霧の海洋封鎖によって、島国であるイギリスは孤立している。
それが一般的な人々の認識であり、イギリスに住む人々自身もそう考えている。
しかし、これはある意味では正しくない。
イギリスは、決して孤立などしていないのだから――――。
『――――お加減はいかがかしら、首相閣下』
「おかげさまで大分良くなりました、エリザベス大統領閣下」
シティ・オブ・ウェストミンスター・
イギリス首相官邸の一室で、その会談は行われていた。
アメリカ大統領とイギリス首相による電話会談である。
衛星回線を通じた電話会談、海を渡れない以上それ以外に方法は無いが、当然霧には傍受されている。
しかし、構わなかった。
何故なら今日彼らが話しているのは、むしろ欧州の霧に聞いてほしい話だったのだから。
『日本のイ号潜水艦2隻は、そろそろ北極海に入った頃でしょう』
現在、欧州は群雄割拠と言って良い混沌とした状況にあった。
人類、霧の欧州艦隊、千早翔像率いる緋色の艦隊、そして欧州奥地のとある新興勢力。
その中で最も弱いのはもちろん、人類だ。
しかし千早翔像の緋色の艦隊と同盟を結んだ――イギリス政府が緋色の艦隊に根拠地を提供する代わりにイギリス本土の安全を保障する――イギリスは、異色の存在ではあった。
「日本の艦船が親善以外の理由でヨーロッパに来るのは、何十年ぶりのことか」
『お気持ちはお察し致しますわ。我々も同じような気持ちでしたもの』
「マダムにそう言って頂ければ、私も幾分か気が楽になります」
画面の中でエリザベス大統領が柔和に微笑むと、首相――
霧の封鎖下にあっても主要国の首脳は連絡を取り合っているが、中でもイギリスとアメリカは特別な関係にあった。
封鎖前にイギリスが全世界に張り巡らせていた軍事・諜報網は霧の封鎖下でも有用で、さらにイギリスは
だから人類による<大反攻>の盟主たらんとするアメリカにとって、イギリスは最重要の同盟国だ。
一方でイギリスは緋色の艦隊――霧の一派と同盟を結んでいる。
いやそもそも、大戦以前から欧州大陸のいくつかの国々と結んでいる同盟も有効なままだ。
さて、ここでもう一度問うておきたい。
『くれぐれも、イ号潜水艦のクルーをどうぞ宜しくお願いしますね』
「ははは、大統領閣下にそう言われると。無碍には出来ませんな」
『あら、うふふ……』
「ははは……」
イギリスは、孤立しているだろうか?
◆ ◆ ◆
――――北極海航行1日目。
イ404は、浮上しながらベーリング海峡を通過していた。
ベーリング海峡はアラスカと東シベリアの間にある
温暖化の影響で幅はさらに狭く、一方で水深は深くなった。
「うっひゃあ~さっみーなオイ!」
深くなったとはいっても100メートルも無い浅い海で、潜行して進むには少し心許ない。
だから浮上して進む、イ404は艦隊のちょうど中ほどだ。
北極海には霧も少ない、比較的安全な海域だった。
イ404の甲板に出た冬馬は、防寒具を抱き締めるようにしながら声を上げた。
氷点下の海だ、肌を刺すような寒さは辛い。
冬馬の後に続いて甲板に上がって来た紀沙も、頬に冷たい空気を感じて身を震わせた。
確かに寒い、が、イメージした程でも無い。
温暖化の影響で純粋な意味での北極圏も後退し、気温も上がっている。
「さっみ! 艦長ちゃんさっみ、寒いなー!」
「私が寒いみたいな言い方はやめてください」
「突☆撃!」
「何でか無性に苛立ちます」
冬馬や紀沙が着ている統制軍の支給品の
吐く息は白く空気は冷たいが、意外と体温は失われていない。
透けるような青空と澄み切った透明な空気は、十数キロ向こうの陸地まではっきりと見せてくれた。
