――――時々、北は紀沙に難しい話をしてくれることがあった。
「軍隊と言うものが何のために存在しているか、お前は考えたことがあるか?」
北の屋敷に住み始めて、最初の春だっただろうか。
淡い桜色の着物姿の紀沙は、北の言葉に「え?」と顔を上げた。
その手には楽焼の茶碗があり、椀の中には深緑色のお茶が揺れていた。
「……国家と国民を守るため、ですか?」
「間違ってはいない」
紀沙の目の前には、北が座っていた。
手元には湯気を立てる茶釜と、茶道具が置かれていた。
どうやら、北には茶道の心得もあるようだ。
しかし、間違ってはいないとはどう言うことだろうか。
軍人の教育は、まず国家と国民への奉仕の心を説くところから始まる。
そして多くの軍人は、「国家に貢献する」「同胞を守る」と言う想いを持って軍に入る。
まぁ、中には食うに困って入ってくる輩もいるが。
「軍隊と言うのは、非生産的な集団だ。普通の企業や組織と違い、消費するばかりで何かを生産すると言うことが無い。時には人々の生活すら圧迫することがある」
抹茶の苦味に顔を顰める紀沙の前に和菓子の皿を置きながら、北は言った。
「軍隊の存在意義は、政治的目的の達成にこそある」
「政治的目的、ですか?」
「国益と言い替えても良いだろう。ただ、この国益と言うものは目に見えるものばかりでは無い。国益と国や国民の利益が結びついて見えないこともある。そこが面倒なところであり、難解なところでもある」
顔を赤らめながら、しかし和菓子を懐紙に移しつつ、紀沙は北の言葉を理解しようとした。
だが、正直に言ってあまり良くわからなかった。
「だから軍人は――他の役人もそうだが――国民の信に拠らず権力の側にいる者は、心しなければならないのだ。自分の行動が国益を確保するための、祖国の政治的目的を達成するための手段だと言うことを」
「な、なるほど」
「できる限り視野を広く持ち、自分の判断と行動を国益に結び付けられるよう、精進するのだ。そうすれば、少しはまともな軍人になれるだろう」
わからなかったが、まだわからなくても良いだろうと思った。
何故ならそうしたことを考えるのはもっと上位の存在で、自分のような下っ端は上の判断や命令に従うことが国益の確保に繋がると思っていたからだ。
この時の紀沙は、自分の判断で行動することの重みを理解していなかった。
イ404の艦長になってからも、そうだった。
自分の行動で、国益を掴み取ると言うこと。
紀沙は、本当の意味で考えたことなど無かったのかもしれない。
そして、今も。
◆ ◆ ◆
イ404の発令所は、えも言えぬ沈黙に包まれていた。
彼らはすでにサンディエゴ港を
しかし聞き慣れた音も、今は緊張感を高めることに一役を買っている気がした。
「…………」
いつもは何だかんだと賑やかな面々も、今は一言も喋ろうとしない。
むしろ何かを気にしていると言うか、恐々としている様子でもある。
ちらちらと視線を向ける先には、1人の少女がいる。
発令所の中央、つまり艦長の席に座るその少女は、俯いて何事かをブツブツと呟いていた。
目元を覆う前髪の間からは、照明の光を反射する瞳が覗き見れた。
瞬きをしていない。
もちろんそう見えるだけだろうが、そんな印象を与える光がその瞳にはあった。
正直、声をかけようとは思えない。
「ねぇねぇ、艦長殿」
いや、1人だけいた。
1人と言うか人間では無く、人間では無いが故に空気を読まない。
あるいは、面白がっているだけかもしれない。
「千早群像は、どうして1人で――あ、いや、厳密には1隻だね――行ってしまったんだろうね?」
そんな、本人が1番知りたいだろうことをわざわざ耳元で囁く。
相手から何の反応も返って来なくとも、ニヤニヤとした笑みを消そうともしなかった。
「艦長殿に何も言わずに、どこへ向かうんだろうね? そんなに日本に戻りたくなかったのかな?」
千早群像――イ401、サンディエゴ港を出航。
その報が紀沙にもたらされたのは、イ401が準備万端でサンディエゴ基地の昇降装置をハッキングした後のことだった。
