天使とは、天の使いである。
彼らは神の御遣いであり、天上に住まう高位の存在だ。
そして人間を導き、裁く存在でもある。
「天使様!」
崩れた教会の床にその「天使」が降り立った途端、女がひとり前に進み出た。
彼女は小さなくるみを抱いており、それは赤子だった。
明らかに健康を害している様子で、顔は青白く息も浅そうで、何よりそんなにも具合が悪いのに泣きもしていないのがより深刻だった。
そして女は、涙ながらに天使に訴えた。
乳の出が悪く――それだけ痩せ細っていればむしろ当然だろう――赤子が死にそうだと、どうか救って欲しいとの訴えだった。
天使と呼ばれた少女は小首を傾げながらそれを聞いていたが、おもむろに赤子の頭に手をかざした。
(読み取っているな)
霧は目で人間の身体や他の物体をスキャンすることが出来る。
レントゲンやCTスキャンを目でやっているわけで、生半可な医者より正確な診断が可能だった。
そして、手だ。
天使の掌からキラキラと輝くナノマテリアルが赤子に散らされると、変化が起きた。
紀沙の目には、天使のナノマテリアルが赤子の身体を温めたのが見えた。
熱は血流の促進を促し、それによって一時的に赤子の反応を高めたのである。
しかし他の人間の目には、そうは見えないだろう。
「奇跡だ……!」
「ああ、天使様! 坊や、坊やが!」
「天使様!」
奇跡、神の御技としか思えない。
何故なら手をかざすだけで、弱った赤子の元気を取り戻してみせたのだから。
カラクリを知らない人間から見れば、そうとしか見えないだろう。
腹の立つ光景ではあるが、しかしこれは何だ。
(メンタルモデルが、こんなところで神様気取り?)
意味がよくわからない。
意図も読めない。
周囲の人間は熱狂しているが、その分だけ紀沙は冷静に見ることが出来た。
天使が自分に救いを求める人々を、酷く冷めた目で見ていることに気付いたのはそのためだ。
それから、あの氷の棺だ。
あの中に安置されている女性は、いったい何なのだ。
天使が神に仕える者とするならば、あれは彼女の何だと言うのか。
「天使様!」
そしてまた1人、声を上げる者がいた。
今度は男で、彼は1人の子供の腕を掴んでいた。
手柄を誇るかのように男の子の腕をひねり上げて、彼は叫んだ。
「背教者だ!」
ヒステリックな叫びを上げる男の手には、もう1つ別の物が握られていた。
教会の人々によく見えるように掲げられたその手には、チョコレートの包み紙が握られていた。
その包み紙には、日本語が書かれていた。
◆ ◆ ◆
やっべ、と、冬馬は思った。
しかし音一つ立てずに、ボロのフードを深く被り直した。
ジョンはともかく、自分達は明らかに外国人、目立つことは控えなければならない。
(あちゃー……)
だが、それでも冬馬は内心で慌てていた。
おそらくどこかにいる杏平もそうだろう。
何故かと問われれば、あのチョコレートは冬馬と杏平が子供に話を聞くために渡したものだからだ。
まさかこうなるとは、予想だにしていなかった。
ひとつ言い訳をさせて貰えれば、ここの住人がまさかこんなカルトじみた集団だとは思わなかったのだ。
と言うか、予想できるはずも無いだろう。
よもや霧のメンタルモデルがこんなところで
「背教者め!」
「天使様の掟を破るなんて、何て子だろう!」
とは言え、自分の行動のせいで子供が
では出て行くのか?
ヒーローよろしく、ちょっと待ったと声を上げるのか?
