その場所に星条旗と日章旗が並んだのは、実に17年ぶりのことだった。
ホワイトハウスの中でもメインとなる建物の正面には、小さな庭園がある。
この庭園はアメリカ大統領と各国の首脳が共同記者会見を開く際の、いわば定番とも言える場所で、霧との大海戦後はアメリカと陸続きでない国の旗が翻ったことは無い。
しかし今日、この場所には遥か
17年と言う月日を越えて、日本がワシントンに帰って来た。
ホワイトハウスが突如発表したその報せに、全米に激震が走った。
併せて「太平洋艦隊が霧を撃退した」と発表されたことも、衝撃に拍車をかけた。
「大統領、彼らは本当に日本艦隊の人間なのですか?」
「ええ、もちろんです。ここに彼らが立っていること、それが何よりの証拠でしょう」
アメリカ人記者の質問によどみ無く答えるエリザベス大統領の背中を、紀沙は見つめていた。
抜けるような青空の下、紀沙の視界にはアメリカの全てが映っていた。
エリザベスと並んで立つ浦上中将の背中と、左右を見れば駒城や真瑠璃たち白鯨のクルー、そしてイ404のクルー達が並ぶ、日章旗と星条旗はさらに左右に立てられている。
さらにその先に、庭園の芝生に設えられた記者席がある。
アメリカのマイナーなメディアまで招待されているらしく、エリザベス大統領の力の入れようがわかる。
そしてさらに向こう、ホワイトハウスと外を遮る柵の向こう側に多くの人々の姿が見える。
携帯端末のカメラがこちらに向けられていて、離れていても興奮の度合いがわかった。
大興奮、である。
(これが、大統領とか首相とかやる人が見る景色なんだ)
大統領、そして日本艦隊の代表である浦上の背中越しとは言え、紀沙は新鮮な気分だった。
テレビの中で北や楓首相が立っているのを見たことはあるが、実際に立って見るのとそうで無いのとでは大違いだった。
若干、見世物めいていることは仕方ないと諦める。
「我々は今日、改めて互いの同盟関係を確認しました。アメリカは今後も日本を支援し、またアメリカは日本の貢献を歓迎するでしょう」
「支援と言うと、霧との戦いについてでしょうか? それから、サンディエゴ沖での戦闘はどう言った内容のものだったのでしょうか!」
「高度に軍事的な事情を含むため、現時点ではお答えすることができません。ただ、日本艦隊の来訪によってもたらされた新たなアプローチは、実に革新的であったことは確かです」
何とも巧妙な答え方をするものである、流石に慣れている。
他のスタッフと共に夫ロバートが見守っているのが、良い効果を生んでいるのかもしれない。
ちなみに「新たなアプローチ」とは、もちろん振動弾頭のことだ。
最も、先の霧の太平洋艦隊との戦いでは振動弾頭は使われていないわけだが……。
振動弾頭のことはまだ公表したくないが、アメリカ軍の勝利は喧伝したい。
一方で日本側もアメリカからの支援増や在米日本人の待遇改善を得たいので、あえてアメリカ軍を立ててやる。
今回の公表と共同記者会見は、そう言う両者の利益が合致したから実現したものだった。
政治的目的の達成のために軍があるのなら、これはその典型例とも言える。
「あ……」
ぐるりと視界を巡らせたその時、紀沙は1人の人物が参列者の中から離れるのを見つけた。
少しの間逡巡した後、記者達の視線がエリザベス大統領に集中して――そもそも、この会見の主役は彼女なわけで――いる隙を突いて、紀沙は一歩下がって壇上の列から抜けた。
呼び止める仲間の声に手を振って謝り、紀沙はその男を追いかけた――――。
◆ ◆ ◆
「南野さん!」
庭園の端で、紀沙は南野を捕まえることが出来た。
記者会見の場とは違って周辺に人気は無く、靴が土を踏み締める音も良く聞こえた。
そうした静けさの中で紀沙の声が聞こえないはずも無く、南野はゆっくりと振り向いた。
「……南野さん」
紀沙がカリフォルニア州軍らしき特殊部隊に拉致されたのは、もう1週間前の話だ。
事の
本来ならば恨み言のひとつも言ってやるべきなのかもしれないし、言って良いのかもしれない。
