蒼き鋼のアルペジオ―灰色の航路―   作:竜華零

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※投稿予約ミスにより1日遅れでの投稿となります。申し訳ございません。


Depth043:「リエルという少女」

 おいおいマジかよ、と、冬馬は思った。

 おいおいおいおいマジかよ、と、やはり冬馬は思った。

 

 

(あの兄ちゃん、霧と仲良くなる才能でもあんのか?)

 

 

 教会の柱の陰に身を潜めながら、冬馬はそこで行われている会話を聞いていた。

 群像と『クイーン・エリザベス』による会話である。

 霧との会話なら紀沙とスミノで随分と見てきたと思ったが、あれとは明らかに様子が異なっていた。

 と言うか、群像が思いの他あの天使と「上手くやっている」のだ。

 

 

 イオナやヒュウガもそうだが、群像の霧との相性の良さは何なのだ。

 いや、かつてイ401の艦長だった父親は今は『ムサシ』と共にいるのだったか。

 そして紀沙もまた、妙なところで霧と関わる星の下に生まれているようだ。

 千早家と言う存在自体が、霧の何かと繋がっていると言われても納得してしまいそうだ。

 

 

「ま、そこらへんを見るのが俺っちの仕事なわけだけどよ」

 

 

 せっかくヨーロッパまで来たのだ、持って帰れるものは持って帰るべきだろう。

 物であろうと情報であろうと、あるいは単なる経験であろうと。

 そう言う自分の貪欲さを、冬馬は悪いことだとは思わなかった。

 まぁ、そもそも彼は何かを「悪い」と思ったことが無いのだが。

 

 

「不躾なことを聞いて悪いが」

 

 

 おっと、と、冬馬は耳をそばたてた。

 群像があの天使に何かを話しかけるようだ。

 

 

「この女性は、死んでいるのか?」

 

 

 これはまた、えらくストレートな言い方だった。

 もう少しオブラートに包んだ言い方もあるだろうに、なかなか不器用なのかもしれない。

 あるいは、霧に対してはそれくらいで調度良いのか。

 何しろ彼女達は、言葉の裏と言うものを読まないから。

 

 

「生きている」

 

 

 そして、天使――『クイーン・エリザベス』の答えも、またあっさりとしたものだった。

 教師に当てられた生徒が、教科書を読み上げる声に似ていた。

 

 

「生命反応を維持しているという意味なら、生きている」

 

 

 微妙な言い回しだが、昏睡状態、と言うのが最も近いか。

 

 

「でも、生死は関係ない」

「それは、どうして?」

「わたしは、この人間を神様にしなければならない」

「……それは、どうして?」

「……どうして?」

 

 

 反芻するように繰り返して、『クイーン・エリザベス』は己が女神を見上げた。

 その行為に、何らの意味も求めていない。

 しかし彼女は、自分がそうしなければならないと知っていた。

 そうでないと、それこそ()()()()()からだ。

 

 

「どうして……どう、して?」

 

 

 どうしてだろう、と、『クイーン・エリザベス』は繰り返した。

 ガラス玉のように光の失せた瞳が、棺の女神を見上げている。

 そして、問いかけていた。

 どうしてあなたはわたしの女神なのか、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 ――――あれは、冬の気配がだんだんと強くなっていた頃だ。

 世間はイギリスと緋色の艦隊の同盟の話題で持ちきりだったが、スコットランド北端の田舎にはあまり関係が無く、むしろ人々は日々の生活にあくせくとしていた。

 カークウォールの町も、同じだった。

 

 

「変わらないな、この町も」

 

 

 アースヴェルドは、ある事情でロンドンから月に何度かこの町を訪れていた。

 今日もその日で、綺麗な外套(コート)を着たアースヴェルドの姿は、他の人々の中で明らかに浮いていた。

 この地域には政府の支援も滞りがちなので、人々はどうしても貧しくなってしまう。

 

 

 とは言え、完全に見捨てられているわけでも無い。

 極東の日本では棄民政策が取られているとも聞くが、ここは階級社会のイギリスだ。

 上流階級のチャリティーもあって、どうにか生活は出来ている。

 通りを歩く人々も、貧しそうではあるがしっかりと歩いていた。

 

 

「皆は元気かな」

 

 

 しばらく歩いて行くと、赤茶けたレンガ造りの教会が見えてきた。

 何百年だかの歴史ある建物だが、アースヴェルドはそのあたりは詳しくなかった。

 彼にとって重要なのは、彼がかつてそこの孤児院で育ったと言うことだ。

 それから、その時の院長の娘が今では院長をしていると言うことだった。

 