それもちょっと勘弁願いたい。
(やっべぇ)
子供が、天使の前に引きずり出された。
怯えきっているのか声も出せずに、子供は大人達に押さえつけられていた。
そんな子供を、天使はやはり冷たい眼差しで見下ろしていた。
らしくも無く冬馬は焦った、いくらなんでも寝覚めが悪い。
それに、危惧もあった。
「やめろ!!」
(ほら来たぁ――――)
出てきてしまった、彼らの主が。
群像は微動だにしていないと言うのに、紀沙がその場に立ち上がってフードを取っていた。
強い瞳で天使を睨むその姿は勇敢ではあるが、しかし無謀だった。
そして不味いことに、彼女は「宗教」と言うものを理解していなかった。
「みんな聞いて、そいつは天使なんかじゃない!」
冬馬は準備をした。
心の準備だ。
「何が天使だ! そいつは霧のメンタルモデルで、奇跡でも何でもない。皆を騙しているんだ!」
そんな紀沙に対して、天使はゆっくりとした動作で顔をそちらへと向けた。
それだけであれば、紀沙は大して怯まなかっただろう。
だが周囲の人々が一斉に紀沙を見たために、彼女は怯み、そして知ることになった。
宗教というものが持つ、言葉にすることが難しい、そんな
◆ ◆ ◆
変化は突然だった。
言葉を重ねるどころでは無く、教会は蜂の巣を突いたような騒ぎになった。
紀沙をして、たまらず逃げ出す以外の選択を選べなかった。
「逃がすな、背教者だ!」
かつてゾルダンに追い詰められた時、紀沙は死を覚悟したことがあった。
だが今日、ここで感じたものはまた別のものだった。
確かに恐怖を感じたが、死を予感したからでは無い。
いや死は予感したかもしれないが、もっと得体の知れない何かを感じたのだ。
それが何なのか、言葉にすることは出来なかった。
まず、身を低くした。
跳びかかってきた者達が頭の上でぶつかるのを感じながら、後ろに滑った。
それで一つ目の集団は擦り抜けたが、そこで踏ん張ろうと言う気が紀沙には無かった。
これは素晴らしい判断だった、下手に踏ん張っていたらどうなっていたかわからない。
「――――ッ!」
脱兎。
そう言うのがまさに正しいだろう、と紀沙自身が思った。
教会の外までひた駆けて、夜の廃墟の中へと身を躍らせた。
追いかけろと言う言葉を背に、紀沙は全速力で駆けた。
他の皆も、この混乱の中で逃げるだろう。
教会の人々は自分しか見ていない、なら自分が教会から離れれば離れるだけ、他の仲間達は安全になるとも言える。
だから紀沙は逃げた、幸い反射神経と運動能力には自信がある。
「逃げたぞ!」
「あっちだ!」
「背教者を逃がすな!」
とは言え、土地勘も無い場所で数十人、いや100人単位の人間に追われると言うのは恐怖だった。
やはり何かに対する恐怖では無く、得体のしれないものへの恐怖だった。
わかっていることは、捕まってはならないと言うことだけだ。
しかしどこへ逃げるか、それが紀沙には俄かには判断できなかった。
(どこへ)
と、思った時だ、視界の端で何かが動いたような気がした。
いや、気のせいでは無かった。
「こっちだ!」
人がいた。
教会に人々が全て集まっていて、自分が飛び出して来た。
つまり前方に人間はいないはずだが、その人物は紀沙の前方にいた。
警戒したが、違和感を感じた。
何故ならその人物は他の人々のようにボロでは無く、綺麗な
「早く!」
後ろからだんだんと教会の人々の声が近くなっている。
選択の余地は無かった。
本能と言うか、直感に従った行動だった。
紀沙は、声のした方へと駆け込んだ。
◆ ◆ ◆
頭上をどかどかと無数の人々の足音が通り過ぎていく。
どうやら誰もここには――建物の陰にある地下の蔵、元々は非常用の食糧庫だったらしいが今は空だ――気付かなかったようで、足音はどんどんと遠ざかっていった。
そしてその間に、きゅっきゅっと擦れるような音がして、ほどなく柔らかいランプの明かりが点いた。
