蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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Depth034:「犠牲とメッセージ」

 

 嵐の後は、静かなものだ。

 函館の海を見つめながら、眞はそんなことを考えていた。

 スーツの端からは包帯が覗いていて、少なからぬ怪我を負っていることがわかる。

 

 

『首相、横須賀より北代議士が到着されました』

「ああ、わかった」

 

 

 頷いて、眞は瓦礫から腰を上げた。

 彼の周囲は竜巻でも通ったかのような状態になっていて、あたりには倒壊した家屋や散乱した瓦礫、破壊された車両やヘリの残骸が見て取れた。

 ただしそれらは自然災害で引き起こされた被害では無く、また民間人の被害も無かった。

 それがせめてもの救いと言えば、そうなのかもしれない。

 

 

 あの事件からすでに数日が過ぎていたが、未だその区画は当時の状態が残されている。

 調査の必要もあって、あえてそうしているのだ。

 ただ調査と言っても、()の凄まじさを再確認するだけに終わりそうだった。

 最も、そんなことは当初からわかっていたことだったが。

 

 

「眞首相、この度はかける言葉も無い。お身体の加減はいかがかな」

「お気遣い痛み入ります、北代議士。お恥ずかしい限りですよ、政治を司るために生まれた身でありながらこの様です」

 

 

 そしてその現場で、眞は中央管区から非公式に派遣されて来た北と面会した。

 非公式なのは、中央管区が北管区の「内政」に干渉したと受け止められるのを防ぐためだ。

 眞としても、この件以外では中央の人間を北管区には入れなかっただろう。

 

 

「千早女史は……やはり?」

「一応は生死不明、と言うことになっています。実際、死亡が確認されたわけではありませんから」

「……なるほど」

 

 

 眞は、北が千早家と浅からぬ関係にあることを知っている。

 だから北が一瞬、遠い目をした時、瞑目してそれを見ないことにした。

 それくらいの配慮は、デザインチャイルドにもあった。

 

 

「生まれて初めて、思いましたよ」

 

 

 その代わりと言っては難だが、眞も自分の心情を吐露(とろ)した。

 何故か、そうしたい気分だったのだ。

 

 

「もしもあの時、ああしていれば。なんて気持ちに」

 

 

 もしもあの時。

 それは人間が何か大きな失敗をしたと感じた時、自然に生まれてくる感情だ。

 そしてあの時、タカオとの対話において、眞は自分が何かを間違えていたのだろうと感じていた。

 

 

 もしもあの時、眞がもっと別な形でタカオと接触を持っていたのなら?

 もしもあの時、メンタルモデルとの接触を監視部隊に禁じていたのなら?

 もしもあの時、函館を離れずに様子をみていたのなら?

 どれか1つでも違えば、おそらく現在の状況はまるで違うものになっていたはずだった。

 

 

「彼女達は、横須賀に来るでしょうか?」

「……わからん。ただ」

「ただ?」

 

 

 ただ、だからこそ「もしもあの時」には意味が無いのだった。

 

 

「来たならば、迎え撃たねばならないだろう」

「そう、ですね。その通りだ」

 

 

 迎え撃つとは、軍人のようなことを言う。

 ああ、軍人上がりの政治家なのだったか。

 そう思って、眞は北の隣に並んで立っていた。

 ――――水平線の向こうには、何も見えなかった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 殺せない相手を憎悪した時、人はどうするのだろう。

 失うべきでないものを失った時、人はどうするのだろう。

 その回答を、紀沙はまさに今、求められているのだった。

 

 

「あ、あ」

 

 

 艦内から『タカオ』の甲板へとせり上がって来たそれに、紀沙は取り縋った。

 最初はゆっくりと近付いて、最後は足をもつれさせながら走った。

 縋り付いたのも、転んだと言った方が正しかったかもしれない。

 それは固く、そして冷たかった。

 

 

 氷の棺と言うのが、最も近い表現になるだろう。

 しかしそれは氷では無く、ナノマテリアルの凝固体だ。

 薄い赤色はクリスタルのような光沢があり、触れると滑らかな感触を得ることが出来る。

 そして透明な棺の中には。

 

 

「母さん……!」

 

 

 紀沙の母、沙保里がいた。

 胸の前で手を組み、目を閉じている姿は、眠ってだけに見えた。

 しかしその身を覆う赤色は嫌が応にも血を連想させて、紀沙の胸中はざわめいた。

 

 

 ――――何故!?