 

「あ、おじさんだ!」

「おじさん、こんにちはー!」

「おう、こんにちは。今日も元気だな」

 

 

 教会の敷地に入ると――神は訪問者を拒まず、の精神で、正門は常に空いている――建屋の外で何人かの子供が走り回っていた。

 こんな時代だ、教会を兼ねているとは言え孤児院の経営が楽なわけが無い。

 だから子供達もふくよかな子はほとんどおらず、ほとんどがほっそりとした身体つきをしていた。

 抱き上げると、体重の軽さに泣きそうになる。

 

 

「ははは、ほーらっと。シスターはいるかな」

「うん、いるよ!」

「お庭でお洗濯してるよー!」

 

 

 それでも、きゃらきゃらと笑う子供達の姿に安堵を覚えた。

 何はともあれ、子供が笑っていられるのなら、救いがあると思えたからだ。

 貧しさには哀れを感じるが、笑顔には羨ましさを覚える。

 そんな子供達が走っていくのを見送って、アースヴェルドは敷地の奥に進んだ。

 

 

 少し行くと、たくさんのシーツが干してある庭に出た。

 ロープを張って、シーツが風に煽られている。

 今日は日も出ていて、爽やかな光景だった。

 そしてシーツの陰に目的の人物らしき姿を認めて、アースヴェルドはそちらへと歩いた。

 手を上げて、声をかけた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アースヴェルドの姿を認めると、その女性は柔らかく微笑んだ。

 化粧もしていない、前髪に飾り気の無いヘアピンをしているだけの、古びたシスター衣装を着た女性は、しかし日なたのしたでとても美しく見えた。

 親がドイツ系の移民だったからか、背は高い。

 

 

「アマリア、久しぶりだな」

「はい、アースヴェルドさんもお変わりなく」

 

 

 アマリア・アッシュと言うのが、彼女の名前だった。

 アースヴェルドから見ると一回り近く年下の女性だが、教会と孤児院を一人で切り盛りしているだけに、ずっとしっかりしていた。

 彼は外套の中から小さな袋を取り出すと、それをアマリアに押し付けた。

 

 

「今月の分だ」

「すみません、いつもこんなに」

「構わない、実家への仕送りだと思ってくれれば」

 

 

 お金だった。

 毎月アースヴェルドは仕送りと称していくらかアマリアに渡している、大金では無いが、端金(はしたがね)と言う程に小額では無い。

 最初は拒否していたアマリアだが、繰り返すと根負けして受け取ってくれるようになった。

 今もお礼を言いながら、困った表情を浮かべていた。

 

 

「それで……」

 

 

 それに苦笑を浮かべて、アースヴェルドはあたりを見渡した。

 何かを探しているその様子に、今度はアマリアがくすくすと笑った。

 すると、その時だった。

 

 

「パパッ!」

 

 

 どんっ、と、アースヴェルドの背中に後ろからタックルをかましてきた者がいた。

 少し驚いたが、力が強いわけでは無い。

 腹に回された相手の細い腕を軽く叩いて、アースヴェルドは後ろを振り向いた。

 

 

「リエル、良い子にしていたかい?」

「うん!」

 

 

 15、16歳くらいだろうか。

 くすんだ銀の髪に、溌剌(はつらつ)さに満ちた赤い瞳は爛々と輝いていていた。

 リエルと言うその少女は、振り向いたアースヴェルドに今度は正面から抱きついた。

 嬉しくて仕方が無い、と言う風に、アースヴェルドの胸に頬をすり寄せている。

 

 

「パパ、今日は泊まっていくの?」

「ああ、そのつもりだ」

「やったぁ!」

 

 

 ぎゅうっと抱きついてくるリエルに苦笑を浮かべて、アースヴェルドはアマリアを見た。

 アマリアはくすくすと笑いながら、いいですよと頷いた。

 貧しいが、のどかな暮らし。

 アースヴェルドにとって、それはロンドンでの生活よりも癒しをもたらしてくれるものだった。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 アースヴェルドのように、貧しい孤児院を支援してくれる人間などほとんどいない。

 だから、日々の糧は自分達で稼がなくてはならない。

 アマリアとリエルは、小さな荷車を引きながら町を歩いていた。

 

 

「ありがとうございます。あなたに神のご加護がありますように」

 

 