けれど、不思議と言葉は出てこなかった。
静かに立つ南野の姿を見た時、何かを言う気持ちは失せてしまった。
何故ならば、南野の表情に気まずさや怯えの類が一切見えなかったからだ。
あるのは、己の行動に後悔はあっても恥は無いと言う感情だ。
心を殺してでも、自分がしなければならないと言う強い覚悟だ。
「頑張ってください」
だからかもしれない、そんな言葉が口を突いて出たのは。
流石に驚いた顔をする南野に、紀沙は言った。
「アメリカの日本人にとっては、今からが大事だと思うんです」
群像から南野の関与の話を聞いた時、紀沙が感じたのは怒りよりも哀しみだった。
それも、裏切られたことへの哀しさでは無い。
今こうして南野を見ていても、やはり怒りは湧いて来ない。
ただ、17年に渡りアメリカに取り残された男の――哀しさとしか表現できない何かを、紀沙は感じていた。
「きっと、南野さんにしか出来ないことです」
今回の一件で、エリザベス大統領は一気に株を上げた。
間近に迫った大統領選挙において、日本艦隊は大きな貢献をしたことになる。
紀沙の件も含めて、エリザベス政権は在米外国人の中でも日本人を優先して支援すると約束してくれた。
だが、その実務を実際に担うのは紀沙達では無い。
南野達、大使館員こそがその中心となるべきだった。
「……わかりました」
初めて、南野が口を開いた。
制帽を脱ぎ、深々と頭を下げる大人の男性を、紀沙はじっと見つめていた。
「この南野、身命を賭して。アメリカの日本人のために尽くす所存です」
「……はい、お願いします」
北なら、どうしただろうか。
紀沙はふと、そんなことを考えた。
ただきっと、自分よりもずっと上手く場を収めることだけは確信があった。
「最初にお会いした時は、北先生とは似ても似つかぬ方だと思いましたが」
そんな紀沙を見て、初めて南野が笑みを浮かべた。
南野が笑うところを、初めて見た気がした。
「なかなかどうして、北先生に似ておいでのようだ」
「それは、私には過ぎた言葉です」
本心だった。
1年半程を北の屋敷で過ごして、厳格な北の姿を誰よりも近くで見てきた。
誰よりも厳しく、そして誰よりも優しい。
いろいろな話を聞いたが、余り身になっていなくて申し訳なく思うくらいだ。
あるいは、群像なら……兄ならば、もっと上手く対処するのだろうか。
あえて今日の式典に姿を見せず、サンディエゴに留まった群像。
群像の目には、自分には見えていないものが見えているのだろうか。
◆ ◆ ◆
カリフォルニア州が朝の時、日本はまだ未明だ。
にも関わらず、北は起きていた。
視線の先にはモニターがあり、そこにはアメリカから全世界に生中継されている映像が映し出されていた。
『さて、これでアメリカとの約束は果たしたことになりますね』
「振動弾頭の量産についても、目処が立ったことになります」
他に楓首相と上陰次官がいて、3人は総理執務室のソファで向かい合う――もちろん、楓首相は車椅子だが――形で座っていて、共にアメリカで行われている記者会見を聞いていた。
眠そうな様子は見えず、内心では興奮や高揚を覚えているのかもしれない。
一方で喜んでいる様子も見えず、表情だけで胸中を測ることは難しかった。
しかし、振動弾頭移送計画は彼らの目論見通りに進捗した。
むしろもう少し時間がかかると思っていただけに、上出来ではある。
何しろ通信もままならない状況だ、本国で待っている側も精神を磨り減らす日々を送っていた。
アメリカからの「日本艦隊到着」の報せは、彼らにとっては待ちに待った報せだった。
そして計画を知らなかった、世界中の多くの人々に希望をもたらす報せでもあった。
「とは言え、懸念材料が無いわけでもありません」
上陰の言う通り、順風満帆と言うわけで無い。
色々と問題は多い、そしてその中でも特に注意を払わなければならないことが。
「蒔絵のことですね」
先程、3人と言ったが――実はこの場にはもう1人、執事服を着た長髪長身の男がいた。