 

 

 北管区の実家にいるはずの母親が、何故こんなことになっているのか。

 元々、母は北が保護していた。自分と同じように。

 本人の希望とリスクの分散のために函館に留められて、それ以来まともに会えたことは無かった。

 日本を出てからは連絡の取りようも無かったから、変わらない生活をしていると思っていた。

 

 

「お前、が」

 

 

 棺の側に、タカオが立った。

 母を挟んで自分を見下ろす相手に対して、紀沙は下から()め上げる形になった。

 すると、タカオは哀しげに、辛そうに眉を寄せた。

 その表情は、紀沙の胸をさらにざわめかせた。

 

 

 何だ、その顔は。

 まるで、沙保里がこうなったことを哀しく思っているみたいじゃないか。

 まるで、沙保里がこうなったことを辛く思っているみたいじゃないか。

 紀沙の中で、何かが大きく膨らんでいく。

 お前に。

 

 

「お前に、そんな顔をする資か」

「待て、紀沙」

「――――兄さん!?」

 

 

 ぐっ、と肩を掴まれた。

 そうで無ければ飛びかかっていただろう。

 目を剥いて振り返れば、さしもの兄も厳しい顔をしていた。

 逆に言えば、ようやく表情を厳しくしているだけだった。

 

 

「何で止めるの!? こいつが、こいつが母さんを!!」

「母さんは、まだ生きている」

 

 

 一瞬、紀沙は自失した。

 母が生きている?

 

 

「そうだろう、タカオ。そうでなければ、わざわざこんな形で母さんを運ぶ必要は無かったはずだ」

 

 

 藁にも縋る想いで。

 まさにそんな様子で、紀沙はタカオを見た。

 タカオは哀しげで辛そうな表情を浮かべていて、しかし群像の言葉に意を決したのか、唇を開いた。

 

 

「…………時間」

「時間?」

()()()()()()()()()()

 

 

 言葉の意味が、良くわからなかった。

 そう言う兄妹の意思が伝わったのだろう、タカオは続け様に言った。

 あの時、狙撃され、動けなくなった沙保里がタカオに託し、願ったこと。

 

 

「5分24秒! 私は、アンタ達にそれを届けに来た!!」

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 沙保里は、残された最期の時間を家族のために使うことを願った。

 そしてタカオは、沙保里の命の残り時間を正確に算出していた。

 

 

「そんな」

 

 

 紀沙は、もう立てなかった。

 沙保里が最期に会う相手に自分達を選んでくれたことは、素直に嬉しい。

 しかし同時に、目の前で母が完全に失われることに恐怖した。

 そんなこと、紀沙には耐えられない。

 

 

 もう一度、家族みんなで。

 それが紀沙の生きる理由にもなっているだけに、そこから母が欠けると言う事実はショックだった。

 足元が根底から崩れ落ちていく、そんな感覚に襲われた。

 会いたい、でも会えば最期だ、だから会いたくない。

 矛盾した感情が、紀沙の胸中には生まれていた。

 

 

「母さんは」

 

 

 そんな状態の紀沙に代わって、群像は言った。

 彼もまた、母との別れを悲しんでいるのだろうか。

 

 

「母さんは、オレ達に何か伝えるべきことがあるんだな?」

「……?」

 

 

 ただ、その物言いには疑問の目を向けた。

 ()()()()()と言う言葉に、妙な違和感を感じたのだ。

 

 

「ずっと考えていたんだ」

 

 

 疑問、そう、それは疑問だ。

 群像がずっと以前から抱いていた疑問、わだかまり。

 その疑問を無視して無邪気に霧の艦長をやっていられる程、群像は楽観的な性格をしていない。

 

 

()()()()()()()()()()

 

 

 イオナも、そしてスミノも、その理由を明確に告げたことは無い。

 彼女達はどこから来た?

 最初は翔像だった、そして群像であり紀沙だった。

 数十億人もいる人間の中で何故彼らを、いや、1つの家族を選んだのか?

