蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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注意)
食事中・食事制限中等、食事関連に事情をお持ちの方はご注意下さい。
不快な描写が入る可能性があります。


Depth027:「暴食」

 誰もが、異常を感じていた。

 州政府とサンディエゴ市の連名で外出禁止令が出され、ネットでは郊外で爆発があったことを示す画像が引っ切り無しに投稿されている。

 窓の外で軍用車が走り、兵士達が駆けている音を聞きながら、人々は家族と身を寄せ合っていた。

 いったい何が起きているのだろうと、不安に思いながら。

 

 

「千四百二十一、千四百二十二……ん?」

 

 

 そしてそれは、サンディエゴ沖の海底に潜む者()にとっても同様だった。

 イ15ことトーコは、発令所の天井からぶら下がって屈伸すると言う脅威の作業を中断した。

 繰り返すが腹筋では無く屈伸である。

 裾長の上着が完全に捲れ上がって、サラシで隠されていないおへそや背中が剥き出しになっていた。

 

 

「何だぁ? 急に上が騒がしくなったっスね」

 

 

 トーコは、コロナド半島の麓とでも言うべき海底に身を潜めていた。

 だからこそ良くわかったのだが、すぐ頭上で何かが動いていることに気付いた。

 何かあったのだろうか。

 そう首を傾げながら、トーコは天井(足元)を見つめていた。

 

 

「ははぁ、あれがアメリカの早期警戒管制機(エーワックス)と言うものですか」

 

 

 そしてもう1隻、トーコを観察ついでに同海域に留まっていた艦がいた。

 霧の駆逐艦『ユキカゼ』である。

 着物の袖で口元を隠す仕草をしながら、彼女はトーコからそう離れていない位置からそれを見ていた。

 トーコが感知した海上の気配は、アメリカ軍の軍用航空機だ。

 メンタルモデル保有艦としての経歴が短いユキカゼにとっては、珍しかったのかもしれない。

 

 

 普段は哨戒や警戒でも沿岸までしか飛ばない航空機が、今は海上に出て来ている。

 霧との大海戦後に建造された新鋭機だが、もちろん霧の艦艇に対抗できる装備は持っていない。

 振動弾頭も量産されていないのだから、当然のことだった。

 そんな彼らがあえて海洋に出てくる理由は、1つしか無い。

 

 

「勇敢だな、霧に立ち向かおうと言うのか」

 

 

 そしてトーコとユキカゼの潜むコロナド半島からさらに遠く、ゾルダンとU-2501もサンディエゴとその沖合いで起きている異常を観測していた。

 先の2隻とは異なり観測能力に優れた彼らは、()()()()に入ることなく観測を行うことが出来る。

 

 

「さて、千早兄妹は何やら面白いことになっているようだが」

 

 

 発令所の戦略モニターに映る()()を見つめながら、ゾルダンの口元は笑んでいた。

 高みの見物、今の彼らを表現するならそう言うことになるだろう。

 

 

「さしもの彼らもここで彼女達の参戦は予想していないだろう」

 

 

 どうなるかな、と呟く視線の先、サンディエゴ沖に横並びに展開する艦群がモニターに映っていた。

 もちろん、今の時代に外洋から陸地に迫る艦隊など1つしか無い。

 そしてここはアメリカ、つまり展開している艦隊は――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 霧の北米方面太平洋艦隊は、その勢力を急速に回復させつつあった。

 旗艦『レキシントン』の回復が終わったためで、それまで微妙にズレが生じていた太平洋艦隊の艦艇間の連携もスムーズに行くようになった。

 このような調整が必要になったあたり、霧の艦艇が個々に意思を持ち始めていることの証左だった。

 

 

「さて、人間どもはどう出ると思う?」

「頑張られる方が面倒だから、何でも良いから出てきてくれると良いのだけれどね」

 

 

 そして今、サンディエゴに向かっている艦隊を率いているのは大戦艦『ミズーリ』と海域強襲制圧艦『サラトガ』だった。

 伴うのは重巡洋艦級2隻、軽巡洋艦2隻、駆逐艦4隻、潜水艦2隻、補給艦2隻である。

 霧の艦艇1隻の戦力を思えば過大だが、標的艦の戦果を思えば過剰では無い。

 

 

「頑張る? 何を頑張るんだ、奴らが余所者の日本艦隊を守るとも思えないがな」

 

