもこれ国産のチキンじゃない!」

「それは仕方ないよ!」

 

 

 わっと泣き出したエリザベスに対して、ロバートは陽気に言った。

 彼は苦笑を浮かべて席を立つと妻の傍に寄り、しゃくり上げるその背中を優しく撫でる。

 打たれ弱いエリザベスは、日に何度かこんな風になってしまうのだ。

 何しろ大統領である、批判されるのが仕事の一部だ、やわな神経ではやっていけない。

 

 

 大統領の夫(ファーストレディー)である彼は、エリザベスを元気付けることを自分の義務であると自認していた。

 ただ、それは単なる義務感から来るものでは無く、深い愛情に根ざすものだった。

 妻との数十年に渡る人生の中で、育んできたものだ。

 

 

「うん? あれ、リズ。もしかして香水を変えたのかい? とても良い香りだね」

「うう……う? え、ええ。ちょっと気分を変えようと思って……」

「そうなんだ。これ良いね、僕気に入っちゃったよ!」

「そ、そう?」

「うん! 爽やかな香りの中に芯があって、リズにとても良く似合ってると思うよ」

 

 

 額を合わせて、両手で包むようにして頬に触れた。

 エリザベスは目に涙を残していたけれど、そんな夫の仕草に薄く頬を染めた。

 年齢も年齢なので、流石に若い頃のような高揚は感じない。

 ただ代わりに安堵と言うか、穏やかな心地が2人の胸中を満たしていた。

 

 

 その時、携帯端末のコール音が響いた。

 穏やかな雰囲気を引き裂くように鳴り響き始めたそれは、ロバートの胸ポケットから聞こえていた。

 電話だ。

 ロバートはリズに「やれやれ」と言った風な顔を見せた後、額を離して端末を取り出した。

 そして、画面に表示されている名前に怪訝な顔をした。

 

 

「どうしたの? 誰から?」

「ああ、うん。まさか、かかって来るとは思わなかったんだけど」

 

 

 何かの役に立つだろうと思って、互いのアドレスは交換していた。

 首脳同士の嗜みのようなもので、社交辞令以上の意味は無いものと思っていた。

 まぁ、サラリーマンにおける名刺交換みたいなものである。

 

 

「……あら」

「ね?」

 

 

 その画面には、こう書かれていた。

 ――――グンゾウ・チハヤ、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 暇だ。

 イ15、改めトーコは「退屈」と言う感情を得ていた。

 トーコは敬愛するスミノに「適当な所で待ってろ」と言われたので、その言葉の通りにしていた。

 サンディエゴ沖の海底に着底してエンジンを切り、メンタルモデルは無人の発令所の床に仰向けに寝そべっていた。

 

 

「あ~、暇っス~」

 

 

 足をバタバタさせながら、そんなことを言うくらいには暇だった。

 メンタルモデルを得た霧は、情緒面が豊かになる傾向が強い。

 それまで数値や概念としてしか知らなかったことを――水や風等の自然、音楽や衣服等の文化、他者との会話によって得られる感覚――肌で実感することで、急速に進歩するのだろう。

 やがて表情も増えて、個性と言うメンタリティを得るに至る。

 

 

 そしてトーコもまた、そうしたメンタルモデルの1人だった。

 コアの演算力にもよるが、潜水艦でメンタルモデルを形成できる艦は多くは無い。

 潜水艦と言うクラスの特殊性のせいでわかりにくくなっているが、メンタルモデルの形成には重巡洋艦以上のコアが必要とされている。

 最も、トーコの場合はメンタルモデル形成のために色々と細工をしているのだが……。

 

 

「スミノの姐さんの『突撃! 硫黄島決戦!』はもう見飽きたし……はっ、いや姐さんの戦闘記録なら何度見ても良いかも!?」

 

 

 しかし情緒面が進歩しているからこそ、退屈と言う感情も覚える。

 話し相手がいないと言う状況に対して、つまらないと言う気持ちも芽生えるのだ。

 ただ、トーコは気付いていなかった。

 サンディエゴの暗い海底の中で、自分を見つめる()があったことを。

 

 

「あれは……『イ15』?」

 

 

 しゃんっ、と鈴の音が海底に響いた。

 それは潜水艦『イ15』の姿を捉えた別の潜水艦――否、()()()だった。

 全長100メートル程の小さな艦艇で、それに合わせたようにメンタルモデルも小柄な少女の姿をしていた。

 袖に鈴を下げた独特の和服を身に着けた、その艦艇(モデル)の名は。

 

 

「東洋方面艦隊の艦が、何故こんなところに?」

 

 