「彼らをあんな風に刺激してはいけない」
上品な英語だと、紀沙はまずそう思った。
そして次に思ったのは、ここの住人では無いなと言うことだった。
30代くらいのイギリス人で、毛先の跳ねを押さえる整髪剤の匂いが鼻についた。
着ている衣服や外套はやはり上質で、ランプも意匠の凝った高そうな物だった。
それに鍛えている、衣服では隠し切れない筋肉質さが見て取れた。
ある種の偏りが出るスポーツマンとも違う鍛え方で、全身をくまなく鍛えているように見えた。
身のこなし一つ一つが洗練されていて、一言で言えば紳士然としていた。
それでも紀沙が危機感を持たなかったのは、男の目が酷く穏やかだったからだ。
「彼らにとってあの子は……
「……貴方は?」
まるで彼ら、と言うよりあの天使のことを知っているかのような口ぶりだった。
だからランプに照らされる顔に問いかけた。
相手は隠すことをしなかった、それすらも高潔な何かのように思えてくる。
「私はアースヴェルド・アステリア、イギリス軍に属している者だ」
やはり、軍属だったか。
場所を考えればイギリス軍と言うのも頷ける、むしろ呑まれないように気を張っていなくてはならないだろう。
しかしその彼が自分を助けてくれたことについては、少しいぶかしみを覚えた。
「失礼だが、キミ達が上陸してきた時から監視させてもらっていた」
それは気付かなかった。
しかしそこから見ていたのならば、彼は自分が霧の艦の人間だと言うことを知っているはずだった。
ならば彼は人道主義から自分を助けたわけでは無いだろう。
「……私達に、何をしろと?」
「…………」
アースヴェルドはしばしの間黙った。
しかしその沈黙こそが、何よりも彼の本心を語っているように紀沙には思えた。
そして、彼は重々しく口を開いた。
「あの子を……リエルを」
哀しい目だ、紀沙はそう思った。
「私の
また、ここにも。
霧のメンタルモデルに対して、特別な想いを持つ者がいたのか。
◆ ◆ ◆
海中で艦長達の帰りを待つクルー達は、教会での出来事を知らない。
しかし霧のメンタルモデル達は違う。
彼女達はそれぞれの方法で状況をモニターしており、何が起こっているかを正確に把握していた。
それをクルーに話すイオナと話さないスミノなど、対応はそれぞれだった。
「あれは、『クイーン・エリザベス』」
中でも欧州艦隊のフッドにとって、「天使」を名乗るメンタルモデルの正体を看破することは難しいことでは無かった。
だがその表情は驚きに染まっており、よもやこんなところにいるとは思っていなかった様子だった。
と言うのも、フッドの言う『クイーン・エリザベス』にはある事情があったからだ。
「こんなところにいたのか」
「どういうこと?」
「『クイーン・エリザベス』は私の前に『ビスマルク』に戦いを挑んだ艦だ」
フッドが霧の艦隊の旗艦達を呼び集めるよりも少し前に、『クイーン・エリザベス』は『ビスマルク』に戦いを演じていた。
本来ならフッドよりも『クイーン・エリザベス』の方が旗艦として相応しかったのだが、フッドが旗艦に収まったのはそう言う事情もあったのだ。
ただフッドも、『クイーン・エリザベス』が『ビスマルク』に戦いを挑んだ理由は知らない。
だからこそ、フッドには『クイーン・エリザベス』がこんなところでカルト宗教の教祖じみたことをやっている理由がわからなかった。
だいたい宗教だ女神だなどと、霧からは最も程遠い概念では無いか。
フッドには、まるで理解できない。
「……ふ、ん」
一方で、ヒュウガには何か思うことがありそうだった。
彼女もまた、霧の
霧の規範たるアドミラリティ・コードでは無く、愛と言う形の無い概念上の規範に従って行動する彼女は、他の霧の艦艇からすればやはり理解できない存在だろう。