 

 飛行甲板に立っているのはサラトガのメンタルモデルで、黒いシスター衣装が特徴的な女性だ。

 ただし丈が超が付く程に短く、肩や背中を晒す露出の高い服装で、少なくとも聖職者には見えない。

 そのくせ頭巾(ウィンプル)とベールだけはきっちり着けているのだから、肌を見せたいのかそうでないのか良くわからなかった。

 

 

「人間と言うのは言う程に合理的でも無いし、言われる程に感情的でも無いものよ」

 

 

 自身の艦橋の上で、海風に揺れる紫の髪を押さえているのはミズーリだ。

 視線の先には、十数キロ先にまで迫ったアメリカ大陸の東海岸がある。

 ここまでの距離に近付くのは、ミズーリやサラトガにとっても初めてのことだ。

 

 

 レキシントン自身は、ここには来ていない。

 ミズーリ達が止めたと言うのもあるが、レキシントン自身の関心がアメリカから離れていると言うのもある。

 ただ、それはそれとして止めておかねばならないだろう。

 そう思うと溜息が出てくるが、ミズーリはこれもハイクラスの艦艇の役目と言う風に受け止めていた。

 

 

「いずれにしても、このままゆっくりと近付いて圧力をかけよう。何、すぐに根を上げるさ」

「そうだと良いけど」

 

 

 勇ましい僚艦に視線を向ければ、悠々と航行する巨艦が目に入る。

 ただし、ミズーリも同様に巨艦だった。

 

 

「根を上げずに立ち向かってきた場合は?」

「――――答える必要があるのか?」

 

 

 無いわ、と、ミズーリも即答を返した。

 視線を正面に戻せば、メンタルモデルの肉眼でも、もうサンディエゴの影を見ることが出来る。

 夜闇の中だとしても、霧のメンタルモデルの目が見逃すことは無い。

 この闇の下、人間達は何を思っているのだろうかと、ミズーリはふとそんなことを考えるのだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アメリカ合衆国は、民主主義国家である。

 独裁者の登場を防止するためのあらゆる制度が存在するアメリカだが、一方で緊急時においては大統領がほぼ独断で事態を解決することを許している。

 もちろん、それは大統領に極めて重い責任を課すと言うことと同義であった。

 

 

「敵艦隊は我が国の領海まで約10海里の地点を航行中で、なおも東進中。速力は約10ノットと低速ではありますが、こままでは1時間もせずに我が国の沿岸に到達します」

 

 

 その報告を、エリザベスは内政、外交、国防、情報担当の閣僚や軍関係者らと共に聞いていた。

 場所はホワイトハウスの地下会議室(シチュエーションルーム)、狭苦しいワンルームマンションの一室のような場所に10人程の人間が膝つき合わせて座っていた。

 地下のためもちろん窓は無い、冷房が無ければうだるような暑さに参ってしまっていただろう。

 

 

 壁面モニターの照明が参加者の顔を薄く照らし、深刻な表情を浮かび上がらせている。

 レーザーポインタを持った首席補佐官が状況の説明を終えた後なだけに、深刻さは一層拍車がかかっていた。

 何しろ、霧の艦隊が陸地に近付いてくるなどこの17年間無かったことだからだ。

 

 

「すでにサンディエゴ及びコロナド海軍基地の司令官らは麾下の艦隊に第一種戦闘配備を発令しており、管制機を出しています。ただしこれも敵艦隊に察知されている可能性が高く、いつ撃墜されてもおかしく無い状況です」

 

 

 遥か大陸の反対側の出来事でも、大統領の下には全ての情報が届くようになっている。

 すでにサンディエゴ周辺の住民には外出禁止令が出されているようだが、むしろ避難命令の方が必要かもしれなかった。

 何しろ、敵が来るのだから。

 

 

「狙いは日本艦隊、でしょうな」

 

 

 国防長官の重々しい呟きは、同時にその場にいる全員の見解だった。

 むしろこれで日本艦隊――より言えば、イ号潜水艦と振動弾頭――以外に原因があるのだとすれば、教えて欲しいくらいである。

 ぎし、と、エリザベスは椅子の背もたれを軋ませた。

 

 

「大統領。敵艦隊の詳細は未だ不明ですが、衛星写真によれば大戦艦を含む1個艦隊とのことです。そして敵艦隊の目的が日本艦隊にあるのであれば、我々が取り得る方策は2つしかありません」