補給作業も半ばだったイ404がすぐに追えるはずも無く、慌てて準備を整えた時には、イ401が海に出て1時間以上が経過した後だった。
スミノはと言えば、その間ずっとニヤニヤ笑っているだけだった。
1時間、広大な海においては、まして潜水艦が相手では致命的な遅れだった。
同じ霧であるスミノだけが、ギリギリでおおよその位置を掴めている。
その事実がまた、彼女の艦長の神経を逆撫でるのであった。
「……で、な……」
紀沙は下を向いたまま、ブツブツと呟いていた。
「……なんで、なんで……!」
何で、こんなことになっているのか。
何で、こんなことをするのか。
紀沙には全く理解できなくて、理解したくなくて。
彼女はただ、目の前にいない相手に理由を問い続けていた。
◆ ◆ ◆
しかし、どうして群像はこのタイミングで日本艦隊を離脱したのだろうか。
イ404と同じように、白鯨首脳部でもその議論は持たれていた。
「そりゃ、奴さんらが日本の軍人じゃないからだろうよ」
戸惑う駒城らを前にして泰然とそう言ったのは、浦上だった。
そして、それは事実だった。
振動弾頭のアメリカへの移送と言う任務を終えた以上、イ401は自由だ。
少なくとも、浦上達が彼らを拘束する理由は無い。
「それにしたって、随分と慌しいじゃないか。何かあったと考えるべきじゃないですか?」
「何かって、何だよ」
「さぁ、それがわかれば苦労は無いだろうけどね」
コーヒーのマグを弄りながら、クルツはそう言った。
先の理由で行動を縛られないとは言っても、今回の一件、余りにも急だ。
そして急であるが故に、白鯨はサンディエゴから動いていなかった。
アメリカ政府に対して、正式な出航と帰国を伝達をしなければならないためだ。
イ404がイ401を衝動的に――艦長の心理状態を思えば、あながち間違った表現でも無い――追いかけてしまったため、そうせざるを得ないのだった。
もちろん、今後の行動を決めかねていると言うのもある。
2隻の後を追うか、それとも別行動を取るか。
「宜しいでしょうか?」
その時、真瑠璃が手を挙げた。
それまで携帯端末を弄っていた彼女は、全員の視線が自分に集まるのを確認すると、笑みを浮かべた。
いつもの通り、透明で美しい笑みだった。
何もかもを覆い隠してしまって、何を考えているのかを読み取ることが出来ない程に。
「群像艦長からの預かり物があります」
指の間に挟んで示したそれは、2枚のカードだった。
端末に接続して使用する
「1つは、日本政府に対しての親書です。そしてもう1つが、私達に対しての手紙になります」
「何が書いてあるんです?」
「私もまだ見ていません。そして、親書の方は楓首相達に渡すよう念を押されています」
カタッ、と、音を立ててテーブルの中央に1枚のメモリーカードを置く。
皆の視線が、その小さなカードに注がれていた。
千早群像と言う、1人の天才が自分達に託したものを。
◆ ◆ ◆
サンディエゴ沖より70キロ程北西に進んだ海域に、蒼い潜水艦が浮上していた。
それを露とも気に留めず、1人の少年がハッチから海面を見つめていた。
艦はもちろんイ401、そして少年は群像だった。
群像は、じっと何かを待っている様子だった。
そして数分もしない内に、彼が待っていた相手が来た。
イ401に対するような紅い輝きの、イ401よりもよりシャープな印象を受ける潜水艦が、海面を盛り上げながら浮上して来たのだ。
「――――驚いたな」
そして紅い潜水艦――U-2501のハッチから姿を現したのは、長身の欧州人だった。
金髪碧眼に人種特有の白い肌、トレンチコートに制帽を被った美丈夫だ。
「まさかこんな形で顔を見ることになるとはね。我々に気が付いていたのか?」
「ついて来ているだろう、とは思ってはいた」
「……なるほど」
苦笑して、男は言った。
「では正式に自己紹介をさせて頂こう、千早群像艦長。私はこのUボート『2501』の艦長、ゾルダン。ゾルダン・スタークだ」
「オレ達を追っている理由を伺おう」
「キミ達の顔を見に――そんな顔をしないでくれ、本当だ――ね。我々に生きる術を与えてくれた父とも言うべき人物、あの人の子供達の顔を見てみたかったんだ」
「