いや、今はローレンスが彼の本名と言えるのかもしれない。
そして彼が口にしたのは、
「そして、眞のことだ」
刑部眞、彼の
管轄は北海道、いわゆる北管区と呼ばれている地域である。
『北海道の事件は、私にとっても想定外だった。まさか霧があの人のところに向かうとは』
「思えば、興味を持たれて当然と考えておくべきだったのかもしれません」
楓首相の吐息混じりの声に、上陰が頭を振った。
それを耳にしながら、北は腕を組み、じっとモニターを見つめていた。
聞こえてくる会話は彼にとっても無視できないものだったが、それよりも、いやだからこそ、北はモニターを見つめているのだった。
「…………」
けれど、いくら探しても、彼が良く知る少女の姿を見つけることは出来ないのだった。
◆ ◆ ◆
そしてもちろん、
太平洋以外の霧の艦隊は概ね静観の構え――興味が無い、と言い替えることも出来る――だが、一方で太平洋を管轄とする艦隊は、苦々しい心地でこれを見ていた。
ことに、日本艦隊と直接刃を交えた者達にとっては。
「
北米方面太平洋艦隊旗艦『レキシントン』は、自らの艦内でそう言った。
梯子付きの書棚と無数の本、化学薬品らしき物が入ったビーカー類。
大学図書館と化学研究所を足して2で割ったような部屋の中で、レキシントンは空間に投影したモニターを通してワシントンの共同記者会見を見ていた。
ピクピクと震える眉は、浮かべられている笑顔が相当の努力で保たれていることを物語っていた。
事実、手にしているマグカップの
つまり、彼女はかなり怒っていた。
屈辱を受けている、と言う言い方をしても良い。
「もう一度、無事に太平洋を――――」
「――――渡れるとは思うなよ。イ401、イ404……!」
時をほぼ同じくして、似たような言葉を吐いたメンタルモデルがいた。
それは北米方面では無く、日付変更線を跨いだ極東海域にいた。
全長200メートルを超える巨大な艦体の色は黒、未明の海上に溶け込むかのように航行していた。
眼鏡にブレザー制服に生徒会の腕章を身に着けたメンタルモデル、ヒエイである。
ガリ、と親指の爪を噛み締めながら、やはりモニターを見つめている。
そんな彼女を心配げな表情で見つめているのは、寄り添うように航行する『ナチ』だった。
そのメンタルモデルは、憂いを帯びた瞳でヒエイの背中を見つめていた。
「……行きましょう……」
そして、霧の艦隊から離れた霧達もその映像を見ていた。
下北半島の東、津軽海峡を抜けて太平洋に出る海域に、彼女達はいた。
数隻の艦艇が縦に並んで航行しているが、
艦橋の上に横並びになった9人のメンタルモデルは、皆、一様に黒い衣装に身を包んでいた。
轟音が、夜空に轟く。
主砲の1つが仰角を上げ、空砲を撃っていた。
数は、偶数。
自らが撃つ空砲の中、タカオは膝をついた体勢から立ち上がった。
そんな彼女の足元には、花と、箱と、そして――――……。
「あの兄妹のところへ」
タカオの空砲が、夜の海を震わせていた。
◆ ◆ ◆
ホワイトハウス、それも
日本人となれば、それこそ歴史上稀なことだ。
そしてその稀な例に、紀沙はなった。
「紅茶で良かったかしら」
「あ、はい。お構いなく……」
まして大統領手ずからお茶を淹れて貰うなど、史上初であったろう。
執務室のソファに座りながら、紀沙は緊張していた。
室内には大統領と自分だけだ。
一応、軍礼装を身に着けているが、はたして大丈夫なのだろうか。
もちろん、お茶をするためだけに呼ばれたわけでは無い。
今日から振動弾頭引き渡しに関する協議が始まるのだが、それに先立っての呼び出しだ。
つまり、エリザベス大統領の問いに対して答えるべき時が来たと言うことだろう。
そして、紀沙にとってはそれこそが最大の難問だった。
「それで、どうだったかしら」
紅茶のセットを手に、エリザベスは微笑んだ。
紀沙の手元に紅茶のカップとソーサーを置き、首を傾げて見せる。
「貴女から見て、
紀沙の目に、アメリカと言う国はどんな国か。