「……日本艦隊を守るか、引き渡すかね」

「仰る通りです、大統領。サンディエゴの我が太平洋艦隊は精強ですが、霧が相手となれば……」

 

 

 重い、本当に重苦しい空気がその場を包み込んでいた。

 目を伏せながら、エリザベスも深く溜息を吐いた。

 

 

「……引き渡すべきではないか? いや、そもそも彼らは振動弾頭とデータを持って来ただけだ。それをすぐに引き取り、そのまま出航させれば良い。我々が引き渡す必要すら無い」

「それは余りにも人道に反する行為だ! それに日本は我々の同盟国だぞ」

「だが他国の艦隊のために、我が国の艦隊と国民を危険に晒せと言うのか! それとも軍には勝算でもあるのか?」

「それは……しかし、日本艦隊を引き渡したからと言って奴らが引き下がる保証も無いんだぞ!」

「ならどうすると言うのだ、今日をアメリカの滅亡記念日にでもすると言うのか!?」

「貴様……!」

「いずれにしてもです、大統領」

 

 

 白熱しかけた場を強い口調で押さえて、首席補佐官が言った。

 こう言う時に言葉に圧力を乗せられると言う一点を評価して、エリザベスは就任以来この首席補佐官を替えたことが無い。

 ちなみにそれはアメリカ政治の中では凄いことなのだが、今は関係が無かった。

 

 

「戦うか、退くか。現地の司令官は早急な命令を求めています。大統領、ご決断を」

 

 

 アメリカ合衆国大統領は、地球上で最強の権力を有している。

 そう口さがなく言う者も多いが、それは誇張ではあっても言い過ぎでは無い。

 人類最強の軍隊の最高司令官たる大統領は、その決断1つで数億人の命を左右してしまう。

 

 

 ふと、エリザベスは左右を見渡した。

 そこにはもちろん会議の出席者の顔ぶれがあるわけだが、彼女が探した顔はそこには無かった。

 夫であるロバートはここに入る資格が無いためで、それは彼女にとって酷く心細いことだった。

 しかし大統領は彼女だった、夫では無い。

 

 

「…………」

 

 

 だから、エリザベスは決断した。

 アメリカ国民に与えられた絶対の権力を、振るうために。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この忙しい時に、どいつもこいつも面倒なことをしてくれるものだ。

 『マツシマ』の狭苦しい発令所――そもそも、人が常駐するように出来ていない――の中で、ヒュウガはだらだらしていた。

 ヒュウガはこう見えて、基本的に人が見ていない場所ではだらける性格(たち)である。

 

 

「姉さま、どうやらアメリカの太平洋艦隊が出撃するようです」

 

 

 イ401においては、イオナ自身がナンバー2と目されている。

 他のクルーの総意がそうなっているためで、一種の信頼関係で成り立っているとも言える。

 そしてイ401を含む4隻、いわば<蒼き艦隊>全体として見た場合においては、ヒュウガが事実上のナンバー2として機能する場合がある。

 

 

 もちろんヒュウガはイオナに従うため、全体においても実際のナンバー2はイオナだ。

 ただイオナは最前線に出ることが多く、『マツシマ』ら支援艦の状態にまで気を配れない。

 群像も、どちらかと言えば目の前の戦況に集中するタイプだ。

 そう言う時に艦隊の頭脳としてイオナの右腕として、あるいは群像の参謀として動けるヒュウガは、実は当人達が思っている以上に群像達の生命線であるのかもしれなかった。

 

 

「スミノの方からも、何の連絡も入って来ません」

 

 

 そしてヒュウガの目と耳は、すでに基地中に張り巡らされている。

 大戦艦級の演算力を持ってすれば、基地の情報システムの1つや2つを掌握することは難しくない。

 だから今、ヒュウガはコロナド基地が慌しく稼動を始めていることに気付いていた。

 いくつかのドックはすでに開き、海上へと艦艇を乗せたリフトが上がり始めていた。

 

 

「サンディエゴ市内の外出禁止令は継続中ですが、アメリカ政府はシェルターへの避難命令を準備しているようです」

 

 