「我々はキミ達の父上、千早翔像提督より遣わされた者だ」
ピクン、と、群像の眉が動いた。
鉄面皮を貫く彼にしては珍しいことで、それだけ衝撃的だったと言うことか。
群像の前にイ401を駆って海に繰り出し、そして帰って来なかった父親。
そして今では、霧の力であの欧州大戦に介入していると言う。
そんな男が遣わして来た男、ゾルダン。
興味を持たないと言えば、嘘になる。
自分の父親を、「父」と呼ぶ男に対する興味だ。
「千早群像艦長、1つ確認したい。キミ達はこれからどこへ向かう?」
「…………」
「……警告しておくが、ヨーロッパには近付かないことだ」
自分の問いには答えを求めるくせに、相手からの問いには答えない。
傲慢とも取れる群像の態度に、しかしゾルダンには嫌悪を感じた様子は無かった。
「もしヨーロッパに向かうのであれば、我々はキミとイ号401を撃沈しなければならない。最も、これは千早翔像提督の大命でもあるのだが」
「親父の欧州制覇の邪魔をするなと?」
「千早翔像提督は、新たな秩序を構築しようとしている。海を喪いながら、共通の敵に対して団結することも出来ない愚か者共を駆逐し、新しい世界を創ろうとしている」
イギリスとの同盟を発表した記者会見。
あれはネット上では今も閲覧回数を伸ばしているトピックスだが、無論、群像も見ている。
何度も、見ている。
「もう1つ聞いておこうか、キミは父上と歩む気は無いか? 霧の力を振るい、新しい世界秩序の構築に向けて共に進む気は無いか?」
「親父がそう言えと言ったのか?」
「いや、私の個人的な提案……と言うか、疑問だ」
群像は瞑目し、思案した。
ただしそれはゾルダンの提案に悩んだと言うよりは、言葉を選んでいると言った方が正しかった。
そして、群像は言った。
「今さら、親父の背中を追いかけるつもりは無い」
「……そうか。良くわかった! では我々は今日のところは失礼する、次の邂逅を楽しみにしているよ!」
その答えに満足したのか、ゾルダンはそう言って手を振った。
するとそれを合図として、U-2501も海面下へと潜行を開始した。
当然、ゾルダンを乗せたハッチは艦内に下りて行く。
群像は、ゾルダンの姿が艦内に消えて見えなくなるまで、ゾルダンを見つめていた。
◆ ◆ ◆
「戻るのか?」
「今はまだ戻らない方が良い、と思っている」
イ401の通路を歩きながら、群像は僧と今後のことを話し合っていた。
ゾルダンとの邂逅を終えてすでに潜行状態にあるイ401だが、揺るやかな速度で北西方面に進んでいる様子だった。
明確な目的地も無く、方角だけ示しているようだ。
「あのUボートを引き付けるつもりか?」
「あいつが……ゾルダンがオレと紀沙、どちらを優先しているのかが1つの賭けだった。ゾルダンの口ぶりからして、オレ達がこのまま北に進路を取っていれば、目を離せないだろう」
「理由はわからないが奴らは群狼戦術を使うからな、奴がいると日本に戻るイ404と白鯨にとっては脅威になる、と言うわけか」
実際のところ、群像もゾルダン達が四六時中自分達の傍にいたとは考えていない。
しかし、監視はつけていたはずだ。
そしてサンディエゴ基地で知ったことだが、パナマ運河が何者かに破壊されたらしい。
パナマ運河は太平洋と大西洋を結ぶ要衝だ、そこを破壊すると言うことは、2つの海を行き来して欲しく無い何者かがいると言うことだ。
そして、Uボートは本来ヨーロッパの艦だ。
確証があったわけでは無いが、イ401が北に進路を取った途端にゾルダンは警告に来た。
ここまで状況が揃えば、ゾルダン達の目的を推測することはそう難しくない。
だから北へ、ヨーロッパへ通じる航路へ進めば、ゾルダンの目を引くことが出来る。
「一方で奴らは一度、オレ達を攻撃した。そして先程の「撃沈する」と言う発言。足止めか撃沈か、どちらが優位にあるのかはわからないが、紀沙達が日本へ戻ろうとする所を攻撃されないとも……」
その時、群像は僧が足を止めたことに気付いた。
淡々と話していた時と変わらない様子で振り向けば、僧は少し俯いていた。
群像が黙って見つめていると。
「……どうして、それをちゃんと紀沙に話してやらない」