 

 

 群像は口にこそ出さなかったが、それをずっと考えていたのだ。

 何か理由があるはずだと。

 しかし聡明な群像をしても、その理由を思いつくことは出来なかった。

 

 

「オレ達には、オレ達の知らない霧との関わりがある。おそらくは。だがそれがどう言うものなのか、オレにはわからなかった」

 

 

 群像は直感する。

 沙保里はきっと、その()()を知っていたのだ。

 だからこそ、タカオを霧と知りつつ自身の最期を託したのでは無いのか。

 群像達を呼ぶのでは無く自ら会いに行く――文字通り、命を賭してだ――と言う部分が、群像にそう洞察させた。

 

 

「母さんの最期に立ち会えるのは()()()()()。そこに例外は無い。そうだなタカオ?」

「……そう、そうね。その通り。でも」

「ねぇ」

 

 

 ただ、群像は気付くべきだった。

 

 

「――――なに言ってんの?」

 

 

 妹が、澱んだ瞳で自分を見上げていたことに。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――大西洋上、某海域。

 霧の超戦艦『ムサシ』は、スコットランドの沖合に錨を下ろしていた。

 辺りにはぼんやりとした霧がかかっており、近くは見えるが遠くは見えないと言う状態だった。

 

 

「千早艦長」

 

 

 ムサシには、実はそれなりの人数の人間が乗り込んでいる。

 これは別に隠していることでは無く、人類でも霧でも、国家や軍の上層部にいる者にとってはほとんど常識のようなものだった。

 またその多くが日本人であり、かつて『イ401』に乗り込んでいたクルーであることも。

 

 

 そしてその中の1人が、『ムサシ』の甲板を歩いていた。

 霧は甲板の上にも這うようにたゆたっており、彼は足を滑らせないよう気をつけながら歩いていた。

 手には書類のファイルを持っており、連絡員か何かなのだろう。

 もう片方の手を口元に当て、しきりに声を上げている。

 

 

「千早艦ちょ……うわっ!?」

 

 

 そして、不意に――それこそ、霧のように――彼の目の前に、ゆらりと少女が現れた。

 頭から足先まで真っ白なコーディネートに染まった、メンタルモデルの少女。

 ムサシだった。

 その小柄な身体つきは、男と比べると親子程も身長差があった。

 

 

「お父様――千早艦長は、この先にいらっしゃるわ」

 

 

 形の良い、美しいとすら言える唇が言葉を紡ぐと、男は生唾を飲み込んだ。

 何度見ても、何年過ごしても、この存在には慣れないらしい。

 

 

「何の用かは()()()()()けれど、後にしてくれないかしら」

「あ……や! 自分も中尉殿から緊急の報告と聞いておりまして!」

「ええ、知っているわ。()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()()

 

 

 もう一度、生唾を飲み込む音が響いた。

 しかしそれは先程よりもより大きく、深刻な気配を感じさせた。

 男の足元を霧が這っているが、はたしてあれは、本当にただの霧なのだろうか?

 あえて言うが、別にムサシは相手を脅しつけているわけでは無い。

 

 

 ただ、不思議な威圧感がそこにはあった。

 可憐な容姿からは想像も出来ない程に重厚なそれは、周囲の冷たい空気とも相まって、男の意思を挫くには十分だった。

 敬礼ひとつだけを残し、逃げるようにその場から去っていく。

 

 

「――――お父様」

 

 

 つい、と、すぐに興味を失って、ムサシは後ろを振り向いた。

 霧の向こう側、『ムサシ』の広大な甲板の先を見つめる。

 もちろんわざわざメンタルモデルで見なくとも良いのだが、彼女はあえてそうしている。

 それは、彼女の「お父様(翔像)」がそれを好むからだった。

 

 

「可哀想なお父様」

 

 

 そしてその父は今、傷心の中にいる。

 誰にも何も言わないが、ムサシにはそれがわかっていた。

 

 

「お慰めして差し上げたいけれど……」

 

 

 それが出来ないことは、ムサシにもわかっている。

 無限とも思える演算力を持つ彼女でも、いやだからこそ、出来ないとわかる。

 得られる感情は、「切なさ」。

 ムサシはもう、それを良く知っていた。

 

 

「それが出来るのは、きっとお父様の本当の子供達だけなのでしょうね」

 

 

 ちくりと、小さな針を刺されたような痛みを胸に感じた。

 手で触れてみても、もちろん怪我などしていない。

 しかし、この痛みは本物だった。

 大切な人を癒せる者が自分では無いと、そう思った時に感じるものだった。

 

 

「……じゃあ、私は何なの?」

 

 

 冷たい霧が、ヨーロッパの海に立ち込めていた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 紀沙には、群像が理解できなかった。

 この期に及んで、まだ霧との関係を気にする兄を。

 紀沙にとって、霧との関係など問題では無かった。

 

 

「母さんが、死んじゃうんだよ?」

 

 

 紀沙にとっては、それが全てだった。

 自分と群像にとって、子供にとって、今はそれが全てのはずだった。

 かつての父の時のように、互いに痛みを共有するべき時のはずだった。

 いや、それこそ父の時にはそれが出来ていたはずなのだ。

 

 

 群像には言わなかったけれど、父がいなくなった時、紀沙は兄と痛みを共有できることが出来て嬉しかった。

 繋いだ手が、嬉しかった。

 兄と気持ちを同じく出来てると感じて、幸福すら感じられた。

 それが、今はどうだ?