 明らかに、基地全体が臨戦態勢に入りつつある。

 それがヒュウガには良くわかった。

 もちろん彼女は、サンディエゴへ近付きつつある霧の太平洋艦隊の存在にも気付いている。

 アメリカ艦隊がそれを迎え撃つために出撃することも、そして彼らが霧の艦隊に勝てないだろうことにも気付いていた。

 

 

「現状、アメリカ政府から我々と白鯨に対して協力要請は出されていません。おそらく、アメリカ艦隊は自分達の力だけで霧に対抗するつもりのようです」

 

 

 こちらが取り込み中であることを知っているためか、あるいは別の思惑があるのか、アメリカ側から日本艦隊に支援の要請は無い。

 霧と戦うなら自分達の力が要るはずだが、何か考えがあるのだろうか。

 まぁ、ヒュウガにとっては面倒が無くて良いが、基地が壊滅して生き埋めになるのもそれはそれで嫌だった。

 

 

 つまるところ、ヒュウガの手元には「とにかく大変」と言うような情報が山積していた。

 多くはヒュウガ個人にとってはどうでも良いが、日本艦隊としては無視できないと言う情報だった。

 そしてヒュウガの報告を聞いたイオナは、多くは返さなかった。

 

 

『ヒュウガ』

「はい、姉さま」

 

 

 イオナの返答は、たった一言だった。

 

 

『群像が動く、準備だ』

「……わかりました」

 

 

 不意にしゃんと立ち上がり、ヒュウガは両手を上げた。

 するとまるで指揮者に応じるオーケストラのように、円形の発令所に光が灯った。

 機関にエネルギーが供給される重厚な音が響き始め、『マツシマ』が目を覚ました。

 

 

「システムオールグリーン。『マツシマ』『ハシダテ』『イツクシマ』、機関始動。基地の昇降システムとリンク、出撃体勢へ」

 

 

 1つだけ、ヒュウガが面白くないと思うことがあるとすれば。

 敬愛するイオナが、千早群像と言う人間の少年を信じ切っていることだった。

 多分、自分よりもずっと。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ウィリアムは、妻帯したことが無い。

 これはアメリカ人、特に上流階級に属するアメリカ人にとっては珍しいことだった。

 若いキャスターやモデルと結婚するとまでは言わなくとも、彼のような成功した人間は結婚の一つや二つは経験していてもおかしくは無い。

 

 

 ただそれは個人の心の問題なので、他人がとやかく言うことでも無かった。

 ここで重要なのは、ウィリアムが本当の意味で妻帯者の気持ちを理解できないと言うことだ。

 具体的には、ニナと言う妻を持つジャンの気持ちについて。

 

 

「いつものことだが」

 

 

 食堂から締め出される形になったウィリアムとジャンは、通路で雑談していた。

 酒や煙草の1つもあれば良かったのだろうが、ここは州軍とは言え軍事施設である。

 定められた場所以外での飲酒や禁煙は厳しく制限されており、たとえ大統領だろうとこれを破ることは許されないと言うのが、アメリカと言う国の妙に真面目なところだった。

 

 

「お前の奥方は少々、アグレッシブに過ぎるのでは無いかね」

「はは。まぁ、今のところ訴訟で負けたことは無いので」

「それを大統領候補(わたし)の前で言うのかね」

 

 

 袖を引けば、腕時計が締め出されてすでに小一時間が経ったことを教えてくれる。

 30分程前か、キャンセルし忘れていた夕食が運ばれてきた。

 ニナの要望で()()()の料理は食堂の中だ、よってウィリアム達は夕食を食べ損ねている。

 仕事柄そんなことは多々あるので慣れたものだが、食堂からたまに漏れ聞こえてくる声を思うと、食欲も無くなってくると言うものだった。

 

 

「……私だ」

 

 

 その時、ウィリアムの携帯端末に電話がかかって来た。

 基地司令官からの通信であって、メンタルモデル襲撃の後始末の件だろうと思っていた。

 

 

「何?」

 

 

 ところが、どうも様子が違うらしい。

 

 

「トラックだと? 何の話だ」

『それが、15分程前に検問を強行突破したと……』

 

 

 司令官の話によると、基地外縁の検問所の1つでおかしな事態が起こったらしい。

 トラックが1台検問所を猛スピードで走り去ったと言うのがそれで、突破された検問所は基地襲撃に先立って何者か――おそらく、基地を襲撃したメンタルモデルだろう――に制圧された場所だった。

 つまり道なりに来れば、この基地にまで時間を置かずに達することになる。

 