そんなヒュウガだからこそ、もしかしたら最も正解に近い位置にいたのかもしれない。
ヒュウガがイオナへの愛によって変わったように。
『クイーン・エリザベス』もまた、何かによって変わったのだろうということに。
ただそれが何かまでは、さすがのヒュウガでもわかりようが無かった。
「『ビスマルク』と言い、『クイーン・エリザベス』と言い……お前達はいったい、何をしているんだ?」
だからフッドのその独り言のような問いかけは、ヒュウガであっても答えられないのだった。
◆ ◆ ◆
霧の大戦艦『ビスマルク』は、欧州艦隊の中でも独特の存在だった。
大西洋方面欧州艦隊の旗艦でありながら、自身は海洋封鎖のローテーションに加わること無く、また北海と言う狭い海域の外にけして出なかった。
霧としては、かなりストイックな部類に入る艦だっただろう。
だが『ナガト』と同じデュアルコアを保有するこの艦は、ある時に豹変した。
千早翔像へあからさまに協力を始め、麾下の艦隊を率いて他の霧を攻撃し始めたのだ。
フッドを始めとするほとんどは同調せず、『ビスマルク』と決別する道を選んだ。
その中の艦の1つに、『クイーン・エリザベス』がいたわけである。
「何故、何故、何故……」
「『フッド』はいつもそうね、問うばかりで考えようとはしない」
『ビスマルク』のメンタルモデルは、双子の姉妹と思える程にそっくりだった。
赤い軍服調の服にサイドテールと言う出で立ちは同じだが、鏡写しのように左右対称と言う点が独特だった。
『ヤマト』や『ナガト』の例を考えると、異常な程に良く似ていた。
「エリザベスも、そう」
「あの子もまた、何故の答えを見つけられずにいる」
「では、あの子達はどうかしら」
「401と404?」
「あるいは、その艦長」
その2人の会話は、会話というよりは独白のように見えた。
それほどまでに2人は良く似ていて、実は鏡に向かって独り言を言っているのでは無いかと思えてしまう程だった。
会話の内容も、意味深に聞こえるが大した意味を持たないことだった。
「待ちましょう」
ビスマルク姉妹、としよう。
彼女は他のデュアルコアの艦艇と違って容姿や名前で呼び分けをしようとはしていないので、姉と妹という風に呼び分けるほか無い。
あるいは本当に、この姉妹は2人で1人なのかもしれない。
「そう、今は我々は待つべき」
「『ムサシ』はロリアンを確保した。東方から奴らが来る前に」
「それは行幸」
「残るはあの子達、目覚めているかどうか」
じっと待ちながら、彼女達は長い独り言を繰り返していた。
わかることは、彼女達が、ビスマルク姉妹が誰かを待っていると言うことだった。
ビスマルク姉妹がこうしてフッド達を監視し、さらにスカパ・フローの様子を窺っているのは、そのためなのだった。
『フッド』、そして『クイーン・エリザベス』を打ち破ったヨーロッパ最強の霧、『ビスマルク』。
彼女は、未だ待ち続けている。
それは霧が最初に起動した時より、いやその
ビスマルク姉妹は、待ち続けているのだった。
◆ ◆ ◆
霧のメンタルモデルを
義理とは言え、娘を殺してほしいと願ってきたこと。
アースヴェルドの言葉の中で、紀沙はその2点について面喰っていた。
そしてそのどちらも、紀沙にとっては理解し難いものだった。
「殺せと言われても……」
「失礼だが、キミ達が過去に数々の霧を打ち破っていることはすでに知っている」
打ち破ったことはあるが、霧を殺したことは無い。
そのあたりのニュアンスの違いは、霧を良く知らない人間からするとわからないのかもしれない。
一方で、紀沙は霧の殺し方は知っていた。
コアを破壊すれば、データの決定的破損と言う形で霧は死ぬ。
ただし、人類で霧のコアの破壊に成功した者はいない。
そもそも霧と戦える人類がほとんどいないのだから、例が無いのも無理は無かった。
紀沙も、そこまでやったことは無い。