そこか、と群像は思った。
あまり意識されることは無いが、僧にとっても紀沙は幼馴染にあたる。
何だかんだ、優しい男なのだ。
「紀沙に話すと、ついてきたがっただろう」
紀沙の執着を思えば、あり得ない話では無い。
確実性を求めるのであれば、何も言わずに姿を晦ました方がずっと良い。
結果として、紀沙達はゾルダンの脅威を受けずに日本に戻ることが出来る。
ただ、それをあっさりと言えてしまう感覚はどうなのだろう。
もっと言えば、行動に移してしまえるところが。
「良く言うだろう、結果良ければって」
「だが、紀沙はきっと傷つくぞ」
「
「そう言うことじゃない。お前は……!」
僧が群像に詰め寄ったその時、彼らの頭上で艦内放送が鳴り響いた。
『艦長! ピンガー感知しました!』
静だ。
ピンガー、要するにソナーを照射されたのである。
相手はゾルダンか、いや、U-2501が今それをする意味は無い。
ならば、後は。
「――――来たのか、紀沙が」
群像の声音はやはり淡々としていたが、その中に、僅かな感情の動きが見え隠れしていた。
付き合いの長い僧にはそれがわかる、しかしそれがどんな感情なのかは、彼にもわからない。
時として僧は、それがもどかしく感じられて仕方が無いのだった。
◆ ◆ ◆
対潜水艦戦において、
1つには、相手の位置を特定すると言うこと。
もう1つ――むしろ、現代ではこちらがメインだが――は、「お前を見つけた」と言う警告だ。
何しろアクティブソナーの探知距離は短く、ほぼ肉薄距離と言って良かったからだ。
『
静菜の通信に、紀沙は唇を噛んだ。
イ404の最大速度で追いかけた結果、アクティブソナーの探知距離にイ401を捉えた。
ただイ404の最大速度と言う機密を公開したと言うことでもあり、その意味で無傷では無い。
しかも短期間に全力回転させた結果、再度の加速まで時間が空くことになってしまった。
だが、追いついた。
緩やかに進んでいたイ401を、ほぼ真っ直ぐに追いかけた。
方位はほぼ
「イ401、増速。10ノットから20ノット、25……いや30」
位置を見つけたと言っても、それでも数キロの距離はある。
海中の僅かな音を拾って彼我の距離を計測する冬馬の存在は、死活的に重要だった。
もちろん、それはクルーの誰にでも言えることなのだが。
「スミノ、イ401に停船するように伝えて」
「それは良いけどね、艦長殿。ピンガーを撃たれて速力を上げるってことはさ、イ401には
「…………」
ぞわり、と、撫でられるような感覚が左目の眼球に生じた。
耳元に唇を寄せて、
「まぁ、良いよ。伝えようじゃないか、イ401に停まれと伝えよう。キミがそう望むならそうしてあげよう、でもね艦長殿?」
「スミノ」
「もしイ401がボク達の停船命令を拒否したら、どうするのかな」
「聞こえなかった?」
じろりと右目で睨み上げれば、スミノの深い笑みが視界に入った。
「どわっ!」
その時、冬馬が溜まらずヘツドホンを外した。
理由は、すぐにわかった。
「畜生、音響魚雷だ! 401ロスト!」
「――――ああ、残念」
鈴を転がすような声音で、スミノが言った。
「伝えたんだけどね、もう」
だんっ、と音を立てて、紀沙は椅子の肘置きを殴りつけた。
まるで、スミノの言葉を遮ろうとするかのように。
「梓さん、もう1度ピン撃ってください!」
そして、無意味な追いかけっことかくれんぼが始まった。
◆ ◆ ◆
戦いとも言えぬそのやり取りを、多くの「目」が見ていた。
もちろん、まずはゾルダンとU-2501だ。
イ401がヨーロッパに行かぬよう監視していた彼らは、まず最初にそれを目撃した。
しかし、この場にいるのは実はイ401とイ404だけでは無い。
「うらぁ――――っ!」
「ああ、もう。鬱陶しいわねぇ!」
例えば、ヒュウガとトーコだ。
前者は群像、後者は紀沙に協力している霧の艦艇だった。
加えて言えば、トーコはしきりにヒュウガに突撃を繰り返していた。
ただトーコの突撃精度が悪いのかヒュウガの回避能力が高いのか、1度も当たっていない。
しかし牽制と言う意味では、トーコの存在は大きかった。