「やぁ、あれがセント・ローレンス島ですか。話に聞いた通り、トナカイらしき影が見えますね」
「ほんと? 見たい!」
艦の後ろでは、紀沙達よりも一足先に外に出ていた恋と蒔絵が双眼鏡で島を見ているようだ。
紀沙は島の名前までは知らないが、話を聞く限りトナカイがいるらしい。
そう言えば、紀沙も実物のトナカイは見たことが無いなと思った。
せいぜい、子供の頃に見たサンタの絵本の中くらいか。
「ここからだいたい、ヨーロッパまで2週間くらいの行程ですね」
「まぁ、真っ直ぐ目指してどうぞって話でもねーしな。年明けはヨーロッパかね」
「そうですね」
海峡を抜ければ、そこから北アメリカ大陸――カナダ沿岸を通る形で、北西に進む。
北極海は未知の海域だ、海中の進路も狭く危険が伴うだろう。
慎重に進んで、し過ぎると言うことは無いはずだった。
この美しい海は、ともすれば自分達を容易に沈めかねない相手なのだから。
◆ ◆ ◆
――――北極海航行2日目。
チュクチ海と呼ばれるその小さな海はまだ水深が浅く、潜行しての航行は出来ない。
いわゆる大陸棚と呼ばれる、陸と地続きだが海中にある地面の上にある海だ。
当然、寒い。
「寒い時こそダンシ――ング! 軽快なリズムでボディをポッカポカよ!」
「はい先生! 俺は男女でペア組んでくんずほげ」
「ふんっ!」
艦内はある程度空調が効いているが、艦全体を常に適温に保つのは非効率的だ。
それに余り外気温と隔たりがあるのも不味いので、それなりの気温に保たれている。
つまりそれなりに寒いのである。
となれば当然、温まるために何かしようと言う話になる。
「はーいグッドですヨー! はい、ワンツーワンツー!」
「はっ、はっ、は――っ!」
「あおいさんが普段からは想像できないくらい真面目に動いてる……!」
「何か、潜水艦生活してるのに体重増えたらしいよ」
ちなみにジョンのダンス教室に最も熱を入れてるのはあおいだった。
まさかのジャージ姿でダンスである。
恋の言う通り普段のあおいからは信じられないくらいに真剣であった。
そして梓に殴打されて床に転がった冬馬は、大いに跳ねるあおいの一部分を凝視していた。
まぁ、体重云々はともかく運動は艦船乗りの義務のようなものだ。
何しろ狭い――霧の艦艇はさほどでも無いが――艦内だ、こもっていると身体がなまってしまう。
だから定期的に運動して、身体が衰えないようにしているのだ。
これは割と重要なことで、長期航海する艦船乗りの宿命のようなものだ。
「紀沙ちゃん」
その様子をぼうっと見つめていた紀沙だが、不意に声をかけられて顔を上げた。
すると良治がいて、随分と深刻そうな顔で紀沙のことを見つめていた。
そして、言った。
「今日こそ脱いでほしい」
帯刀していたようには見えなかったが、どこからともなくスラリと抜き身の刀が出てきて、良治の首を薄皮一枚切っていた。
瞬時に、良治が脂汗を流して両手を上げた。
「あいや間違えた! 間違えました! 診断、診断だよ!? 他意は無いよだって僕ムチムチなお姉さんがタイプなんだ! 紀沙ちゃんだと肉付きがかなり物足りないかな!」
「馬鹿野郎がお前! それが希少価値ってもんだろが!」
「オウ! ミニマムは見ててつまらなーいヨ!」
男性陣全員を上官侮辱罪で営倉にブチ込むことに決めた。
蒔絵がきゃらきゃら笑っていたことが、救いと言えば救いだった。
◆ ◆ ◆
――――北極海航行4日目。
イ号艦隊はチュクチ海を抜け、いよいよカナダ北部に広がる北極諸島に入ろうという時だった。
ボーフォート海、かつては1年中青白い海氷に覆われていた極北の海である。
温暖化の影響で氷は薄まり、冬の気配が漂うこの時期でも一部には開けた海が広がっている。