 孤児院には、大人はシスターしかいない。

 リエルのように年長の者は、シスターについて町の人々から仕事を貰うのだ。

 一番多いのは繕い物で、古着を使うことが多いカークウォールでは意外と需要があった。

 とは言え元が貧しい町だ、得られる糧も雀の涙だった。

 

 

 一方で、多くは無いがさほど困っていないものもある。

 寄付だ。

 教会の修繕費や礼拝のための費用は、町の人々の寄付で成り立っている。

 ただ、アマリアはこれを生活費に回したことは無かった。

 

 

「このお金は、皆の善意だから。皆のためにしか使ってはいけないのよ」

 

 

 町を回りながら、不満そうな顔をするアマリアは言った。

 

 

「アースヴェルドさんも、そんなお金で美味しいものを作ってもらっても、きっと喜ばないと思うわ」

 

 

 普段ならともかく、アースヴェルドが来ている時くらい贅沢しても良いじゃないか。

 そんなリエルの気持ちを察して、アマリアは言うのだった。

 お布施の入った籠を持つリエルの手に自分の手を重ねて、アマリアは笑った。

 

 

「貧しいことは罪では無いわ。でも、清らかさを失うことは大変な罪なの。このお金を自分達のために使ってしまうのは、清らかさを失うと言うこと。だから、使ってはいけないの」

 

 

 清貧主義、卑しい身に堕ちるくらいなら、貧しさの中で生きていたいと言う思想だ。

 宗教の関係者であれば、敬虔なシスターであれば、基本的な考えなのかもしれない。

 ただ、アマリアはそれを心から信じているのだった。

 信仰している、一言で言えばそう言うことなのだろう。

 

 

「ねぇ、シスター。神様ってどこにいるの?」

「ん? ふふ、神様は、いつも皆と一緒にいるわ」

 

 

 アマリアは、最後にはいつもそう言った。

 神様はいつも一緒だと、誰よりも自分のことを見ているのだと。

 だがリエルは、それがどういう意味を持っているのか理解できなかった。

 それどころか、気持ち悪いものだとすら思っていた。

 だって、神様なんていないと()()()()()()()

 

 

「さ、あと4軒よ。早く行かないと、夕食の時間に間に合わないわ」

 

 

 ただ、それをアマリアには言えなかった。

 母代わり、姉代わりの存在が心から信じているものを、否定したく無かった。

 そのもどかしさは、少しずつリエルの中で積み上がっているのだった。

 それを少しでも減らそうとするかのように、リエルは溜息を吐いた。

 

 

 あたりを見回せば、自分達と同じように古びた服を着た貧しそうな人々が通りを歩いているのが見えた。

 中には老いた者や病気の者もいて、物乞いの姿も見える。

 神様が本当に自分達の傍にいると言うのなら、清貧に沈む自分達を救わないという矛盾はどう説明するのか。

 リエルは、ずっとそう思っているのだった。

 

 

「リエルー」

 

 

 呼ばれて、はっとした。

 リエルはアマリアを追いかけた、その時、水路の横を通った。

 ゆらゆらと揺れる水面を見て、リエルは不思議な心地を得た。

 漠然とした不安と、もどかしさと。

 ――――何かに呼ばれているような、そんな気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「すみません、手伝わせてしまって」

「いや、構わない」

 

 

 楽しい時間はあっと言う間に過ぎるが、忙しくしている時はなおさらだ。

 夕食の後に子供達に入浴をさせて歯を磨かせ、寝かしつけてとしていると、すっかり遅い時間になってしまっていた。

 遊び疲れて眠ってしまった子供をベッドに収めて、アマリアは子供の頬を撫でた。

 

 

 すやすやと眠る子供の顔は、見ているだけで温かな気持ちになった。

 余り触れているとむずかり出してしまうので、手を離して立ち上がった。

 教会には10人余りの孤児がいて、子供達の寝室は2部屋に分かれている。

 今、アマリア達がいるのは男の子の部屋だった。

 

 

「皆元気そうでよかった」

「はい、むしろ元気すぎて手に負えないくらいですよ」

 

 

 ぱたん、と寝室の扉を閉じると、音が消えたように孤児院はしんと静まりかえっていた。

 子供達が起きている間は相当に騒がしいこの孤児院も、当の子供達が寝てしまえばこんなものである。

 アマリアが落ち着けるのは、皆が寝静まった後のこの時間だけだ。

 とは言え、彼女はこの後も明日のための仕事や準備をしなければならないのだが。

 

 