 霧の駆逐艦『ユキカゼ』。

 総旗艦『ヤマト』を直衛する駆逐艦隊の1隻は、自身のことは棚に上げてそんなことを言った。

 そんな彼女が日本近海を離れて、()()()()()()に何をしに来たのか。

 それを知る者は、それこそ総旗艦『ヤマト』その人だけなのだろう。

 誰の前にも姿を見せず、大海に一石を投じるように世界を動かして――――……。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「さぁ、こちらへどうぞ」

 

 

 ノックの後に扉を開いて、ジャンは紀沙を部屋の中へと誘った。

 レディファーストのつもりなのか、それとも他に何か考えでもあるのかはわからないが、通路の要所に案の定多数の兵士の姿を確認した後となっては、従っておくしか無かった。

 だから紀沙はジャンから顔を背けつつ、部屋の中へ入った。

 

 

 その部屋は、どうやら食堂のようだった。

 内装はドレッサールームや通路とほぼ同じで、クラシックな壁紙と赤いカーペットの空間だ。

 丸みのある木製のテーブルの上には、白と銀の食器類が並べられていた。

 今にも食事が始まりそうな、そんな雰囲気だった。

 

 

「おお、この国の救世主が来たか!」

 

 

 そして、1人の男が紀沙を待っていた。

 グレーのスーツを来た年配の男で、彼は紀沙の姿を見ると席を立ちさえした。

 表情は朗らかそのものであって、少なくとも見た目には人の良いお爺ちゃんと言った風だった。

 少なくとも、ジャンよりは信用が置けるようにも思える。

 

 

「ああ、ジャン。良く連れて来てくれたな」

「僕は別に何もしていないさ、ウィリアム。これもビジネスだからね」

 

 

 どうやら、この男はウィリアムと言うらしい。

 老齢のようだが足腰に衰えは見えない、むしろ矍鑠(かくしゃく)としていた。

 軍人達は室内にまでは入って来ないようで、室内にいるのは紀沙の他にはこの2人、そしてもう1人。

 椅子に座ったまま、紀沙の顔を見てにこりと笑みを浮かべる女性だ。

 

 

「ニナ」

 

 

 誰なのかと思って見ていると、ジャンが近付いて頬にキスをしていた。

 余りに何気なくあけすけに行われたので、紀沙は思わず顔を逸らした。

 アメリカでは挨拶なのかもしれないが、それにしては親密なものだったので、恋人か夫婦なのかもしれない。

 

 

「さぁ、座ってくれ。すぐに料理が来る、今日はカリフォルニアの良い牛が入っているんだ」

「え? あ、あの」

「さぁさぁ、さぁ」

 

 

 ウィリアムと言う男に促されて、紀沙は椅子に座った。

 背の高い椅子の背もたれは頭の後ろにまで及び、楽な姿勢を保てる造りになっていた。

 

 

「何か嫌いな食べ物はあるかな、日本人の食生活には疎いものでね」

「い、いえ。有難いのですが、食事は結構です」

「うん? しかしお腹が空いているだろう、なぁジャン」

「そうですね、彼女は夕食もまだのようですから」

 

 

 確かに空腹は覚えているが――何しろ、夕食前に気を失ったのだから――それ以上に問題なのは、明らかに相手のペースで話が進んでいることだ。

 この部屋に来るまでに何度か窓の外を見たが、夜のせいもあるだろうが、ここがどこなのか検討もつかなかった。

 ただ、一度だけ「壁」が見えた。

 

 

 防壁だ。

 それ以外に、塀でも門でも無い壁が建物を取り囲むとは思えない。

 そして通路の要所に配された兵士と、何度かトラックのような重い音も聞こえた。

 ここはどこかの基地、それも夜と言う点からサンディエゴ市街からそう離れていない場所にある。

 それが、紀沙の予想だった。

 

 

「いえ、本当に結構です。ミスター」

 

 

 場所もタイミングも、全てが相手の掌の上だ。

 だから、多少の無理をしてでもそれを崩す必要があった。

 自分は相手の思い通りにならないと、少しでもそう思わせられればその後の展開も変わる。

 

 

「それよりも、私をここへ連れて来た理由を。貴方のご用件を聞かせてください」

「ふむ、そうか……私としては食事でもしながら、ゆっくりと話をしたかったのだが」

 

 

 ウィリアムは何度も頷きながら、自分の席――紀沙の向かい側の席にゆっくりと向かい、そして座った。

 その間、1分も無い。

 ただしその1分にも満たない時間で、紀沙は目の前の男が別人になったような気がした。

 そんなはずは無いのだが、纏っている空気が変わったのである。

 

 

「では、単刀直入に言おうか」

 

 

 その変わった、より重みのある雰囲気の中で、ウィリアムは口を開いた。

 雰囲気に呑まれかけた紀沙だが、しかし相手が次に何を言うかは予想がついている。

 と言うか、自分に対して何か要求するなら1つしか無い。

 そう、つまりはイ404を――――。

 

 