「……ッ! 何!?」
早朝のことだ。
イ404は氷を潜るように海中を進んでいて、紀沙は蒔絵と共に自室で就寝していた。
外のことに機敏な蒔絵が飛び起きて、それで紀沙も目を覚ました。
視界に入る銀の一房を横にどけながら、紀沙はベッドの上で身を起こした。
先に起きていた蒔絵は、怯えたように身を縮めていた。
ぬいぐるみを抱き締めている様は可愛らしいが、いったい何に怯えているのだろうか。
すると、すぐに原因がわかった。
「……何の音?」
「ねぇ、これ何? 大丈夫なの?」
ガラスを吸盤で擦ったような、そんな音だ。
重厚で、しかもそれは複数聞こえてくる。
いくつも重なり合って聞こえるその音は、酷くおどろおどろしいもののようにも思えた。
それに音が大きく、やけに近くに音源があるようだった。
「恋さん、これは?」
蒔絵を抱き寄せながら、発令所に当直として詰めている恋に訪ねた。
敵にしては様子がおかしく、奇妙な感じがした。
そして、恋から返って来た返答は意外なものだった。
『艦長、これはクジラです』
北極にだけ住むクジラがいると言う。
クジラの鳴き声など聞いたことが無かったので、「クジラ?」と聞き返してしまった。
しかし言われてみれば、動物の鳴き声に聞こえて来た。
何とも不思議な、身体の奥に響く鳴き声だった。
いくつも聞こえるのは、イ404がクジラの群れに紛れ込んでしまったからだろう。
まさか、仲間だと思われているのだろうか?
だとしたら、童話のような展開だ。
相手の姿は見えないが、自分達は今クジラと共に海の中にいるのだ。
「クジラ? 図鑑で見たことある、これがそうなんだ」
怖いものでは無いとわかったからか、蒔絵は素直に感心していた。
暗い海の中だから、映像を出しても姿をはっきりと見ることは難しいだろう。
でもだからこそ、鳴き声がより幻想的に聞こえるのかもしれない。
恐ろしさと、そして生命の賛歌を含む声。
「きれい。ねぇ、どんなクジラなのかな」
「んー……きっと綺麗な顔してるんじゃないかな」
現金なもので、蒔絵はすっかりクジラ達のコーラスが気に入ったようだった。
それにクスリと笑みを漏らして、紀沙はベッドに横になった。
目を閉じて、そうするとよりはっきりとクジラ達の声が聞こえる気がした。
今日は、クジラと泳ぐ夢でも見ようか。
◆ ◆ ◆
――――北極海航行5日目。
一路ヨーロッパを目指しているイ404だが、寄り道をしなければならないこともある。
補給もあるし、買い物が出来ればなお良い。
それに加えて『白鯨』が離れた今、イ404艦長である紀沙は日本政府の特使としての性格を帯びてもいた。
「おーおー、逃げてる逃げてる」
昨日はクジラに悪いことをしたが、今日はシロクマに悪いことをしたようだ。
フィールドを纏ってハドソン湾の海氷を砕きながら浮上したので、付近にいた動物達を驚かせてしまった。
氷の上を親子で連れ立って駆け逃げていくシロクマの後ろ姿を見送りながら、紀沙は白い息を吐いた。
氷点下の気温にも段々と慣れてきたが、氷上だとなおさらだ。
そして、ここでふと気付くことがある。
紀沙が着ている軍用コートについている階級章が、初日の物と変わっていたのだ。
具体的に言えば、線が1つ増えている。
一昨日の昼間に本国からの通信の一部を辛うじて拾えたため、それを受けての措置だった。
(怖いぐらいに昇進が早い……)
まだ学院を出て間もない紀沙が――首席卒業とは言え――この1年、いや半年間でここまで階級を上げるとは、通常ではあり得ない。
まして今は本国の意思も届きにくい北極圏で半ば独自行動中だ、異例尽くめだった。
そして異例尽くめのこの旅において、『白鯨』がいない今、紀沙はトップとしてクルーを導かねばならないのだった。