 

 

「次に起きたら、母さんが死んじゃうんだよ?」

「紀沙」

 

 

 それが、今はこんなにも遠い。

 

 

「母さんの犠牲を無駄にしないのが、オレ達の役目だろう」

 

 

 正しい。

 群像はいつだって正しい、正し過ぎる程に。

 なるほど、沙保里はもう助からないのかもしれない。

 本人も、覚悟をしているのかもしれない。

 

 

 ならば沙保里の意思を受け止め、その犠牲を無駄にしないようにするのは本当に正しい。

 反論のしようも無い、完璧だ。

 異論を差し挟む余地は、紀沙にも何も見つけられなかった。

 でも。

 ()()()()()()

 

 

「兄さんは、哀しくないの? 辛くないの、悔しくないの?」

「そう言うわけじゃない」

 

 

 (かぶり)を振って、群像は言った。

 

 

「ただ、泣いていても何も戻っては来ない。それだけだ」

 

 

 それはかつて、父がいなくなった時に群像が言った言葉だ。

 あの時も、群像は紀沙に「泣くな」と言った。

 けれどあの時は、気持ちが繋がっていた。

 

 

 紀沙は、そっと手を伸ばした。

 群像の手に触れたかった、幼い頃のように、まだ繋がりがあると信じたかった。

 それはまるで、神に縋る信者のようで。

 ただし、群像がその手を取ることは無かった。

 

 

「…………」

 

 

 それが、紀沙にどれほどの絶望感を与えるかに考えが及ぶことは無かった。

 正しいから。

 正し過ぎるから。

 群像は、足元で蹲る妹に気付くことが出来ない。

 

 

(兄さんは、変わっちゃったんだね)

 

 

 この時初めて、紀沙は群像が彼女の知る兄とは違うと言うことを認めた。

 2年間の出奔の中で、兄は変わってしまったのだ。

 それでも気持ちは繋がっていると信じていただけに、その事実は重かった。

 何故、群像は変わってしまったのだろう。

 

 

「……!」

 

 

 イ401、あの霧の艦艇以外に原因は存在しない。

 あの少女が、群像を変えた。

 澱んだ瞳に、ゆらりと不穏な色が見え隠れした。

 そして紀沙が、戦慄かせるように唇を動かした時。

 

 

 

「コラ――――ッ! 妹にそんな言い方しちゃダメでしょ――――ッ!」

 

 

 

 声が、聞こえた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 群像が虚を突かれると言うのは、非常に珍しい。

 まして動揺するなどと言うことは、滅多にあることでは無い。

 しかし今、それが起こっていた。

 そしてその衝撃と動揺は、紀沙にも同じくあった。

 

 

 いや、兄妹だけでは無い。

 例えば海上に浮上しているイ401、その甲板に上がっているクルーの多くも同じような顔をしている。

 困惑しているのは、静くらいのものだろう。

 そしてイ404のクルーも、もしかしたら情報では知っていたかもしれない。

 

 

「お、お前は……」

 

 

 『ヤマト』は、『タカオ』の隣に艦体を進めていた。

 そしてヤマト――ピュアピンクのドレスの女の方――はタカオと千早兄妹の様子を静かに見守っていたのだが、その隣に、もう1人別の少女が立っていた。

 ヤマトはそちらに視線を向けていて、どこか咎めるような表情を浮かべていた。

 

 

「……琴乃……!?」

 

 

 かつて、1人の少女がいた。

 千早兄妹や僧とも縁の深かったその少女は、彼らの世代のトップにいた。

 成績優秀、品行方正、容姿端麗、天真爛漫。

 個人を褒めるあらゆる言葉を抱えて生まれてきたような、そんな少女だった。

 

 

 天羽琴乃。

 今はもうこの世にいない、失われた少女だ。

 その喪失は様々な人々に影響を与えたが、しかし、それも過去のことだった。

 全ては過去、そうなってしまった――はず、だったのだが。

 

 

「やぁ、群像くん。()()()()()

 

 