「キミに、アメリカ人になってもらいたい」

 

 

 ――――予想は、いきなり外れた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「キミ達に、我が国の市民権を与えよう」

 

 

 市民権と言うのは、読んで字の如くその国の市民としての権利である。

 就業・居住・教育を始めとする政府のサービスを受ける権利の総称で、市民権を持っているのといないのとではアメリカでの生活の質は天地の差だと言われている。

 他の国にも多かれ少なかれ似たような制度はあるが、アメリカは特に徹底していた。

 

 

 当然、取得には厳しい条件をクリアする必要がある。

 しかし、国家の常として特例と言うのはどこにでも存在する。

 ルールを定めるのが人間である以上、大統領や議会の考え次第で可能になるのだ。

 最も、それがスムーズに行えるかは大統領の手腕次第ではあるが。

 

 

「申し遅れたが、私はウィリアム・パーカー。次の大統領になる男だ」

 

 

 この男が、と紀沙は思った。

 エリザベス大統領の対抗馬、野党の大統領候補。

 大統領選挙の情勢はわからないが、「次の大統領」と言い切るあたり自信があるのだろう。

 確かに、素のエリザベス大統領と比べると指導者っぽくはあった。

 

 

「私が正式に大統領に就き次第、キミ達に市民権を与える大統領令に署名しよう。もちろん、その際にはイ404も我が海軍に編入されることになるだろう」

「……イ404を引き渡す代わりに、私達に市民権を与えると?」

「それは少し順序が違うな。我々にはイ404が必要で、そのためにキミ達に我が国の市民になって貰いたいと思っている」

 

 

 そこが、紀沙の予測と異なる部分だった。

 イ404を他国が欲しがると言うのは良くわかる、霧へ対抗するために霧の艦艇を保有することは様々な意味で有効だからだ。

 アメリカへ渡るに際して、それがほとんど唯一のリスクだと思っていた。

 

 

「艦と魚雷だけでも十分に貴重だが、それ以上に貴重なものがある。……キミ達だ」

 

 

 ウィリアムは言った。

 自分達にとって、何よりも必要なのは人材なのだと。

 

 

「霧との大海戦より17年、もはや我が国にもまともな海戦を経験した者はいない。まして霧の艦艇の操艦経験を持つ者など、世界を探してもキミ達しかいない」

 

 

 それもまた、事実だった。

 アメリカでは市民権を持たない者は――つまり、アメリカ()()で無い者は――アメリカ軍に入隊することが出来ない。

 つまり紀沙達が持つイ404のノウハウを得るためには、紀沙達がアメリカ国民になる必要がある。

 だからこその、市民権の付与だった。

 

 

 ウィリアムの言いたいことは、わかった。

 良くわかる、聞いてみればなるほどと思う点もあった。

 しかし、紀沙にはわからない点が1つあった。

 

 

「何故、私達なのでしょうか?」

 

 

 それならば、自分達で無くても良い。

 具体的には群像達でも良かったはずだ、マツシマのことを思えば向こうの方が戦力と言う点は高い。

 それに依頼次第では、群像がアメリカのために働く可能性もあった。

 認めるのは業腹だが、群像達は日本海軍では無く、<蒼き鋼>なのだから。

 

 

「傭兵は信用できん。ヨーロッパの歴史を紐解くまでも無く、傭兵に国の命運を賭けることなど出来ない」

 

 

 その疑問については、ウィリアムは実にあっさりと答えて見せた。

 信用できるのは、あくまでも国と国民に忠誠を誓った軍隊だけ。

 ウィリアムが群像では無く紀沙を選んだのは、その点を重視したからだった。

 これにも、紀沙はなるほどと思った。

 確かに、そう言う見方をするなら群像達は選べないだろう。

 

 

「もう1隻の……白鯨については、申し訳ないが我々には必要ない。似たような原子力潜水艦なら私達も開発している」

 

 

 まぁ、それも道理。

 霧の水上戦力に潜水艦が有効である以上、各国の開発コンセプトが似通っていても不思議は無い。

 アメリカが白鯨級と同種の潜水艦を開発していても、それはむしろ当然と言えた。

 

 

「我々に必要なのは国への忠誠心に富み、国民への責任感に溢れ、国と国民のためならばどんな危険にも飛び込む勇敢さを持った人間だ。そう、まさにキミ達のような」

「矛盾していませんか? ミスター・ウィリアム、貴方の言が正しいなら、私達の忠誠の対象は日本です。アメリカにつくと言うことは、祖国を裏切ることと同義ではありませんか?」

「ふむ、確かに。しかし、例えば日本政府がキミ達にそれを命じるとすればどうかな?」

「は?」

 

 