どこまでやればコアを破壊できるのかも、わからない。
「そして今、私はキミを救った」
借りを返せと言うことだな、と紀沙は思った。
そして同時に、このまま放り出すことも出来ると言う脅しでもある。
霧の力を持つ紀沙達だからこそ、この取引が可能だと踏んでいる。
相手が霧であるなら、紀沙としても倒すことに特に躊躇は無かった。
「貴方の言う通りにあの霧を倒したとして、我々に何のメリットが?」
話を続けながら、紀沙は油断無くアースヴェルドを眺めていた。
やはり鍛えられている、軍属なら専門の訓練を受けている可能性もある。
そうだとしても、一対一で警戒していればやられるとは思えなかった。
立ち居振る舞いからして、叩き上げでは無く幕僚タイプの人物だろうと思った。
「キミ達のことは、日本の楓首相や米国のエリザベス大統領の私信で知った」
そして、この物言いだ。
含みのあるこの言い方は軍人と言うよりは官僚、いや政治家に近い。
私信とは文字通り内密の通信だ、この場合は首脳間のやり取りのことだ。
要するにアースヴェルドは、日米英の首脳間のやり取りを知ることが出来る程に、政府上層部に近い立場だと言うことを言外に言っているのだ。
イギリスの首脳から他国との私信を見せてもらえる関係、と言えばわかりやすいか。
つまり、彼と貸し借りの関係になればイギリス政府上層部との
そう言うことが紀沙にはわかったが、油断してはならないのは、言質を取ったわけでは無いと言うことだ。
それが政治と言うもので、これは北を見ていて学んだことだった。
「キミ達ならばあの子を止められる、そう思って後を尾けていた。無礼は謝罪する」
「いえ、我々も貴国の事情に首を突っ込む形だったと思うので」
気になるのは、やはり「義娘」と言う言葉だった。
霧を倒せと言う依頼ならこんなに戸惑いは覚えなかった、ただ、その言葉だけが奇妙だった。
「ただ、事情もわからずに貴国の依頼を受けることは出来ません。我々にも軍規があります」
「承知している。だが、キミ達をおいて頼る相手がいない」
「事情を」
追っ手の足音が完全に消えて、食糧庫を静寂が包み込んでいた。
ランプの灯りが、影を色濃く壁に映し出している。
囁くように話すと、空気が震えて埃が舞った。
「事情を、話して頂けませんか」
ふと、自分は変わっただろうかと紀沙は思った。
横須賀を出る前の自分であれば、躊躇無く是と答えていたような気もする。
一方で、やはり変わっていないようにも思える。
自分では、良くわからなかった。
「……あの子は」
アースヴェルドは、ぽつりぽつりと話し始めた。
リエル……いや。
霧の大戦艦『クイーン・エリザベス』と、1人の男の、奇妙な関係についての話を。
◆ ◆ ◆
彼女が「天使」として人々の前に現れるのは、ほんの僅かな時間だけだった。
月が天頂に差し掛かる頃に姿を見せて、月が天頂から動く頃には人々は消えている。
普段この教会には人は寄り付かない、聖域を土足で汚してはならないと言うのが、表向きの理由だった。
しかし実際のところは、人を寄せ付けたくなかっただけなのかもしれない。
「あなたは、だれ?」
天使は、己が霧の大戦艦『クイーン・エリザベス』であることを自覚していた。
しかし自身のコアが教えてくれるその真実を、彼女はどこか素直に受け止められていない様子だった。
月明かりに照らされた銀の髪はくすんでいて、紅い瞳もどこか光が薄い。
起きているのに眠っているような、そんな印象の目だった。
そして彼女は今、人々が女神と崇める女性を見上げていた。
月明かりで銀にも見える灰色の髪に、シスター服を思わせる黒のワンピースを着ている。
美しい女性だ、女神と呼ぶのも大げさでは無いと思える程だ。
ただ、天使もこの女神の名前を知らないのだった。
「わたしは、なにをしている……?」
それでも、こうしなければならない。