ヒュウガも流石にトーコを撃沈するわけもいかず、また本格的な戦闘艦では無い『マツシマ』達の回避コントロールは思ったよりも難しく、結果として手一杯になってしまっている。
だからヒュウガはイ401の援護に行けず、歯がゆい想いをしていた。
「はてさて、面白くなって来ましたねぇ」
それから、もはやお馴染みとなったユキカゼである。
着物の袖で隠した口元をニヨニヨとさせながら、彼女は遠巻きに戦いの様子を窺っていた。
観測するにしては遠くに位置しているのには、理由があった。
そしてその理由に気が付いたのは、群狼と言う多数の目を持つゾルダン達だった。
『ゾルダン、新しい反応よ。こちらに近付いてくる』
「霧か? おおかた、太平洋艦隊の奴らだろう。数は?」
『1隻……ええ、1隻よ。ただ、これは、この数値は……』
ゾルダン達が捉えた霧の反応は、すぐ近くまで来ていた。
潜行していたのだろう、ゾルダン達U-2501と言えどすぐには探知できなかった。
『大きい……これは、大き過ぎる』
「どうしたフランセット」
『艦長!』
その時、発令所正面のある物が輝いた。
霧の紋章が刻まれたそれは、U-2501のコアだ。
それが声を上げたので、ゾルダンはじろりとした視線を向けた。
どうやら、彼はU-2501が話しかけられたことを不快に感じたらしい。
『彼女が……彼女が来ます!』
「彼女……? 彼女だと、まさか。馬鹿な、何故こんな海域に!?」
何かを察したのだろう、ゾルダンは驚愕の表情を浮かべた。
何故なら、U-2501の計器が感知した存在は、霧の艦艇でも最大の力を持つ艦だったのだから。
◆ ◆ ◆
不思議な感覚だった。
興奮のせいだろうか。
いくら音響魚雷で姿を
不快にざわめく左目が、兄の姿を捉えて離そうとしないかのようだ。
「どうして、停まってくれないの……!?」
叫びのような、呻きのような。
そんな言葉を零しながら、紀沙は点いては消える戦略モニターの「イ401」の表示を睨んでいた。
相手はさらに増速している、すでに彼我の速度は逆転していた。
このままでは、離されてしまう。
「どうする!? 撃つのかい!?」
焦りの色を覗かせて、梓が言った。
実際、速度制限の問題が無くとも、ピンで見つけるタイムラグでイ401は十分に距離を取ってくるのだ。
やっていることが単調だから、相手に余裕があるのだ。
その余裕を削るためには、追い縋るだけではダメだ。
だが、そんなことは紀沙だってわかっている。
したくないだけだ。
一方でイ401は、兄はそんな自分を無視するかのように増速し続けている。
(――――どうして?)
紀沙には、どうして群像がこんなことをするのかわからなかった。
どうして、自分を置いて行くのか。
どうして、自分にこんなことをさせるのか。
どうして、こんな嫌な気持ちを得なければならないのか……!
「キミを必要としていないからだよ」
紀沙は、ぎょっとした。
何故ならば、いつの間にか自分の手の中に拳銃が握られていたからだ。
いや、それは拳銃では無い。
イ404の魚雷発射装置のトリガーを、スミノがナノマテリアルで具現化したものだ。
「あ、おい!」
当然、突如火器管制のコントロールを奪われた梓が声を上げた。
だが、当たり前のようにスミノは返事をしない。
むしろスミノは紀沙に背後から絡みつくようにしながら、彼女の手にトリガーを持たせている。
「きっと艦長殿のことが嫌いなのさ、疎ましいんだよ」
「……お前に、何がわかる」
「わかるさ。千早群像が
「それは、私が1人で考えられるようにって」
「艦長殿が1人で行動なんてするわけないじゃないか、護衛くらい着くって千早群像ならわかっていたよね? だったら彼が一緒に行ったって何も問題無いよね?」
それでも、と、紀沙は思った。
それでも群像は、拉致された紀沙を助けに来てくれた。
すると紀沙の考えを読んだかのように、クスクスと言う笑い声が耳元に響いた。
「それは振動弾頭の引渡しの条件に艦長殿が含まれていたからだよ、実に合理的な理由じゃないか」
「そんな」