ワシントンはほとんど見ていない――近郊の空軍基地からヘリコプターで敷地内に降りた――ので、紀沙のアメリカの判断基準はサンディエゴだ。
正直、今思い返しても良い記憶は少ない。
何しろ拉致されたのだから、良い感情を抱くはずも無かった。
ただそれを覗けば、観光らしい観光をしたと思う。
人種も文化もない混ぜになった不思議な都市だった、と言う印象だ。
しかしそれを言葉にしようとすると、どうも違うような気がする。
「ええと」
「良いのよ、正直に言ってくれれば」
ことここに至っても、紀沙は相手が望んでいる答えが見出せなかった。
このままでは振動弾頭の引渡しに障る。
だが答えが見えない以上、エリザベスの言葉に甘えるしかなかった。
つまり、正直な気持ちを打ち明けるしか。
「……良く、わかりませんでした」
そもそも、何かに対して明確な感想を考えたのは初めてのことだった。
好き嫌いや得意不得意はあっても、「感じる」と言うのは別次元の話だ。
ただ、この答えでは最初に会った時と変化が無い。
ダメかと、そう思った。
「ええ、私もよ」
「え?」
だから、肯定された時は驚いた。
エリザベスは紀沙の向かい側に座って、笑顔を浮かべていた。
「アメリカは、私達アメリカ人にとっても良くわからない国です」
様々な人種と文化、宗教や風習が溶け合う社会。
自由と自立を尊び、何者かに縛られることを嫌う気風。
余りにも多様で、多面的で、アメリカに住まう人々ですら全容を理解できない国家。
アメリカ人を名乗る、全ての人々の故郷。
「だからこそ、私達はこの国を愛しているのです。誰にも把握できない、良くわからない。だからこそ希望に満ちているのだと、そう信じているから」
紅茶を置き、エリザベスは真っ直ぐに紀沙を見つめた。
「……ウィリアム氏に会いました」
ウィリアム、サンディエゴの一件に関わっていただろう大統領候補だ。
エリザベスにとっては、選挙戦を戦うライバルと言うことになる。
「サンディエゴの一件については、本当に申し訳なく思っています。非公式ではあるけれど、日本への支援と言う形でお返しさせて貰います」
「じゃあ」
「振動弾頭の量産については、アメリカが責任をもって行います。今回の日本の好意と貢献を、私達は忘れることは無いでしょう」
良かった、と、紀沙は息を吐いた。
ひとまずは役目を果たしたと言うことになるだろう、振動弾頭の量産の目処も立ったわけだ。
アメリカの豊かな工業力なら、単純な量産だけで無く、改良も進むかもしれない。
ただ、一つだけ気になることがあった。
それはウィリアムの話にも出ていたことだが、エリザベス自身の霧への姿勢だ。
ウィリアムは、エリザベスが霧との共存を目指していると言っていた。
それと振動弾頭の量産は必ずしも矛盾するものでは無いが、気にはなった。
「あの、エリザベス大統領。大統領は……その」
と言って、一介の軍人に過ぎない自分がそんなことを聞いても良いものか。
そう迷っていると、エリザベスが口を開いた。
「私、欲しいものがあるの」
「え?」
顔を上げて目にした相手の表情を、紀沙は生涯忘れないだろうと思った。
「誰も飢えることの無い、病気に悩まされることも無い、理不尽に涙することも無い世界。誰もが大切な人に寄り添って、ささやかな生活を営むことを妨げられない世界」
「それは……」
それは、とても素晴らしい世界だと思った。
理想、と言う言葉が一番当て嵌まるのだろう。
それを信じて
ただ……。
「上手く行かないことも多いけれど、でも目指す価値のある世界だと思うの」
「そのためなら…………霧とも手を結ぶ?」
「ええ」
「でもっ……!」
はっきりと、エリザベスは頷いた。
そして紀沙が何事かを反芻する前に、続け様に。
「私とロブの娘を殺した霧とも、必要なら共存してみせるわ」
海兵だったの、貴女と同じように。
続けられた言葉に、紀沙は口を噤んだ。
何も言えなかった、エリザベスの目にはそれだけの光があった。
「ねぇ、キサ」
エリザベスは言った。
――――貴女は、何のために霧と戦っているの?