彼女の演算素子はそう叫び続けていて、衝動と呼んでもいいものが胸中に満ちている。
けれど、その理由がわからない。
合理的では無い、論理的では無い、しかしやらなければならない、その想いだけがある。
「……これは、なに?」
胸に手を当てて、呟く。
美しい少女の
カチ、と音を立てたのは、チョーカーの装飾になっている錠前だった。
霧の力をもってすれば開錠はわけの無いことなのに、何故か彼女はそれをしていなかった。
「こんばんは」
その物憂げな雰囲気も、聖域を汚す不届き者の声で一変した。
表情は冷徹なものに変わり、唇を真一文字に結んだ。
ぼんやりとしていた雰囲気も、まるでお湯が凍りつくかのように張り詰めたものに変わった。
崩れた教会に、少女が身体を回す足音だけが響いた。
「だれ」
天使が問うた先には、少年が1人いた。
彼女はその少年を見たことが無かった、教会を訪れる人々であれば全員を覚えている彼女が知らないと言うことは、余所者と言うことだろう。
そして実際、少年は余所者だった。
「千早群像、ここだとグンゾウ・チハヤと言った方が良いのかな」
黒髪の、純粋なアジア人の少年だった。
当然、初めて見る顔だ。
だが、そんなことは彼女にとって重要では無かった。
「去ね」
さっきも言ったが、ここは聖域なのだ。
深夜の僅かの間だけ女神を崇めさせるために人を集めるが、それ以外の時間は無人だ。
騒がしいのは嫌いだった。
女神の姿を誰の目にも触れさせたくないと言う、矛盾した考えがそうさせるのだった。
今も、少年――群像に対してすぐに立ち去るようにと言った。
「彼女は、キミの
図太いことに、群像はそれを無視した。
それでいて実力で排除されなかったのは、群像の言葉の表現に思うところがあったためだ。
大切な人、艦長。
しっくり来ると思った反面、違うと言う気持ちもあった。
「なにしにきたの?」
毒気を抜かれた顔で、天使は言った。
一方で、群像はその場から動かなかった。
霧のメンタルモデルに対して距離はあまり意味が無いが、これ以上は近付くべきでは無いと判断したのかもしれない。
そのあたりの判断は、絶妙に上手い少年だった。
そして何をしに来たのかと言われれば、群像はこう答える他無かった。
話をしに来た、と。
「話?」
「キミの話を、聞かせてほしいんだ」
かつて『コンゴウ』に対してそうしたように、群像は天使に、『クイーン・エリザベス』に対話を求めたのだった。
この女神の女性は誰で、『クイーン・エリザベス』はどうしてこんなことをしているのか。
その話をしたいと、群像は言った。
「この人は?」
「……わからない」
「わからない?」
流石にその答えは意外だったのだろう、群像が首を傾げた。
「わからない。いつからこうしているのか、どうしてこうしているのか。なにも」
ただ、そうしなければならないと言う想いだけがあった。
氷の棺に安置されたこの女性を、女神とて崇めさせなければならないと言う、強迫観念にも似た想いだけが、『クイーン・エリザベス』を突き動かしているのだった。
そんな彼女に対して、群像は。
「そうか」
と、頷きを返した。
肯定も否定もせず、ただ頷いて見せた。
それが、千早群像と言う少年だった。
読者投稿キャラクター:
クイーン・エリザベス(リエル):月影夜葬様
アースヴェルド・アステリア:月影夜葬様
ありがとうございます。
最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。
早速ですが、来週の更新はお休みとなります。
次は23日の更新となります、リアルが忙しく執筆の時間が取れないためです。
お待たせしてしまうことになるので、申し訳ありません。
ちなみに少し迷いましたが、クリスマス編とかそういうのは無いです。
それでは、また次回もよろしくお願いします。