「コンゴウとの戦いでは囮にされたこともあったよね、まぁ、あれで勝てたわけだけれど。千早群像はまるで霧のようだ、合理的に冷淡に、必要なら妹でさえ囮に出来るんだから」
「そんなことは」
「そして振動弾頭の引渡しが終われば、最愛のはずの妹に何も言わずに姿を消す。必要が無ければ会話すらしないんだ」
「兄さんは、そんな人じゃない」
「うん、そうだね。千早群像は優しいね、
耳たぶを唇で嬲るようにしながら、スミノは言った。
「千早群像がイ401――イオナだっけ? あのメンタルモデルにどんな笑顔を向けていたか、教えてあげようか?」
知らないわけが無かった。
兄の背を視線で追いかけていれば、嫌でもイオナの存在は目に付く。
群像がどんな顔でイオナに語りかけ、どんな声音で話し、どんな風に触れていたか。
紀沙が、知らないはずが無い。
それを知りながら、スミノは言うのだ。
千早群像がイオナに告げた言葉の数々、「ありがとう」「良くやった」「無理をするな」。
どれもこれも、当たり障りの無い普通の言葉だ。
しかし、紀沙はそんな言葉を群像に言われたことが無かった。
「さぁ」
ぐい、と腕を持ち上げられて、トリガーを正面に構える形になった。
今はイ401をまだ捉えている、引金を引けば撃てると言う状況だった。
「さぁ、撃とう。そうすれば、もう千早群像も艦長殿のことを無視出来なくなるさ」
「……いやだ」
「停船命令に応じないんだ、仕方ないじゃないか」
「いやだ」
「大丈夫、誰も艦長殿を責めやしないよ。責めやしないし――責めさせないよ」
眼帯の下に潜り込んで来たスミノの指先が、紀沙の左目を露にした。
前髪の、そしてスミノの指の間から覗く左目は、やはり白い。
その輝きは、儚さに揺れていた。
「それに、大事な「おじ様」にも言われていたじゃないか」
北のもう1つの命令。
自分の呼吸音が、鼓動の音が、やけに五月蝿かった。
「イ401が、もし日本を裏切るような素振りを見せたなら」
いやだ、撃ちたくない。
「キミのおじ様はこう言っていたね。その時は、『イ401を……』」
撃ちたくない。
撃ちたくなんか無いのに、どうして。
酷い、酷い――――酷い!
左目のざわめきが、血管を通して全身を駆けたように思えた。
それは熱く、どす黒く、そして叫んでいた。
そう叫べ。
叫んでしまえと、だから。
「五月蝿いっ、黙れっっ!!!!」
ビリビリと、相手のソナーにも届くのでは無いのかと言う声量だった。
冬馬達もぎょっとした表情を浮かべて、事の成り行きを見守っていた。
「401を撃てだって!? 馬鹿なこと言うな! 兄さんを
「え、え? いや、それは言葉の使い方が違」
「五月蝿い! それ以上くだらないこと喋るとぶっ飛ばすぞっ!!」
「え、ええええ? ちょ、え? か、艦長殿ちょっと、ちょっと落ち着こう!?」
あのスミノが、明らかに引いていた。
しかし、紀沙も止まらない。
「私は必ず兄さんを連れて帰る! 母さんも待ってる! 絶対だ!」
それだけを夢見て、ここまで来たのだから。
「わかったら、黙って401を追いかけろ!!」
一息に叫び尽くして、息を切らせた。
しかし一呼吸を入れる度に、酸素が脳に送られて冷静になってくる。
そして冷静になって来ると、段々と今の自分の言動を見つめ返せるようになる。
顔色が青くなったり赤くなったりと、実に忙しい様子だった。
紀沙達は知りようも無いことだが、群像は自分の知る紀沙をこう表現していた。
誰よりも、
それはつまり誰よりも気が強く、負けん気が強く、そして強情だと言うことだ。
とどのつまり、普段の大人しく生真面目そうな紀沙と言うのは……。
「あ……いや、違くて、あの」
スミノだけで無く、何だか他のクルーとの距離を感じて慌てる紀沙。
ただ幸か不幸か、彼女の言い訳タイムはさほど長く続かなかった。
何故ならば、外部の状況がそんな猶予を与えなかったからだ。
『――――変わってないようで安心したよ、紀沙ちゃん――――』
ガコン、と、イ404の艦体が大きく揺れた。
◆ ◆ ◆
海が割れると言う現象は、霧同士の争いでは割と良く見られる光景だった。
ただしそれは、その霧が超重力砲を放つ場合に限られている。
なればこそ、その現象をどう説明すべきなのだろう。