「……ふぅ」

「疲れたかい?」

「いえ、大丈夫です。慣れていますから」

 

 

 アースヴェルドに気遣われれば、気丈に微笑んで見せる。

 1人で切り盛りするには、孤児院という職場は聊か大き過ぎる。

 ただそれでも、疲れ切って疲弊していると言う風では無かった。

 むしろ、この若さでどこか母親のような柔和さが表情から滲み出ていた。

 

 

「本当に、みんな元気で……」

 

 

 寝室の扉を見つめながら、アマリアは息を吐いた。

 相変わらず柔和な微笑みを浮かべたその顔に、少し陰が差したような気がした。

 ただアマリアが顔を上げると変わらない微笑みがあって、アースヴェルドはランプの灯りのせいだろうと思った。

 

 

 ただ、次にアマリアが「あ」と言うような表情を浮かべた時には、流石に不審に思った。

 何かあるのかと思って振り向くと、そこには女の子達の寝室があった。

 孤児院はさして広くは無いので、年齢別では無く性別で部屋を分けているのだ。

 これだと上の子が下の子の面倒を見るというシステムになるので、アマリアの負担も少しだけ減るのだ。

 

 

「あの子ったら、もしかしてまた」 

 

 

 そして、その女の子達の寝室の扉が僅かに開いていた。

 内側から誰かが覗いていると言うより、外から音を立てないように扉を閉めたと言う風だった。

 それを見て、アマリアは心底困った顔をした。

 アースヴェルドには、アマリアの言う「あの子」が誰なのかわかるような気がした。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 海。

 夜闇の中の海は――特に星明りくらいしか灯りの無い、月の出ない暗い夜には――真っ暗で、何も見通すことが出来ないくらいだった。

 そんな海を前にしていると、胸に大きな穴が開いたような気持ちになる。

 

 

「やっぱり、誰かが呼んでる気がする」

 

 

 リエルは、以前から海を見ると妙な胸騒ぎを感じた。

 嵐の翌日に海岸に打ち上げられている魚を拾いに行った時も、隣村までおつかいに出された時も、リエルは海を見つめて動けなくなってしまった。

 どうして海を見つめるとそんな風になってしまうのか、わからない。

 

 

 ただ、胸の奥に複雑な感情が生まれることは確かだ。

 それは切なさであったり、焦燥感であったり、あるいは別の何かであったりした。

 怒りだったり、哀しみであったりもした。

 いても立ってもいられないような、そんな複雑な感情だ。

 言葉にするのは、難しかった。

 

 

「でも、誰が呼んでいるんだろう」

 

 

 恐れ、それが一番近いだろうか。

 リエルは何かを恐れていて、それは海にあるのだと本能的に悟っていた。

 海からやって来るのだと、わかっていた。

 そして、それが自分を()()()()()のだと、理解していた。

 ――――リエルは、自分が海に呼ばれているのだと根拠も無く確信していた。

 

 

「……パパ」

 

 

 知らず、アースヴェルドを呼んだ。

 漠然とした怖れがそうさせた、信頼できる誰かに傍にいてほしかったのだ。

 

 

「……シスター」

 

 

 知れず、アマリアを呼んだ。

 ほとんど母親に対するような気持ちを、リエルはアマリアに対して抱いていた。

 傍にいて大丈夫だと、信頼できる誰かに言って欲しかった。

 

 

 じわりと、大きな瞳に透明な雫が浮かび始めた。

 恐ろしい、しかし動けない。

 ここを、いや自分は海に()()()()()()()()()と言う意識が、まるで杭を打ち込まれたかのように足が動かなくしてしまっていたのだった。

 

 

「リエル!」

 

 

 その時だった。

 ひっくひっくとしゃくり上げ始めた頃になって、焦ったような声が聞こえてきた。

 夜の海岸を走る靴音と合わせて、声の主がだんだんと近付いてきているのだと言うことがリエルにもわかった。

 

 

 顔をあげると、そこには声の調子の通り、慌てた顔のアマリアが駆けて来る姿があった。

 それを見て、リエルは胸騒ぎとは別の切ない感情を得た。

 シスター、涙ぐんだ声で、リエルはそう言った。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 こちらの姿を認めるや飛びついて来たリエルを、アマリアは苦労して抱き止めた。

 夜中に出歩いたことを叱ろうにも、本人が泣きじゃくっているのを見てしまうと、何と言ってやれば良いのかわからなくなってしまった。

 それに、今回が初めてでは無かったのだ。

 