嗚呼、どこまでも続く白海のハドソン湾。
1年の半分近くが氷に覆われると言うこの海は、日本のどの海とも違う。
初めての海、初めての世界だった。
いや、それはアメリカに渡った時からわかっていたことだ。
「艦長殿、南西方向から人が来るよ」
「……ん、わかってる」
そして今回は、そのアメリカ――エリザベス大統領からの通信だった。
この地点なら日本よりアメリカの電波の方が良く入る、もちろん霧には傍受されるので、長く同じ場所にはいられない。
大統領からの通信には、「イゴー・チャーチル」、とだけ記されていた。
前者は紀沙達、後者はハドソン湾の都市の名前だった。
「カナダの北極軍……」
カナダの国旗を掲げた氷上車両が数台、こちらに向かってきているのが見えた。
白いプロテクターを装備したいかにも屈強そうな人間が、数十人程いるようだ。
そしてその中に、明らかに軍人では無いスーツ姿の人間が何人か。
カナダの役人だ、ハドソン湾はカナダの領域だから当然と言えば当然だろう。
「でも大丈夫かい? 不意打ちで撃たれるかもしれないよ」
「そんなことにはならない」
「わからないなぁ」
紀沙と違って息が白くならないスミノは、言った。
「艦長殿はどうして人間ってだけで相手を信じられるんだい?」
「人間が人間を信じられなくなったら、おしまいだろ」
よどみなく答えた紀沙に、スミノはふぅんと応じた。
それは確かに「おしまい」かもしれないが、アメリカであんな目に合っておいて良く言えるものだ。
いや、そもそも。
紀沙は一度だって、サンディエゴの事件で相手を非難していない。
「それはまた、都合の良いことだね」
いつもの嫌味だ、紀沙はそう思うことにした。
それもまた、都合の良いことに含まれるのだろう。
紀沙はそれを自覚したが、やはりそれも無視することにした。
無視したかったのだ。
◆ ◆ ◆
――――北極海航行7日目。
エリザベス大統領は、どうやら近隣の首脳に紀沙達のことを話してくれていたらしい。
カナダとケベックの首脳に日本政府の特使として会った際、そのことを教えてもらった。
何だか初めての一人暮らしに向かう娘を見送る母親のようで、有難いが少し気恥ずかしい気もした。
「何か、このくらいの気温なら平気になってきた自分がいます」
「脂肪を燃やすにはもってこいねー」
「斬新なダイエットですね」
ハドソン湾から東進して海峡を抜けると、そこはもう大西洋だった。
太平洋よりはいくらか凪いだ海に見えるのは、まだここが沿岸だからか。
グリーンランドの首都ヌークに着いたのは、そんな頃だった。
ラブラドル海と言う、流氷に覆われた海域を抜けて深夜に到着した。
グリーンランドの警備隊――グリーンランドには重装備の軍隊がいない――の責任者と補給の相談をした後、早朝にグリーンランドの政府首脳を表敬して、すぐに出航する。
こう言う時には自分が役に立てると、紀沙は思っていた。
ナノマテリアルの補給は『マツシマ』で出来るが、人間用の物資はそうはいかない。
「それにしても、小さな町ねー」
「横須賀と比べるのもどうかと」
ただ艦内で何十時間と運動するよりも、外で30分身体を温めた方がずっと良い。
そんなわけで紀沙達は警備隊の宿舎の中をゆっくりと時間をかけて走っていた、そこかしこに監視の目があるようだが、剣呑なものでは無かった。
「ジョンの話によると、
正面を見据えたまま、静菜が言った。
霧を恐れていないと言っても、別にグリーンランド人がバイキングのように勇敢と言う意味では無い。
海軍を持たないが故に、霧の強さを伝聞でしか知らないのだ。