◆ ◆ ◆
「もう良いのかい?」
夫の言葉に、エリザベスは「ええ」と頷いた。
エリザベスは紀沙が去った後も、テーブルの上を片付けること無く、そのままソファに座っていた。
ソファに背中をつけて天井を仰いでいる姿は、彼女がとても疲れていることを窺わせた。
「ねぇ、ロブ。私、やっぱり大統領なんて向いていないわ」
「そんなことは無いよ、キミは良くやってるじゃないか」
妻の肩に手を置いて、ロバートは言った。
労わるような夫の声音に、エリザベスの顔は幾分か柔らかくなる。
それでも、濃い疲労は隠しようも無い。
その疲労は、身体的なものよりも精神的なものが大きい様子だった。
疲労の源は、心にあった。
ロバートには、そんな妻の疲労が良くわかっていた。
だからこそ、彼はエリザベスの傍にいるのだ。
「大丈夫だよ、あの子はきっと強い子だ。僕達の娘と同じにね」
「そうね……きっと、そうね。そうだと良いわね」
先に紀沙に告げたように、2人の間には娘がいた。
海軍に所属する軍人であり、巡洋艦勤務の士官だった。
軍への女性参加が進み始めて1世紀近く、今でもアメリカ軍における士官の女性比率は高いとは言えない。
そんな中で佐官にまで昇進した娘は、きっと軍人として優秀だったのだと思う。
ただ、娘が士官学校に進学することをエリザベスは認めなかった。
そのせいで娘とは喧嘩別れになってしまって、その後長い間連絡すら取らなかった。
だから17年前の<大海戦>の時も、その戦いに娘が参加していたことを軍からの戦死通知で初めて知ったのだ。
当時エリザベスはカリフォルニア州選出の上院議員で、政府の作戦案に議会で賛成票を投じていた……。
「私があの子を殺してしまった」
「そんなことは無いよ。あの頃は、誰もが霧との戦いに賛成していたんだ」
「そんなことは理由にならないわ、事実は消えない。そして今回も、きっと」
「でも大丈夫だった。あの子は……キサ達は、霧との戦いに勝った」
「いつまで?」
涙ぐみながら、エリザベスは言った。
「いつまで勝てると言うの?」
「大丈夫、大丈夫だよ。信じよう、あの子達を。きっと大丈夫だって」
戦う限り、勝利と敗北がある。
勝利するのと同じくらいの確率で、敗北する。
そして軍事において、敗北とは死を意味する。
それを防ぐためには、戦わないで済む状態が必要だ。
そのために
妻は強く、そして弱い。
だから努めて明るく、ロバートは「大丈夫」と言い続けるのだった。
それが少しでも妻の力になるならばと、心に決めて。
◆ ◆ ◆
ワシントンでの記者会見からさらに1週間後、紀沙達はサンディエゴに戻っていた。
今度は玄関口のコロナド基地では無く、正規のサンディエゴ基地に招待されている。
先の海戦での協力と、同盟国の艦隊として公表されたことが影響しているのだろう。
「あー……何かダリィ」
「あらあらダメよトーマ君、ちゃんとお仕事しないと~」
当然、冬馬らイ404の面々もサンディエゴ基地にいる。
今は出航――いつ、どこへの出航かはまだ決定されていないが――に向けた準備を進めているところで、ハワイからサンディエゴに向かう際に消耗した物資の補給をしているところだ。
『マツシマ』からの供給に頼る侵蝕魚雷以外は、アメリカ側からの提供を快く受けている。
そう言うわけで、イ404の搬入口周辺には物資を詰め込まれた木箱が山積みになっていた。
その内の1つの上で寝転がりながら、冬馬はダラダラとしていた。
近くでデータ入力をしていたあおいが注意らしきことを言ったが、特に苦言を呈している風では無い。
「そう言や、艦長ちゃんは?」
「本国へ報告よ。アメリカに来てからバタバタしてたから、初日以後送り損ねてたみたいだから~」
「一気に情報を送れねぇから、面倒だよな」
大陸間に限らず、全ての通信は霧に傍受される危険性がある。
情報の漏洩を防止するため、統制軍の間では通信にいくつかのルールを設けている。