 

 リエルはたまに姿を晦ませては、海辺で立ち尽くしていることがある。

 その度に、消えてしまいそうなくらいに憔悴してしまっていて、アマリアはその度に叱るに叱れなくなってしまうのだ。

 そしてその度に、アマリアは同じことを言ってリエルを宥めるのだ。

 

 

「大丈夫よ、リエル。どんなことがあっても、神様が見守っていてくださるわ」

「……神様なんていないよ」

 

 

 いつもならそれで帰ろうと言う風になるのだが、今夜は違った。

 教会の孤児院では信仰について教える、もちろんリエルも同じだ。

 まだ孤児院に来て日が浅いとは言え、リエルも毎朝聖書を諳んじている。

 そんなリエルから出た言葉に、アマリアは驚いた。

 

 

「神様なんていない」

 

 

 神はどこにいるのか。

 宗教家は無条件に実在を信じ、そうで無い者はこだわりを持たない命題だ。

 そしておそらく、多くの人間が真面目に考えたことは無いだろう。

 

 

「リエル」

 

 

 アマリアは信仰者だ。

 しかしそれに怒ることも無く、諭すように言った。

 

 

「神様はいますよ」

 

 

 少し屈んで目線を合わせて、アマリアは柔らかく微笑んだ。

 

 

「ここに」

 

 

 そして、とん、とリエルの胸に指先を当てた。

 意味がわからなかったのだろう、リエルが不思議そうな顔をした。

 アマリアは、やはり微笑んでいる。

 

 

「誰もが皆、ここに神様を住まわせているの。だから人は、良い行いをしたら喜びを感じ、悪い行いをしたら決まりが悪くなるの」

 

 

 そう言う意味では、アマリアもまた不信心者だった。

 教会の神では無く、個々の人々の胸中にある神を信じていると言う意味でだ。

 いや、それを神と呼んで良いのか、アマリアにも自信は無い。

 しかし心から信じている、それは確かだった。

 

 

「リエル。貴女が神様はいないと言うのなら、それはきっといないのでは無く、まだ目覚めていないだけ」

「……目覚めていない」

「貴女の神様は、きっといるわ。いつも貴女の傍にいて、貴女を見守ってくれている神様が」

 

 

 目覚めていない。

 アマリアのその言葉が、妙に頭と胸中に響くようにリエルには思えた。

 その時のリエルの表情をどう受け止めたのか、アマリアは表情の柔らかさを増した。

 

 

「さぁ、帰りましょう。こんな遅い時間にこんな所にいたら、身体を冷やしてしまうわ」

 

 

 アマリアに手を引かれて、リエルは歩き出した。

 肩越しにこちらを振り向いて微笑むアマリアの顔を、じっと見つめた。

 アマリアの言葉を、頭の中で何度も反芻する。

 リエルの神様は、まだ目覚めていないだけ。

 

 

 もし、と、リエルは思った。

 リエルの中にいる神様が、もし()()()()()()()どうなるのだろう。

 神様を宿した自分と言うものを想像して、リエルは自分が高揚するのを感じた。

 不思議と、恐れの感情は薄らいでいた。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

 この時のアースヴェルドは、未だ状況を楽観していた。

 夜道を女性1人で歩かせるわけにもいかず、アマリアについて来ていたのだ。

 内心いろいろと心配していたが、ほっとしていた。

 

 

「あの子をアマリアの下に預けたのは、間違いでは無かったな」

 

 

 リエルをアマリアの孤児院に連れて来たのは、アースヴェルドだった。

 彼はロンドンでの軍務もあるし、何より()()()()()()リエルは辺境でしか生活が出来ない。

 リエルは、イギリス人では無いのだ。

 いや、そもそもそう言う枠組みでは測れない存在なのかもしれないとアースヴェルドは思っていた。

 

 

 リエルは、アースヴェルドの実の娘では無い。

 15歳の娘を持つにはアースヴェルドは若すぎるし、しかしだからと言って、誰かから預かったと言うわけでも無い。

 アースヴェルドはリエルを、まさにこの海で見つけたのだった。

 

 

「あの時は驚いたな……」

 

 

 世間が千早翔像の件で騒がしくなっていた頃だ、アースヴェルドは故郷の孤児院が心配になった。

 そうして様子を見に来た時だ、まさにこの海辺で、砂浜に倒れているリエルを見つけた。

 今から思い出しても、不思議な光景だったと思う。

 リエルの周囲には金属の破片のような物が大小散らばっていて、彼女はその中に倒れていた。

 