それに人口が少なく資源が豊富――温暖化で肥沃な土地が増えた――なので、海上封鎖の切迫感も少ない。
「あ、みて~」
不意に立ち止まって、あおいが空を指差した。
そこには横須賀には無い満天の星空が広がっていたのだが、それだけでは無かった。
曇りの無い漆黒の空、散らばる星屑、澄み切った空気、そして――――薄緑のカーテン。
強弱と濃淡は様々だが、翠の薄絹が空を舞っていた。
最初は霧が覆うように少しずつ、それがだんだんと強くはっきりと見えるようになる。
数分も待つ頃には、ヌークの空全体がその色に染め上げられた。
日本で聞いていたような儚げなものでは無く、思ったよりも力強い光量に驚いた。
「綺麗ですね」
「うん……」
静菜の言葉に、素直に頷いた。
オーロラ、確かそんな名前の現象だった。
美しいと、紀沙は素直にそう思った。
兄も、ヌークの沖合いで待っている群像も見ているだろうか。
◆ ◆ ◆
――――北極海航行9日目。
厳密にはもはや北極海では無いが、大西洋の入口と言う意味で日数に含めている。
そこで、イ号艦隊はヨーロッパに入る前の最後の航路調整を行っていた。
「……イギリス?」
アイスランド料理は香辛料をあまり使わないことで知られる。
これはアイスランドの地理的な問題もあるが、質実剛健な国民性から質素な作り方を好むと言う側面もある。
実際、焼く・煮るだけの素朴な味付けがこれ程に合う民族料理もなかなか無いだろう。
所はアイスランド首都・レイキャビク。
ヨーロッパへ向かう最後の寄港地だ、木造りの建物はレストランと言うよりは酒場と言うべきか。
樽をテーブルに木箱を椅子に、まさにそんなイメージのオープンレストランだ。
客はそれぞれに木製のジョッキを傾けていて、酒好きが多い様子だった。
もちろん、紀沙達はノンアルコールである。
「次の目的地はドイツって言ってなかった?」
「ああ、そうなんだが」
群像は相変わらず何かを考え込んでいるような顔をしていて、紀沙がソーセージを口に入れて飲み込んだところで言葉を続けた。
「逆に考えてみたんだ」
「逆? あ、ありがとう」
「ありがとう」
護衛の静菜が
やはり香辛料の香りはせず、燻された肉の匂いが鼻をついた。
そしてイオナとスミノが何匹目かの羊を平らげるのを気にしつつ、群像に先を促した。
「ドイツに行くにしても北海を通過する必要がある。ここは古くからイギリスの勢力圏だ、当然相手も警戒しているだろう」
地図を見れば、確かにそうなる。
北海の北端にはイギリス領のシュトランド諸島があり、イギリス側――つまり緋色の艦隊の哨戒網を潜り抜けるのは難しい。
かつてイギリス海軍はこの海域を支配し、大陸の大国の伸張を封じてきたのだ。
と言って、アイルランド側から抜けたところで結果は一緒だ。
より狭隘なドーバー海峡を突破するのはより難しいし、まさかスカンジナビア半島やイベリア半島から陸路でドイツを目指すわけにもいかない。
つまり、ドイツに向かうのは困難を伴う、と言うことだ。
「それに相手……この場合は親父か。親父も、まさかいきなり自分達の膝元に乗り込んでくるとは思わないだろう」
「……なるほど」
理に適っていると思った。
北海を抜けるのに苦労するならいっそ、と言う考えには一理あると思った。
相手の意表を突くと言うのも悪くない、兄らしい抜け目の無さだと。
ただ、それだけでは無いはずだった。
群像はきっと、焦れている。
それは妹である紀沙だけが気付ける微妙な気の変化と言うもので、他の者にはわからないだろう。
僧でも、正確にはわからないはずだ。
唯一わかるはずの母親は、今はいない。
「そうだね、兄さん」
ポツリと、零すように紀沙は言った。
噛み締めるような、そんな声音だった。