 その天羽琴乃が、そこにいた。

 亜麻色の長い髪に、目鼻立ちのすっきりした顔、同性なら誰もが羨むだろう豊かなスタイル。

 群像達が見間違えるはずも無い、その容姿はまさに琴乃であった。

 そして、「初めまして」と言う言葉。

 

 

「そんなはずは……」

 

 

 だとしても、紀沙にもその少女は琴乃にしか見えなかった。

 容姿だけならともかく、腰に手を当てて立つ仕草など、かつて同じ机を並べて学んだ頃と何も変わっていないように思えた。

 本人なのか? それとも違うのか? そんな考えが一瞬にして浮かんできた。

 まして、兄である群像は……。

 

 

「うぁ……っ?」

 

 

 その時だった。

 琴乃が紀沙を見て、にこりと微笑んだのだ。

 それだけなら、驚くだけだっただろう。

 しかし同時に、左目に激痛が走った。

 

 

 我慢できず、悲鳴を上げた。

 目の中で何かが暴れている、そうとしか思えない。

 この感覚は、何だ。

 わからないが、しかし。

 

 

『大丈夫よ、紀沙ちゃん。貴女は助かるわ』

 

 

 しかし、頭の中に()()()の声が響いた――――。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――2年前。

 西暦2054年、5月1日。

 海洋技術総合学院、第4施設。

 後世から見れば、この日は世界が変わった最初の日として認識されることになるのかもしれない。

 

 

 その時点では、紀沙はもちろん群像も霧の艦長では無かった。

 そもそも杏平はまだ群像と出会っていなかったし、良治も紀沙と出会っていなかった。

 まだ紀沙が、一介の海洋技術総合学院総合技術科の生徒に過ぎなかった頃の話だ。

 

 

「はぁ……はぁ……」

 

 

 そして、火災。

 2年前の5月1日、この日、第4施設と呼ばれる建物は完全に焼失した。

 原因はわからない。

 わかっていることは、この事件で56名の生徒が命を落としたと言うことだけだ。

 

 

 そしてこの手の事件には得てして、同じ場所にいながら生死が分かれた例が存在する。

 状況も状態も同じなのに、片方が生き残り、片方が助からない。

 運命の悪戯としか思えないような、差異の無い2人の全く異なる結末。

 それが、第4施設の火災の中でも起きた。

 

 

「じ、冗談じゃないよ……何たって私がこんなことを」

 

 

 生き残った者。

 ――――千早紀沙。

 

 

「へ、へへへ……やっちまったぜ」

 

 

 生き残れなかった者。

 ――――天羽琴乃。

 

 

「だから言ったんだよ、早く逃げようって」

「でもおかげで、群像くんも僧くんも無事に外に出られたじゃない」

「それで私達が火に巻かれてちゃ話にならないでしょ。私はお前と心中なんかしたく無いんだけど」

「私は紀沙ちゃんなら良いかな~……」

 

 

 煤だらけの学生服姿で、紀沙が琴乃に肩を貸す形で少女達は歩いていた。

 どこかの通路はまだ先が見えず、鳴り続ける警報音(アラート)が反響していた。

 視界も、危険を知らせる赤い警報色が明滅している。

 見るからに逃げていると言う風で、琴乃はどこか怪我でもしているのかもしれない。

 火が回ってきているようにも見えず、あるいはこのまま進めば2人とも助かったのかもしれない。

 

 

「あんまりふざけてると…………」

 

 

 だが、進めなかった。

 最初に気付いたのは紀沙で、彼女は足を止めて正面を見た。

 瞳に、警戒の色が浮かぶ。

 何故ならば、その場に自分達以外の誰かがいるはずが無かったからだ。

 

 

 しかしそこには、確かに1人の人間がいた。

 狭い通路の真ん中に立ち、紀沙達の行く手を遮る者。

 ただ、それをどのような人物であるのかを表現するのは難しい。

 あえて言うのであれば、こう言うべきだろう。

 そこに立っていたのは……。

 

 

 ――――宇宙服、だった。

 




最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

群像「母さんは犠牲になったんだ……犠牲の犠牲にな」
紀沙「やめろォ!」

的な(え)
しかし私は、紀沙の闇堕ちエンドに最後まで抵抗してみせます!

そして忘れていたわけでは無い、原作に出てきた宇宙服にはここで出番を与えて見せる……!

と言う訳でまた回想、しかし今度は1話で終わります。
女学生が描きたくなりました(真顔)
それでは、また次回。

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