短文を断続的かつアトランダムに送信すると言うのが、基本的なルールだ。
場合によっては暗号を用いることもあり、受信側の解読まで含めると1つの情報を送るのにも時間がかかる。
「情報と言えば……」
「情報? ヘイ! ミーのインテリジェンスが必要ならそう言ってクダサーイ!」
冬馬が寝転がった体勢のまま視線を向けた先、そこに見慣れない男が1人いた。
肩に担いだラジオからジャマイカンな音楽がやかましく鳴り響き、日焼けした顔に丸いサングラスをかけていて、とても軍人のような身なりには見えない。
そして実際、彼は軍人では無かった。
と言うか、口調でわかるかもしれないが……。
「アンタのこと、艦長ちゃんに何て説明しようかなぁ」
「いい加減言っとかないと、どんどん気まずくなるわよ~」
彼の名は「ジョン」、群像達がエリザベス大統領に紹介された
宣言通りに日本艦隊の前に姿を現して合流、その後、イ404に乗ることになった。
自分で約束をしておきながら
問題は、紀沙自身がまだ知らないと言うことだった。
そして、意外なことが一点あった。
ジョンは情報屋が名乗った名前であり、そして彼はアメリカの情報屋だ。
だからてっきり、アメリカ人かと思っていたのだが。
「ユー達の役に立ってみせるよ、ミーは。だからミーを日本にサイトシーイングさせてね!」
金髪、しかし染めたもので、根元はすでに黒くなっている。
彼は、日本人だった。
◆ ◆ ◆
兄のこと、霧のこと、クルーのこと、サンディエゴの事件、大統領の言葉。
アメリカでの一連の出来事は、紀沙にとっては大きな負担だった。
ただその重圧も、帰還への道筋をつけていくことで少しずつ小さなものになっていった。
「えー……以上で、報告を終、わ、り、ま、す、っと」
メールを打つ時に声に出してしまう人がいるが、紀沙はそう言った人間の1人だった。
今は自分の私室で本国への通信文を書き終わったところで、後はこれを暗号化の上、
まぁ、人類の暗号が霧に対してどの程度の効果を持つのかは自信が無かった。
ただし、霧にも判読のしようの無い文面を作ること自体は比較的簡単だ。
送信側と受信側が個人間でしかわからない、合言葉や隠語である。
例えば「以前に北議員からお弁当箱から返して貰った時、水桶に浸けておくのを忘れてしまって大変でした。お弁当箱はその日の内に水桶に浸けておかないといけませんね」であれば、お弁当箱=潜水艦かつ私事の話として、「当日中に潜行状態に入ります」と言う意味になる。
「あー、疲れたー」
その分だけ、通信文の作成は大変なものになる。
解読する方も大変なので文句は言えないが、何とかならないものだろうかと思う。
霧がいなければわざわざこんなことをする必要は無いので、そう言う意味では、素直に霧を恨める。
「ねぇ」
「んー、どうしたの蒔絵ちゃん」
「……何で私を抱っこしてるの?」
そして今、紀沙は膝の上に蒔絵を乗せていた。
最近構えていなかったと言うのもあるが、癒しが欲しかったらしい。
当の蒔絵は嫌そうにしているが、どこかくすぐったそうにも見えた。
「ねぇ、私達、日本に帰るの?」
「んー、まぁそうだね」
「おじいさまに会える?」
日本に帰る、それは紀沙の中ではすでに規定路線だった。
振動弾頭の引渡しが済めばアメリカにいる必要は無い、後は北達が計画するだろう<大反攻>に備えていれば良い。
それで、何もかもが終わる。
ただ、蒔絵の「おじいさま」については解決方法が無い。
刑部博士、
日本に戻ったら、会う必要があるかもしれない。
そんなことを考えて、紀沙は机の端に置いてある白い封筒を見つめた。
(これ、どこで使えば良いのかな)
浦上から渡されたそれは、北が紀沙のためにと用意したものだと言う。
必要になるかもしれない時に渡してほしいと、浦上は言付かっていたらしい。