 

 金属の破片は、光の粒となって空へと消えていった。

 幻想的だった、少女も光の中で消えていくかと思えたが、そうならずに残った。

 放ってもおけず、助けた。

 今でもその行動が間違いだったとは思わない、ただ。

 

 

「……父親と言うのは無理があったかな」

 

 

 連れていったは良いが、素性をアマリアに問われて養女にしたと言ったのだ。

 今にして思えば、もう少し他にあっただろうとも思う。

 一方で、ああして無条件に慕われるのは悪い気もしない。

 本人も、どうやら自分のことを義父として慕ってくれているように思う。

 

 

 それから、アースヴェルドも遊んでいたわけでは無い。

 アマリアの教会に預けてから、リエルの素性を調べていたのだ。

 本人は自分自身のことを何も知らないと言っていて、そしてあの海への怯えよう。

 政府の禁止令にも関わらずに海に出た船が沈没でもしたか、と思ったのだが。

 少なくともここ最近、そうした報告は上がって来ていなかった。

 

 

「…………」

 

 

 ただ、と、アースヴェルドは思った。

 気になる報告が一つあって、時期的には重なるが、イギリス近辺の海ではそれ以外に目立った事件は無かった。

 軍の定期レポートの中で、アースヴェルドがリエルを見つける数日前に、ある事件が起こっていた。

 

 

 ――――曰く、大型の霧の艦艇同士が戦闘をしていた、と。

 

 

  ◆  ◆  ◆

 

 

「あの当時の私は」

 

 

 薄暗い地下の食糧庫で、アースヴェルドは天を仰いだ。

 そんなところで仰ぎ見たところで、空など見えるはずも無い。

 それでも、アースヴェルドはかつてを思い起こすように天井を見つめた。

 言葉は、搾り出すと言った感じで重々しい。

 

 

「あの時の私は、すべてに対して楽観的だった」

 

 

 紀沙は、それをじっと聞いていた。

 現在と言う結果を知っている彼女は、アースヴェルドが何を重く考えているのか良くわかるつもりだった。

 そしてそのことについて、アースヴェルド自身が胸を痛めていることも。

 

 

 リエルと言う少女の出会い。

 カークウォールの教会での生活。

 その中で培われる関係。

 そして、リエルに徐々に現れ始めた「異変」。

 アースヴェルドはそれらを、つまびらかに語った。

 

 

(……ゾルダン・スターク)

 

 

 この時に紀沙が思い浮かべたのは、意外なことにあのゾルダンだった。

 自分と兄以外に、霧の力を手に入れていた男。

 そして今、アースヴェルド。

 もしかするとこの世界には、自分が知らないだけで、意外と霧と関わりを持つ人間が多いのでは無いか。

 

 

 思えばあのエリザベス大統領も、霧との共存を求めていた。

 もしかして、自分が知らないだけで。

 霧は、人間の世界に侵入(はい)り込んでいるのでは無いのか?

 深く、そうとても深くだ。

 

 

「いや、あの時点まではまだ楽観していてもよかった」

 

 

 そして、アースヴェルドの話はまだ続いていた。

 と言うよりも、これから本番なのだろうと思った。

 何故ならばまだ、現在の状態になっていない。

 今のような状態に陥った直接の原因が、まだ話されていないのだから。

 

 

「だが私は忘れていた。どれだけ表面上はのどかに見えていても、我が国は荒んでいた。ロンドンを離れることで私はそれを忘れようとしたが、無駄なことだった」

 

 

 のどか、かつてのカークウォールはのどかな場所だったのだろう。

 だが今は、その面影すらも残っていない。

 アースヴェルドの溜息の深刻さが、その落差を紀沙に教えてくれた。

 

 

「私は楽観していた」

 

 

 同じ言葉を、アースヴェルドは何度も繰り返した。

 そうすることで、事態の重さを再確認しているか。

 義娘を殺してほしいと言う、追い詰まった重すぎる事態を。

 

 

「――――あの時までは。私は確かに、すべてを楽観していた」

 

 

 ここからが、本題。

 




登場キャラクター

アマリア・アッシュ(大野かな恵様)

ありがとうございます。


最後までお読み頂き有難うございます、竜華零です。

いまはなき綺麗な思い出回でした。
最近、何か回想的な話が多いような気がしてきました。

今年もあとわずか、この作品は来年中には終わる予定です。
それでは、また次回。

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