「父さんに、会いに行こう」
「…………」
ああ、また黙る。
それを素直にズルいと思いながら、紀沙は笑った。
しかし父に会いに行くとは行っても、それはそれで困難が伴うだろう。
何しろ、大西洋を渡るのだ。
「霧の欧州艦隊の動向も調べないとね」
「その必要は無い」
返事はすぐに、しかし兄では無かった。
明らかに女の声であるそれに顔を上げれば、やはり女が自分達を見下ろしていた。
テーブルの側に立つその女は、明らかに場違いな容姿をしていた。
輝くような長い金髪にメガネ、そして素肌の上にレディーススーツと言う奇抜な出で立ち。
「欧州艦隊は
そして、この発言。
イオナとスミノが顔を上げると、彼女達は同じことを言った。
「「『フッド』?」」
霧の欧州艦隊大西洋方面艦隊旗艦『フッド』。
彼女はふんと鼻を鳴らして、紀沙達を見下ろしていた。
◆ ◆ ◆
――――欧州のどこか、いつかの日の夜。
赤茶けたレンガ造りの、天を突くような尖塔が特徴の建物に多くの人々が集まっていた。
崩れた天井からは満月が良く見えて、その月明かりが半壊した建物中に光を注ぎ、人々の前に
「おお……」
「女神様……」
「おお、女神さま……」
教会だ、しかしどこか様子がおかしかった。
崩れた天井もそうだが、壁のほとんどに焦げ目のような黒ずみが見えて、そして教会の象徴とも言うべき十字架は半ばから砕かれていた。
特に十字架の破壊後は鋭利な円形をしていて、まるで削ぎ落とされたかのようだった。
そして十字架があるべきところには、棺があった。
氷の棺、それが一番近い表現だろう。
冷たく固く凝固されたそれは透明で、十字架があるべき場所に立てかけられている。
その中には、20代半ば程の容貌の女がいた。
胸の前で手を合わせ、眠るように目を閉じている。
「女神様……」
人々は、彼女を「女神」と呼んだ。
くすんだ銀色の髪の美しい女で、なるほど女神じみた美貌ではある。
ただ、人々が跪いて祈る理由は美しさだけでは無さそうだ。
その目には明らかに、畏敬の念が見て取れた。
「おお……!」
そして、ざわめく。
崩れた天井から光の粒子が降り注ぎ、星屑のように煌いたからだ。
いや、その後に空から降りて来た存在にざわめいたのだ。
人々は口々に「天使様」と言い、目に宿す畏敬の念はさらにその濃度を増した。
そして天使、そう呼ばれた女――いや、少女も、確かに天使のような容貌をしていた。
光の粒子は少女の背中から舞っていて、羽根のように見える。
血のように深い紅の瞳、くすんだ銀色の髪は首を隠す程の長さで、首には錠前付きのチョーカーを着けていた。
少女は傲然と、目の前で頭を垂れる人々を見下していた。
「女神様」
「天使様、おお天使様……」
「おお、何と神々しい……」
女神、天使、傅く人々。
ある意味で、教会にあるものとしては正しい。
だが、どこかおかしい。
そう思う人間は、しかしこの場には1人もいないのだった。
「…………」
いや、1人だけいた。
金髪碧眼の、毛先の跳ねが強そうな髪質の30代程の男だった。
教会の入口に立ち、奥で行われている神秘的な出来事を見ていた。
彼は哀しみに満ちた瞳で中の人々を、そして天使と呼ばれる少女を見つめた。
そうして吐かれた息は、聞いているだけで陰鬱になるような、重々しいものだった……。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
今回は北極観光回でした、私は行ったこと無いんですけどねー。
北極って言ってもいろいろあるみたいで、とても勉強になりました。
北極の綺麗な雰囲気が少しでも伝わってくれればな、と思います。
それでは、また次回。