しかし、政府の印章が押されたそれをどこで使えば良いのか、紀沙自身にもわからないのだった。
「ねぇ、何かお手伝いできることある?」
「んー、大丈夫だよー」
かいぐりかいぐり。
蒔絵の頭を撫でながら、紀沙は溜息を吐いた。
白紙委任状、北も随分なものを預けてくれたものだ。
いっそのこと、兄の軍籍復帰でも願ってみようか――――。
◆ ◆ ◆
その日、イ401の発令所はいつも通りだった。
僧はいつものマスク姿で艦内の管理を行い、いおりは艦長の椅子に座ってイオナの髪を三つ編みにしていて、静をヘッドホンをつけたまま雑誌を読み、杏平は傍らのボックスから菓子等を取り出していた。
そして、それをいおりの膝の上からイオナが見つめている。
「いおり、そこは艦長の席ですよ」
「僧くんも懲りないねぇ」
「それはこっちの台詞だと思うんですが」
などと言う会話も、もはや日常である。
緩んでいるように見えるが、それぞれにすべきことはしている。
仮に今すぐに戦闘が始まったとしても、彼らは即座に対応することが出来るだろう。
日常、それはイ401のクルーにとっての日常だった。
そしてこの日常に変化を持ち込むのは、常に1人の少年だ。
彼の一言で、イオナ達の日常は終わりもすれば始まりもする。
これは、そう言う集団なのだった。
「お、艦長」
そして、その少年が発令所にやって来た。
群像が発令所に入ってくると、クルー達がそれぞれに声をかけた。
それに対して短く返事を返すに留めるのが、群像と言う少年だった。
「……何か?」
そして、そんな群像の変化に気が付くのはいつも僧が先だった。
僧は群像の表情に僅かに深刻さを覚えた、それは外れてはいなかった。
ただならぬ雰囲気は他のクルーにも伝播し、それぞれの視線がじっと群像に注がれた。
皆の視線を受けて、群像は言った。
「イオナ」
「何だ?」
「ヒュウガに連絡してくれ」
僅かの逡巡も無く、言った。
「出航する」
群像とイ401、そしてそれらを取り巻く状況を知る人間が聞けば、一様に驚いただろう。
誰もが「は?」と言い、意図を問うただろう。
しかしこのイ401の発令所にあって、そんなことを聞く者はいない。
「……出航準備!」
「艦内状況確認、ヒュウガに暗号通信を」
「機関始動、いくらでもぶん回せるよ!」
「火器管制システム、オールグリーン! 補給もバッチリだ」
「全ソナー、状態良しです」
わっ、と、全てが一気に動き出した。
静かに、しかし確実に、サンディエゴ基地の中で1隻の潜水艦が稼動状態になった。
人類側の機器では、その兆候を掴めない。
――――しかし。
「おや」
しかし、霧であれば気付く。
そしてサンディエゴ基地にいるイオナ以外の霧は、1人しかいない。
「どこに行こうと言うのかな、イ401は」
スミノは、隣のドックで稼動状態になったイ401のことに気が付いていた。
明らかな異常を感知していながらも、スミノの顔には笑みが広がっていた。
まるで、これから起こるであろうことを心底楽しみにしているかのように。
「また、置いて行くのかな」
嗚呼、楽しみだ。
「また、置いて行かれるのかな」
そんなことになったら、いったいどうなるのだろうと。
そう思うだけで、スミノは己の身が震えるのを感じた。
ゾクゾクと胸の奥からこみ上げてくる感覚は、鋼の身体では得られなかったものだ。
――――さぁ、艦長殿にはいつ教えてあげようか?
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
これで概ねアメリカ編は終わりそうです。
それにしても、設定的に仕方ないのですが、紀沙の闇堕ちフラグが根強くてヤバいです。
このままでは「僕の気持ちを裏切ったな!」とか「愛などいらぬ!」とか「アンタが悪いんだ……アンタが裏切るから!」とか言いそう。
おかしいな、最初は可愛い妹ヒロインを目指していたはずなのに……。
それでは、また次回。