 

『申し訳ございません。すぐに部隊に派遣して』

「……いや、良い。それは放っておけ、なるべく邪魔をしてやるな」

『は? それはいったいどう言』

「それよりもヘリを回せ、ワシントンに戻る。すぐにだ、ではな」

 

 

 それ以上の返答を聞く気が無かったのか、ウィリアムは通話を一方的に切った。

 胸ポケットに携帯端末をしまっていると、ジャンの視線に気付いた。

 すると、彼は肩を竦めて言った。

 

 

「僕の商談はどうなるのかな?」

「お前は口を開けばそれだな、たまには私のために何かしようとは思わんのか」

「誰かのために何かをするには、僕の時間(マネー)は限られているからね」

資本家(キャピタリスト)め」

政治家(マキャベリスト)には負けるよ」

 

 

 不意に、2人は言葉を止めた。

 食堂の扉――性格には、その室内――からまた声が漏れ聞こえて来たからで、会話とも呻きとも取れるその声に、ウィリアムは咳払いをした。

 

 

「まぁ、私にしろエリザベスにしろ根っこは同じだ。どちらが勝つにしろ、振動弾頭の量産事業は確実に行われる」

 

 

 後は、事業主が誰になるかと言う問題でしか無い。

 単独で行える企業は存在しないから、複数の企業が組んで行うことになるが、公共性の高さから政治側が口を出せるような形になるはずだ。

 その時、政財両面に口を出せるジャン達「財団」の存在は重要だった。

 

 

 そしてジャンにとっては振動弾頭量産事業に口を出す財団は少ない方が良いし、ウィリアムにとっても良く知っている相手の方が良い。

 エリザベスは財界との距離が遠いタイプの大統領だから、特にそうなる。

 極端な話、取引次第ではウィリアムは大統領にならなくとも事業に影響力を持てるのである。

 

 

「あの娘がお前の奥方との()()()()()()()してサインすれば良し、仮にしなくとも」

「しなくとも?」

「理解はするだろう」

 

 

 肩を竦めて、ウィリアムは言った。

 

 

「これから先、今の状態では国際政治と言う名の怪物に対処することは出来ないとな」

 

 

 それは、ウィリアムが常々自分に言い聞かせていることでもあった。

 どこへ行くにも十数人以上の護衛がつく大統領候補の、それは処世術であったのかもしれない。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 暴食(グラトニー)

 八つの枢要罪、あるいは七つの罪源。

 西方教会(カトリック)によれば、堕落と死に向かう許されざる感情・行動の1つである。

 

 

「でも私は思うのだけれど、罪に堕ちた本人こそが最も苦しんでいるのでは無いかしら?」

 

 

 まるで宗教家のようなことを言って、ニナは手にしていたフォークを左右に揺らした。

 彼女の手元にはサラダやスープ、分厚いステーキにデザートまでがそれぞれ瀟洒なデザインのお皿に盛り付けられた料理の数々が並んでいた。

 同じ物が4つずつあり、それが4人分の料理であることがわかる。

 

 

 と言って、ニナが食事をしている様子は見えない。

 彼女の口元は全く汚れていないし、ルージュも擦れていない。

 にも関わらず、すでにフォークの先端がステーキのソースで汚れていた。

 何故か?

 

 

「そう、例えば今の貴女みたいに」

「げほっ、うぇ……っ」

 

 

 答えは単純、すでに食べている人間が――紀沙がいたからだ。

 ただし本人は後ろ手に縛られたままだから、ニナが食べさせる形を取っている。

 いわゆる「はい、あーん」状態だが、今の紀沙の状態はとてもでは無いがそんなのほほんとしたものでは無かった。

 

 

「ああ、もったいない。これ一切れで何ドルすると思っているの?」

 

 

 顔は白く見える程に蒼ざめており、額には玉の汗が滲んでいる。

 熱病に浮かされているような症状に聞こえるが、原因は別にあった。

 胃が張り、ソースで汚れた口元から透明な雫がぽたぽたと垂れ、膝の上や床に長さ10センチ厚み5センチ程の肉の塊が落ちているのが見える。

 

 

「も、もう、無理……」

「あらダメよ、まだ1人分残っているんだから」

 

 