「艦体が持ち上げられる……」
「重力子機関を発動した様子も無しに……!」
イオナとスミノが、ほぼ同時に瞳を白く輝かせた。
それは彼女達がその事象への抵抗の意思を示した証であったが、無意味だった。
まともに抗うことも出来ずに、海上へと引きずり出されてしまった。
蒼と灰色の艦体が、無防備な姿を晒す。
騒然とする発令所において、2体のメンタルモデルは同じ方向を向いていた。
すなわち、ロックビーム――本来、超重力砲発動段階にしか使用できないはずの――で自分達2隻を捕捉した、
その、圧倒的な威容を。
「あれは」
「まさか、こんなところでキミに会うとはね」
巨大な、艦だった。
余りにも巨大であるため、それを言葉で形容するのは難しい。
しかし、数字は嘘を吐かない。
排水量があの大戦艦『コンゴウ』の倍以上と言う事実が、その艦艇の巨大さを物語っている。
その艦艇の名は。
「「『ヤマト』」」
『ヤマト』。
数多いる霧の艦艇の中にあって、<総旗艦>の名を持つ唯一の艦だ。
もう1つの呼び名は<超戦艦>、大戦艦を凌駕する性能を持つ究極の霧である。
長い髪にピュアピンクのドレスを纏ったメンタルモデルの女性が、柔らかな微笑と共に2隻を見下ろしていた。
「『ヤマト』だと?」
「おいおいおい、霧のボスキャラじゃねーか! 何だってそんな奴が出て来るんだよ!」
大声で騒ぎ立てる杏平程では無いにしても、群像も驚きを隠せなかった。
それだけ、ヤマトの登場が突然だったのである。
何の前触れも兆候も無く、いきなりだ。
「『ヤマト』……?」
そして紀沙は、傾きと浮遊感の中、ヤマト――霧の頂点の存在を初めて感じた。
スミノの戦慄を感じる。
どう言うわけかはわからないが、紀沙はスミノが大きな疑問と僅かな畏れを感じていると思った。
ざわめく左目の震えが、紀沙にそう思わせた。
「……ッ!」
そして次の瞬間、その戦慄は紀沙自身の感情として現れた。
発令所にいる紀沙に、外にいるヤマトの姿は見えない。
だが、巨大な何かが目の前にいるような、そんな錯覚を覚えた。
存在の重みを、感じた。
ただ、何故だろう。
とてつもない脅威を感じるのに、どこかに懐かしさを覚えるのは。
気のせいと無視するには、その懐かしさは大き過ぎた。
それに感応したわけでは無いだろうが、ヤマトが腕を動かした。
するとそれに合わせて、主砲が旋回する鈍い音が響き始めた。
(……不味い……!)
ヤマトの主砲は、他の霧の主砲とは格が違う。
直感的にそれがわかった、たとえ1発でも、イ404の強制波動装甲を抜いてくる。
だが自分達はロックビームに固定されていて、回避はおろか防御も出来ない。
やられる、そう思った、その時だった。
『ちょっと待ったぁ――――ッッ!!』
新しい、別の声が戦場に響き渡った。
若く甲高いその声は余りに高音だったためか、キン、と耳鳴りがした。
『ごるぁっ、そこの総旗艦! そいつらは私の獲物よっ、勝手に手を出すなぁ――――ッ!!』
「な、何だぁ、このヒステリックな声は!?」
「あれは…………タカオ?」
「タカオ?」
西から急速に近付いてくるその艦艇は、『タカオ』だった。
良く良く調べてみればあと何隻かいるようだが、突出して出て来ているようだった。
極東にいるはずの彼女が、何故こんな北米大陸近郊にまで――まぁ、ヤマトもそうなのだが――来るとは、どう言うことか。
『千早兄妹! アンタ達に話があるわ!』
そしてタカオは、紀沙と群像に呼びかけてきた。
呼びかけられる理由など無いはずなのに、何故かそうなった。
だが次に響いた言葉は、2人を驚愕させるには十分な威力を持っていた。
『――――アンタ達の、
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
多少無理矢理でも構わん、ここでヤマトを絡ませるんだ……!
じゃないと出番ガガガガ(え)
まぁ、ここで必要なのはもう1人の方なのですが。
そして極めてどうでも良いのですが、今回の紀沙をぶち紀沙と名付けてみた(え)
さて次回ですが、ちょっと視点が変わりますですよ。
それでは、また来週です。