 日本政府の命令があれば、アメリカへ移っても裏切りにはならない。

 確かに言葉だけを見ればその通りだろう、紀沙が指摘した矛盾も消える。

 だが、そんなことはあり得ない。

 日本政府がむざむざ霧の艦艇をアメリカに譲るなど、何のメリットも無いことだからだ。

 

 

「我々はかつて、日本政府が自軍へ在日米軍を編入するのを快く認めた。その借りを、今返してほしい」

「……!」

 

 

 それは、確かに盲点だった。

 その意味では、確かに日本はアメリカに借りがある。

 借りは返さなければならない、それは外交の常識でもある。

 何より、日本が今まで存続して来られたのはアメリカの援助のおかげなのだ。

 それを指摘(援助打ち切りを示唆)されれば、日本政府は首を横に触れるかどうか。

 

 

「……辛いのはわかる、私もキミの立場であれば躊躇しただろう」

 

 

 紀沙の苦悩を読んだかのように、ウィリアムは何度も頷いた。

 

 

「しかし、これは必要なことなのだ。日本政府にとってもそうだろうが、我々にとってもイ404とキミ達の戦力は必要となる。霧への反攻作戦のためにはな」

「反攻、作戦?」

「そう、反攻だ。私が大統領に就任し次第、来年中にも霧の北米方面艦隊に対して攻勢に出るつもりだ」

 

 

 日本がそうであるように、アメリカも対霧の計画を持っている。

 それもまた、当然のことだ。

 だが日本の計画が実行の目処すら立っていない状況なのに対して、ウィリアムの言う計画はすでに実行段階に入っていると言うのだろうか。

 

 

「キミがまだ日本軍の一員である以上、詳しいことは話せない。しかしキミ達と量産された振動弾頭、そして我々の計画を合わせれば、少なくとも霧の北米方面艦隊の主力は壊滅させられると確約する」

 

 

 霧の一方面艦隊を壊滅させる。

 霧の艦艇を擁していた日本に、そして他の国々に出来なかったことが、アメリカに出来るのだろうか。

 いや、アメリカだからこそ、と言うこともあり得る。

 

 

「<太平洋の(オペレーション・)夜明け作戦(パシフィック・ドーン)>、軍はそう呼んでいる。日本政府より振動弾頭量産の打診があった頃より計画されていた作戦案だ。そして、振動弾頭の量産が完了すると同時に発動される。ただ、今のホワイトハウスはこれを承認するつもりが無い。何故なら、エリザベスは霧と戦う気が無いからだ」

 

 

 そう言って、ウィリアムは1冊のパンフレットをテーブルに投げ置いた。

 数ページに満たないそれにはエリザベス大統領の写真と共に、今回の大統領選挙の政策綱領が書かれていた。

 いわゆる選挙公約と言うものだろう、その安全保障の項目にこう書かれている。

 

 

 ――――()()()()()()()()()()()、と。

 いたずらに軍備増強に走るのでは無く、今後の海洋との付き合い方を冷静に考えるべきだと書かれていた。

 それは見るべき者が見れば、何を意味しているかは容易に想像できる書きぶりだった。

 そして軍の反攻作戦案にサインしないと言うウィリアムの言を信じるのであれば、答えは1つだ。

 

 

「エリザベスは、霧との共存を目指している」

 

 

 紀沙は、右目を見開いた。

 それは、紀沙にとってはある意味で決定的な事柄だった。

 

 

「私達は同志だ、そうだろう? キミも霧に思うところがあるからこそ、危険を犯して太平洋を渡ったはずだ。想いは同じ、どうか霧を倒すために祖国を離れると言う泥に塗れてほしい」

 

 

 同志、想いは同じ。

 霧を倒し、自由で平和な海を取り戻すこと。

 ウィリアムと彼を支持するアメリカ軍には、そのための具体的な計画がある。

 自分が協力すれば、不可能ではなくなると言う。

 

 

 膝の上で、紀沙はいつの間にか自分が掌を握っていることに気付いた。

 掌に、汗が滲んでいる。

 脳裏に、群像達やイ404のクルー達、そして日本で自分を待っているだろう北の顔が浮かんでは消えていった。

 

 

「さぁ」

 

 

 そして、もう1人。

 紀沙の脳裏を掠めたのは、自分は紀沙の(フネ)だと言う銀髪の少女の顔だった。

 

 

「答えを聞こう、キサ・チハヤ艦長」

 

 

 スミノの手が自分の顔を、左目のあたりを撫でたような気がした――――。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
引き続きアメリカ編、トップ自ら引き抜いていくスタイル(え)
ここいらは、原作の北議員のシーンを回した感じでしょうか。

あと全年齢版ですからね、穏当な表現が求められます(え)

それはそれとして、もう少しキャラクター間の関係を掘り下げたいですよね。
学院編とかもやりたいですし、どこかで番外編みたいなものを展開しても良いかもしれません。

それでは、また次回。

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