 顔を背けようとする紀沙だったが、すっと伸びて来たニナの手がそれを許さなかった。

 親指で器用に唇を割り開き、そこにステーキを刺したフォークを押し込む。

 一切れが大きく、無理に押し込もうとすれば顔中を汚すことになる。

 膝や床に落ちているのは、その攻防の果てに紀沙が落としたものだろう。

 

 

 そしてニナが腰掛けているテーブルには、空になったステーキの皿が合計で3人分ある。

 1ポンドのステーキを3人分、それも女性の小さな胃に詰め込む。

 まるでフォアグラだ。

 しかも、メインの肉料理だけでは無い。

 

 

「喉も渇いたでしょう? スープは熱いから気をつけてね。それからサラダも食べなくちゃ、ベジタリアンになる必要は無いけど美容に良いからね。ああ、安心してね、デザートもあるから」

「む、ぐ……や、やめ……ぷぁっ、はぁっ、あむぅ」

「はい、お肉よ。美味しいでしょう。カリフォルニアの牛は私も大好きなの、脂が乗っていてね」

「む、無理。もう、もう入らな。うぁ、む、むううぅ……!」

 

 

 痛みは覚悟できる、苦しみもあるいは我慢できる。

 だが、()()()と言うものは想定していなかった。

 口の中に次々に食べ物を詰め込まれ――どれも日本で食べたことが無い程に美味で、そして高カロリーだ――飲み込むか吐き出すか以外に方法が無い。

 

 

 しかも食べ物を押し込まれてスープを飲まされ、口を塞がれることもある。

 そう言う時には飲み込むしか無いが、すでに喉元まで食べ物が逆流しているような錯覚を覚えていた。

 加えて言えば、すでに胃が痛みを発し始めていた。

 余りにも短時間で食べ物を押し込んだからで、余りの満腹感に意識が朦朧(もうろう)とさえし始めていた。

 

 

「無理じゃないわ、まだたったの3人分。食べ物を残すなんてとんでも無いことだわ」

 

 

 でも、と、ニナは料理の皿の横に置いてある書類に目をやりながら。

 

 

「あれにサインしてくれたら、残りは私が食べてあげても良いわ」

 

 

 喋りながら、ニナは笑みを深くした。

 涙と涎と料理のソースでぐちゃぐちゃになった顔、その右目の鋭さに笑んだのだ。

 紀沙の右目は、未だ拒否の色を消していない。

 勇ましいことだ。

 ――――ぐちゃぐちゃにしてやりたくなる。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 飲み込む、吐き出す。

 それを交互に行う中で、紀沙の意識は少しずつ白く濁って来ていた。

 正直なところ、料理の味はもうわからなくなっていた。

 喉を詰めずに済んでいるのは、ニナの手加減が上手いと言うことなのか。

 

 

「はい、お口を開けて頂戴」

 

 

 何とか飲み込んでも、両頬を手指で押さえられて口を開けられ、スープを流し込まれる。

 ごぼごぼと言う音は、まるで溺れているかのよう。

 激しく咳き込んで吐き戻しても、無理矢理に顔を上げられてお肉を押し込まれた。

 自分の呼吸が擦れて聞こえるのは、おそらく気のせいでは無い。

 

 

(し、死んじゃう……)

 

 

 誇張では無く、そう思った。

 そしてそれは大げさでは無かった、急速な食物の摂取は死に直結することもある。

 だから紀沙が死の恐怖を感じたのは、身体が脳に危機を伝えた結果であると言える。

 

 

「サインする?」

 

 

 辛うじて、それには首を横に振った。

 そこだけは、どうにか意識を保った。

 ただそれをすると、口に詰め込まれる料理の量が増える。

 唇の端に指を差し込まれているので、ボタボタと涎が垂れるのも屈辱的だった。

 

 

 限界が近いと、そう思った。

 それがどう言う類の限界なのかはわからなかったが、とにかく、限界だった。

 もう何分、何時間こうしているのか、紀沙の意識は混濁と浮上を繰り返していた。

 

 

「…………」

 

 

 ニナの言葉も、余り理解できなくなっていた。

 

 

(たすけて)

 

 

 心の中で、助けを求めた。

 誰に対しての物かもわからない、とにかく助けて欲しいと思った。

 そうでなければ。

 そうでなければ、このまま自分はここで――――。

 

 

「……?」

 

 

 ニナが何を思って()()思ったのかは、わからない。

 ただ、彼女は何故か紀沙の左目の眼帯を外したのだ。

 花のコサージュのついた、ドレスと一緒に貰った眼帯を。

 

 

 そして、紀沙は気付いていなかった。

 この時ニナが紀沙の眼帯を外したのは、好奇心と言うより、眼帯の下が気になったからだと言うことを。

 誰でも、気になるだろう。

 ()()()()()()()()()()()()()

 

 

「な……!」

 

 

 だから眼帯を外した時、ニナがぎょっとした顔をしたのだ。

 しかし彼女がそれを言葉にすることは無かった、何故なら別の衝撃が彼女を襲ったからだ。

 

 

「な、なに?」

 

 

 最初は、小さな振動だった。

 それは徐々に大きくなり、グラスの水が音を立てて揺れる程になった。

 それから食堂の窓の外、カーテン越しに強い光が近付いてくることに気付いた。

 気付いた時には遅い、そう言う距離感で。

 

 

「ちょっ、きゃ……ぎゃあああああぁっ!?」

 

 

 ニナの悲鳴をぼんやりと聞きながら、紀沙は思った。

 壁を突き破り、瓦礫と破片と、煙を吐きながら食堂に突っ込んで来た。

 そんな中、紀沙は「ああ、もう食べなくて良いんだ」と思った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「な、何だ……?」

 

 

 メンタルモデルとの()()()の後、そのままホールの警戒に当たっていた兵士達は、突然の轟音に身を竦ませていた。

 霧のメンタルモデルを銃殺したと言う高揚感も無いでは無かったが、それも基地の甚大な被害を思えばすぐに冷めた。

 おまけに、また何かしらのトラブルが発生している様子だ。

 

 

「くそっ、疫病神め!」

「おいよせ、科学班が来るまでにそのままにするんだ」

 

 

 未だホールの床に転がっている()()に、悪態を吐きながら蹴りを入れる兵士もいる。

 他の兵士が口頭で注意していたが、実際に止めないあたり気持ちは同じらしい。

 確かに、今日と言う日は彼女達にとっては厄日だろう。

 それをもたらした元凶を疫病神と呼ぶのも、間違いでは無かった。

 

 

 ちょうどその時、基地の奥側から白衣を来た兵士達が慌しくやって来た。

 ようやく来たかと、ホールの兵士達は誰もがそう思った。

 そうして、誰もの視線が科学班の兵士達に向けられていると。

 

 

「ようやく来たね」

「ああ。これでやっとこのクソみたいな任務から」

 

 

 いや待て、と、応じた兵士は思った。

 今、自分は誰に話しかけられたのだ、と。

 

 

「やれやれ、撃たれろって言うから撃たれてあげたのに。その後は放置って酷くないかい?」

 

 

 まさか、いや、そんなことはあり得ない。

 何十発、いやもしかしたらフルオートで何百発も銃弾を喰らって、そんな馬鹿なことが。

 息が詰まる思いをしながら、兵士は先程自分が蹴飛ばしたものを見た。

 だが、見下ろせなかった。

 

 

 何故なら、そいつは肩に手を置いていたからだ。

 立っているわけでは無い、浮かんでいた。

 キラキラと輝く粒子――気のせいか、それが身体の一部になったり解けたりしているように見える――の中で、()()は「やれやれ」と言うような表情で兵士に視線を向けて来た。

 にっこりと、肌や骨の一部を欠損したままの顔で。

 

 

「ねぇ、キミもそう思わないかい?」

「う……うおおおおおおおおぉぉっ!?」

 

 

 兵士の上げた悲鳴に心地良さそうな表情を浮かべながら、スミノは笑みを浮かべた。

 ――――それはそれは、凄惨な笑みだったと言う。

 




登場キャラクター:

サラトガ : ゲオザーグ様

有難うございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

読者の皆様には申し訳ございませんが、本作品は全年齢版のため、このような描写になりました(え)
年齢指定版では満腹感じゃなく快(以下自重)

と言うわけで、次回あたりからアメリカ編の仕上げに入ろうと思います。
長々やっても冗長になりますので、どんどん畳んで行く方向で。

……次はどこに行こう。


P.S.
最後のシーンのスミノに擬音をつけるなら、間違いなく(ドドドドドド……)みたいな。
アメリカの兵士が恐怖している! みたいな。
ジョジ○の汎用性の高さよ(え)

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